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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/16(水) 23:34:31.18 ID:QkHkKDrX0.net
>>561-562
失礼ですがなるべくageないでsageてもらえませんか?
スレが板の上のほうにあると荒らしが寄って来やすいし
レスする時mail欄に半角英数でsageと入れるだけですから

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/18(金) 06:02:36.17 ID:AST6BTiK0.net
「天保水滸伝の原作者 正岡容」の続き

阪井久良伎の宴を開催 正岡容(4)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/299368

市川真間に住む 正岡容(5)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/302324

市川の桜花を楽しむ 正岡容(6)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/305262

永井荷風が訪問 正岡容(7)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/308421

荷風との交流 正岡容(8)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/311252

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:28:05.43 ID:UK9bRWhT0.net
一流の研究者にケチをつけるようだが、高橋敏の『博徒の幕末維新』に大場久八のことについて
「このとき久八は抜身の長脇差、鑓や鉄砲で武装した子分を二二、三人引きつれ、百姓町人・無宿関係なく
襲い殺害している。久八は武闘派の博徒の親分であった。」と記述する部分がある。

しかしこの時の事件について、筆者が参照にした元史料には
「…表之方に久八罷立ち、挨拶いたし尤惣蔵之外百姓には決して差構え申まじくと再三高声に呼〇(切れて読めず)」
とあり、百姓には決して手を出さないように宣言してから攻撃を加えていることがわかる。
久八は「百姓町人関係なく」襲い殺害はしていないのである。

569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:39:16.43 ID:UK9bRWhT0.net
虎造の「玉屋玉吉」をyoutubeに上げてくれている人がいて聞いたのだが、
いや、面白かった。
子母澤寛『駿河遊侠伝』ではにべもなく小僧扱いされている玉吉だけども、
それなりに良い男として描かれている。もっとも老獪な次郎長には歯が立たないが。

一点興味深いのは信州の十手持ち、岡田ノ瀧蔵を情け深い好々爺としていることだ。
彼と実際に会ったこともある相ノ川又五郎は、自伝の中で瀧蔵を「蛇蠍の如く嫌な奴だ」
としている。どちらが正しいのかは知る由も無い。

570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:40:52.95 ID:UK9bRWhT0.net
という訳で
岡田ノ瀧蔵

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/20(日) 21:47:39.70 ID:UK9bRWhT0.net
>>546
享保11年はけっこうきついなあ。個人的には文化年間以前には、なかなか興味が
向かない。

御仕置類例集というのが国会図書館のデジタルにあります。それはもう膨大な量ですが、
ひょっとしたらその中にあるかもしれません。この史料、表題にある「事件」をそれ以前の「事件」に
照らし合わせて罪科を決めるという形式をとっており、事件に拠っては大変古い例類が記録されている可能性が
期待できるのです。 できるのは、こんな参考にもならんコメントだけです。すんません

572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/21(月) 00:16:44.41 ID:41GOZnUs0.net
>>566
失礼いたしました。sage進行ですね。

>>564
田無には田中屋とは別の>>119>>205の貫録のある親分がいたのですね。
当時有名であっても、何年か後にはすっかり忘れ去られてしまった人は多いのでしょうね。

>>565 
当時、一地方の博徒の親分がどれだけの知名度があったのか?
どのようなエピソードを知っていたのか?
いろいろ考えられて面白いです。

573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/21(月) 19:34:17.02 ID:6guv2r380.net
>>570
岡田の瀧蔵は相の川又五郎と敵対した博徒、預かっていた石塔料を横領した人物として
又五郎の自伝に出ていますね。
又五郎から見れば嫌な奴だったのでしょうね。
東海遊侠伝には黒駒の勝蔵捕縛のため信州から遠州まで追ってきた目明しとして出ています。
どのような人物かまでは描かれていないようです。

>>560
ちょっと戻りますが、森の五郎が間違いを起こしたため、
親分の巳之助が五郎を殺害しよとしていたところを
相の川又五郎が間に入って五郎を救った、ということもあったようです。

574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/21(月) 22:49:33.78 ID:lO/gAMN80.net
またわかりづらい文章で情けない。
563で「筆者が参照にした元史料」というのは「高橋氏が参照したであろう元史料」
という意味。
ちなみに史料は江川文庫の嘉永二年「公事方御用留」だろう。

この時久八が引きいていた子分連を同史料から上げておく。
久八直参の市五郎、甚助、直蔵。
甲州無宿の鶴吉、菊次郎、幸吉、庄兵衛。
豆州無宿為吉、辰五郎、兼次郎、周助、友吉
駿州無宿万吉、源左衛門、安五郎、民吉、権次郎。
尾州無宿竹次郎、武州無宿平八、遠州無宿市五郎。
以上ニ十名。

575 ::2016/03/28(月) 02:55:19.82 ID:4TzgpirL0.net
>>571
講談を聴いててなんとなく疑問がわいて
ググってみたけどわかりませんでした

ヘンな質問にレスいただいて恐縮です


>>572
ご協力ありがとうございます

以前は削除とかアクセス禁止とか荒らし対策があったけど
2ちゃんの体制が変わってから機能してないので
なるべく目をつけられないようにするのが得策だと思いますです

576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/29(火) 22:23:58.57 ID:mRrHNTMi0.net
いわゆる岡っ引のことだが、
正式には「道案内」と言う。正式には、と言っても改革組合村での名称という意味だ。
組合村は八州廻りの支配下に置かれた。だから体面上、八州廻りが罪人の逮捕に向かう際に、その
道案内をするという意味で、そう呼ばれる。だが、実際は道案内が主体となって悪党の捕縛にいそしんでいたのだ。
彼らは十手を携帯し、たいていはそれに木刀で、悪徒と対決した。それで刃物を持つ者を抑え込むのだから、
たいした力量だ。また一日「数十里」は駈けることができなけらばならぬ、としている。
割と誰でもなれる者ではなかった。

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/29(火) 22:30:38.16 ID:mRrHNTMi0.net
道案内の研究は割とポピュラーだが、やっぱり一番インパクトが強いのは
川田純之の「改革組合村の内部構造の検討」だろう。長いけど色々興味深い。
特に天保十五年、徳川吉宗以来忌み嫌われ続けていた岡っ引が、正式に公の制度に
組み入れられた、という点を明らかにしたことは大きい。
ちなみに同論文によれば、道案内の仕事は大まかにわければ大体次の通りだという。

・手配者の捕縛 ・事件や不審者の探索 ・紛争の内在 ・囚人の護送
・大惣代や八州廻りの出張の伴 ・役人の手紙の配達

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/29(火) 22:37:35.20 ID:mRrHNTMi0.net
組合村の道案内に対して、藩領や幕領では「目明し」の名称が使い続けられたようである。
たとえば川越藩だと「目明し」の名称は割と史料上よく目にするし、それが
「正目明し」「仮目明し」「在目明し」に三つに分けられていることがわかる。
仮目明しは、活躍に応じて正目明しになったようだ。対して在目明しというのは
地元の侠客で十手を預けられて地域の治安を守るように言いつけられた者を指すらしい。
同藩ならば江戸屋虎五郎を育てた獅子ヶ岳重五郎なんかがそれに当る。甲府なら両国屋や祐天がそれ。

ちなみに立場としては、道案内より目明しの方が少しばかり上だったようだ。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/30(水) 18:39:11.18 ID:mgqGoV6r0.net
>>568
『博徒の幕末維新』の該当箇所を読んで、
「韮山代官と久八の間に闇に光る一筋の糸が存在していたのでは」ともあるので、
百姓町人まで殺す大悪党を咎めもしないのはおかしいと疑問を感じていました。
しかし、そのような史料の読み間違いだとすれば、いささか驚きですね。
このケースに限ったことではありませんが、
専門家の著作だからといってすべて鵜呑みにするのは禁物と、改めて感じました。

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/30(水) 18:42:12.52 ID:mgqGoV6r0.net
>>574
意味は把握できていましたからご心配なく。

「公事方御用留」は『江川担庵全集』に収録されているのでしょうか。
公共図書館の所蔵も少ないようなので、閲覧の機会が限られますね。

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/31(木) 18:29:07.97 ID:mF1SMVLQ0.net
>>576-578
『史学』第56巻掲載「改革組合村の内部構造の検討」は、修士論文の抄録のようですね。
元の論文はさらに詳しいのなら、そちらも読んでみたいと思いました。
ただ、この抄録でも充分に興味深いです。

「正目明し」はどのように定義づければよいのでしょう。
「身元の確かな地元在住者」でしょうか?
だとすると、その中に実戦向きの人物がどれだけいたのか気になります。

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/31(木) 21:47:14.69 ID:euWn4MIP0.net
>>580
国文学研究資料館の「収蔵歴史アーカイブスデータベース」から
江川家文書へ入ってみてください。マイクロフィルムがありますので、その中に
「公事方御用留」嘉永二年があります。

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/03/31(木) 21:52:51.04 ID:euWn4MIP0.net
>>581
どういう基準で仮目明しが正目明しになったかは残念ながら私にはわかりません。
ただ天保〜安政くらいまで勤めていた「鶴松」という人をモデルにしました。
天保15年には仮目明し、嘉永元年あたりで正目明しになってます。史料は…忘れてしまった…

あと鶴松は金石文で高萩万次郎より上に刻まれているので、目明し>道案内と認識したわけです。
何の金石文かは、多分あなたならわかるでしょう。

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/01(金) 21:45:47.23 ID:V4Ac9Ttm0.net
>>582
ああ〜そちらでしたか…
翻刻資料があると思った私が愚かでした(笑)

>>583
誰もがまず仮目明しからスタートして
例えば何年か問題なく勤務したなどの条件を満たすと
正目明しに昇格、というイメージでしょうか?

もしも最初から正目明しに任命された人物がいたとすれば、
仮目明しとの違いは何なのだろう?と思ったもので。

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/02(土) 21:14:22.79 ID:FGv1n8Kh0.net
川越藩領は多摩や入間、あるいは高麗などの地域に飛び地の様に点在していることが
あって、なかなか厄介だ。
川越目明しについて、詳しく書かれているのは『富士見市史』(『富士見町史』だったかもしれない。)
目明しの親子のことが例に出されている。

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/02(土) 21:17:47.54 ID:FGv1n8Kh0.net
あと面白そうなのだけれども、途中でどうしても挫折してしまう『目明し金十郎の生涯』。
これを読むと少しばかり「道案内」とは待遇が違うことがわかる。ただし金十郎は組合村より一世代くらい前の
時代の人なので、待遇に違いがあってもおかしくはないか。

587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/07(木) 00:16:23.97 ID:R3C9BYUA0.net
今さらだが532の七五蔵は間違い。正しくは「七五三蔵」で(しめぞう)
私は誤字脱字は死ぬほど多い。すみません。

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/07(木) 00:32:46.54 ID:R3C9BYUA0.net
大場久八が幕末の最後に捕まったのは慶応4年四月のこと。
上吉田の広吉と共に捕縛された。広吉は過去に殺人を犯し、富士宮に逃げていたらしい。
そこで久八と知り合い、子分(または弟分)になった。彼がいわゆる「石和ノ広吉」かは不明。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/07(木) 18:03:19.91 ID:WNwYW+uK0.net
国定忠治が呑龍大光院(太田市)の蔵から2千両を盗み出したという逸話があるようですが、
まったくのフィクションか、あるいは実際にあった出来事か、どちらでしょうか?
大光院について調べてみたのですが、忠治との関連がわからず疑問に思っています。

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/08(金) 20:10:02.38 ID:3KetwiD70.net
どうも天保7年前後のことのようですね。恥ずかしながら上州侠客に関しては
人並みの知識しか持ち合わせがないもので…しばらく時間がかかりますが、
調べてみたく思います。明確な回答ができず、すみません。

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/08(金) 20:15:28.00 ID:3KetwiD70.net
>>515
いまだ鵜ノ目屋傳吉についてはわからないのですが、大棚村での事件記事をみつけたので
一寸報告を。
『公私日記』安政4年4月24日条に、大棚村で殺人があり、下手人はその遺体の首を斬り、
質屋へ押しかけ、「首をカタに」という名目で70両を奪い取った、
という事件があったと記されています。あるいはその時期を狙って関連資料にあたれば
伝吉にたどりつけるかもしれません。

592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/08(金) 21:23:47.77 ID:3KetwiD70.net
御油の玉屋の玉吉というのは、資料(といっても聞き書きだが)によれば
館林の玉吉とされる。父親の源六が館林の出なのかもしれない。

ここで興味深いのは、かの足利市寿徳寺にある江戸屋一家の碑の存在だ。
虎五郎の建立とも言われるが、多分そうではない。(理由はまた機会があれば書く。)
この碑の中には「久六、安政2年6月1日」とあって、これが穂北の久六のことであるとか、ないとか
研究者の中で話題になるやつだ。で、久六にばかり話題が行くが、次いで「玉吉 慶応3年 勢州立野町戦死」
とある。 これはあるいは玉屋の玉吉のことじゃないだろうか。

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/09(土) 22:19:06.14 ID:heR/RmJF0.net
>>590
恐れ入ります。
忠治は盗み出した金を窮民に施したことになっている様子ですね。
仮に虚構であったとしても、講談など広く流布した話だとわかれば
それはそれでありがたく存じます。

594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/09(土) 22:32:19.56 ID:heR/RmJF0.net
>>591
貴重な情報をありがとうございます。
鈴木平九郎の日記ですね。

ずいぶん血腥い事件で、あまり想像したくないような…
ご教示いただいたことを、問い合わせ元に早速知らせたく存じます。

595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/09(土) 23:49:58.50 ID:WYtl1w7X0.net
大棚村の一件は全く伝吉さんとは関係ないと思うので、あまり期待せんで下さい。

あと『公私日記』でちょっと面白い仁侠関係の記事として、天保12年10月5日条に
唐丸籠で八王子を送られていった碓氷峠関所破りの13人が、「銭を撒きながら」送られていった、
というのは「国定」一家のことでしょう。このことに関して言及している研究はないですが、
嘉永3年、忠次自身が刑場に引かれるに及び、銭を撒いているので、国定一家の慣習だったとみていいのでしょうか。

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/09(土) 23:51:12.12 ID:WYtl1w7X0.net
最後の一文「いいのではないでしょうか」と書きたかったんです。すみません。

597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/10(日) 02:05:18.03 ID:WGcFPczO0.net
火渡りで無病息災願う 鈴鹿 (読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20160407-OYTNT50324.html

> 鈴鹿市高塚町の荒神山観音寺で7日、
> 燃やした護摩の残り火の上を歩いて無病息災、
> 家内安全を祈願する火渡りが行われた。

> 同寺は、講談や浪曲などで有名な吉良の仁吉ら博徒同士の争い
> 「荒神山の喧嘩」の舞台として知られる。

598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/11(月) 22:05:53.38 ID:Rbw0AHhn0.net
>>595-596
興味深い逸話をありがとうございます。
おそらくご存知と思いますが、高橋敏『国定忠治』に
「道々忠治は銭をつまみ出し、蒔銭をしながらの道中であった」
とだけ触れている箇所がありました。

これもご存知と思いますが、
忠治は近隣の親分衆やお上とうまく馴れ合う政治力を持ち合わせなかったので、
庶民を味方につけるしかなかった、という説をどこかで読んだ覚えがあります。
そういう見方をするなら、護送中の蒔銭も庶民の支持を得るため、
死んでもせめて「義人」の名を残すため、なのかもしれません。
敢えて体制に反発し庶民の味方であろうとした、と捉えたい気もしますけど。

599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/11(月) 22:18:59.89 ID:IWqnfgih0.net
山ヶ谷戸、三保谷、荒井、高尾、久下、石原、田中
みんな荒川川岸の町の名前だ。往時これらの村落は舟運の船着き場で莫大な
富が動いた。
これらの地域に幕末侠客が排出されたのもむべなるかな、だ。

山ヶ谷戸源太郎、三保谷の長次郎、長吉、荒井の文七、高尾の弾七、久下の長吉、石原の幸次郎、
田中の岩五郎

600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/11(月) 22:28:24.14 ID:IWqnfgih0.net
ちなみに石原村の幸次郎。武州熊谷在の博労(馬飼商人)だったと言われる。
争い事が好きで「喧嘩幸次郎」の異名をとった。隣村田中村の三村岩五郎の子分だったと言う。
幸次郎、姓は不詳。甲府で非人善九郎子分の久次郎、弥左衛門によって捕まる。
最後まで女房(一説に人妻、妾)と共にいたようで、二人づれで江戸へ送られたらしいことが資料に残る。

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/12(火) 03:11:45.15 ID:lOomDAu50.net
そもそも、なぜヤクザの存在は法律違反ではないのか?
http://jp.sputniknews.com/japan/20160411/1939689.html

> ヤクザの世界に詳しい鈴木啓之氏(シロアムキリスト教会牧師)によれば、
> それは歴史的な経緯のためだという。

> ヤクザはもともと二種類しかなかった。
> 博徒(ばくと)と呼ばれるギャンブルを生業にする人と、テキヤと呼ばれるお祭りで商売する人だ。
> 博徒とテキヤが生きる道はそれぞれ「仁侠道」「神農道」と呼ばれており、
> どちらも「道」という字がついている。
> つまり、こう生きるべきだという方向性があったのだ。

> 彼らは自分たちの「分」というものをよく理解していた。
> 日陰者という言葉の通り「自分たちはお天道様の当たるところを歩いてはいけない」という意識があったという。
> かつてのヤクザは、抗争にもつれこむと本来の商売ができなくなるため、
> できるだけ抗争をしないようにしていた。

> しかし自分たちのシマを荒らされたり、名誉を傷つけられたりすると、
> 男として生きる上で面子が立たなくなるため、抗争に臨んだ。

> しかし今では取り締まりが厳しくなり、博徒やテキヤという生き方はできなくなった。

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/12(火) 23:27:34.62 ID:dHniF7zJ0.net
前に露天商の主人にお話しを伺ったことがあるのだが、自分たちはヤクザではないと
言っていたし、私も聞いていてそう思った。この方は父親の代から近隣の香具師の頭的
存在だったが、自らのことは決して「親分」とは呼ばせず「帳元」と呼ばせた。

まず博徒の世界が現代ヤクザ化し「みかじめ料」をとるようになって、テキヤの内で
それを払ってしまったものもヤクザとなる、簡単に言えばそんな話を聞いた。

ただ、どの辺りから「現代やくざ化」は難しい、あるいは次郎長や小次郎の晩年の頃からなのかもしれないし、
あるいは熱海一家から稲川会が出てきた時かもしれない。

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/12(火) 23:45:55.03 ID:dHniF7zJ0.net
上萬さんは生涯一度も他所と事を構えたことがない。ここは旅人の間でも「江戸の極楽」
なんて言われたと聞くが、
実際、志村九内氏の伝を読む限りでは、そんな甘いものではなかったようだ。

また文芸評論家の秋山俊は著述の中で、確かに戦後は、ヤクザの方が警官よりずっと便りになった、
と記している。行程否定はともかく、秋山氏にそう思わせるだけの事実は確かにあったのだろう。

604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/12(火) 23:48:12.90 ID:dHniF7zJ0.net
またしても間違えてしまったよ。秋山俊ではなく「秋山駿」だ。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/15(金) 05:19:27.89 ID:IISVEvHm0.net
リンク先の全文を読んでみて、
こちらの常連の方ならご異論がありそうに思いましたが、
説明していただき参考になりました。

昨今こうした話題を取り上げること自体が憚られるような風潮ですし、
かつての仁侠と現代の反社会勢力とを区別できない人が非常に多いので
この記事が公表されたこと自体はポジティブに捉えたいと思います。

606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/15(金) 05:23:43.89 ID:IISVEvHm0.net
昨日BSプレミアムで
菅原文太が会津の小鉄を演じた「炎のごとく」を放送したそうですが、
生憎と視聴できませんでした。

Wikipedia「炎のごとく」の項目ページによると、
愛する女を殺された仙吉(小鉄)が名張屋へ乗り込んだら
名張屋新蔵、新門辰五郎、薬師の梅吉、小金井小次郎がいて
彼らの説諭によって復讐をやめたようです。

この4人の親分衆が一堂に会するような可能性は、考えられるでしょうか。
娯楽映画にリアリティを求めても仕方ないとは思いますが、
なんとなく実際はどうだったのか知りたい気持ちになりました。

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/15(金) 23:06:14.01 ID:ihyWD/ix0.net
わからんことは、わからんと書くのが昔作家志望の友人と決めたルールなんで、
恥もなく名古屋新蔵、薬師の梅吉については、恥ずかしながら何もわかりません。

会津小鉄に関してもあまり詳しくないですが、子母澤寛先生の聞き書きのなかに、新場の子安と小鉄が諍いになって、
子安が子分を配備して準備してる所に、小鉄が一人、傘一本でやって来て、
それを見た子安が「偉いもんだ」と感心して(この子安の態度がまたすごい)、事を解いてお互い五分の兄弟分になった、
との話がでてきます。

最近刊行された国書刊行会の『侠客の世界』では前田晁の書き物の次に、興味深く読んだ部分に、
小次郎が安政3年3月21日、三宅に遠島になるに及んで、江戸の親分衆の船が総出で小次郎の別れを
見送ったという逸話が、どうやら事実だと記した部分があったことです。

一件「これはウソだろ」と言う部分も真実を伝えてることがあるかもしれず、
こういった点に敏感であると言う事は大事だと…
全く答えになってませんが…そう思う次第であります。

608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/15(金) 23:31:54.41 ID:ihyWD/ix0.net
国定忠治は嘉永三年には死んでしまうのですが、上記の薬師の梅吉の話にも、
小金井小次郎の話にも祐天仙之助の話にも、それから四文安の話にも出てくるので
侠客世界のレジェンドと言ってよいでしょう。大前田栄五郎は、その忠次の更に上なんで
大天窓なわけです。

さて最近見つかった小次郎の手紙では、小次郎は自分のことを「万歳村の勢力や国定村の忠次」より
悪い奴という風聞がたっていて困ると言ってます。また田中屋万五郎に(この人は岡っ引頭なのに)
名前を変えて出帆の日に会いに来て、面談してほしいと恥も外聞もなく言っています。

こういう事実は歴史学の先生方には、むしろ扱いが難しいのではないでしょうか。
*ちなみに「四文安」の名前が調布の御用留の中に現れますので、暇な人は探してみてください。

609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/16(土) 06:48:24.46 ID:O57Zi97f0.net
また酔っぱらっておかしいことを書きこんでしまいました。本当にすみません。

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/16(土) 23:27:41.57 ID:X6+BAKZR0.net
>>595
「侠客 原田常吉」にも唐丸籠で運ばれている道中、天保銭をまいた
という話がでてきます。
どのような意味を持っていたのかはわかりませんが、唐丸籠で運ばれる罪人、
あるいは博徒の中にはそのようなことをする人が多かったのかもしれませんね。

ただ、沿道の人は罪人がまく銭だから、恐くて容易には拾えなかったようです。

611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/16(土) 23:44:48.87 ID:X6+BAKZR0.net
>>601
蒸し返すようで申し訳ありませんが、

むしろ「こう生きるべき」というものを持たない、
好きなように生きたい人達が博徒になったのではないでしょうか。
あるいは、「好きなように生きる」ことが「道」だったのかもしれません。

シマを守るのも博徒ですし、シマを荒らすのも博徒です。
シマを守る側としては仕方なく抗争に挑むということになりますが、、
荒らす側としては好んで抗争を起こすということになります。

「仁侠道」というものはあっても、関連付けられる博徒は少ない気がします。
ただ、一家の親分や、特に地元の有力者となった親分は
何人もの人を束ねる上で何かしらの「道」を持ってはいたのでしょう。

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 13:41:35.15 ID:tPsKGUYj0.net
>>610
誠に失礼いたします。実は私その『侠客・原田常吉』を探していたことがあるのですが、
どこに所蔵されているのでしょうか。長谷川先生の御本の中では度々引用があるのですが、
(本当に恥ずかしながら)所蔵場所がわからない。

613 :sage:2016/04/17(日) 14:04:25.67 ID:ZRGktxiM0.net
>>610
残念ながら、私もその本を持っているわけではありません。
今、出先なので今夜にでも入手方法の詳細をお伝えできると思います。

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 17:34:43.46 ID:WrUIg3YG0.net
返信できる状況になったら返信すればいいだけで
出先云々などと余計なことを書く必要はありませんでした。申し訳ありません。
そして、スマホではsageは無効なようで、申し訳ありません。

本としての「侠客 原田常吉」は長谷川昇先生がお持ちのようでしたが、
残念ながらその長谷川先生も故人のようです。

入手方法と言うほど大袈裟でもないですが、
愛知県立図書館で過去の新聞のマイクロフィルムで閲覧が可能です。
1枚10円だか20円でコピーもできます(10年以上前のことなので記憶が定かではありません)。
新聞名は名古屋新聞。大正2年4月16日の「予告」から始まり、
本編は4月17日から6月29日まで48話あります。
連日のこともあれば、数日間あいて次の話、ということもあります。

解読不可な個所も随所にありますが、話の流れを阻害する程ではないかと思います。
不鮮明な個所を確認に再度訪れたことがありますが、解読が無理な個所はやはり無理でした。

あと、いつか行かれた時に落胆しないようあらかじめお伝えいたしますが、
残念ながら5月15日は欠号で、その中に24話目があったようです。
それでもかなり読み応えのあるものです。

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 17:59:44.08 ID:aoXt73lb0.net
ヨコから僭越ながら補足情報
「レファレンス協同データベース」より

質問:以下の資料の所蔵館が知りたい。
中尾霞山『侠客原田常吉』、同『常吉実歴談』

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041105

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 18:58:14.04 ID:tPsKGUYj0.net
>>614
>>615
御二方のご厚意誠に感謝いたします。特に前者の方、並々ならぬ御情熱に似たような興味を持つ者として
本当に嬉しく思います。

おそらくもって史料は、足で稼ぎ、またそれの価値を十分に享受できる者の前に現れるものだと
以前より感じておりますが、このスレッドを訪れる方々が、まさにそのような方々で
あることがわかり、感激しております。

617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 19:17:55.21 ID:WrUIg3YG0.net
>>616
私もお伝えできる方、わかっていただける方がいて本当にうれしいです。

ご存知、あるいはお持ちでしたら余計なお世話ですが、
「東海近代史研究」に水谷藤博氏の博徒に関する研究が掲載されおり
愛知県立図書館で閲覧できます。

そもそも、このマイクロフィルムとは

何かの参考文献で「東海近代史研究 第4号 高神山騒動余聞」の存在を知る。
4号だけあればいいのに1号〜4号の抱き合わせでしか売っておらず仕方なくセットで古本で購入。
1号〜3号にも博徒に関する興味深い論文が掲載されており興奮。
5号以降も欲しくなるが、古本でヒットしない(のちに無事に入手)。
愛知県立図書館で閲覧できることを知る。
現地へ赴き閲覧中、第8号で「侠客 原田常吉」が連載されていた新聞を知る。
図書館内で検索すると、館内で閲覧できることを知り大興奮。

という、自分としては奇跡の出会いでした。

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/18(月) 00:13:14.33 ID:c3zp4fDa0.net
>>607-608
拙レスにおつきあいいただいて恐れ入ります。
小金井小次郎は関西へ行っていた時期があるのか
寡聞にして存じませんので、何故この顔ぶれ?と思ったのみです。

聞くところによると、映画は禁門の変の場面で
土方歳三がすでに洋服のコートを着込みマフラーを巻いていたとか。
そういう映画についてこういう疑問を抱くのも間抜けでした(笑)

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/20(水) 00:39:37.98 ID:Os5m3YS70.net
博奕打ちのことを調べていると、自然岡引(道案内・目明し)のことにも詳しくなる。
かの三田村鷰魚翁は、幕末の岡引は十手を携帯しなかった、と言ってるが、
さすがの鷰魚氏も、これは間違い。
組合村の道案内に任じられた時点で、組合から金が出て「十手」を作ってもらうことが、
最近の文献であきらかになった。

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/20(水) 00:41:50.88 ID:Os5m3YS70.net
そうか「エン魚」の「エン」の字は出ないのだな。

ちなみに道案内は違うが、「目明し」はあるいは名字の名乗りを許されたのかもしれない。
そう思わせる史料が時々目につく。

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/20(水) 01:41:09.50 ID:TV+XSe4c0.net
第一水準漢字なので表示されないはずはないと思いますが

三田村鳶魚

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/21(木) 00:40:04.02 ID:jeH6EAvN0.net
「鳶魚」の件、有難うございました。前に書いた時は出たので、今回私がまちがえたのでしょう。

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/21(木) 00:47:16.59 ID:jeH6EAvN0.net
さて今さらだが275で、いわゆる荒神山手打ち式とされる写真。信じる信じないはともかく、
私が諸々聞いた限りで正しいと思われる情報を書こう。

・まずこれは明治14年、宮島俊蔵と増川仙右衛門の喧嘩の和会式の写真である。
・場所は東海道原宿の香貫屋旅館裏。撮影は三島の行方写真館だという。(出張)

624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/21(木) 01:09:08.88 ID:jeH6EAvN0.net
前列左から三番目が次郎長である点は従来通り。
その左隣(杖あり)の人が見附の友蔵。対して次郎長右隣は大胡の団平(大前田一家、この和解の仲裁役だった。)
友蔵の左隣(前列最左側)が長楽寺の清兵衛。
大胡の団平の右隣が三島の玉屋佐十郎。佐十郎の右隣(前列最右側)が日坂の栄次郎。

さて後列からは不明な人の方が多い。
まず日坂栄次郎と玉屋佐十郎の間に立って、こっちをまっすぐ見ている紋付を着ている人が、
かの宮島俊蔵。俊蔵の右隣は中島の由蔵。そしてその右隣(二列目最右側)が、江尻の房五郎。
ちなみに俊蔵の左隣(やや左上を見ている)のは団平の子分で名は伝わっていない。この男の左隣で
前列次郎長と団平の間に立っているのが増川仙右衛門。仙右衛門の左隣。次郎長の真後ろにいるのが、
今泉の佐太郎。佐太郎の左隣が賀茂の半三郎(大前田一家)。半三郎の左隣が阿幸地の定四郎である。
最後に宮島俊蔵と名無しの団平子分の間に最後列で立っているのが渡辺精次郎。(大場一家の四代目)

後の人は残念ながら不明。

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/24(日) 00:09:05.68 ID:gFoPoU8I0.net
桃李の小説では小金井小次郎の腹心として、まず陣屋の三之助、ついで稲荷の増五郎、それから
竹山の金五郎という人が出てくる。陣屋と稲荷はそれぞれ上でも記した。共に実在の人で関三之助と大谷増五郎(竹四郎)。
こうなると竹山の金五郎と言う人も多分実在の人ということになり、恐らくは「渡辺」姓の人だと思われる。「竹山」というのは近隣の字なのだろうが、
今のところ不明。
この渡辺は(これも推測だが、)小次郎の母「なお」の実家の名字のようである。

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/27(水) 20:03:32.04 ID:Bko6nf3p0.net
青梅・大柳の権左衛門
同じく権四郎

627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/27(水) 20:16:59.94 ID:Bko6nf3p0.net
青梅、大柳の荒井家は代々侠客。一説には安土桃山時代からつづく一家という。
七代目が平六(一応この人が一家初代となっているようだ。)
おそらく九代目が権左衛門、その息子が権四郎。

権四郎からは棚沢の権八(清川の権八)に一家を譲り、権八から倅の国太郎(気性の激しい人だったという)
明治にはいって国太郎から丹波山の喜作へと代が譲られた。

丹波山の喜作は、侠者として名をはせ、七ツ石の賭場の開帳時には周囲の警察署に挨拶を怠らず
集まる客人たちに迷惑をかけないように配慮した。また制材所を経営して地場産業にも貢献し、
村民のために自腹を切って吊り橋を造るなど、困ってる者への面倒見がよかったと言われる。

「スソオリに喜作があれば不足なし」とは里に伝わった唄である。

628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 00:19:41.22 ID:7CozeqNq0.net
たまたま拾ったレスが面白かったのでコピペ↓

41 :日曜8時の名無しさん:2015/11/07(土) 15:11:53.22 ID:uhNcw4iC
>>40
ちなみに前橋では大前田英五郎は偉人だよ。
どうしてかというと「藩主の松平家が百年間放棄した前橋をヤクザ者が護ってくれたから」

幕府からも見捨てられて廃藩処置になった前橋では、しょっちゅう酷い飢餓が訪れたん。
なのに責任者の藩主(実際は前橋に居たのは代官)も知らんぷりだし、年貢は実情も見ずに厳しくとりたてる。

その惨状を助けてくれたのが大前田組。
たびたび蔵を解放して私財でおまんまを振る舞ったそうだ。
名主も無責任な幕府じゃなくヤクザ者を信頼して、百年間のあいだ一種の自治区みたいだったらしい。
ちなみに俺の家は粕川でその名主の末裔の一人。
家伝にきちんと大前田英五郎の偉業が伝わってる。

あと、大前田英五郎が後を託したのが元博徒で初代前橋市長の下村善太郎。
潔癖の楫取にひどく嫌われたみたいだけど、下村善太郎も前橋人にとっては偉大な人だよ。
ちな、家伝には楫取のことは一切乗ってない笑

【2015年大河ドラマ】花燃ゆ Part89c2ch.net(過去ログ倉庫に格納)より
http://nhk.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1446807640/41

629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 00:23:20.31 ID:7CozeqNq0.net
下村善太郎と楫取素彦の関係を美談ふうに書いたもの↓

【至誠の人 楫取素彦物語】
中村紀雄(63) 博徒上がりの大商人
http://www.sankei.com/region/news/150723/rgn1507230045-n1.html

中村紀雄(64) 「県庁はぜひ前橋に」
http://www.sankei.com/region/news/150728/rgn1507280069-n1.html

中村紀雄(65) 県令、強引果敢に動く
http://www.sankei.com/region/news/150729/rgn1507290015-n1.html

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 12:22:20.40 ID:m0r2FJfJ0.net
津向の文吉
明治以前の史料はほとんどのこっていないが、地元では唄が残っているのであげてみよう。
「ツムギの文さん、火事より怖い、火事じゃ着物は焼けのこる」

文吉(文七?)の賭場を訪れれば、着物から何まで身ぐるみすべて剥がされる。
悪くすれば家財一式、更には女房まで失うはめになる、そういう意味らしい。

文吉はインテリで温厚な親分と言われる。八丈島遠島中は寺子屋を開いて学問を教授したり、医術を用いて病人を助けた、
そんな話が伝わる。
が、やはりそこは博奕打。真実は文吉の賭場で人生を狂わせた者も少なからず居たにちがいない。

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 12:28:24.68 ID:m0r2FJfJ0.net
>>628
やはり地元の人の印象は大事ですね。郷里の博奕打ちのことは、郷里の人にしかわからないことが
多数あるでしょう。
それができない立場であるのなら、少なくともその地へ実際におもむいて、彼らの足跡を無駄にでも歩いてみる
ことが絶対に必要でしょうね。この分野は一寸民俗学に似ているかもしれません。

632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/30(土) 19:21:31.82 ID:PQkdDvvM0.net
文政11年のものだが町奉行の役人が東海道を公用で旅した資料を見つけた。
当時の東海道沿いの「目明し」の名が出てくるので、書き付けてみる。

小田原宿:肴屋六兵衛、小松屋亀次郎
沼津宿 :糀屋次郎八、菊池屋和助
府中宿 :海老屋新兵衛、舛屋藤兵衛、八幡小路久安、文次郎、常蔵、彦次郎
掛川宿 :笠屋平次郎
見附宿 :七五郎
熱田宿 :鶴屋勇吉、菱田屋万兵衛、岡本屋新次、肴屋平七
浜松宿 :吉五郎

菊池屋和助は、おそらく沼津の和助(初代)のことだろう。大場久八の兄弟分と
伝承されているが、実態はどうやら十手持ちの親分だったようだ。

633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/01(日) 00:28:38.24 ID:JD4ex2Dw0.net
「近世侠客有名鑑」は明治20年から昭和10年までのバージョンがいまのところ
確認できる。このうち昭和10年のそれはかなり荒が削れて、
その道に詳しい人ならだいぶ納得できる番付けになっている。

634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/02(月) 23:58:53.48 ID:vKFOeH3g0.net
嘉永6年は祐天仙之助が駿州吉原宿で遊女を奪って、番太と斬り合いになる時期だが、
この年の冬、今度は武州入間郡島田村へ居住していたらしいことが林信海家文書に記される。
この近辺は、赤尾林蔵(やや古い)や石井伴内、観音菊、山ヶ谷戸源太、三保谷長次、久保忠らが
乱立していたところなんでありえんことではない。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/12(木) 22:16:12.35 ID:3BH7MWpG0.net
関東の岩五郎こと田中ノ岩五郎は剣術の達者だったらしい。
そういえば墓石にも「門人」として長在家の仙五郎の名が上がっている。
誰に習った、流派は何流かは不明だが、本格的なものだったのだろう。

地元深谷市田中でも今では誰も知らない。もっとも植田先生が記さなかったら墓の場所すら不明だったろう。
旧田中村に現在90を越える御老人で、岩五郎が博奕を打った家の隣にすむ方がいる。
現在では全く違う人が住んでいるが、この家屋は西を向いて立てられており、いつでも
手入れ(raid)の際に逃げられるように、そういう造りになっているのだとのこと。
これはこの方が父親から聞いた話とのこと。

636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/12(木) 22:54:04.07 ID:3BH7MWpG0.net
さて岩五郎一派が、嘉永2年九月一三日、由比宿から船で相良へ来襲し、相良の富五郎を
殺そうとしたのだが、この時相良藩が一早く海防を固めて上陸を阻止したと伝わる。
この時藩では三〇〇人の人員を動員したと言われてきたが、これは史料に拠れば事実の様である。

言い伝えではこの時、浪人小泉勝三郎が知恵を絞ったとも言うが、あるいはこれも本当の公算が強い。

637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/19(木) 04:57:28.62 ID:qlKAHteQ0.net
牧太郎の大きな声では言えないが…大前田栄五郎が居れば?
(毎日新聞2016年5月16日 東京夕刊)
http://mainichi.jp/articles/20160516/dde/012/070/009000c

>  栄五郎は名主の家柄だったが、父が大前田村を縄張りにする博徒。
> 草相撲で「滝登(たきのぼり)」のしこ名を持つ父に似てケンカは強かったが、
> 父親とはちょっと違った“技”を持っていた。

>  難しいケンカの仲裁。ケンカした双方から支持される和解案を提示する。
> 丸く収めた“お礼”に贈られた「縄張り(ばくち場)」が関東から関西まで二百二十数カ所。
> 栄五郎の子分3人が一年中、テラ銭(手数料)の集金に駆け回った。

>  ケンカをするのは簡単だが、和解するのは難しい。
> 栄五郎は「和合人」と言われ、昭和の初期「股旅もの」のヒーローだった。
> (子母沢(しもざわ)寛(かん)の小説「男の肚(はら)」などに詳しい)

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/19(木) 04:59:20.25 ID:qlKAHteQ0.net
↑せっかく途中までは面白い記事なのに
後半の現代の反社会勢力の話は激しくイラネ

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/22(日) 23:14:03.88 ID:Jg5Y/qS10.net
「唐丸籠が三丁立つ
韮崎吉野屋親子三人」

甲州韮崎で伝えられる民謡。吉野屋は博奕宿で、ここで投宿した旅人を殺して
金を奪ったが、露見して親子三人裁きの場に送られ斬られたという。

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/22(日) 23:19:48.95 ID:Jg5Y/qS10.net
事実はちょっとちがって、親の七五郎が博徒頭で旅人を殺し、
息子の豊吉が、(肉親ではあるが)それを訴えた。七五郎は文化5年、死罪。
しかし、豊吉もまた無宿・客人を何人も留めておくような親分であったため
一応「手鎖」の刑を受ける。彼が後の韮崎宿の侠客・吉野屋豊吉。
これを「三好屋」とする伝聞資料もあるが「吉野屋」が正しい。
現在も韮崎の若宮八幡前には、豊吉が奉納した大貫禄の灯籠(2m)が残っている。

641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/22(日) 23:24:48.24 ID:Jg5Y/qS10.net
山本周五郎が「夜霧の半太郎」の中で故郷韮崎の博奕打ちたちのイザコザを書いているが、
登場人物がみな屋号持ちである所はいかにも「韮崎」という感じで興味深い。
韮崎は富士川舟運の拠点の一つであり、船着き場としてにぎわいを見せた。
この点が仁侠の徒の呼び名一つとっても、東部山岳地帯の吃安や勝蔵らとは違うところである。

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/28(土) 07:12:24.78 ID:1+9YR0WK0.net
>>362
だいぶ遅くなりましたが、慶応四年(辰)の上州一揆について。
この時の頭取りの博奕打ちの調べ方として有効なのは「国立公文書館」のデジタル
アーカイブス。「刑・明治・群馬県」で調べると、明治に刑罰を受けた者たちの情報が出ますので
その中に「辰年三月の一揆を先導した者」も何人か見つけることができます。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/28(土) 07:21:11.32 ID:1+9YR0WK0.net
このうち、個人的に興味深い人物は「甲州黒駒村弥三郎」で、辰年の「民騒の時節、自分頭取ト唱エ扇動云々」とあります。
弥三郎はこの時「玉五郎」と名を改めており、いずれにせよ勝蔵一派にかつては組していた
人物と考えられます。彼はこの後捕縛されますが、破牢して、再び召捕られ死罪となります。

一揆に関しては他の人物の事も多く上げられていましたが、不覚にも弥三郎が「慶応4年の上州一揆」と関連していたことに
気づいたのがつい先ほどだったもので…他の人物に関しては資料をとってこなかったんですわ。

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 06:54:19.08 ID:7E6GaL2x0.net
>>642-643
どうもありがとうございます。
検索したら複数の文書が上がってきて、中にはページ数が多いものもあったので
ご指摘の箇所を探し出すのに手間取ってしまいました。

どこで見かけた情報か忘れてしまったのですが、
小栗忠順が大金を運んでいると思い込み江戸から尾行していった博徒がいたとか。
この弥三郎なる人物がそれか、あるいは別人なのか、興味深く思います。

いずれまた何かわかりましたら、教えていただければ幸甚です。

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 21:21:11.15 ID:Av8DVwXu0.net
御丁寧な返信痛み入ります。
私はPCが古いため、自宅で閲覧できず、わざわざ公文書館まで行きました。
これらの文書がPCさえ新しくすれば自宅で見ることができるのなら、すごい事ですね。

ちなみに「刑・明治・山梨」で検索すれば、黒駒勝蔵の口供書も見れる(はず)です。
すごい時代が来たものだ。

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 21:23:17.33 ID:Av8DVwXu0.net
偉大な仁侠研究家の藤田五郎氏が最期に来訪したのは、武州飯能在の「小久保の林蔵」
の元だったと言う。

647 :639:2016/05/31(火) 17:55:51.93 ID:ekVG2jhI0.net
星亮一『最後の幕臣 小栗上野介』を立ち読みしたら、
小栗騒動について以下の説明がありました。

暴徒の総大将は長州浪人で金井壮助といい、
その下に本郷村出の博徒鬼金、鬼定、下駄金などがいて、
三ノ倉の全透院に本拠を構え、
「村々人数一軒に付き、一人ずつ借用仕り候。
鉄砲これあり候者は、鉄砲持参なさるべく候」
と回状を三ノ倉、水沼、岩氷、川浦の村々に廻し、世直しに加わるよう求めた。

金井は、薩摩による関東騒擾の一味と思われ、
いったん捕えられたものの、政情混乱によって出獄していたと、何かで読みました。
江戸出発時から小栗に目をつけていた博徒として、以前どこかで名前を見かけたのが
鬼金、鬼定だったと思います。下駄金は初見。
いずれにしろ黒駒村弥三郎とは別人のようですね。

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/01(水) 22:16:18.66 ID:icYEbMdr0.net
群馬県立文書館の所蔵資料に
「世直廻状(鬼定・鬼金一揆廻状)」なるものがあるようです。

差出しは「高崎領本郷村頭取諱名鬼定・鬼金」
宛先は「最寄村々」

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/03(金) 00:11:04.45 ID:TNtFMwn+0.net
二年前の夏くらいにヤフオクで、黒駒一党残党の人相書きが出品されていた。
気づいたのが出店が終わって一月ほどのことだったので、今ではあれがどこへ行ったか
わからない。多分永久にわからないだろう。「東花輪の乙吉」ともう一人が載っていた。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/05(日) 22:43:07.52 ID:eKu2kALy0.net
埼玉県坂戸市赤尾地区の「聞き書き」の中には、さすがに林蔵の出身地だけあって
バクチウチの話が多い。

・カシモトと言ってかつて博打の代貸をしていたときに若い者を何人か置いていた。
・勝五郎という者が旅に出た留守を、後見人でサゾウという者が残って、家を守っていた。
・ある時旅人が二人来たのでそれを接待して御馳走してやった。
・ところが旅人たちはサゾウを殺しに来た者で、便所で仕度を取り変えてサゾウを斬り、土手を駈けて逃げて行った。
・家のおばあさんは、「サゾウここで死んでちゃしょうがねえ」と言って遺体を庭へ引きずっていった。(博打打ちの女房は気丈だった。)
・「畳の上で死ねねえ、それが博打打ちの死に方なんだ」とよく聞かされた。

淡々と記録されたノートなだけに中々印象深い。

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/05(日) 22:50:30.04 ID:eKu2kALy0.net
>>648
情報を有難うございます。
「諱名鬼定・鬼金」というところがなんとも期待通りといいましょうか…良いですね。
また、文書を残す位だから、それなりの教養があったんでしょう。
群馬文書館は少し遠いですが、確かに良い資料も多く、対応も親切なので機会があったら
閲覧・撮影に行ってみようと思います。

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/15(水) 21:35:01.94 ID:sMYK109b0.net
比留間一郎氏の「府中宿の893」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
は何度読んでも面白い。これはなぜなのか。
思うに学術的論文であること、仁侠研究のルポタージュであること、の両方に合格した書き物だから
だと思う。どちらか一方だけの書き物は多い。

それと、何よりも取り上げる人物を単なる対象物ではなく、丁重に敬い扱っているからだと思われる。
まさにこの分野のお手本のような作品である。

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/19(日) 22:07:29.65 ID:aIZnB8ke0.net
上州の寒梅の丹治が明治の始めになってから、旅修業の途中世話になった武州の親分として
八王子の蕎麦屋の亀吉親分、峠の健次郎親分、それと日光屋の吉蔵という三名の親分をあげている。
このうち亀吉親分は興林寺に、健次郎親分は福伝寺にそれぞれ墓石がある。
日光屋吉蔵親分は、「日光屋吉五郎」とも呼ばれたらしい。墓所は特定できないが、往時市森神社の向かい辺りに
居宅を構えていたようだ。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 19:03:26.99 ID:fr4bWBB00.net
>>246
その「小さな石」とは別のものかもしれませんが、
小野神社の近くには馬頭観音碑があるそうですね。
「馬頭観□」「安政三年丙辰四月吉日」「杉本萬平 ■■(欠損)」
ひょっとして欠損の部分が「藤三郎」だったとか?

また「短い鉈」とは
メカイ(目籠)包丁のことでしょうか。

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:44:55.39 ID:GMgsuOtF0.net
清水の次郎長親分が「英語教育」に早くから目を付け、東京から英語講師を呼び
若者に習わせたという話は「末広亭」へ行った事がある人なら周知の事実だろう。

これに加えて次郎長は「女学校」設立のために大衆の面前で「演説」をしている、
という大変面白い逸話を知ることができた。
参照は昭和14年の加藤末吉氏による『教壇四十年の体験』。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:55:13.67 ID:GMgsuOtF0.net
たいへん味のある文章なので、そのまま抜粋する

「おめえっちゃよく来て下すった。お礼を申します。これから俺の話を聞いてくんな。
それは向横町に三毛猫があった。こっちの横町には黒猫がいた。三毛猫の飼い主は一生懸命に育てて、
ネズミの取りようを仕込んだから、近所から貰い手がたくさんあった。けんど一方の黒猫の奴は
何も構わぬものだから、ネズミをとるより、もっと手軽な魚を盗み取って皆さんから「泥棒猫」だと言われた。
人間だってそうだ。学問をさせなきゃだめだ。この清水の町にや、えい小学校は出来たが、まだ女学校が無い。
欲しいヽヽと言ったって、建てなきゃ出来ねいだ。これからの女にゃ英語でも何でも教へるがよい。
おめいっちゃどふ思う。俺の演説はこれだけだ。どなたさんも賛成でごあんしょ。」

場所は寶相寺。演説の終わりは割れんばかりの拍手喝采。実際、リベラルで先見性があって素晴らしい演説だ。

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:58:40.51 ID:GMgsuOtF0.net
>>654
その馬頭さんが「小石」です。「藤三郎」は今ではもう読めませんね。私も
比留間一郎氏の論文によって知ったのみです。

万平の装束に関しては「講談・祐天仙之助」に拠りました。
猶、今月十日は万平親分の丁度命日でしたね。

658 :649:2016/06/22(水) 17:53:39.48 ID:7DBbyDHl0.net
>>657
ありがとうございます。
比留間一郎氏が論文を著した当時は、まだ判読可能だったのでしょうね。
万平地蔵などと併せて、いずれ実物を拝みに行きたいと思います。

目籠包丁は、目籠を作るための刃物で、見たところは短い鉈、
農間に目籠生産をしたこの辺りではよく使われたそうです。
講談では「めかいぼうちょう」と言ってもわかりにくいので
鉈と言い換えたのかも?と想像しました。

>>234でもお薦めの「府中宿の八九三」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
所蔵図書館へ行ったら閲覧するつもりです。
なお「府中宿の旅籠屋ノート」は、調べてみたところ
タイトル「府中宿の飯盛旅籠ノート」、掲載誌『府中市立郷土館紀要 第2号』、
と登録されていました。

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:17:52.29 ID:MK2FM3mR0.net
荒生留吉

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:27:31.84 ID:MK2FM3mR0.net
荒生の留吉は「小川戸の留五郎」が正しい。
「近世侠義伝」によれば長差権次の子分で、胆力に優れ船幽霊を素手で叩き倒したという。
同じ長差権次の子分「風窓半次」とは犬猿の仲で会うとすぐに刃物を抜いてやりあった。
飯岡助五郎がこれを見兼ねて、間に入って和解させたが、留吉はこれを不服とし、
後年笹川繁蔵と助五郎とが闘う時、留吉は繁蔵側について、助五郎方の来襲を知らせて、
笹川側の勝利の要因を作った。
一方の半次は、終始助五郎方に付き、勢力、清瀧の襲撃の際も助五郎方として散々に戦った。

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:35:29.50 ID:MK2FM3mR0.net
神楽獅子の大八
も、また『天保水滸伝』に登場する侠客で、
飯岡助五郎の子分の一人。相撲取りで助五郎の贔屓。元気者で人気があった。
繁蔵子分「名垂の岩松」が飯岡側の力士四人を投げ倒したが、大八はその岩松を
一突きで土俵の外へ押し出し、そこから七人を続けて投げ倒した。その後現れた勢力富五郎に土を
付けられるが、例の笹川の戦いの際には、飯田兄弟を翻弄し、繁蔵とも一騎打ちを演じた。

なんとなくキャラクターが立つのだろう。長谷川伸の『関の弥太っぺ』でも憎まれ役として登場させられてた記憶がある。

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/26(日) 00:25:25.83 ID:cyReymPy0.net
侠客展示もやった府中博物館が、話題になっているので一言。
ここの一番の問題は博物館の広さに比べて、雇っている人間が少なすぎることにあるのだ。
箱に金は懸けるが人件費はケチる。それで施設の隅々まで人の目を張り巡らすなんて出来る訳が無いだろう。

同館では、文書史料は多数あるのに、まだ目録化されていないものが夥しく存在する。
首長は、この馬鹿げた状況が当たり前だ、と思っているのだから仕方ない。

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/28(火) 16:52:38.32 ID:4sGIzGha0.net
もったいない
国文学研究資料館に寄付すればいいのに

664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/28(火) 23:27:40.61 ID:6hIjoyxa0.net
657は言いすぎました。
でもそういう反応をもらうと有り難いです。
私もまさにそう思っていた。国文学研究資料館は保存も良いし、原資料の閲覧もかなり
太っ腹で自由が利く、ちょっと夢の様な空間ですな。

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/29(水) 19:58:11.36 ID:u3XaMyhR0.net
恋ヶ窪無宿彦太郎

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