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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 23:42:56.05 ID:ZxgK/xr00.net
>>401
それは大胆で面白い考察ですね
仙之助の命を狙う者は少なからずいただろうから有り得るかも

もしも「父の仇討ち」が虚構だとすると
海貞次郎の証言とやらも事実ではなくて
大村達尾と藤村鬼一郎に協力させられただけなのかも

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/26(月) 23:21:23.65 ID:XfB03BSU0.net
侠客の子孫、関係者のお宅を尋ねる時が、やはり一番重要だ。
なにより緊張する。調査の際にはどう切りだしていいか、何度も短い時間でリハーサルする。
経験上、正直に自分の身分と住所、名前を示して、失礼の無いように来訪の意図を告げるのが一番いいようだ。
ただ、チャイムを押すより、誰か庭に出てきてくれないかな、と目当てのお宅の周りをニ周三周するのはお決まり。

もし、当人のお墓が分かる場合は(植田先生の情報が極めて役に立つ)、先にお墓へ線香を手向ける。当人の力を借りなければ、
こういう調査は成功しない。

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/27(火) 19:24:00.12 ID:Vq5oepPL0.net
わかります。
ご迷惑にならないようお話を伺うには、ずいぶん気を遣いますよね。

子孫の自宅にいきなり電話して根掘り葉掘り聞く人もいるそうで
よくそんなことが平気でできるな〜と感心しますw

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/27(火) 22:22:35.39 ID:zMix31n30.net
幕末期の関東の治安を監視した組織は、代表的なものとしては関東取締出役が知られている。
「シュツヤク」と読んでも「デヤク」と読んでもいいらしいが、個人的には「デヤク」が好きだ。
これに劣らず資料に現れるのが「江川代官手代」。柏木荘蔵に山田頼助などが、よく眼につく。
更に加えると火附盗賊改。いわゆる「火盗改め」である。

一概にはくくれないが、出役は殺人事件などを、江川代官手代は盗難事件を、主に扱っていたという。

406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/27(火) 22:33:43.38 ID:zMix31n30.net
幕末期の旅籠屋は岡引を兼務していることが多い。多くの人間が入れ換わり立ち替わり入る
場所だからだろうが。自然、荒くれ者どもと対峙することで店主の肚は練れていくらしい。

武州の内藤新宿、府中宿、八王子・横山宿に、それぞれ「東屋」がある。府中と新宿のものが同系列であることは
史料上伺える。八王子の東屋もそうだとすれば、この店は当時において繁華街に展開するチェーン店であったことになる。
残念ながら八王子東屋の資料は見つからない。位置的には、後に有名な「壺伊勢屋」となる場所である。(二十四日場)

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/27(火) 23:26:30.80 ID:zMix31n30.net
かつて「日野千両」と言う言葉があった。日野の人間は「千両」あればすぐ他所に店をひらく。
そういう開拓精神のある風土だったようだ。

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/28(水) 18:32:37.67 ID:nUJlsdhc0.net
日野宿なら1千両くらい蓄えている分限者も複数存在したでしょうね。
どこの家が日野以外のどこに何の業種で出店したのか、具体例はご存じですか?

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/29(木) 23:40:59.74 ID:CXC1gcB40.net
「日野千両」の話が載ってる資料がどうしても見つからない…多分『新立川市史研究』か、
『国立の民俗』だと思うのですが、いずれもニ十年近く前の研究です。

それらの資料には具体的に日野商人の開いた店が書かれていたような気がします。
と言う訳で、見つかったら、また、お知らせします。

410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/29(木) 23:47:52.67 ID:CXC1gcB40.net
肝心な資料が見つからぬのですが、八王子横山宿の「角屋」・「扇屋」はどうも日野の
出自のようです。どちらも旅籠です。扇屋は飯盛り旅籠だったかもしれません。

おそらく角屋は、元「日野屋」(これも日野の出自でしょう。)の跡地に建ったのではないかと推測されるのですが、ここの店主の
彦兵衛は名の売れた博奕打ちでした。角屋彦兵衛の墓は日野宝泉寺にあり、今は無縁です。

411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/30(金) 00:34:42.79 ID:+2bZvCNO0.net
>>409-410
ありがとうございます。
続報もお待ちしています。

彦兵衛の墓は参ったことがあります。
生家の墓所とはまったく関係なさそうなところですね。
周囲を見て、ひょっとすると玉川要蔵かその身内が世話したのかも?などと想像した次第です。

なお、松本捨助ゆかりの八王子・斎藤旅館も、昔そういう筋の旅籠だったのでしょうか?

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/30(金) 22:44:00.65 ID:gMpQWhcM0.net
私は不覚にも松本捨助が八王子に住んだことも、斉藤旅館という名前も知りませんでした…
なので、教えていただいて有難うございます。勉強になりました。
なお302で教えていただいた『新選組隊士録』、遅まきながら読みました。大変詳しく、内容も面白いですね。

彦兵衛親分の墓を知っているとは恐れいりました。
彼の死と周辺の博奕打のことは『八王子市史研究5』(2015 6)に載っています。参考にしてみてください。

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/30(金) 23:19:59.16 ID:+2bZvCNO0.net
>>412
たびたびご回答いただき、ありがとうございます。

ちょうど近々八王子方面に出向く予定があるので、
ご教示いただいた資料を見てみようと思います。

414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/30(金) 23:28:10.61 ID:gMpQWhcM0.net
かなり前にこのスレッドで、甲州竹居安五郎の子分「市五郎」と「小市郎」について
言及した。当初は別人だと思っていたのだ。
ただ、調べて行くと、吃安の子分・石原市五郎の別名が「小市郎」であることがわかった。
よって両者は同一人物である。講談で「若宮の小市」と呼ばれる者が彼なのだろう。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/31(土) 23:41:11.46 ID:9vPTPBkf0.net
所沢在・坂之下村寅五郎

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/31(土) 23:42:09.27 ID:9vPTPBkf0.net
本郷村清兵衛・仙太郎親子

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/01(日) 15:58:51.92 ID:qHQzGm6g0.net
>>414
>>89のことですか
同一人物ならつまりこの「市五郎=小市郎」を大場の久八と入れ替えたら四天王成立ですね


それにしてもこの手の別名はけっこう多い気がする
「小さい◯×」→「小◯」もしくは「小×」的なあだ名なのだろうか

418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/01(日) 22:11:48.55 ID:kev0NY3i0.net
竹居安五郎の墓石は甲州には三つあり、一つは先祖代々が眠る竹居の浄源寺、
二つ目は石和の仏陀禅寺、三つ目は同じく石和の常在寺にある。

このうち常在寺のそれは、石原市五郎建立とあり、安五郎の没年も「嘉永7年」となっている。この年号は安五郎が新島から島抜けをした翌年であり、
つまりは追手の関東取締出役を欺くためのカムフラージュであると言われている。(この説を唱えたのは増田智哉が一番早い)
よって、「市五郎」、つまり小市郎はこの時点で安五郎の側近であったと考えられる。

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/01(日) 22:22:46.18 ID:kev0NY3i0.net
本名は出ないが綽名のみ、この世に知られる博徒は多いです。
例えば「小〜」なら「府中の小常」でしょう。彼は『小島日記』の記録によれば、元治元年(だったかな?)に小川幸蔵一派と
戦って府中で亡くなりますが、相当な親分だったようです。
また、武蔵野市秋元家文書(十巻か九巻)に、陣屋三之助が境村の若者たちを懲らしめのため、
杵築神社まで追い込んだ騒動(慶応3年)にも、陣屋側に加勢する博徒として「府中小常の倅・宗次郎」が記録されています。

いずれの資料でも、府中宿の相当な親分だったように書かれていますが、「小常」とのみで本名はわからない。
一説には「常太郎」ではないか(子母澤寛)とされますが、確証はありません。

420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/03(火) 04:34:33.58 ID:D8jEwr3w0.net
なるほど考えてみれば
本名を名乗りにくい稼業ではありますよね
周囲の同業者も本名は何ていうのかなんて穿鑿しないだろうし

それに当時は階級や職業や性別を問わず
生涯のうちに何度か名前を変える人が珍しくもなかったから
あだ名が本名代わりに使われるくらい普通なのかも

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/03(火) 08:10:17.55 ID:oTglSaXf0.net
笹川繁蔵に平手造酒(平田深木)、
安東文吉に小泉勝三郎
竹居吃安に犬上郡次郎

と、侠客の物語に関与してくる浪人側にも、なかなか魅力的な人物が多い。

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/04(水) 23:01:33.28 ID:Nz0AElLd0.net
犬上郡次郎は上州館林の出身。初名は田中小源太。
有馬の猫騒動(実際は熊)で有名な扱心一流柔術家元の犬上郡兵衛永昌の跡を継いだ。

安政2年と4年(4年と6年ともいう)に、江戸の両国・吉原で若衆相手の大喧嘩をした。
この時一度も刃物を抜かず、全て躰裁きと当て身だけで翻弄したことから、大層称賛されたが、
藩では許しておけず謹慎処分に処された。後、弟子一人と共に館林の牢を抜け、甲州へ至り
博徒の群れへ身を投じることとなった。

423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/04(水) 23:08:23.56 ID:Nz0AElLd0.net
当時館林には杉江鉄助(鉄次郎とも)という高名な剣客がいた。郡次郎も杉江に剣を学んだが、
師匠の杉江を以てしても、接近戦で郡次郎に組まれると勝ち目がなかった。そこで、杉江も郡次郎相手の時は、
いち早く遠間で小手等を極めて、決して近くへは寄せないようにしたという。
実際柔術に関してなら、郡次郎は当時古今無双の豪傑だった。

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/05(木) 18:38:12.62 ID:saJjQmNH0.net
レファレンス協同データベースには、こういう説明がありました。

> 犬上郡次郎は館林藩士であったが、その行状から謹慎、入牢となり、牢を破り甲州へ逃亡する。
> その後竹居安五郎の用心棒になるが、安五郎を欺き、その身柄を石和代官所に引き渡す。
> 黒駒の勝蔵がこの裏切りを知り、万福寺地内に隠れていた犬上郡次郎を惨殺した。
> なお、『勤皇侠客黒駒勝蔵』(堀内良平著 軍事界社 1943)、
> 『勤皇侠客黒駒勝 蔵』(小沢政春著 1982)、
> 『現代大衆文学全集』(松田竹の嶋人著 平凡社 1928)所収「黒駒の勝蔵」では、
> 名前が「犬上軍次」となっている。

なんだか郡次郎は「裏切り者の悪党」扱いされているようですが、
ひょっとして安五郎を捕えるために送り込まれた潜入捜査官みたいな役目だったのかも
などと想像してしまいました。

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/05(木) 23:18:54.72 ID:YoLJRkfI0.net
>>424
こんなくその役にもたたんスレに返信していただいて恐縮です。
犬上に関しては甲州勝沼で、万延元年十月十日前後に祐天の策略によって捕縛され、
件の田中屋万五郎が、八王子から館林藩の四十人の護送と共に藩の牢まで送ったとの記録が残っています。
他にも驚異的なエピソードの持ち主なので、なんとか犬上郡次郎を紙の上で近いうちにまとめたいと思います。

ちなみに北海道に在住し子母澤寛とも交流が在った「青柳聴霜」という人が郡次郎研究の第一人者です。
文章は素人とは思えぬほど巧みなのですが、何者なのか詳細は不明です。(あるいは子母澤寛本人なんじゃない?とすら私は思ってるんですがね。)

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/07(土) 19:20:54.66 ID:4SLfxN5Q0.net
小泉勝三郎は金沢の生まれだと言う。彼に関してはほとんど資料が残っていない。

それでも『安東文吉伝資料』や村本喜与作の著作によれば、嘉永2年武州田中の岩五郎が、東海地方に
襲来してきたことの真の目的は相良の富五郎を討つことであり、そのために
岩五郎は十三隻の船に、関東の無頼漢百人余りを載せ相良海岸に寄せてきたという。
これに対して、富五郎の元に厄介になっていた小泉勝三郎が機転を利かして、
田沼家に属している自分の門弟をかき集め、港の守りに付かせ、見事岩五郎側の気鋭をくじいた。

427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/07(土) 19:27:01.49 ID:4SLfxN5Q0.net
後年、富五郎が江川代官の命で安東文吉に捕縛された際に、勝三郎も「富五郎一人に責めを負わせることはできない」
と自ら自首して出た。富五郎は入牢中病死し、勝三郎はそのまま、安東文吉の家に寄寓したという。

勝三郎は田沼家の剣術師範だった、などとも言われるが定かでない。いずれ腕も立ったが
教養もあり、安東文吉・辰五郎兄弟を一角の人物にしたのは、彼だと言われる。文吉没後、
彼の墓に「安文吉」の字を揮毫し、郷里金沢へ帰っていった。

また、当時の農村日記等に若干ながら足跡が残っているので、実在の人物であったことは確かである。

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/08(日) 00:00:19.85 ID:/qngNKOF0.net
↑この金沢は今でいう神奈川県横浜市ですか?
石川県じゃないですよね

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/08(日) 16:39:13.92 ID:x/0nfhUA0.net
言われてみれば相州金沢という可能性もありますね。
私は加州金沢一本きりだと思ってました。本腰で調べれば色々出てくる人かもしれません。

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/08(日) 17:16:14.10 ID:/qngNKOF0.net
あ、どちらも可能性があるんですか
見当がつかなくて悩んじゃったもので
どうも失礼しました

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/08(日) 18:05:18.81 ID:x/0nfhUA0.net
いえいえいえ、こちらこそ、気づかぬことを指摘していただき有り難いです。
正直、言われてからは神奈川の金沢の気がしてきました。

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/09(月) 01:34:20.19 ID:XS1t1yew0.net
神奈川県の郷土史資料を見ていると
横浜市やその近辺の有力者として小泉姓の一族が出てきますね。
元首相もその一員で、だから神奈川11区から立候補したと聞いたような気がします。

もっとも石川県の郷土史については不勉強です。
もしそちらにも小泉一族がいたとすれば、何の参考にもならない話ですね(笑)

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/11(水) 22:03:52.82 ID:pss2TWuR0.net
講談で有名な「関東七人男」を挙げておこう。

・赤尾林蔵、・高萩伊之松、・高坂藤右衛門、・落合久五郎、・山ヶ谷戸源太郎、
・横沼虎吉、・火の玉小僧恵助

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/14(土) 23:01:47.19 ID:iOXPHlSE0.net
七人男には入っていないが、周辺の高名な侠客として、
中新田の源七、岩殿観音の徳、高萩の弥五郎、田木の辰五郎、
石井の伴内、岩殿観音の菊、三保谷の長次郎、長吉親子
などをあげておこう。

435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/14(土) 23:14:27.08 ID:iOXPHlSE0.net
東京都立川市の清見潟亦市という力士がいる。自身力士としてはそれほど大成しなかったが、
名親方で「三代目清見潟」として幕末期の相撲界に重きを成した。

立川市では、出身地の割に彼の研究はまるでされていない。昭島市との境にある
常楽院には立派な墓石が在るのだが。

この清見潟亦市、雲風亀吉、常吉兄弟や安東文吉、辰五郎兄弟等と言った、後に一角の侠客になった
力士を多く世話している。

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/17(火) 23:08:23.35 ID:hSIRI7WG0.net
東京都武蔵村山市の神主が記録していた日記に『指田日記』がある。
中藤村を中心とした農村部の人々の日常を詳細に記録した、貴重な資料であるが、
この中に「田中の定右衛門」という博徒親分のことが記されている。
これによれば定右衛門は、
帳外されて無宿者になったり、逮捕されて半剃りにされたり、無頼漢にリンチされたり、喧嘩の仲裁に入ったり、
豪儀に酒を振るまったり、身寄りのない娘の世話をしたり、芝居を開いたり、生き倒れの露天商を埋葬したり…と

実に詳しくその半生が記録されている。
博徒の典型的な生きざまが見えるようで、実に興味深い。

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/22(日) 00:07:08.37 ID:C5Lv8VQl0.net
嘉永二年にあったとされる津向文吉と竹居吃安の鰍沢での大喧嘩。
仲裁に長禅寺前の音兵衛が入ったという話が伝わる。
長禅寺前には甲府代官所があった。音兵衛は多分音五郎(乙五郎)のことだろう。
詳しい履歴・墓所はわかっていないが、一時期力をもっていた。小金井小次郎の兄弟分だという。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/27(金) 23:12:14.36 ID:zWUMqRHc0.net
駿州岩淵の源七親分は、別に「疵の源七」とも呼ばれた。片手は手首より先が無く、全身に
30数か所の深い傷跡があったという。次郎長が売りだした時分には既に老境に入っていて、随分性格も丸くなっていた
らしいが、それでも度胸と向こう気の強さでは街道一と言われた。

ある時、後の横綱鏡岩浪の助と、戯れから喧嘩になった。源七は5尺余りの小男だが、なんど打たれても
けっして諦めず浪の助に向かっていく。とうとう浪の助が折れて、「俺の負けだ」と笑い、兄弟分と呼び合う仲になった。
鏡岩が東海道を往来する時には、必ず源七を尋ね「日本一の度胸親分は御在宅か。」と声をかけた。

439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/27(金) 23:19:51.34 ID:zWUMqRHc0.net
源七の子分に坊主勝という者がいた。勝と源七とは幼いころからの知り合いで、
共に暴れ者で相性も悪い。
あるとき、どちらからというでは無しに、決闘で白黒つけようという話になった。
ところが折悪く、源七の宅に旅人が仁義に来た。家に一銭もなかった源七は、自分の脇差を質にいれ、
その金で旅人への草鞋銭を作り、そのまま坊主音との決闘に出かけた。

二人は今生の別れに、と宿場女郎を上げて主演を催し、世のふけるのを待って海岸におもむき、戦に臨んだ。

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/27(金) 23:28:23.51 ID:zWUMqRHc0.net
脇差をぬく坊主音に対し、源七は持参の手拭いに浜辺の石を詰め、「とっこ」を作って
これに対峙した。しかし「とっこ」を振り回しても刃物には対し得ない。
たちまち源七は数十カ所を斬られその場に倒れ伏した。

源七が死んだと思った音は真っ青になってその場を去ろうとしたが、瀕死の源七は音に声を掛け「留めは刺ささねえのか?」
と尋ねた。
これに音は仰天して「源さん、恐れ入った。俺はとてもその度胸にはかなわない」
と、その場で源七の弟分になることを望んだのだという。
以降二人は無敵の兄弟として周辺の賭場を押さえ、数十年街道では源七一家の名が響いたという。

441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/29(日) 21:08:38.27 ID:ZfauEpWR0.net
新門の頭・辰五郎に関しては詳しくないのであまり大層なことは書けないが、
かなり早い段階で名前が資料に現れるのは『藤岡屋日記』安政2年3月19日の条だ。
浅草奥山の興行で軽業師を見ようとの事から、若い坊主連中50人程と、近所の若者連中が喧嘩になった。
ここに割って仲裁に入る辰五郎の姿が活写されている。言い伝え通りの侠客ぶりである。
ちなみに「と組頭」新門の辰五郎とされる。記憶では「を組」だった気もするのだが…
この変よくわからん。

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/29(日) 21:31:56.56 ID:ZfauEpWR0.net
上記のように火消の頭としての一面をもちながら、辰五郎はまた「興行師」でもあった。
特に『浅草寺日記』には、興行元締めとしての彼の名前がよく記されている。
解説にもあるように、だいたい安政5年から彼は地元に大きな力を持ち始めるようだ。以降彼の名前の出る
記事は増え続けて行く。ちなみにこちらの日記では『藤岡屋』と違い喧嘩の仲裁者などの
姿が現れないことも面白い。

「生き人形興行」で大当たりをとったことが辰五郎にとっては大きかったらしく以降つづけて興行を打っていく。
この生き人形、まるで本当に生きているように見え、ある者は非常に妖しく美しい。

443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/29(日) 23:09:16.82 ID:ZfauEpWR0.net
岩淵の源七の事。途中から「坊主勝」を「坊主音」にしてしまいました。
これは「坊主勝」が正しいです。出典は村松喜代作の『次郎長巷談』(増田至誠堂、S28、非売品)。
すみません。

444 :408:2015/11/30(月) 17:18:15.00 ID:kO2ltOqH0.net
>>412
先日、八王子のほうに出かけたので
市立図書館に立ち寄り、ご紹介の論考を見つけてコピーしてきました。
教えてくださって、どうもありがとうございました。

お墓の所在に関して私が知った情報も
元を辿ればこの論考が出所だったのではないかと思います。

ちなみに玉川要蔵が関与した可能性を考えたのは
すぐ傍にA家のお墓が存在したからです。
しかし、単なる偶然というか、無関係のA家かもしれません。

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/30(月) 22:28:48.70 ID:kNxM9gzu0.net
>>444
色々な意味で本当に感謝いたします。私は貴方様のブログも毎回楽しく拝見させていただいております。
博識も尊敬しております。

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/30(月) 22:42:19.50 ID:kNxM9gzu0.net
『指田日記』に元治元年12月3日、谷保新田(東京都国立市)の喜太郎と弟が、
賊の強賊7人と対峙し、一人を突き殺した記事がある。この喜太郎、姓を川島と言い、現立川市の
観音寺に墓がある。墓石の文によれば、「近藤勇に剣を習った」とある。

『平兵衛新田むかし』(国立駅北口光商栄会、2008)にはその際使われた鑓も写真に収められている。
在地の剣術が実戦でものをいった好例と言えるだろう。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/30(月) 22:49:22.77 ID:kNxM9gzu0.net
この時、喜太郎が対決した賊は小川幸蔵の息のかかった博徒崩れであったらしく、
川島家は後々まで幸蔵に様々な嫌がらせを受けたらしいが、詳しい事はもうよくわからない。

東京の多摩地域は全体を統括するような研究機関、研究雑誌が無いので、歴史は泡沫のように消えて行く。
いわゆるプロの研究者・学芸員たちは自分の身や、学流を守ることに頭がいっぱいで、どうしようもない。

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/01(火) 23:14:11.10 ID:QW8KGzzc0.net
また酔っぱらって良い気になって書いたから…今になって大後悔だ。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさすわ。

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/01(火) 23:20:39.29 ID:QW8KGzzc0.net
岩淵の源七の跡目を継いだ者が、岩淵の庄右衛門。詳細はまったくわからない謎の人ながら、
源七跡目というからには相当な人物だ。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/01(火) 23:28:35.42 ID:QW8KGzzc0.net
庄右衛門に関して面白い話は、だいたい『安東文吉伝資料集』による。
彼は、武州の小川幸蔵と兄弟分であり、「幸蔵の弟・梅吉はよく庄右衛門のところへ世話になっていた」
という。幸蔵の弟は確かに「梅次郎(梅五郎とも)」と言うので、梅吉と同一と思われる。
よってこの話はかなり信憑性が高い。

梅吉と庄右衛門は、たまたまでくわした次郎長と勝蔵派の喧嘩を仲裁し、一時両勢力に顔を利かせるが、
預かった黒駒勝蔵一派によって、富士川で殺害されたとされる。この間の推移は複雑で記せない。
是非原典を読んでほしい。斬られた庄右衛門も、斬る勝蔵も立派な態度だった。

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/03(木) 18:14:29.14 ID:h3FbOjpJ0.net
房総の作家 天保水滸伝の原作者 正岡容(1)

ちばとぴ 2015年12月3日 12:10
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/291602

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/04(金) 21:43:01.04 ID:uLw+RSUQ0.net
武芸は実戦で使えてこそナンボ。
競技にするでもなく、また形稽古に終始するでもなく、修練者同士で技をかけ合い
磨く必要がある。先人が意図したものをくみ取りながら、かつ形を崩さぬまでも
あくまで武術の「猛々しさ」(実践性)を失ってはならない。
名和弓雄先生の著作・研究は立派だが、こと技術に関しては残念ながら二流。
よって十手術が世に残ることがなかった。それが残念。

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/05(土) 19:26:23.01 ID:1Bms5UkE0.net
また、何ともとんでもない間違いを書きこんでしまった。本当に申し訳ありません。

塩田剛三先生や山北竹任先生、上原清吉先生といった達人は例外中の例外。
文章もできて技術の指導も卒なくこなしていた名和先生は、当然第一級の武術家だ。

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/05(土) 22:31:35.39 ID:1Bms5UkE0.net
甲州勝沼の戦の直前、一足早く甲府に入った官軍の下に「玉井新助」という侠客の如き者が付いた
ということが谷干城の『東征私記』に記されている。(与三郎、政吉、正作という子分を連れてきたという。)
これは多分、「永井の新助」のことだろう。新助は無宿ではなく百姓身分であるが、黒駒勝蔵をかくまったり、
伊豆の金平と連絡をとったりしていたようだ。
最期は甲州上芦川で百姓連中に逆襲にあって殺され、遺体は「三之橋」のたもとに埋められたという。

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/06(日) 19:41:51.67 ID:aagy9Tf40.net
>>454
>>98に「永井村新助(上今井庄太郎子分)」とある人物のことですね。

土佐藩の断金隊名簿には、
5月10日に入隊した「小林忠次郎」について
甲州の「山崎村玉井新助弟」と説明があります。

また、板垣退助が、甲州進軍の際の協力者7名に対して
恩賞を与えるべきという意見書を10月に上層部へ提出したそうで
7名の中に「山崎村玉井新助」が与三郎、政吉、正作とともにあります。

「永井村」と「山崎村」との違いが気になるのですが、
同一人物とみなしてよい根拠がありましたらご教示いただければ幸いです。

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/06(日) 21:33:15.53 ID:7Ko6+xa60.net
はい、これは私の完全な「お手つき」、誤りですね。
玉井が名字だったとは!
「山崎村」は現在の春日居駅のとこですね。一方永井は御坂の方、ニ之宮の付近です。
両者は全く別人です。完全にやられました。
この件に関しては悔しいので(笑)、しばらく山崎村の新助についてあたってみたいです。

ご指摘誠にありがとうございました。最近良い気になってましたわ。

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/09(水) 22:46:01.25 ID:Ljrj8qaD0.net
>>408
とりあえず「日野千両」(正確には「日野の千両店」)の典拠を書きます。
(五十嵐文次「八王子縞市と柴崎村松村店の開設」『新立川市史研究第三集』立川市教育委員会昭和62年
p13.)残念ながら具体的な店の名前は出てきません。五十嵐氏は大正生まれの在野の碩学のようなので、
この人の著作を当ってみればいろいろとわかるかもしれません。

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/09(水) 23:06:38.65 ID:Ljrj8qaD0.net
侠客とは少しはずれますが、続けて地域資料の紹介を。
『国立の生活誌・古老の語る谷保の暮らし』(国立市教育委員会、1983)の96ページ

 日野の親戚に、扇屋というのがあって、土方歳三を捕らえに来た官軍が、白鉢巻、白襷で乗り込んできて
 押し入れなんかを刀でついた話をよく聞きました。その家は、歳三の親分か子分だったらしいですよ。

また、同所181ページでは親が歳三の友達だった方の、親から聞いた少年歳三の話などが、
聞き書き史料として収録されています。

あまり、役立つものではないかもしれませんが、ご参考までに。

459 :403:2015/12/10(木) 19:49:48.64 ID:7yftAUmU0.net
>>457-458
ご教示どうもありがとうございます。
機会を見て、ご紹介の資料をぜひ閲覧したいと思います。

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/11(金) 23:06:51.76 ID:9xAu0eza0.net
青梅の孫八親分は、通称「六万親分」と呼ばれる。姓は内野。
若いころは江戸相撲で鳴らし、内野川の四股名を持っていた。相撲廃業後は郷里に戻り、
村落の御用を仰せつかっていたらしいが、生活は荒み天保六年には帳外の仕置きを
受けている。同時に妻にも離縁された。

弘化年間に入ってから、運命も個人の性格も一転したらしく、除帳も解け、道案内として正式に雇われ
多くの小者を使って活躍した。

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/11(金) 23:13:47.54 ID:9xAu0eza0.net
嘉永3年、正式に青梅組合の道案内に雇われているが、おそらくそれ以前から任用されていたのだろう。
その交友関係は広く、小金井小次郎から慕われ、高萩万次郎、田中屋万五郎とは盟友であり、
江戸の新門とも親しく交際していた。加えて甲州の祐天からも信頼されており、
なべて武州侠客の「橋渡し」をするような立場だったようだ。

晩年は妻との二人暮らしの中で、養女を迎え三人でほそぼそと、しかし平和に暮らしたらしいことが、
宗旨人別帳からうかがえる。岡っ引は明治2年まで務め、明治10年に亡くなった。墓は妙光院

462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/13(日) 23:29:00.67 ID:uI1eKKCW0.net
いわゆる二代目・島田虎之助という剣客がいる。本名、島田孝造(孝三)。
虎之助の二代目を名乗ってはいるが、子母澤寛によれば実は高弟の一人だったという。
流派の縄張りをめぐって、日野の佐藤彦五郎と睨みあいになった、という話は有名だ。

入間の侠客・二本木の安太郎の墓石に盟友として名が刻まれているところからすれば、
そういう方面にも顔の利く人物で会ったことが推測される。

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/15(火) 01:56:10.11 ID:9NOwIcgc0.net
佐藤道場の側には
「この島田なる人物は、江戸市中の朦朧商人で、博徒仲間にも付き合いがあるとか」
と伝わっています。
島田に対する不快感からネガティブな表現が含まれているにしろ、
虚偽とも言い切れないようですね。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/15(火) 23:29:56.98 ID:hP+Sd4Jm0.net
二代目島田虎之助で面白い話を一つ。
尾佐竹猛が編集した明治新聞全集だかの中に記されていたことですが、
振武軍を飯能に案内した剣術家として「島田某」が出てきます。
官軍に夜討をかけようとした一帯が案内に選んだ島田某ですが、隊を完全に迷走に
迷いこませ、詰問されそうになると二人の門弟と共に隊長に手槍を投げて消え去った、とのこと。

これは当時の振武軍将兵からの直接の聞き書きだからかなり、信憑性があります。
島田自体、実際に振武軍にいたことは確かなので、意外と官軍の二重スパイであった可能性もあり、
ちょっと興味が湧く記事です。詳しい出典は、また思い出したら書きますわ。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/15(火) 23:48:33.76 ID:hP+Sd4Jm0.net
青梅宿は江戸時代の宿場の中でも「東西に細長い」宿として有名だったようだ。
その中に「芝居横町」という繁華街があり、島田の道場はそこにあったと言う。

青梅の清宝院に門弟と共に奉納した額があるが風化して、文字が極めて読みにくい。
常々記録を取っておきたいと思っているのだが、なかなか難しい。
また、どこかに墓もあるのだろうが、いまのところ見つけられない。

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 06:29:10.76 ID:0/82vomn0.net
島田孝三は尊皇思想に傾倒した、という説があるようですね。
それが事実なら、先鋭化しすぎて反幕府主義にハマったかもしれず
新政府方について振武軍を妨害した可能性は考えられるでしょう。

反幕府主義となった原因は、尊皇思想に加えて
天然理心流と新選組に対する反感もあったのかも…などと勘ぐりたくなります。

ちなみに「振武軍に黒駒勝蔵が資金提供した」と以前何かで見かけました。
しかし、よく知られるとおり勝蔵は新政府軍に属して働いていますから、
二股をかけるようなことを本当にしたのか疑問を感じます。
何か根拠のある話なのでしょうか。

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 22:31:12.89 ID:iJaWZs3M0.net
振武軍に勝蔵から資金が流れたというのが、確かにネット上の情報にはありますね。
ただ、慶応4年四月に勝蔵が、黒駒の武藤外記と京都で会ってるという確実な資料があり、
更に前後半年ほどは関東にいなかったので、この説は誤りと見て良いと思います。

また「多摩地域に縄張りが在った」などと書かれたものがありますが、多摩地域には
次郎長の縄張り(東久留米)はあっても、黒駒組のものはないです。むしろこの地域は祐天が岡っ引ネットワークで
押さえていたので、勝蔵が逃走する余地はないと、私は思うのですが。

ちなみに、この地域で唯一黒駒組を匿ったのは「橋本」の平野屋とその周辺だけでしょう。これは『佐藤彦五郎日記』に
あります。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 22:37:27.24 ID:iJaWZs3M0.net
ちなみに「黒駒組」という言葉は、当時の史料に出てくる言葉です。
何の根拠も無く江戸時代の博徒集団は皆「〜一家」と呼ぶのだ、などと言う人もいますが、
「〜組」はかなり古くからある呼び名です。

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 22:45:08.58 ID:iJaWZs3M0.net
山県小太郎という人を御存じでしょうか?(知ってたら教えてください。)
私はあまり詳しくないのですが、この人が黒駒の武藤外記の下に逗留していたことは、
当時の隣村の御用日記などに書かれています。外記という人は原市之進の暗殺などにも
関わっており、だいぶスケールの大きい人間のようです。

もし、仮に振武軍に資金提供できた者がいるとすれば、彼なんでしょうが…
そもそも外記自体尊王派なんで…これもありえませんね。

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 23:31:27.37 ID:0/82vomn0.net
こちらも生憎と詳しくは知りませんが、彼のことでしょうか↓

山県小太郎 やまがた-こたろう

1836−1895 幕末-明治時代の武士,官吏。
天保7年4月生まれ。豊後(大分県)岡藩士。
脱藩して尊攘運動にくわわる。戊辰戦争では会津若松城攻めで功があった。
維新後は兵部省,海軍省につとめた。
明治28年2月1日死去。60歳。本姓は河野。名は通政。通称ははじめ勝太郎。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%B0%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E-1117096

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/18(金) 02:03:58.12 ID:hIUaR8x/0.net
これはただの妄想だけど

渋沢成一郎「もう天野八郎とはいっしょにやっとられんわ」

誰かの耳に入る

誰か「それなら分離独立すればいいよ」「活動資金はうちが出してあげるよ」

渋沢成一郎「ホント!?なら新しく振武軍を作って出ていこっと」

誰か(彰義隊の力を削いでやったぞしめしめ)

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 00:34:37.96 ID:oa9ISuz40.net
山県小太郎有難うございます。また、もっと情報があったら教えてください。
勝蔵の尊王思想にに関しては土佐の那須信吾が関わっていたとかいうことが、よく議論されますが、
山県であっても十分良いように思えます。

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 00:40:26.73 ID:oa9ISuz40.net
>>471
これは中々面白い図式ですね。要するに振武軍に資金提供したのは
官軍派でも、幕府側でも辻褄が合うことになります。

もっとも資金に関しては江戸の新門親方が、旧幕府側の振武軍に流したあたりが
一番ありそう。


もし博徒筋から流れたのが確かなら、黒須大五郎か、観音菊か
あるいは二本木安太郎。小橋長吉といったところが妥当の様に思う。

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:33:45.81 ID:oa9ISuz40.net
改革組合村について。今日初めて知った。
なんと、内藤新宿はあれほどの盛り場でありながら寄場ではない。
また「新宿組合」というものは存在せず、ここは「中野村組合」に含まれるのだ。
したがって寄場は中野村。

これは常識なのかもしれないが、無知な私は今まで知らなかった…

475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:40:53.78 ID:oa9ISuz40.net
埼玉県川島町・三保谷の字小橋の長次郎・長吉親子は
本当に史料が無い。唯一は植田先生の調査記録だけ。よって、何をしたのかもよくわからぬ。
ただし荒川の河畔に位置するので舟運業と関連しているとは思う。

川島市史に、長蔵という博奕打ちの史料があるので、あるいは彼が長吉か。

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:50:58.97 ID:oa9ISuz40.net
天保14年に「相州曲り松事件」というのがあった。
この事件に連座して、武州府中宿と、八王子横山・八日市宿の旅籠屋らが大量に召捕られた。
八王子の道案内頭であった玉川屋源左衛門や、府中藤屋の次男万吉(藤屋万吉)も、
これで捕まる。

事件の詳しいいきさつは不明。史料にも唐突に「相州曲り松一件により云々」としか書かれない。
例によって研究している人もいない。
おそらくは大山講にことよせて曲り松(現・秦野市渋沢)稲荷の境内で博奕をやったのだろうが、
どれほどの規模で、どのような遊びをしたのかは定かでない。一説には草競馬。

477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:57:50.63 ID:oa9ISuz40.net
毎回酔って良い気になって書いてるので467で「また、もっと情報があったら教えてください。」
などと自分が書いてるのを見て死にたくなる。厚かましいにも程がある。申し訳ありません。

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/20(日) 00:39:51.52 ID:KIsaQNif0.net
山県小太郎の件、
こちらでわかるのは会津若松城の開城に立ち会ったことくらいです。

9月22日、追手先にて降伏式が行われる。
攻撃軍の代表が、軍監・中村半次郎、軍曹・山県小太郎、使番・唯九十九。
松平肥後守ら会津藩側が差し出した降伏嘆願書を受け取る。

また同日、肥後守と世子喜徳が城を出て妙国寺(謹慎所)へ移ることに。
それぞれ駕籠に乗った両人に近習たち数十人が徒歩で従い、
薩州1小隊と土州1小隊が前後に立ち、騎馬で先導したのが山県小太郎とか。

お役に立てなくてすみません。

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:02:30.47 ID:vNeC+fsD0.net
安居山村の佐右衛門

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:24:45.51 ID:vNeC+fsD0.net
沼津の和助

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:26:04.45 ID:vNeC+fsD0.net
由比(蒲原とも)平野屋三平

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:28:36.69 ID:vNeC+fsD0.net
今泉の藤三郎

483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 10:13:16.28 ID:vNeC+fsD0.net
甲州猿橋には、目明しに追われた「国定忠治」が橋の上から川へ飛び込んだとの話が今に伝わっているが、これは嘘。
本当は忠治ではなく「鳥沢の粂」という者が飛び込んだ。
粂は目明しの目をくらますために、川の流れとは逆に泳ぎ夜になって崖をよじ登り、その場から逃走した。
後に信州松本に居住し、そこで亡くなる。猿橋での逃走は天保11年ごろの話。

もっとも今では国定忠治の逸話は広く信じられ「忠治そば」なる名物もあるので、あまり大きな声では言えない話。

484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 10:15:07.21 ID:vNeC+fsD0.net
中里介山の『大菩薩峠』には「鳥沢ノ粂」という実名(?)で、彼が登場する。
昔は甲州郡内地方一有名な親分だったのだ。

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 10:21:44.93 ID:vNeC+fsD0.net
与太話を続けると、この猿橋から飛び込む逸話はかなりバリエーションがあって面白い。
一説には祐天仙之助が文久年間、甲州を離れる際に同じシチュエーションで猿橋から飛び込んだ、とする。
また、一説には慶応4年、これは大場久八が飛び込んだのだ、とも言われている。

いずれも「川の流れとは逆に泳ぎ、追手の裏をかいた」という点は一致している。
しかし粂の逸話は嘉永2年の史料にあるので、やはりこれが実話だろう。

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/24(木) 21:59:39.29 ID:aS8ZdkB20.net
『東海遊侠伝』には記されていないが、『安東文吉伝史料』や戸羽山瀚の『次郎長伝』
によれば次郎長 対 勝蔵の戦いで次郎長側が大負けした喧嘩がある。
これは富士川を挟んで次郎長一党と勝蔵一党がぶつかった戦いで、勝蔵側には
宮島年蔵、本市場金七がついたという。
破れた次郎長は大政と共に、命からがら蓼原の何とかいう寺に隠れ、一命をとりとめたとのこと。

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 03:50:07.14 ID:9InH2f9h0.net
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 16:16:33.06 ID:fG8CFoKW0.net
>>467
祐天が死んだ後そのネットワークはどうなったんですか?
たぶん誰かが後を継いだんだろうけど
もし良かったら教えてください

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 23:11:04.65 ID:lPbTe9ND0.net
また私の書き方が悪かったようです。すみません。
祐天が「頭」になって武州・甲州の岡っ引ネットワークを牛耳ったというわけではなく、
武州のネットワークを利用したというニュアンスです。武州岡っ引枠は、例の田中屋が中心です。
で、甲州のそれは元々は祐天親分の三井宇七(=卯吉)のものなので、祐天亡き後は宇七の孫・三井健次郎が自然と継いだ
と思われます。それと祐天兄弟分の国分三蔵。

この辺はさすがに確証がないんで「およそ」ですが、甲州東郡筋は三蔵、甲府周辺は健次郎だと思います。
で、もう一人甲州西郡筋は上手村の善兵衛です。

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 23:25:06.54 ID:lPbTe9ND0.net
それと、なんと言っても甲州は善九郎親方に率いられた被差別身分の手先がいまして、
この方たちのネットワークが強力だったようです。(鈴木家文書[後述]に詳しいです。)
正直捕り物の際に、一番危険な役割を引き受けるのはこの方々で
甲州の治安はこの人たちの苦労によって守られていたとしても過言ではないです。
甲府勤番士→同心→目明し→善九郎手先 の順です。

武州や駿州も多分同じなんだろうけど、この辺りはなかなか踏み込めない分野です。
『武蔵国横見郡和名村鈴木家文書』は、そういう意味で貴重な史料です。

491 ::2015/12/26(土) 23:29:08.56 ID:fG8CFoKW0.net
なるほどわかりました
ありがとうございます

祐天が急死して縄張りとかよそとの連携とかどうなったんだろと思ってました
当たり前かもしれないけどちゃんと引き継いだ人物がいたんですね

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 23:48:09.59 ID:lPbTe9ND0.net
明治以降の武州侠客の有名処に新橋長蔵親分が居る。姓谷合。
この人は本当に「侠客」だったようで、いまでも地元では評判がすこぶる良い。
地元というのは武蔵野市(旧・境新田村)。
長蔵親分は生涯に何人か人も斬ってはいるのだが、明治には近くの大学生と因業ばばあの近所喧嘩に
わざわざ乗り出してきて仲裁をしたりもしている。小金井の花見客のための菓子屋も開いて頼りにされていた。

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/29(火) 19:50:25.84 ID:HRn3zkGR0.net
 大前田栄五郎が江戸屋虎五郎に語った博奕打ちの心構えというのがある。

 「これから良い博奕打ちになろうと思うなら、第一身の行いを能くしろよ。
 向こうから旦那方(堅気の衆)が来たら、頭を此方から下げるようにして、堅気の方に可愛がられねえと出精(出世)は出来ねえ。
 
 女房を早く持つな。女房を持てば子ができる。子ができれば、斬ったり張ったりする時に自ずから切っ先が鈍り、
 良い働きは出来ねえ。その為に一片こっきりの女郎屋がある。遊びに行けば、それで気は晴れて仕舞うもんだから、
 そのことを忘れるな。

 割の良い喧嘩はしても良いが、割の悪い喧嘩は我慢しろ。それから、下の者には目をかけてやり、
 上の者とは五分に付き合うようにしろ。それができないと良い男にはなれねえ。」

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/02(土) 19:03:25.83 ID:/iMQG/Ak0.net
あけおめことよろです。

「仁侠」とか「侠客」とか
特定の階層や職掌のように使われているけれども、
実は生き方を意味する言葉なのでしょう。

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 12:29:07.72 ID:eyWFwo+s0.net
あけましておめでとうございます。
昨年は気持ちも安定しておらず、とんでもないことをしばしば書きこんでしまった。
今年はそのようなことがないように禁酒を誓います。

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 12:37:10.02 ID:eyWFwo+s0.net
ちなみに「酒」について。
次郎長親分が生涯酒を飲まなかったという逸話は有名だが、これは
天保13年3月、巴川沿いで酩酊のところ不意を襲われ不覚をとったことによると言う。
以降禁酒の誓いを立てて、生涯破らなかった。

一方、講談だと酒に酔って次郎長一行、森の石松にからむ役周りの吃安親分は(これ自体途方もない造り話だが)
事実は下戸で酒は一滴も飲めなかったとのこと。

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 13:42:30.33 ID:eyWFwo+s0.net
年末から甲州の話ばかりで恐縮だが…
今日1月4日は、甲府の大親分三井宇七(卯吉)が討たれた日に当たる。(安政四年)
下手人は市川大門の松坂屋喜之助の弟・亀吉以下十一名。
卯吉は「この人が出れば、どんな諍いでもすぐに解決する」と言われるほどの貫録で、甲府の裏世界を牛耳っていた存在だったようだ。

卯吉の死は秘密裏であったが、当時の甲府ではすぐその月の中に瓦版が出され、また「七草の甲斐(粥)にはずれた隠居さん」との歌が流行。
卯吉が七日より前に殺されたとの情報が町に出回った。

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 18:57:53.47 ID:3QHnavwo0.net
小金井小次郎には「寅之助」という兄がいる。通称は「寅吉」。
二歳年長だが、我慢強さも気風も弟に及ばなかったと『慶応水滸伝』にあるが、
どうやら実際の寅之助がその通りの人物だったことが、最近見つかった小次郎直筆の手紙の中に
アリアリと書かれている。強くもないのに博奕場通いがやめられない、浪費癖のあるこの愚兄のことに遠島直前の小次郎が
なによりも頭を悩ませていたことが見てとれて、思わず笑ってしまいそうになる。

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:04:57.46 ID:3QHnavwo0.net
興味深いことは、小次郎は裏から手を廻したおかげで「三宅島」を遠島先として
選ぶことができた、と書いている点である。三宅島は、あるいは八丈島や新島に比べて生活が豊かだったのかもしれない。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:10:58.45 ID:3QHnavwo0.net
三宅島からの小次郎の手紙は各所に散逸していて、なかなか集めるのが難しい。
といっても大方は皆木先生の『小金井小次郎伝』に載っているからそれを見ればいい。

本物は未見だが、この中に高萩ノ万次郎が、遠島中の小次郎の所に金を送ってくれたらしく、
小次郎がその事に随分恐縮している内容の文章がある。ほとんどの場所で小次郎が他の人間を
「親分」と呼ぶことはないのだが、万次郎にだけは「高萩親分」との呼び名を使っている。
万次郎の格が伺えるというものである。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:27:29.83 ID:3QHnavwo0.net
駿州沼津の和助(菊池和助)は大場久八の兄弟分で、「街道侠客中の傑出したる人」
と戸羽山瀚氏が称賛する程の人。表の顔は鮨屋だったという。
和助には初代と二代目がおり、初代は安政5年没。二代目は本名を再助と言い、初代の弟とのことである。
博奕の罪で八丈へおくられ12年過ごした。

和助不在の日々は妻・たか女が一家と鮨屋(松よし)の若者とを仕切った。

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