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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

491 ::2015/12/26(土) 23:29:08.56 ID:fG8CFoKW0.net
なるほどわかりました
ありがとうございます

祐天が急死して縄張りとかよそとの連携とかどうなったんだろと思ってました
当たり前かもしれないけどちゃんと引き継いだ人物がいたんですね

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/26(土) 23:48:09.59 ID:lPbTe9ND0.net
明治以降の武州侠客の有名処に新橋長蔵親分が居る。姓谷合。
この人は本当に「侠客」だったようで、いまでも地元では評判がすこぶる良い。
地元というのは武蔵野市(旧・境新田村)。
長蔵親分は生涯に何人か人も斬ってはいるのだが、明治には近くの大学生と因業ばばあの近所喧嘩に
わざわざ乗り出してきて仲裁をしたりもしている。小金井の花見客のための菓子屋も開いて頼りにされていた。

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/12/29(火) 19:50:25.84 ID:HRn3zkGR0.net
 大前田栄五郎が江戸屋虎五郎に語った博奕打ちの心構えというのがある。

 「これから良い博奕打ちになろうと思うなら、第一身の行いを能くしろよ。
 向こうから旦那方(堅気の衆)が来たら、頭を此方から下げるようにして、堅気の方に可愛がられねえと出精(出世)は出来ねえ。
 
 女房を早く持つな。女房を持てば子ができる。子ができれば、斬ったり張ったりする時に自ずから切っ先が鈍り、
 良い働きは出来ねえ。その為に一片こっきりの女郎屋がある。遊びに行けば、それで気は晴れて仕舞うもんだから、
 そのことを忘れるな。

 割の良い喧嘩はしても良いが、割の悪い喧嘩は我慢しろ。それから、下の者には目をかけてやり、
 上の者とは五分に付き合うようにしろ。それができないと良い男にはなれねえ。」

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/02(土) 19:03:25.83 ID:/iMQG/Ak0.net
あけおめことよろです。

「仁侠」とか「侠客」とか
特定の階層や職掌のように使われているけれども、
実は生き方を意味する言葉なのでしょう。

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 12:29:07.72 ID:eyWFwo+s0.net
あけましておめでとうございます。
昨年は気持ちも安定しておらず、とんでもないことをしばしば書きこんでしまった。
今年はそのようなことがないように禁酒を誓います。

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 12:37:10.02 ID:eyWFwo+s0.net
ちなみに「酒」について。
次郎長親分が生涯酒を飲まなかったという逸話は有名だが、これは
天保13年3月、巴川沿いで酩酊のところ不意を襲われ不覚をとったことによると言う。
以降禁酒の誓いを立てて、生涯破らなかった。

一方、講談だと酒に酔って次郎長一行、森の石松にからむ役周りの吃安親分は(これ自体途方もない造り話だが)
事実は下戸で酒は一滴も飲めなかったとのこと。

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/04(月) 13:42:30.33 ID:eyWFwo+s0.net
年末から甲州の話ばかりで恐縮だが…
今日1月4日は、甲府の大親分三井宇七(卯吉)が討たれた日に当たる。(安政四年)
下手人は市川大門の松坂屋喜之助の弟・亀吉以下十一名。
卯吉は「この人が出れば、どんな諍いでもすぐに解決する」と言われるほどの貫録で、甲府の裏世界を牛耳っていた存在だったようだ。

卯吉の死は秘密裏であったが、当時の甲府ではすぐその月の中に瓦版が出され、また「七草の甲斐(粥)にはずれた隠居さん」との歌が流行。
卯吉が七日より前に殺されたとの情報が町に出回った。

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 18:57:53.47 ID:3QHnavwo0.net
小金井小次郎には「寅之助」という兄がいる。通称は「寅吉」。
二歳年長だが、我慢強さも気風も弟に及ばなかったと『慶応水滸伝』にあるが、
どうやら実際の寅之助がその通りの人物だったことが、最近見つかった小次郎直筆の手紙の中に
アリアリと書かれている。強くもないのに博奕場通いがやめられない、浪費癖のあるこの愚兄のことに遠島直前の小次郎が
なによりも頭を悩ませていたことが見てとれて、思わず笑ってしまいそうになる。

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:04:57.46 ID:3QHnavwo0.net
興味深いことは、小次郎は裏から手を廻したおかげで「三宅島」を遠島先として
選ぶことができた、と書いている点である。三宅島は、あるいは八丈島や新島に比べて生活が豊かだったのかもしれない。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:10:58.45 ID:3QHnavwo0.net
三宅島からの小次郎の手紙は各所に散逸していて、なかなか集めるのが難しい。
といっても大方は皆木先生の『小金井小次郎伝』に載っているからそれを見ればいい。

本物は未見だが、この中に高萩ノ万次郎が、遠島中の小次郎の所に金を送ってくれたらしく、
小次郎がその事に随分恐縮している内容の文章がある。ほとんどの場所で小次郎が他の人間を
「親分」と呼ぶことはないのだが、万次郎にだけは「高萩親分」との呼び名を使っている。
万次郎の格が伺えるというものである。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/08(金) 19:27:29.83 ID:3QHnavwo0.net
駿州沼津の和助(菊池和助)は大場久八の兄弟分で、「街道侠客中の傑出したる人」
と戸羽山瀚氏が称賛する程の人。表の顔は鮨屋だったという。
和助には初代と二代目がおり、初代は安政5年没。二代目は本名を再助と言い、初代の弟とのことである。
博奕の罪で八丈へおくられ12年過ごした。

和助不在の日々は妻・たか女が一家と鮨屋(松よし)の若者とを仕切った。

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/13(水) 00:07:46.41 ID:5SklYERo0.net
「山岡鉄舟研究会」というのがある。
鉄舟を英傑と讃えるのは勝手だが、その根拠の一つに
次郎長を「改心」させたなどと書くのは「何様のつもりだ」と思わざるをえない。
歴史上の人物には優劣などつかない。誰かを称揚するために、関わった人物をダシに使うなど
言語道断のことだろう。

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/13(水) 00:20:16.41 ID:5SklYERo0.net
中世の職掌がまだ未分化な時期にあっては「博奕打ち」もまた、人力ではどうにもならない「運」という
神の領域をつかさどる職として確立されていたのだ。博奕打ちは真摯に賽ころに打ちこむ芸民であった。

近世の博奕打ちも、その流れにある。だからこそ、彼らには仁義があり、旅人としての礼法がある。
単純に「社会悪」として「改心」させるべき者として見なす向きは、近代人の奢りというものだろう。

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/13(水) 17:39:09.91 ID:CshXffIJ0.net
研究本に「改心」て言葉が使われてるけど
意味を読み取らないで
「悪の道から救済してやった」的な解釈だけしてるんですかね

だとしたらそれは研究じゃなくて
贔屓とか愛好でしょw

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/14(木) 19:30:41.94 ID:XxafQQhA0.net
>>490
山梨県内のどこかの町史もしくは市史で
陣屋に長吏が詰めて警備や容疑者逮捕にあたっていた、
という記述を読んだ覚えがあります。
その長吏を支配したのも善九郎親方なのでしょうね。参考になりました。

ところで、関八州で番役などにあたる長吏は
村役人と弾左衛門との二重支配を受けた、と聞いています。
また、時代が下ると弾左衛門の支配は甲斐や駿河にも及んだ、と言われます。

善九郎親方は、弾左衛門と何らかの関わりがあったものでしょうか。
ひょっとして甲府勤番と弾左衛門との二重支配を受けていた?と想像しました。

長吏の話はスレ違いかもしれませんし、デリケートな問題ではありますが、
ご見解を伺えれば幸いです。

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/15(金) 00:05:46.11 ID:YJnrnBfd0.net
おそらくお読みになられたのは『市川大門町所蔵村治関係文書』か、それに類するものではないでしょうか。
駿州方面の要として、ここに市川代官所がありまして、非差別身分の方々が確かに、牢番・目明しを
務めていた、とあります。
さて、善九郎親方は甲府市伊勢の遠光寺付近に住んでいたと三田村鴛魚が書いています。(現在では誰も教えてくれません)
善九郎の一族が武田氏の時代からいたらしいことは聞きますが、有名な団左衛門の系譜に属するのか?
と言われれば、恥ずかしながらわからんのです。

ただ、上でも記した三井宇七が、一名前「猿屋勘助」と名乗り「猿引き」というやはり被差別身分の人々を甲府牢番下役として
使っていたことは、どうやら事実のようで、これはほぼ確実に団左衛門や善九郎とも独立して職務を行っていたと言えそうです。
そうであるなら、三井宇七という人は有宿・無宿の間のみならず、非差別・常民の境界線をも自由に行き来していた人物ということになり、
非常に特異な存在であったことが伺えます。
彼はまた浅草の香具師の間で「甲斐の両国屋卯吉」の名でテキヤの祖とされており、正直ますます訳がわからないのですわ。

全然解答になってませんね。すみませんです。

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/15(金) 00:38:06.04 ID:YJnrnBfd0.net
善九郎に関しては半々ってとこですかね。やっぱり後年は団左衛門に属したんでしょう。
(何の根拠もありませんが…)

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/15(金) 18:34:52.13 ID:UVLs7Occ0.net
>>506-507
ややこしい質問にもかかわらず、興味深いご回答をありがとうございます。
三井宇七とは、>>489>>497で既出の人物ですね。

博徒・侠客、香具師・テキ屋、大道芸人・乞胸等々の世界では、
利害が絡む縄張りは厳格に定められていた一方で
そのほかは意外と流動的な側面もあったような気がします。
よくご存じのとおり堅気と侠客との間にも
グレーゾーンがありましたから、それと同じような感じで。
なので、三井宇七のような人物も活躍できたのかも、と想像しました。

歴史上のある物事を知るには、対象だけでなく
関連する物事すべてを調べて、ようやく真実が見えてくるのだと思います。
歴史を学んでいると被差別階級のことも避けて通れませんが、
やはり近現代の差別問題と関わるためか文献も少なくて、難しいですね。

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:09:44.63 ID:wQJEDKpu0.net
>>451の続き

芥川龍之介に認められる 正岡容(2)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/293994

「圓太郎馬車」「寄席」執筆 正岡容(3)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/297040

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:20:48.30 ID:2oI16+ZO0.net
>>508 いつも非常に柔軟な角度からの課題提供とフォロー、解釈、誠に痛み入ります。

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:32:34.40 ID:2oI16+ZO0.net
三井卯吉の話をもう少し。

卯吉の子分として有名な者が祐天仙之助。(正確な法名は「由天」)
今の甲府駅から線路を境に南一帯の繁華街(柳町)が卯吉の縄張りで、北の古府中町が祐天の出生地だったため
両者は自然と結びついたようだ。
このコンビと対立したのが、富士川沿いに駿河との交易で栄えた市川大門宿の松坂屋喜之助、通称鬼神喜之助。
松坂屋は現在でも子孫が残っているが甲州きっての大商人で、酒、菓子、魚類、紙など幅広く商いを行っていた。

当主恒右衛門には五男一女があり、長男が喜右衛門、次男菊蔵(後婿入りして定八)、三男松蔵、四男が喜之助だった。
喜之助の弟の亀吉もまた博奕打ちで、こちらも「小天狗亀吉」の異名を持っていた。

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 00:40:18.50 ID:2oI16+ZO0.net
松坂屋の子孫の方に伺った話だが、とにかく喜之助、亀吉兄弟には実家が裕福なだけに
自由に使える金が幾らでもあったそうだ。兄弟が喧嘩出入りに出る時には、子分たちの弁当から宿泊費まで、
全部出した。

兄弟の親分は一説には津向文吉だと言う。だが、文吉が八丈に流された後では、むしろ文吉敵主の吃安と友好的な関係を
築いたようだ。また、兄弟の親分とも、逆に一番子分だとも言う駿河吉原の留吉(元浪人・石原留之進)というのがおり、これが
祐天に殺されたことから、両陣営が反目するようになった。

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 01:03:05.54 ID:2oI16+ZO0.net
喜之助と祐天は、それぞれ「鬼神紀之助」、「祐膳朝吉」の名で豊国の絵にされている。
早稲田か都立図書館のHPで見ることができるが、なかなか良い。
いずれこのライバル二者は、実物の血なまぐさい抗争を続ける「悪党」というよりは「ピカレスクヒーロー」の趣がある。

喜之助の墓は大正5年、市川大門平塩の丘に子分「畳鉄」によって建てられている。墓碑には「松坂屋・鬼神喜之助、慶蔵之墓」とある。
(慶蔵は一説には卯吉の別名)
今日線香を立てるのは(僭越ながら)私くらいのものだろう。松坂屋(橘田家)の墓域には入れて貰えず外に建てられている。
唯一嫌なのは目の前の柵向こうに犬がいて、いつも咆えられることだ。

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/16(土) 23:00:24.01 ID:2oI16+ZO0.net
田中屋の万五郎は府中組合、大和田組合、中野組合(内藤新宿含む)、青梅組合、所沢組合に、
直接的ないしは間接的に関わっている。
加えて、今日世田谷周辺の「下北沢組合」も万五郎を道案内として雇っていることを知った。

一体この人は何者なのか?またどうして近世研究の先生方はこの人を研究対象として取り上げないのか?
府中の森博物館でも、一案内としか扱われていないのは…さすがにいらだたしい。

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/17(日) 06:32:57.51 ID:HnL9E7Ed0.net
都筑郡大棚村の「鵜ノ目屋傳吉」についてご存じないでしょうか?

侠客かどうかはっきりしませんが、可能性はありそうです。
表向きは何か商売を営んでいたと思われます。
雲をつかむようで申し訳ありませんが、
たとえ些細なことでもご存じの方は何卒ご教示ください。

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/17(日) 09:11:57.13 ID:ky9Vr8XR0.net
武州大棚村資料は慶応大学がたくさんもっているようですね。
差し支えなければ、いつ頃の、どのような資料にお名前が載っていたか、
教えていただけますでしょうか。

517 :510:2016/01/17(日) 17:18:36.38 ID:HnL9E7Ed0.net
人から質問されたことなので、こちらも詳細がわからず
要領を得ない話になってしまい、申し訳なく思います。

多摩の旧家に伝わる史料で
明治初年に作成された卸販売業の取引先一覧だそうで、
販売業自体は江戸後期から続いていたらしいです。
地名、屋号、当主の名前くらいしか書かれていないものの
判明している範囲では、それら取引先も豪農などの資産家だとか。

鵜ノ目屋傳吉については、お上の御用聞きをやっていた?
かのような伝承があるという話でした。

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/17(日) 21:05:29.68 ID:ky9Vr8XR0.net
ご回答ありがとうございます!すぐには分かりませんが、先の桶屋長兵衛共々、以降資料を見る際に
気にとめるようにしておきます。

字より都筑区大熊町辺りの方だと思いますので、もし行く機会があった時は
尋ねてみるように心がけます。
今のところ何もわからず申し訳ないデス。

519 :510:2016/01/17(日) 22:22:41.69 ID:HnL9E7Ed0.net
恐れ入ります。
もし何かわかった時にはよろしくご教示くださいますよう
お願い申し上げます。

520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/19(火) 23:02:06.62 ID:0ZjCWBlh0.net
勢州(伊勢)で丹波屋伝兵衛とならぶ侠者、小幡周太郎(武蔵屋周太郎)は、
実は武州の生まれで、故郷は「榎戸村」と云ったという。
この榎戸村は東京都国分寺市の榎戸新田か、はたまた埼玉県吹上村の榎戸村か。

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/19(火) 23:52:42.08 ID:l1u3Mifd0.net
>>520
以前ある調査をしている時に気づいた「えのきど」は
上菅生村内の小名「榎戸」(川崎市多摩区枡形)と
王禅寺村内の通称地名「榎木戸」(川崎市麻生区百合丘)です。

でも村名に限った話で、小名や通称地名は除くなら
関係ないですね。どうぞ無視してください。

522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/20(水) 05:21:11.84 ID:quyxRGsM0.net
いやいや、その可能性もかなり有るように思います。
登戸長兵衛さんを探してた時に、川崎(?)の『鈴木藤助日記』なる資料を図書館で
眺めてみたんですが、百村あたりの博奕打ち集団の記述があったはずです。
稲城から川崎辺りに一家があったらしく、また、東禅寺には香具師の惣代がいたそうなので
字に「榎木」が残っていたなら、可能性は大いにある。

いずれ、地元の調査をした方の情報は貴重です。とても有りがたいです!

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/20(水) 05:33:35.90 ID:quyxRGsM0.net
相州はまったく詳しくないのだけど、原町田の勝楽寺にある弥平親分の墓には
王禅寺の伊太郎、菅村の兼吉、榎下村(都築郡)の今次郎等の名前が刻まれてもいます。

紙記録は無いので、自分の目で確認に行くしかないのが手間ではありますが。。。

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/21(木) 22:50:57.25 ID:ANHLp4XM0.net
仁侠に関わらず山梨県の歴史ウィキペディアにはマニアがいて、博物館や地方史の文章を
ほぼそのままにアップしている。おかげで黒駒勝蔵や吃安などの情報が豊富だが、ほぼ論文のコピーのため
たいへん読みにくいことに辟易する。

加えて、いわゆるその分野の草分け的な研究者たち(藤田五郎や増田友哉、戸羽山瀚、松尾四朗)
といった人々の著作は、参考文献としてあげられていない。もっぱら最近「学術的な」研究を
発表した先生方の御本だけが挙げられる。
まあ、そういうもんだから仕方もない。

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/25(月) 23:30:49.02 ID:GW5VZA+E0.net
「両国屋卯吉」というのはウソだとばかり思ってたんだが、八州の岡引の文献中に
まんま名前が出てきてしまった。三井宇七=三井卯吉=両国屋卯吉は、どうも本当のようだ。

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/31(日) 18:45:35.99 ID:P7YhnSAf0.net
「四月八日笠殿辺荒神山にて長刀者之出入あり、穴太村徳方と長吉と出合なり、
徳方には門之介入道とて名有、長吉方には三州吉良之巳吉とて門人三百人も有りける者
味方なす、徳方凡四十人余、長吉方は漸二十人計なり(中略)徳方は鉢かね着込み、具足
にて身をかためける、長吉方は常のままなり、巳吉は手負故三州迄駕籠にてかへり直に
落命なす、徳方は即死五人、長吉方は三人都合八人之死人なり」

これが当時の史料(「豊秋雑筆」)に記された荒神山の決闘の全容のようである。
実際には40人対20人程。各地から加勢も加わったのだろうが、次郎長一味(大政)などの
記述はない。

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/31(日) 18:54:25.95 ID:P7YhnSAf0.net
一応(中略)の部分を。

「彼門之介鉄砲にて巳吉を討留ければ又候長吉方すすみ門之介を討留、其外徳方三四人
 討留ければ逃出しける」

『東海遊侠伝』だと、仁吉(巳吉)が鉄砲で撃たれ、浪人角井門之助(門之介入道)が
大政と一騎打ちの末討ち取られる。まずまず本当のところを描写していると言えるだろう。

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/01/31(日) 19:02:43.34 ID:P7YhnSAf0.net
『三重県史』資料編・近世4(三重県、平成11)

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/06(土) 23:50:16.10 ID:9AVW/N1a0.net
八切止夫も仁侠・博奕打について数多くの著作がある。中には貴重な発見(あるいは他研究者への支持)
もあるのだが、往々として眉つばなものが…やはり多い。

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/06(土) 23:54:11.19 ID:9AVW/N1a0.net
ただし、黒田屋祐蔵(永田勇蔵、と表記している)の存在を重くみていた点は、さすがと思われる。
実際、近年伊勢方面では次々と「博徒親分」勇蔵に関する史料が発見されてきている。

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/07(日) 00:31:20.16 ID:VDXjgp+Q0.net
言わずもがな、だろうが八王子の子門の興林寺には蕎麦やの亀さんこと
伊野亀吉親分の墓がある。「一ノ宮一家」とあるので彼が万平の跡を継いだことがわかる。
一般に一ノ宮の二代目は大塚勘五郎事、井上勘五郎とされるが、勘五郎は一生旅カラスだったので、
継げなかったのではないか。

いずれ亀吉親分の墓域には「三侠の碑」と呼ばれる墓があり、万平・勘五郎、それに
丹波屋伝兵衛事、半田竹之助が供養されている。

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/07(日) 00:33:07.57 ID:VDXjgp+Q0.net
む、興林寺は子門ではなく、子安だ。また間違えた。

533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/11(木) 05:26:04.45 ID:lu91vr930.net
>>529
本能寺の変の謎を解くみたいな新刊本をちょこっと立ち読みしたら
八切止夫の説を典拠にしてました
信長を殺したのは外国人宣教師たちで
南蛮寺から本能寺を高性能の大砲で攻撃したんだって
大河ドラマの便乗本にしてもスゲーw

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/13(土) 22:32:56.52 ID:gvwNvjMH0.net
『官武通紀』にある黒駒勝蔵、甲府城乗っ取りの部分を一番最初に取り上げたのは
八切止夫じゃなかろうか。(まちがってたらごめんね)

少なくとも高橋敏よりずっと早いことは間違いない。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/14(日) 17:49:27.31 ID:Zyu57BDu0.net
八切止夫 1914年12月22日〜1987年4月28日
高橋敏 1940年〜
世代の順番的にいってもそうなるでしょうね

「官武通紀」わりとあっちこっちで使われてると思ってたけど
博徒侠客関係では八切が先駆とは知らなかったです

しかし八切史観はよくわかんないです
「新選組意外史」をちょっと読んでみたら
除地=ひさべつブラック的なことが書いてあって絶句した

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/14(日) 21:24:44.73 ID:o2eVjPW90.net
小夜の中山の七五蔵(しめぞう)

537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/17(水) 22:53:36.34 ID:XpVWBETR0.net
中山の七五蔵は、三州平井の雲風亀吉の親分。一名四馬蔵

元治元年6月、黒駒と雲風の逗留する屋敷を次郎長一家が急襲した。
六名の死人を出させたが、肝心の勝蔵、亀吉を討ち漏らした次郎長は両名を追うに当って、
まずは雲風親分の五七蔵の元を訪れ、「二人を匿うと容赦しないぞ」という気迫を
みなぎらせて七五蔵と面会した。
しかし五尺そこそこの老人である五七蔵は一向動じることもなく、かえって不敵な笑みを浮かべ、
「雲風がお前に斬られようと知ったことじゃない」と何でもないように答え、その物言いの凄みに、次郎長思わず
ゾっとしたと後に伝わっている。

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/19(金) 07:58:32.79 ID:XvBkoEs50.net
荒神山の戦いの後、次郎長が丹波屋伝兵衛の許へ殴り込みをかけるが
丹波屋は「臆病風に吹かれて」これの相手をせず、つまりは逃げ出した――
と、よく嘲笑的に書かれるが、
丹波屋伝兵衛の生涯を見ると、筋があって戦わねばならぬ時は、自ら趣いて斬り合うが、
それ以外の争いは極力避けた。 身内思いで、仲間内で使う金には糸目をつけず、特に目下には優しかったという。

明治の番付で、彼が必ず「大関」に置かれたことには、こうした理由があるのだろう、
丹波屋を次郎長との対比で小物扱いするようになったのは、むしろ最近。
昔の人の方が物がわかっていた、という良い証だ。

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/19(金) 14:07:53.84 ID:XvBkoEs50.net
荒神山の戦いの後、次郎長が丹波屋伝兵衛の許へ殴り込みをかけるが
丹波屋は「臆病風に吹かれて」これの相手をせず、つまりは逃げ出した――
と、よく嘲笑的に書かれる。
しかし、 丹波屋伝兵衛の生涯を見ると、筋があって戦わねばならぬ時は、自ら出張って斬り合うが、
それ以外の争いは極力避けた。 身内思いで、仲間内で使う金には糸目をつけず、特に目下には優しかったという。

明治の番付で、彼が必ず「大関」に置かれたことには、こうした理由があるのだろう、
丹波屋を次郎長との対比で小物扱いするようになったのは、むしろ最近の話。
昔の人の方が物がわかっていたことの良い証だ。

540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/20(土) 07:58:20.87 ID:DW4Lx3wq0.net
三島の玉屋佐十郎

541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/03(木) 00:00:20.89 ID:OmwYp4m50.net
玉屋佐十郎は姓・合川(相川とも)。いわゆる二代目大場久八である。
現在の三島広小路(旧・大中島)に飯盛旅籠「玉屋」を開いていた。ここでは中国由来のチーハー賭博が
盛んであったと言われる。(ちなみに現在ではチェーン展開する居酒屋がこの跡地に建っている。)

佐十郎は元々甲州の生まれであったため、勝蔵とは親しかった。しかしそのおかげで、明治四年には伊豆の温泉場に
隠れていた勝蔵を甲府捕忘方の命により召捕らえなければならない、という辛い役どころを押し付けられることになった。
旧知の佐十郎の来訪には勝蔵も観念し、ついに縄を受け甲府に連れられて首を斬られた。

542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/03(木) 00:08:39.41 ID:OmwYp4m50.net
佐十郎に政府から命が下り、勝蔵の捕縛に随行させられた文書は三島の御用日記、あるいは
江川代官所の御証文留にある。だが、この時佐十郎と勝蔵とが、それぞれどのような心境であったかは
伝わっていない。

墓石は常林寺。資料によれば三代目を継いだ渡辺精次郎の墓石も、玉屋の墓域にあるというが、
現在では別々のようだ。明治32年亡くなるが、三島を埋め尽くすほどの弔問客が訪れたとのこと。

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/04(金) 03:10:32.79 ID:7rsoziyc0.net
滋賀の名産品が大集合♪【第28回琵琶湖夢街道 大近江展】開催
http://japan.arukikata.co.jp/news/2016/03/13944/
週末3月12日、13日にはあのひこにゃんも来店します!

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/06(日) 03:44:59.66 ID:JEMnAUp10.net
もし今具体的な資料が残っていたら面白いだろうと思える侠客は
江戸屋虎五郎だ。この人は「弱い」面も含めて色々な意味で本物だ。

545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/06(日) 03:54:57.65 ID:JEMnAUp10.net
宝井琴凌の『大前田栄五郎』は多くの部分を江戸屋虎五郎からの取材に基づいていると
記すくらいだから、虎五郎に関しても言及箇所が多く有益である。

ただあくまで聞き書きなので、これを考証する段になると、圧倒的に史料が少ないのが
極めて残念だ。

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/07(月) 00:19:58.16 ID:Ho1EELhW0.net
講談「白子屋政談 髪結新三」

享保11年の本当にあった事件を題材にしてるそうだけど
弥太五郎源七や髪結新三は架空の人物なのかどうか

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/07(月) 21:36:17.86 ID:cPWwCwrA0.net
佐十郎の親分、大場の久八は勝蔵の子分に袋叩きにされた。
勝蔵はその場にいたが子分を止めようとはしなかった。
って話が東海遊侠伝に出てきます。
これが実話ならば、佐十郎は勝蔵捕縛に積極的だったかもしれないと
心境を推察できて面白いですが、私はこの話は信じていません。

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 00:29:10.62 ID:L6oDmmK60.net
たしかに東海遊侠伝では、雲風と黒駒が碁の勝負をしているのを久八が見ていて、
黒駒の負けを、次郎長との負けに見立てて茶化したので、黒駒の子分が久八を殴って、
それを勝蔵が止めもせず見てた、
とこうありますね。
また、これのおかげで久八が黒駒への助力を止め、その余波で仁義に厚い遠州堀越の藤左衛門も
勝蔵側から長楽寺清兵衛の陣営へ鞍替えした、と続きます。

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 00:34:35.02 ID:L6oDmmK60.net
しかし、おっしゃる通りこれははなはだ怪しい。
というのも明治になって久八の許へ勝蔵事、池田勝馬から「賀状」が届いているし、
また慶応4年から明治2年まで、甲府の牢に収監されていた久八のために、
当時士分で桜田門に居住していた勝蔵への助力を、久八親族が頼んだ文書が残って居るからです。
絶縁していたなら、とてもそんなことは出来ないでしょう。

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 00:37:25.79 ID:L6oDmmK60.net
という訳で、
堀越の藤左衛門

551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/10(木) 22:33:49.78 ID:L6oDmmK60.net
小堀茂三郎

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/11(金) 22:27:25.50 ID:H0495iyR0.net
高萩の万次郎事、鶴屋喜衛門は次郎長や小次郎の兄貴分に当る「任侠親分」というだけでなく、
岡っ引と宿年寄という「官」の顔も持ち、また武州一揆の際には暴徒相手に
単身掛け合い、宿を破壊から守るという離れ業もやってのけている。
書画にもすぐれ、俳人でもあったらしい。

だが何よりも尊敬に価するのは、
嫁さんが十九も年下であった、という点ではあるまいか。

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/12(土) 23:50:15.22 ID:xeQ6MdDO0.net
田中屋万五郎の腹心子分に「幸助」「定吉」がいる。それぞれ小川村(秩父郡)幸助、ないしは飯能幸助、
新宿定吉、五日市定吉などと呼ばれる。(万五郎の子分は流動性が強い)
二人のうち幸助はちょっと面白い。
幸助は有能な岡引であるが、田中楼の遊女を本気で好いていたらしく、
彼女に対する恋文が残っている。最終的に二人がどうなったかはわからぬが、
150年も昔の恋文は、しかし真摯な心が溢れていて読んでいると少し泣きそうになる。

554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/14(月) 22:25:08.26 ID:KKeHkD+V0.net
>>548>>549
大場の久八と黒駒の勝蔵の貴重な関係、教えていただいてありがとうございます。

田中屋万五郎親分とは、「近世侠客有名鏡」に書かれている伊沢の万五郎と同一人物でしょうか?
>>230のように甲州博徒とも関わりがあるようなので石和出身の侠客と誤認されたのでしょうか?
 
ある書物には高萩の万次郎が伊沢の万五郎の変名で伊沢に乗り込み、
次郎長とともに竹居の安五郎捕縛に一役かったと書いてありますが、
(この場合、当然田中屋万五郎と伊沢の万五郎は別人ということになりますが)
私は、これらの説は信じていません。

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/14(月) 23:01:57.64 ID:KKeHkD+V0.net
堀越の藤左衛門

黒駒の勝蔵に「風の強い日に友蔵が住む見附の町に火をつけろ」
と言われ、「そんな非道なことはできない」と断り勝蔵と義絶した。

相手が兄弟分(兄貴分?)であろうと、許せないことは許せないという
意思を貫くカッコイイ男を想像してしまいます。

ただ、なんでも疑ってしまってはつまらないですが、
東海遊侠伝の勝蔵に関する記述はどうも……。

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/15(火) 18:47:06.03 ID:iSqPYa/G0.net
◆台湾人の顔面


淡褐色、広鼻、突顎、タラコ唇


ラオスっぽいような、ポリネシアっぽいような、

つか、ハノイですね〜

実にハノイ!

https://www.youtube.com/watch?v=5bE6lSX4yK0
http://www.gmjh.tc.edu.tw/mediafile/1040/active/288/2014-11%5C2014111413041_0.jpg
https://www.immigration.gov.tw/public/Attachment/3521157552.jpg
http://a.udn.com/focus/2015/10/02/12959/image/pic01.jpg
http://www.ksnews.com.tw/upload/2014-04-20_20b06004_.jpg
http://static.ettoday.net/images/793/d793043.jpg
http://img.chinatimes.com/newsphoto/2015-05-18/656/20150518003862.jpg
https://anntw-prod.s3.amazonaws.com/assets/images/000/001/732/big/HBL.JPG?1385383160
https://i.ytimg.com/vi/9YL_k_JZ_dI/hqdefault.jpg
http://www.on9g.com/cn/customavatars/66275.jpg
http://bibibi.info/w/wp-content/uploads/2012/01/20120108-00000521-san-000-0-view.jpg
http://news.xinhuanet.com/school/2010-03/04/xinsrc_222030704080396881592.jpg
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/95/0000035795/99/img6388079azikazj.jpeg
http://www.wsm.ks.edu.tw/images/20110407024518.jpg

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/15(火) 23:47:31.31 ID:R+T8XGJ10.net
>>554
なるほど田中屋万五郎=石和の万五郎か!いや、考えもしなかったです。これは本当面白い。
ただ結論から言えば、私ごときの知識ではわからんです。(笑)スミマセン。

近世侠客有名鏡は、やはりどうやら講談・芝居・新聞小説といった当時のメディアが土台になってるようで、
例えば赤尾林蔵に代表される「関東七人男」や天保水滸伝の国芳の絵の人物(笹川、飯尾、勢力、州之嵜、神楽獅子など)、
あと番随院の歌舞伎なんかを基にランクインしています。

ところがわからない人が二三人いて、その筆頭が「身延の半五郎」継いで(私的には)石和の万五郎、虎五郎です。

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/15(火) 23:57:50.49 ID:R+T8XGJ10.net
それでも最近、旭堂南陵の講談「甲斐の祐天」のなかに、祐天仙之助と対立する石和陣屋の御用聞きとして
「石和虎五郎」の存在を見つけることが出来たので、あるいは当時の講談本を当ってゆけば、
これらの人物を出すことができるのかもしれません。

「講談師見てきたようなウソを言い」とはよく聞かれるフレーズですが、時々よっぽど内実を知らなければ書けないような真実を
講談が暴いていることがあり、そう言う時は正直背中がぞッとしますね。

559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 00:19:09.98 ID:rBQ1NBes0.net
藤左衛門は確かに格好いい。
彼は山梨之巳之助の子分だった言いますが、正直巳之助自体「森の五郎」を斬ったとしか
知りません。森之五郎は石松の親分で、次郎長でさえ「あんな良い人が畳の上で死ねないなんて」と言ってる程の人です。

藤左衛門が黒駒とたもとを分かって、大和田友蔵の所に仲直りに来た時に、友蔵も
泣いて喜んだと言うから、彼もまた格好いい。

堀越藤左衛門、本姓塚元。詳しいかどうかはともかく「近代デジタル」の大正六年
『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』に一ページ割かれて詳細があります。

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 00:19:45.24 ID:rBQ1NBes0.net
というわけで
山梨の巳之助

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 20:33:35.61 ID:xE7swy/U0.net
友蔵の子分の首を斬って首実検。
それがもとで遠島。島抜けを試みるものの失敗し、処刑。
でしたっけ?

東海遊侠伝で、次郎長と都田一家の仲裁をしようとした
関東の巳之助と同一人物ととらえてよいのでしょうか?
聞いてばかりで申し訳ありません。

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 21:38:20.88 ID:xE7swy/U0.net
侠客有名鏡をあらためて眺めてみました。
武州 田無ノ万五良という名前も挙がっているので、
こっちの方が田中屋万五郎っぽいですね。
もちろん、同一人物を別人として伊沢の万五郎としてしまった
という可能性もありますが。

>>554に挙げた書物では、伊沢の虎五郎=江戸屋虎五郎としていますが、
やはり私はこの説にはうなずけません。

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 22:28:32.59 ID:rBQ1NBes0.net
>>561
いやいや詳しいなあ。というより文献を読む勘所を押さえているのかな。
私は巳之助なんて名前しか気になりませんでしたよ。遠島とはね。
(ちなみに袋井の山梨は「転がり月」で有名らしいですが、未だになんのことかわかりません。)

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 22:35:39.65 ID:rBQ1NBes0.net
今川徳三先生も、あまり多く書くうちについ風呂敷を広げてしまったのでしょうが、
しかしそれを差し引いても、その功績はすごいものがあると思います。
「関東取締出役」だったかを主に扱った著作は、それはすごく真摯で勉強になる本です。
(題名を思い出したら、また紹介しますね。)

あと「田無の万五郎」。やっぱりこれは稲荷様事、増五郎のことじゃないかな。
田中屋万五郎は明治3年に75歳で亡くなりますが、数年して全部忘れ去られたんでしょう。
同じ府中宿には小次郎もいたし、
有能だけど、基本的に地域にとって煙たい存在だったようだから。

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 22:37:43.34 ID:rBQ1NBes0.net
最近知った面白い情報は
かの樋口一葉が明治26年6月の日記で、次郎長の葬式を取り上げてることですね。
(もうみんな御存じかもしれないけど。)

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 23:34:31.18 ID:QkHkKDrX0.net
>>561-562
失礼ですがなるべくageないでsageてもらえませんか?
スレが板の上のほうにあると荒らしが寄って来やすいし
レスする時mail欄に半角英数でsageと入れるだけですから

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/18(金) 06:02:36.17 ID:AST6BTiK0.net
「天保水滸伝の原作者 正岡容」の続き

阪井久良伎の宴を開催 正岡容(4)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/299368

市川真間に住む 正岡容(5)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/302324

市川の桜花を楽しむ 正岡容(6)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/305262

永井荷風が訪問 正岡容(7)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/308421

荷風との交流 正岡容(8)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/311252

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:28:05.43 ID:UK9bRWhT0.net
一流の研究者にケチをつけるようだが、高橋敏の『博徒の幕末維新』に大場久八のことについて
「このとき久八は抜身の長脇差、鑓や鉄砲で武装した子分を二二、三人引きつれ、百姓町人・無宿関係なく
襲い殺害している。久八は武闘派の博徒の親分であった。」と記述する部分がある。

しかしこの時の事件について、筆者が参照にした元史料には
「…表之方に久八罷立ち、挨拶いたし尤惣蔵之外百姓には決して差構え申まじくと再三高声に呼〇(切れて読めず)」
とあり、百姓には決して手を出さないように宣言してから攻撃を加えていることがわかる。
久八は「百姓町人関係なく」襲い殺害はしていないのである。

569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:39:16.43 ID:UK9bRWhT0.net
虎造の「玉屋玉吉」をyoutubeに上げてくれている人がいて聞いたのだが、
いや、面白かった。
子母澤寛『駿河遊侠伝』ではにべもなく小僧扱いされている玉吉だけども、
それなりに良い男として描かれている。もっとも老獪な次郎長には歯が立たないが。

一点興味深いのは信州の十手持ち、岡田ノ瀧蔵を情け深い好々爺としていることだ。
彼と実際に会ったこともある相ノ川又五郎は、自伝の中で瀧蔵を「蛇蠍の如く嫌な奴だ」
としている。どちらが正しいのかは知る由も無い。

570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:40:52.95 ID:UK9bRWhT0.net
という訳で
岡田ノ瀧蔵

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:47:39.70 ID:UK9bRWhT0.net
>>546
享保11年はけっこうきついなあ。個人的には文化年間以前には、なかなか興味が
向かない。

御仕置類例集というのが国会図書館のデジタルにあります。それはもう膨大な量ですが、
ひょっとしたらその中にあるかもしれません。この史料、表題にある「事件」をそれ以前の「事件」に
照らし合わせて罪科を決めるという形式をとっており、事件に拠っては大変古い例類が記録されている可能性が
期待できるのです。 できるのは、こんな参考にもならんコメントだけです。すんません

572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/21(月) 00:16:44.41 ID:41GOZnUs0.net
>>566
失礼いたしました。sage進行ですね。

>>564
田無には田中屋とは別の>>119>>205の貫録のある親分がいたのですね。
当時有名であっても、何年か後にはすっかり忘れ去られてしまった人は多いのでしょうね。

>>565 
当時、一地方の博徒の親分がどれだけの知名度があったのか?
どのようなエピソードを知っていたのか?
いろいろ考えられて面白いです。

573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/21(月) 19:34:17.02 ID:6guv2r380.net
>>570
岡田の瀧蔵は相の川又五郎と敵対した博徒、預かっていた石塔料を横領した人物として
又五郎の自伝に出ていますね。
又五郎から見れば嫌な奴だったのでしょうね。
東海遊侠伝には黒駒の勝蔵捕縛のため信州から遠州まで追ってきた目明しとして出ています。
どのような人物かまでは描かれていないようです。

>>560
ちょっと戻りますが、森の五郎が間違いを起こしたため、
親分の巳之助が五郎を殺害しよとしていたところを
相の川又五郎が間に入って五郎を救った、ということもあったようです。

574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/21(月) 22:49:33.78 ID:lO/gAMN80.net
またわかりづらい文章で情けない。
563で「筆者が参照にした元史料」というのは「高橋氏が参照したであろう元史料」
という意味。
ちなみに史料は江川文庫の嘉永二年「公事方御用留」だろう。

この時久八が引きいていた子分連を同史料から上げておく。
久八直参の市五郎、甚助、直蔵。
甲州無宿の鶴吉、菊次郎、幸吉、庄兵衛。
豆州無宿為吉、辰五郎、兼次郎、周助、友吉
駿州無宿万吉、源左衛門、安五郎、民吉、権次郎。
尾州無宿竹次郎、武州無宿平八、遠州無宿市五郎。
以上ニ十名。

575 ::2016/03/28(月) 02:55:19.82 ID:4TzgpirL0.net
>>571
講談を聴いててなんとなく疑問がわいて
ググってみたけどわかりませんでした

ヘンな質問にレスいただいて恐縮です


>>572
ご協力ありがとうございます

以前は削除とかアクセス禁止とか荒らし対策があったけど
2ちゃんの体制が変わってから機能してないので
なるべく目をつけられないようにするのが得策だと思いますです

576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/29(火) 22:23:58.57 ID:mRrHNTMi0.net
いわゆる岡っ引のことだが、
正式には「道案内」と言う。正式には、と言っても改革組合村での名称という意味だ。
組合村は八州廻りの支配下に置かれた。だから体面上、八州廻りが罪人の逮捕に向かう際に、その
道案内をするという意味で、そう呼ばれる。だが、実際は道案内が主体となって悪党の捕縛にいそしんでいたのだ。
彼らは十手を携帯し、たいていはそれに木刀で、悪徒と対決した。それで刃物を持つ者を抑え込むのだから、
たいした力量だ。また一日「数十里」は駈けることができなけらばならぬ、としている。
割と誰でもなれる者ではなかった。

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/29(火) 22:30:38.16 ID:mRrHNTMi0.net
道案内の研究は割とポピュラーだが、やっぱり一番インパクトが強いのは
川田純之の「改革組合村の内部構造の検討」だろう。長いけど色々興味深い。
特に天保十五年、徳川吉宗以来忌み嫌われ続けていた岡っ引が、正式に公の制度に
組み入れられた、という点を明らかにしたことは大きい。
ちなみに同論文によれば、道案内の仕事は大まかにわければ大体次の通りだという。

・手配者の捕縛 ・事件や不審者の探索 ・紛争の内在 ・囚人の護送
・大惣代や八州廻りの出張の伴 ・役人の手紙の配達

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/29(火) 22:37:35.20 ID:mRrHNTMi0.net
組合村の道案内に対して、藩領や幕領では「目明し」の名称が使い続けられたようである。
たとえば川越藩だと「目明し」の名称は割と史料上よく目にするし、それが
「正目明し」「仮目明し」「在目明し」に三つに分けられていることがわかる。
仮目明しは、活躍に応じて正目明しになったようだ。対して在目明しというのは
地元の侠客で十手を預けられて地域の治安を守るように言いつけられた者を指すらしい。
同藩ならば江戸屋虎五郎を育てた獅子ヶ岳重五郎なんかがそれに当る。甲府なら両国屋や祐天がそれ。

ちなみに立場としては、道案内より目明しの方が少しばかり上だったようだ。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/30(水) 18:39:11.18 ID:mgqGoV6r0.net
>>568
『博徒の幕末維新』の該当箇所を読んで、
「韮山代官と久八の間に闇に光る一筋の糸が存在していたのでは」ともあるので、
百姓町人まで殺す大悪党を咎めもしないのはおかしいと疑問を感じていました。
しかし、そのような史料の読み間違いだとすれば、いささか驚きですね。
このケースに限ったことではありませんが、
専門家の著作だからといってすべて鵜呑みにするのは禁物と、改めて感じました。

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/30(水) 18:42:12.52 ID:mgqGoV6r0.net
>>574
意味は把握できていましたからご心配なく。

「公事方御用留」は『江川担庵全集』に収録されているのでしょうか。
公共図書館の所蔵も少ないようなので、閲覧の機会が限られますね。

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/31(木) 18:29:07.97 ID:mF1SMVLQ0.net
>>576-578
『史学』第56巻掲載「改革組合村の内部構造の検討」は、修士論文の抄録のようですね。
元の論文はさらに詳しいのなら、そちらも読んでみたいと思いました。
ただ、この抄録でも充分に興味深いです。

「正目明し」はどのように定義づければよいのでしょう。
「身元の確かな地元在住者」でしょうか?
だとすると、その中に実戦向きの人物がどれだけいたのか気になります。

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/31(木) 21:47:14.69 ID:euWn4MIP0.net
>>580
国文学研究資料館の「収蔵歴史アーカイブスデータベース」から
江川家文書へ入ってみてください。マイクロフィルムがありますので、その中に
「公事方御用留」嘉永二年があります。

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/31(木) 21:52:51.04 ID:euWn4MIP0.net
>>581
どういう基準で仮目明しが正目明しになったかは残念ながら私にはわかりません。
ただ天保〜安政くらいまで勤めていた「鶴松」という人をモデルにしました。
天保15年には仮目明し、嘉永元年あたりで正目明しになってます。史料は…忘れてしまった…

あと鶴松は金石文で高萩万次郎より上に刻まれているので、目明し>道案内と認識したわけです。
何の金石文かは、多分あなたならわかるでしょう。

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/01(金) 21:45:47.23 ID:V4Ac9Ttm0.net
>>582
ああ〜そちらでしたか…
翻刻資料があると思った私が愚かでした(笑)

>>583
誰もがまず仮目明しからスタートして
例えば何年か問題なく勤務したなどの条件を満たすと
正目明しに昇格、というイメージでしょうか?

もしも最初から正目明しに任命された人物がいたとすれば、
仮目明しとの違いは何なのだろう?と思ったもので。

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/02(土) 21:14:22.79 ID:FGv1n8Kh0.net
川越藩領は多摩や入間、あるいは高麗などの地域に飛び地の様に点在していることが
あって、なかなか厄介だ。
川越目明しについて、詳しく書かれているのは『富士見市史』(『富士見町史』だったかもしれない。)
目明しの親子のことが例に出されている。

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/02(土) 21:17:47.54 ID:FGv1n8Kh0.net
あと面白そうなのだけれども、途中でどうしても挫折してしまう『目明し金十郎の生涯』。
これを読むと少しばかり「道案内」とは待遇が違うことがわかる。ただし金十郎は組合村より一世代くらい前の
時代の人なので、待遇に違いがあってもおかしくはないか。

587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/07(木) 00:16:23.97 ID:R3C9BYUA0.net
今さらだが532の七五蔵は間違い。正しくは「七五三蔵」で(しめぞう)
私は誤字脱字は死ぬほど多い。すみません。

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/07(木) 00:32:46.54 ID:R3C9BYUA0.net
大場久八が幕末の最後に捕まったのは慶応4年四月のこと。
上吉田の広吉と共に捕縛された。広吉は過去に殺人を犯し、富士宮に逃げていたらしい。
そこで久八と知り合い、子分(または弟分)になった。彼がいわゆる「石和ノ広吉」かは不明。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/07(木) 18:03:19.91 ID:WNwYW+uK0.net
国定忠治が呑龍大光院(太田市)の蔵から2千両を盗み出したという逸話があるようですが、
まったくのフィクションか、あるいは実際にあった出来事か、どちらでしょうか?
大光院について調べてみたのですが、忠治との関連がわからず疑問に思っています。

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/08(金) 20:10:02.38 ID:3KetwiD70.net
どうも天保7年前後のことのようですね。恥ずかしながら上州侠客に関しては
人並みの知識しか持ち合わせがないもので…しばらく時間がかかりますが、
調べてみたく思います。明確な回答ができず、すみません。

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/08(金) 20:15:28.00 ID:3KetwiD70.net
>>515
いまだ鵜ノ目屋傳吉についてはわからないのですが、大棚村での事件記事をみつけたので
一寸報告を。
『公私日記』安政4年4月24日条に、大棚村で殺人があり、下手人はその遺体の首を斬り、
質屋へ押しかけ、「首をカタに」という名目で70両を奪い取った、
という事件があったと記されています。あるいはその時期を狙って関連資料にあたれば
伝吉にたどりつけるかもしれません。

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