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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/15(火) 23:29:56.98 ID:hP+Sd4Jm0.net
二代目島田虎之助で面白い話を一つ。
尾佐竹猛が編集した明治新聞全集だかの中に記されていたことですが、
振武軍を飯能に案内した剣術家として「島田某」が出てきます。
官軍に夜討をかけようとした一帯が案内に選んだ島田某ですが、隊を完全に迷走に
迷いこませ、詰問されそうになると二人の門弟と共に隊長に手槍を投げて消え去った、とのこと。

これは当時の振武軍将兵からの直接の聞き書きだからかなり、信憑性があります。
島田自体、実際に振武軍にいたことは確かなので、意外と官軍の二重スパイであった可能性もあり、
ちょっと興味が湧く記事です。詳しい出典は、また思い出したら書きますわ。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/15(火) 23:48:33.76 ID:hP+Sd4Jm0.net
青梅宿は江戸時代の宿場の中でも「東西に細長い」宿として有名だったようだ。
その中に「芝居横町」という繁華街があり、島田の道場はそこにあったと言う。

青梅の清宝院に門弟と共に奉納した額があるが風化して、文字が極めて読みにくい。
常々記録を取っておきたいと思っているのだが、なかなか難しい。
また、どこかに墓もあるのだろうが、いまのところ見つけられない。

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 06:29:10.76 ID:0/82vomn0.net
島田孝三は尊皇思想に傾倒した、という説があるようですね。
それが事実なら、先鋭化しすぎて反幕府主義にハマったかもしれず
新政府方について振武軍を妨害した可能性は考えられるでしょう。

反幕府主義となった原因は、尊皇思想に加えて
天然理心流と新選組に対する反感もあったのかも…などと勘ぐりたくなります。

ちなみに「振武軍に黒駒勝蔵が資金提供した」と以前何かで見かけました。
しかし、よく知られるとおり勝蔵は新政府軍に属して働いていますから、
二股をかけるようなことを本当にしたのか疑問を感じます。
何か根拠のある話なのでしょうか。

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 22:31:12.89 ID:iJaWZs3M0.net
振武軍に勝蔵から資金が流れたというのが、確かにネット上の情報にはありますね。
ただ、慶応4年四月に勝蔵が、黒駒の武藤外記と京都で会ってるという確実な資料があり、
更に前後半年ほどは関東にいなかったので、この説は誤りと見て良いと思います。

また「多摩地域に縄張りが在った」などと書かれたものがありますが、多摩地域には
次郎長の縄張り(東久留米)はあっても、黒駒組のものはないです。むしろこの地域は祐天が岡っ引ネットワークで
押さえていたので、勝蔵が逃走する余地はないと、私は思うのですが。

ちなみに、この地域で唯一黒駒組を匿ったのは「橋本」の平野屋とその周辺だけでしょう。これは『佐藤彦五郎日記』に
あります。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 22:37:27.24 ID:iJaWZs3M0.net
ちなみに「黒駒組」という言葉は、当時の史料に出てくる言葉です。
何の根拠も無く江戸時代の博徒集団は皆「〜一家」と呼ぶのだ、などと言う人もいますが、
「〜組」はかなり古くからある呼び名です。

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 22:45:08.58 ID:iJaWZs3M0.net
山県小太郎という人を御存じでしょうか?(知ってたら教えてください。)
私はあまり詳しくないのですが、この人が黒駒の武藤外記の下に逗留していたことは、
当時の隣村の御用日記などに書かれています。外記という人は原市之進の暗殺などにも
関わっており、だいぶスケールの大きい人間のようです。

もし、仮に振武軍に資金提供できた者がいるとすれば、彼なんでしょうが…
そもそも外記自体尊王派なんで…これもありえませんね。

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/17(木) 23:31:27.37 ID:0/82vomn0.net
こちらも生憎と詳しくは知りませんが、彼のことでしょうか↓

山県小太郎 やまがた-こたろう

1836−1895 幕末-明治時代の武士,官吏。
天保7年4月生まれ。豊後(大分県)岡藩士。
脱藩して尊攘運動にくわわる。戊辰戦争では会津若松城攻めで功があった。
維新後は兵部省,海軍省につとめた。
明治28年2月1日死去。60歳。本姓は河野。名は通政。通称ははじめ勝太郎。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%B0%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E-1117096

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/18(金) 02:03:58.12 ID:hIUaR8x/0.net
これはただの妄想だけど

渋沢成一郎「もう天野八郎とはいっしょにやっとられんわ」

誰かの耳に入る

誰か「それなら分離独立すればいいよ」「活動資金はうちが出してあげるよ」

渋沢成一郎「ホント!?なら新しく振武軍を作って出ていこっと」

誰か(彰義隊の力を削いでやったぞしめしめ)

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 00:34:37.96 ID:oa9ISuz40.net
山県小太郎有難うございます。また、もっと情報があったら教えてください。
勝蔵の尊王思想にに関しては土佐の那須信吾が関わっていたとかいうことが、よく議論されますが、
山県であっても十分良いように思えます。

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 00:40:26.73 ID:oa9ISuz40.net
>>471
これは中々面白い図式ですね。要するに振武軍に資金提供したのは
官軍派でも、幕府側でも辻褄が合うことになります。

もっとも資金に関しては江戸の新門親方が、旧幕府側の振武軍に流したあたりが
一番ありそう。


もし博徒筋から流れたのが確かなら、黒須大五郎か、観音菊か
あるいは二本木安太郎。小橋長吉といったところが妥当の様に思う。

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:33:45.81 ID:oa9ISuz40.net
改革組合村について。今日初めて知った。
なんと、内藤新宿はあれほどの盛り場でありながら寄場ではない。
また「新宿組合」というものは存在せず、ここは「中野村組合」に含まれるのだ。
したがって寄場は中野村。

これは常識なのかもしれないが、無知な私は今まで知らなかった…

475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:40:53.78 ID:oa9ISuz40.net
埼玉県川島町・三保谷の字小橋の長次郎・長吉親子は
本当に史料が無い。唯一は植田先生の調査記録だけ。よって、何をしたのかもよくわからぬ。
ただし荒川の河畔に位置するので舟運業と関連しているとは思う。

川島市史に、長蔵という博奕打ちの史料があるので、あるいは彼が長吉か。

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:50:58.97 ID:oa9ISuz40.net
天保14年に「相州曲り松事件」というのがあった。
この事件に連座して、武州府中宿と、八王子横山・八日市宿の旅籠屋らが大量に召捕られた。
八王子の道案内頭であった玉川屋源左衛門や、府中藤屋の次男万吉(藤屋万吉)も、
これで捕まる。

事件の詳しいいきさつは不明。史料にも唐突に「相州曲り松一件により云々」としか書かれない。
例によって研究している人もいない。
おそらくは大山講にことよせて曲り松(現・秦野市渋沢)稲荷の境内で博奕をやったのだろうが、
どれほどの規模で、どのような遊びをしたのかは定かでない。一説には草競馬。

477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/19(土) 21:57:50.63 ID:oa9ISuz40.net
毎回酔って良い気になって書いてるので467で「また、もっと情報があったら教えてください。」
などと自分が書いてるのを見て死にたくなる。厚かましいにも程がある。申し訳ありません。

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/20(日) 00:39:51.52 ID:KIsaQNif0.net
山県小太郎の件、
こちらでわかるのは会津若松城の開城に立ち会ったことくらいです。

9月22日、追手先にて降伏式が行われる。
攻撃軍の代表が、軍監・中村半次郎、軍曹・山県小太郎、使番・唯九十九。
松平肥後守ら会津藩側が差し出した降伏嘆願書を受け取る。

また同日、肥後守と世子喜徳が城を出て妙国寺(謹慎所)へ移ることに。
それぞれ駕籠に乗った両人に近習たち数十人が徒歩で従い、
薩州1小隊と土州1小隊が前後に立ち、騎馬で先導したのが山県小太郎とか。

お役に立てなくてすみません。

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:02:30.47 ID:vNeC+fsD0.net
安居山村の佐右衛門

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:24:45.51 ID:vNeC+fsD0.net
沼津の和助

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:26:04.45 ID:vNeC+fsD0.net
由比(蒲原とも)平野屋三平

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 01:28:36.69 ID:vNeC+fsD0.net
今泉の藤三郎

483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 10:13:16.28 ID:vNeC+fsD0.net
甲州猿橋には、目明しに追われた「国定忠治」が橋の上から川へ飛び込んだとの話が今に伝わっているが、これは嘘。
本当は忠治ではなく「鳥沢の粂」という者が飛び込んだ。
粂は目明しの目をくらますために、川の流れとは逆に泳ぎ夜になって崖をよじ登り、その場から逃走した。
後に信州松本に居住し、そこで亡くなる。猿橋での逃走は天保11年ごろの話。

もっとも今では国定忠治の逸話は広く信じられ「忠治そば」なる名物もあるので、あまり大きな声では言えない話。

484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 10:15:07.21 ID:vNeC+fsD0.net
中里介山の『大菩薩峠』には「鳥沢ノ粂」という実名(?)で、彼が登場する。
昔は甲州郡内地方一有名な親分だったのだ。

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/23(水) 10:21:44.93 ID:vNeC+fsD0.net
与太話を続けると、この猿橋から飛び込む逸話はかなりバリエーションがあって面白い。
一説には祐天仙之助が文久年間、甲州を離れる際に同じシチュエーションで猿橋から飛び込んだ、とする。
また、一説には慶応4年、これは大場久八が飛び込んだのだ、とも言われている。

いずれも「川の流れとは逆に泳ぎ、追手の裏をかいた」という点は一致している。
しかし粂の逸話は嘉永2年の史料にあるので、やはりこれが実話だろう。

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/24(木) 21:59:39.29 ID:aS8ZdkB20.net
『東海遊侠伝』には記されていないが、『安東文吉伝史料』や戸羽山瀚の『次郎長伝』
によれば次郎長 対 勝蔵の戦いで次郎長側が大負けした喧嘩がある。
これは富士川を挟んで次郎長一党と勝蔵一党がぶつかった戦いで、勝蔵側には
宮島年蔵、本市場金七がついたという。
破れた次郎長は大政と共に、命からがら蓼原の何とかいう寺に隠れ、一命をとりとめたとのこと。

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 03:50:07.14 ID:9InH2f9h0.net
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 16:16:33.06 ID:fG8CFoKW0.net
>>467
祐天が死んだ後そのネットワークはどうなったんですか?
たぶん誰かが後を継いだんだろうけど
もし良かったら教えてください

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 23:11:04.65 ID:lPbTe9ND0.net
また私の書き方が悪かったようです。すみません。
祐天が「頭」になって武州・甲州の岡っ引ネットワークを牛耳ったというわけではなく、
武州のネットワークを利用したというニュアンスです。武州岡っ引枠は、例の田中屋が中心です。
で、甲州のそれは元々は祐天親分の三井宇七(=卯吉)のものなので、祐天亡き後は宇七の孫・三井健次郎が自然と継いだ
と思われます。それと祐天兄弟分の国分三蔵。

この辺はさすがに確証がないんで「およそ」ですが、甲州東郡筋は三蔵、甲府周辺は健次郎だと思います。
で、もう一人甲州西郡筋は上手村の善兵衛です。

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 23:25:06.54 ID:lPbTe9ND0.net
それと、なんと言っても甲州は善九郎親方に率いられた被差別身分の手先がいまして、
この方たちのネットワークが強力だったようです。(鈴木家文書[後述]に詳しいです。)
正直捕り物の際に、一番危険な役割を引き受けるのはこの方々で
甲州の治安はこの人たちの苦労によって守られていたとしても過言ではないです。
甲府勤番士→同心→目明し→善九郎手先 の順です。

武州や駿州も多分同じなんだろうけど、この辺りはなかなか踏み込めない分野です。
『武蔵国横見郡和名村鈴木家文書』は、そういう意味で貴重な史料です。

491 ::2015/12/26(土) 23:29:08.56 ID:fG8CFoKW0.net
なるほどわかりました
ありがとうございます

祐天が急死して縄張りとかよそとの連携とかどうなったんだろと思ってました
当たり前かもしれないけどちゃんと引き継いだ人物がいたんですね

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 23:48:09.59 ID:lPbTe9ND0.net
明治以降の武州侠客の有名処に新橋長蔵親分が居る。姓谷合。
この人は本当に「侠客」だったようで、いまでも地元では評判がすこぶる良い。
地元というのは武蔵野市(旧・境新田村)。
長蔵親分は生涯に何人か人も斬ってはいるのだが、明治には近くの大学生と因業ばばあの近所喧嘩に
わざわざ乗り出してきて仲裁をしたりもしている。小金井の花見客のための菓子屋も開いて頼りにされていた。

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/29(火) 19:50:25.84 ID:HRn3zkGR0.net
 大前田栄五郎が江戸屋虎五郎に語った博奕打ちの心構えというのがある。

 「これから良い博奕打ちになろうと思うなら、第一身の行いを能くしろよ。
 向こうから旦那方(堅気の衆)が来たら、頭を此方から下げるようにして、堅気の方に可愛がられねえと出精(出世)は出来ねえ。
 
 女房を早く持つな。女房を持てば子ができる。子ができれば、斬ったり張ったりする時に自ずから切っ先が鈍り、
 良い働きは出来ねえ。その為に一片こっきりの女郎屋がある。遊びに行けば、それで気は晴れて仕舞うもんだから、
 そのことを忘れるな。

 割の良い喧嘩はしても良いが、割の悪い喧嘩は我慢しろ。それから、下の者には目をかけてやり、
 上の者とは五分に付き合うようにしろ。それができないと良い男にはなれねえ。」

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/02(土) 19:03:25.83 ID:/iMQG/Ak0.net
あけおめことよろです。

「仁侠」とか「侠客」とか
特定の階層や職掌のように使われているけれども、
実は生き方を意味する言葉なのでしょう。

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 12:29:07.72 ID:eyWFwo+s0.net
あけましておめでとうございます。
昨年は気持ちも安定しておらず、とんでもないことをしばしば書きこんでしまった。
今年はそのようなことがないように禁酒を誓います。

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 12:37:10.02 ID:eyWFwo+s0.net
ちなみに「酒」について。
次郎長親分が生涯酒を飲まなかったという逸話は有名だが、これは
天保13年3月、巴川沿いで酩酊のところ不意を襲われ不覚をとったことによると言う。
以降禁酒の誓いを立てて、生涯破らなかった。

一方、講談だと酒に酔って次郎長一行、森の石松にからむ役周りの吃安親分は(これ自体途方もない造り話だが)
事実は下戸で酒は一滴も飲めなかったとのこと。

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 13:42:30.33 ID:eyWFwo+s0.net
年末から甲州の話ばかりで恐縮だが…
今日1月4日は、甲府の大親分三井宇七(卯吉)が討たれた日に当たる。(安政四年)
下手人は市川大門の松坂屋喜之助の弟・亀吉以下十一名。
卯吉は「この人が出れば、どんな諍いでもすぐに解決する」と言われるほどの貫録で、甲府の裏世界を牛耳っていた存在だったようだ。

卯吉の死は秘密裏であったが、当時の甲府ではすぐその月の中に瓦版が出され、また「七草の甲斐(粥)にはずれた隠居さん」との歌が流行。
卯吉が七日より前に殺されたとの情報が町に出回った。

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 18:57:53.47 ID:3QHnavwo0.net
小金井小次郎には「寅之助」という兄がいる。通称は「寅吉」。
二歳年長だが、我慢強さも気風も弟に及ばなかったと『慶応水滸伝』にあるが、
どうやら実際の寅之助がその通りの人物だったことが、最近見つかった小次郎直筆の手紙の中に
アリアリと書かれている。強くもないのに博奕場通いがやめられない、浪費癖のあるこの愚兄のことに遠島直前の小次郎が
なによりも頭を悩ませていたことが見てとれて、思わず笑ってしまいそうになる。

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:04:57.46 ID:3QHnavwo0.net
興味深いことは、小次郎は裏から手を廻したおかげで「三宅島」を遠島先として
選ぶことができた、と書いている点である。三宅島は、あるいは八丈島や新島に比べて生活が豊かだったのかもしれない。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:10:58.45 ID:3QHnavwo0.net
三宅島からの小次郎の手紙は各所に散逸していて、なかなか集めるのが難しい。
といっても大方は皆木先生の『小金井小次郎伝』に載っているからそれを見ればいい。

本物は未見だが、この中に高萩ノ万次郎が、遠島中の小次郎の所に金を送ってくれたらしく、
小次郎がその事に随分恐縮している内容の文章がある。ほとんどの場所で小次郎が他の人間を
「親分」と呼ぶことはないのだが、万次郎にだけは「高萩親分」との呼び名を使っている。
万次郎の格が伺えるというものである。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:27:29.83 ID:3QHnavwo0.net
駿州沼津の和助(菊池和助)は大場久八の兄弟分で、「街道侠客中の傑出したる人」
と戸羽山瀚氏が称賛する程の人。表の顔は鮨屋だったという。
和助には初代と二代目がおり、初代は安政5年没。二代目は本名を再助と言い、初代の弟とのことである。
博奕の罪で八丈へおくられ12年過ごした。

和助不在の日々は妻・たか女が一家と鮨屋(松よし)の若者とを仕切った。

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/13(水) 00:07:46.41 ID:5SklYERo0.net
「山岡鉄舟研究会」というのがある。
鉄舟を英傑と讃えるのは勝手だが、その根拠の一つに
次郎長を「改心」させたなどと書くのは「何様のつもりだ」と思わざるをえない。
歴史上の人物には優劣などつかない。誰かを称揚するために、関わった人物をダシに使うなど
言語道断のことだろう。

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/13(水) 00:20:16.41 ID:5SklYERo0.net
中世の職掌がまだ未分化な時期にあっては「博奕打ち」もまた、人力ではどうにもならない「運」という
神の領域をつかさどる職として確立されていたのだ。博奕打ちは真摯に賽ころに打ちこむ芸民であった。

近世の博奕打ちも、その流れにある。だからこそ、彼らには仁義があり、旅人としての礼法がある。
単純に「社会悪」として「改心」させるべき者として見なす向きは、近代人の奢りというものだろう。

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/13(水) 17:39:09.91 ID:CshXffIJ0.net
研究本に「改心」て言葉が使われてるけど
意味を読み取らないで
「悪の道から救済してやった」的な解釈だけしてるんですかね

だとしたらそれは研究じゃなくて
贔屓とか愛好でしょw

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/14(木) 19:30:41.94 ID:XxafQQhA0.net
>>490
山梨県内のどこかの町史もしくは市史で
陣屋に長吏が詰めて警備や容疑者逮捕にあたっていた、
という記述を読んだ覚えがあります。
その長吏を支配したのも善九郎親方なのでしょうね。参考になりました。

ところで、関八州で番役などにあたる長吏は
村役人と弾左衛門との二重支配を受けた、と聞いています。
また、時代が下ると弾左衛門の支配は甲斐や駿河にも及んだ、と言われます。

善九郎親方は、弾左衛門と何らかの関わりがあったものでしょうか。
ひょっとして甲府勤番と弾左衛門との二重支配を受けていた?と想像しました。

長吏の話はスレ違いかもしれませんし、デリケートな問題ではありますが、
ご見解を伺えれば幸いです。

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/15(金) 00:05:46.11 ID:YJnrnBfd0.net
おそらくお読みになられたのは『市川大門町所蔵村治関係文書』か、それに類するものではないでしょうか。
駿州方面の要として、ここに市川代官所がありまして、非差別身分の方々が確かに、牢番・目明しを
務めていた、とあります。
さて、善九郎親方は甲府市伊勢の遠光寺付近に住んでいたと三田村鴛魚が書いています。(現在では誰も教えてくれません)
善九郎の一族が武田氏の時代からいたらしいことは聞きますが、有名な団左衛門の系譜に属するのか?
と言われれば、恥ずかしながらわからんのです。

ただ、上でも記した三井宇七が、一名前「猿屋勘助」と名乗り「猿引き」というやはり被差別身分の人々を甲府牢番下役として
使っていたことは、どうやら事実のようで、これはほぼ確実に団左衛門や善九郎とも独立して職務を行っていたと言えそうです。
そうであるなら、三井宇七という人は有宿・無宿の間のみならず、非差別・常民の境界線をも自由に行き来していた人物ということになり、
非常に特異な存在であったことが伺えます。
彼はまた浅草の香具師の間で「甲斐の両国屋卯吉」の名でテキヤの祖とされており、正直ますます訳がわからないのですわ。

全然解答になってませんね。すみませんです。

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/15(金) 00:38:06.04 ID:YJnrnBfd0.net
善九郎に関しては半々ってとこですかね。やっぱり後年は団左衛門に属したんでしょう。
(何の根拠もありませんが…)

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/15(金) 18:34:52.13 ID:UVLs7Occ0.net
>>506-507
ややこしい質問にもかかわらず、興味深いご回答をありがとうございます。
三井宇七とは、>>489>>497で既出の人物ですね。

博徒・侠客、香具師・テキ屋、大道芸人・乞胸等々の世界では、
利害が絡む縄張りは厳格に定められていた一方で
そのほかは意外と流動的な側面もあったような気がします。
よくご存じのとおり堅気と侠客との間にも
グレーゾーンがありましたから、それと同じような感じで。
なので、三井宇七のような人物も活躍できたのかも、と想像しました。

歴史上のある物事を知るには、対象だけでなく
関連する物事すべてを調べて、ようやく真実が見えてくるのだと思います。
歴史を学んでいると被差別階級のことも避けて通れませんが、
やはり近現代の差別問題と関わるためか文献も少なくて、難しいですね。

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:09:44.63 ID:wQJEDKpu0.net
>>451の続き

芥川龍之介に認められる 正岡容(2)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/293994

「圓太郎馬車」「寄席」執筆 正岡容(3)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/297040

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:20:48.30 ID:2oI16+ZO0.net
>>508 いつも非常に柔軟な角度からの課題提供とフォロー、解釈、誠に痛み入ります。

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:32:34.40 ID:2oI16+ZO0.net
三井卯吉の話をもう少し。

卯吉の子分として有名な者が祐天仙之助。(正確な法名は「由天」)
今の甲府駅から線路を境に南一帯の繁華街(柳町)が卯吉の縄張りで、北の古府中町が祐天の出生地だったため
両者は自然と結びついたようだ。
このコンビと対立したのが、富士川沿いに駿河との交易で栄えた市川大門宿の松坂屋喜之助、通称鬼神喜之助。
松坂屋は現在でも子孫が残っているが甲州きっての大商人で、酒、菓子、魚類、紙など幅広く商いを行っていた。

当主恒右衛門には五男一女があり、長男が喜右衛門、次男菊蔵(後婿入りして定八)、三男松蔵、四男が喜之助だった。
喜之助の弟の亀吉もまた博奕打ちで、こちらも「小天狗亀吉」の異名を持っていた。

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:40:18.50 ID:2oI16+ZO0.net
松坂屋の子孫の方に伺った話だが、とにかく喜之助、亀吉兄弟には実家が裕福なだけに
自由に使える金が幾らでもあったそうだ。兄弟が喧嘩出入りに出る時には、子分たちの弁当から宿泊費まで、
全部出した。

兄弟の親分は一説には津向文吉だと言う。だが、文吉が八丈に流された後では、むしろ文吉敵主の吃安と友好的な関係を
築いたようだ。また、兄弟の親分とも、逆に一番子分だとも言う駿河吉原の留吉(元浪人・石原留之進)というのがおり、これが
祐天に殺されたことから、両陣営が反目するようになった。

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 01:03:05.54 ID:2oI16+ZO0.net
喜之助と祐天は、それぞれ「鬼神紀之助」、「祐膳朝吉」の名で豊国の絵にされている。
早稲田か都立図書館のHPで見ることができるが、なかなか良い。
いずれこのライバル二者は、実物の血なまぐさい抗争を続ける「悪党」というよりは「ピカレスクヒーロー」の趣がある。

喜之助の墓は大正5年、市川大門平塩の丘に子分「畳鉄」によって建てられている。墓碑には「松坂屋・鬼神喜之助、慶蔵之墓」とある。
(慶蔵は一説には卯吉の別名)
今日線香を立てるのは(僭越ながら)私くらいのものだろう。松坂屋(橘田家)の墓域には入れて貰えず外に建てられている。
唯一嫌なのは目の前の柵向こうに犬がいて、いつも咆えられることだ。

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 23:00:24.01 ID:2oI16+ZO0.net
田中屋の万五郎は府中組合、大和田組合、中野組合(内藤新宿含む)、青梅組合、所沢組合に、
直接的ないしは間接的に関わっている。
加えて、今日世田谷周辺の「下北沢組合」も万五郎を道案内として雇っていることを知った。

一体この人は何者なのか?またどうして近世研究の先生方はこの人を研究対象として取り上げないのか?
府中の森博物館でも、一案内としか扱われていないのは…さすがにいらだたしい。

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/17(日) 06:32:57.51 ID:HnL9E7Ed0.net
都筑郡大棚村の「鵜ノ目屋傳吉」についてご存じないでしょうか?

侠客かどうかはっきりしませんが、可能性はありそうです。
表向きは何か商売を営んでいたと思われます。
雲をつかむようで申し訳ありませんが、
たとえ些細なことでもご存じの方は何卒ご教示ください。

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/17(日) 09:11:57.13 ID:ky9Vr8XR0.net
武州大棚村資料は慶応大学がたくさんもっているようですね。
差し支えなければ、いつ頃の、どのような資料にお名前が載っていたか、
教えていただけますでしょうか。

517 :510:2016/01/17(日) 17:18:36.38 ID:HnL9E7Ed0.net
人から質問されたことなので、こちらも詳細がわからず
要領を得ない話になってしまい、申し訳なく思います。

多摩の旧家に伝わる史料で
明治初年に作成された卸販売業の取引先一覧だそうで、
販売業自体は江戸後期から続いていたらしいです。
地名、屋号、当主の名前くらいしか書かれていないものの
判明している範囲では、それら取引先も豪農などの資産家だとか。

鵜ノ目屋傳吉については、お上の御用聞きをやっていた?
かのような伝承があるという話でした。

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/17(日) 21:05:29.68 ID:ky9Vr8XR0.net
ご回答ありがとうございます!すぐには分かりませんが、先の桶屋長兵衛共々、以降資料を見る際に
気にとめるようにしておきます。

字より都筑区大熊町辺りの方だと思いますので、もし行く機会があった時は
尋ねてみるように心がけます。
今のところ何もわからず申し訳ないデス。

519 :510:2016/01/17(日) 22:22:41.69 ID:HnL9E7Ed0.net
恐れ入ります。
もし何かわかった時にはよろしくご教示くださいますよう
お願い申し上げます。

520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/19(火) 23:02:06.62 ID:0ZjCWBlh0.net
勢州(伊勢)で丹波屋伝兵衛とならぶ侠者、小幡周太郎(武蔵屋周太郎)は、
実は武州の生まれで、故郷は「榎戸村」と云ったという。
この榎戸村は東京都国分寺市の榎戸新田か、はたまた埼玉県吹上村の榎戸村か。

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/19(火) 23:52:42.08 ID:l1u3Mifd0.net
>>520
以前ある調査をしている時に気づいた「えのきど」は
上菅生村内の小名「榎戸」(川崎市多摩区枡形)と
王禅寺村内の通称地名「榎木戸」(川崎市麻生区百合丘)です。

でも村名に限った話で、小名や通称地名は除くなら
関係ないですね。どうぞ無視してください。

522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/20(水) 05:21:11.84 ID:quyxRGsM0.net
いやいや、その可能性もかなり有るように思います。
登戸長兵衛さんを探してた時に、川崎(?)の『鈴木藤助日記』なる資料を図書館で
眺めてみたんですが、百村あたりの博奕打ち集団の記述があったはずです。
稲城から川崎辺りに一家があったらしく、また、東禅寺には香具師の惣代がいたそうなので
字に「榎木」が残っていたなら、可能性は大いにある。

いずれ、地元の調査をした方の情報は貴重です。とても有りがたいです!

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/20(水) 05:33:35.90 ID:quyxRGsM0.net
相州はまったく詳しくないのだけど、原町田の勝楽寺にある弥平親分の墓には
王禅寺の伊太郎、菅村の兼吉、榎下村(都築郡)の今次郎等の名前が刻まれてもいます。

紙記録は無いので、自分の目で確認に行くしかないのが手間ではありますが。。。

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/21(木) 22:50:57.25 ID:ANHLp4XM0.net
仁侠に関わらず山梨県の歴史ウィキペディアにはマニアがいて、博物館や地方史の文章を
ほぼそのままにアップしている。おかげで黒駒勝蔵や吃安などの情報が豊富だが、ほぼ論文のコピーのため
たいへん読みにくいことに辟易する。

加えて、いわゆるその分野の草分け的な研究者たち(藤田五郎や増田友哉、戸羽山瀚、松尾四朗)
といった人々の著作は、参考文献としてあげられていない。もっぱら最近「学術的な」研究を
発表した先生方の御本だけが挙げられる。
まあ、そういうもんだから仕方もない。

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/25(月) 23:30:49.02 ID:GW5VZA+E0.net
「両国屋卯吉」というのはウソだとばかり思ってたんだが、八州の岡引の文献中に
まんま名前が出てきてしまった。三井宇七=三井卯吉=両国屋卯吉は、どうも本当のようだ。

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/31(日) 18:45:35.99 ID:P7YhnSAf0.net
「四月八日笠殿辺荒神山にて長刀者之出入あり、穴太村徳方と長吉と出合なり、
徳方には門之介入道とて名有、長吉方には三州吉良之巳吉とて門人三百人も有りける者
味方なす、徳方凡四十人余、長吉方は漸二十人計なり(中略)徳方は鉢かね着込み、具足
にて身をかためける、長吉方は常のままなり、巳吉は手負故三州迄駕籠にてかへり直に
落命なす、徳方は即死五人、長吉方は三人都合八人之死人なり」

これが当時の史料(「豊秋雑筆」)に記された荒神山の決闘の全容のようである。
実際には40人対20人程。各地から加勢も加わったのだろうが、次郎長一味(大政)などの
記述はない。

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/31(日) 18:54:25.95 ID:P7YhnSAf0.net
一応(中略)の部分を。

「彼門之介鉄砲にて巳吉を討留ければ又候長吉方すすみ門之介を討留、其外徳方三四人
 討留ければ逃出しける」

『東海遊侠伝』だと、仁吉(巳吉)が鉄砲で撃たれ、浪人角井門之助(門之介入道)が
大政と一騎打ちの末討ち取られる。まずまず本当のところを描写していると言えるだろう。

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/31(日) 19:02:43.34 ID:P7YhnSAf0.net
『三重県史』資料編・近世4(三重県、平成11)

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/06(土) 23:50:16.10 ID:9AVW/N1a0.net
八切止夫も仁侠・博奕打について数多くの著作がある。中には貴重な発見(あるいは他研究者への支持)
もあるのだが、往々として眉つばなものが…やはり多い。

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/06(土) 23:54:11.19 ID:9AVW/N1a0.net
ただし、黒田屋祐蔵(永田勇蔵、と表記している)の存在を重くみていた点は、さすがと思われる。
実際、近年伊勢方面では次々と「博徒親分」勇蔵に関する史料が発見されてきている。

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/07(日) 00:31:20.16 ID:VDXjgp+Q0.net
言わずもがな、だろうが八王子の子門の興林寺には蕎麦やの亀さんこと
伊野亀吉親分の墓がある。「一ノ宮一家」とあるので彼が万平の跡を継いだことがわかる。
一般に一ノ宮の二代目は大塚勘五郎事、井上勘五郎とされるが、勘五郎は一生旅カラスだったので、
継げなかったのではないか。

いずれ亀吉親分の墓域には「三侠の碑」と呼ばれる墓があり、万平・勘五郎、それに
丹波屋伝兵衛事、半田竹之助が供養されている。

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/07(日) 00:33:07.57 ID:VDXjgp+Q0.net
む、興林寺は子門ではなく、子安だ。また間違えた。

533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/11(木) 05:26:04.45 ID:lu91vr930.net
>>529
本能寺の変の謎を解くみたいな新刊本をちょこっと立ち読みしたら
八切止夫の説を典拠にしてました
信長を殺したのは外国人宣教師たちで
南蛮寺から本能寺を高性能の大砲で攻撃したんだって
大河ドラマの便乗本にしてもスゲーw

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/13(土) 22:32:56.52 ID:gvwNvjMH0.net
『官武通紀』にある黒駒勝蔵、甲府城乗っ取りの部分を一番最初に取り上げたのは
八切止夫じゃなかろうか。(まちがってたらごめんね)

少なくとも高橋敏よりずっと早いことは間違いない。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/14(日) 17:49:27.31 ID:Zyu57BDu0.net
八切止夫 1914年12月22日〜1987年4月28日
高橋敏 1940年〜
世代の順番的にいってもそうなるでしょうね

「官武通紀」わりとあっちこっちで使われてると思ってたけど
博徒侠客関係では八切が先駆とは知らなかったです

しかし八切史観はよくわかんないです
「新選組意外史」をちょっと読んでみたら
除地=ひさべつブラック的なことが書いてあって絶句した

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/14(日) 21:24:44.73 ID:o2eVjPW90.net
小夜の中山の七五蔵(しめぞう)

537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/17(水) 22:53:36.34 ID:XpVWBETR0.net
中山の七五蔵は、三州平井の雲風亀吉の親分。一名四馬蔵

元治元年6月、黒駒と雲風の逗留する屋敷を次郎長一家が急襲した。
六名の死人を出させたが、肝心の勝蔵、亀吉を討ち漏らした次郎長は両名を追うに当って、
まずは雲風親分の五七蔵の元を訪れ、「二人を匿うと容赦しないぞ」という気迫を
みなぎらせて七五蔵と面会した。
しかし五尺そこそこの老人である五七蔵は一向動じることもなく、かえって不敵な笑みを浮かべ、
「雲風がお前に斬られようと知ったことじゃない」と何でもないように答え、その物言いの凄みに、次郎長思わず
ゾっとしたと後に伝わっている。

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/19(金) 07:58:32.79 ID:XvBkoEs50.net
荒神山の戦いの後、次郎長が丹波屋伝兵衛の許へ殴り込みをかけるが
丹波屋は「臆病風に吹かれて」これの相手をせず、つまりは逃げ出した――
と、よく嘲笑的に書かれるが、
丹波屋伝兵衛の生涯を見ると、筋があって戦わねばならぬ時は、自ら趣いて斬り合うが、
それ以外の争いは極力避けた。 身内思いで、仲間内で使う金には糸目をつけず、特に目下には優しかったという。

明治の番付で、彼が必ず「大関」に置かれたことには、こうした理由があるのだろう、
丹波屋を次郎長との対比で小物扱いするようになったのは、むしろ最近。
昔の人の方が物がわかっていた、という良い証だ。

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/19(金) 14:07:53.84 ID:XvBkoEs50.net
荒神山の戦いの後、次郎長が丹波屋伝兵衛の許へ殴り込みをかけるが
丹波屋は「臆病風に吹かれて」これの相手をせず、つまりは逃げ出した――
と、よく嘲笑的に書かれる。
しかし、 丹波屋伝兵衛の生涯を見ると、筋があって戦わねばならぬ時は、自ら出張って斬り合うが、
それ以外の争いは極力避けた。 身内思いで、仲間内で使う金には糸目をつけず、特に目下には優しかったという。

明治の番付で、彼が必ず「大関」に置かれたことには、こうした理由があるのだろう、
丹波屋を次郎長との対比で小物扱いするようになったのは、むしろ最近の話。
昔の人の方が物がわかっていたことの良い証だ。

540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/20(土) 07:58:20.87 ID:DW4Lx3wq0.net
三島の玉屋佐十郎

541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/03(木) 00:00:20.89 ID:OmwYp4m50.net
玉屋佐十郎は姓・合川(相川とも)。いわゆる二代目大場久八である。
現在の三島広小路(旧・大中島)に飯盛旅籠「玉屋」を開いていた。ここでは中国由来のチーハー賭博が
盛んであったと言われる。(ちなみに現在ではチェーン展開する居酒屋がこの跡地に建っている。)

佐十郎は元々甲州の生まれであったため、勝蔵とは親しかった。しかしそのおかげで、明治四年には伊豆の温泉場に
隠れていた勝蔵を甲府捕忘方の命により召捕らえなければならない、という辛い役どころを押し付けられることになった。
旧知の佐十郎の来訪には勝蔵も観念し、ついに縄を受け甲府に連れられて首を斬られた。

542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/03(木) 00:08:39.41 ID:OmwYp4m50.net
佐十郎に政府から命が下り、勝蔵の捕縛に随行させられた文書は三島の御用日記、あるいは
江川代官所の御証文留にある。だが、この時佐十郎と勝蔵とが、それぞれどのような心境であったかは
伝わっていない。

墓石は常林寺。資料によれば三代目を継いだ渡辺精次郎の墓石も、玉屋の墓域にあるというが、
現在では別々のようだ。明治32年亡くなるが、三島を埋め尽くすほどの弔問客が訪れたとのこと。

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/04(金) 03:10:32.79 ID:7rsoziyc0.net
滋賀の名産品が大集合♪【第28回琵琶湖夢街道 大近江展】開催
http://japan.arukikata.co.jp/news/2016/03/13944/
週末3月12日、13日にはあのひこにゃんも来店します!

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/06(日) 03:44:59.66 ID:JEMnAUp10.net
もし今具体的な資料が残っていたら面白いだろうと思える侠客は
江戸屋虎五郎だ。この人は「弱い」面も含めて色々な意味で本物だ。

545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/06(日) 03:54:57.65 ID:JEMnAUp10.net
宝井琴凌の『大前田栄五郎』は多くの部分を江戸屋虎五郎からの取材に基づいていると
記すくらいだから、虎五郎に関しても言及箇所が多く有益である。

ただあくまで聞き書きなので、これを考証する段になると、圧倒的に史料が少ないのが
極めて残念だ。

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/07(月) 00:19:58.16 ID:Ho1EELhW0.net
講談「白子屋政談 髪結新三」

享保11年の本当にあった事件を題材にしてるそうだけど
弥太五郎源七や髪結新三は架空の人物なのかどうか

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/07(月) 21:36:17.86 ID:cPWwCwrA0.net
佐十郎の親分、大場の久八は勝蔵の子分に袋叩きにされた。
勝蔵はその場にいたが子分を止めようとはしなかった。
って話が東海遊侠伝に出てきます。
これが実話ならば、佐十郎は勝蔵捕縛に積極的だったかもしれないと
心境を推察できて面白いですが、私はこの話は信じていません。

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 00:29:10.62 ID:L6oDmmK60.net
たしかに東海遊侠伝では、雲風と黒駒が碁の勝負をしているのを久八が見ていて、
黒駒の負けを、次郎長との負けに見立てて茶化したので、黒駒の子分が久八を殴って、
それを勝蔵が止めもせず見てた、
とこうありますね。
また、これのおかげで久八が黒駒への助力を止め、その余波で仁義に厚い遠州堀越の藤左衛門も
勝蔵側から長楽寺清兵衛の陣営へ鞍替えした、と続きます。

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 00:34:35.02 ID:L6oDmmK60.net
しかし、おっしゃる通りこれははなはだ怪しい。
というのも明治になって久八の許へ勝蔵事、池田勝馬から「賀状」が届いているし、
また慶応4年から明治2年まで、甲府の牢に収監されていた久八のために、
当時士分で桜田門に居住していた勝蔵への助力を、久八親族が頼んだ文書が残って居るからです。
絶縁していたなら、とてもそんなことは出来ないでしょう。

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 00:37:25.79 ID:L6oDmmK60.net
という訳で、
堀越の藤左衛門

551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 22:33:49.78 ID:L6oDmmK60.net
小堀茂三郎

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/11(金) 22:27:25.50 ID:H0495iyR0.net
高萩の万次郎事、鶴屋喜衛門は次郎長や小次郎の兄貴分に当る「任侠親分」というだけでなく、
岡っ引と宿年寄という「官」の顔も持ち、また武州一揆の際には暴徒相手に
単身掛け合い、宿を破壊から守るという離れ業もやってのけている。
書画にもすぐれ、俳人でもあったらしい。

だが何よりも尊敬に価するのは、
嫁さんが十九も年下であった、という点ではあるまいか。

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/12(土) 23:50:15.22 ID:xeQ6MdDO0.net
田中屋万五郎の腹心子分に「幸助」「定吉」がいる。それぞれ小川村(秩父郡)幸助、ないしは飯能幸助、
新宿定吉、五日市定吉などと呼ばれる。(万五郎の子分は流動性が強い)
二人のうち幸助はちょっと面白い。
幸助は有能な岡引であるが、田中楼の遊女を本気で好いていたらしく、
彼女に対する恋文が残っている。最終的に二人がどうなったかはわからぬが、
150年も昔の恋文は、しかし真摯な心が溢れていて読んでいると少し泣きそうになる。

554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/14(月) 22:25:08.26 ID:KKeHkD+V0.net
>>548>>549
大場の久八と黒駒の勝蔵の貴重な関係、教えていただいてありがとうございます。

田中屋万五郎親分とは、「近世侠客有名鏡」に書かれている伊沢の万五郎と同一人物でしょうか?
>>230のように甲州博徒とも関わりがあるようなので石和出身の侠客と誤認されたのでしょうか?
 
ある書物には高萩の万次郎が伊沢の万五郎の変名で伊沢に乗り込み、
次郎長とともに竹居の安五郎捕縛に一役かったと書いてありますが、
(この場合、当然田中屋万五郎と伊沢の万五郎は別人ということになりますが)
私は、これらの説は信じていません。

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/14(月) 23:01:57.64 ID:KKeHkD+V0.net
堀越の藤左衛門

黒駒の勝蔵に「風の強い日に友蔵が住む見附の町に火をつけろ」
と言われ、「そんな非道なことはできない」と断り勝蔵と義絶した。

相手が兄弟分(兄貴分?)であろうと、許せないことは許せないという
意思を貫くカッコイイ男を想像してしまいます。

ただ、なんでも疑ってしまってはつまらないですが、
東海遊侠伝の勝蔵に関する記述はどうも……。

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/15(火) 18:47:06.03 ID:iSqPYa/G0.net
◆台湾人の顔面


淡褐色、広鼻、突顎、タラコ唇


ラオスっぽいような、ポリネシアっぽいような、

つか、ハノイですね〜

実にハノイ!

https://www.youtube.com/watch?v=5bE6lSX4yK0
http://www.gmjh.tc.edu.tw/mediafile/1040/active/288/2014-11%5C2014111413041_0.jpg
https://www.immigration.gov.tw/public/Attachment/3521157552.jpg
http://a.udn.com/focus/2015/10/02/12959/image/pic01.jpg
http://www.ksnews.com.tw/upload/2014-04-20_20b06004_.jpg
http://static.ettoday.net/images/793/d793043.jpg
http://img.chinatimes.com/newsphoto/2015-05-18/656/20150518003862.jpg
https://anntw-prod.s3.amazonaws.com/assets/images/000/001/732/big/HBL.JPG?1385383160
https://i.ytimg.com/vi/9YL_k_JZ_dI/hqdefault.jpg
http://www.on9g.com/cn/customavatars/66275.jpg
http://bibibi.info/w/wp-content/uploads/2012/01/20120108-00000521-san-000-0-view.jpg
http://news.xinhuanet.com/school/2010-03/04/xinsrc_222030704080396881592.jpg
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/95/0000035795/99/img6388079azikazj.jpeg
http://www.wsm.ks.edu.tw/images/20110407024518.jpg

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/15(火) 23:47:31.31 ID:R+T8XGJ10.net
>>554
なるほど田中屋万五郎=石和の万五郎か!いや、考えもしなかったです。これは本当面白い。
ただ結論から言えば、私ごときの知識ではわからんです。(笑)スミマセン。

近世侠客有名鏡は、やはりどうやら講談・芝居・新聞小説といった当時のメディアが土台になってるようで、
例えば赤尾林蔵に代表される「関東七人男」や天保水滸伝の国芳の絵の人物(笹川、飯尾、勢力、州之嵜、神楽獅子など)、
あと番随院の歌舞伎なんかを基にランクインしています。

ところがわからない人が二三人いて、その筆頭が「身延の半五郎」継いで(私的には)石和の万五郎、虎五郎です。

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/15(火) 23:57:50.49 ID:R+T8XGJ10.net
それでも最近、旭堂南陵の講談「甲斐の祐天」のなかに、祐天仙之助と対立する石和陣屋の御用聞きとして
「石和虎五郎」の存在を見つけることが出来たので、あるいは当時の講談本を当ってゆけば、
これらの人物を出すことができるのかもしれません。

「講談師見てきたようなウソを言い」とはよく聞かれるフレーズですが、時々よっぽど内実を知らなければ書けないような真実を
講談が暴いていることがあり、そう言う時は正直背中がぞッとしますね。

559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 00:19:09.98 ID:rBQ1NBes0.net
藤左衛門は確かに格好いい。
彼は山梨之巳之助の子分だった言いますが、正直巳之助自体「森の五郎」を斬ったとしか
知りません。森之五郎は石松の親分で、次郎長でさえ「あんな良い人が畳の上で死ねないなんて」と言ってる程の人です。

藤左衛門が黒駒とたもとを分かって、大和田友蔵の所に仲直りに来た時に、友蔵も
泣いて喜んだと言うから、彼もまた格好いい。

堀越藤左衛門、本姓塚元。詳しいかどうかはともかく「近代デジタル」の大正六年
『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』に一ページ割かれて詳細があります。

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 00:19:45.24 ID:rBQ1NBes0.net
というわけで
山梨の巳之助

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 20:33:35.61 ID:xE7swy/U0.net
友蔵の子分の首を斬って首実検。
それがもとで遠島。島抜けを試みるものの失敗し、処刑。
でしたっけ?

東海遊侠伝で、次郎長と都田一家の仲裁をしようとした
関東の巳之助と同一人物ととらえてよいのでしょうか?
聞いてばかりで申し訳ありません。

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 21:38:20.88 ID:xE7swy/U0.net
侠客有名鏡をあらためて眺めてみました。
武州 田無ノ万五良という名前も挙がっているので、
こっちの方が田中屋万五郎っぽいですね。
もちろん、同一人物を別人として伊沢の万五郎としてしまった
という可能性もありますが。

>>554に挙げた書物では、伊沢の虎五郎=江戸屋虎五郎としていますが、
やはり私はこの説にはうなずけません。

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 22:28:32.59 ID:rBQ1NBes0.net
>>561
いやいや詳しいなあ。というより文献を読む勘所を押さえているのかな。
私は巳之助なんて名前しか気になりませんでしたよ。遠島とはね。
(ちなみに袋井の山梨は「転がり月」で有名らしいですが、未だになんのことかわかりません。)

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 22:35:39.65 ID:rBQ1NBes0.net
今川徳三先生も、あまり多く書くうちについ風呂敷を広げてしまったのでしょうが、
しかしそれを差し引いても、その功績はすごいものがあると思います。
「関東取締出役」だったかを主に扱った著作は、それはすごく真摯で勉強になる本です。
(題名を思い出したら、また紹介しますね。)

あと「田無の万五郎」。やっぱりこれは稲荷様事、増五郎のことじゃないかな。
田中屋万五郎は明治3年に75歳で亡くなりますが、数年して全部忘れ去られたんでしょう。
同じ府中宿には小次郎もいたし、
有能だけど、基本的に地域にとって煙たい存在だったようだから。

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