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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/28(土) 07:12:24.78 ID:1+9YR0WK0.net
>>362
だいぶ遅くなりましたが、慶応四年(辰)の上州一揆について。
この時の頭取りの博奕打ちの調べ方として有効なのは「国立公文書館」のデジタル
アーカイブス。「刑・明治・群馬県」で調べると、明治に刑罰を受けた者たちの情報が出ますので
その中に「辰年三月の一揆を先導した者」も何人か見つけることができます。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/28(土) 07:21:11.32 ID:1+9YR0WK0.net
このうち、個人的に興味深い人物は「甲州黒駒村弥三郎」で、辰年の「民騒の時節、自分頭取ト唱エ扇動云々」とあります。
弥三郎はこの時「玉五郎」と名を改めており、いずれにせよ勝蔵一派にかつては組していた
人物と考えられます。彼はこの後捕縛されますが、破牢して、再び召捕られ死罪となります。

一揆に関しては他の人物の事も多く上げられていましたが、不覚にも弥三郎が「慶応4年の上州一揆」と関連していたことに
気づいたのがつい先ほどだったもので…他の人物に関しては資料をとってこなかったんですわ。

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 06:54:19.08 ID:7E6GaL2x0.net
>>642-643
どうもありがとうございます。
検索したら複数の文書が上がってきて、中にはページ数が多いものもあったので
ご指摘の箇所を探し出すのに手間取ってしまいました。

どこで見かけた情報か忘れてしまったのですが、
小栗忠順が大金を運んでいると思い込み江戸から尾行していった博徒がいたとか。
この弥三郎なる人物がそれか、あるいは別人なのか、興味深く思います。

いずれまた何かわかりましたら、教えていただければ幸甚です。

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 21:21:11.15 ID:Av8DVwXu0.net
御丁寧な返信痛み入ります。
私はPCが古いため、自宅で閲覧できず、わざわざ公文書館まで行きました。
これらの文書がPCさえ新しくすれば自宅で見ることができるのなら、すごい事ですね。

ちなみに「刑・明治・山梨」で検索すれば、黒駒勝蔵の口供書も見れる(はず)です。
すごい時代が来たものだ。

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/05/30(月) 21:23:17.33 ID:Av8DVwXu0.net
偉大な仁侠研究家の藤田五郎氏が最期に来訪したのは、武州飯能在の「小久保の林蔵」
の元だったと言う。

647 :639:2016/05/31(火) 17:55:51.93 ID:ekVG2jhI0.net
星亮一『最後の幕臣 小栗上野介』を立ち読みしたら、
小栗騒動について以下の説明がありました。

暴徒の総大将は長州浪人で金井壮助といい、
その下に本郷村出の博徒鬼金、鬼定、下駄金などがいて、
三ノ倉の全透院に本拠を構え、
「村々人数一軒に付き、一人ずつ借用仕り候。
鉄砲これあり候者は、鉄砲持参なさるべく候」
と回状を三ノ倉、水沼、岩氷、川浦の村々に廻し、世直しに加わるよう求めた。

金井は、薩摩による関東騒擾の一味と思われ、
いったん捕えられたものの、政情混乱によって出獄していたと、何かで読みました。
江戸出発時から小栗に目をつけていた博徒として、以前どこかで名前を見かけたのが
鬼金、鬼定だったと思います。下駄金は初見。
いずれにしろ黒駒村弥三郎とは別人のようですね。

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/01(水) 22:16:18.66 ID:icYEbMdr0.net
群馬県立文書館の所蔵資料に
「世直廻状(鬼定・鬼金一揆廻状)」なるものがあるようです。

差出しは「高崎領本郷村頭取諱名鬼定・鬼金」
宛先は「最寄村々」

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/03(金) 00:11:04.45 ID:TNtFMwn+0.net
二年前の夏くらいにヤフオクで、黒駒一党残党の人相書きが出品されていた。
気づいたのが出店が終わって一月ほどのことだったので、今ではあれがどこへ行ったか
わからない。多分永久にわからないだろう。「東花輪の乙吉」ともう一人が載っていた。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/05(日) 22:43:07.52 ID:eKu2kALy0.net
埼玉県坂戸市赤尾地区の「聞き書き」の中には、さすがに林蔵の出身地だけあって
バクチウチの話が多い。

・カシモトと言ってかつて博打の代貸をしていたときに若い者を何人か置いていた。
・勝五郎という者が旅に出た留守を、後見人でサゾウという者が残って、家を守っていた。
・ある時旅人が二人来たのでそれを接待して御馳走してやった。
・ところが旅人たちはサゾウを殺しに来た者で、便所で仕度を取り変えてサゾウを斬り、土手を駈けて逃げて行った。
・家のおばあさんは、「サゾウここで死んでちゃしょうがねえ」と言って遺体を庭へ引きずっていった。(博打打ちの女房は気丈だった。)
・「畳の上で死ねねえ、それが博打打ちの死に方なんだ」とよく聞かされた。

淡々と記録されたノートなだけに中々印象深い。

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/05(日) 22:50:30.04 ID:eKu2kALy0.net
>>648
情報を有難うございます。
「諱名鬼定・鬼金」というところがなんとも期待通りといいましょうか…良いですね。
また、文書を残す位だから、それなりの教養があったんでしょう。
群馬文書館は少し遠いですが、確かに良い資料も多く、対応も親切なので機会があったら
閲覧・撮影に行ってみようと思います。

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/15(水) 21:35:01.94 ID:sMYK109b0.net
比留間一郎氏の「府中宿の893」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
は何度読んでも面白い。これはなぜなのか。
思うに学術的論文であること、仁侠研究のルポタージュであること、の両方に合格した書き物だから
だと思う。どちらか一方だけの書き物は多い。

それと、何よりも取り上げる人物を単なる対象物ではなく、丁重に敬い扱っているからだと思われる。
まさにこの分野のお手本のような作品である。

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/19(日) 22:07:29.65 ID:aIZnB8ke0.net
上州の寒梅の丹治が明治の始めになってから、旅修業の途中世話になった武州の親分として
八王子の蕎麦屋の亀吉親分、峠の健次郎親分、それと日光屋の吉蔵という三名の親分をあげている。
このうち亀吉親分は興林寺に、健次郎親分は福伝寺にそれぞれ墓石がある。
日光屋吉蔵親分は、「日光屋吉五郎」とも呼ばれたらしい。墓所は特定できないが、往時市森神社の向かい辺りに
居宅を構えていたようだ。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 19:03:26.99 ID:fr4bWBB00.net
>>246
その「小さな石」とは別のものかもしれませんが、
小野神社の近くには馬頭観音碑があるそうですね。
「馬頭観□」「安政三年丙辰四月吉日」「杉本萬平 ■■(欠損)」
ひょっとして欠損の部分が「藤三郎」だったとか?

また「短い鉈」とは
メカイ(目籠)包丁のことでしょうか。

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:44:55.39 ID:GMgsuOtF0.net
清水の次郎長親分が「英語教育」に早くから目を付け、東京から英語講師を呼び
若者に習わせたという話は「末広亭」へ行った事がある人なら周知の事実だろう。

これに加えて次郎長は「女学校」設立のために大衆の面前で「演説」をしている、
という大変面白い逸話を知ることができた。
参照は昭和14年の加藤末吉氏による『教壇四十年の体験』。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:55:13.67 ID:GMgsuOtF0.net
たいへん味のある文章なので、そのまま抜粋する

「おめえっちゃよく来て下すった。お礼を申します。これから俺の話を聞いてくんな。
それは向横町に三毛猫があった。こっちの横町には黒猫がいた。三毛猫の飼い主は一生懸命に育てて、
ネズミの取りようを仕込んだから、近所から貰い手がたくさんあった。けんど一方の黒猫の奴は
何も構わぬものだから、ネズミをとるより、もっと手軽な魚を盗み取って皆さんから「泥棒猫」だと言われた。
人間だってそうだ。学問をさせなきゃだめだ。この清水の町にや、えい小学校は出来たが、まだ女学校が無い。
欲しいヽヽと言ったって、建てなきゃ出来ねいだ。これからの女にゃ英語でも何でも教へるがよい。
おめいっちゃどふ思う。俺の演説はこれだけだ。どなたさんも賛成でごあんしょ。」

場所は寶相寺。演説の終わりは割れんばかりの拍手喝采。実際、リベラルで先見性があって素晴らしい演説だ。

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/21(火) 23:58:40.51 ID:GMgsuOtF0.net
>>654
その馬頭さんが「小石」です。「藤三郎」は今ではもう読めませんね。私も
比留間一郎氏の論文によって知ったのみです。

万平の装束に関しては「講談・祐天仙之助」に拠りました。
猶、今月十日は万平親分の丁度命日でしたね。

658 :649:2016/06/22(水) 17:53:39.48 ID:7DBbyDHl0.net
>>657
ありがとうございます。
比留間一郎氏が論文を著した当時は、まだ判読可能だったのでしょうね。
万平地蔵などと併せて、いずれ実物を拝みに行きたいと思います。

目籠包丁は、目籠を作るための刃物で、見たところは短い鉈、
農間に目籠生産をしたこの辺りではよく使われたそうです。
講談では「めかいぼうちょう」と言ってもわかりにくいので
鉈と言い換えたのかも?と想像しました。

>>234でもお薦めの「府中宿の八九三」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
所蔵図書館へ行ったら閲覧するつもりです。
なお「府中宿の旅籠屋ノート」は、調べてみたところ
タイトル「府中宿の飯盛旅籠ノート」、掲載誌『府中市立郷土館紀要 第2号』、
と登録されていました。

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:17:52.29 ID:MK2FM3mR0.net
荒生留吉

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:27:31.84 ID:MK2FM3mR0.net
荒生の留吉は「小川戸の留五郎」が正しい。
「近世侠義伝」によれば長差権次の子分で、胆力に優れ船幽霊を素手で叩き倒したという。
同じ長差権次の子分「風窓半次」とは犬猿の仲で会うとすぐに刃物を抜いてやりあった。
飯岡助五郎がこれを見兼ねて、間に入って和解させたが、留吉はこれを不服とし、
後年笹川繁蔵と助五郎とが闘う時、留吉は繁蔵側について、助五郎方の来襲を知らせて、
笹川側の勝利の要因を作った。
一方の半次は、終始助五郎方に付き、勢力、清瀧の襲撃の際も助五郎方として散々に戦った。

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/22(水) 22:35:29.50 ID:MK2FM3mR0.net
神楽獅子の大八
も、また『天保水滸伝』に登場する侠客で、
飯岡助五郎の子分の一人。相撲取りで助五郎の贔屓。元気者で人気があった。
繁蔵子分「名垂の岩松」が飯岡側の力士四人を投げ倒したが、大八はその岩松を
一突きで土俵の外へ押し出し、そこから七人を続けて投げ倒した。その後現れた勢力富五郎に土を
付けられるが、例の笹川の戦いの際には、飯田兄弟を翻弄し、繁蔵とも一騎打ちを演じた。

なんとなくキャラクターが立つのだろう。長谷川伸の『関の弥太っぺ』でも憎まれ役として登場させられてた記憶がある。

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/26(日) 00:25:25.83 ID:cyReymPy0.net
侠客展示もやった府中博物館が、話題になっているので一言。
ここの一番の問題は博物館の広さに比べて、雇っている人間が少なすぎることにあるのだ。
箱に金は懸けるが人件費はケチる。それで施設の隅々まで人の目を張り巡らすなんて出来る訳が無いだろう。

同館では、文書史料は多数あるのに、まだ目録化されていないものが夥しく存在する。
首長は、この馬鹿げた状況が当たり前だ、と思っているのだから仕方ない。

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/28(火) 16:52:38.32 ID:4sGIzGha0.net
もったいない
国文学研究資料館に寄付すればいいのに

664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/28(火) 23:27:40.61 ID:6hIjoyxa0.net
657は言いすぎました。
でもそういう反応をもらうと有り難いです。
私もまさにそう思っていた。国文学研究資料館は保存も良いし、原資料の閲覧もかなり
太っ腹で自由が利く、ちょっと夢の様な空間ですな。

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/29(水) 19:58:11.36 ID:u3XaMyhR0.net
恋ヶ窪無宿彦太郎

666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 00:18:30.30 ID:YY6MRMTR0.net
大前田栄五郎には優れた子分が巨万といて、それぞれ甲乙つけがたいそうだが、
栄五郎と身近であったり、知りあう時期が速かったりといった点で計ると、
だいたい一之子分と呼ばれる人は江戸屋虎五郎、大胡の団平、それから岩崎幸松だったという。
幸松の「岩崎」は姓。出自は大前田村だから、無理に呼ぶとすれば大前田幸松となる。
始終栄五郎にくっついて旅をして、腕っぷしも気風も大したものだった。

667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 00:23:15.87 ID:YY6MRMTR0.net
ところが幸松、少しばかり気が短く、喧嘩早い。
栄五郎は42歳から、脇差の代わりに木刀を腰に差して、以降時分から「人を切れない」
ようにした。江戸屋虎五郎などはこれを聞いて、大いに得心するところがあったというが、
幸松はこれに反発し、「ヤクザは酔狂で刃物を差してるわけじゃございやせん」と言って
栄五郎の元を去った。

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 00:34:05.36 ID:YY6MRMTR0.net
幸松は後に岡引きを切り、新島へ流罪となるが、島抜けをしようとして見つかり、
首をくくられて生涯をとじた。

さて大前田栄五郎の兄揚吉の跡目を継いで、二代目大前田揚吉(大前田一家親分)になった人物を、
本名「阿久沢祐七」と言う。
実はこの人、島抜けを失敗して死んだ幸松の一之子分だった人で、栄五郎たっての願いで、
親分の座に付いた。たとえ袂をわかっても、やはり栄五郎にとって「幸松」は
終生変わらず「可愛い子分」だったのだろう。

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/30(木) 22:22:46.07 ID:YY6MRMTR0.net
>>617
いまさらですが、持ってません。「水谷氏」という御方の名も初めて知りました。
時間がある時に是非必ず手にして読んでみます。
知らない情報というものは誠にありがたいものです。

670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/02(土) 09:14:18.61 ID:1byHoW570.net
・遠州相良無宿富吉(相良ノ富五郎)人相書…嘉永5年7月14日より

 一丈ひくき方 一色白く  一まみ毛こく 
 一顔長く方  一鼻筋通り 一言舌静か

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/02(土) 09:15:33.74 ID:1byHoW570.net
  子 四十一歳位

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/03(日) 23:06:07.88 ID:tLZZqDea0.net
相良ノ富五郎(富吉)については
村本,喜代作『遠州侠客伝』(遠州新聞社、1956)に記録があるようだ。
富吉には武州五日市出身の安五郎という子分がいた。その伝手で武州の資料に
人相書が残っている。

673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/04(月) 22:52:54.90 ID:rxFwbPI30.net
高井戸「饅頭屋の勇次郎」は小金井小次郎の直参子分で、新聞や聞き書きに多くエピソードの残る人。
姓は鈴木で、気性は荒いがさっぱりとした好漢だったらしい。地元では不死身の男などとも呼ばれた。
ただし勇次郎は墓すら不明である。

現在新宿の追分で、銘菓として売られている「追分饅頭」は高井戸の商人が持って来た者であるという。
それが誰であるかは、本舗にも資料がないため不明とされるが、あるいは勇次郎の饅頭屋と関係があるのかもしれない。

674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/04(月) 22:59:46.93 ID:rxFwbPI30.net
東京都三鷹市新川に「矢端一之橋、ニ之橋、三之橋」がある。よって小字は「矢端」。
小次郎一家一の知恵者「矢端の藤蔵」は、まずここの出と見てよい。
姓は高橋。残念ながらこの人も墓石不明。
近村の金石文や古文書には、少しばかり登場する。名はあるいは藤次郎が正しいかもしれない。

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/08(金) 20:22:31.45 ID:dbQOfyDv0.net
相州藤沢宿、若松屋権次郎(善太郎とも)

676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/08(金) 21:24:15.42 ID:dbQOfyDv0.net
若松屋権次郎は十手持ちの親分。藤沢の権次郎とも呼ばれる。
小田原出生の博奕打ち「久蔵の親分」とある。

同時代(嘉永6年頃)の岡引親分らしい人々に、
海老屋次郎吉、大坂屋伝一郎、平ノ屋政八、砂川村佐一郎、らの名前があがる。

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/13(水) 23:16:34.10 ID:IWNrQOAZ0.net
藤沢宿の若松屋善太郎は有名な人だったようで、
藤沢市史研究36号の平野雅道氏の研究論文「幕末明治初期の藤沢宿における治安維持」(2003年)
に善太郎のことが載っている。氏が参考資料にした昭和の郷土史『現在の藤沢』によれば、
善太郎は「鬼の権次」と恐れられた南相州の大親分だったとされる。姓は三橋。

ところで平野氏は善太郎を「権次郎」とするのは誤りで、善太郎倅が権次郎であるとするが、こちらが誤り。
実際に三橋善太郎は若松屋権次郎と呼ばれたことが史料上確認できる。

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/15(金) 03:26:34.32 ID:AACXlDVD0.net
35 名前: 専守防衛さん(奈良県) 本日のレス 投稿日:2007/12/23(日) 11:02:54.74 ld80Uwlf0
昔 甥っ子に年賀状で マジレンジャーの写真を印刷して
「マジレンジャー オレンジ募集っ!!!!
 君のところに 迎えに行くよっ!」って 全部 平仮名でかいて送ったら


押入れから出てこないって その親から電話があった。

679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/15(金) 03:27:41.52 ID:AACXlDVD0.net
誤爆スマソ

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/15(金) 23:34:52.66 ID:TwhN2fEY0.net
高橋敏は歴史学者(つまり識者)として初めて任侠の徒を扱ったとしているが、
それ以前にも十分実証的に任侠の徒を扱った人たちはいた。一応名を上げれば

・三田村鳶魚
・戸羽山瀚
・白柳秀湖
・尾佐竹猛(おさたけたけき)
・長谷川伸
・増田智哉
・子母澤寛
・村松梢風
・竹内勇太郎
・中沢正
・藤田五郎
・松尾四朗
・今川徳三
・植田憲詞
・村本喜与作
・相川春吉

といったところじゃないだろうか。(何人か漏れていると思うが、他にいたら書きこんで下さい。)

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/16(土) 02:30:09.41 ID:atAzl2jJ0.net
加川英一(「幕末・明治無名博徒言行録」の著者)

682 :1/3:2016/07/17(日) 19:30:02.79 ID:cUR54smB0.net
日野の八五郎と良助が、天保10年8月26日、御用で呼び出され出向く途中、
谷保天満宮祭礼に寄り道して、村の若者たちと喧嘩騒ぎを起こした事件は
このスレでも既出だが、ふたりを診察した医者の診断書控えが残っている。

良助は、頭頂と右鬢に打撲裂傷1箇所ずつ、左上腕に擦過傷1箇所、
右肘前後に打撲による腫れ3箇所、左膝下に擦過傷1箇所。
意識はしっかりしており、脈拍・食欲の異常はみられない。
清下湯(煎じ薬らしいが効能不明)を処方し、傷には金瘡膏をつけ、
擦過傷・打撲傷は湿布薬で手当てした。

683 :2/3:2016/07/17(日) 19:30:51.54 ID:cUR54smB0.net
もう一人の負傷者(明記がないが八五郎と思われ)は、
頭頂に打撲裂傷が3箇所、左肩に打撲による腫れが1箇所、右腕に擦過傷4箇所。
失神しており、やがて意識を回復したが、
負傷箇所はもちろんあちこちが痛み、身動きもつらいと本人が言う。
食欲や排泄には問題ないので、口支伏令丸(桂枝茯苓丸か)を処方し、
金瘡膏と湿布薬で手当をした。

2日後、4日後にも、医師による経過報告がなされている。

684 :3/3:2016/07/17(日) 19:32:53.34 ID:cUR54smB0.net
なお、この騒動は傷害事件として
谷保天満宮の別当安楽寺から寛永寺へ検使願いが出され、
上谷保村から山本大膳代官所へ
日野宿から江川太郎左衛門代官所へ
関東取締出役から勘定奉行へ、それぞれ報告書や伺書が提出されるなど、
よくある喧嘩沙汰が発端にしてはずいぶんな大事になってしまった。

喧嘩相手約30人のうち、主な4名が逮捕されて村預けとなったが、
その程度ですんだのは八五郎と良助の怪我が全快し、
後遺症もなかったためと思われる。

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/18(月) 22:34:13.65 ID:q/vbnUcD0.net
私は多摩地域の警吏・博奕打ちの史料を、かなり細かいところまで押さえているつもりだった
のだけど…677、678、679は未知の話だった…

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/20(水) 23:32:40.72 ID:YuMwQ2tC0.net
武州松山宿久保の忠五郎、万吉親子

687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/22(金) 16:40:21.33 ID:rt5/JOQE0.net
675
大事な人を忘れていた。
『小金井小次郎伝』の皆木繁宏氏

688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/22(金) 16:44:38.73 ID:rt5/JOQE0.net
俺はなんてばかなんだろう…
増田智哉氏ではなく、
増田知哉氏がただしい。

本当に失礼しました。

689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 01:19:12.84 ID:IwvOB2A40.net
>>669
水谷藤博氏 長谷川昇教授と関わりが強かった方のようです。
長谷川教授が主宰していた「東海近代史研究」という雑誌で博徒に関する論文をいくつか発表されています。
高神山や黒田屋祐造について、明治十七年の博徒大刈り込みや小政の判決文、
久六や亀吉などの相撲取りあがりの博徒についてや原田常吉についてなどを書かれています。

長谷川教授も水谷氏の研究にかなり期待をしていたようですが、
残念ながら比較的はやくお亡くなりになってしまったようです。

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 01:46:13.01 ID:IwvOB2A40.net
>>387
江尻の大熊
実は「大熊」ではなく清水魚町の熊五郎で「魚熊」らしいことを以前何かで読みました。
10年以上前、時間がない中でさっと目を通しただけの記憶で本の題名も覚えていませが、
公刊はされていない本で「魚熊」の戒名ものっていたような記憶があります。

次郎長が「うおくま」と言っていたのが、訛りが強くて愚庵には「おおくま」と
聞こえてそれを「東海遊侠伝」に書いたのかな?なんと思いましたが、
「安東文吉基本史料」にも「大熊」となっているようなので、
「大熊」で間違いないのかもしれません。

いずれにしても「東海遊侠伝」で中盤までは主要な人物の一人なのに
その後が全く伝わっていない不思議な人物ですね。

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 02:10:08.47 ID:IwvOB2A40.net
>>680
中沢正氏の「考証 東海遊侠伝」。
他の本にはない興味深い内容がいくつも載っています。
ただ、驚くほど誤字・脱字が多い。
他の本の引用のはずが、著者の言葉になってしまっていたりもする。

いったいどんな人間が編集に携わればこんな本が出来上がってしまうのか?
著者が気の毒でなりません。
引用に関しては、後日、中沢氏は「清水次郎長伝 博徒の虚像と実像」
の著者、佐橋法龍氏に謝罪に行ったというエピソードがあります。

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 06:05:30.92 ID:cmTHXxzy0.net
>>689-691
極めて貴重なお話、御教示ありがとうございます。
とくに「魚熊」の話は興味深く読ませていただきました。

「東海近代史研究」のような素晴らしい研究雑誌はもっと世に知られていいはずのものですね。

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 07:10:09.27 ID:cmTHXxzy0.net
任侠の史料探求をしている際に、資料館や博物館でこれを言う人だけは信用できないという言葉に
「ああいう方たちの活動はなかなか史料に残らないですから」というのがある。

それはうそだ。村落や市居の人々より、はるかに彼らの活動は資料に残っている。見つからないのは
探していないからだ。

694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 22:26:59.97 ID:p3NThsW10.net
旦那方のように見る目を持った御仁でなけりゃ
せっかく史料を見ても気づかなかったりするんでさ

695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/03(水) 22:35:17.64 ID:cmTHXxzy0.net
>>689
「東海近代史研究」の水谷藤博氏の論文を読みました。
どれも「素晴らしい」としか言いようがない。
特に最後の原田常吉の論文に至っては、常吉氏の人間性を
余すことなく伝えており、それをもって真の遊侠の姿を堂々と示している。
原田常吉。侠客としてはこの人が最上位なんじゃないだろうか、そう思わせる程の
名論文です。

今まで水谷氏の御論文を読まずに来たことが恥ずかしいです。

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/10(水) 01:00:46.61 ID:+/vSwBBr0.net
>>692
土地に詳しくないので詳細は分かりませんが、
清水魚町ではなく、正しくは江尻魚町なのかもしれません。

清水次郎長の最初の旅に同行したもう一人、庵原の広吉も東海遊侠伝では
その後名前は出てきませんが、駿州秋葉権現の高市を取り仕切った人物として
「清水一家 庵原広吉」との記述が戸羽山瀚 調べとして「やくざ考」にあります。

>>693
言われるまで、そんなものかと思ってしまっていましたが、確かにそうですね。
自分達で残した記録は少なくても、記録を残されることは多かったはずですね。

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/10(水) 01:18:04.75 ID:+/vSwBBr0.net
>>695
まさに「侠客 原田常吉」ですね。
後年作られた人物像ではなく、投獄されている監獄の看守が
減刑嘆願をしたくなるほどの博徒。
「東海近代史研究」とともにもっと世に知られているべき侠客だと思います。

698 :1/2:2016/08/18(木) 17:14:29.87 ID:ePO2RJHI0.net
>>199
すでにこのスレをご覧になっていないかもしれませんが、
ひとまずわかったことを報告いたします。

40年ほど前に地元の人が書いた話
・小金井小次郎の身内で、名高い博徒
・義人と伝わっている
・近藤勇と剣術を通じて親しかった
・近藤が新政府軍に追われて江戸を去る時、彼に記念の品物を渡した
・その記念品は子孫宅に今も伝わっている

近年墓所を調査した人の話
・墓誌に「昭和24年2月27日 俗名長兵衛 行年96歳」とあるのが本人らしい

699 :2/2:2016/08/18(木) 17:16:16.54 ID:ePO2RJHI0.net
墓所を調査した人が現在の子孫から聞き取った話
・屋号が「桶屋」だった
・長兵衛は96歳で亡くなった
・剣が強く、侠客のようだった
・近藤勇の記念品については、実物も情報もまったく伝わっていない

こちらでも調べてみましたが、
近藤勇の周辺には長兵衛の存在を確認できずにおります。
没年から逆算すると生年は嘉永5〜6年と考えられ、
慶応4年当時は15歳くらい、ということになるでしょう。
近藤勇や小金井小次郎と親しく交流するにはいささか若すぎる気もしますが、
可能性ゼロとは言い切れません。

以上、お粗末ながら報告とさせていただきます。

700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 22:05:58.33 ID:q3E+3NdM0.net
結句、ここで質問されたにもかかわらず、
私も桶屋長兵衛のことが皆目わからなかったので、大変興味深い報告です。
有難うございます。

「地元の人が書いた話」とありますが、是非著書名を教えていただけないでしょうか。
無理なお願い申し訳ありません。

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 22:47:04.70 ID:q3E+3NdM0.net
ところで上で「堀越の藤左衛門」について、大正時代の『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』という本を参照に
「姓・塚元」と書きこんだが、今回現地へ行ってお参りしてきたところ、墓石には「山口藤三郎」とある。
袋井市北公民館活動文化部作成の『ふるさと物語』には、この山口藤三郎の名で、戸籍まで載っているので
信用していいだろう。
といって『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』が間違っているとも言いきれない。何しろ藤左衛門の出自について、地元でも知らぬ情報を
詳しく載せてもいる。塚元と山口、何れが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか、現時点で私には判断がつかない。

702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 22:59:58.34 ID:q3E+3NdM0.net
同様に山梨ノ巳之助についても、生半可な知識で上に記したことが悔やまれる。
彼は紛れもなく一時は遠州一の親分だったようだ。子分には上記の堀越藤左衛門をはじめ、
森ノ五郎、四角山周吉、それに大和田の友蔵もそうだった。
人足の頭を務めていたとも、興行師の帳元だったとも言うが、いずれにせよ、悪くない親分だったという。
ただし侠客としての目立った逸話はこの人には無い。この点、小金井小次郎の親分(兄貴分とも)の藤屋万吉と似ているともいえるだろう。
「首実検」をした、というのはどうやら事実だったらしく、といってもやむにやまれずやったようだが、
いずれ安東文吉に目を付けられ、一家を解散させられたらしい。

703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/18(木) 23:09:01.69 ID:q3E+3NdM0.net
捕まって八丈島へ島流しとなるに及び、船から逃げて捕らえられ、鈴が森で首を切られた
とのことだ。万延元年九月十一日が命日で、現在袋井市山梨の用福寺(三筆の一人、橘逸勢の墓所)
に無縁の墓石がある。姓は松井。

神谷昌志の『遠州の史話』(静岡新聞社、H2年)
また雑誌「東海展望」にある「遠州侠客伝」(1982、9月)などが参考になる文献である。

ものによっては大前田栄五郎の兄弟分だったとも言うが真偽のほどはわからない。

704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/19(金) 18:51:19.91 ID:5SThZR+f0.net
>>700
実は私も該当部分のコピーを見ただけなのですが、
出版物というより、内部で回覧もしくは配布された資料のように見受けられます。
曖昧な答えで申し訳ありません。

705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/19(金) 21:48:41.10 ID:Ixaglaik0.net
>>704
なるほどそういう資料ってありますよね。それだけに普通目につかない人の話が
話題にあがっただけでもありがたいです。
御返信誠に有難うございました!

706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 16:48:41.17 ID:Yho5xlj40.net
Smart FLASH
【ヤクザ日本史】江戸時代最高の「義?」を持った火消し
http://smart-flash.jp/sociopolitics/10932

あまりにもざっくりし過ぎw

707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 19:47:45.37 ID:/DcWA7Ft0.net
初めから山口組に行きつくように書こうという意図が見え見えの文章ですが、
猪野健治さんの名前を出しているから、素直に一読する価値がありますね。
身体張って取材している姿勢は、やっぱり物凄いものがあります。

708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 20:06:43.96 ID:/DcWA7Ft0.net
大和田の友蔵は上にも書いたように、遠州一の親分山梨ノ巳之助の下について御機嫌伺いをしていたらしく、巳之助も友蔵のことを可愛がっていた。
ところが巳之助の用心棒格に「竹」という暴れ者がいて、これと友蔵の子分の藤五郎とが揉めた。
藤五郎は温厚な人だったらしいが、竹が執拗に絡んできたため、ある日とうとう賭場から追いだすという仕打ちに打って出た。

これを恨んだ竹は藤五郎の家に行き、「藤五郎を出せ」と女房のやすに凄んだ。藤五郎は二階で寝ていたが、やすは事を察し、
「亭主は留守にしている」とウソをついた。ところが竹はそのまま土足で階段を上がり始め、これに狼狽したやすは夫の長脇差で、思わず下から
竹を突き刺し殺してしまう。

709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 20:15:18.15 ID:/DcWA7Ft0.net
友蔵は、自分の子分が巳之助の身内を殺してしまったことに慌て、何はともあれ藤五郎を逃がし、
其の上で巳之助に事を詫びに行った。ところが好々爺の巳之助と世間話をしている内に、ついに言葉がでず、
長時間を費やしてしまったところで、巳之助の居候・相撲上がりの四角山周吉が突然巳之助に事の真実を告げた。
巳之助は火の様に怒り、友蔵を攻め、すぐに藤五郎の探索に子分を向かわせるが、既に逃げた後。
友蔵は平謝りに謝ると共に、藤五郎が上手く逃げたことに胸をなでおろした。

ところが、常々友蔵を嫌っていた四角山周吉は執念深く藤五郎を追いかけ、二三日の後、とうとう隠れ家を突き止め、
藤五郎の首を取ってしまった。

710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/22(月) 20:27:40.78 ID:/DcWA7Ft0.net
四角山は藤五郎の首を持ち帰り、親分巳之助に「首実検」するように願い出た。
さすがにこの申し出に、堀越藤左衛門や、森之五郎は大反対するが、巳之助も年をとり耄碌していたのか、
とうとう一家で場を立て、これを行う事に決めた。

ここに至って友蔵は巳之助と全面から闘う腹を決める。友蔵は藤五郎の妻やすを安東文吉の所へ遣り、事の次第を話し、助力を要請した。
「首実検」の話を聞いた文吉は即座に柳新田の政蔵、安西の吉五郎に一団を率いさせ、掛川へと向かわせ、巳之助の用意していた一団を打ち破り、
とうとう巳之助をお縄にする。(後は上述の通り)
ちなみにこの時、巳之助勢の中に四角山は既におらず、一早く逃げた後だった。(四角山は後に堀越藤左衛門に斬られる。)

711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/28(日) 16:54:39.44 ID:Bvt88FhE0.net
田中啓文の上方行ったり来たり
「八百八橋」のはっけんや?
http://mainichi.jp/articles/20160827/ddf/012/070/008000c

> 三十石船は京の伏見と大坂を結ぶ客船で、鉄道のない当時は大いに利用され、夜中も運行されていた。
> 八軒家、そして三十石船といえば、なんといっても広沢虎造の「石松三十石舟道中」だ。

> 「飲みねえ、すしを食いねえ。江戸っ子だってねえ」
> 「神田の生まれよ」

> というやつだ。あの浪曲のなかで石松と客はすしを食べるが、
> 映画などではなぜか巻きずしになっていることが多い。
> でも、実は「押しずし」なのである。レコードを聴くと、

> 「大坂の八軒家から船に乗る。(中略)
> よけいなお宝払って、胴の間のところ畳一畳ばかり買い切って(中略)
> 大坂本町橋の名物押しずしを脇へ置いて……」

> と、ちゃんと言っている。

712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/30(火) 22:09:13.08 ID:7t6z9mKh0.net
こないだ末広亭へいったら神田鯉栄さんが黒駒勝蔵と清水次郎長関連の
講談をやってて、嬉しかったなあ

713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/30(火) 22:41:55.42 ID:7t6z9mKh0.net
静岡県立図書館へ行ったら、『安東文吉伝史料集』と共に
『実説次郎長物語』(S14 河原井喜久雄)を見てくるべきだった。
今さら気づいても、もう遅い。

714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/31(水) 22:21:02.10 ID:BZOmoIXv0.net
先般から同じような話題で恐縮だが、山梨ノ巳之助親分。ものの本に「万延元年九月十一日」
が命日だとされている。しかしこのことは墓石にも過去帳にも記されていない。

ここで、興味深いのは近藤富蔵の『八丈実記』。万延元年の流人の項に
「無宿 巳之助」「万延元年庚申年四月流罪 万延元年庚申年十月十一日島抜露顕 同月廿三日病死」
とあることだ。
種々符合する点があるので、この人が、まず巳之助本人と見て間違いなかろう。
おそらく伝承に言う「九月」は誤りで、「十月」が正しく、それは島抜けが露見した日にちのことなのだろう。
そして二十三日に「病死」とあるが、これはあるいは処刑をはばかってのことなのかもしれない。

715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/31(水) 22:44:41.92 ID:BZOmoIXv0.net
八丈島流人となった高名な仁侠には
甲州、津向の文吉
武州、小川の幸八
江戸、小堀茂三郎
らがいる。黒須の大五郎も八丈出自というが、どうも実態は父黒須の庄吉が八丈流罪中に
武州黒須村(または八丈)で生まれたことに由来するようだ。ちなみに幼名は「島之助」。

716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/08/31(水) 23:42:16.15 ID:BZOmoIXv0.net
博奕打ちが「刺青」をしていたか、が最近話題になっているようだ。
そんなことは完全に個人の主義に拠るんだろうが、一応参考になるものを上げてみよう。

草加宿無宿入墨 長吉
一、年三十一才 一、顔丸く色浅黒し 一、眉毛薄く眼ほそし 一、言葉少々ともり、鼻ひくき候方
一、背中に将軍太郎之彫者之彫懸ケ有之

長吉は嘉永6年6月8日、竹居の吃安と共に新島を逃走した面子の一人。
人相書にあるとおり「将軍太郎」の彫り物(それも彫りかけ)があったことがこれでわかる。

717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/03(土) 01:08:23.09 ID:fS2MZa1G0.net
関東大震災の起きた時、各地で「自警団」が朝鮮出自の人々をリンチした際に、
佃政一家が、命がけで迫害に会う朝鮮の人々を匿ったという事実が一日の東京新聞に出ていた。
「お前は日本人なのか」と暴徒に揶揄されるも一向動じず、弱い立場の人々を、
頑として守りぬいた。
こういう事実はもっと知られていいものだろう。

718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/04(日) 13:17:42.28 ID:6AS8b0Aa0.net
>>780
平岡正明氏が安東文吉伝史料集について著書の中で
「公刊したいと思っている」というようなことを書いていたのでかなり期待していたのですが、
残念ながらすでに故人のようです。
もっとも、ご存命であっても図書館が許可したかはわかりませんが。
それに、現地に行かなければ閲覧できない価値、というものも大事かもしれませんね。

719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/04(日) 14:14:44.51 ID:6AS8b0Aa0.net
713は、>>713の間違いでした。失礼しました。

>>715
「東海遊侠伝」には津向の文吉が八丈島から連れ帰って次郎長に託した子供として
島小僧の喜代造という子分が出てきますが、初登場は石松が殺害された直後、
次郎長一行が本沢の為五郎宅に行った時。
何かの著書でも指摘されていましたが、石松殺害が万延元年、文吉の赦免が明治ですから
年代がまったく合いません。
その時の一行に喜代造がいたのが間違いなのか、文吉の子供というのが間違なのか。
愚庵さんならつじつまが合わないことは分かっていたように思えますが…。

喜代造は次郎長の伊勢の兄弟分、小俣の周太郎の跡目を継いだそうですね。

720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/04(日) 14:47:00.89 ID:6AS8b0Aa0.net
>>714
山梨の巳之助が死亡したのが万延元年ということは、>>561
清水一家に都田一家との和解をすすめようとした関東の巳之助が
山梨の巳之助と同一人物ということはないですね。

関東の巳之助という親分が実在したのか、
次郎長を大きく見せるために、巳之助という大親分の和解勧告を一蹴したという話を作ったが、
ちょっと気が引けて関東の巳之助という人物を創作したか、などなど
事実は分かりませんが、いろいろ想像できて面白いですね。

721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/05(月) 00:11:05.92 ID:0vQC2SH/0.net
次郎長の敵役を三人あげるとすれば、まず穂北の久六、次いで都田吉兵衛、最後に黒駒勝蔵ということになるでしょう。
この都田吉兵衛も『東海遊侠伝』では森の石松の香典を横取りしたことをきっかけに、
次郎長に倒されるという散々な役どころを与えられているけども、
事実はどうも違って、国を売って長旅に出た相良の富五郎の跡地をめぐって、次郎長と吉兵衛とが争い、
その際に吉兵衛が倒されたという説の方が本当のような気がします。

ここで興味深いのは戸羽山瀚先生が紹介している、江戸屋虎五郎から大場の久八へ送った手紙の存在です。
手紙では三州鳳来寺で「都田一家」と「誰か」の手打ちを久八が務めた、としており、それに虎五郎が随分感謝している
という内容なのです。

722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/05(月) 00:21:42.02 ID:0vQC2SH/0.net
御手紙啓上仕候、甚寒之砌ニ御座候得ども、各様方御身内衆御一統様御機嫌克御座被遊
珍重之御儀ニ奉存候、随而下拙儀無事ニ罷在候間御安意思召被下候、然者都田一條之儀ニ付
御心配御厚情ニ相成、尚又当十月中鳳来寺ニおいて和談内済御取結被下、親元右衛門並ニ
下拙身内一統之者難有仕合ニ奉存候、何卒御身内様方江、宜敷御伝言可被下候如々偏ニ、
奉願上候、先者拝顔之節万端御礼旁々可申述候、以上
                         江戸屋虎五郎
卯十二月十六日 大場久八様

723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/05(月) 00:28:14.10 ID:0vQC2SH/0.net
戸羽山先生は「元右衛門」を次郎長の親の「雲不見三右衛門」のこととしている。
更に「卯」を安政二年と見ている。
そうなると安政二年から次郎長と都田一家が抗争していたことになるけれど、
これは本当か?とも思えてくる。更に江戸屋はこのスレの上にも上げたように吉兵衛の父
都田源八を斬ったとされる人物でもあるので、ますます訳がわからなくなる。
ただし、「大場久八」とあるので、手紙の作成年が「嘉永六年」以降であることは
間違いない。

724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/05(月) 21:18:48.84 ID:0vQC2SH/0.net
ちょっと落ち着いて、あらためて考えてみると、やはり717の手紙は、
故・都田源八一家と江戸屋虎五郎の間を大場久八が取り持ったとのものかもしれない。
「親元右衛門」が誰を指すのかが分からなくなるが、安政二年まで両者の怨恨が持ちこされた
とは考えられる。

715で「関東の巳之助」なる人物を架空の人物と見るのは、意外に慧眼かもしれぬ。
あるいは「大前田」あたりの可能性もあるのではないだろうか。

725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/06(火) 01:07:28.28 ID:fHwLok5w0.net
>>722
貴重な史料、大変興味深く読ませていただきました。
私も次郎長はからめずに、江戸屋虎五郎と都田一家の間を大場久八が取り持った、
という印象をこの手紙から受けました。

その頃の卯年だと天保14年(1843年)、安政2年(1855年)、慶応3年(1867年)ですね。
都田の源八が殺害されたのが天保10年(「遠州侠客伝」この説では殺害したのは信州の南和田の伊之助という博徒)
だとすると、手打ちが天保14年ということも十分に考えられると思います。

次郎長が関わっているとすれば、安政の初期頃に原田常吉と賭場荒らしなどをして暴れまわっていたようなので
そのうちに都田一家の賭場も荒らして、その後安政2年に大場の久八の仲裁で都田一家と和解、
ということも考えられなくはないと思います。
ただ、やはりそうだとしてもなぜ江戸屋虎五郎が出てくるのかがわかりませんね。

726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/10(土) 16:46:41.09 ID:9+jcoYt60.net
アウトロー 近世遊侠列伝

著者:高橋敏(編著)
発売日:2016/09/30
出版社: 敬文舎
ISBN:978-4-906822-73-7

歴史学が博徒たちに殴りこみ!! いま、ふたたびよみがえる侠客たち。
かれらの実像に、新史料をもとに迫る!!

登場人物
国定忠治、竹居安五郎、勢力富五郎、小金井小次郎、黒駒勝蔵、
吉良仁吉、西保周太郎、佐原喜三郎、西原村幸次郎、小川幸蔵、原田常吉

・各博徒の生い立ちや死没理由、仲間や抗争相手など、調べ書を掲載。
・博徒の勢力範囲を地図で示す。
・幕末・明治年表付き。

727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/10(土) 22:50:08.44 ID:uWWMOllN0.net
小川幸蔵とはなかなかマイナー所を出してきますな。

728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/15(木) 22:22:37.00 ID:XNOrRhoR0.net
なるほど
昭和・平成まで生き抜いた、とある仁侠の徒が
サマセット・モームの『月と6ペンス』を好きだったというのは無性に納得する。

ストリックランドにしてもアシェンデン(=モーム)にしても生粋のアウトローであるのだから。

729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/15(木) 22:53:29.20 ID:XNOrRhoR0.net
小川幸蔵(武州小川村=現・東京都小平市)の父は小川幸八と言い、武闘派の博徒である。
宗旨人別帳のよれば文化八年に「八歳」とあるから、享和3年(1803)の生まれとなる。
小金井小次郎よりも15歳年長ということになる。
ちなみに小次郎は文政元年(1818)、小川幸蔵は天保2年(1831)の生まれ。

730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/15(木) 23:02:12.01 ID:XNOrRhoR0.net
幸八は小次郎の敵役として「小次郎伝」では描かれ、天保11年の二つ塚の喧嘩で
小次郎と争ってお上に召捕られたという話になっているが、実際は天保15年、所沢無宿鉄五郎、
田無無宿岩五郎、久米川無宿増五郎らと出入りを起こし、その科で捕まり、八丈に流された。
万延元年十月十一日、流刑人70人余りを率いて暴動を起こし、名主平吉を殺すが、翌日鎮圧され
幸八は自ら喉を突き自殺した。

731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/15(木) 23:07:41.56 ID:XNOrRhoR0.net
見逃せない点は「万延元年十月十一日」に暴動を起こし、翌日死んでいるという事実である。
これは上に出た山梨の巳之助の死亡日と一致している。
つまるところ、この日、八丈島において、博奕打ちと島役人との闘争が起き、一揆勢は全滅した
ということなのだろう。この事件の詳細はわからぬが、おそらく巳之助と幸八とは何らかの面識があったろう。
そして、この同じ八丈島流人の津向文吉は、この騒動を目の当たりにしたにちがいない。

文吉が帰国後、「あまり島での生活を人に語りたくない」と言ったことの理由も、
何となくわかるような気がする。

732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/16(金) 23:48:29.44 ID:LVJFtviu0.net
講談の祐天吉松と祐天仙之助とは、全く関係が無い。前者は徳川家光時代に強力な法力を使い、
魔物を封じた祐天上人の刺青を彫っていたという設定の講談上の人物。
一方後者は甲府古府中生まれの実在人物、山本仙之助のこと。
仙之助の正確な法名は「由天」だが、元俗後は自分で「勇天」と名乗った。

733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/24(土) 21:04:43.51 ID:knTBS9wP0.net
>>731
万延元年10月の暴動は、凶作による食糧難が原因らしいですね。
ある博徒の死亡年月日と、交わりがなさそうな博徒の死亡年月
そしてその時に起きた事件を結びつける推察力、すごいですね。

ご存知かもしれませんが、暴動について触れています。
http://d-wise.org/b9905/hatijyou.pdf

確かにこの時、津向の文吉がどうしていたかが気になります。
血なまぐさい事件を起こす博徒とは一線を画する親分、
なんて勝手なイメージを持っていますが
実際は博徒になるような人物。
率先して暴動を起こしたり、島抜けを画策してもおかしくありません。
しかし、全ての流人が暴動に加わっていたわけではなく、
上記リンクにも、急を島民に告げていた流人がいたことが書かれています。
文吉は島で嫁さんをもらうことを許されていたようですから、島民側の人間
あるいは、買い被った見方をすると暴動をいさめたり鎮圧する側の人間だったことも考えられます。

734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/28(水) 17:52:13.84 ID:87e2iy7F0.net
>>733
ただの酒飲みが放言しているだけの書きこみです。慣れないお誉めの言葉をもらうとは恐縮の至りです。
リンク先の情報ははじめて知りました。有難うございます。

735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/28(水) 18:07:12.16 ID:87e2iy7F0.net
この時、「名主の親の口の中に出刃庖丁を突き刺した」というのが小川幸八だという。
幸八の事は古文書類にしか残っていないが、小平市小川の小川寺には、幸八が建立した親の墓石が在る。
そこに施主で刻まれた「幸八」(姓は伏す。すぐわかるだろうが)の字は、古い割にはなんだかとてもくっきり見えるのだ。

ちなみに倅・幸蔵の墓は、弟の梅五郎と二人の戒名が刻まれてる。男ばかり二人の墓というのもめずらしい。
梅五郎は富士川で黒駒に加勢して、次郎長と戦ったというが、本当かどうかは定かでない。

736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/29(木) 01:55:34.78 ID:fSbfA2Bk0.net
>>522
今更ながらのお尋ねで申し訳ないのですが、
『鈴木藤助日記』にて「百村あたりの博奕打ち集団」「東禅寺には香具師の惣代」の
情報をご覧になったのでしょうか?
探してみたのですが、どうしても見つかりませんでした。
また、鈴木藤助日記研究会の方と会う機会があったので
質問してみたところ、心当たりがないという返答でした。

お差し支えなかったら、何年何月もしくは何巻何頁かご教示願えませんでしょうか?

737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/29(木) 17:44:29.25 ID:4S4Yl96b0.net
喜んでお答えします!

と言おうと思ったんですが…自分の持ってる資料郡の中に「百村の博徒云々」の記録が容易に見つかんない。
でも慥に見た覚えがあるので、ちょっと探します。必ず見つけてご報告します。
ごめんなさい。
東禅寺の方から先に。(しかもこれも「東禅寺」ではなく「王禅寺」ですね…)

昭和45年の『稲毛郷土史』(稲毛郷土史刊行会、伊藤葦天)の213頁
「王禅寺の清吉と香具師の古文書」の項が参考資料です。

とにかく、もう一つの方早いうちに探します。

738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/30(金) 00:34:03.60 ID:tKKkSX9K0.net
>>737
レスありがとうございます。

「王禅寺の香具師」は
『鈴木藤助日記』ではなくて『稲毛郷土史』が典拠だったのですね。
それなら鈴木藤助日記研究会の方に心当たりがないといわれたのも
当然かと納得がいきました。

「百村の博徒」のほうもお待ちしております。
お手数をかけて恐れ入ります。

739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/03(月) 00:17:40.97 ID:BNG0MoUW0.net
おそまきながら『玉村日記』(「三右衛門日記」)を初めて読んだ。
角万の佐十郎、福田屋栄次郎、高瀬仙右衛門をはじめ、博奕打ちでは大前田栄五郎、
国定忠治、大前田幸松など多くの史実がわかって興奮した。
若干翻刻に誤りががあるが、全体として素晴らしい記録。

740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/03(月) 00:25:13.95 ID:BNG0MoUW0.net
上州藤岡の熊三郎

741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/04(火) 11:05:06.03 ID:zokfeeW+0.net
216 関東の吉五郎の墓所を教えて下さい
  一度 墓参したいです

742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/06(木) 18:14:49.03 ID:ODwaCzB80.net
『自由民権運動 <デモクラシー>の夢と挫折』=松沢裕作・著
http://mainichi.jp/articles/20160911/ddm/015/070/008000c

> 明治の自由民権運動も戊辰(ぼしん)戦争という
> 「二百数十年ぶりの全国的軍事動員」により、
> 江戸時代の身分制秩序が揺るがされて起きた
> 「戊辰戦後デモクラシー」だった。

> ただし自由民権運動は、今の「デモクラシー」イメージでは捉えにくい。
> 出発点には、戊辰戦争の勝者として「しかるべき処遇を求め」、
> 得られない不満から運動を起こした人々が存在した。
> 中にはかつての武士もいれば都市下層民も博徒もいた。

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