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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/10(火) 21:25:03.80 ID:jCe/PmyW0.net
大瀬の半五郎について
・八王子の鈴木綱五郎
・八潮市の大作半五郎
とこのスレでも出してきたが、大事なことを忘れていた。
伯山の「大瀬の半五郎」である。

これだと半五郎は草加の生まれとされる。(八潮とも近い)兄・又五郎ともども
侠名を知られていたが、兄が計略に落ちて殺され、その恨みで兄の許嫁だった義姉と
目明しの五蔵を殺す。

その後、凶状旅の果てに清水湊へやって来て、次郎長の世話になる。そんな話だった。

846 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/10(火) 21:31:48.85 ID:jCe/PmyW0.net
以前虎造の「大瀬の半五郎」を面白く聞いていたのだが、不覚にもそんなこと全く忘れていた。

近デジの『世界の救世主日本』(遠藤友四郎著、錦旗会本部、S6)というとんでもないタイトルの本の中に
「侠客賛仰・次郎長の子分」というコラムがあり、思いの他くわしく、ここに半五郎のことが載っていた。
おまけとして、伯山がこれを高座で演ったら、「半五郎の子分だった」という老人が現れ、五蔵殺しの際の
誤ったところを指摘した、という逸話が書かれていたので、
この「草加生まれの半五郎説」無碍にはできない。というより、これが巷で一番説得力のある半五郎=関東綱五郎なのかもしれぬ。

847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 11:09:33.81 ID:xDtjVBoj0.net
>>844
恥ずかしいなんてことはないのではないでしょうか?

私もここで多くの知らなかった意外な事実を知りましたし、
自分が書き込んだことを「知らなかった」なんて言われると
微力ながら他の方の趣味や研究のお手伝いができたのではないかと、
嬉しく思えます。

848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 11:34:41.28 ID:xDtjVBoj0.net
黒駒の勝蔵もですが、やはり悪者や卑怯者というイメージが定着してしまった
人物についての調査は相当タイミングを逸してしまっていますね。
日柳燕石と神戸の長吉との関係、長吉をもっと早い段階で詳しく調べたら、
びっくりするような事実が出てきたかもしれません。

でも「荒神山喧嘩考」というものを残してくれただけでも相当ありがたいですから
贅沢を言ってはいけませんね。

ちなみに「荒神山喧嘩考」は平岡正明著「清水次郎長の明治維新」の
参考文献で知りました。
広沢虎造の浪曲を基にとしていますが、次郎長関連の様々な考証がされていて
なかなか面白い内容でした。

849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 12:10:13.66 ID:xDtjVBoj0.net
だいぶ前の話題になりますが>>280>>380の集合写真。
清水の壮士の墓に隣り合って小さな建物があります。
中をのぞくと同じ集合写真が飾られていますが、一般的に各人物に付けられている名前とは
全く違う名前がふられていました。
この人物名、間違ってるんじゃないか?とは思わず、
世間に出回っている人物名って実は適当なんだな、って思った記憶があります。

また、各人物名が正しくないという記述はされていませんでしたが、
一般的に「大政」と言われている後列の人物を「○○の半三郎」と
書いている書物を読んだ覚えがあります。

著書で、人物名を信じて没年等を参考に、いつ頃撮影されたものかを考証している
方がいますが、お気の毒です。
この写真についても、適当な人物名がふられていなければ
正しい調査がされて、新たな事実が発見されていたかもしれませんね。

850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 12:47:09.91 ID:xDtjVBoj0.net
増川の仙右衛門と宮島の俊蔵の手打ち式の写真、との説ですが、

「東海遊侠伝」では鬼吉は宮島の重吉(俊蔵)一家に殺され、
鬼吉の子分はすぐにその仇を討った、となっており
「やくざ学入門」では次郎長が上万一家に送り込んだ堀田仁三郎親分の前身は鬼吉で、
もとは仙右衛門の弟分だった、となっています。

鬼吉は仙右衛門の弟分だったのか、
仙右衛門の弟分であっても、次郎長の子分であれば次郎長と俊蔵が手打ちをするはず、
鬼吉は堀田仁三郎親分と同一人物か、
等、疑問は多いですが、
鬼吉に関する両者の手打ち式の写真、ってことだったら面白いですね。

851 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 13:13:48.54 ID:xDtjVBoj0.net
5〜6年前、勝蔵の碑を探している時に道を尋ねたおばあさんが、
「雪の中を逃げるのに、役人の目をくらますために
草鞋を左右逆にはいて逃げたと聞いていますよ」と教えてくれました。

内容よりも、語り継がれているという事実がうれしいですね。

852 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 14:06:08.96 ID:xDtjVBoj0.net
勝蔵の碑の近くには、勝蔵の生家とその敷地内に立派なお墓、
ほかにまたお墓と言われているお地蔵さんが置かれている神社があります。
お地蔵さんの周りにはいくつかの墓石があり、その一つには「小池嘉兵衛」の文字が見えました。
嘉永の文字も見えたので、勝蔵の父ではなく祖父かもしれません。
父親のものと思われる年を記したお墓も並んでいるかもしれません。
いずれもお墓を建てたというよりも、悪く言えば置きっぱなし、
という状態です。

なぜこのような置かれ方をされたままなのか、とても気になります。

853 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/31(火) 23:39:51.36 ID:1keuLruZ0.net
>>849
619で書いた話はかなり高名な研究者が書き残した史料によるので、私自身は信頼しているのですが、
調べてみれば仲裁役に立ったとされる大胡の団平は、慶応年間に島流しのまま亡くなっているので、
この点は辻褄があいません。
しかし、団平の役を二代目大前田の「田島要吉」であるとすれば、無理がない説にも思われます。何故と言うに
要吉清水一家などとも交流が深く、東海道沿いとはよく交流し、写真等も残っているからです。

とは言え、真実は、おっしゃる通りすでに例証できない時期に来てしまっているのでしょう。

854 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/31(火) 23:49:14.69 ID:1keuLruZ0.net
>>852
私ごとで恐縮ですが、本家は八ヶ岳山麓の小村にあります。四代ほど前に「上黒駒」から
嫁に来た女性がおり、勝蔵親分の親類筋に当る人で、女性ながらに馬に載って嫁いできて、
それはみごとな短刀を携えて来たとのこと。親族間では「さすが黒駒の親類よ」と内々で話題にしたと言います。
(真偽のほどはわかりませんが)

明治維新はてっとり速く国民の「価値観」を変える手段として、善悪の区別を短時間で極端に定義したのだと思います。
それまで博奕は庶民が嗜む必要悪でした。(中世ではれっきとした職業・あるいは行事でした)
明治3年に、それは完全な「悪」にされたのでしょう。
山梨西部に住む勝蔵の子孫の方の話にも「あんな悪党のモノはみんな捨てちまった」と答えられた経験があります。明治期には
そういう転換があからさまに成されたのだと、私は思います。

855 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/31(火) 23:54:39.10 ID:1keuLruZ0.net
709で山梨ノ巳之助親分を、八丈実記の「無宿巳之助」と同一人物だと得意に書きこんだが、
このことは既に藤田五郎氏が『仁侠大百科』書かれておられた。恥ずかしいかぎりだ。

856 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/01(水) 23:31:21.71 ID:hM9m546s0.net
安東文吉の「十哲」

仏の勇蔵(長谷村の勇吉)・柳新田の政蔵・安西五丁目吉五郎(悪吉)・瀬名村権次郎
沼上の石音・信州屋源次郎(長谷の源次)・池谷の松・長谷村安五郎・長谷村徳次郎
足袋屋伊之助(片羽町の伊之助)

857 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/01(水) 23:35:00.54 ID:hM9m546s0.net
同じく安部七騎

鍋屋の宇吉(菖蒲谷)・安部の由・牛妻の茂助・水口の岩下初五郎・新田の梅五郎(梅ヶ島)
足久保宗十・船沢の武右衛門(足久保)

858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/06(月) 21:58:54.63 ID:hAqz/4rN0.net
上でも名を出した上州館林藩浪人・犬上郡次郎。
確かに武術・扱心流柔術の達人で、数々の武勇伝を持ち、更には竹居吃安を捕縛した立役者だが、
最期は悲惨なものだった。
すなわち、元治元年10月17日に黒駒勝蔵率いる40人の集団に、潜伏していた勝沼万福寺に襲われ、
まずは柔術家の命である「腕」を斬り落とされ、その後首を持ち去られた。
一緒にいた女房もまた、綱で撒かれて連れさられた。

今日、万福寺の鐘楼の下に大岩があり、ここに郡次郎の首が置かれ、黒駒組によって
実験されたとの話が伝わっている。

859 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/06(月) 22:22:38.64 ID:hAqz/4rN0.net
長の潜伏。それゆえの皮膚病。公との闘争。あらゆる苦悩を抱えながらも
旅を続けながら、同時にに子分に飯を食わせていた勝蔵が、おそらく唯一
歓喜の声を挙げたのが、この郡次郎殺害の一時だったのだろう。

史料に拠ればこの時、勝蔵一団は「上意!」と叫びながら万福寺の山門を越えた。
「上意」とは普通、殿様の意を果たすことを示すが、この時の勝蔵の「上意」とは、故親分安五郎(吃安)
の妄執に対する一礼・供養に他なるまい。

860 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/07(火) 22:57:27.39 ID:PQDQt4iR0.net
ヤフオクはつくづく馬鹿にならない。
一点は甲州黒駒一家の乙吉らの人相を記した文書が売りに出てた。
次いで、鬼神喜之助の一族、喜右衛門、定八家で明治元年に殺人が起きた、という史料も売りに出ていた。
どちらも気づいたときには既に落札されており、今後絶対に手に入ることもないだろう。
忘れる他ない。

861 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/07(火) 23:13:33.76 ID:PQDQt4iR0.net
昔は(明治以前のことか)は自分の居住する村落から一歩も外に出ることなく
一生を追える人生というのもあった。
そうでありながら、同時代に渡世人は、旅をして日本中を廻った。定住民に対する遊行民ということか。
ただ彼らの来訪が、時に村落に刺激を生みだし、変化を起こして行ったことは確かだ。

862 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/07(火) 23:17:57.64 ID:PQDQt4iR0.net
中世以来の遊行民の末裔たる博奕打ち・侠客・渡世人は、それだけに、剣術や博奕道よりも
歩行法を大事にした。一日50キロは平気で歩いた。
これは大前田栄五郎にも国定忠治にも、黒駒勝蔵や清水次郎長にも伝わる、馬鹿げた逸話だが
彼ら遊侠の徒が歩く時、胸の位置に置いた菅傘が歩行の速さでひっついて下に落ちなかったという。
それくらい健脚・足速だったのだ。

863 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/10(金) 23:01:45.81 ID:6Ra9TC2f0.net
山岳研究科(登山家?)の岩科小一郎先生の著書は渡世人研究の側から読んでも面白い。
なにしろ伝聞をそのまま脚色無く記しておられるので、価値が高い。更に博学、なにしろ柳田國男の
弟子を称する志の高さもすばらしい。

『大菩薩連嶺』では峠を中心に、一度は侠客を志した老人の姿を(勝沼の親分に杯をもらった)、
また『山麓滞在』では郷原で草鞋屋を営んでいた「忠次郎」という親分の話を
何気なく載せている。
なにより歯切れの良い文章の上手さは、この人の魅力の最たるものだ。

864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/10(金) 23:10:28.64 ID:6Ra9TC2f0.net
これはまた侠客とちょっと関係ないだろうが…
上述の岩科氏の『山麓滞在』。
「山とお母さん」(近デジなら112コマ目)は是非とも読むことをお勧めする。
名著、名文だ。

865 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/10(金) 23:17:39.60 ID:6Ra9TC2f0.net
何故ここで?(と自分でも思うが)

下田の兼五郎

866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/14(火) 23:15:24.11 ID:vGhQ7/vY0.net
下田の兼五郎は屋号・小松屋と言ったらしい。
武州の港北区(現川崎)を中心に勢力を張った。最大の火場所は川崎の影向寺で、
この影向寺は関東屈指の古刹であることから、多くの博奕打ちが訪れ、彼らと盟を結んだ。
ある時、三宅島帰りの小金井小次郎が、ここで兼五郎に会い、大歓迎を受けた。しかも、今までもらったことの
無いほどの草鞋銭に、さすがの小次郎も度肝を抜かれ、兼五郎と兄弟分の盃をかわしたという。

兼五郎は跡目を子分に譲り、自らは引退して悠々自適な晩年を過ごす。人々からは老若を問わず愛され、
為に今日墓石は小学校裏手にあると言う。

867 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/14(火) 23:28:03.78 ID:vGhQ7/vY0.net
芥川龍之介の短編に「お富の貞操」というのがある。知ってる人は知ってる作品だが、
この中に「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな」という名文句がある。
この「村上新三郎」、昔は武州入間郡所沢在・南永井の博徒親分・村上新三郎がモデルではないか、とも思ったのだが、
どうやら関係ないようだ。

新三郎以下、三兄弟については高尾善希氏が論文を書いている。

868 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/15(水) 19:41:22.85 ID:J0xOR6Z40.net
博徒ゆかりの地めぐりと講演会(山梨県立図書館)
「幕末甲州の博徒たち」日帰りバスツアー ※予約受付中
https://www.yamanashi-kankou.jp/y-tabi/learn/bosyuchu/bakutoyukarinochimeguri1day.html

講演会概要
『幕末甲州の博徒たち』
講師:高橋 敏(国立歴史民俗博物館 名誉教授)
    「幕末の世相と博徒たち」
    高橋 修(東京女子大学 准教授)
    「甲州遊侠の世界」 
日時:平成29年2月26日(日) 午後2時〜4時30分
会場:山梨県立図書館 多目的ホール
聴講料(資料代):1,000円(舎人倶楽部会員:800円)※ツアー代金には含まれます。
定員:150名(申し込み順)

869 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/15(水) 21:56:29.80 ID:bfUhCgez0.net
「幕末甲州の博徒たち」と銘打つからには
正徳寺の多八や塩山藤太郎、上手の八百蔵に井手久や油屋の兄弟なんかも出すんだろうな…

とかイジワル言っちゃダメだな。

870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 22:52:32.22 ID:C8l9BcMN0.net
先日偶然目にする事が出来ましたが、
「桶屋長兵衛」さんの情報元は稲田郷土史家の「あゆたか」(16号)ですね。

これは知らなかったけど、素晴らしい研究誌です。
ちなみに33号掲載の、近藤勇の姪の話も興味深いです。

871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 22:57:07.38 ID:SAgMChsa0.net
>>870
その件は目下調査中ですので、
できればネタバレ無しでお願いします。

872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 23:10:26.45 ID:C8l9BcMN0.net
しつれいしました。

埼玉県新座市に
平成2年まで活動していた機関紙「にいくらごおり」というのがある。
この21号に「慶応4年、監察見聴誌」というのが非常に面白い。

白子宿の亀屋清吉方に探索方の役人が逗留していた際、土地の親分である「新倉の由五郎」
から「心付け」が届いたと記されている。由五郎なる親分は知らぬが、きっと和光市周辺で幕末に
勢力をもった博徒だったのだろう。

873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/17(金) 23:41:43.72 ID:IUI3nn7T0.net
「日本史」に関して、自分の概観を挙げると、
大事なのは1192と1600だけで、
1192、すなわち鎌倉時代より前は「古代」
1192から1600(関ヶ原)までが「中世」
以降が「近世」で良いのではないかと思う。色々異論はあろうが、二つの年号を覚えるだけで
日本史の一番重要な文化変容を窺い知ることができよう。

で、博奕打ちはだいたい1800〜1900の間に置くことができるだろう。

異論は幾らでも受け付ける。

874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/17(金) 23:52:25.11 ID:IUI3nn7T0.net
「鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、
此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、
最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。
此が侠客の最初である。」

上は柳田國男と双璧を成す民俗学の重鎮、あるいは親・折口信夫(しのぶ)の言であるが、
若干上から目線はあるが、本質的には結構興味深い推論ではないだろうか。

875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/18(土) 08:14:02.53 ID:F0mbO/cv0.net
…毎回ながら週末の夜になると、なんて馬鹿なことを書きこむのだろう。本当にすみません。

876 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:09:50.97 ID:nCk9a+XK0.net
高萩の万次郎の居宅である鶴屋は「上宿」ではなく「下宿」にある。
よって宿内では「下宿の万次郎」で通っていた。
この点はいつか誰かが間違いを指摘しないといけないのだが…

877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:14:21.71 ID:nCk9a+XK0.net
同じく武州の侠客で
小川幸八から小川幸蔵に代替わりするに際しては、間に恋ヶ窪彦太郎という人が入る。
彦太郎は幸八の妹を内縁の妻に持った。

彦太郎、もともとは幸八兄弟分の「上鈴木の平親王」の子分に当る。明治6年捕縛され
斬首か病死か、いずれ落命した。平親王の家の墓域に、彦太郎の墓が建っている。
本当に真四角の形をしている。

878 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:15:56.67 ID:nCk9a+XK0.net
間違い。明治6年ではなく、安政6年。
ちなみに平親王(名は平五郎と伝わる)は明治2年死亡。倅は軍次郎。

879 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:36:41.73 ID:nCk9a+XK0.net
三鷹の上連雀に「上連雀の嘉助」という親分がいた。
実在の人で、小金井一家の陣屋三之助の喧嘩には、この人が仲裁に入って事無きを得ている。
それ程の貫禄であり、若い頃は小次郎とも幾度か事を構えた。
生業は博労であったと伝わる。残念ながら家が特定できないが、私はこの地域の旧家に居た
「安太郎」という人だと思う。(姓は伏す、が調べればわかるだろう)

880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:43:04.01 ID:nCk9a+XK0.net
安太郎は幕末期の人で土木をしていたと言う。
この人、台場の工事に駆り出され、手下を連れて参加した所、工事後に
千両箱を褒美としていただいた。しかし、そっくりそのまま何かの間違いだと言って
お上に返したとの逸話が伝わっている。

この逸話、かの大場久八の逸話とそっくりである。そのような訳で、安太郎を伝説の連雀嘉助である、と見たい。
確証はないが、これは当ってると思う。

881 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:58:58.21 ID:nCk9a+XK0.net
小金井小次郎は一般的に、出自の小金井から南に勢力を伸ばしたとのイメージが強い。
すなわち、神奈川にかけて縄張りを広げた。戸羽山翰は「神奈川」の博徒として
小次郎を挙げてるくらいだ。
しかし三宅島に流される頃の小次郎が、手紙をせっせと送った先は青梅や飯能など、北に多い。
これは多分、高萩万次郎の勢力圏に関係するのだろう。

これは確証はないが、やはり最初に小次郎が親分と頼んだのは、府中藤屋の和十郎(初代、別名平蔵)だろう。
万吉は兄貴分に当る。次いで、一ノ宮万平を叔父貴分にして親しく交際し、
長じては高萩万次郎に世話になったのではないか。

今川徳三は何かの著作で「侠客を地で行く男」と小次郎を評していたが、これはその通りで、
彼自身も手紙の中で言っているが、「周囲の人の歓びが自分の利益と繋がることを重視」していた。
実に明晰な人物であると思う。

882 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:19:39.59 ID:QxNuIb+v0.net
武州入間郡の「黒須大五郎」に関しては、彼を有名にした
高谷為之の新聞小説すら幕末期の大五郎の実情を誤って伝えているので、
今さら修正の仕様がない。
大五郎は明治20年代の「侠客有名鏡」では小結に挙げられるほどの大物だが、
明治元年〜5年までの履歴以外正しくは伝えられていないのだ。元年〜5年までは
雲霧仁左衛門顔負けの怪盗ぶりを確かに示した。

883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:26:12.24 ID:QxNuIb+v0.net
実は幕末期に於いて大五郎は甲州博徒(黒駒一家、若神子一家)と盟を結び、
関東を荒らして廻った。
一般に言われているように「八丈島に籠って生業を営んでいた」のではない。
武州の遊女屋から気に入った遊女を盗み出し、ハーレムを拵え、抜き身・鉄砲で武装して
名主や豪商の財産を狙った。
文久元年、甲府で役人に囲まれ、アクロバティックに逃げ回ったが、御用弁になり、
以降御一新まで8年近く、牢内に収監されていた、というのが実情である。

884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:31:56.01 ID:QxNuIb+v0.net
上でも聞き書きで記したが、最期には狭山丘陵にあった御仕置き場で斬首されたようである。

狭山丘陵というところも、特記すべき場所で、多くの貸元・博奕打ちの巨魁が
存在していたようだ。暗く、神聖な山間部で、商業都市とも近いという点が
関係していたのだろう。

885 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:50:17.16 ID:QxNuIb+v0.net
明治元年辰年、幕府瓦解の混乱期に狭山丘陵では博奕打ちたちが集まり、
ちょっとしたデモを起こした。彼らは周辺の農家に炊き出しを要求し、人足までそろえた。
その目的が停滞した経済を循環させてほしい(つまり質店の営業を円滑にしてほしい)という
ことだったというのは恐れ入る。ソースは「里正日誌」。

このことは高尾善希氏や、多摩地域を中心にしてたいへん面白い論考を重ねている漫画描きの
ブログで取り上げられている。

さて、この時中心に立った人物は「北野村の金五郎」という「博徒巨魁」であった。
金五郎はなかなかの人物だったのだろうが、このすぐ後、博徒同士の喧嘩で命を落とす。
資料も逸話も多くは残っていないが、かすかな資料を便りに調べを続けていけば、あるいは意外なことが見えてくるかもしれない。

886 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:51:52.83 ID:QxNuIb+v0.net
「漫画描きの」ではなく「漫画描き様の」 だな。

887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/23(木) 23:44:49.00 ID:mS15JqDf0.net
五代目・神田伯山に「御家人桜」という講談がある。と、こう書く由来はインターネットに
神田松山という方が貴重な五代目の講談を挙げてくれているからなのだが、
この「御家人桜」、非常に興味深い話が要所に盛り込まれている。

例えば藤屋万吉を大前田栄五郎と並べて、「関八州の日月」とまで持ちあげている。
更には
「この藤屋の萬吉という人は、常陸の栄助という侍くずれの旅人に、四十二歳の厄年に、六社明神の、けやきの、並木道で、
殺されたのでございます。もう十年も長く生きてえればこの人は、大前田に負けないようなりっぱな貫禄になれたものでございましょう。」
とも言っている。

小母澤などは、万吉をひどく量見の狭い人として捉えているが、随分違う。
さらには、万吉が人手にかかって惜しくも殺害されたことを明確に物語っている。(上でも記したがこれはほぼ事実である。)

実際、この講談で鐘を鳴らす藤屋万吉の姿は、実に渋く心の行き届いた良い役どころである。
また彼に娘が一人いたことも、これも事実。そして彼女は随分つらい憂き目にあったらしいこと、
史料からは追えぬが、これも事実に基づいているようだ。

888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 00:12:18.17 ID:4i5ll/H90.net
新鍛冶 榎本新左衛門

889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 22:55:43.66 ID:4i5ll/H90.net
新門の頭・辰五郎について
「弱者には強く、強者には従う卑劣漢が、彼の本質である」のような書き方をする
ものをよく目にするが、
この見方自体、田村栄太郎の一見解にすぎない。その後翻刻が刊行された『藤岡屋日記』
や『浅草寺日記』を調べれば、田村の見解も的を得ていないことは一目瞭然である。

それならば子母澤寛や、その後の優れた物書きによって、好意的に解釈された侠客・辰五郎の
姿を受け入れておく方が態度としては望ましいと、私などは思う。

890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 22:59:48.51 ID:4i5ll/H90.net
かつて老人介護施設で、
浅草生まれのおばあさん、今生きておれば110歳くらいの方とよくお話したが、
「新門の辰五郎さん、は偉い人よ」とよく言っておられた。あと鼠小僧次郎吉も、
少し、呆けておられたが、私はあの人との会話は非常に楽しかった。

そう言う彼女の語る逸話の中の辰五郎頭は、やはり「侠客」として、話を聴く者の心の中にも残っていく。

891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/01(水) 17:38:23.20 ID:IL1KDSjp0.net
豆州下田・本郷の金平は、本名由五郎(由蔵とも)と言う。
文政3年に下田の百姓藤右衛門の次男に生まれた。何の理由か、9歳の時に那賀郡江奈村
の百姓甚右衛門の家に養子に入ったが、20歳の時にぐれて家を飛び出し、実家に戻って来た。
当時既に父は亡くなっていたが、一家を継いだ兄藤右衛門(幼名・竹次郎)が出来人で
由蔵を匿った。「弟が真人間になったら人別帳に加えてやろうと思っていたためで」
と答えたことが、当時の役人の調べにも書かれている。

その後、菩提寺である海善寺の住職に助けられ、僧籍を名乗ったりしたこともあったが、
生来の元気さは押さえられることもなく、
大場久八に見込まれて、遂には東海道筋有数の遊侠の徒となった。

892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/05(日) 21:57:26.90 ID:3OZ9p14p0.net
『藤岡屋日記』の文久二年の項に「コレラ獣」の話というのがある。
武州多摩の諸地域(中藤、三ツ木、谷保)などでコレラから回復した人の家から
イタチのような獣が逃げて行くのが度々目撃された。
実は、この獣こそコレラの源であるとされ、三ツ木村では一匹が棒で打ち殺され、
しかも三ツ木村平十郎なる者が、これを「喰った」とされる。
平十郎の感想では肉は意外に美味であったとのこと。

問題はこの百姓・「三ツ木村平十郎」だが、多分実在の人物で、しかも名の知られた侠客のようである。
確かに、そういう肚の座った人でもなければ、未知の獣の肉は食わぬだろう。

893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/05(日) 22:17:18.41 ID:3OZ9p14p0.net
この三ツ木という地域は文政期には既に三ツ木丹次郎と言う親分がいたらしく、
天保の中期には、丹次郎宅は「中国地方出自の博奕打」らに鉄砲で襲撃され、
近村が甚だしく動揺した、との記録だ現れる。
明治になると、また相撲取り上がりの三ツ木の某という悪党が跳梁した。

894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:35:42.39 ID:OFUrxSnl0.net
江戸時代後期から使われていた言葉に「内会師」(内会仕とも書く)がある。
これは「表向きは博徒ではないが、素人たちと密かに博奕に携わる者」のことを
示す。
要するに親分を持たぬ、半可な博奕打ちのことである。
ただ、八州回りや組合惣代の旦那方からは、本物の博徒よりも始末に困る者として
マークされていたようだ。 其の手の史料にはしばしば唐突に登場する。
また芝居などでもよく使われる。 反対に辞書ではなかなか出てこない言葉だ。

895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:41:34.36 ID:OFUrxSnl0.net
同じく「市切」という言葉もよく使われる。
これは大都市を中心に「市」が開かれた日に会わせて行われた大賭博のことで
この日は近隣・遠方から多くの博奕打ちたちが集まった。

大都市ではだいたい「六歳市」という月に6日の市が立ち、大変なにぎわいを見せた。
それに合せて賭場が立つのである。

896 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:59:05.81 ID:OFUrxSnl0.net
土支田の新鍛冶事、榎本新左衛門は名主の次男である。兄が土地の名士榎本常三郎で、
常三郎もまた、古今無双の人物。背丈は高くニ十貫を越える体躯で、腕っぷしは無論、
頭脳も明晰だった。新左衛門が出入りの際には、この町の名士である常三郎も、むしろ
後を押して、共に武器を揃えて、怒声を発したという。

新左衛門は神山の栄五郎の賭場に出入りし、そこで認められ、
栄五郎の親分である大侠客・清水次郎長の目に叶い、そこでみっちり修業を付けられた。

後年博徒狩りで捕縛され、法廷に立った際、顔色も変えず
「富士の山頂から見通しの利く場所は、みな私の縄張りだ」と語り、裁判官一同を
押し黙らせたという逸話は有名である。

897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 23:33:06.51 ID:OFUrxSnl0.net
現・東京都町田市に含まれる場所に、昔で言う「木曽村」があった。
この木曽村の名主の長男に生まれた博徒に木曽の嘉十郎がいる。
赤鬼金平と清水次郎長との喧嘩の手打ちの際に「刀預かり役」を務めた
「橋本の政八」の子分になって売り出した。

この嘉十郎、今までそれ程大した顔役と思っていなかったが、なかなかどうして、
旅の長脇差などは高名を聞き付けて逗留し、嘉十郎もかれらを持て成した後で、助力を要請し、
近隣の博徒達を斬り従えた。その勢力は相当なもので、小金井小次郎遠島中の留守を守った
陣屋三之助とも兄弟分になっている。

898 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 23:35:57.48 ID:OFUrxSnl0.net
ただ、あまりに勢力の拡張が露骨で、腕づくのため「侠客」と呼べるかどうかは疑問が
残る。

隣村の原町田の弥兵衛親分は、彼がいなければ「市」が開けない、とまで
言われるほどの、地元にとっての良い顔の親分だったらしい。

899 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:16:49.56 ID:O10xnTnt0.net
隣国に「甲州博徒」と呼ばれる集団がいることで、武州の博奕打の活動は
地味に見られがちだが、実際そんなことはない。安政から慶応にかけて、
それこそ毎月のように事件が起き、集団の出入りが行われ、親分同士が殺害された。
むしろ甲州や上州よりも規模は大きいのかもしれぬ。
小川の博徒や府中、青梅、八王子の博徒、小野路の集団、入間・比企のそれなど。
詳しく見てゆくとどれもウンザリするような殺伐としたものだ。

900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:26:30.96 ID:O10xnTnt0.net
そんな中、慶応四年に小金井小次郎が帰って来ると、事態が緩やかに変化する。
彼のもとに統一化が図られてゆくのである。
別に小次郎を英雄視するわけではないが、殺伐とした状況が、鎮静化する。
これはやはり彼の器量と経験がものを行ったのだろう。
三宅島に流されてから、刃物をとっての闘争よりも、「人を喜ばせ」自分も喜ぶことに、
彼の思考が変化して行った。その賜物としか思えない。
面白い事に彼が帰って来ると、半ば無頼の殺伐としていた子分たちすら、「侠客」になってゆく。
新橋長蔵や五宿米吉などは、その良い例だろう。
小金井小次郎は、(変に肩を持つわけではないが)やっぱりすごい男だ。

901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:41:34.59 ID:O10xnTnt0.net
『小金井小次郎伝』に記されているが、実際に小次郎(と、その妻ノエ)に会った
講釈師の話だと、小次郎はとにかく上背はあった。押し出しの利く風貌で、
しかし顔は「間の抜けたような」人の良い顔だったと言う。この点
今日残る次郎長の写真のような「圧迫感」や、高萩万次郎のような「鋭さ」とは違っている。

まさにこの点こそ、小次郎の最たる長所だったのではないか。

902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/12(日) 22:00:22.98 ID:7TyQXIXy0.net
府中の藤屋万吉が斬られたのは元治元年の正月二十二日。夜五つ時(九時ごろ)
場所は伝承の通り六所宮(現・大国多摩神社)の並木道だろう。
下手人は三人で、頭・肩・胴の6カ所をやられた。娘が脇を抱えて医者に連れて行き
一応の処置がされた。

以降、府中宿にいては危ないということで、四軒寺(吉祥寺)の藤蔵の下で介抱されたが、
回復せず、同年六月二十八日、遂に鬼籍に入った。
戒名の「勇道帰本居士」が示すように、島から帰って、一度は返り咲き、その後亡くなったようである。
色々説はあるが、やはりすぐれた親分であったと思われる。

903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/12(日) 22:31:19.70 ID:7TyQXIXy0.net
祐天の仙之助は、講談等で言われる元紺屋町の行蔵院(こうぞういん)の生まれではなく、
そこより、西へ一本道をずらした元柳町の清長院に生まれた。
法名は「由天」(「宥天」とも)と書くのが正しい。安政6年還俗して、僧籍を捨てる。

その後「清長院仙明」という人物が修験としての跡を継ぐが、あるいはこれは
仙之助の倅である可能性がある。

904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 18:31:39.61 ID:CFnaJoj/0.net
牧太郎の大きな声では言えないが… 「義〓心」という教育
(毎日新聞 東京夕刊)
http://mainichi.jp/articles/20170313/dde/012/070/004000c

> 「利根の川風、袂(たもと)に入れて、月に棹(さお)さす高瀬舟」の名文句で始まる「天保水滸伝」。

> 主人公の繁蔵は子供の頃から漢学や数学を著名な師について学んだ秀才だが、
> 体が大きく、巡業に来た江戸相撲の千賀ノ浦にスカウトされる。
> しこ名は「岩瀬川」。
> 力士を廃業してからは、故郷の下総・笹川(千葉県東庄町)に戻り、博徒の親分になった。

> もう一人の主人公・助五郎も力士上がり。
> 飯岡(千葉県旭市)を縄張りにする博徒でありながら、
> 関東取締出役の案内人として「十手を預かる二足のわらじ」だった。
> 当時、弱体化した幕府の治安警察の役割をやくざが代行するケースもあった。
> 浪曲では「権力」を振りかざす助五郎は嫌われ者だった。
> 天保15(1844)年、両者は衝突する。
> この「大利根河原の決闘」は繁蔵の圧勝に終わるのだが、
> その数年後、繁蔵は助五郎の闇討ちにあい殺害される。

> 実は、主役以上に人気を博した男がいる。
> 繁蔵の“一の子分”の勢力(せいりき)富五郎である。
> 「二足のわらじ」の助五郎と「関東取締出役」という警察権力に徹底的に抵抗する。


それはそれとして「?」が環境依存文字で使えないなら「侠」に置き換えればいいのに

905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 18:34:39.44 ID:CFnaJoj/0.net
上の記事引用で下駄
いちゃもんで「?」になってるのは
「人偏+夾」ね

906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 23:17:09.42 ID:rjRY+sHu0.net
私は、その旧字こそが「侠」の本質を示していると思います。
この字は、全てが「人」から出来ており、しかも二人の人を小脇に抱える一人の人間の姿を現している。

人は社会の中に生きる動物ですが、
その中でも侠者は自らの不利を顧みず、他人を懐に匿い、守る者であることを示しているのでしょう。
その生き方は今の時代に反し、また全く得るところの無い損な役周りばかりかもしれないけど…
庶民が理想とする人間の在り方の一つなんじゃないかな、と思います。

907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/18(土) 23:34:48.23 ID:o7ePAlgi0.net
一ノ宮万平事、杉本万平親分の墓は、一ノ宮の真明寺無縁仏墓石群の中央に建つ。
墓石には大塚勘五郎、東中野才次郎(小才次)といった万平腹心の大親分と
関戸長兵衛以下の直参クラスの名が刻まれて、一緒に供養されている。
施主の名は無いが、まず間違いなく万平子息の藤三郎と八王子の亀吉(伊野亀吉)の連名だとされている。

以前は気づかなかったが、墓群の中に万平だけの墓と、藤三郎の墓があることがわかった。
前者は残念ながら墓石の位置から、施主がわからないが、後者は施主がはっきりとわかる。
「伊野亀吉」と「永井忠吉」の名が刻まれている。

亀吉は有名なそば亀の事。忠吉は不明。

908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/20(月) 20:57:11.42 ID:VXF8yA8f0.net
極めておおざっぱな分け方であるが、文久年間から先の東海道筋の仁侠史は
次郎長派と勝蔵派とに二分される。

次郎長派は、小俣周太郎、大和田友蔵、寺津馬之助、長楽寺清兵衛、和田島太右衛門、国分三蔵、小金井小次郎、高萩万次郎など
勝蔵派は、大場久八、丹波屋伝兵衛、雲風亀吉、宮島俊蔵、堀越藤左衛門と言ったところである。

909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/20(月) 21:12:38.87 ID:VXF8yA8f0.net
ここで注目したいのは武州の動向である。
駿州にも宮島俊蔵(吉原宿)という異端の勝蔵派がいたが、
小金井一家や高萩一家に代表されるように一見完全に「親・次郎長派」とも見える武州にも強力な勝蔵派がいた。
慶応年間、甲州藤之木村で警吏を殺した黒駒党の逃亡者十数人を匿ったのは、橋本村(相模原)、木曽村(町田市)の
「平野屋」一派である。
頭の平野屋政八は丹波屋伝兵衛の腹心。更に政八の子分・木曽の嘉十郎は、
当時八王子の道案内頭になったばかりの岡引親分・永戸屋和三郎(元、所沢道案内)に急接近する。

この働きかけにより、甲武州間の大動脈である甲州街道の、要衝「八王子」に親・勝蔵派の一拠点が生まれたと考えられる。
よって、この地で親次郎長派の小金井小次郎や、国分三蔵弟分の御殿伝蔵が捕まったこと。
また後年丹波屋伝兵衛が居住することになること等、この時の動向に無関係ではないだろう。

910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/21(火) 22:50:53.75 ID:Ure4hPkb0.net
川越藩には「松平大和守日記」という史料がある。これは藩内の人事、事件、褒章など雑多な
情報を記したものだが、川越藩自体、武州川越、江戸藩邸、前橋陣屋と複数の要所があるため
年代・時期によって記録地が異なる。
興味深いのは、褒章や事件記録の際に、川越藩の目明しの表記がまま記されることである。
「関口栄次郎」すなわち大前田栄五郎義弟の福田屋栄次郎は、伝承の通り、
前橋の目明し頭をしていたことが、これで判明する。

911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/21(火) 23:23:10.04 ID:Ure4hPkb0.net
「赤城録」の中で、栄五郎を「前橋の頴五」とも「川越の頴五」とも書くのは、ここに依拠してるのではないか。
浅田晃彦の『上州任侠大前田英五郎の生涯』では大前田栄五郎自身が「武州川越」に居住していたことを
上の記述に拠って推測しているが、事実は多分違っていて、
おそらく上州で勢力を構え、川越・前橋藩の十手を受け持っていたのだろう。
そして、後年になって十手業を栄次郎に譲った。
そう考えると辻褄が合う。

912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/27(月) 22:07:45.81 ID:m5durtBg0.net
「伊藤好一」という学者の名は、関東近世の文献を当っているとよく目にする。
すでに98年に亡くなられているが、この方が掴んでいた近世後期、幕末期の農村部の状況や
社会制度の知識は追随する者がいない。
特に関東取締出役や改革組合村についての理解は、今日の誰も及ばないのではないか。

農村の日記や、各地方史の編纂など、この人が関わっていないものを探す方が大変なくらいだ。
岡引や無宿博徒の者についても、多大な知識をもっていたことが、そこここの書き物から
散見される。しかし一冊にまとめることなく亡くなってしまわれたことが実に残念だ。

913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/27(月) 22:17:10.53 ID:m5durtBg0.net
増川仙右衛門

914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/28(火) 00:47:43.31 ID:NBK0DdCr0.net
人模様 幕末・明治、熱い男に魅せられ 伊藤春奈さん
http://mainichi.jp/articles/20170327/dde/012/070/012000c

> 幕末期のノンフィクションものを中心に執筆を続けているライターの伊藤春奈さん(39)が
> 新著「幕末ハードボイルド」(原書房)を出版した。

> 立命館大在学中からライター活動を始め、歴史ものを中心に書籍・雑誌の企画や執筆を続けている。
> 前作は出身地の長野県伊那市ゆかりの博徒「伊那の勘太郎」の実態に迫った。

> 今作は対象を広げ、幕末動乱から明治初期に生きた熱い男たちを取り上げた。
> 新選組や高杉晋作の奇兵隊などは有名だが、それを陰で支えた博徒や〓客(きょうかく)、無名戦士がいた。
> 彼らこそが法外で面白い。

> 例えば後年、大阪で「老〓(ろうきょう)」と呼ばれた小林佐兵衛は、
> 私財を投じて町の火消し活動に燃えた「親分」だった。

915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/04(火) 22:59:07.72 ID:hNi0U6qb0.net
上でもいくつか触れた「田中屋万五郎」について
『くにたち郷土文化館研究紀要 No.8』(2017、3)
に、短いけども、数々載っています。

こういうのは…良いのかわからないけど…
何より親分のことが周知されることが第一なんで。
一寸お許し願います。

916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/09(日) 23:23:25.99 ID:UG0U0CZP0.net
一ツ谷の浅五郎(浅太郎とも)

917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/11(火) 23:56:49.91 ID:Ae3fz3S40.net
『古老の語る田無町近世史』(町史を聞く会 編)という本がある。1957の物で、手書きである。
しかし内容は豊富ですばらしい。

・「稲荷の増五郎が当町の幹部であった。」
・「小次郎の兄弟分が増五郎であり、増五郎の子分が徳蔵である。」
・「小金井小次郎が徳蔵親分の所へ年老いてから、”ツエ”をついて遊びに来た、という事は
  よく聞いた。徳蔵親分が、神奈川へ出かける時は、何度も送り迎えが大変であった。
  これを小次郎が聞いて驚いたそうである。
  亦境界に浅五郎がいて、その人が長生きしたのでその家に遊びに行った。その後
  ”孫さん”というのがいて、博打を渡世に過ごしたという。(中略)
  通称孫小僧は前科13犯であった。

918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/15(土) 11:15:11.44 ID:OWVQbIOC0.net
増川仙右衛門

『東海遊侠伝』だと巻之四、第十回。いわゆる「菊川の手打ち」(次郎長と金平の和議の式)
が初出だろう。

登場と同時に次のような小文字の解説が入る。

「駿州増川ノ産、佐二郎の子ナリ。佐二郎遊侠ヲ以テ聞フ。後チ数年、金平ノ党、竹之助、民五郎、力松、
 亀吉等、十六人、襲テ之ヲ殺ス。仙右乃チ走テ長五ニ依リ、以テ声援トナシ、竹之助等数人ヲ殺シ、
 遂ニ長五ノ家人トナル」

おおよそ、彼の前歴を知るには十分な記録である。
 

919 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/18(火) 23:31:42.11 ID:syqMS+tm0.net
今の時代は長谷川伸や子母澤寛の頃よりも、遊侠の文書史料が手に入れやすい時代であると思う。
そのことは、90年代よりも更に簡易になっていると思う。
情報ネットワークの発達に拠るものだ。

しかし、それに奢って「足」を使う研究を止めたら、途端に、史料の中の遊侠たちは
姿をかくしてしまうだろう。

920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/18(火) 23:39:15.99 ID:syqMS+tm0.net
慶応2年 黒駒勝蔵、平井の雲風、駿州宮島俊蔵人相書き

一、中丈ニ而色白し    甲州東郡黒駒無宿 勝蔵 年三十四歳

一、大男ニ而色黒く惣髪ニ而前歯壱本なし  三州平井無宿 雲風 年四十余り

一、中丈ニ而色白く髪毛少し        駿州宮嶋無宿 本名市蔵 歳蔵 年四十余り

921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 07:35:09.01 ID:SeWgsz5s0.net
幕末 裏舞台 品川宿のアウトロー 逸話紹介
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201704/CK2017042202000135.html

922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 15:45:13.28 ID:zVSG8Psv0.net
往時の間取り再現へ 改修中の清水次郎長生家
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/351563.html

> 幕末・明治の侠客(きょうかく)清水次郎長(1820〜93年)の生家
> =静岡市清水区美濃輪町=の保存に向けた改修工事で、
> 天井裏に残されたすすや柱の痕跡から、次郎長が生まれたころの間取りが明らかになってきた。
> 改修に当たっているNPO法人「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」は、
> 地域の観光資源として往時の姿の再現を目指す。

> 同会会員で工事責任者の伊藤貴広さん(40)=焼津市=によると、
> このほど、柱の痕跡から現在の土間に部屋があったことが分かった。
> 天井撤去後に現れたすすで黒くなった壁から、もともと天井はなく、かまどがあった場所と推測できるという。
> 「町屋は改修を重ねることが多いが、履歴の資料が残っていることはほとんどない。
> 次郎長生家もかなりの頻度で手が加えられていたことが分かった」と伊藤さん。

> 改修は、次郎長が生まれた当時の間取りをもとに、
> 生活やリフォームの痕跡をできるだけ残しながら、
> バリアフリーや耐震性などにも配慮して6月末の完成を目指す。
> 同会の牧田充哉会長(静岡市清水区)は
> 「次郎長の人物像やまちの歴史を多くの人に発信する拠点にし、
> 清水港周辺をにぎやかにしていきたい」と改修を待ち望む。

> 生家は雨漏りやシロアリの被害、建物の傾きなど老朽化が激しく、
> 1月に修復、改修工事を始めた。
> 工事費用は募金を中心にまかなわれているが約300万円不足しているため、
> 同会は今後も募金活動を続けていく。

923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 21:32:52.83 ID:pxn3ZYGO0.net
俗に言うところの「平井の事件」について。
雲風の所に逗留していた黒駒勝蔵を、次郎長一派が急襲したのは
「元治元年」という事が定説になりつつあるようだが、これは「文久3年」が正しい。

またここで「大岩・小岩」が死んだことになっているが、
実はどちらも死んでない。(ただし黒駒側が敗北し、子分五名が殺害されたのは事実である。)

924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 22:29:42.85 ID:pxn3ZYGO0.net
随分前の書き込みで(587)で足利市寿徳寺にある江戸屋一家の碑の、
「玉吉」の部分を「慶応3年 勢州立野町戦死」と迂闊にも訳したが、よくよく見れば
「慶応2年 勢州立野町戦死」が正しい。

そしてこのことは荒神山の戦い(慶応2年4月8日で確定)の後、
安濃徳が「罪ヲ玉吉ニ帰シ、遂ニ之ヲ斬リ、其首ヲ以テ謝」した事と無理なく繋がる。
依って江戸屋一家碑にある玉吉は、「館林の玉吉」その人で間違いなく、
同時に、この碑文に記された人物の没年は、かなり正確であることが窺いしられる。

925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 22:33:57.04 ID:pxn3ZYGO0.net
とすれば穂北の久六も
「安政2年6月1日 尾州葛郷大川村(知多郡乙川村)戦死」が正しいように私は思う。

926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/25(火) 21:12:39.59 ID:D5S8XmSq1
明治4年に黒駒勝蔵事 池田勝馬が供述した、通称「口供書」は少なくとも勝蔵本人が
関わった箇所に関しては、たいへんに正確な史料で、他史料からその事実を確認することができる。

唯一曖昧なのは、自分が駿河にいた時分に起きてしまった安五郎(吃安)召捕りの一見部分だけだ。

927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/25(火) 21:24:08.23 ID:D5S8XmSq1
上記を踏まえた上で、元治元年三月十三日、十五日の「国分三蔵屋敷」ならびに「勝沼祐天在所」
を襲撃した記録を見てみると、
「祐天在所」の勝沼宅(地元では風呂屋と伝わる)へ向かった人数は
勝蔵(本人)、塩田村玉五郎、北八代村綱五郎、成田村岩五郎、中川村岩吉、上万力村森太郎、八代北村猪之助、
落合村角太郎、国分村乙吉、東花輪村乙吉、駿河吉原坊主勝、遠州掛川万平、森の秀五郎、信州喜十郎、その他8名
とあり、「成田村岩五郎、中川村岩吉」(所謂大岩・小岩)がどちらも健在であったことが判明する。

要するに三州平井の共同墓地にある「大岩」との名は一体誰なのだ、ということになるのである。

928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/28(金) 20:41:21.19 ID:oHfjj1oDY
訂正する。
一周回って、やっぱり「大岩」は平井の事件で討ち死にしていた。
ただし、彼は「成田村岩五郎」ではない。

929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/28(金) 21:09:25.36 ID:oHfjj1oDY
先日からウチのPCではいつも書きこんでた「侠客の歴史」に書きこめなくなった。
そんなわけで、こっちに書く。

930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/01(月) 21:57:03.20 ID:exm6+hr2p
宮島の俊蔵と並ぶ吉原宿の親分に「本市場の金七」がいる。あまり評判のよくない
博奕打ちであったことは、上でも記した通りだが、残忍な逸話ばかりが残るゆえに、
却って真相が知りたいものだ。
ところがこの金七の実在資料がほとんど見つからないのである。

931 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/01(月) 22:08:11.18 ID:exm6+hr2p
唯一彼の事だと思える資料は、長谷川昇先生が著した傑作『博徒と自由民権』に
紹介されている、「愛知県史料」に記載された明治3年の記録だけではないだろうか。
これには帰島後の侠客原田常吉の宅に、食客として滞在していた中山の七五三蔵の命で、
殺人を行った者として「駿州の金七」がおり、同じ同士に駿州の重吉(宮島俊蔵)がいることから
まず間違いないと思われる。

七五三蔵に関しても、実際の彼は、子母澤寛氏の描いた物語に登場するような老翁ではなかった。

932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/08(月) 23:06:24.48 ID:gDmGSRJnD
黒駒勝蔵身内の大岩・小岩
一般的には大岩が成田村岩五郎。小岩が中川村岩吉とされているが、
実はこれは逆である。
大岩事中川村岩吉は、文久三年6月5日(7月かも)の平井の襲撃で命を落とし、
小岩事成田村岩五郎(岩蔵とも)は慶応2年8月、山崎の刑場で斬罪に処せられた。
後者戒名は「成岩禅定門」

933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/08(月) 23:12:51.88 ID:gDmGSRJnD
この他、黒駒身内には「大音」「小音」という者もいた。
一の子分の塩田村玉五郎は小田原の出で、本業は髪結いであったと伝わる。
貧しいため早死した女房の葬式を出してやれなかった時に、勝蔵が訪ねて来て、自ら墓を掘ってくれた
のに感激して身内になったという。勝蔵より五歳ほど下だった。

玉五郎、背は高く、色白で頬に十センチ程の疵があった。

934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/09(火) 23:50:31.38 ID:3StAKO5tI
遠州横須賀は、都田の兄弟が拠点にした町で、広い海を眼前に持つ海港都市でもある。
ここには、また「大鳥」という名の相撲上がりの親分がいたとされる。
『遊侠伝』では黒駒勝蔵が逗留したと言い、明治にはいってからは黒須大五郎が、彼(大鳥)を頼り、ここに隠れたという。
大鳥、仔細は不明。しかしながら横須賀は、巨大山車を用いた、全国に類を見ない記載や、エキゾチックな凧が飛ぶ。
更に今日では、海岸の風を受けて、巨大な風車が発電の目的で、幻想的に回っている。

935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/10(水) 22:28:13.99 ID:49MSuq9m1
ウィキペディアは一種の事典なのだろうが、「黒駒勝蔵」のそれは、
本道に当る大事な部分は抜け落ち、周辺部分だけが過剰に盛られていて、何を言いたいのか
さっぱりわからぬ。
しかし世間的には影響力の多い媒体なので、タチが悪い。

936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/10(水) 22:40:37.87 ID:49MSuq9m1
吃安と共に新島を抜けた者に角蔵という人が居る。彼だけは新島の手配書に出身地が描かれていない。
しかし、他の地域に回った手配書によると、伊豆多田村とある。
また丹波屋角蔵とする資料もある。つまり彼は伝兵衛の身内、または親戚の一人であったようだ。

937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/11(木) 12:54:50.44 ID:Y9J/G7LnV
935
また夜に、酔って馬鹿な事を書いたようだ。訂正する。
ろくに読みもしないで。愚か者は自分のほうだ。
黒駒勝蔵の項、精読してみれば、いくつか誤りはあるが、現状十分な内容になってる。

938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/12(金) 22:13:27.42 ID:yR0JJaHwI
東京都立川市の、とある高校と隣接して愛宕神社がある。この神社境内に
長方形の白い石が建っているのだが、これが「博奕神様」。
博奕打ちが勝負の前にお祈りに来たのである。伝承では小金井小次郎の子分が建てたことに
なっているが、実際には小次郎と敵対した八軒の栄次が最初に祭った。
栄次は別名初次郎、または栄次郎とも云う。更に八軒新田は芋久保新田とも呼ばれたので
「芋久保の栄次」とも彼は表記される。一時は五日市街道、砂川一帯の親分だった。

子分には田堀の権蔵、そば屋の某、剣術の達者、清水さん兄弟などがいた(らしい)。

939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/17(水) 22:58:40.14 ID:GDfii3VTF
「講談師、見て来たような嘘を言い」等と言われるが、明治の咄家は本当によく研究して、
演目を作っているので、時にそれは民俗資料と言っても良いくらい、豊かな史料的価値を残してくれている。
上州の「相ノ川又五郎」を演った松林太琉は、次の様な貴重な聞き書きを演目の端に組み込んでいる。

「伊勢の国の男でありまして山田妙見町丹波屋の伝兵衛というがあります、之は通名でありまして、
まことは半田屋の竹之助というのであります。この人は伊豆の生まれの人であります。18歳の時に故郷で賭場の上で喧嘩をして
人を殺して伊勢へ流れて行って、伊勢の山田の丹波屋という旅籠屋の家に居て、その家の娘さんの亭主になりまして、
半田屋の屋号を名乗っております。この伝兵衛さんと言う人は、明治26年秋、武州多摩郡八王子で亡くなりました。
今はこの人の孫さんが、京橋区五郎兵衛町に鳶の者の女房になっております。
一時は、この位の親分はありません」

五郎兵衛町は今の八重洲の二丁目だという。伝兵衛が「半田屋竹之助」であったこと、伊勢の丹波屋へ婿入りした事など、
この記録は有用な情報を提供してくれる。精読はしていないが、この講談(明治31年出版)は読み方によって、
得るところが多いだろうと思う。

940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 21:53:24.60 ID:Q6Djuoqui
新茶屋村ノ増吉

941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 22:58:39.97 ID:Q6Djuoqui
黒駒勝蔵が後年赤抱隊に入り、勤王の志士となったことの発端として
土佐の郷氏・那須信吾が関わっていたとの咄がある。当時黒駒に「幾之進」という
浪人が厄介になっていて、彼が那須の変名だと言う。

だが、多分これは「市之進」の事だろう。勝蔵と行動を共にした剣術家に「市之進」と「富さん」という
武家が居た。市之進は若く上背があり、富さんは年寄りで小さかった。だが、どちらも剣は相当に使ったそうである。
市之進は慶応まで生き残ってるから、那須信吾云々の咄は、多分誤りだろう。
ただし「山県小太郎」は確かに勝蔵と関係していた。

942 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 23:30:14.40 ID:Q6Djuoqui
東京都東大和市の『里正日誌』翻刻、最新刊(明治6年)に、多摩郡神山村の
栄五郎の資料が随分豊富にあったのは嬉しいかぎりだ。
古くは子母澤寛がエッセイに書いた彼であるが、今回は人相書きに加えて、動向もまた記されていた。
(なお人相書は『武蔵野市史史料』に既に翻刻済みである)

栄五郎は小勇ノ米らと共に、南秋津不動(現・秋津神社)の賭場に顔を出し、そこから方々の
親分衆の元を訪れ、路銀をもらってあるいた。野口の源蔵、同所の平蔵、中藤の増五郎(田中ノ定右衛門の倅)、師岡の孫八ら
の名前が現れ、彼らが確かに親分衆であったことが窺われる。

惜しい事にはこれで、日誌自体が打ち止めという事実だ。

伝承では栄五郎は陣屋三之助と喧嘩し、其れが元で所沢の力山に、竹丘(清瀬市)の妾宅で入浴中に
斬りたてられ殺されたという。
次郎長の子分で、大政の兄弟分だったために、盛大な葬式が行われた。
墓石に施主・清水湊の山本政五郎とあることは今日でも確認ができる。他に子分が多く名を連ね、
何故かライバルだった陣屋の一家も名を刻まれている。

943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 21:43:14.95 ID:z001Qe/xo
遠州中泉代官を務めた林鶴梁先生は人格者で、自身大変な学者。とくにその漢文は優れ
夏目漱石なども、若い日にはそれを暗唱したという。
先生の「鶴梁日記」は当時の文人のネットワークや、医療、そして遠州代官所の様子がわかり、
とても面白い。

まだ目を通したにすぎないが、代官所の手先として「山梨巳之助」の名が出てくるのは、
意外であると同時に驚いた。
巳之助は、別に「友吉」の名を持ち、袋井宿から二川宿まで広く顔が聞く存在だった。
その利点を買われ、鶴梁から目明しのような役目を与えられている。

この他、同日記は博奕打ちたちの鎗・鉄砲を用いた出入りの記録も留めている。よって本日記は
仁侠史を研究する上でも、第一級に有用な史料であることは間違いない。

944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 21:49:14.53 ID:z001Qe/xo
また「戸塚彦介」という当時江戸第一と言われた柔術家の弟子として、
『鶴梁日記』には田中軍之介の名が記録されている。
軍之介は、後の犬上郡次郎のことだ。

新撰組の篠原泰之進も、かつては戸塚先生の道場に居候をしていたというから、
あるいは二人は面識があったかもしれぬ。

ちなみに高杉晋作は、その稽古録の中に、武術の達人でありながら奇人でもあった
犬上郡次郎の風聞を書き留めている。

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