2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

613 :sage:2016/04/17(日) 14:04:25.67 ID:ZRGktxiM0.net
>>610
残念ながら、私もその本を持っているわけではありません。
今、出先なので今夜にでも入手方法の詳細をお伝えできると思います。

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 17:34:43.46 ID:WrUIg3YG0.net
返信できる状況になったら返信すればいいだけで
出先云々などと余計なことを書く必要はありませんでした。申し訳ありません。
そして、スマホではsageは無効なようで、申し訳ありません。

本としての「侠客 原田常吉」は長谷川昇先生がお持ちのようでしたが、
残念ながらその長谷川先生も故人のようです。

入手方法と言うほど大袈裟でもないですが、
愛知県立図書館で過去の新聞のマイクロフィルムで閲覧が可能です。
1枚10円だか20円でコピーもできます(10年以上前のことなので記憶が定かではありません)。
新聞名は名古屋新聞。大正2年4月16日の「予告」から始まり、
本編は4月17日から6月29日まで48話あります。
連日のこともあれば、数日間あいて次の話、ということもあります。

解読不可な個所も随所にありますが、話の流れを阻害する程ではないかと思います。
不鮮明な個所を確認に再度訪れたことがありますが、解読が無理な個所はやはり無理でした。

あと、いつか行かれた時に落胆しないようあらかじめお伝えいたしますが、
残念ながら5月15日は欠号で、その中に24話目があったようです。
それでもかなり読み応えのあるものです。

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 17:59:44.08 ID:aoXt73lb0.net
ヨコから僭越ながら補足情報
「レファレンス協同データベース」より

質問:以下の資料の所蔵館が知りたい。
中尾霞山『侠客原田常吉』、同『常吉実歴談』

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041105

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 18:58:14.04 ID:tPsKGUYj0.net
>>614
>>615
御二方のご厚意誠に感謝いたします。特に前者の方、並々ならぬ御情熱に似たような興味を持つ者として
本当に嬉しく思います。

おそらくもって史料は、足で稼ぎ、またそれの価値を十分に享受できる者の前に現れるものだと
以前より感じておりますが、このスレッドを訪れる方々が、まさにそのような方々で
あることがわかり、感激しております。

617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/17(日) 19:17:55.21 ID:WrUIg3YG0.net
>>616
私もお伝えできる方、わかっていただける方がいて本当にうれしいです。

ご存知、あるいはお持ちでしたら余計なお世話ですが、
「東海近代史研究」に水谷藤博氏の博徒に関する研究が掲載されおり
愛知県立図書館で閲覧できます。

そもそも、このマイクロフィルムとは

何かの参考文献で「東海近代史研究 第4号 高神山騒動余聞」の存在を知る。
4号だけあればいいのに1号〜4号の抱き合わせでしか売っておらず仕方なくセットで古本で購入。
1号〜3号にも博徒に関する興味深い論文が掲載されており興奮。
5号以降も欲しくなるが、古本でヒットしない(のちに無事に入手)。
愛知県立図書館で閲覧できることを知る。
現地へ赴き閲覧中、第8号で「侠客 原田常吉」が連載されていた新聞を知る。
図書館内で検索すると、館内で閲覧できることを知り大興奮。

という、自分としては奇跡の出会いでした。

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/18(月) 00:13:14.33 ID:c3zp4fDa0.net
>>607-608
拙レスにおつきあいいただいて恐れ入ります。
小金井小次郎は関西へ行っていた時期があるのか
寡聞にして存じませんので、何故この顔ぶれ?と思ったのみです。

聞くところによると、映画は禁門の変の場面で
土方歳三がすでに洋服のコートを着込みマフラーを巻いていたとか。
そういう映画についてこういう疑問を抱くのも間抜けでした(笑)

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/20(水) 00:39:37.98 ID:Os5m3YS70.net
博奕打ちのことを調べていると、自然岡引(道案内・目明し)のことにも詳しくなる。
かの三田村鷰魚翁は、幕末の岡引は十手を携帯しなかった、と言ってるが、
さすがの鷰魚氏も、これは間違い。
組合村の道案内に任じられた時点で、組合から金が出て「十手」を作ってもらうことが、
最近の文献であきらかになった。

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/20(水) 00:41:50.88 ID:Os5m3YS70.net
そうか「エン魚」の「エン」の字は出ないのだな。

ちなみに道案内は違うが、「目明し」はあるいは名字の名乗りを許されたのかもしれない。
そう思わせる史料が時々目につく。

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/20(水) 01:41:09.50 ID:TV+XSe4c0.net
第一水準漢字なので表示されないはずはないと思いますが

三田村鳶魚

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/21(木) 00:40:04.02 ID:jeH6EAvN0.net
「鳶魚」の件、有難うございました。前に書いた時は出たので、今回私がまちがえたのでしょう。

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/21(木) 00:47:16.59 ID:jeH6EAvN0.net
さて今さらだが275で、いわゆる荒神山手打ち式とされる写真。信じる信じないはともかく、
私が諸々聞いた限りで正しいと思われる情報を書こう。

・まずこれは明治14年、宮島俊蔵と増川仙右衛門の喧嘩の和会式の写真である。
・場所は東海道原宿の香貫屋旅館裏。撮影は三島の行方写真館だという。(出張)

624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/21(木) 01:09:08.88 ID:jeH6EAvN0.net
前列左から三番目が次郎長である点は従来通り。
その左隣(杖あり)の人が見附の友蔵。対して次郎長右隣は大胡の団平(大前田一家、この和解の仲裁役だった。)
友蔵の左隣(前列最左側)が長楽寺の清兵衛。
大胡の団平の右隣が三島の玉屋佐十郎。佐十郎の右隣(前列最右側)が日坂の栄次郎。

さて後列からは不明な人の方が多い。
まず日坂栄次郎と玉屋佐十郎の間に立って、こっちをまっすぐ見ている紋付を着ている人が、
かの宮島俊蔵。俊蔵の右隣は中島の由蔵。そしてその右隣(二列目最右側)が、江尻の房五郎。
ちなみに俊蔵の左隣(やや左上を見ている)のは団平の子分で名は伝わっていない。この男の左隣で
前列次郎長と団平の間に立っているのが増川仙右衛門。仙右衛門の左隣。次郎長の真後ろにいるのが、
今泉の佐太郎。佐太郎の左隣が賀茂の半三郎(大前田一家)。半三郎の左隣が阿幸地の定四郎である。
最後に宮島俊蔵と名無しの団平子分の間に最後列で立っているのが渡辺精次郎。(大場一家の四代目)

後の人は残念ながら不明。

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/24(日) 00:09:05.68 ID:gFoPoU8I0.net
桃李の小説では小金井小次郎の腹心として、まず陣屋の三之助、ついで稲荷の増五郎、それから
竹山の金五郎という人が出てくる。陣屋と稲荷はそれぞれ上でも記した。共に実在の人で関三之助と大谷増五郎(竹四郎)。
こうなると竹山の金五郎と言う人も多分実在の人ということになり、恐らくは「渡辺」姓の人だと思われる。「竹山」というのは近隣の字なのだろうが、
今のところ不明。
この渡辺は(これも推測だが、)小次郎の母「なお」の実家の名字のようである。

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/27(水) 20:03:32.04 ID:Bko6nf3p0.net
青梅・大柳の権左衛門
同じく権四郎

627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/27(水) 20:16:59.94 ID:Bko6nf3p0.net
青梅、大柳の荒井家は代々侠客。一説には安土桃山時代からつづく一家という。
七代目が平六(一応この人が一家初代となっているようだ。)
おそらく九代目が権左衛門、その息子が権四郎。

権四郎からは棚沢の権八(清川の権八)に一家を譲り、権八から倅の国太郎(気性の激しい人だったという)
明治にはいって国太郎から丹波山の喜作へと代が譲られた。

丹波山の喜作は、侠者として名をはせ、七ツ石の賭場の開帳時には周囲の警察署に挨拶を怠らず
集まる客人たちに迷惑をかけないように配慮した。また制材所を経営して地場産業にも貢献し、
村民のために自腹を切って吊り橋を造るなど、困ってる者への面倒見がよかったと言われる。

「スソオリに喜作があれば不足なし」とは里に伝わった唄である。

628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 00:19:41.22 ID:7CozeqNq0.net
たまたま拾ったレスが面白かったのでコピペ↓

41 :日曜8時の名無しさん:2015/11/07(土) 15:11:53.22 ID:uhNcw4iC
>>40
ちなみに前橋では大前田英五郎は偉人だよ。
どうしてかというと「藩主の松平家が百年間放棄した前橋をヤクザ者が護ってくれたから」

幕府からも見捨てられて廃藩処置になった前橋では、しょっちゅう酷い飢餓が訪れたん。
なのに責任者の藩主(実際は前橋に居たのは代官)も知らんぷりだし、年貢は実情も見ずに厳しくとりたてる。

その惨状を助けてくれたのが大前田組。
たびたび蔵を解放して私財でおまんまを振る舞ったそうだ。
名主も無責任な幕府じゃなくヤクザ者を信頼して、百年間のあいだ一種の自治区みたいだったらしい。
ちなみに俺の家は粕川でその名主の末裔の一人。
家伝にきちんと大前田英五郎の偉業が伝わってる。

あと、大前田英五郎が後を託したのが元博徒で初代前橋市長の下村善太郎。
潔癖の楫取にひどく嫌われたみたいだけど、下村善太郎も前橋人にとっては偉大な人だよ。
ちな、家伝には楫取のことは一切乗ってない笑

【2015年大河ドラマ】花燃ゆ Part89c2ch.net(過去ログ倉庫に格納)より
http://nhk.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1446807640/41

629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 00:23:20.31 ID:7CozeqNq0.net
下村善太郎と楫取素彦の関係を美談ふうに書いたもの↓

【至誠の人 楫取素彦物語】
中村紀雄(63) 博徒上がりの大商人
http://www.sankei.com/region/news/150723/rgn1507230045-n1.html

中村紀雄(64) 「県庁はぜひ前橋に」
http://www.sankei.com/region/news/150728/rgn1507280069-n1.html

中村紀雄(65) 県令、強引果敢に動く
http://www.sankei.com/region/news/150729/rgn1507290015-n1.html

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 12:22:20.40 ID:m0r2FJfJ0.net
津向の文吉
明治以前の史料はほとんどのこっていないが、地元では唄が残っているのであげてみよう。
「ツムギの文さん、火事より怖い、火事じゃ着物は焼けのこる」

文吉(文七?)の賭場を訪れれば、着物から何まで身ぐるみすべて剥がされる。
悪くすれば家財一式、更には女房まで失うはめになる、そういう意味らしい。

文吉はインテリで温厚な親分と言われる。八丈島遠島中は寺子屋を開いて学問を教授したり、医術を用いて病人を助けた、
そんな話が伝わる。
が、やはりそこは博奕打。真実は文吉の賭場で人生を狂わせた者も少なからず居たにちがいない。

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 12:28:24.68 ID:m0r2FJfJ0.net
>>628
やはり地元の人の印象は大事ですね。郷里の博奕打ちのことは、郷里の人にしかわからないことが
多数あるでしょう。
それができない立場であるのなら、少なくともその地へ実際におもむいて、彼らの足跡を無駄にでも歩いてみる
ことが絶対に必要でしょうね。この分野は一寸民俗学に似ているかもしれません。

632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/30(土) 19:21:31.82 ID:PQkdDvvM0.net
文政11年のものだが町奉行の役人が東海道を公用で旅した資料を見つけた。
当時の東海道沿いの「目明し」の名が出てくるので、書き付けてみる。

小田原宿:肴屋六兵衛、小松屋亀次郎
沼津宿 :糀屋次郎八、菊池屋和助
府中宿 :海老屋新兵衛、舛屋藤兵衛、八幡小路久安、文次郎、常蔵、彦次郎
掛川宿 :笠屋平次郎
見附宿 :七五郎
熱田宿 :鶴屋勇吉、菱田屋万兵衛、岡本屋新次、肴屋平七
浜松宿 :吉五郎

菊池屋和助は、おそらく沼津の和助(初代)のことだろう。大場久八の兄弟分と
伝承されているが、実態はどうやら十手持ちの親分だったようだ。

633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/01(日) 00:28:38.24 ID:JD4ex2Dw0.net
「近世侠客有名鑑」は明治20年から昭和10年までのバージョンがいまのところ
確認できる。このうち昭和10年のそれはかなり荒が削れて、
その道に詳しい人ならだいぶ納得できる番付けになっている。

634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/02(月) 23:58:53.48 ID:vKFOeH3g0.net
嘉永6年は祐天仙之助が駿州吉原宿で遊女を奪って、番太と斬り合いになる時期だが、
この年の冬、今度は武州入間郡島田村へ居住していたらしいことが林信海家文書に記される。
この近辺は、赤尾林蔵(やや古い)や石井伴内、観音菊、山ヶ谷戸源太、三保谷長次、久保忠らが
乱立していたところなんでありえんことではない。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/12(木) 22:16:12.35 ID:3BH7MWpG0.net
関東の岩五郎こと田中ノ岩五郎は剣術の達者だったらしい。
そういえば墓石にも「門人」として長在家の仙五郎の名が上がっている。
誰に習った、流派は何流かは不明だが、本格的なものだったのだろう。

地元深谷市田中でも今では誰も知らない。もっとも植田先生が記さなかったら墓の場所すら不明だったろう。
旧田中村に現在90を越える御老人で、岩五郎が博奕を打った家の隣にすむ方がいる。
現在では全く違う人が住んでいるが、この家屋は西を向いて立てられており、いつでも
手入れ(raid)の際に逃げられるように、そういう造りになっているのだとのこと。
これはこの方が父親から聞いた話とのこと。

636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/12(木) 22:54:04.07 ID:3BH7MWpG0.net
さて岩五郎一派が、嘉永2年九月一三日、由比宿から船で相良へ来襲し、相良の富五郎を
殺そうとしたのだが、この時相良藩が一早く海防を固めて上陸を阻止したと伝わる。
この時藩では三〇〇人の人員を動員したと言われてきたが、これは史料に拠れば事実の様である。

言い伝えではこの時、浪人小泉勝三郎が知恵を絞ったとも言うが、あるいはこれも本当の公算が強い。

637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/19(木) 04:57:28.62 ID:qlKAHteQ0.net
牧太郎の大きな声では言えないが…大前田栄五郎が居れば?
(毎日新聞2016年5月16日 東京夕刊)
http://mainichi.jp/articles/20160516/dde/012/070/009000c

>  栄五郎は名主の家柄だったが、父が大前田村を縄張りにする博徒。
> 草相撲で「滝登(たきのぼり)」のしこ名を持つ父に似てケンカは強かったが、
> 父親とはちょっと違った“技”を持っていた。

>  難しいケンカの仲裁。ケンカした双方から支持される和解案を提示する。
> 丸く収めた“お礼”に贈られた「縄張り(ばくち場)」が関東から関西まで二百二十数カ所。
> 栄五郎の子分3人が一年中、テラ銭(手数料)の集金に駆け回った。

>  ケンカをするのは簡単だが、和解するのは難しい。
> 栄五郎は「和合人」と言われ、昭和の初期「股旅もの」のヒーローだった。
> (子母沢(しもざわ)寛(かん)の小説「男の肚(はら)」などに詳しい)

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/19(木) 04:59:20.25 ID:qlKAHteQ0.net
↑せっかく途中までは面白い記事なのに
後半の現代の反社会勢力の話は激しくイラネ

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/22(日) 23:14:03.88 ID:Jg5Y/qS10.net
「唐丸籠が三丁立つ
韮崎吉野屋親子三人」

甲州韮崎で伝えられる民謡。吉野屋は博奕宿で、ここで投宿した旅人を殺して
金を奪ったが、露見して親子三人裁きの場に送られ斬られたという。

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/22(日) 23:19:48.95 ID:Jg5Y/qS10.net
事実はちょっとちがって、親の七五郎が博徒頭で旅人を殺し、
息子の豊吉が、(肉親ではあるが)それを訴えた。七五郎は文化5年、死罪。
しかし、豊吉もまた無宿・客人を何人も留めておくような親分であったため
一応「手鎖」の刑を受ける。彼が後の韮崎宿の侠客・吉野屋豊吉。
これを「三好屋」とする伝聞資料もあるが「吉野屋」が正しい。
現在も韮崎の若宮八幡前には、豊吉が奉納した大貫禄の灯籠(2m)が残っている。

641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/22(日) 23:24:48.24 ID:Jg5Y/qS10.net
山本周五郎が「夜霧の半太郎」の中で故郷韮崎の博奕打ちたちのイザコザを書いているが、
登場人物がみな屋号持ちである所はいかにも「韮崎」という感じで興味深い。
韮崎は富士川舟運の拠点の一つであり、船着き場としてにぎわいを見せた。
この点が仁侠の徒の呼び名一つとっても、東部山岳地帯の吃安や勝蔵らとは違うところである。

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/28(土) 07:12:24.78 ID:1+9YR0WK0.net
>>362
だいぶ遅くなりましたが、慶応四年(辰)の上州一揆について。
この時の頭取りの博奕打ちの調べ方として有効なのは「国立公文書館」のデジタル
アーカイブス。「刑・明治・群馬県」で調べると、明治に刑罰を受けた者たちの情報が出ますので
その中に「辰年三月の一揆を先導した者」も何人か見つけることができます。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/28(土) 07:21:11.32 ID:1+9YR0WK0.net
このうち、個人的に興味深い人物は「甲州黒駒村弥三郎」で、辰年の「民騒の時節、自分頭取ト唱エ扇動云々」とあります。
弥三郎はこの時「玉五郎」と名を改めており、いずれにせよ勝蔵一派にかつては組していた
人物と考えられます。彼はこの後捕縛されますが、破牢して、再び召捕られ死罪となります。

一揆に関しては他の人物の事も多く上げられていましたが、不覚にも弥三郎が「慶応4年の上州一揆」と関連していたことに
気づいたのがつい先ほどだったもので…他の人物に関しては資料をとってこなかったんですわ。

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 06:54:19.08 ID:7E6GaL2x0.net
>>642-643
どうもありがとうございます。
検索したら複数の文書が上がってきて、中にはページ数が多いものもあったので
ご指摘の箇所を探し出すのに手間取ってしまいました。

どこで見かけた情報か忘れてしまったのですが、
小栗忠順が大金を運んでいると思い込み江戸から尾行していった博徒がいたとか。
この弥三郎なる人物がそれか、あるいは別人なのか、興味深く思います。

いずれまた何かわかりましたら、教えていただければ幸甚です。

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 21:21:11.15 ID:Av8DVwXu0.net
御丁寧な返信痛み入ります。
私はPCが古いため、自宅で閲覧できず、わざわざ公文書館まで行きました。
これらの文書がPCさえ新しくすれば自宅で見ることができるのなら、すごい事ですね。

ちなみに「刑・明治・山梨」で検索すれば、黒駒勝蔵の口供書も見れる(はず)です。
すごい時代が来たものだ。

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 21:23:17.33 ID:Av8DVwXu0.net
偉大な仁侠研究家の藤田五郎氏が最期に来訪したのは、武州飯能在の「小久保の林蔵」
の元だったと言う。

647 :639:2016/05/31(火) 17:55:51.93 ID:ekVG2jhI0.net
星亮一『最後の幕臣 小栗上野介』を立ち読みしたら、
小栗騒動について以下の説明がありました。

暴徒の総大将は長州浪人で金井壮助といい、
その下に本郷村出の博徒鬼金、鬼定、下駄金などがいて、
三ノ倉の全透院に本拠を構え、
「村々人数一軒に付き、一人ずつ借用仕り候。
鉄砲これあり候者は、鉄砲持参なさるべく候」
と回状を三ノ倉、水沼、岩氷、川浦の村々に廻し、世直しに加わるよう求めた。

金井は、薩摩による関東騒擾の一味と思われ、
いったん捕えられたものの、政情混乱によって出獄していたと、何かで読みました。
江戸出発時から小栗に目をつけていた博徒として、以前どこかで名前を見かけたのが
鬼金、鬼定だったと思います。下駄金は初見。
いずれにしろ黒駒村弥三郎とは別人のようですね。

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/01(水) 22:16:18.66 ID:icYEbMdr0.net
群馬県立文書館の所蔵資料に
「世直廻状(鬼定・鬼金一揆廻状)」なるものがあるようです。

差出しは「高崎領本郷村頭取諱名鬼定・鬼金」
宛先は「最寄村々」

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/03(金) 00:11:04.45 ID:TNtFMwn+0.net
二年前の夏くらいにヤフオクで、黒駒一党残党の人相書きが出品されていた。
気づいたのが出店が終わって一月ほどのことだったので、今ではあれがどこへ行ったか
わからない。多分永久にわからないだろう。「東花輪の乙吉」ともう一人が載っていた。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/05(日) 22:43:07.52 ID:eKu2kALy0.net
埼玉県坂戸市赤尾地区の「聞き書き」の中には、さすがに林蔵の出身地だけあって
バクチウチの話が多い。

・カシモトと言ってかつて博打の代貸をしていたときに若い者を何人か置いていた。
・勝五郎という者が旅に出た留守を、後見人でサゾウという者が残って、家を守っていた。
・ある時旅人が二人来たのでそれを接待して御馳走してやった。
・ところが旅人たちはサゾウを殺しに来た者で、便所で仕度を取り変えてサゾウを斬り、土手を駈けて逃げて行った。
・家のおばあさんは、「サゾウここで死んでちゃしょうがねえ」と言って遺体を庭へ引きずっていった。(博打打ちの女房は気丈だった。)
・「畳の上で死ねねえ、それが博打打ちの死に方なんだ」とよく聞かされた。

淡々と記録されたノートなだけに中々印象深い。

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/05(日) 22:50:30.04 ID:eKu2kALy0.net
>>648
情報を有難うございます。
「諱名鬼定・鬼金」というところがなんとも期待通りといいましょうか…良いですね。
また、文書を残す位だから、それなりの教養があったんでしょう。
群馬文書館は少し遠いですが、確かに良い資料も多く、対応も親切なので機会があったら
閲覧・撮影に行ってみようと思います。

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/15(水) 21:35:01.94 ID:sMYK109b0.net
比留間一郎氏の「府中宿の893」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
は何度読んでも面白い。これはなぜなのか。
思うに学術的論文であること、仁侠研究のルポタージュであること、の両方に合格した書き物だから
だと思う。どちらか一方だけの書き物は多い。

それと、何よりも取り上げる人物を単なる対象物ではなく、丁重に敬い扱っているからだと思われる。
まさにこの分野のお手本のような作品である。

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/19(日) 22:07:29.65 ID:aIZnB8ke0.net
上州の寒梅の丹治が明治の始めになってから、旅修業の途中世話になった武州の親分として
八王子の蕎麦屋の亀吉親分、峠の健次郎親分、それと日光屋の吉蔵という三名の親分をあげている。
このうち亀吉親分は興林寺に、健次郎親分は福伝寺にそれぞれ墓石がある。
日光屋吉蔵親分は、「日光屋吉五郎」とも呼ばれたらしい。墓所は特定できないが、往時市森神社の向かい辺りに
居宅を構えていたようだ。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 19:03:26.99 ID:fr4bWBB00.net
>>246
その「小さな石」とは別のものかもしれませんが、
小野神社の近くには馬頭観音碑があるそうですね。
「馬頭観□」「安政三年丙辰四月吉日」「杉本萬平 ■■(欠損)」
ひょっとして欠損の部分が「藤三郎」だったとか?

また「短い鉈」とは
メカイ(目籠)包丁のことでしょうか。

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:44:55.39 ID:GMgsuOtF0.net
清水の次郎長親分が「英語教育」に早くから目を付け、東京から英語講師を呼び
若者に習わせたという話は「末広亭」へ行った事がある人なら周知の事実だろう。

これに加えて次郎長は「女学校」設立のために大衆の面前で「演説」をしている、
という大変面白い逸話を知ることができた。
参照は昭和14年の加藤末吉氏による『教壇四十年の体験』。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:55:13.67 ID:GMgsuOtF0.net
たいへん味のある文章なので、そのまま抜粋する

「おめえっちゃよく来て下すった。お礼を申します。これから俺の話を聞いてくんな。
それは向横町に三毛猫があった。こっちの横町には黒猫がいた。三毛猫の飼い主は一生懸命に育てて、
ネズミの取りようを仕込んだから、近所から貰い手がたくさんあった。けんど一方の黒猫の奴は
何も構わぬものだから、ネズミをとるより、もっと手軽な魚を盗み取って皆さんから「泥棒猫」だと言われた。
人間だってそうだ。学問をさせなきゃだめだ。この清水の町にや、えい小学校は出来たが、まだ女学校が無い。
欲しいヽヽと言ったって、建てなきゃ出来ねいだ。これからの女にゃ英語でも何でも教へるがよい。
おめいっちゃどふ思う。俺の演説はこれだけだ。どなたさんも賛成でごあんしょ。」

場所は寶相寺。演説の終わりは割れんばかりの拍手喝采。実際、リベラルで先見性があって素晴らしい演説だ。

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:58:40.51 ID:GMgsuOtF0.net
>>654
その馬頭さんが「小石」です。「藤三郎」は今ではもう読めませんね。私も
比留間一郎氏の論文によって知ったのみです。

万平の装束に関しては「講談・祐天仙之助」に拠りました。
猶、今月十日は万平親分の丁度命日でしたね。

658 :649:2016/06/22(水) 17:53:39.48 ID:7DBbyDHl0.net
>>657
ありがとうございます。
比留間一郎氏が論文を著した当時は、まだ判読可能だったのでしょうね。
万平地蔵などと併せて、いずれ実物を拝みに行きたいと思います。

目籠包丁は、目籠を作るための刃物で、見たところは短い鉈、
農間に目籠生産をしたこの辺りではよく使われたそうです。
講談では「めかいぼうちょう」と言ってもわかりにくいので
鉈と言い換えたのかも?と想像しました。

>>234でもお薦めの「府中宿の八九三」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
所蔵図書館へ行ったら閲覧するつもりです。
なお「府中宿の旅籠屋ノート」は、調べてみたところ
タイトル「府中宿の飯盛旅籠ノート」、掲載誌『府中市立郷土館紀要 第2号』、
と登録されていました。

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:17:52.29 ID:MK2FM3mR0.net
荒生留吉

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:27:31.84 ID:MK2FM3mR0.net
荒生の留吉は「小川戸の留五郎」が正しい。
「近世侠義伝」によれば長差権次の子分で、胆力に優れ船幽霊を素手で叩き倒したという。
同じ長差権次の子分「風窓半次」とは犬猿の仲で会うとすぐに刃物を抜いてやりあった。
飯岡助五郎がこれを見兼ねて、間に入って和解させたが、留吉はこれを不服とし、
後年笹川繁蔵と助五郎とが闘う時、留吉は繁蔵側について、助五郎方の来襲を知らせて、
笹川側の勝利の要因を作った。
一方の半次は、終始助五郎方に付き、勢力、清瀧の襲撃の際も助五郎方として散々に戦った。

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:35:29.50 ID:MK2FM3mR0.net
神楽獅子の大八
も、また『天保水滸伝』に登場する侠客で、
飯岡助五郎の子分の一人。相撲取りで助五郎の贔屓。元気者で人気があった。
繁蔵子分「名垂の岩松」が飯岡側の力士四人を投げ倒したが、大八はその岩松を
一突きで土俵の外へ押し出し、そこから七人を続けて投げ倒した。その後現れた勢力富五郎に土を
付けられるが、例の笹川の戦いの際には、飯田兄弟を翻弄し、繁蔵とも一騎打ちを演じた。

なんとなくキャラクターが立つのだろう。長谷川伸の『関の弥太っぺ』でも憎まれ役として登場させられてた記憶がある。

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/26(日) 00:25:25.83 ID:cyReymPy0.net
侠客展示もやった府中博物館が、話題になっているので一言。
ここの一番の問題は博物館の広さに比べて、雇っている人間が少なすぎることにあるのだ。
箱に金は懸けるが人件費はケチる。それで施設の隅々まで人の目を張り巡らすなんて出来る訳が無いだろう。

同館では、文書史料は多数あるのに、まだ目録化されていないものが夥しく存在する。
首長は、この馬鹿げた状況が当たり前だ、と思っているのだから仕方ない。

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/28(火) 16:52:38.32 ID:4sGIzGha0.net
もったいない
国文学研究資料館に寄付すればいいのに

664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/28(火) 23:27:40.61 ID:6hIjoyxa0.net
657は言いすぎました。
でもそういう反応をもらうと有り難いです。
私もまさにそう思っていた。国文学研究資料館は保存も良いし、原資料の閲覧もかなり
太っ腹で自由が利く、ちょっと夢の様な空間ですな。

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/29(水) 19:58:11.36 ID:u3XaMyhR0.net
恋ヶ窪無宿彦太郎

666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 00:18:30.30 ID:YY6MRMTR0.net
大前田栄五郎には優れた子分が巨万といて、それぞれ甲乙つけがたいそうだが、
栄五郎と身近であったり、知りあう時期が速かったりといった点で計ると、
だいたい一之子分と呼ばれる人は江戸屋虎五郎、大胡の団平、それから岩崎幸松だったという。
幸松の「岩崎」は姓。出自は大前田村だから、無理に呼ぶとすれば大前田幸松となる。
始終栄五郎にくっついて旅をして、腕っぷしも気風も大したものだった。

667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 00:23:15.87 ID:YY6MRMTR0.net
ところが幸松、少しばかり気が短く、喧嘩早い。
栄五郎は42歳から、脇差の代わりに木刀を腰に差して、以降時分から「人を切れない」
ようにした。江戸屋虎五郎などはこれを聞いて、大いに得心するところがあったというが、
幸松はこれに反発し、「ヤクザは酔狂で刃物を差してるわけじゃございやせん」と言って
栄五郎の元を去った。

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 00:34:05.36 ID:YY6MRMTR0.net
幸松は後に岡引きを切り、新島へ流罪となるが、島抜けをしようとして見つかり、
首をくくられて生涯をとじた。

さて大前田栄五郎の兄揚吉の跡目を継いで、二代目大前田揚吉(大前田一家親分)になった人物を、
本名「阿久沢祐七」と言う。
実はこの人、島抜けを失敗して死んだ幸松の一之子分だった人で、栄五郎たっての願いで、
親分の座に付いた。たとえ袂をわかっても、やはり栄五郎にとって「幸松」は
終生変わらず「可愛い子分」だったのだろう。

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 22:22:46.07 ID:YY6MRMTR0.net
>>617
いまさらですが、持ってません。「水谷氏」という御方の名も初めて知りました。
時間がある時に是非必ず手にして読んでみます。
知らない情報というものは誠にありがたいものです。

670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/02(土) 09:14:18.61 ID:1byHoW570.net
・遠州相良無宿富吉(相良ノ富五郎)人相書…嘉永5年7月14日より

 一丈ひくき方 一色白く  一まみ毛こく 
 一顔長く方  一鼻筋通り 一言舌静か

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/02(土) 09:15:33.74 ID:1byHoW570.net
  子 四十一歳位

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/03(日) 23:06:07.88 ID:tLZZqDea0.net
相良ノ富五郎(富吉)については
村本,喜代作『遠州侠客伝』(遠州新聞社、1956)に記録があるようだ。
富吉には武州五日市出身の安五郎という子分がいた。その伝手で武州の資料に
人相書が残っている。

673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/04(月) 22:52:54.90 ID:rxFwbPI30.net
高井戸「饅頭屋の勇次郎」は小金井小次郎の直参子分で、新聞や聞き書きに多くエピソードの残る人。
姓は鈴木で、気性は荒いがさっぱりとした好漢だったらしい。地元では不死身の男などとも呼ばれた。
ただし勇次郎は墓すら不明である。

現在新宿の追分で、銘菓として売られている「追分饅頭」は高井戸の商人が持って来た者であるという。
それが誰であるかは、本舗にも資料がないため不明とされるが、あるいは勇次郎の饅頭屋と関係があるのかもしれない。

674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/04(月) 22:59:46.93 ID:rxFwbPI30.net
東京都三鷹市新川に「矢端一之橋、ニ之橋、三之橋」がある。よって小字は「矢端」。
小次郎一家一の知恵者「矢端の藤蔵」は、まずここの出と見てよい。
姓は高橋。残念ながらこの人も墓石不明。
近村の金石文や古文書には、少しばかり登場する。名はあるいは藤次郎が正しいかもしれない。

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/08(金) 20:22:31.45 ID:dbQOfyDv0.net
相州藤沢宿、若松屋権次郎(善太郎とも)

676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/08(金) 21:24:15.42 ID:dbQOfyDv0.net
若松屋権次郎は十手持ちの親分。藤沢の権次郎とも呼ばれる。
小田原出生の博奕打ち「久蔵の親分」とある。

同時代(嘉永6年頃)の岡引親分らしい人々に、
海老屋次郎吉、大坂屋伝一郎、平ノ屋政八、砂川村佐一郎、らの名前があがる。

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/13(水) 23:16:34.10 ID:IWNrQOAZ0.net
藤沢宿の若松屋善太郎は有名な人だったようで、
藤沢市史研究36号の平野雅道氏の研究論文「幕末明治初期の藤沢宿における治安維持」(2003年)
に善太郎のことが載っている。氏が参考資料にした昭和の郷土史『現在の藤沢』によれば、
善太郎は「鬼の権次」と恐れられた南相州の大親分だったとされる。姓は三橋。

ところで平野氏は善太郎を「権次郎」とするのは誤りで、善太郎倅が権次郎であるとするが、こちらが誤り。
実際に三橋善太郎は若松屋権次郎と呼ばれたことが史料上確認できる。

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/15(金) 03:26:34.32 ID:AACXlDVD0.net
35 名前: 専守防衛さん(奈良県) 本日のレス 投稿日:2007/12/23(日) 11:02:54.74 ld80Uwlf0
昔 甥っ子に年賀状で マジレンジャーの写真を印刷して
「マジレンジャー オレンジ募集っ!!!!
 君のところに 迎えに行くよっ!」って 全部 平仮名でかいて送ったら


押入れから出てこないって その親から電話があった。

679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/15(金) 03:27:41.52 ID:AACXlDVD0.net
誤爆スマソ

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/15(金) 23:34:52.66 ID:TwhN2fEY0.net
高橋敏は歴史学者(つまり識者)として初めて任侠の徒を扱ったとしているが、
それ以前にも十分実証的に任侠の徒を扱った人たちはいた。一応名を上げれば

・三田村鳶魚
・戸羽山瀚
・白柳秀湖
・尾佐竹猛(おさたけたけき)
・長谷川伸
・増田智哉
・子母澤寛
・村松梢風
・竹内勇太郎
・中沢正
・藤田五郎
・松尾四朗
・今川徳三
・植田憲詞
・村本喜与作
・相川春吉

といったところじゃないだろうか。(何人か漏れていると思うが、他にいたら書きこんで下さい。)

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/16(土) 02:30:09.41 ID:atAzl2jJ0.net
加川英一(「幕末・明治無名博徒言行録」の著者)

682 :1/3:2016/07/17(日) 19:30:02.79 ID:cUR54smB0.net
日野の八五郎と良助が、天保10年8月26日、御用で呼び出され出向く途中、
谷保天満宮祭礼に寄り道して、村の若者たちと喧嘩騒ぎを起こした事件は
このスレでも既出だが、ふたりを診察した医者の診断書控えが残っている。

良助は、頭頂と右鬢に打撲裂傷1箇所ずつ、左上腕に擦過傷1箇所、
右肘前後に打撲による腫れ3箇所、左膝下に擦過傷1箇所。
意識はしっかりしており、脈拍・食欲の異常はみられない。
清下湯(煎じ薬らしいが効能不明)を処方し、傷には金瘡膏をつけ、
擦過傷・打撲傷は湿布薬で手当てした。

683 :2/3:2016/07/17(日) 19:30:51.54 ID:cUR54smB0.net
もう一人の負傷者(明記がないが八五郎と思われ)は、
頭頂に打撲裂傷が3箇所、左肩に打撲による腫れが1箇所、右腕に擦過傷4箇所。
失神しており、やがて意識を回復したが、
負傷箇所はもちろんあちこちが痛み、身動きもつらいと本人が言う。
食欲や排泄には問題ないので、口支伏令丸(桂枝茯苓丸か)を処方し、
金瘡膏と湿布薬で手当をした。

2日後、4日後にも、医師による経過報告がなされている。

684 :3/3:2016/07/17(日) 19:32:53.34 ID:cUR54smB0.net
なお、この騒動は傷害事件として
谷保天満宮の別当安楽寺から寛永寺へ検使願いが出され、
上谷保村から山本大膳代官所へ
日野宿から江川太郎左衛門代官所へ
関東取締出役から勘定奉行へ、それぞれ報告書や伺書が提出されるなど、
よくある喧嘩沙汰が発端にしてはずいぶんな大事になってしまった。

喧嘩相手約30人のうち、主な4名が逮捕されて村預けとなったが、
その程度ですんだのは八五郎と良助の怪我が全快し、
後遺症もなかったためと思われる。

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/18(月) 22:34:13.65 ID:q/vbnUcD0.net
私は多摩地域の警吏・博奕打ちの史料を、かなり細かいところまで押さえているつもりだった
のだけど…677、678、679は未知の話だった…

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/20(水) 23:32:40.72 ID:YuMwQ2tC0.net
武州松山宿久保の忠五郎、万吉親子

687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/22(金) 16:40:21.33 ID:rt5/JOQE0.net
675
大事な人を忘れていた。
『小金井小次郎伝』の皆木繁宏氏

688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/22(金) 16:44:38.73 ID:rt5/JOQE0.net
俺はなんてばかなんだろう…
増田智哉氏ではなく、
増田知哉氏がただしい。

本当に失礼しました。

689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 01:19:12.84 ID:IwvOB2A40.net
>>669
水谷藤博氏 長谷川昇教授と関わりが強かった方のようです。
長谷川教授が主宰していた「東海近代史研究」という雑誌で博徒に関する論文をいくつか発表されています。
高神山や黒田屋祐造について、明治十七年の博徒大刈り込みや小政の判決文、
久六や亀吉などの相撲取りあがりの博徒についてや原田常吉についてなどを書かれています。

長谷川教授も水谷氏の研究にかなり期待をしていたようですが、
残念ながら比較的はやくお亡くなりになってしまったようです。

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 01:46:13.01 ID:IwvOB2A40.net
>>387
江尻の大熊
実は「大熊」ではなく清水魚町の熊五郎で「魚熊」らしいことを以前何かで読みました。
10年以上前、時間がない中でさっと目を通しただけの記憶で本の題名も覚えていませが、
公刊はされていない本で「魚熊」の戒名ものっていたような記憶があります。

次郎長が「うおくま」と言っていたのが、訛りが強くて愚庵には「おおくま」と
聞こえてそれを「東海遊侠伝」に書いたのかな?なんと思いましたが、
「安東文吉基本史料」にも「大熊」となっているようなので、
「大熊」で間違いないのかもしれません。

いずれにしても「東海遊侠伝」で中盤までは主要な人物の一人なのに
その後が全く伝わっていない不思議な人物ですね。

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 02:10:08.47 ID:IwvOB2A40.net
>>680
中沢正氏の「考証 東海遊侠伝」。
他の本にはない興味深い内容がいくつも載っています。
ただ、驚くほど誤字・脱字が多い。
他の本の引用のはずが、著者の言葉になってしまっていたりもする。

いったいどんな人間が編集に携わればこんな本が出来上がってしまうのか?
著者が気の毒でなりません。
引用に関しては、後日、中沢氏は「清水次郎長伝 博徒の虚像と実像」
の著者、佐橋法龍氏に謝罪に行ったというエピソードがあります。

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 06:05:30.92 ID:cmTHXxzy0.net
>>689-691
極めて貴重なお話、御教示ありがとうございます。
とくに「魚熊」の話は興味深く読ませていただきました。

「東海近代史研究」のような素晴らしい研究雑誌はもっと世に知られていいはずのものですね。

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 07:10:09.27 ID:cmTHXxzy0.net
任侠の史料探求をしている際に、資料館や博物館でこれを言う人だけは信用できないという言葉に
「ああいう方たちの活動はなかなか史料に残らないですから」というのがある。

それはうそだ。村落や市居の人々より、はるかに彼らの活動は資料に残っている。見つからないのは
探していないからだ。

694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 22:26:59.97 ID:p3NThsW10.net
旦那方のように見る目を持った御仁でなけりゃ
せっかく史料を見ても気づかなかったりするんでさ

695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 22:35:17.64 ID:cmTHXxzy0.net
>>689
「東海近代史研究」の水谷藤博氏の論文を読みました。
どれも「素晴らしい」としか言いようがない。
特に最後の原田常吉の論文に至っては、常吉氏の人間性を
余すことなく伝えており、それをもって真の遊侠の姿を堂々と示している。
原田常吉。侠客としてはこの人が最上位なんじゃないだろうか、そう思わせる程の
名論文です。

今まで水谷氏の御論文を読まずに来たことが恥ずかしいです。

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/10(水) 01:00:46.61 ID:+/vSwBBr0.net
>>692
土地に詳しくないので詳細は分かりませんが、
清水魚町ではなく、正しくは江尻魚町なのかもしれません。

清水次郎長の最初の旅に同行したもう一人、庵原の広吉も東海遊侠伝では
その後名前は出てきませんが、駿州秋葉権現の高市を取り仕切った人物として
「清水一家 庵原広吉」との記述が戸羽山瀚 調べとして「やくざ考」にあります。

>>693
言われるまで、そんなものかと思ってしまっていましたが、確かにそうですね。
自分達で残した記録は少なくても、記録を残されることは多かったはずですね。

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/10(水) 01:18:04.75 ID:+/vSwBBr0.net
>>695
まさに「侠客 原田常吉」ですね。
後年作られた人物像ではなく、投獄されている監獄の看守が
減刑嘆願をしたくなるほどの博徒。
「東海近代史研究」とともにもっと世に知られているべき侠客だと思います。

698 :1/2:2016/08/18(木) 17:14:29.87 ID:ePO2RJHI0.net
>>199
すでにこのスレをご覧になっていないかもしれませんが、
ひとまずわかったことを報告いたします。

40年ほど前に地元の人が書いた話
・小金井小次郎の身内で、名高い博徒
・義人と伝わっている
・近藤勇と剣術を通じて親しかった
・近藤が新政府軍に追われて江戸を去る時、彼に記念の品物を渡した
・その記念品は子孫宅に今も伝わっている

近年墓所を調査した人の話
・墓誌に「昭和24年2月27日 俗名長兵衛 行年96歳」とあるのが本人らしい

699 :2/2:2016/08/18(木) 17:16:16.54 ID:ePO2RJHI0.net
墓所を調査した人が現在の子孫から聞き取った話
・屋号が「桶屋」だった
・長兵衛は96歳で亡くなった
・剣が強く、侠客のようだった
・近藤勇の記念品については、実物も情報もまったく伝わっていない

こちらでも調べてみましたが、
近藤勇の周辺には長兵衛の存在を確認できずにおります。
没年から逆算すると生年は嘉永5〜6年と考えられ、
慶応4年当時は15歳くらい、ということになるでしょう。
近藤勇や小金井小次郎と親しく交流するにはいささか若すぎる気もしますが、
可能性ゼロとは言い切れません。

以上、お粗末ながら報告とさせていただきます。

700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 22:05:58.33 ID:q3E+3NdM0.net
結句、ここで質問されたにもかかわらず、
私も桶屋長兵衛のことが皆目わからなかったので、大変興味深い報告です。
有難うございます。

「地元の人が書いた話」とありますが、是非著書名を教えていただけないでしょうか。
無理なお願い申し訳ありません。

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 22:47:04.70 ID:q3E+3NdM0.net
ところで上で「堀越の藤左衛門」について、大正時代の『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』という本を参照に
「姓・塚元」と書きこんだが、今回現地へ行ってお参りしてきたところ、墓石には「山口藤三郎」とある。
袋井市北公民館活動文化部作成の『ふるさと物語』には、この山口藤三郎の名で、戸籍まで載っているので
信用していいだろう。
といって『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』が間違っているとも言いきれない。何しろ藤左衛門の出自について、地元でも知らぬ情報を
詳しく載せてもいる。塚元と山口、何れが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか、現時点で私には判断がつかない。

702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 22:59:58.34 ID:q3E+3NdM0.net
同様に山梨ノ巳之助についても、生半可な知識で上に記したことが悔やまれる。
彼は紛れもなく一時は遠州一の親分だったようだ。子分には上記の堀越藤左衛門をはじめ、
森ノ五郎、四角山周吉、それに大和田の友蔵もそうだった。
人足の頭を務めていたとも、興行師の帳元だったとも言うが、いずれにせよ、悪くない親分だったという。
ただし侠客としての目立った逸話はこの人には無い。この点、小金井小次郎の親分(兄貴分とも)の藤屋万吉と似ているともいえるだろう。
「首実検」をした、というのはどうやら事実だったらしく、といってもやむにやまれずやったようだが、
いずれ安東文吉に目を付けられ、一家を解散させられたらしい。

703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 23:09:01.69 ID:q3E+3NdM0.net
捕まって八丈島へ島流しとなるに及び、船から逃げて捕らえられ、鈴が森で首を切られた
とのことだ。万延元年九月十一日が命日で、現在袋井市山梨の用福寺(三筆の一人、橘逸勢の墓所)
に無縁の墓石がある。姓は松井。

神谷昌志の『遠州の史話』(静岡新聞社、H2年)
また雑誌「東海展望」にある「遠州侠客伝」(1982、9月)などが参考になる文献である。

ものによっては大前田栄五郎の兄弟分だったとも言うが真偽のほどはわからない。

704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/19(金) 18:51:19.91 ID:5SThZR+f0.net
>>700
実は私も該当部分のコピーを見ただけなのですが、
出版物というより、内部で回覧もしくは配布された資料のように見受けられます。
曖昧な答えで申し訳ありません。

705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/19(金) 21:48:41.10 ID:Ixaglaik0.net
>>704
なるほどそういう資料ってありますよね。それだけに普通目につかない人の話が
話題にあがっただけでもありがたいです。
御返信誠に有難うございました!

706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 16:48:41.17 ID:Yho5xlj40.net
Smart FLASH
【ヤクザ日本史】江戸時代最高の「義?」を持った火消し
http://smart-flash.jp/sociopolitics/10932

あまりにもざっくりし過ぎw

707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 19:47:45.37 ID:/DcWA7Ft0.net
初めから山口組に行きつくように書こうという意図が見え見えの文章ですが、
猪野健治さんの名前を出しているから、素直に一読する価値がありますね。
身体張って取材している姿勢は、やっぱり物凄いものがあります。

708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 20:06:43.96 ID:/DcWA7Ft0.net
大和田の友蔵は上にも書いたように、遠州一の親分山梨ノ巳之助の下について御機嫌伺いをしていたらしく、巳之助も友蔵のことを可愛がっていた。
ところが巳之助の用心棒格に「竹」という暴れ者がいて、これと友蔵の子分の藤五郎とが揉めた。
藤五郎は温厚な人だったらしいが、竹が執拗に絡んできたため、ある日とうとう賭場から追いだすという仕打ちに打って出た。

これを恨んだ竹は藤五郎の家に行き、「藤五郎を出せ」と女房のやすに凄んだ。藤五郎は二階で寝ていたが、やすは事を察し、
「亭主は留守にしている」とウソをついた。ところが竹はそのまま土足で階段を上がり始め、これに狼狽したやすは夫の長脇差で、思わず下から
竹を突き刺し殺してしまう。

709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 20:15:18.15 ID:/DcWA7Ft0.net
友蔵は、自分の子分が巳之助の身内を殺してしまったことに慌て、何はともあれ藤五郎を逃がし、
其の上で巳之助に事を詫びに行った。ところが好々爺の巳之助と世間話をしている内に、ついに言葉がでず、
長時間を費やしてしまったところで、巳之助の居候・相撲上がりの四角山周吉が突然巳之助に事の真実を告げた。
巳之助は火の様に怒り、友蔵を攻め、すぐに藤五郎の探索に子分を向かわせるが、既に逃げた後。
友蔵は平謝りに謝ると共に、藤五郎が上手く逃げたことに胸をなでおろした。

ところが、常々友蔵を嫌っていた四角山周吉は執念深く藤五郎を追いかけ、二三日の後、とうとう隠れ家を突き止め、
藤五郎の首を取ってしまった。

710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 20:27:40.78 ID:/DcWA7Ft0.net
四角山は藤五郎の首を持ち帰り、親分巳之助に「首実検」するように願い出た。
さすがにこの申し出に、堀越藤左衛門や、森之五郎は大反対するが、巳之助も年をとり耄碌していたのか、
とうとう一家で場を立て、これを行う事に決めた。

ここに至って友蔵は巳之助と全面から闘う腹を決める。友蔵は藤五郎の妻やすを安東文吉の所へ遣り、事の次第を話し、助力を要請した。
「首実検」の話を聞いた文吉は即座に柳新田の政蔵、安西の吉五郎に一団を率いさせ、掛川へと向かわせ、巳之助の用意していた一団を打ち破り、
とうとう巳之助をお縄にする。(後は上述の通り)
ちなみにこの時、巳之助勢の中に四角山は既におらず、一早く逃げた後だった。(四角山は後に堀越藤左衛門に斬られる。)

711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/28(日) 16:54:39.44 ID:Bvt88FhE0.net
田中啓文の上方行ったり来たり
「八百八橋」のはっけんや?
http://mainichi.jp/articles/20160827/ddf/012/070/008000c

> 三十石船は京の伏見と大坂を結ぶ客船で、鉄道のない当時は大いに利用され、夜中も運行されていた。
> 八軒家、そして三十石船といえば、なんといっても広沢虎造の「石松三十石舟道中」だ。

> 「飲みねえ、すしを食いねえ。江戸っ子だってねえ」
> 「神田の生まれよ」

> というやつだ。あの浪曲のなかで石松と客はすしを食べるが、
> 映画などではなぜか巻きずしになっていることが多い。
> でも、実は「押しずし」なのである。レコードを聴くと、

> 「大坂の八軒家から船に乗る。(中略)
> よけいなお宝払って、胴の間のところ畳一畳ばかり買い切って(中略)
> 大坂本町橋の名物押しずしを脇へ置いて……」

> と、ちゃんと言っている。

712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/30(火) 22:09:13.08 ID:7t6z9mKh0.net
こないだ末広亭へいったら神田鯉栄さんが黒駒勝蔵と清水次郎長関連の
講談をやってて、嬉しかったなあ

713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/30(火) 22:41:55.42 ID:7t6z9mKh0.net
静岡県立図書館へ行ったら、『安東文吉伝史料集』と共に
『実説次郎長物語』(S14 河原井喜久雄)を見てくるべきだった。
今さら気づいても、もう遅い。

総レス数 1800
880 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200