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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/01(水) 21:13:20.11 ID:iSlSAorr0.net
ちょっと質問ですが、『佐藤彦五郎日記』について。2004年の本だと
慶応四年土方から亀吉が使いに来て府中宿に呼ばれた人の中に「本宿村の捨助」とあり、松本捨助
と解釈できるのですが、2009年の彦五郎日記だと、彼は「本宿の権助」になっている。

一体どっちが正しいのでしょうかね?

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/01(水) 22:29:25.92 ID:IrFBGdWC0.net
義理と人情をたどって:9  類さんと、さあ次の店へ

吉田類(俳人、イラストレーター、エッセイスト)の世界
今回も侠客と関係なかった

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/02(木) 01:29:08.79 ID:1u2X+gQU0.net
>>263
日野市発行『日野宿叢書 第五冊 佐藤彦五郎日記 二』ですか?
だとすれば、どの辺の記述ですか?

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/02(木) 22:14:29.41 ID:Q729Zfm90.net
一つはそれ、『日野宿叢書 第五冊 佐藤彦五郎日記 二』です。こちらだと
本宿村の「権助」。
もう一つは『日野宿叢書 第二冊 図録日野宿本陣』のp43です。こっちだと
本宿村の「捨助」。
博徒研究の者としては捨助であって欲しいですが…出版年からして権助っぽいですな。

なお博徒捨助の史料としては、東京成徳大学の鶴巻孝雄という先生のHPに紹介されている
日日新聞明治八年の記事が注目に価します。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/sinn-siryou/sinn-4.htm

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/02(木) 23:56:03.19 ID:1u2X+gQU0.net
どちらかと言えば「権助」が正解だろうと思います。

『図録 日野宿本陣』のほうは、
本陣公開や大河ドラマ放映に合わせるべく作業を急いだ様子なので
翻刻にも問題があったと推測されます。
40ページの中段には「元治元年」の年号ヌケがありました。

『佐藤彦五郎日記 二』は、何度か再版されている様子ですね。
こちらにも翻刻ミスがあるのになかなか修正されないとか聞きました。
ただ、『図録』よりは信頼できそうな気がします。
正確を期すなら、日野市に問い合わせたほうがいいかもしれませんね。

興味深い記事を教えてくださって、ありがとうございます。

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/03(金) 00:23:37.25 ID:i8OyYlwB0.net
さっそくの回答ありがとうございます。東京都の多摩地域は博奕打ちの活動と同時に
新撰組に代表される剣客の時代でもあるので、時に両者がからみあうことがあって、
面白いですね。

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/03(金) 00:35:23.04 ID:i8OyYlwB0.net
高井戸の勇次郎は、姓鈴木、一般には「饅頭屋勇次郎」と呼ばれる。(文字通り、実家は饅頭屋。)
小金井小次郎の腹心ではありながら、同じ小次郎子分の四軒寺(吉祥寺)の作次郎とは
対立した。ある年の花会の終わりにいきなり作次郎の頭に短刀を突き刺したと言われる。
もっともこの時は作次郎の貫録で事なきを得、勇次郎大いに面目を潰した。
高井戸宿は甲州街道のうちでも、もっとも変容してしまった場所で、昔の面影はたどれない。それでも
古老は、ここに小金井小次郎配下で「不死身の男」がいたというから、これが勇次郎だろう。

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/03(金) 23:43:16.28 ID:04qNHMYW0.net
「高井戸村の団子屋・勇次郎」とあるのはそういう人物でしたか。

「中川の庄」「吉原のオタンチン政」というのも人名のようですが、
後者は面白い通り名ですね。

ちなみに、「特みて」とあるのは「恃みて」、
「しばへ」は「しば\/(くの字点)」=「しばしば」かなと思えました。

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 10:49:51.75 ID:eK6Tc8Y70.net
なるほど「恃みて」ですか。
要するに記事の内容は
浅草で博打に負けた捨助が、入船の小次郎宅で偶然に高井戸勇次郎と鎌次郎、彦次郎に会い、
鎌次郎と彦次郎は捨助の子分だったので、親分のために浅草の賭場荒らしをやりにいき、
その結果、とばっちりで捨助もつかまった
と、こういう話なんでしょう。私の説明も人の事言えませんが、本文は実に分かりにくいですな。

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 10:56:55.58 ID:eK6Tc8Y70.net
江戸時代の「あだ名」の研究というものはあまりされていないようだが、
大切な研究だとは思う。易々と手をつけることはできないが、仁侠研究とも
結びつく分野だろう。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 11:03:17.70 ID:eK6Tc8Y70.net
少なくともこの記事から、

・松本捨助が相当な腕前の剣客であり、かつ子分を持つ博徒でもあった。
・捨助は甲州勝沼の戦いに参加した。
・捨助と小金井小次郎とは「兄弟分」の仲だった。
・浅草の辰五郎(新門辰五郎)と小金井一家は親しかった。
・小次郎は明治に「入船」に住んでいた。

といったことが判明しますね。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 23:28:33.98 ID:8kx7qm230.net
捨助を「捨吉」としていたり
饅頭屋勇次郎を「団子屋」勇次郎としていたり、
細かい違いが多少気になるものの、参考になりますね。

新選組関連の本に、捨助が「明治8年、博奕の諍いで逮捕」とあるのは
おそらくこの記事が根拠なのだろうと察しがつきました。

また、捨助が17歳の時、不行状を理由に親から勘当され、
代わりに土方錠之助(歳三の甥)が跡取りとして養子になったそうで、
「不行状」とは具体的に何かと思いましたが、
どうやら小金井小次郎のもとに出入りしたという意味らしいですね。

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/05(日) 00:07:30.15 ID:A+H3DHDG0.net
新撰組についてお詳しいですね。
私はほとんど知らなかったので勉強になります。
明治八年のことは既に書籍に書かれているんですね。
不躾なお願いですが、書名等、もし宜しければそのうち教えてください。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/05(日) 00:08:22.77 ID:A+H3DHDG0.net
二本木の安太郎と滝蔵

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/06(月) 21:55:48.29 ID:jX8FSlQH0.net
>>275
こちらの覚え書きが不備だったので、本のタイトルが不明ですが
わかりましたらお知らせしますね。
新選組に関しては熱心に調べている方が多くおいでなので、
私などは全然詳しいうちに入りません。もっと精進したいです。

地元研究家によると、捨助はやはり天然理心流を学んでいたということです。

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/07(火) 22:33:39.80 ID:3WWs7cbt0.net
本市場の金七は、宮島の年蔵の子分とも兄弟分とも言われる。一説には大場久八の子分であったとも言うがよくわからない。
金七は「大根を切るように人を斬った」という。この男のどこが良くて子分になるのか、わからないほど残忍だった。
彼は気分次第で子分も斬った。斬る前には自分で富士川河原に穴を掘らせ、その前に座らせて斬った。
ある寒い日に、金七があまり手間取ったので「寒いから早く斬ってくだせえ」と叫ぶ子分がいた、との話が伝わる。

金七は明治になって横浜税関に強盗に入り打ち殺されたという。
金七が強盗に入る際には、連れて行った子分・妾は口を割らせないように一々殺して塚を建てた。
強盗に入る前には連れて行く子分に妙に優しく振る舞うという習慣があり、
そのため、子分は金七に優しくされることを一番恐れたとの話である。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/07(火) 22:43:23.01 ID:jm1UECbi0.net
侠客と全然関係なくなったから貼るの忘れてた

義理と人情をたどって:10 島よ還れと なくかもめ
http://www.asahi.com/articles/DA3S11838260.html

根室に勤務する海上保安官の仕事にまつわる話

これで連載終了
侠客の話は全10回のうち3回だけ

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/07(火) 22:46:38.44 ID:3WWs7cbt0.net
一般に荒神山の喧嘩の手打ち写真として知られる清水一家総動員の集合写真がある。
これは清水の梅蔭禅寺の資料館にも、次郎長のウィキペディアにも載っていて、それぞれの人の名前にルビがふってある。

しかし昨年亡くなった次郎長研究の老大家が亡くなる前に私に語って下さった話では、あのルビは嘘っぱちである、とのことだ。
この方の名は伏すが、梅蔭禅寺の関係者でもあり、現在の末広亭を開き、次郎長研究に多大な貢献をなさった方である。
誤った情報が一般化されぬように、一応ここに書いておく。

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 03:18:11.23 ID:1UPbh2R+0.net
八王子と言えば、小金井や小仏と並んで妓楼(遊郭)の男衆、妓夫だった山田喜久次郎は名前を挙げておきたい。

鉄砲を懐にのんでいたため現在も彼の住んでいた場所は鉄砲横丁という名前が残っている。近デジにも伝記はあるが茂在寅男先生の「鉄砲喜久一代」はお勧めしたい。喜久は堅気だが浅草と吉原の顔役だから大久保源之丞の前の世代という立ち位置になる。

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 03:30:39.95 ID:1UPbh2R+0.net
>>280

静岡の方でしたらもし御存じなら今はない松尾四郎の松尾書店がどこにあったかご存知ありませんか。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 07:36:51.29 ID:r2ATTN8E0.net
松尾書店は、私も去年静岡へ行ってさがしたけど今はもうありませんし、元の場所も、聞いたけど忘れてしまいました…
東京の神保町には松尾さんを兄貴分にしたう人が何人かいて、いろいろ話が聞けますが、
時間が無いんでまた後日書きます。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 07:39:22.15 ID:r2ATTN8E0.net
>>281
お詳しいですね。八王子の仁侠関係は情報が少ないのでありがたいです。
是非探して読んでみます。

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/11(土) 14:46:18.04 ID:OEzMlD0d0.net
松尾書店は静岡市の七間通りという通り沿いにあったらしいのですが、
今では全く面影がありません。場所のことは市役所だか県庁だかの、目の前のたばこ屋のご主人にうかがいました。
著書には追手町にも住所の記載があり、行ってみましたが詳しい事は追跡できませんでした。

また神保町の、これもどこの店だか忘れてしまったのですが…『史話と伝説』を偶然扱っていた店の店主と話をした際に氏の話がでて、

・松尾氏は天照教(だったか?)の熱心な信奉者で、時に神がかった直感を示すことがあった
・上記の力もあって財をなした
・静岡から東京へ来ると、帰りに知人の本屋を静岡へ案内して御馳走した。その際全て払いは松尾氏がしてくれた
・たいへん学歴の高いしっかりした若者を何処からか探してきて、娘さんを嫁入りさせた
・国書刊行会の人(社長?)と知り合いだった

という話をききました。あまりお役にたてず済みません。
松尾氏の研究姿勢は私もたいへん尊敬しています。何か情報がありましたらお教えください。

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/11(土) 17:05:51.00 ID:OEzMlD0d0.net
渡世人は旅人・旅修業と称して親分から親分へと順達して渡り歩く。(「股旅者」とよく呼ばれるが三田村鳶魚などはこの呼び名を否定している)
ともあれ形状は「古手拭い」を一本土産代わりに差し出して、生国・俗名・親分の名を名乗り、
「草鞋銭」という名目で合力を願う。親分の方では、この古手拭いを「頂いた」ということにして、其の上に銭を載せて
旅人に渡すのが決まりだったという。

普通の旅人には一人当り二百文か三百文。少し顔の売れた者には一分か二分。更にその上の旅人には一両以上出したという。
街道宿場の場合には、こういった者が日に最低「五十人」、多い時は「百人」というから、親分の出費は半端ではない。博徒親分の宅の内実は
火の車、銭を預かる女房は泣かされっぱなしだった、と伝わっている。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/11(土) 22:54:06.47 ID:bx8OM2fm0.net
>>286 は蕎麦職人のしきたりと少々似ているところがある

山本おさむ『そばもん』によると
働けなくなって生活に困窮した場合
現役職人を訪れ、使い古した菜箸と前掛けを見せて買い取りを願う

現役職人のほうは、面識のない相手であっても同業者と察し
長年の働きに対する慰労を込めて幾許かの金銭を渡す
菜箸と前掛けは相手に返す

現在ではこのしきたりは廃れている模様

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/12(日) 00:26:56.48 ID:G3jGNo7E0.net
>>287
これは面白い話をありがとう。
281の話自体、戸羽山瀚が「雲水の修業の様」と書いてるように、博奕打ちの
専売というものではなかったようです。当時は旅人は、その職種によって
様々な礼式を持っていたようですね。
『そばもん』是非探して読んでみます。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/12(日) 00:39:36.91 ID:G3jGNo7E0.net
東海道で実際に気風の良さと度量の広さで知られた、長楽寺の清兵衛の逸話が
街道筋の親分の生活の大変さ(金の工面)をよく示しているのだけど、これはまた後日書きこむ。

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/15(水) 23:02:31.37 ID:McRYslhd0.net
塩山藤太郎こと平右衛門

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/16(木) 00:33:27.80 ID:8f2OSnrp0.net
変なことを言うようだが、「もらとりあむタマ子」。
あの中で前田敦子が生活する空間が、だいたい嘉永7年までの祐天仙之助の生活圏だ。

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/17(金) 01:35:37.89 ID:xA7PzUK20.net
>>280
恐縮ですが、少々お伺いしてよろしいでしょうか。

Wikipedia「清水次郎長」で、その写真を確認しました。
ただ、梅蔭禅寺の資料館にはまだ行ったことがありません。

ご指摘の趣旨は、
被写体の説明(人名)自体が事実と異なる、という意味ですか?

それとも、梅蔭禅寺の資料館では、人名に読みがな(ルビ)がふってあり、
その読みがなが間違っている(人名自体は間違っていない)、という意味ですか?

Wikipediaでは読みがなが見当たらないので、どうもよく理解できずにいます。
ご教示いただけましたら幸いです。

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/18(土) 08:55:40.35 ID:faLgKSUy0.net
清水次郎長の写真に関しまして、お詫びいたします。
まず私の下手な文章のせいでだいぶわかりにくい記述になってしまいました。
文意としましては「説明自体が事実と異なる」の方です。

また、この点に関しまして、今になって私は「否定する証拠もない」ということに気が付きました。
私に説明をして下さった方は、次郎長研究に関しては本当にすばらしい業績を残された方なのですが、
私がその時の何気ないコメントをそのまま勝手に解釈し、ここに書きこむことは、あらためて考えてみれば、分を越えた出過ぎたことでした。
今となっては其の方が、どのような理由でああおっしゃたのか、証明する手立てもありません。
いずれにせよ調子にのって書きこみすぎました。本当に申し訳ありません。

294 :287:2015/07/18(土) 20:02:29.04 ID:2c85JXo/0.net
>>293
つまらない質問にご回答くださってどうもありがとうございます。

「ルビ」とは、例えば難読漢字にふりがなを付けるなど
本文に補われた小さい文字の意味と理解していたので、
悩んでしまいましたが、思い切って質問させていただいてよかったです。

写真についてご説明くださったその方が、
ご高説の根拠を書き残すなり何なりしてくださっていたらよかったですね。

ただ、あの写真キャプションは事実でない可能性もある、とご教示いただいただけでも
意味はあると受け止めました。
今後もご存じのことを教えていただきたく存じます。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/19(日) 21:45:23.87 ID:LtvsED9f0.net
新門辰五郎

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/19(日) 22:56:26.40 ID:LgFDVI2P0.net
街道筋の親分の家計が苦しいこと、また苦しくても意地を通さねばならなかったことを表す逸話として、
藤枝・長楽寺の清兵衛が、風呂に入っていた幼い倅に「坊、早く出ろ」と言って急いで風呂から出させ、そのまま湯台(浴槽)を質屋にもっていったという話がある。
出典を忘れてしまったのだが、清兵衛ではなく次郎長の話として伝わってることもある。

ちなみに清兵衛、次郎長とは五分の兄弟分で、街道筋の親分として恥じない顔役。
大正十年九十七歳で大往生するが、上記のような気風で文無しで死んだにもかかわらず、藤枝の人々の度肝を抜くような立派な葬儀だったと伝わる。
身の丈五尺八寸。背中には「小野小町」、両腕には櫻の入れ墨があった。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/19(日) 22:59:53.22 ID:LgFDVI2P0.net
>>294
「あの写真キャプションは事実でない可能性もある」
↑まさに言いたかったのはこれです。御丁寧な返信、誠に有難うございます。

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/21(火) 23:21:26.31 ID:brsZRTYG0.net
>>198
赤鬼の金平は
大場久八の子分で
ヒュースケンに刀を突きつけて脅したと言われてる人物?

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/22(水) 22:01:19.38 ID:MRak6sTQ0.net
『下田物語』では、確かにヒュースケンが脇差を持った男に因縁を付けられる話がでており、
この無頼漢が金平ということになるようですが、確実な証拠資料が力及ばず見つけられません。

金平は姓・加藤。由五郎との別名を持ち、また旦那寺である海善寺(墓もここにある)に匿われ
「玄道」と僧籍を名乗ったこともあったようです。
『東海遊侠伝』に語られるように鎧具足に身を包んで、次郎長一家を急襲したり、
黒駒勝蔵と組んで甲府城乗っ取りを計画したり、紀州藩(長州か?)に繋がりのある商船を襲い
金を強奪して志士に流したり…と実に様々なところに顔を出す興味深い人物です。
そうそう、本職は髪結いだったともいいますね。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/22(水) 22:06:28.85 ID:MRak6sTQ0.net
『下田物語』には「プレイボーイの久八」という人物が登場しますが、
これは実は大場久八なんじゃないかな、とも思うのですが、どなたかわかる方はいらっしゃいませんでしょうか。

ちなみに、プレイボーイの久八は臆することなく外国人に話しかけ、いくぶん下卑た笑いで
その場を楽しませた、とあります。誰かの本に、これが大場久八だったと書かれていたような気もするのですが、
ただの気のせいかもしれない…

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/23(木) 18:48:37.40 ID:MusdAfl10.net
よくご存じですね
海善寺に行ってみたくなりました

playboyを「女たらし」ととらえたら意味不明だけど
「遊び人」と考えれば「遊侠」っぽいようにも思えるから
やっぱり大場久八なのかな

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/23(木) 21:21:17.00 ID:kmQEyc9j0.net
最初に出会ったとき、金平は久八にぶん殴られ二軒(約3.6m)ほど吹っ飛んだと書いてあったような。凄すぎる。

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/23(木) 22:04:22.98 ID:MusdAfl10.net
なんで殴ったんですか
出会い頭ですか

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/23(木) 22:43:27.76 ID:Dx01Wqrs0.net
金平が海路清水を襲ったのは、万延元年9月16日夜。(『東海遊侠伝』)
黒駒勝蔵と甲府城乗っ取りを企てたのは元治元年4月。(『官武通紀』)
船舶を襲ったのは、慶応2年3月。(「江川家文書」)
以上のようです。一応付加情報として書いておきます。


>>302
その逸話は知りませんでした。貴重なお話、ありがとうございます。

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/23(木) 22:58:57.66 ID:Dx01Wqrs0.net
大場久八は身の丈6尺以上の偉丈夫で、片目が斜視。常に四尺の朱鞘の長脇差を
差し、実に堂々たる大親分の貫禄だった、と長楽寺清兵衛が伝えている。
駿府の安東文吉の元をよく訪れた。その際、久八の預けた脇差を文吉の子分たちが
力試しと称して抜いて振ってみたが、みな一様に2,3振りでヘトヘトになってしまった、という逸話が残る。

一方、久八無二の兄弟分である丹波屋伝兵衛は正反対の小男で、彼もまた朱鞘の脇差を好んだが、
腰にさせば、その脇差が地を引きずるような風采だったと伝わる。それでいて
知略抜群・細やかな心遣いができ、街道一の親分と多くの者に慕われた。

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/25(土) 09:12:16.30 ID:ZWaEbnWm0.net
御殿の伝蔵

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/26(日) 06:17:15.58 ID:BKiXs4Jd0.net
>>304
典拠を教えていただけるのは大変ありがたいです。

ところで、松本捨助逮捕の件を記載しているのは『新選組隊士録』でした。
遅くなって失礼しました。

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/27(月) 22:02:45.38 ID:fyH1JNiU0.net
『新選組隊士録』の情報誠にありがとうございます。
やはり知ってる人は知ってるのですね。しかしインターネットというのは便利なものだと
つくづく思います。誠にありがたい。

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/27(月) 22:13:53.15 ID:fyH1JNiU0.net
御殿の伝蔵は備前の落人の子と伝わる。出生が駿州・御殿場村だったため「御殿の伝蔵」。
市川雷蔵の映画では「殿さまの伝蔵」なんて言われてもいた。
伝蔵は黒駒勝蔵が甲州で敵対した親分の一人として、名をあげられている。実際のところは国分三蔵の
一番子分といった立位置だったようだ。
武州の日記史料にしばしば顔を出す、慶応二年四月二十六日八王子で召捕られた「甲州無宿伝蔵」がまさに彼のこと。
子分ともども鑓鉄砲で武装し、彦五郎日記では「近年稀に見る強賊」などと書かれている。

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/27(月) 23:35:39.37 ID:PS4ADPKZ0.net
>>303

金平が髪結い時代に往来を歩いてくる大男とぶつかり「どこ見てやがんだ」と啖呵をきったまではよかったが、そのまま二軒ほどぶっとばされた。この相手の大男が伊豆の間宮村の久五郎であり、負けたことで素直に金平は久五郎の弟分となっている。

男稼業の粋の背骨である「我慢」というのが薬にしたくともない金平が貸元、親分と呼ばれる程の男になれたのは親分の久五郎が金平の馬鹿正直さと異常なまでの負けず嫌いを見込んだことによるが

云々とノートに書いてありました。日付と出典はありませんでした。

多分、伊豆史談会の資料を写したのでしょう。もちろん、そんな偉い人の集まりなんて毛ほども関係ありません。

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/28(火) 19:09:34.25 ID:Xj4WbBcQ0.net
詳しくありがとうございます

いくら何でも理由もなく殴るとは考えにくかったから納得
大男相手にケンカを売る金平の向こうっ気の強さも相当なもん
しかし2間もふっとばされたらおつりが来るかな

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/28(火) 23:31:49.94 ID:YGWcNhrF0.net
伊豆史談会とはおみそれしました。そのような会合に一度は出てみたいものです。
貴重な逸話を有難うございました。上の方も言うとおり、金平は相当に魅力のある侠者ですね。

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/31(金) 19:43:52.12 ID:1Axp/jxi0.net
いや、皆さんと比べたら、無知で恥ずかしい限りです。凄いですよ。

私はどちらかというと、大衆文化史のヤクザの事跡に興味がありましたが、最近はどうも。

ノートにとっていたんだから好きだったんでしょうけど。

最近wikiでも清水一家の記事を載せている人はいますが大したものです。

足立巻一を出す理由は?ですが。

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/31(金) 21:49:08.46 ID:NLhhqlpB0.net
明治の中期から大正にかけて出された「近世侠客鑑」という番付がある。
この中でどうしても素情のわからない人物に「身延ノ半五郎」がいる。かならず番付の上位にいるにもかかわらずだ。
地元の山梨県身延町に足を運んでも、役場に問い合わせても、まったく判然としない。

中沢正や竹内勇太郎は「大瀬の半五郎」(又はその父親)のことだ、としている。
また、戸羽山瀚は大場久八の腹心とし、更に「安東文吉伝資料」の中だと津向文吉の一子分とされている。
どれもしっくりこない。
思うに、彼は黒須大五郎のように、明治期に世を騒がせた人物なのではないかと思う。誰か情報を持っていたら書き込んで下さい。

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/31(金) 22:06:39.48 ID:NLhhqlpB0.net
武州坂戸の赤尾の林蔵と、その南部に位置する高萩の伊之松との抗争は、江戸の後期から
明治にかけて講談中の人気作として何度も高座にかけられた。
もっとも林蔵の死ですら文化元年なので、よく知られた次郎長や勝蔵、忠治、吃安、祐天なんかよりだいぶ前の話になる。
残念なことは、もう今では地元の人ですら彼らのことを知らないということだ。

即ち、赤尾の山崎林蔵、高萩の清水伊之松、林蔵叔父の落合久五郎、山ヶ谷戸の矢辺源太郎、中新田の高篠源七、
岩殿の志村徳次郎(=観音の徳)、高坂の藤右衛門(姓不明)、田木の佐藤辰五郎らの無頼漢、加えて剣豪・秋山要助などが、
命をかけてしのぎを削る。そういう話が『侠客・赤尾の林蔵』なのである。

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/08(土) 18:19:26.72 ID:1rR5tG7V0.net
ウィキペディアに最近「関東綱五郎」こと大瀬半五郎の項目が出た。
これは八王子浅川の鈴木綱五郎を、次郎長子分の関東綱五郎と断定してしまっているが、たいへんな「お手つき」だろう。
半五郎は藤田五郎が言うように埼玉県八潮市の大作半五郎の方が正しい。『八潮市史』にもたしか
半五郎出奔時の正確な古文書史料が掲載されていたように思う。

鈴木綱五郎は、小林藤吉、栃木健次郎と続く「小仏一家」の人だ。

とは言え、私はウィキペディアの編集のような技術的なことはできないので、
こうしてぼやくほかない。なんとも無力。

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/08(土) 20:27:09.69 ID:1rR5tG7V0.net
飯岡はささやかな海沿いの町。ここは今でも助五郎の評判がすこぶるよい。だれも彼の悪口を言わない。
玉崎神社の境内に助五郎の碑が建っている。碑文の前に「六拾貫」の助五郎奉納の
力石が無造作に置かれている。これは助五郎が力の強い人夫を雇うために給料決めの目的で使用したものだという。

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/09(日) 16:08:57.52 ID:N+TzDWyi0.net
果たして侠客の歴史の侠客とはいつごろまでを指すのだろう。
幕末、明治初期までは入れていても大正は入れないという意識があるのか。一度、聞いてみたいものだ。

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/09(日) 20:53:03.71 ID:16NS4Lcz0.net
スカイツリーのそばまで行く時は、祐天仙之助の墓参りもしてくる。
隅田区太平の法恩寺内陽雲院墓地。
かつて日本橋の水天宮の近くに、親族を祐天に助けられたという女性がいて、彼の墓の管理をしていた、
と子母澤寛が書きものに残しているが、女性のその後は不明。暇があったら調べてみようと思う。

戒名は「本哲院宗勇智山居士」。「祐天の仙之助」とよく呼ばれるが、自筆だと「勇天」としているから、
戒名の「勇」はそこからきているのだろう。「資堂金三両」というのは高いのか安いのかよくわからぬ。

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/10(月) 00:29:25.51 ID:SImtoj020.net
>>318
私ごときが言うのもおこがましいので、一応一つの意見として。
上万一家の志村九内氏が最期の渡世人と見ていいのではないでしょうか。
理由は親分の命で、旅廻りをした時に「今の時代じゃもうやらない」と述べてることと、
半鐘兼や藤枝清兵衛の死ぬ間際に会ってることなどからです。要するに一つの時代の終わりを見とどけた人、のように思えるからです。

九内氏の没年は昭和38年。
その障害は井手英雄の傑作・『無職渡世』にたいへん詳しく記録されています。(文学者の佐藤春夫とも親しかったのではなかったかな。)

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/10(月) 00:30:39.95 ID:SImtoj020.net
その障害→生涯
本当にすみません。

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/10(月) 17:57:02.94 ID:lA2nC5y30.net
井出英雅さん。「無職渡世―志村九内の生涯」ですか。上万一家四代目格とされた人ですね。
群馬の神沢丹次郎の「懺悔履歴」なんかも渡世人の旅を描いていますが、確かに旅人=侠客というイメージでも
まとまりやすい気はします。

井出さんだと「男―武居啓三とその周辺」の中にもありましたが、「出るとこへ出たら知られた人物」という人を描いた作家ですよね。



323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/10(月) 19:16:40.72 ID:SImtoj020.net
寒梅丹次までご存じとは…すごいですね。
丹次の石碑は今、小学校の裏手に建ってます。学校の教師になりたかったという彼の
述懐を鑑みるとなかなか興味深いものがあります。

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/11(火) 00:14:16.37 ID:D6YaKBnJ0.net
314だが、日本橋ではなく「京橋」、「水天宮」ではなく「水神」の間違いだった。

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/11(火) 00:27:36.48 ID:D6YaKBnJ0.net
銚子の飯沼観音・円福寺には銚子の五郎蔵事、木村勝五郎の墓と、寄進の茶釜がある。
頼めば見せてくれるが、いや、たいした存在感の逸品だ。ちなみに飯岡の助五郎と連名。

勝五郎の墓には屋号の入った子分衆の名前が多く刻まれている。三浦屋、田辺屋、大坂屋、成田屋など。
屋号記名が多いということは「岡っ引」ということだろう。よって盛名の割に世にあまり知られていない銚子の五郎蔵の実態は
岡っ引元締めといったところではなかろうか。

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/14(金) 07:01:53.53 ID:WpWPrKnNO.net
住吉会大前田一家
稲川会大前田一家(消滅)
松葉会上州国定一家
住吉会笹川一家
清水一家(山口組系になる)
稲川会清水一家(消滅)

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/15(土) 10:14:09.28 ID:IcaQmCOE0.net
近デジにある『関東侠客列伝』は明34年1月の出版で牧之原の先生のサイトでも引用部分
がありましたが、この人たちも侠客に入れていいとは個人的には思います。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777559

数十人のうち、ハナから三田貞蔵、田島要吉、安藤弥五郎、村山玉五郎、福田鉄五郎、田崎弁蔵、
井上吉五郎、鴨井亀吉、堀越喜三郎、阿久津万次郎、小林貞蔵、坂本林之助【堀越良助は子分として名前あり】
と続いています。

名前を知っている人もいれば、勉強不足で詳しく知らない人もいます。でもこうなんでしょうね。

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/19(水) 14:00:59.20 ID:p/T9mIKl0.net
>>215
虎造の三十石船では
宝位郡 雲風亀吉
御油の玉屋の源六
と続きますね

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/20(木) 16:40:11.02 ID:evdzX7n40.net
>>328
講談(浪曲)「清水次郎長」別名「石松三十石船道中」ですね
二代目広沢虎造をつべで聴いてみたらそのとおりでした

落語のほうはなぜ玉屋源六を省略したんだろう
時間の節約には関係なさそうだから
思い出せなかっただけかなと思いましたw

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/20(木) 22:27:26.33 ID:VztC93iC0.net
>>327
ご紹介有難うございます。どうも作者が下野の人のようですね。そういう意味で意外だし、人選も面白い。
特に川越勘次(内川勘次郎)の伝が結構豊富で役立ちます。この人も「侠客」というにふさわしい人だと思います。
「それを言うなよ、川越寛治、言えば寛治の名がすたる…」あんまり意味はわかりませんが、
川越では有名な文句だそうで。
ちなみに埼玉県立文書館には、この人当ての年賀状や、子分一力大五郎の相撲興行を打った時の番付けが残っています。
そういう世界の人の資料とは、学芸員さんも思ってもいなかったらしいですが。

あとは田島要吉、いわゆる二代目大前田栄五郎(兄の名を子分が相続した)。敢えて二代目要吉の伝を記すところが
たいへん勉強になりました。

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/20(木) 22:43:12.71 ID:VztC93iC0.net
御油の玉屋源六は初耳です。どういう人でしょう。興味が湧きます。

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/21(金) 18:33:00.78 ID:XN5i6G9N0.net
>>331
浪曲が全部事実だとは思えないんですが
御油の玉屋の玉吉が清水次郎長と黒駒勝蔵を仲直りさせようとするくだりがあります。
その中で玉吉の親父、玉屋の源六は次郎長の兄弟分として登場します。

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/21(金) 18:42:51.88 ID:XN5i6G9N0.net
>>329
三十石船もロングバージョンには伊勢の親分衆の名前をいうくだりがあります。
丹波屋伝兵衛
稲木文蔵
神戸傳左衛門
平親王黒田屋勇蔵
寿屋琴治
武蔵屋周太郎
安濃徳次郎
塩浜吉五郎

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/22(土) 01:43:27.59 ID:Kj4cHpTf0.net
>>330
川越寛治は埼玉県立図書館に自伝がありますが、相撲取り上がりの一力大五郎に旧赤坂区一円を与えたという
のは藤田五郎の「関東の親分衆」にもでてきますし、百瀬博教の『私の東京』でもサイデンステッカーに説明
する件がありますね。

私は個人的には三田貞蔵ですね。仮説ですが東京の親分は、地方の大親分の経済力と人脈により基盤を築いた
と考えています。というより東京の縄張り地図は彼ら無くして描けなかったのでは。
その意味で小金井と同じくらい三田貞蔵、川越寛治、それと坂本林之助はもっと詳しく知りたいものです。

>>333
ビッグネームが揃いますね。三十石船は富士郡の宮島辺は知っていましたが、
ロンクバージョンは知りませんでした。勉強になります。

神沢丹次郎の「懺悔履歴」でも伊勢にわらじを脱いでいますので何人かは登場するようです。

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/22(土) 05:51:40.73 ID:aOZMAbN40.net
>>333
へー!ロングバージョンなんて知らなかった!
みんな荒神山の血闘に関わった人物っぽいですね

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/25(火) 03:51:03.92 ID:3/D2sOThO.net
映画や講談で悪い

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/25(火) 03:56:12.21 ID:3/D2sOThO.net
>>336続き(笑)
映画や講談で悪い親分とされる一家って
残ってないですね。やはり仁侠を
重んじるのがな?

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/25(火) 11:27:32.99 ID:SohiTBGF0.net
>>329
落語「ん廻し」のほうは宝位郡の「ん」と源六の「ん」をわざと省いて長々と喋ったわりには結局親分の「ん」で一本しかもらえないというオチじゃないかと思います。

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/25(火) 18:45:42.84 ID:qifDO9Ft0.net
>>338
あーそうか!ご慧眼ですね

「ん」がつくからって省かれた源六カワイソス(´・ω・`)

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/26(水) 00:11:32.72 ID:sAyF0eYw0.net
>>337
小次郎の跡を継いだ藤屋の和十郎さんは当世一級の侠客だったけど、子分をとることを好まなかった。
山岡鉄舟が理由を聞くと「ヤクザは塵みたいなもの、少ねえに越したことはありません」
と答えたと言う。結局藤屋の直系は国分寺の伊之助さんで絶えた。

というわけで、後世に残る残らぬに、一家の良し悪しは関係無いんじゃないですかね。

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/26(水) 00:21:02.25 ID:sAyF0eYw0.net
大国魂神社の南の裏手、妙光院との間に「金毘羅」さんがある。
ここが、まあ、いわゆる六所宮の賭場だったエリアである。敷地内に古い水盤が
あって、和十郎の名が入っている。また石段にも和重朗、伊之助の名がみられる。更に妙光院には
「小金井小次郎二代目・藤屋(市村)和十郎」と書かれた大きな碑が建立されている。

一世代前なら、府中近辺の村々でこの人のことを知らぬ人はなく、「ワジュウさん」と良く呼ばれた。
近世一の博奕の名手であったことは特に有名。

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/26(水) 19:15:29.20 ID:MHT2jaCr0.net
市村和十郎は賭場をチラッと見ただけでテラの上がりが分かったという。
藤屋の万吉(「黒いカラスでも親が白いと言えば」の逸話で知られる)の実子という。

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/26(水) 22:36:31.64 ID:sAyF0eYw0.net
伊勢古市の丹波屋伝兵衛は侠客番付けでは必ず上位に附けられる。
人によっては東海道一の親分などとも言われるが、盛名のわりに逸話は残っていない。
出生は豆州多田村、幼名竹之助(武之助)だと言う。
伝兵衛に関する戸羽山瀚が収集した逸話はちょっと面白いので書いておこう。

 「御一新の折、幕軍と官軍が伊勢湾で危うく火ぶたを切って騒乱の巷と化さんとする間一髪、生来の義侠心が此処に於いて火花と散った。
 『馬鹿も休み々々なせえ!』
 幕軍の御歴を目の前にしてびくともしない面構えだ。
 『全体ここを何処とお考えです。恐れ多くも天照大神の御座所のある尊い場所にござんす。それを御わきめなく、血で汚そうなんてとんでもねえ
 考えちげえ。お互いに理屈はおわりでしょうが、兎に角この場は私にお任せ願えます』
 曲論でなきこと明白だから、双方それに異存はない。肚では多少不満があっても伝兵衛の顔に免ずると言うよりは、神領を血で汚すわけには参らなかった。
 神代ながらの国は兵火の惨禍を逃れたと伝えられる」

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/26(水) 22:53:46.42 ID:sAyF0eYw0.net
上述もしたが、丹波屋伝兵衛。外見は小男ながら、常に朱鞘の長脇差。肝は諸人にすぐれて
太かった。明治二十三年十二月、八王子で亡くなった。(文化13年の生まれだから、73か4ということか。)

ちなみに小金井小次郎とは、どういうわけかソリが合わなかったらしく、しばしば「刺客を放つ」などして対立した。
両者が和解したのは明治3年のこと。仲介の労をとったのは甲州上今井の久左衛門だと伝わる。

345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/27(木) 00:38:56.05 ID:iCy6/H3k0.net
>>340

近デジの顔役明鑑を見ると「藤屋万吉」から「森久保伊之助」となっています。

万吉というのは屋号のようなものだったんでしょうかね。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454136

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/28(金) 06:33:26.34 ID:z09G+Q+gO.net
歴史漫画の「風雲児たち」の作者みなもと太郎が「日本侠客伝」というエッセイ漫画を描いている。
その中で、みなもと太郎自身の先祖も幕末の頃は侠客で、
みなもと太郎が子供の頃にお爺さんから家に出入りしていた博徒や侠客たちが
仁義を切ったりする様子を聞かされたそうだ
本当に時代劇みたいにやっていたらしい

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/28(金) 16:49:02.55 ID:/9lSFiTr0.net
>>346
「日本侠客伝」は『挑戦者たち』に収録されている一編だそうですね。
どういう内容かと思っていましたが、おかげさまで概要がわかりました。

ちなみに、みなもと先生の『日本任侠史』を入手したいと思っていたのですが、
最近在庫切れになってしまったようで残念です。

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/01(火) 22:46:48.93 ID:Qd/jPXsF0.net
返答が遅くなりすみません。しばらく出かけていたもので。
「藤屋」は屋号兼店の名です。大国魂神社の東鳥居の前にありました。一膳飯を出し、また旅籠も兼ねていたとのことで、
天保十二年の段階で「158年以前」から営業していたと記されています。

ここに文化年間、和十郎という博奕打ちが出て、その息子が万吉、また万吉の倅(甥とも言われる)が、再び和十郎です。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/01(火) 23:04:35.69 ID:Qd/jPXsF0.net
万吉は小次郎の兄貴分。
天保14年に相州曲がり松事件に連座して遠島、三宅島に流されますが13年後帰国します。
ところが折悪く、当時の府中宿は小川の兄弟の標的にされており、(頼みの小次郎が遠島中)まず代貸常太郎(小常)が殺害され、
万吉も元治元年正月に襲撃を受けて深出を負い、半年後の6月に亡くなりました。
子母澤寛の聞き書きにあるような「嫌な親分」だったかは不明ですが、「殺された」という部分は上述のように半分本当です。

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/01(火) 23:04:39.01 ID:18FLn2IT0.net
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              l l;;;;;;:::::::::::::::.....;;;;............;;;;;;''ノ            l
              l l '''''''''''''''''''''''''''''''''''''' ̄l |             |

http://y2u.be/z2qK2lhk9O0

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/02(水) 00:28:56.40 ID:/dhidwJj0.net
提案です

以前から気になっていたことですが
このスレでもsage進行推奨にしませんか?

sage進行の意味や詳細は
お手数ですがキーワード検索などでお調べください

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/03(木) 17:13:29.68 ID:uhr0So1V0.net
元々専ブラ使いなのでsageがデフォです。
マターリ進行のスレだし、上げないほうが無難かも。

>>263
『新選組日誌 下』には
くずし方によっては「捨」と「権」の判別は難しいものの
本宿在の人物であるから松本捨助のこととすべき、との旨がありました。

本宿に権助という人物が存在し彦五郎らと知り合いだった、
という可能性を否定してよいのか疑問を感じます。
一方、新選組に入隊したがっていたというからには
捨助とするのが順当とも思えます。
要検討課題ということで、一応お知らせまで。

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/04(金) 19:14:16.72 ID:QwXCyFf90.net
コンピューターに不慣れなもので、申し訳ありませんが複雑な対応をすぐには実行できません。
おいおいやり方を覚えていこうと思いますので、ご迷惑おかけしますがお許しください。

354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/04(金) 19:30:10.47 ID:QwXCyFf90.net
後々また細かいところを後付けするとして、
穴濃徳次郎と神戸の長吉の(一応の)親分とされているのが黒田屋祐蔵。
「南で天照大神、北で神戸屋祐蔵か」と歌われるほど勢力があり、ここで呼ばれるように
神戸屋の祐蔵とも呼ばれた。また神戸屋が四日市追分にあったことから「追分の祐蔵」とも、
更には背中に平将門の入れ墨をいれていたから「平親王祐蔵」とも、まあ、色々と呼び名があった。

確実な証拠が有るわけではないが、旅籠神戸屋を経営していた時、一人娘が旅客と恋に落ちて、その末自殺した。
世の中嫌になったか、祐蔵親分は四日市を去って桑名に移り、暫くは女郎屋を営んでいたが、ほどなくして法華宗の強烈な信徒となって、
題目を唱えることに余生を費やしたという。桑名の円妙寺で裸足参りをしたというのもこの晩年の話。

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/04(金) 19:39:30.52 ID:QwXCyFf90.net
本姓は下村。円妙寺に墓があるという。(不覚にもまだ私は詣でていないのです。)
また、祐蔵は下総の出自というが、それは「平親王」のあだ名による誤りだとも言われ、伊勢の出自という話もある。

とかく祐蔵に関しては、古い本だが『考証東海遊侠伝』(S48 雄山閣、中沢正)が豊富な情報を載せている。

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/04(金) 19:47:50.67 ID:4qiwIxfF0.net
>>353
sage進行のことですか?

書き込む時メール欄に「sage」と半角英数で入力する、ただそれだけです

参考記事↓
http://pmakino.jp/channel5/misc/2chbible.html#sage
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012732170
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3218051.html

板におけるスレの順位は板一覧で確認↓
日本近代史
http://yomogi.2ch.net/history2/

こんなふうに細々説明すると
それもまた荒らしを呼び寄せてしまいそうなので
気が進まなかったのです
ご了解いただけましたでしょうか?

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/04(金) 20:13:42.06 ID:QwXCyFf90.net
三重県鈴鹿関町(現・亀山市)の郷土史家、故岩間辰次郎氏によれば、黒田屋祐蔵の前に々土地に「長野伝左衛門」という親分がいた。
長野は姓で、名はデンエモンなのかデンザエモンなのかも定かでない。この人が神戸屋伝左衛門。人の良く出来た穏健派な親分だったという。

岩間氏が若い時分に関町の博徒から聞いた話として「長野伝左衛門は黒田屋祐蔵の兄貴分だった」というのを上げており興味深い。
また神戸の長吉は黒田屋ではなく、この伝左衛門の直属の子分だったともいわれる。

つまるところ、老齢の伝左衛門が弟分の黒田屋祐蔵に任せた土地を、黒田屋が去る前に子分の穴濃徳次郎に譲った。
が、伝左衛門の直系である長吉は、叔父分の黒田屋が去った後、その場所の所有権を主張した。
これが荒神山の戦いの引き金ではないか、とする中沢氏の推測は、かなり正しいように私には思える。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/04(金) 20:17:54.34 ID:QwXCyFf90.net
>>356
ご丁寧にありがとうございます。また長々書きこんでしまい、申し訳ありません。
以降気をつけます。

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/04(金) 22:51:53.39 ID:4qiwIxfF0.net
>>358
こちらこそ途中で割り込んでしまったみたいで失礼しました

長文を分けて書き込む時は名前欄にそれぞれ
1/3、2/3、3/3などと入れると割り込まれにくいと思います

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/07(月) 20:09:34.51 ID:1ZWpqq/S0.net
沼津の和助

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/07(月) 20:10:16.11 ID:1ZWpqq/S0.net
由比の三平

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/08(火) 15:42:12.93 ID:Iwqx6n/S0.net
慶応4年3月の小栗騒動を煽動したという博徒侠客についてご存じないですか?

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/09/08(火) 21:58:45.19 ID:oU5bOPvD0.net
なるほどPCで概略を見てみたら、小栗忠順 対 博奕打ちの騒動があったようですね。
私はこの件はじめて知りました。なんとも興味深い話で、とりあえず近いうちに『相楽総蔵とその同志たち』辺りを皮切りに
調べてみたい気分になりました。

むしろ、現時点で詳しいことをご存知でしたら、是非ともご教授ください。

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