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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/15(木) 23:02:12.01 ID:XNOrRhoR0.net
幸八は小次郎の敵役として「小次郎伝」では描かれ、天保11年の二つ塚の喧嘩で
小次郎と争ってお上に召捕られたという話になっているが、実際は天保15年、所沢無宿鉄五郎、
田無無宿岩五郎、久米川無宿増五郎らと出入りを起こし、その科で捕まり、八丈に流された。
万延元年十月十一日、流刑人70人余りを率いて暴動を起こし、名主平吉を殺すが、翌日鎮圧され
幸八は自ら喉を突き自殺した。

731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/15(木) 23:07:41.56 ID:XNOrRhoR0.net
見逃せない点は「万延元年十月十一日」に暴動を起こし、翌日死んでいるという事実である。
これは上に出た山梨の巳之助の死亡日と一致している。
つまるところ、この日、八丈島において、博奕打ちと島役人との闘争が起き、一揆勢は全滅した
ということなのだろう。この事件の詳細はわからぬが、おそらく巳之助と幸八とは何らかの面識があったろう。
そして、この同じ八丈島流人の津向文吉は、この騒動を目の当たりにしたにちがいない。

文吉が帰国後、「あまり島での生活を人に語りたくない」と言ったことの理由も、
何となくわかるような気がする。

732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/16(金) 23:48:29.44 ID:LVJFtviu0.net
講談の祐天吉松と祐天仙之助とは、全く関係が無い。前者は徳川家光時代に強力な法力を使い、
魔物を封じた祐天上人の刺青を彫っていたという設定の講談上の人物。
一方後者は甲府古府中生まれの実在人物、山本仙之助のこと。
仙之助の正確な法名は「由天」だが、元俗後は自分で「勇天」と名乗った。

733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/24(土) 21:04:43.51 ID:knTBS9wP0.net
>>731
万延元年10月の暴動は、凶作による食糧難が原因らしいですね。
ある博徒の死亡年月日と、交わりがなさそうな博徒の死亡年月
そしてその時に起きた事件を結びつける推察力、すごいですね。

ご存知かもしれませんが、暴動について触れています。
http://d-wise.org/b9905/hatijyou.pdf

確かにこの時、津向の文吉がどうしていたかが気になります。
血なまぐさい事件を起こす博徒とは一線を画する親分、
なんて勝手なイメージを持っていますが
実際は博徒になるような人物。
率先して暴動を起こしたり、島抜けを画策してもおかしくありません。
しかし、全ての流人が暴動に加わっていたわけではなく、
上記リンクにも、急を島民に告げていた流人がいたことが書かれています。
文吉は島で嫁さんをもらうことを許されていたようですから、島民側の人間
あるいは、買い被った見方をすると暴動をいさめたり鎮圧する側の人間だったことも考えられます。

734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/28(水) 17:52:13.84 ID:87e2iy7F0.net
>>733
ただの酒飲みが放言しているだけの書きこみです。慣れないお誉めの言葉をもらうとは恐縮の至りです。
リンク先の情報ははじめて知りました。有難うございます。

735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/28(水) 18:07:12.16 ID:87e2iy7F0.net
この時、「名主の親の口の中に出刃庖丁を突き刺した」というのが小川幸八だという。
幸八の事は古文書類にしか残っていないが、小平市小川の小川寺には、幸八が建立した親の墓石が在る。
そこに施主で刻まれた「幸八」(姓は伏す。すぐわかるだろうが)の字は、古い割にはなんだかとてもくっきり見えるのだ。

ちなみに倅・幸蔵の墓は、弟の梅五郎と二人の戒名が刻まれてる。男ばかり二人の墓というのもめずらしい。
梅五郎は富士川で黒駒に加勢して、次郎長と戦ったというが、本当かどうかは定かでない。

736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/29(木) 01:55:34.78 ID:fSbfA2Bk0.net
>>522
今更ながらのお尋ねで申し訳ないのですが、
『鈴木藤助日記』にて「百村あたりの博奕打ち集団」「東禅寺には香具師の惣代」の
情報をご覧になったのでしょうか?
探してみたのですが、どうしても見つかりませんでした。
また、鈴木藤助日記研究会の方と会う機会があったので
質問してみたところ、心当たりがないという返答でした。

お差し支えなかったら、何年何月もしくは何巻何頁かご教示願えませんでしょうか?

737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/29(木) 17:44:29.25 ID:4S4Yl96b0.net
喜んでお答えします!

と言おうと思ったんですが…自分の持ってる資料郡の中に「百村の博徒云々」の記録が容易に見つかんない。
でも慥に見た覚えがあるので、ちょっと探します。必ず見つけてご報告します。
ごめんなさい。
東禅寺の方から先に。(しかもこれも「東禅寺」ではなく「王禅寺」ですね…)

昭和45年の『稲毛郷土史』(稲毛郷土史刊行会、伊藤葦天)の213頁
「王禅寺の清吉と香具師の古文書」の項が参考資料です。

とにかく、もう一つの方早いうちに探します。

738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/09/30(金) 00:34:03.60 ID:tKKkSX9K0.net
>>737
レスありがとうございます。

「王禅寺の香具師」は
『鈴木藤助日記』ではなくて『稲毛郷土史』が典拠だったのですね。
それなら鈴木藤助日記研究会の方に心当たりがないといわれたのも
当然かと納得がいきました。

「百村の博徒」のほうもお待ちしております。
お手数をかけて恐れ入ります。

739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/03(月) 00:17:40.97 ID:BNG0MoUW0.net
おそまきながら『玉村日記』(「三右衛門日記」)を初めて読んだ。
角万の佐十郎、福田屋栄次郎、高瀬仙右衛門をはじめ、博奕打ちでは大前田栄五郎、
国定忠治、大前田幸松など多くの史実がわかって興奮した。
若干翻刻に誤りががあるが、全体として素晴らしい記録。

740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/03(月) 00:25:13.95 ID:BNG0MoUW0.net
上州藤岡の熊三郎

741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/04(火) 11:05:06.03 ID:zokfeeW+0.net
216 関東の吉五郎の墓所を教えて下さい
  一度 墓参したいです

742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/06(木) 18:14:49.03 ID:ODwaCzB80.net
『自由民権運動 <デモクラシー>の夢と挫折』=松沢裕作・著
http://mainichi.jp/articles/20160911/ddm/015/070/008000c

> 明治の自由民権運動も戊辰(ぼしん)戦争という
> 「二百数十年ぶりの全国的軍事動員」により、
> 江戸時代の身分制秩序が揺るがされて起きた
> 「戊辰戦後デモクラシー」だった。

> ただし自由民権運動は、今の「デモクラシー」イメージでは捉えにくい。
> 出発点には、戊辰戦争の勝者として「しかるべき処遇を求め」、
> 得られない不満から運動を起こした人々が存在した。
> 中にはかつての武士もいれば都市下層民も博徒もいた。

743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/06(木) 18:22:32.88 ID:ODwaCzB80.net
【著者に訊け】土橋章宏氏 『駄犬道中おかげ参り』
https://news.nifty.com/article/item/neta/12180-451215/

> 60年に1度のおかげ年にあたる天保元年、
> 一匹狼の博徒〈辰五郎〉の長屋でもなけなしの金を積み立て、
> 参拝者を籤引きで決めようとしていた。
> 賭場の借金が元で香具師の親分〈赤布の甚右衛門〉に追われる彼は
> それどころではなかったが、なぜかこういう時に限って残り籤が当たりを引くのだ。

> 辰五郎の弱点は、博徒の職業病〈痔〉だ。


↑「博徒の職業病」ってマジか!?

744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/12(水) 22:39:10.57 ID:+LdCjjhd0.net
小金井小次郎の兄貴は宗旨人別帳によれば寅之助。最近では寅吉の名でも確認される。
酒飲みの博奕好きということは諸史料で明らかだ。
この寅之助、別名に「勘治」とも呼ばれたのではないかと思う。ないしは勘左衛門。
これは父と同じ名だ。

745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/15(土) 23:32:01.94 ID:ZSbIaFsl0.net
>>736
ようやく百村博徒の記録を再確認しましたが、だいぶ謝らなければなりません。
まず『藤助日記』ではありませんでした。これは私の完全な記憶違いです。
本当の史料は『小島日記』文久四年の三月八日条「百村・関・砂川辺之博徒を火方ヨリ手を入岡引共帳切張候由也」
の部分でした。
本当申し訳ありません。

746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/16(日) 00:47:18.39 ID:Xt4VYguA0.net
>>745
ご回答どうもありがとうございます。
『鈴木藤助日記』全6巻のページをあちこち繰ってもそれらしい記述がなく、
鈴木藤助日記研究会の方に尋ねても心当たりがないと言われて、
悩んだあげく質問させていただきましたが、おかげさまで疑問が氷解しました。
当該の記述は『小島日記』で確認できました。

私が知るかぎり『鈴木藤助日記』には、具体的な地名や
博徒らしき人物の名を挙げて博奕に触れた記述はなかったと思います。
藤助が自分の息子に「博奕には手を出すな」と
釘を刺しているらしい話は見受けられましたが。

747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/16(日) 07:21:50.24 ID:zVogia2m0.net
早朝失礼
史料はコピー派なので、再確認の意味もあって御質問は大変有り難かったです。
どこに撮ったかわからなくなるもんで。

『鈴木藤助日記』の中にバクチ打の記事が一カ所だけあるので、書き付けの意味も込めて一応上げておきます。
慶応2年の6月4日「大谷増ト申者バクチ打両三人ニて郡次郎内二ててうちやく致し候由二御座候」
の部分です。大谷増がバクチ打なのか、それとも打擲された住民なのか、読みづらいところです。郡次郎内というのも
自分にはわからんです。
何かわかるところがあれば是非教えてください。いずれにせよ誤った記憶を得意げに書きこんで
私は恥ずかしいかぎりです。

748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/16(日) 18:56:20.37 ID:Xt4VYguA0.net
>>747
「郡次郎」は、近村(おそらく平村)の住民です。

「大谷増」は「大谷」が地名、「増」が人名(略称)かと推測します。
「大谷」は長尾村内の地名で、頻繁に行き来がある地域なので、
藤助は地域の事情を熟知しているはずですが、
その彼に心当たりがないらしいのは何故か、不可解です。
その情報をもたらしたのは「大谷」に近い「台」の住民・おす賀の様子なので、
藤助が「大谷増とは何者?」と思ったならおす賀に尋ねればよさそうなものですが、
聞きそびれたのか、おす賀もよく知らなかったのか……。
そのほか単なる誤伝、当該人物が変名を使ったなどの可能性も考えられ、
材料が乏しくなんとも判断しかねます。

749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/18(火) 23:35:03.33 ID:PjUAQKtR0.net
御丁寧な解説痛み入ります。
ついでと言っては何ですが同日記慶応4年5月6日に彰義隊の隊士で
身の丈6尺の豪傑が一人で海軍18人と戦い、目覚ましい働きをした、
という部分があります。
侠客とはちとずれますが、この豪傑の姓名等は判明しているのでしょうか。
御存じでしたら何卒ご教示ください。

750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/18(火) 23:41:49.52 ID:PjUAQKtR0.net
竹居の吃安事安五郎親分が
捕縛された日は、文久2年の2月17日。

これを文久元年の冬とする説が多いが、こちらは誤り。
なお亡くなった日は文久2年10月6日。子分の初鹿野の美勇が遺体を受け取って
接慶院に埋葬した。

751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/20(木) 13:53:26.01 ID:N7oQQVa/0.net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl

752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/21(金) 01:01:04.22 ID:sRCjh0Zu0.net
>>749
生憎と寡聞にして存じません。
何か情報が得られましたらご教示いただきたいほどです。

なお細かいことながら、ご指摘の記述は
5月11日の条目であり、事件発生日は同7日とありますね。

753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/22(土) 10:45:54.13 ID:YDw7bz8t0.net
ちょうど話題が多摩川から神奈川方面に向いたので。

府中藤屋の和十郎さん(二代目小次郎)が、若いころの話として、
川崎の養護寺(現・影向寺)で貸元として賭場を開帳した際に、幸山の栄五郎(神山栄五郎)
がやって来て賭場荒しをやったが、まだ若い和十郎がびくともせずにあしらった、と子母澤寛先生が
『続・ふところ手帳』に記しておられる。
この時、両者の間に「久地の仲蔵」という人が入って収めたという。久地の仲蔵という人は
相当の親分なのだろうが、今のところ何ら足跡が見つからない。

754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/23(日) 19:14:30.30 ID:I+xjRtiK0.net
739は勘治ではなく、勘吉だった。勘吉=寅之助=寅吉はどうも確実で、あるいは勘吉=勘次。
文久二年の人別帳では既に後家が世帯主になっているから、死去しているようだ。(あるいは帳外)

ちなみに近代になると、よく史料に名の出る「百太郎」は勘吉の倅。
一方小次郎の倅は「宗吉」、「小太郎」。宗吉=小太郎なのかは、ちょっとわからない。

755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/23(日) 22:52:30.21 ID:I+xjRtiK0.net
年不明文書である点が惜しいが、小金井市の史料の中に、
下小金井勘吉弟小次郎が、隣村貫井村名主宅前で、組頭の弟忠蔵を五・六人で「打擲」したが、
当時は酒に酔っていて誤ってやってしまった云々という文書がある。
まぎれもなく、後の侠客小次郎が、まだ若かった時分に徒党を組んで喧嘩していたことを
示すものだ。
下書であるという点、年月が記されていないという点は残念だが、有名な二つ塚喧嘩の年(天保11年)
前後のものだろう。

756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/23(日) 23:03:09.83 ID:I+xjRtiK0.net
ちなみに父勘左衛門は「天保6年」まで史料に名前が出てくる。つまり生存している。(農間渡世として居酒屋を
していた)。よって天保6年までならば、確たることは言えないが「下小金井勘左衛門倅小次郎」と表記されるのではないかと思う。
なので「勘吉弟小次郎」で出てくるのならば、勘左衛門死去後と推測したい。
天保15年には木更津で捕まってるので、上の史料は天保7年〜13年くらいのものじゃないかと思う。

757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/24(月) 22:59:02.23 ID:Vxb6XfK10.net
ちょっと系統が違うかもしれないが、『三国志』について。
劉備や関羽、張飛が侠客出身であったことは有名だが、100%男の物語とされるこの『三国志』
にあって、余人を寄せ付けぬスペシャリストが井波律子という女性研究者であるということは
もっと注目されるべきことのように思う。

この井波氏が明らかに贔屓にしている人物に、任侠の徒・悪来こと典韋という人がいる。腕力・技量のすごさもさることながら、
その「固い節義と男気の持ち主」という点で、後代続く「侠客」の模範とするべき人物であると思う。

758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/26(水) 00:03:26.88 ID:t0d8QNJ00.net
今さら後悔しても遅すぎるが、「岡引」には以下の4種類の違いがある。
一、関東取締出役の「道案内」←組合村から選出される。
二、火附盗賊改の「道案内」←火盗が内々任命する。
三、各旗本領奉行所の「手先」←奉行所が内々に任命する。
四、各藩領・天領の「目明し」←ほとんどが博徒、または香具師。中には名字・帯刀が許される者もいる。
だいたい以上。

759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/26(水) 23:29:19.99 ID:t0d8QNJ00.net
遠州見附宿の金剛寺には大和田友蔵(磯部友蔵)の墓がある。
この金剛寺をまっすぐ北に行った旧・学校跡には友蔵が寄進した太鼓があるそうな。
自分、入館料をケチったことを今になって後悔する。

760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/28(金) 19:25:32.56 ID:py5ivhBw0.net
ご本人のツイート

高尾善希 @yoshiki_takao 9月17日

> わたしも書いている高橋敏編『アウトロー近世遊侠伝』(敬文舎)、
> 冨永行男氏(郷土史家、元吉良町副町長)の原稿には
> 「高尾善兵衛」という名の博徒が登場します。
> 私と名前が3文字同じですが、実は先祖です(本では特に説明しておりませんが)。

https://twitter.com/yoshiki_takao/status/777123983829241856

761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/28(金) 22:46:15.08 ID:n6udRQ7E0.net
『アウトロー近世遊侠伝』
面白かった。黒駒勝蔵と西部周太を書いた高橋修氏が頑張ってたイメージ。
敏氏の石原幸次郎は『多摩の歩み』に載せたほぼそのままだったのだ少し残念だ。
水谷氏の著作の中で、原田常吉をピックアップしたのは英断だ。
花木氏の小次郎の論文も新情報が書かれていて興奮した。なお、花木氏の論文のすごいところは
他の論文においても誤字脱字が無いということ。よっぽど校正の段階で気をつけて見ているのだろう。

762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/28(金) 23:05:36.64 ID:n6udRQ7E0.net
高尾善希氏は自身がアウトロー的な気質のある方のように思える(善兵衛の血が成せる業か)。
それだけにこの分野の研究は向いているのだろう。
個人的には氏の研究論文は、小川幸蔵物より、狭山丘陵の博徒や、南永井の村上兄弟を書いたものの方が面白い。

「幕末関東村落における博徒集団と地域社会――武蔵国多摩郡・入間郡域の事例を中心に」
『遊戯史研究』(遊戯史学会事務局、2009)

763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/02(水) 23:38:41.10 ID:XAHUnA7O0.net
川越って言うと完全に内陸部、水やまして「船」とは関わりがないように思うが
「新川岸」というように荒川水運を利用して貿易を行っていた。よって船がものをいう水上文化の地域だった。
当然、船持ちたちの争いを裁く侠客が必要となり、例えば三角の倉親分(源次郎)や
浦親分(浦之助)などが生まれる。

一応、系譜では 獅子ヶ岳重五郎→三角の倉親分→浦親分→饅頭屋親分となるようだ。
この一家は現在でも土地の古老からは評判が結構良い。

764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/03(木) 09:26:18.85 ID:1y/RcgVP0.net
甲州街道吉野宿は現在の相模湖の辺りにある。
山合いの小さな宿場だったが遊郭があって賭場もたった。
話によると「峰山」「倉子峠」の二カ所では定期的に大きな博奕が行われていたという。
この付近の地蔵さんで、頭のないものは、博奕打ちがゲンを担ぐために
持って行ってしまった。 との話だ。

765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/03(木) 09:29:06.08 ID:1y/RcgVP0.net
長谷川伸先生の「関の弥太っぺ」の舞台になったのも、確かここだ。
明治20年だったか、大火でみんな焼けてしまい、宿の様子は一変したという。

当地には峠の健治親分が遊郭を開いていたが、火事以降八王子(甲府とも)に移ったとのこと。

766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/08(火) 23:17:54.68 ID:Fk2gg+ML0.net
黒駒勝蔵はご存知のように明治四年に処刑されて亡くなる。
その後、子分らはどうなったのか。
片腕の「塩田の玉五郎」は一説に拠れば大場久八の子分になって「甲府の玉五郎」
とよばれる親分になったと言うが、本当かどうかはわからない。

「万力村森太郎」だけは、その後明治12年で亡くなるまで栗原宿の親分として
地盤を押さえていたことが判明している。

767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/14(月) 20:15:26.43 ID:zunG5d2x0.net
津向の文吉は上にも記されている通り、八丈島へ遠島中のことをあまり人に語らなかった、
ということになっている。医術の心得があったため、島で医者をやってたとか、
寺子屋のようなことをしていた、とか云う話が里伝として伝わる。そんなこんなで、
「何でも一通り覚えておくものだ」とよく近隣の若者に話していたという。

768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/14(月) 20:23:00.35 ID:zunG5d2x0.net
これも松尾四郎氏が書いていることだが、
一度だけ文吉が島での「つらかったこと」を話したことがあったという。

本土から文吉の子分たちが島まで渡って来て、親分を連れて帰ろうと画策したことがあった。
ところが浜まで上陸したところで露顕し、皆島役人衆に捕まってしまう。
島役人は文吉に、文吉の家族(すでに島に新たな妻と子がいた)が首を括られるか、子分を文吉の手で斬るか。
どちらか選べと迫った。
子分たちはみんな文吉に斬られる方を望み、文吉、泣きながら彼ら全員を斬った。生きてきて「こんなにつらかったことはない」
と人に話す時にも大泣きに泣いたとの話。

769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/14(月) 22:26:40.27 ID:zunG5d2x0.net
ところで上の話、
先般話題に上げた八丈島の流人博徒らの暴動から処刑という
一連の流れを踏まえて考えると、単なる伝承だけでは済まない話に
なってくる気もする。

770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/19(土) 00:54:03.86 ID:O/s8zZZl0.net
安東の文吉は伝聞資料こそあるが、なかなか実史料に名を現さない。辰五郎の方は
日記資料に出てくる。

と、思っていたのだが、安政四年駿河国紺屋町の牢を破牢した「梅吉」と甲州の「広八」の
探索に「安東村の文吉」の名が現れる。実際に彼は岡引親分として「伝史料集」のような活動をしていたのだ。

771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/27(日) 23:26:23.32 ID:qbdRyYKK0.net
明治は言うに及ばず、大正、昭和初期くらいまでの遊侠を扱った小説の書き手は
すばらしいものを残してくれた、と心から有り難く思う。
中でも凄いのは、読み物としての完成度も高い子母澤寛先生だと私は思う。
多産な作家だから、仲には全くのフィクションといったものもあるが、随筆に記された
侠客の聞き書きは、例え二三行でも極めて貴重な情報を含んでいる。

ただし、よく言われるように、史実に小説的面白味を加えて脚色している部分も
多いので、そこをよく分別して読み込む必要もある。(万人には必要ない、誰かがやればいい)
それがもし明確になれば、これはもう立派な歴史資料となるだろう。

772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/27(日) 23:34:55.52 ID:qbdRyYKK0.net
例えば傑作『駿河遊侠伝』、遠州山梨の巳之助を初手から「山梨八代郡角打の巳之助」
としている。これでは甲州の生まれになってしまう。おそらく遠州「山梨」という集落を
この時点では御存じなかったのだろう。よってここは嘘。

かと思えば、この巳之助と対立した森の五郎の倅・太市が巳之助に斬られた、という
地元でも伝わらぬ逸話を「河原井淡翁」なる人からの聞き書きとして載せているから恐れ入る。
子母澤先生の手にかかると、史実は逸話に、逸話は史実に不思議と溶け込んでしまう。

773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/27(日) 23:53:33.36 ID:qbdRyYKK0.net
武州入間郡石井村、(現坂戸市)に石井伴内という変わった名前の侠客が居る。
隣村赤尾村には泣く子も黙る赤尾林蔵が生まれた。伴内は林蔵より大分後代の人で、
だいたい安政くらいに活躍のピークを迎える親分だ。
この人、川越藩から十手をもらい、目明しとして幅を利かせても居た。実際腕も立ったようで、
無宿博徒を木刀で叩きのめし、捕縛したとの記録が残っている。
また隣接する岩殿観音の観音の菊、こと志村菊次郎とも対立した。

伴内の墓は大智寺、姓は森田。菊次郎の墓は岩殿観音正法寺、姓は志村。
観音徳こと、徳次郎は菊の親というがイマイチ確証がない。

774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/29(火) 00:42:00.66 ID:eNPNDBxR0.net
>>316
八王子にある鈴木綱五郎の墓に「関東綱五郎或いは大瀬の伴五郎とも云う」の記載
寺の立て看板にも「清水次郎長一家の客分」、「関東綱五郎」の記載があります。
この件につきまして、詳細をご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?

また、他所の「関東綱五郎墓之跡」の碑が無くなっていますが
この件につきましても、詳細をご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?

775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/30(水) 23:04:53.39 ID:vpwDUKci0.net
八王子落合の鈴木綱五郎を関東の綱五郎のことだ、とするのはどうもこの周辺では
だいぶ昔から伝えられてきた話の様なのですが、
正直なところ私はこれは誤りだと思っています。
大百科にある次郎長の香典帳などの記載からも「大作半五郎」の方が関東綱五郎により近いでしょう。

八王子の綱五郎の話は、小島政二郎が監修した(著者は失念しました)『関東綱五郎の生涯』を
元にしているようです。この中で人生の前半を次郎長の下で過ごしたという
風にまとめてある。おおかた、この著作→伝承→墓碑という流れになったのではないでしょうか。

776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/30(水) 23:08:59.94 ID:vpwDUKci0.net
もっとも鈴木綱五郎が、並ではない天晴な侠客であったことは事実のようで、
確実な証拠史料としては『金子日記』の明治以降の記録に、しばしば登場し、
地域の運営などに大きな影響力を持っていたらしいことが伺えます。
ちなみに同日記は峠の健治(「小仏の健治」との表記)のこともしばしば現れるので興味深いのですが、
本当に名前とちょっとした事実くらいしか記されていないので、むずかゆい程度で
終わってしまいます。

777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/30(水) 23:19:50.80 ID:vpwDUKci0.net
ちなみに小島政二郎が抜群のエッセイ『なつかしい顔』の中で子母澤寛について
書いている部分が面白い。小島氏の愛娘・美籠さんも小島氏も小母澤の来る日は
とても楽しみにしていて「親分」と呼んだそうである。
そして大柄なこの親分は、二人の期待に背かず、聞き知った遊侠・仁侠の話を
晩餐の卓で惜しげなく披露した。全くうらやましい話だ。
もし、この時のテープレコーダーがあるのなら、何万単位で取引されても惜しくない。

778 :769:2016/12/01(木) 13:25:18.72 ID:SFiSbeJH0.net
vpwDUKci0様、ご回答ありがとうございます。

八潮市の大瀬の半五郎(大作半五郎)の墓には関東綱五郎の記載は無かったのですが
一般的には、関東綱五郎=大瀬の半五郎なのでしょうか?

大瀬の半五郎が大作半五郎だとは思うのですが、
関東綱五郎が鈴木綱五郎は別として、他の人物の可能性は少ないのでしょうか?

779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/01(木) 21:44:18.58 ID:lmyiE2iz0.net
「関東の〜」という綽名は博徒には結構いますから、大作半五郎や鈴木綱五郎の
他にも候補はいるんじゃないでしょうか。残念ながらこれ以上の詳しいことは
存じませんです。

780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/01(木) 22:32:09.43 ID:lmyiE2iz0.net
仁侠研究(「博徒研究」と最近言う人が多いが、出来れば「仁侠研究」を使いたい!)
に関して、危惧したいのは、文献的にようやく最近すぐれた書き手が出てきたという点と、
真反対に幕末期の遊侠の墓石が、ちょうど廃棄・荒廃する時期が重なっているということだ。
加えて、既に明治生まれの人間が絶えてしまい、この後、同頑張っても聞き書きが手に入らないという、
パラドックスである。
要するに、研究課題として認知された時には、既にその情報元が危機的な状況に貧しているということなのである。

781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/03(土) 19:19:01.63 ID:3uCOaF+Q0.net
新刊情報
『幕末ハードボイルド 明治維新を支えた志士たちとアウトロー』

伊藤春奈 (著)
単行本: 300ページ
出版社: 原書房 (2016/12/19)

> 歌舞伎や講談など庶民風俗で人気を集めた幕末の侠客たち。
> 清水次郎長や飯岡助五郎、幕末の志士たち、そして新撰組……。
> 彼らの実像を幾多の資料から浮かび上がらせ、その底辺に流れる「奉仕」の心境を描く。

AmazonのURL貼ろうとしたら長過ぎるって怒られたからやめた
この著者がどういう人かよく知らないけど
ちゃんと「史料」を押さえて書いてるんだったら面白いかも

782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/06(火) 21:47:20.41 ID:OsuB/zUd0.net
『「勘太郎」とは誰なのか?』という書籍を書かれた方のようですね。
少し前に評判になりました。あいにく未読ですが民俗学的な視点から、実証的に遊侠の研究に
入ってゆく手法のようです。
今回の書籍ともども是非読んでみたいですね。

783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/06(火) 22:11:33.29 ID:OsuB/zUd0.net
ところで小金井小次郎は、天保15年木更津で捕まり、佃島へ送られ、
ここで新門辰五郎と兄弟分となり、翌年の火事の鎮火に功があったことから
弘化2年帰村が許される。この直後彼が隠れ住んでいた場所は、現・小平市廻田新田である。

二つ塚喧嘩の前後に知己となっていた「廻田の栄太郎」の屋敷を借りて起居していた。
やがて家屋を賭場として利用しようと改築していたことを役人に密告され、
やむなく府中宿へと居を移した、というのが真相である。
栄太郎は、子孫の方によれば「栄五郎」と伝わっているそうである。奥の家屋に出入りの際の
刀疵が、つい先ごろまで残っていたとのこと。

784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/08(木) 21:53:43.23 ID:itE1iC/x0.net
>>582
今さらながら、川越の正目明しについて。
どうも正目明しになると、名字を名乗ることができるようになったらしい。
鶴松は天保15年には仮目明し、嘉永2年に正目明しとなり、
嘉永6年だと「小川鶴松」と姓名で表記される。

785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/08(木) 21:58:11.59 ID:itE1iC/x0.net
ちなみに今頃気づいて、遅きに失した感があるが、
青梅師岡の孫八親分。
この人も「道案内」ではなく、「川越目明し」だ。
下師岡村(現東青梅駅周辺)は幕末期に松平大和守領だった。
つまり川越藩飛び地。孫八は川越藩の火方に属した。

786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/08(木) 22:09:20.63 ID:itE1iC/x0.net
玉村佐十郎事 柳沢佐十郎

787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/10(土) 17:05:53.10 ID:/d7k1CCa0.net
岩殿観音の菊次郎は比企郡一帯に勢力を伸ばした大親分で、比企郡の「取締役」を
公から仰せつかっても居た。
これほどの人でありながら、明治3年に過去の殺人を詰問されて、70を越える高齢でありながら、
「斬刑」に処せられる。
力を持ちすぎた地方の侠客は、新政府にとって政治上の危険分子と映ったのだろうか。

788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/10(土) 23:34:20.24 ID:/d7k1CCa0.net
菊次郎の墓は岩殿観音から北へ、門前町を越えた弁天沼公園の中にある。
一基だけひっそりと建っている。近くに巨大な板碑があるからすぐわかるだろう。
博奕渡世の仲間の名前が刻まれていて、
大前田二代目、田島要吉の名前も入っていることから、その格の高さがうかがえる。

789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/11(日) 23:25:08.55 ID:X/Gdr2io0.net
>>690
江尻の大熊について出自を伝えるものを目にしたので、書き付けておきます。

 当時江尻を中心に大熊と綽名のついた男が四人いた。江尻の大熊、蒲原の大熊、和田島の大熊、
 駿府の大熊。この中では江尻の大熊が一番貫禄は低かったが、大きな体をゆさぶって、
 掛合事などをする時の態度は、見るからにぴちぴちしていて鯉市さんも無論そうだったが、清水の
 大公儀御用達本町の松本屋平右衛門という大金持が、この男を可愛がっていた。(中略)
 大熊は遠州金谷の在五和村の生まれだと伝えられる。本名熊太郎。しかし誰もそうは云わない。二十四貫といい
 五貫という。次郎長よりまた一まわり大きい男だ。
  (子母澤寛『駿河遊侠伝』「二人口」の章)

 江尻の大熊というのは次郎長の女房初代お蝶の兄として知られる大男、遠州金谷在の五和村の生まれである。
  (中沢正『考証東海遊侠伝』)

二人が元にしたものは、あるいは佐橋法竜氏の『清水次郎長伝』かもしれない。私は未読。

790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 19:05:50.52 ID:HdiZBWBl0.net
>>778
信憑性に関しては、裏付けがとれず頼りないけれども、上述の中沢正『考証東海遊侠伝』(雄山閣s48)
の「津向の文吉」の項に「…身延の半五郎(後年次郎長の子分になった大瀬の半五郎の親父・
大瀬の半五郎も身延の半五郎といった)。…」という箇所があります。
これだと関東綱五郎が身延の半五郎とも呼ばれた、ということになりますが、一寸信じられないような気もします。

あと上で書きこまれた方がいましたが、次郎長と都田兄弟の喧嘩の際に「関東の巳之助」
という人が出てきますね。(東海遊侠伝)

791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:01:08.77 ID:ltDgrZih0.net
半五郎のことを書いた「関東綱五郎」という作品があります。
半五郎の姉だか妹からの聞き書きだったと思います。
冒頭に関東綱五郎、大瀬の半五郎、大作(大咲だったかも)半五郎の3つの名前について書かれていましたが、
いまひとつ理解しにくい内容でした。

内容は地元で人を殺して捕縛されたが脱獄。横浜の遊郭で騒動お起こして清水へ。
清水では関東綱五郎と名乗り、のちに故郷へ帰郷、というものでした。
清水時代についてはほんの少し触れているのみです。

聞き書きがもとであって、どこまでが事実かはわかりませんが、
興味深い内容だったと記憶しています。
ただ、内容通りだと年齢的に何人かを率いて勝沼の三蔵の助っ人にでかけた
というのには若干無理があるのと、「駿河遊侠伝」の老後の半五郎とは一致しない
ということがあります。

疑問なのは、「東海遊侠伝」には半五郎、綱五郎としか書いていないのに、
なぜ大瀬あるいは大作や関東が付くようになったか?
上記の著書も「東海遊侠伝」の半五郎が大瀬の半五郎でなければ成り立ちません。

792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:18:22.53 ID:ltDgrZih0.net
「桶屋の鬼吉」「遠州森の石松」なども。
どちらも「鬼吉」「石松」としてしか登場しません。
桶屋は、棺桶を担いででいりに駆けつける、という話を作るために
講釈師が名づけたものだと思っています。
森の石松は、次郎長が遠州の森町と関わりがあったことからヒントを得て
語呂がいいから「遠州森の石松」という名前が出来上がったのではないかと思っています。

「東海遊侠伝」が必ずしも正しいというわけではありませんが、こちらには三州の産
と書かれています。
三州の産の説をとっている書物でも、森の五郎に預けられたとか、森町に住んでいた期間が長いとか
森町と結びつける記述がありますが、実際はどうだったのか疑問です。

八尾ヶ嶽久六も穂北とか保下田とか帆桁などが付いていますが、
こちらもはやりのちに付けられたものではないでしょうか。


とは言っても、全て私の知識不足による憶測かもしれませんが。

793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:39:53.17 ID:ltDgrZih0.net
真偽は不明ですが、いくつかの書物に大熊は妹のお蝶とともに
一時期猿屋の勘助に世話になっていた、という話も書かれています。

大熊の子分数人が祐天達に甲州円山前の賭場で殺された、という事件。
「塩山」→「えんざん」→「円山」で、「円山」でも「まるやま」でもなく
「塩山」が正しいと思われます。
「円山」という土地が実在したのならばごめんなさい。

「大豪 清水の次郎長」で著者の小笠原長生は「おちょう」さんは
漢字で書くと「お長」さんだから、ひらがただと「おてふ」ではなく「おちやう」が正しい
と書かれていますが、こちらも真偽不明、というか、間違いだと思います。

794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:48:47.97 ID:ltDgrZih0.net
>>772
何で読んだかは記憶にありませんが、巳之助について書いた個所で
「『山梨』と書いて『やまな』と読む」と書いてありました。
そのあたりの土地に関しては全く知識がないのでわかりませんが、
袋井市の山名公民館の所在地は袋井市上山梨とあり、ちょっと興味深いです。

795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:18:53.31 ID:HdiZBWBl0.net
>>791--789
久々に面白い情報を書きこんでくれる人がいたので嬉しいですな。
しかも自分にとって未知の情報だったので得るところが多い。

786の円山は塩山でいいと思います。安政3年4月12日、確かにここで駿河の博徒ともう一人が殺害された
という史料が、実はあるのです。つまり伝説通り、甲斐の祐天によって
大熊の子分、または鬼神喜之助の子分が塩山で殺されたという事実があったということになります。

ちなみに4月12日は武田信玄の没日で信玄忌といい、祭礼が開かれました。

796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:27:12.55 ID:ltDgrZih0.net
>>721
黒駒勝蔵。
「東海遊侠伝」に何度も敵役として名前が登場しますが、
実際には多くがが無関係ではないかと思います。
原田常吉側の史料から、雲風亀吉宅にいた勝蔵に襲撃をかけたのは事実。
でもその後、形原斧八宅に復讐したのは黒駒一家ではなく亀吉の弟達。
証拠がない、他に史料がないから事実ではないというのはおかしいですが、
掛川で暴れて小政達に斬殺されたのが黒駒の残党だというもの怪しいし
書いた時点で違うとわかっていながら斬られた二代目お蝶さんに
「きっと黒駒のしわざだよ」としゃべらせたり。
官軍のいち隊長でありながら、清水一家を恐れてコソコソ駿府を通し過ぎた、
大場の久八を袋叩きにする子分たちを止めずに黙って見ていた、
素行が悪いために主人に追い出され、強盗の咎で処刑された、などなど。
勝蔵を悪く書きすぎているように思います。

なぜ愚庵はここまで勝蔵を悪しざまに書くのか。
「東海遊侠伝」を発刊するにいたった背景から、勧善懲悪的に書く必要もあったのでしょうが
官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。
偉そうにしている官軍でも、所詮はこんな奴らだ、という思いも秘められているように思います。
ただ、愚庵は明治になってから元官軍側の人達とも親しくしていたようなので
ちょっと考えすぎかもしれませんが。

797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:37:56.90 ID:ltDgrZih0.net
「東海遊侠伝」にはない、安東文吉側の史料にあるという
黒駒一家が清水一家に襲撃をかけた事件。
勝蔵が襲撃されて仕返しをしないのはおかしい、
「東海遊侠伝」は次郎長が敗走したことは書きたくない、
という点を考えると、事実なのではないかと思います。
残念ながら、年代がはっきりしないようです。

もう一点、
以前梅蔭寺の史料館に行った時、勝蔵が次郎長におくった水晶というものが
展示されていた記憶があります。
数年前に行った時はだいぶ改装されており、その水晶は見当たりませんでした。
そのあたりの事情は分かりませんが、勝蔵がおくったというのが事実であれば、
争いばかりではなく、どこかの時点で次郎長と勝蔵は交流があったと思われます。

連投、大変、大変失礼いたしました。

798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:51:02.76 ID:ltDgrZih0.net
書き忘れました。
「関東綱五郎」は長谷川伸著。
私の記憶が正しければ「長谷川伸全集 十三巻」に載っています。、

799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:57:37.69 ID:ltDgrZih0.net
>>795
非常に貴重な情報、ありがとうございます。
まさにその高市で起きた事件だったのですね。

以前の巳之助の島抜けに関してもそうですが、
一つの事件に関する事実が、他の史料で立証されるって
感動的ですね。
そして、それを見つけ出す力、他の史料と関連付けて読む力。
とてもうらやましいです。

800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/13(火) 21:45:46.36 ID:5bYxH1750.net
>>796
「官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。」

↑は極めて慧眼、重要な視点ではないかと思います。

また勝蔵の送った水晶の話は興味深いですね。1873年のウィーン博覧会の際にも甲州では
水晶が出典されたのでそういう機運が出来ていたのかもしれません。非常に貴重な情報ありがとうございました。
是非気軽にまたお書き込みください。

801 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/13(火) 21:59:46.45 ID:5bYxH1750.net
小金井小次郎の話では、
新門と義兄弟になり、武州一帯に勢力を伸ばした小次郎に
伊勢の丹波屋伝兵衛から刺客が送られてきた、という部分がある。
伊勢の大侠を相手に回して生き延びた小次郎天晴れ、という話に仕立てたかったのか、と当初思ったが、
小次郎に刺客が送られてきたことを明確に示す史料が出てきたので、これは事実であることが判明する。

これは確定ではないが、史実は丹波屋の後ろ盾を得た吃安流罪後の竹居一家が小次郎と対立したというのが本当であると思う。
この時竹居一家の頭に立っていたのは、竹居の小市こと市五郎。

802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/13(火) 22:10:35.89 ID:5bYxH1750.net
584に関して、明確な答えを出せないことが実に残念です。申し訳ない。

803 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/14(水) 21:57:16.44 ID:qOJQOmjY0.net
子母澤寛の『駿河遊侠伝』には福知山の銀兵衛という親分のことが出てくる。
ここに暫く次郎長一行が世話になっていて、その間に甚太郎という旅人が
福知山一家に入ったり、次郎長が近くの寺の若後家と恋に落ちたりと、色々ある。
が、どうも本書を読む限りでは聞き書きに依拠した実話のように思える。

甚太郎は、実は女性で生来男として育てられ、なんと妻も持った。明治の博徒刈り込みで捕まり
その時「女」と初めて知られた。その後江戸の本所で飯屋をしていたという。

また福知山の銀兵衛という親分も、ネットで調べると「松本屋銀兵衛」の名で実在していたことが伺える。

804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/14(水) 22:00:28.02 ID:qOJQOmjY0.net
福知山だったか、京丹波だったか、昔旅した時に
一日中「機織り」の音が絶えない場所があった。こんな地域が日本にはあったのだと
思ったものだ。北陸と言うのか近畿と言うのか。
いずれ関東人にしてみれば不思議な場所だった。

805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/15(木) 22:08:26.99 ID:yYD0U4v40.net
遠州相良の富吉と争った親分に堂山の龍蔵という猛者がいる。
だいぶ早い時期の話で天保も前半くらいの頃ではなかったか。詳しい抗争の様子は
今ちょっと思い出せない。竜蔵は明治も二ケタになって死んだように記憶しているから
だいぶ長生きしたことになる。

菊川から相良へ入る途中に「堂山新田」という地域があり、平野でよく稲の実った地勢だったように
記憶している。ここが龍蔵のいたところか、と思うとそれとなく趣が感ぜられる。
近くに黒田家世襲の代官所がある。思いがけず立ち寄ったが、素晴らしい品々が惜しげなく陳列されている。
穴場と呼ぶにふさわしい史跡だった。(後半全く侠客に関係ないな)

806 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/15(木) 22:16:45.80 ID:yYD0U4v40.net
これは全く関係ないが、この代官所の管理人さんが80を越えた方で、
「遠州大地震」なるものを体験したとふと漏らしたことが、非常に興味を覚えた。
聞くと、小学校の校舎が壊れ、本人は夢中で外へ逃げたが友達は亡くなったとのこと。
そんな地震の存在を私は聞いたことがなかった。

後で調べると戦中に隠蔽された「幻の地震」であるとのこと。(戦意高揚のため事実を封じられた)

侠客とは関係ないが、貴重な話だったのでつい書いてしまった。すみません

807 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/16(金) 16:16:40.36 ID:J37rJVRk0.net
>>789
問屋場の大熊と呼ばれた者は、別にいらっしゃるのでしょうか?

808 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 12:43:10.02 ID:9SwS0Ptb0.net
>>807
熊五郎、熊次郎、熊蔵とか虎五郎とかは多くいますので、誰が江尻の大熊か
わかりかねますね。問屋場の大熊…もちょっとわかりませんです。
墓石でも見つかって、更にそこに縁故ある人の名前でも刻まれていれば
確定できるのでしょうけども。今のところ一寸聞かない。すみません。

809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 12:52:08.36 ID:9SwS0Ptb0.net
>>798
ご紹介頂いたおかげで長谷川伸の「関東綱五郎」を読みました。
後半は尻つぼみですが、前半部分は傑作ですね。特におてるという娘の
心情を描く部分、川辺の土手から半五郎の元へ飛び込むところの、女性の心情の描き方
なんかは、真に迫っていてなんとも胸が痛くなります。また半五郎が親父の心情を察して
堅気の仕事が手に付かなくなる場面、祖父の伊之平が夢に現れる場面など、「上手い」と思わせる。
さすがに一世を風靡した大衆作家という感じです。

…これじゃ読書感想文ですね…そうそう、やっぱりこれを読む限りだと大作半五郎が関東綱五郎でいいんじゃないか
と思いますね。『八潮市史』には、たしかこの時の事件の記録も残っていた気がします。

810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 12:59:14.01 ID:9SwS0Ptb0.net
>>796
やっぱり黒駒勝蔵親分の博奕打ちとしての人生のメインは、次郎長と東海道沿いで
戦うことではなく、甲州で兄貴分の吃安親分を召捕った仇の祐天、三蔵、犬上郡次郎を
討つことにあったのだと思います。平井で大岩・小岩を失っても屈することなく、
甲州に潜入し、犬上の首をあげたということはその証でしょうな。
ちなみに祐天は文久3年、郡次郎は元治元年、三蔵は明治2年に他界しているので、
勝蔵生存時に、仇は全て没したことになります。とすれば、勝蔵親分も心中「まあ、役目は果たせた」
という気持ちで旅立てたのかもしれません。

811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 22:29:27.78 ID:uTwfXSxA0.net
>>800
ありがとうございます。

水晶に関して、戸田書店刊の「人間 清水次郎長」に
写真付きでちょこっとだけ解説が載っているのを見つけました。

それには「のちに仇敵となった黒駒の勝蔵から贈られたもの」
となっています。
この記述通りであれば、両者の間に抗争が起こる前、
元々は何かしらかの交流があったと想像できます。

812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:15:17.96 ID:uTwfXSxA0.net
>>810
次郎長側の史料で勝蔵を敵役としているほど
勝蔵は次郎長を敵として意識していなかったのでしょうね。
口供書からは、兄貴分の敵討ちのために半生をささげた
という印象をうけます。

自分の手で敵を討てなかった悔しさはあったでしょうが
おっしゃっているように処刑される前に敵の死を知ることができた
という点ではきっと悔いは少なかったですね。

悪役にされる前に勝蔵にスポットライトが当たっていれば、
次郎長の石松の敵討ちよりも、勝蔵の吃安の敵討ちの方が
大衆を惹きつける力があったかもしれません。

生き証人が存命のうちに勝蔵の研究が十分にされなかったのが残念です。

813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:29:38.92 ID:uTwfXSxA0.net
>>809
>>791の聞き書きというのは、姉ではなく妹でした。
本文には書いてないようですが、このことは同じく長谷川伸著の
「素材素話」内の『荒神山喧嘩考』に載っています。

参考までに同書に故松居松翁という人が戯曲「大瀬の半五郎」を書いた、とあり
その材料は自分の「関東綱五郎」とはまるで違う、とあります。
あるいは、それが八王子の関東綱五郎のことなのかもしれません。

「素材素話」は「長谷川伸全集 第十一巻」の収録されています。
読み応えのある内容ですので、ご存じでなければぜひ御一読ください。

814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:39:41.62 ID:uTwfXSxA0.net
同じく長谷川伸著に「殴られた石松」という作品があります。
原田常吉が兄の敵の浪人を討つという話の流れです。
史実は弟の敵討ちですが、物語でありながら敵の名前は史実通りであったり、
長谷川伸はこのあたりの事情を知っていたようで、ちょっと興味深いです。

815 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:49:28.27 ID:uTwfXSxA0.net
以前、江尻の大熊の「魚熊」説を書いた者ですが
大熊の戒名が載っている冊子がありました。

こちらには「魚熊」という文字はなく
「江尻の大熊 (俗称不詳) 悟心禅定門 (臨・法雲寺)」とあります。
「魚熊」説については、いずれまた調べてみようと思っています。

816 :802:2016/12/18(日) 00:49:07.22 ID:QkjSTGF60.net
>>808
ご回答、ありがとうございます。

二十八人衆自体が創作なのは分かるのですが、
どういういきさつによってこの人選になったのか不思議でなりません。
追分の三五郎を除いて、当時、有名だったのでしょうか?
それとも、東海遊侠伝から選んだだけにすぎないのでしょうか?

817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:01:19.22 ID:uQDe3FLr0.net
>>795
大熊が猿屋に世話になっていたという説、
円山=塩山
ともに>>387で既出でしたね。大変失礼いたしました。
全てに目は通しているつもりだったのですが…。

>>816
>>808の方とは別の者ですが、
やはり、清水の次郎長のように地名が付いていればそれが手掛かりとなりますが、
問屋場となると、どこの問屋場かが確定しないと捜索は困難ではないかと思います。

当時は有名であっても調べる人がいなかったり何かの記録に残っていなければ、
関係者の死とともに完全に忘れ去られてしまう、というのはとても残念です。

818 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:18:23.50 ID:nIw5DsEY0.net
>>816
「近世侠客有名鏡」はだいたい明治・大正版が有名なんですが、
確認できる限りだと「昭和10年」というのがあります。これには
「増川村仙右衛門」・「清水湊の大政」・「清水湊の小政」がランクインされてますな。
後の人はどういう基準で選んだのか。案外、天田五郎の親しい人順だったりするかも
しれませんね。

819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:19:45.92 ID:uQDe3FLr0.net
清水の28人衆については、
おっしゃっているように、追分三五郎のように架空の人物も含まれていますが、
基本は有名無名関係なく、東海遊侠伝に出てくる名前を当てはめたのではないでしょうか?
東海遊侠伝に問屋場の大熊という名前は出てきませんが、
江尻の大熊がモデルってことも考えられますね。

820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:54:21.17 ID:nIw5DsEY0.net
・大熊の子分が塩山で祐天に斬られた。(大熊と祐天は元々兄弟分)
・大熊は妹ともども猿屋勘助(三井卯吉)の世話になっていた。
・三井卯吉を斬ったのは甲州市川大門村の小天狗亀吉(鬼神喜之助弟)

↑『東海遊侠伝』・松村梢風の聞き書きを参照にするなら、大熊は案外甲州の者かもしれない。
市川大門隣村に「大塚村」があり、ここに「大塚ノ熊五郎」と言う人がいた。
この人って可能性も有るか知れない。

821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 23:58:53.39 ID:uQDe3FLr0.net
>>820
すごいですね!
松村梢風は次郎長関連の人物を詳しく調べていますよね。
高萩の万次郎についても創作と思いきやかなり詳しく事実を調べられている、
というようなことが「清水次郎長とその周辺」でも述べられています。
江尻の大熊に関しても事実を調べて書いていると十分考えられますね。
(石松の調査結果に関しては違うような気がしますが…。)

甲州の人だから清水界隈に詳細が伝わっていない。
そして「大塚村の熊五郎」→「大塚の熊」→「大熊」といったところでしょうか?

お調べになったことを簡単に教えてほしい、なんて大変失礼なのは承知ですが、
大塚村の熊五郎について、ほかに情報があればぜひお聞かせ願えないでしょうか。

822 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:14:16.94 ID:P465FOM90.net
実は何にも知らん部て居ないのですが、2013年の山梨博物館の勝蔵展で、
大正まで伝わっていた侠客の伝をまとめた書籍があり、そのなかに、津向文吉や
鬼神喜之助と一緒に「大塚の熊五郎」という人の名前が挙がっていたにすぎないのです。
たしか、その書籍にも名前だけで「事績詳らかならず」とただ一行だけあったとのことです。
実地に行ってみて調べてみようとは思うのですが、多分何にもでないでしょうね。

823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:18:07.06 ID:P465FOM90.net
ただ、村松梢風の次郎長伝の中で、大熊が「俺は甲州の者なんだが…」と言ってること。
これに815の情報を足して、
その上で、三井を討った下手人が確実に市川大門松坂屋亀吉であることを鑑みると、
大熊と松坂屋喜之助・亀吉兄弟の間には交流が「なければならない」ことになります。

と、すれば(大暴投であったとしても)大塚ノ熊五郎は候補に挙げてもいいんじゃないかと。

824 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:37:53.28 ID:P465FOM90.net
>>813
「素材素話」は十一巻ですね。必ず読んでみます。十三巻では「親分病」というのも
面白かったですね。
全集にも入っていないし、そんな良い作品でもないのかもしれないけど、
黒須大五郎を扱った『八丈つむじ風』が、どっかで手に入らないもんかと思ってます。

825 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:39:46.52 ID:P465FOM90.net
810で書かれた大熊の戒名がかかれた冊子は、どこかで入手可能なものでしょうか。
お手数ですが、お時間ある時に御返信いただけると幸いです。

826 :811:2016/12/21(水) 15:22:25.48 ID:TPG+55T30.net
>>817->>819
ご回答、ありがとうございます。

天田五郎の親しい人順は、おもしろいですね。

問屋場の大熊が江尻の大熊かとは思いましたが、
本当だとすると兄貴分の大熊を下に見る創作は残念ですね

827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/21(水) 23:21:31.10 ID:Z3pIkZmU0.net
静岡の富士市は増川佐次郎、仙右衛門親子を始め、宮島俊蔵、本市場の金七など
有名な人物を輩出している。しかし公に彼らの事実が調べられたことが、残念ながら無い。
加えて、この地域では墓石を新しくすることが流行っているようで
古い墓石が容赦なく廃棄されている。

828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 10:55:30.50 ID:jveobObR0.net
>>822ー819
ありがとうございます。
私も当時の史料を引っ張り出してみてみましたが、
全く気にも留めたことのない名前でした。

「日本の古本屋」で検索すると2件ヒットしました。
長谷川伸の作品は小説にしても随筆にしても、読み手を惹きつける力がありますね。

大熊と鬼神喜之助、小天狗亀吉兄弟の関係など全く考えたことはなく、目からうろこです。
卯吉殺害時には、亀吉とともに次郎長や大熊の身内もいたかもしれませんね。

829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 11:21:55.89 ID:jveobObR0.net
大熊の戒名について
清水地方で刊行されている「季刊 清水」というものがあります。
その1993年に刊行された第30号で確認することができます。
自分の周辺の区の図書館にはなく(当然かもしれませんが)、
清水市中央図書館が間違いなくで閲覧可能なところだと思います。

以前書いた「魚熊」説のもととなった本もこの図書館で閲覧したものですが
そこに書かれていた戒名と「季刊 清水」に書かれている戒名が
同じかどうかは確認できていません。

現在私が確認できるものは他に
10号で次郎長の手紙について
18号で和田島の太左衛門を中心に山田房五郎や
次郎長の叔父の太右衛門について
24号で愚庵の手紙や愚庵の清水での交友関係について
があります。

ほかにも何度か次郎長について書かれた回があり
この図書館のホームページから確認できます。

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