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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 22:52:32.22 ID:C8l9BcMN0.net
先日偶然目にする事が出来ましたが、
「桶屋長兵衛」さんの情報元は稲田郷土史家の「あゆたか」(16号)ですね。

これは知らなかったけど、素晴らしい研究誌です。
ちなみに33号掲載の、近藤勇の姪の話も興味深いです。

871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 22:57:07.38 ID:SAgMChsa0.net
>>870
その件は目下調査中ですので、
できればネタバレ無しでお願いします。

872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 23:10:26.45 ID:C8l9BcMN0.net
しつれいしました。

埼玉県新座市に
平成2年まで活動していた機関紙「にいくらごおり」というのがある。
この21号に「慶応4年、監察見聴誌」というのが非常に面白い。

白子宿の亀屋清吉方に探索方の役人が逗留していた際、土地の親分である「新倉の由五郎」
から「心付け」が届いたと記されている。由五郎なる親分は知らぬが、きっと和光市周辺で幕末に
勢力をもった博徒だったのだろう。

873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/17(金) 23:41:43.72 ID:IUI3nn7T0.net
「日本史」に関して、自分の概観を挙げると、
大事なのは1192と1600だけで、
1192、すなわち鎌倉時代より前は「古代」
1192から1600(関ヶ原)までが「中世」
以降が「近世」で良いのではないかと思う。色々異論はあろうが、二つの年号を覚えるだけで
日本史の一番重要な文化変容を窺い知ることができよう。

で、博奕打ちはだいたい1800〜1900の間に置くことができるだろう。

異論は幾らでも受け付ける。

874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/17(金) 23:52:25.11 ID:IUI3nn7T0.net
「鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、
此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、
最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。
此が侠客の最初である。」

上は柳田國男と双璧を成す民俗学の重鎮、あるいは親・折口信夫(しのぶ)の言であるが、
若干上から目線はあるが、本質的には結構興味深い推論ではないだろうか。

875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/18(土) 08:14:02.53 ID:F0mbO/cv0.net
…毎回ながら週末の夜になると、なんて馬鹿なことを書きこむのだろう。本当にすみません。

876 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:09:50.97 ID:nCk9a+XK0.net
高萩の万次郎の居宅である鶴屋は「上宿」ではなく「下宿」にある。
よって宿内では「下宿の万次郎」で通っていた。
この点はいつか誰かが間違いを指摘しないといけないのだが…

877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:14:21.71 ID:nCk9a+XK0.net
同じく武州の侠客で
小川幸八から小川幸蔵に代替わりするに際しては、間に恋ヶ窪彦太郎という人が入る。
彦太郎は幸八の妹を内縁の妻に持った。

彦太郎、もともとは幸八兄弟分の「上鈴木の平親王」の子分に当る。明治6年捕縛され
斬首か病死か、いずれ落命した。平親王の家の墓域に、彦太郎の墓が建っている。
本当に真四角の形をしている。

878 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:15:56.67 ID:nCk9a+XK0.net
間違い。明治6年ではなく、安政6年。
ちなみに平親王(名は平五郎と伝わる)は明治2年死亡。倅は軍次郎。

879 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:36:41.73 ID:nCk9a+XK0.net
三鷹の上連雀に「上連雀の嘉助」という親分がいた。
実在の人で、小金井一家の陣屋三之助の喧嘩には、この人が仲裁に入って事無きを得ている。
それ程の貫禄であり、若い頃は小次郎とも幾度か事を構えた。
生業は博労であったと伝わる。残念ながら家が特定できないが、私はこの地域の旧家に居た
「安太郎」という人だと思う。(姓は伏す、が調べればわかるだろう)

880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:43:04.01 ID:nCk9a+XK0.net
安太郎は幕末期の人で土木をしていたと言う。
この人、台場の工事に駆り出され、手下を連れて参加した所、工事後に
千両箱を褒美としていただいた。しかし、そっくりそのまま何かの間違いだと言って
お上に返したとの逸話が伝わっている。

この逸話、かの大場久八の逸話とそっくりである。そのような訳で、安太郎を伝説の連雀嘉助である、と見たい。
確証はないが、これは当ってると思う。

881 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:58:58.21 ID:nCk9a+XK0.net
小金井小次郎は一般的に、出自の小金井から南に勢力を伸ばしたとのイメージが強い。
すなわち、神奈川にかけて縄張りを広げた。戸羽山翰は「神奈川」の博徒として
小次郎を挙げてるくらいだ。
しかし三宅島に流される頃の小次郎が、手紙をせっせと送った先は青梅や飯能など、北に多い。
これは多分、高萩万次郎の勢力圏に関係するのだろう。

これは確証はないが、やはり最初に小次郎が親分と頼んだのは、府中藤屋の和十郎(初代、別名平蔵)だろう。
万吉は兄貴分に当る。次いで、一ノ宮万平を叔父貴分にして親しく交際し、
長じては高萩万次郎に世話になったのではないか。

今川徳三は何かの著作で「侠客を地で行く男」と小次郎を評していたが、これはその通りで、
彼自身も手紙の中で言っているが、「周囲の人の歓びが自分の利益と繋がることを重視」していた。
実に明晰な人物であると思う。

882 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:19:39.59 ID:QxNuIb+v0.net
武州入間郡の「黒須大五郎」に関しては、彼を有名にした
高谷為之の新聞小説すら幕末期の大五郎の実情を誤って伝えているので、
今さら修正の仕様がない。
大五郎は明治20年代の「侠客有名鏡」では小結に挙げられるほどの大物だが、
明治元年〜5年までの履歴以外正しくは伝えられていないのだ。元年〜5年までは
雲霧仁左衛門顔負けの怪盗ぶりを確かに示した。

883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:26:12.24 ID:QxNuIb+v0.net
実は幕末期に於いて大五郎は甲州博徒(黒駒一家、若神子一家)と盟を結び、
関東を荒らして廻った。
一般に言われているように「八丈島に籠って生業を営んでいた」のではない。
武州の遊女屋から気に入った遊女を盗み出し、ハーレムを拵え、抜き身・鉄砲で武装して
名主や豪商の財産を狙った。
文久元年、甲府で役人に囲まれ、アクロバティックに逃げ回ったが、御用弁になり、
以降御一新まで8年近く、牢内に収監されていた、というのが実情である。

884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:31:56.01 ID:QxNuIb+v0.net
上でも聞き書きで記したが、最期には狭山丘陵にあった御仕置き場で斬首されたようである。

狭山丘陵というところも、特記すべき場所で、多くの貸元・博奕打ちの巨魁が
存在していたようだ。暗く、神聖な山間部で、商業都市とも近いという点が
関係していたのだろう。

885 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:50:17.16 ID:QxNuIb+v0.net
明治元年辰年、幕府瓦解の混乱期に狭山丘陵では博奕打ちたちが集まり、
ちょっとしたデモを起こした。彼らは周辺の農家に炊き出しを要求し、人足までそろえた。
その目的が停滞した経済を循環させてほしい(つまり質店の営業を円滑にしてほしい)という
ことだったというのは恐れ入る。ソースは「里正日誌」。

このことは高尾善希氏や、多摩地域を中心にしてたいへん面白い論考を重ねている漫画描きの
ブログで取り上げられている。

さて、この時中心に立った人物は「北野村の金五郎」という「博徒巨魁」であった。
金五郎はなかなかの人物だったのだろうが、このすぐ後、博徒同士の喧嘩で命を落とす。
資料も逸話も多くは残っていないが、かすかな資料を便りに調べを続けていけば、あるいは意外なことが見えてくるかもしれない。

886 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:51:52.83 ID:QxNuIb+v0.net
「漫画描きの」ではなく「漫画描き様の」 だな。

887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/23(木) 23:44:49.00 ID:mS15JqDf0.net
五代目・神田伯山に「御家人桜」という講談がある。と、こう書く由来はインターネットに
神田松山という方が貴重な五代目の講談を挙げてくれているからなのだが、
この「御家人桜」、非常に興味深い話が要所に盛り込まれている。

例えば藤屋万吉を大前田栄五郎と並べて、「関八州の日月」とまで持ちあげている。
更には
「この藤屋の萬吉という人は、常陸の栄助という侍くずれの旅人に、四十二歳の厄年に、六社明神の、けやきの、並木道で、
殺されたのでございます。もう十年も長く生きてえればこの人は、大前田に負けないようなりっぱな貫禄になれたものでございましょう。」
とも言っている。

小母澤などは、万吉をひどく量見の狭い人として捉えているが、随分違う。
さらには、万吉が人手にかかって惜しくも殺害されたことを明確に物語っている。(上でも記したがこれはほぼ事実である。)

実際、この講談で鐘を鳴らす藤屋万吉の姿は、実に渋く心の行き届いた良い役どころである。
また彼に娘が一人いたことも、これも事実。そして彼女は随分つらい憂き目にあったらしいこと、
史料からは追えぬが、これも事実に基づいているようだ。

888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 00:12:18.17 ID:4i5ll/H90.net
新鍛冶 榎本新左衛門

889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 22:55:43.66 ID:4i5ll/H90.net
新門の頭・辰五郎について
「弱者には強く、強者には従う卑劣漢が、彼の本質である」のような書き方をする
ものをよく目にするが、
この見方自体、田村栄太郎の一見解にすぎない。その後翻刻が刊行された『藤岡屋日記』
や『浅草寺日記』を調べれば、田村の見解も的を得ていないことは一目瞭然である。

それならば子母澤寛や、その後の優れた物書きによって、好意的に解釈された侠客・辰五郎の
姿を受け入れておく方が態度としては望ましいと、私などは思う。

890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 22:59:48.51 ID:4i5ll/H90.net
かつて老人介護施設で、
浅草生まれのおばあさん、今生きておれば110歳くらいの方とよくお話したが、
「新門の辰五郎さん、は偉い人よ」とよく言っておられた。あと鼠小僧次郎吉も、
少し、呆けておられたが、私はあの人との会話は非常に楽しかった。

そう言う彼女の語る逸話の中の辰五郎頭は、やはり「侠客」として、話を聴く者の心の中にも残っていく。

891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/01(水) 17:38:23.20 ID:IL1KDSjp0.net
豆州下田・本郷の金平は、本名由五郎(由蔵とも)と言う。
文政3年に下田の百姓藤右衛門の次男に生まれた。何の理由か、9歳の時に那賀郡江奈村
の百姓甚右衛門の家に養子に入ったが、20歳の時にぐれて家を飛び出し、実家に戻って来た。
当時既に父は亡くなっていたが、一家を継いだ兄藤右衛門(幼名・竹次郎)が出来人で
由蔵を匿った。「弟が真人間になったら人別帳に加えてやろうと思っていたためで」
と答えたことが、当時の役人の調べにも書かれている。

その後、菩提寺である海善寺の住職に助けられ、僧籍を名乗ったりしたこともあったが、
生来の元気さは押さえられることもなく、
大場久八に見込まれて、遂には東海道筋有数の遊侠の徒となった。

892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/05(日) 21:57:26.90 ID:3OZ9p14p0.net
『藤岡屋日記』の文久二年の項に「コレラ獣」の話というのがある。
武州多摩の諸地域(中藤、三ツ木、谷保)などでコレラから回復した人の家から
イタチのような獣が逃げて行くのが度々目撃された。
実は、この獣こそコレラの源であるとされ、三ツ木村では一匹が棒で打ち殺され、
しかも三ツ木村平十郎なる者が、これを「喰った」とされる。
平十郎の感想では肉は意外に美味であったとのこと。

問題はこの百姓・「三ツ木村平十郎」だが、多分実在の人物で、しかも名の知られた侠客のようである。
確かに、そういう肚の座った人でもなければ、未知の獣の肉は食わぬだろう。

893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/05(日) 22:17:18.41 ID:3OZ9p14p0.net
この三ツ木という地域は文政期には既に三ツ木丹次郎と言う親分がいたらしく、
天保の中期には、丹次郎宅は「中国地方出自の博奕打」らに鉄砲で襲撃され、
近村が甚だしく動揺した、との記録だ現れる。
明治になると、また相撲取り上がりの三ツ木の某という悪党が跳梁した。

894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:35:42.39 ID:OFUrxSnl0.net
江戸時代後期から使われていた言葉に「内会師」(内会仕とも書く)がある。
これは「表向きは博徒ではないが、素人たちと密かに博奕に携わる者」のことを
示す。
要するに親分を持たぬ、半可な博奕打ちのことである。
ただ、八州回りや組合惣代の旦那方からは、本物の博徒よりも始末に困る者として
マークされていたようだ。 其の手の史料にはしばしば唐突に登場する。
また芝居などでもよく使われる。 反対に辞書ではなかなか出てこない言葉だ。

895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:41:34.36 ID:OFUrxSnl0.net
同じく「市切」という言葉もよく使われる。
これは大都市を中心に「市」が開かれた日に会わせて行われた大賭博のことで
この日は近隣・遠方から多くの博奕打ちたちが集まった。

大都市ではだいたい「六歳市」という月に6日の市が立ち、大変なにぎわいを見せた。
それに合せて賭場が立つのである。

896 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:59:05.81 ID:OFUrxSnl0.net
土支田の新鍛冶事、榎本新左衛門は名主の次男である。兄が土地の名士榎本常三郎で、
常三郎もまた、古今無双の人物。背丈は高くニ十貫を越える体躯で、腕っぷしは無論、
頭脳も明晰だった。新左衛門が出入りの際には、この町の名士である常三郎も、むしろ
後を押して、共に武器を揃えて、怒声を発したという。

新左衛門は神山の栄五郎の賭場に出入りし、そこで認められ、
栄五郎の親分である大侠客・清水次郎長の目に叶い、そこでみっちり修業を付けられた。

後年博徒狩りで捕縛され、法廷に立った際、顔色も変えず
「富士の山頂から見通しの利く場所は、みな私の縄張りだ」と語り、裁判官一同を
押し黙らせたという逸話は有名である。

897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 23:33:06.51 ID:OFUrxSnl0.net
現・東京都町田市に含まれる場所に、昔で言う「木曽村」があった。
この木曽村の名主の長男に生まれた博徒に木曽の嘉十郎がいる。
赤鬼金平と清水次郎長との喧嘩の手打ちの際に「刀預かり役」を務めた
「橋本の政八」の子分になって売り出した。

この嘉十郎、今までそれ程大した顔役と思っていなかったが、なかなかどうして、
旅の長脇差などは高名を聞き付けて逗留し、嘉十郎もかれらを持て成した後で、助力を要請し、
近隣の博徒達を斬り従えた。その勢力は相当なもので、小金井小次郎遠島中の留守を守った
陣屋三之助とも兄弟分になっている。

898 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 23:35:57.48 ID:OFUrxSnl0.net
ただ、あまりに勢力の拡張が露骨で、腕づくのため「侠客」と呼べるかどうかは疑問が
残る。

隣村の原町田の弥兵衛親分は、彼がいなければ「市」が開けない、とまで
言われるほどの、地元にとっての良い顔の親分だったらしい。

899 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:16:49.56 ID:O10xnTnt0.net
隣国に「甲州博徒」と呼ばれる集団がいることで、武州の博奕打の活動は
地味に見られがちだが、実際そんなことはない。安政から慶応にかけて、
それこそ毎月のように事件が起き、集団の出入りが行われ、親分同士が殺害された。
むしろ甲州や上州よりも規模は大きいのかもしれぬ。
小川の博徒や府中、青梅、八王子の博徒、小野路の集団、入間・比企のそれなど。
詳しく見てゆくとどれもウンザリするような殺伐としたものだ。

900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:26:30.96 ID:O10xnTnt0.net
そんな中、慶応四年に小金井小次郎が帰って来ると、事態が緩やかに変化する。
彼のもとに統一化が図られてゆくのである。
別に小次郎を英雄視するわけではないが、殺伐とした状況が、鎮静化する。
これはやはり彼の器量と経験がものを行ったのだろう。
三宅島に流されてから、刃物をとっての闘争よりも、「人を喜ばせ」自分も喜ぶことに、
彼の思考が変化して行った。その賜物としか思えない。
面白い事に彼が帰って来ると、半ば無頼の殺伐としていた子分たちすら、「侠客」になってゆく。
新橋長蔵や五宿米吉などは、その良い例だろう。
小金井小次郎は、(変に肩を持つわけではないが)やっぱりすごい男だ。

901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:41:34.59 ID:O10xnTnt0.net
『小金井小次郎伝』に記されているが、実際に小次郎(と、その妻ノエ)に会った
講釈師の話だと、小次郎はとにかく上背はあった。押し出しの利く風貌で、
しかし顔は「間の抜けたような」人の良い顔だったと言う。この点
今日残る次郎長の写真のような「圧迫感」や、高萩万次郎のような「鋭さ」とは違っている。

まさにこの点こそ、小次郎の最たる長所だったのではないか。

902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/12(日) 22:00:22.98 ID:7TyQXIXy0.net
府中の藤屋万吉が斬られたのは元治元年の正月二十二日。夜五つ時(九時ごろ)
場所は伝承の通り六所宮(現・大国多摩神社)の並木道だろう。
下手人は三人で、頭・肩・胴の6カ所をやられた。娘が脇を抱えて医者に連れて行き
一応の処置がされた。

以降、府中宿にいては危ないということで、四軒寺(吉祥寺)の藤蔵の下で介抱されたが、
回復せず、同年六月二十八日、遂に鬼籍に入った。
戒名の「勇道帰本居士」が示すように、島から帰って、一度は返り咲き、その後亡くなったようである。
色々説はあるが、やはりすぐれた親分であったと思われる。

903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/12(日) 22:31:19.70 ID:7TyQXIXy0.net
祐天の仙之助は、講談等で言われる元紺屋町の行蔵院(こうぞういん)の生まれではなく、
そこより、西へ一本道をずらした元柳町の清長院に生まれた。
法名は「由天」(「宥天」とも)と書くのが正しい。安政6年還俗して、僧籍を捨てる。

その後「清長院仙明」という人物が修験としての跡を継ぐが、あるいはこれは
仙之助の倅である可能性がある。

904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 18:31:39.61 ID:CFnaJoj/0.net
牧太郎の大きな声では言えないが… 「義〓心」という教育
(毎日新聞 東京夕刊)
http://mainichi.jp/articles/20170313/dde/012/070/004000c

> 「利根の川風、袂(たもと)に入れて、月に棹(さお)さす高瀬舟」の名文句で始まる「天保水滸伝」。

> 主人公の繁蔵は子供の頃から漢学や数学を著名な師について学んだ秀才だが、
> 体が大きく、巡業に来た江戸相撲の千賀ノ浦にスカウトされる。
> しこ名は「岩瀬川」。
> 力士を廃業してからは、故郷の下総・笹川(千葉県東庄町)に戻り、博徒の親分になった。

> もう一人の主人公・助五郎も力士上がり。
> 飯岡(千葉県旭市)を縄張りにする博徒でありながら、
> 関東取締出役の案内人として「十手を預かる二足のわらじ」だった。
> 当時、弱体化した幕府の治安警察の役割をやくざが代行するケースもあった。
> 浪曲では「権力」を振りかざす助五郎は嫌われ者だった。
> 天保15(1844)年、両者は衝突する。
> この「大利根河原の決闘」は繁蔵の圧勝に終わるのだが、
> その数年後、繁蔵は助五郎の闇討ちにあい殺害される。

> 実は、主役以上に人気を博した男がいる。
> 繁蔵の“一の子分”の勢力(せいりき)富五郎である。
> 「二足のわらじ」の助五郎と「関東取締出役」という警察権力に徹底的に抵抗する。


それはそれとして「?」が環境依存文字で使えないなら「侠」に置き換えればいいのに

905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 18:34:39.44 ID:CFnaJoj/0.net
上の記事引用で下駄
いちゃもんで「?」になってるのは
「人偏+夾」ね

906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 23:17:09.42 ID:rjRY+sHu0.net
私は、その旧字こそが「侠」の本質を示していると思います。
この字は、全てが「人」から出来ており、しかも二人の人を小脇に抱える一人の人間の姿を現している。

人は社会の中に生きる動物ですが、
その中でも侠者は自らの不利を顧みず、他人を懐に匿い、守る者であることを示しているのでしょう。
その生き方は今の時代に反し、また全く得るところの無い損な役周りばかりかもしれないけど…
庶民が理想とする人間の在り方の一つなんじゃないかな、と思います。

907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/18(土) 23:34:48.23 ID:o7ePAlgi0.net
一ノ宮万平事、杉本万平親分の墓は、一ノ宮の真明寺無縁仏墓石群の中央に建つ。
墓石には大塚勘五郎、東中野才次郎(小才次)といった万平腹心の大親分と
関戸長兵衛以下の直参クラスの名が刻まれて、一緒に供養されている。
施主の名は無いが、まず間違いなく万平子息の藤三郎と八王子の亀吉(伊野亀吉)の連名だとされている。

以前は気づかなかったが、墓群の中に万平だけの墓と、藤三郎の墓があることがわかった。
前者は残念ながら墓石の位置から、施主がわからないが、後者は施主がはっきりとわかる。
「伊野亀吉」と「永井忠吉」の名が刻まれている。

亀吉は有名なそば亀の事。忠吉は不明。

908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/20(月) 20:57:11.42 ID:VXF8yA8f0.net
極めておおざっぱな分け方であるが、文久年間から先の東海道筋の仁侠史は
次郎長派と勝蔵派とに二分される。

次郎長派は、小俣周太郎、大和田友蔵、寺津馬之助、長楽寺清兵衛、和田島太右衛門、国分三蔵、小金井小次郎、高萩万次郎など
勝蔵派は、大場久八、丹波屋伝兵衛、雲風亀吉、宮島俊蔵、堀越藤左衛門と言ったところである。

909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/20(月) 21:12:38.87 ID:VXF8yA8f0.net
ここで注目したいのは武州の動向である。
駿州にも宮島俊蔵(吉原宿)という異端の勝蔵派がいたが、
小金井一家や高萩一家に代表されるように一見完全に「親・次郎長派」とも見える武州にも強力な勝蔵派がいた。
慶応年間、甲州藤之木村で警吏を殺した黒駒党の逃亡者十数人を匿ったのは、橋本村(相模原)、木曽村(町田市)の
「平野屋」一派である。
頭の平野屋政八は丹波屋伝兵衛の腹心。更に政八の子分・木曽の嘉十郎は、
当時八王子の道案内頭になったばかりの岡引親分・永戸屋和三郎(元、所沢道案内)に急接近する。

この働きかけにより、甲武州間の大動脈である甲州街道の、要衝「八王子」に親・勝蔵派の一拠点が生まれたと考えられる。
よって、この地で親次郎長派の小金井小次郎や、国分三蔵弟分の御殿伝蔵が捕まったこと。
また後年丹波屋伝兵衛が居住することになること等、この時の動向に無関係ではないだろう。

910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/21(火) 22:50:53.75 ID:Ure4hPkb0.net
川越藩には「松平大和守日記」という史料がある。これは藩内の人事、事件、褒章など雑多な
情報を記したものだが、川越藩自体、武州川越、江戸藩邸、前橋陣屋と複数の要所があるため
年代・時期によって記録地が異なる。
興味深いのは、褒章や事件記録の際に、川越藩の目明しの表記がまま記されることである。
「関口栄次郎」すなわち大前田栄五郎義弟の福田屋栄次郎は、伝承の通り、
前橋の目明し頭をしていたことが、これで判明する。

911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/21(火) 23:23:10.04 ID:Ure4hPkb0.net
「赤城録」の中で、栄五郎を「前橋の頴五」とも「川越の頴五」とも書くのは、ここに依拠してるのではないか。
浅田晃彦の『上州任侠大前田英五郎の生涯』では大前田栄五郎自身が「武州川越」に居住していたことを
上の記述に拠って推測しているが、事実は多分違っていて、
おそらく上州で勢力を構え、川越・前橋藩の十手を受け持っていたのだろう。
そして、後年になって十手業を栄次郎に譲った。
そう考えると辻褄が合う。

912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/27(月) 22:07:45.81 ID:m5durtBg0.net
「伊藤好一」という学者の名は、関東近世の文献を当っているとよく目にする。
すでに98年に亡くなられているが、この方が掴んでいた近世後期、幕末期の農村部の状況や
社会制度の知識は追随する者がいない。
特に関東取締出役や改革組合村についての理解は、今日の誰も及ばないのではないか。

農村の日記や、各地方史の編纂など、この人が関わっていないものを探す方が大変なくらいだ。
岡引や無宿博徒の者についても、多大な知識をもっていたことが、そこここの書き物から
散見される。しかし一冊にまとめることなく亡くなってしまわれたことが実に残念だ。

913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/27(月) 22:17:10.53 ID:m5durtBg0.net
増川仙右衛門

914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/28(火) 00:47:43.31 ID:NBK0DdCr0.net
人模様 幕末・明治、熱い男に魅せられ 伊藤春奈さん
http://mainichi.jp/articles/20170327/dde/012/070/012000c

> 幕末期のノンフィクションものを中心に執筆を続けているライターの伊藤春奈さん(39)が
> 新著「幕末ハードボイルド」(原書房)を出版した。

> 立命館大在学中からライター活動を始め、歴史ものを中心に書籍・雑誌の企画や執筆を続けている。
> 前作は出身地の長野県伊那市ゆかりの博徒「伊那の勘太郎」の実態に迫った。

> 今作は対象を広げ、幕末動乱から明治初期に生きた熱い男たちを取り上げた。
> 新選組や高杉晋作の奇兵隊などは有名だが、それを陰で支えた博徒や〓客(きょうかく)、無名戦士がいた。
> 彼らこそが法外で面白い。

> 例えば後年、大阪で「老〓(ろうきょう)」と呼ばれた小林佐兵衛は、
> 私財を投じて町の火消し活動に燃えた「親分」だった。

915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/04(火) 22:59:07.72 ID:hNi0U6qb0.net
上でもいくつか触れた「田中屋万五郎」について
『くにたち郷土文化館研究紀要 No.8』(2017、3)
に、短いけども、数々載っています。

こういうのは…良いのかわからないけど…
何より親分のことが周知されることが第一なんで。
一寸お許し願います。

916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/09(日) 23:23:25.99 ID:UG0U0CZP0.net
一ツ谷の浅五郎(浅太郎とも)

917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/11(火) 23:56:49.91 ID:Ae3fz3S40.net
『古老の語る田無町近世史』(町史を聞く会 編)という本がある。1957の物で、手書きである。
しかし内容は豊富ですばらしい。

・「稲荷の増五郎が当町の幹部であった。」
・「小次郎の兄弟分が増五郎であり、増五郎の子分が徳蔵である。」
・「小金井小次郎が徳蔵親分の所へ年老いてから、”ツエ”をついて遊びに来た、という事は
  よく聞いた。徳蔵親分が、神奈川へ出かける時は、何度も送り迎えが大変であった。
  これを小次郎が聞いて驚いたそうである。
  亦境界に浅五郎がいて、その人が長生きしたのでその家に遊びに行った。その後
  ”孫さん”というのがいて、博打を渡世に過ごしたという。(中略)
  通称孫小僧は前科13犯であった。

918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/15(土) 11:15:11.44 ID:OWVQbIOC0.net
増川仙右衛門

『東海遊侠伝』だと巻之四、第十回。いわゆる「菊川の手打ち」(次郎長と金平の和議の式)
が初出だろう。

登場と同時に次のような小文字の解説が入る。

「駿州増川ノ産、佐二郎の子ナリ。佐二郎遊侠ヲ以テ聞フ。後チ数年、金平ノ党、竹之助、民五郎、力松、
 亀吉等、十六人、襲テ之ヲ殺ス。仙右乃チ走テ長五ニ依リ、以テ声援トナシ、竹之助等数人ヲ殺シ、
 遂ニ長五ノ家人トナル」

おおよそ、彼の前歴を知るには十分な記録である。
 

919 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/18(火) 23:31:42.11 ID:syqMS+tm0.net
今の時代は長谷川伸や子母澤寛の頃よりも、遊侠の文書史料が手に入れやすい時代であると思う。
そのことは、90年代よりも更に簡易になっていると思う。
情報ネットワークの発達に拠るものだ。

しかし、それに奢って「足」を使う研究を止めたら、途端に、史料の中の遊侠たちは
姿をかくしてしまうだろう。

920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/18(火) 23:39:15.99 ID:syqMS+tm0.net
慶応2年 黒駒勝蔵、平井の雲風、駿州宮島俊蔵人相書き

一、中丈ニ而色白し    甲州東郡黒駒無宿 勝蔵 年三十四歳

一、大男ニ而色黒く惣髪ニ而前歯壱本なし  三州平井無宿 雲風 年四十余り

一、中丈ニ而色白く髪毛少し        駿州宮嶋無宿 本名市蔵 歳蔵 年四十余り

921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 07:35:09.01 ID:SeWgsz5s0.net
幕末 裏舞台 品川宿のアウトロー 逸話紹介
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201704/CK2017042202000135.html

922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 15:45:13.28 ID:zVSG8Psv0.net
往時の間取り再現へ 改修中の清水次郎長生家
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/351563.html

> 幕末・明治の侠客(きょうかく)清水次郎長(1820〜93年)の生家
> =静岡市清水区美濃輪町=の保存に向けた改修工事で、
> 天井裏に残されたすすや柱の痕跡から、次郎長が生まれたころの間取りが明らかになってきた。
> 改修に当たっているNPO法人「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」は、
> 地域の観光資源として往時の姿の再現を目指す。

> 同会会員で工事責任者の伊藤貴広さん(40)=焼津市=によると、
> このほど、柱の痕跡から現在の土間に部屋があったことが分かった。
> 天井撤去後に現れたすすで黒くなった壁から、もともと天井はなく、かまどがあった場所と推測できるという。
> 「町屋は改修を重ねることが多いが、履歴の資料が残っていることはほとんどない。
> 次郎長生家もかなりの頻度で手が加えられていたことが分かった」と伊藤さん。

> 改修は、次郎長が生まれた当時の間取りをもとに、
> 生活やリフォームの痕跡をできるだけ残しながら、
> バリアフリーや耐震性などにも配慮して6月末の完成を目指す。
> 同会の牧田充哉会長(静岡市清水区)は
> 「次郎長の人物像やまちの歴史を多くの人に発信する拠点にし、
> 清水港周辺をにぎやかにしていきたい」と改修を待ち望む。

> 生家は雨漏りやシロアリの被害、建物の傾きなど老朽化が激しく、
> 1月に修復、改修工事を始めた。
> 工事費用は募金を中心にまかなわれているが約300万円不足しているため、
> 同会は今後も募金活動を続けていく。

923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 21:32:52.83 ID:pxn3ZYGO0.net
俗に言うところの「平井の事件」について。
雲風の所に逗留していた黒駒勝蔵を、次郎長一派が急襲したのは
「元治元年」という事が定説になりつつあるようだが、これは「文久3年」が正しい。

またここで「大岩・小岩」が死んだことになっているが、
実はどちらも死んでない。(ただし黒駒側が敗北し、子分五名が殺害されたのは事実である。)

924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 22:29:42.85 ID:pxn3ZYGO0.net
随分前の書き込みで(587)で足利市寿徳寺にある江戸屋一家の碑の、
「玉吉」の部分を「慶応3年 勢州立野町戦死」と迂闊にも訳したが、よくよく見れば
「慶応2年 勢州立野町戦死」が正しい。

そしてこのことは荒神山の戦い(慶応2年4月8日で確定)の後、
安濃徳が「罪ヲ玉吉ニ帰シ、遂ニ之ヲ斬リ、其首ヲ以テ謝」した事と無理なく繋がる。
依って江戸屋一家碑にある玉吉は、「館林の玉吉」その人で間違いなく、
同時に、この碑文に記された人物の没年は、かなり正確であることが窺いしられる。

925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 22:33:57.04 ID:pxn3ZYGO0.net
とすれば穂北の久六も
「安政2年6月1日 尾州葛郷大川村(知多郡乙川村)戦死」が正しいように私は思う。

926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/25(火) 21:12:39.59 ID:D5S8XmSq1
明治4年に黒駒勝蔵事 池田勝馬が供述した、通称「口供書」は少なくとも勝蔵本人が
関わった箇所に関しては、たいへんに正確な史料で、他史料からその事実を確認することができる。

唯一曖昧なのは、自分が駿河にいた時分に起きてしまった安五郎(吃安)召捕りの一見部分だけだ。

927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/25(火) 21:24:08.23 ID:D5S8XmSq1
上記を踏まえた上で、元治元年三月十三日、十五日の「国分三蔵屋敷」ならびに「勝沼祐天在所」
を襲撃した記録を見てみると、
「祐天在所」の勝沼宅(地元では風呂屋と伝わる)へ向かった人数は
勝蔵(本人)、塩田村玉五郎、北八代村綱五郎、成田村岩五郎、中川村岩吉、上万力村森太郎、八代北村猪之助、
落合村角太郎、国分村乙吉、東花輪村乙吉、駿河吉原坊主勝、遠州掛川万平、森の秀五郎、信州喜十郎、その他8名
とあり、「成田村岩五郎、中川村岩吉」(所謂大岩・小岩)がどちらも健在であったことが判明する。

要するに三州平井の共同墓地にある「大岩」との名は一体誰なのだ、ということになるのである。

928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/28(金) 20:41:21.19 ID:oHfjj1oDY
訂正する。
一周回って、やっぱり「大岩」は平井の事件で討ち死にしていた。
ただし、彼は「成田村岩五郎」ではない。

929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/28(金) 21:09:25.36 ID:oHfjj1oDY
先日からウチのPCではいつも書きこんでた「侠客の歴史」に書きこめなくなった。
そんなわけで、こっちに書く。

930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/01(月) 21:57:03.20 ID:exm6+hr2p
宮島の俊蔵と並ぶ吉原宿の親分に「本市場の金七」がいる。あまり評判のよくない
博奕打ちであったことは、上でも記した通りだが、残忍な逸話ばかりが残るゆえに、
却って真相が知りたいものだ。
ところがこの金七の実在資料がほとんど見つからないのである。

931 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/01(月) 22:08:11.18 ID:exm6+hr2p
唯一彼の事だと思える資料は、長谷川昇先生が著した傑作『博徒と自由民権』に
紹介されている、「愛知県史料」に記載された明治3年の記録だけではないだろうか。
これには帰島後の侠客原田常吉の宅に、食客として滞在していた中山の七五三蔵の命で、
殺人を行った者として「駿州の金七」がおり、同じ同士に駿州の重吉(宮島俊蔵)がいることから
まず間違いないと思われる。

七五三蔵に関しても、実際の彼は、子母澤寛氏の描いた物語に登場するような老翁ではなかった。

932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/08(月) 23:06:24.48 ID:gDmGSRJnD
黒駒勝蔵身内の大岩・小岩
一般的には大岩が成田村岩五郎。小岩が中川村岩吉とされているが、
実はこれは逆である。
大岩事中川村岩吉は、文久三年6月5日(7月かも)の平井の襲撃で命を落とし、
小岩事成田村岩五郎(岩蔵とも)は慶応2年8月、山崎の刑場で斬罪に処せられた。
後者戒名は「成岩禅定門」

933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/08(月) 23:12:51.88 ID:gDmGSRJnD
この他、黒駒身内には「大音」「小音」という者もいた。
一の子分の塩田村玉五郎は小田原の出で、本業は髪結いであったと伝わる。
貧しいため早死した女房の葬式を出してやれなかった時に、勝蔵が訪ねて来て、自ら墓を掘ってくれた
のに感激して身内になったという。勝蔵より五歳ほど下だった。

玉五郎、背は高く、色白で頬に十センチ程の疵があった。

934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/09(火) 23:50:31.38 ID:3StAKO5tI
遠州横須賀は、都田の兄弟が拠点にした町で、広い海を眼前に持つ海港都市でもある。
ここには、また「大鳥」という名の相撲上がりの親分がいたとされる。
『遊侠伝』では黒駒勝蔵が逗留したと言い、明治にはいってからは黒須大五郎が、彼(大鳥)を頼り、ここに隠れたという。
大鳥、仔細は不明。しかしながら横須賀は、巨大山車を用いた、全国に類を見ない記載や、エキゾチックな凧が飛ぶ。
更に今日では、海岸の風を受けて、巨大な風車が発電の目的で、幻想的に回っている。

935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/10(水) 22:28:13.99 ID:49MSuq9m1
ウィキペディアは一種の事典なのだろうが、「黒駒勝蔵」のそれは、
本道に当る大事な部分は抜け落ち、周辺部分だけが過剰に盛られていて、何を言いたいのか
さっぱりわからぬ。
しかし世間的には影響力の多い媒体なので、タチが悪い。

936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/10(水) 22:40:37.87 ID:49MSuq9m1
吃安と共に新島を抜けた者に角蔵という人が居る。彼だけは新島の手配書に出身地が描かれていない。
しかし、他の地域に回った手配書によると、伊豆多田村とある。
また丹波屋角蔵とする資料もある。つまり彼は伝兵衛の身内、または親戚の一人であったようだ。

937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/11(木) 12:54:50.44 ID:Y9J/G7LnV
935
また夜に、酔って馬鹿な事を書いたようだ。訂正する。
ろくに読みもしないで。愚か者は自分のほうだ。
黒駒勝蔵の項、精読してみれば、いくつか誤りはあるが、現状十分な内容になってる。

938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/12(金) 22:13:27.42 ID:yR0JJaHwI
東京都立川市の、とある高校と隣接して愛宕神社がある。この神社境内に
長方形の白い石が建っているのだが、これが「博奕神様」。
博奕打ちが勝負の前にお祈りに来たのである。伝承では小金井小次郎の子分が建てたことに
なっているが、実際には小次郎と敵対した八軒の栄次が最初に祭った。
栄次は別名初次郎、または栄次郎とも云う。更に八軒新田は芋久保新田とも呼ばれたので
「芋久保の栄次」とも彼は表記される。一時は五日市街道、砂川一帯の親分だった。

子分には田堀の権蔵、そば屋の某、剣術の達者、清水さん兄弟などがいた(らしい)。

939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/17(水) 22:58:40.14 ID:GDfii3VTF
「講談師、見て来たような嘘を言い」等と言われるが、明治の咄家は本当によく研究して、
演目を作っているので、時にそれは民俗資料と言っても良いくらい、豊かな史料的価値を残してくれている。
上州の「相ノ川又五郎」を演った松林太琉は、次の様な貴重な聞き書きを演目の端に組み込んでいる。

「伊勢の国の男でありまして山田妙見町丹波屋の伝兵衛というがあります、之は通名でありまして、
まことは半田屋の竹之助というのであります。この人は伊豆の生まれの人であります。18歳の時に故郷で賭場の上で喧嘩をして
人を殺して伊勢へ流れて行って、伊勢の山田の丹波屋という旅籠屋の家に居て、その家の娘さんの亭主になりまして、
半田屋の屋号を名乗っております。この伝兵衛さんと言う人は、明治26年秋、武州多摩郡八王子で亡くなりました。
今はこの人の孫さんが、京橋区五郎兵衛町に鳶の者の女房になっております。
一時は、この位の親分はありません」

五郎兵衛町は今の八重洲の二丁目だという。伝兵衛が「半田屋竹之助」であったこと、伊勢の丹波屋へ婿入りした事など、
この記録は有用な情報を提供してくれる。精読はしていないが、この講談(明治31年出版)は読み方によって、
得るところが多いだろうと思う。

940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 21:53:24.60 ID:Q6Djuoqui
新茶屋村ノ増吉

941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 22:58:39.97 ID:Q6Djuoqui
黒駒勝蔵が後年赤抱隊に入り、勤王の志士となったことの発端として
土佐の郷氏・那須信吾が関わっていたとの咄がある。当時黒駒に「幾之進」という
浪人が厄介になっていて、彼が那須の変名だと言う。

だが、多分これは「市之進」の事だろう。勝蔵と行動を共にした剣術家に「市之進」と「富さん」という
武家が居た。市之進は若く上背があり、富さんは年寄りで小さかった。だが、どちらも剣は相当に使ったそうである。
市之進は慶応まで生き残ってるから、那須信吾云々の咄は、多分誤りだろう。
ただし「山県小太郎」は確かに勝蔵と関係していた。

942 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 23:30:14.40 ID:Q6Djuoqui
東京都東大和市の『里正日誌』翻刻、最新刊(明治6年)に、多摩郡神山村の
栄五郎の資料が随分豊富にあったのは嬉しいかぎりだ。
古くは子母澤寛がエッセイに書いた彼であるが、今回は人相書きに加えて、動向もまた記されていた。
(なお人相書は『武蔵野市史史料』に既に翻刻済みである)

栄五郎は小勇ノ米らと共に、南秋津不動(現・秋津神社)の賭場に顔を出し、そこから方々の
親分衆の元を訪れ、路銀をもらってあるいた。野口の源蔵、同所の平蔵、中藤の増五郎(田中ノ定右衛門の倅)、師岡の孫八ら
の名前が現れ、彼らが確かに親分衆であったことが窺われる。

惜しい事にはこれで、日誌自体が打ち止めという事実だ。

伝承では栄五郎は陣屋三之助と喧嘩し、其れが元で所沢の力山に、竹丘(清瀬市)の妾宅で入浴中に
斬りたてられ殺されたという。
次郎長の子分で、大政の兄弟分だったために、盛大な葬式が行われた。
墓石に施主・清水湊の山本政五郎とあることは今日でも確認ができる。他に子分が多く名を連ね、
何故かライバルだった陣屋の一家も名を刻まれている。

943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 21:43:14.95 ID:z001Qe/xo
遠州中泉代官を務めた林鶴梁先生は人格者で、自身大変な学者。とくにその漢文は優れ
夏目漱石なども、若い日にはそれを暗唱したという。
先生の「鶴梁日記」は当時の文人のネットワークや、医療、そして遠州代官所の様子がわかり、
とても面白い。

まだ目を通したにすぎないが、代官所の手先として「山梨巳之助」の名が出てくるのは、
意外であると同時に驚いた。
巳之助は、別に「友吉」の名を持ち、袋井宿から二川宿まで広く顔が聞く存在だった。
その利点を買われ、鶴梁から目明しのような役目を与えられている。

この他、同日記は博奕打ちたちの鎗・鉄砲を用いた出入りの記録も留めている。よって本日記は
仁侠史を研究する上でも、第一級に有用な史料であることは間違いない。

944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 21:49:14.53 ID:z001Qe/xo
また「戸塚彦介」という当時江戸第一と言われた柔術家の弟子として、
『鶴梁日記』には田中軍之介の名が記録されている。
軍之介は、後の犬上郡次郎のことだ。

新撰組の篠原泰之進も、かつては戸塚先生の道場に居候をしていたというから、
あるいは二人は面識があったかもしれぬ。

ちなみに高杉晋作は、その稽古録の中に、武術の達人でありながら奇人でもあった
犬上郡次郎の風聞を書き留めている。

945 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 23:13:01.97 ID:z001Qe/xo
幕末期の多摩地域の重大事件として、小野路村の小嶋鹿之助が上げているものは
@府中宿小常の殺害
A藤屋万吉の殺害
B川辺堀之内村、藤右衛門の殺害
の三つである。Bの藤右衛門は博徒兼名主とかいう話だが、詳細は不明。
川辺堀之内は、いわゆる京王堀の内とは場所が違うようだ。

946 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/29(月) 22:52:14.81 ID:WwJtnwL5O
俗に次郎長は山岡鉄舟に会って改心して、以後すぐれた人物になっていったという。
しかし、これはあるいは次郎長の方が役者が上だったのではないか。
ともすれば鉄舟は理想の為に身を投げ、時に熱くなりすぎる。対して次郎長は常に冷徹で、事に及んで判断を(だいたい)誤らなかった。
文字も自由に書けなかったり、店に「理学」を求めたり、素っ頓狂な逸話が数多いが、
これらすら彼の計算のうちであったのではないかと思える程、冷静で物の筋道がわかっていた。おそらく彼は実地で、
生き方を学んでいったのだろう、まぎれもない大物である。

一方、勝蔵は、次郎長よりもずっと感情に流される。彼の行動原理は若い日に一緒にいた兄弟分の
吃安の敵を討つことだけであり、そのためには実際どんな苦労も厭わなかった。
その目的のためには手段はえらばず、周辺村落に子分を放って金策し、悪名も鳴り響いた。
次郎長と勝蔵では、はるかに次郎長の方が上である。しかし、同時代の高名な親分衆である三州の雲風、駿州の年蔵、豆州の金平、遠州の米吉
、相州の政吉などは勝蔵の、その未熟な一途さに共感し、それ故に力を貸したのだろう。

博奕打ちの偉さは、決して、闘争の強さや、頭の良さばかりでは計れなかったのだと思われる。

947 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/05(金) 17:43:49.76 ID:yR3TX7JY0.net
こんなスレあったんだね
俺はここでチラホラ書かれている吃安こと中村安五郎の子孫だから気になってしまうw
曽祖父が三代目の久義で祖父が吃安の妹の玄孫に当たるらしい

948 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/13(火) 22:52:58.38 ID:LMBPgx0F6
松村梢風は、著書の中で実際に武州高萩を訪れ、「親分に会って話をした」ことを
書いている。ただし、時代的にみて万次郎ではなく、その倅の仙次郎か、更にその跡目の誰かだろう。

ただ上記のような訳で『正伝・清水次郎長』の万次郎にかんする部分は信憑性が高い、
ということがわかる。

949 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/13(火) 22:59:35.78 ID:LMBPgx0F6
天田五郎が、次郎長の養子をやめて、元の姓に戻した理由は…
大政に恋人をとられたためだ、と梢風は伝えている。本当かどうかは知らないが、
一応書いておく。

ちなみに次郎長の手紙でも、大政が「酒」と「若い女」に現をぬかしたため
早死にした、との文言が見れるから、この道で大政には確かに弱みがあったのかもしれない。
「冷静沈着で大局眼」の大政も、弱いところはあったわけだ。

950 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/17(土) 11:40:24.51 ID:7yjkeLc4l
「善玉の次郎長に、悪玉の勝蔵」
これはおかしいとよく言われる。史実はどっちもどっちだろう、と。
しかし、次郎長=善、勝蔵=悪の見方はあながち間違っていないのだ。

各地の史料を見ると、本当に勝蔵一党は略奪・無法を行っている。
これは彼らが手配をされる悪党であったためだ。(もちろん悪党であることはお上が決める)
勝蔵らは、尋常な手段では資金を稼げぬがために、民家に押し入り、人質をとり、金を奪う。
そうやって得た金で軍備を整える。さもなければ、押し負けて屍を野に晒すだけだ。
一方の次郎長は、お上の用に立つので、ある程度の賭場の開帳も許されるし、良い顔なので各地を歩いて
稼ぐこともできた。
末端の子分には気の荒い者もいたろうが、なにも好き好んで略奪を働く必要はなかった。

951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/20(火) 23:25:11.03 ID:LEVacGXVQ
今で言うところの三重県明和町、明野の駅の西側が、昔の新茶屋村らしい。
ここの新茶屋の勇蔵という親分が居た。天保9年頃、旅の途中の相ノ川又五郎は、ここで
勇蔵の助に入って、北伊勢の博奕打ち達(名は記されず)相手に勇気を示し、誉を得た。

勇蔵から十ニ人の助っ人の裁量を任された又五郎だったが、その内、又五郎子飼いの五人に加え、「新茶屋の増吉」以外は
怖気づいて使い者に成らなかった。(そのような訳で五人は帰された。)

以降増吉はめきめきと頭角を現し、親分勇蔵の跡を継いだのか、伊勢では知らぬ者の無い顔役になった。
山田新町の枡屋増吉(宗兵衛と名乗る)となり、明治の世まで盛名を得た。
彼の名は『東海遊侠伝』にも現れ、次郎長と丹波屋の間を取り持つ大事な役割を果たしている。

952 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/20(火) 23:34:01.51 ID:LEVacGXVQ
伊勢は言うまでもなく「神宮」で有名であり、「お伊勢さん」と唱えて巡礼の列が絶えない程の
盛況地だった。そんなわけで伊勢を地番とした遊侠は多い。
まずは丹波屋伝兵衛、次いで小俣(小幡)周太郎、新茶屋増吉、それに塩浜吉右衛門に松坂の醜五。
これらに加えて、浪人の白根清蔵と言うのが良い顔役だったようだ。

そうそう、松坂の米太郎という人も確か居る。

953 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/27(火) 23:11:23.15 ID:qOWVKdfR9
知らない内に国文学研究資料館の歴史アーカイブスで「連光寺富沢家」の日記が、
見られるようになっていて嬉しい。
同日記は今まで、「天保14〜弘化5年」と「安政7年〜明治2年」までが翻刻慣行されている。
それ以外のものも見ることができるわけで、これはなかなか楽しめる。

とりあえず、博奕打ちとは関係ないが、安政6年4月、近藤周平先生が府中六所宮に剣術の奉納額を
寄進している。

954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/27(火) 23:23:00.51 ID:qOWVKdfR9
確かに博奕は娯楽以外の何物でもないだろうが、今と違って電灯もネオンも無く
夜がうっそうとした林に包まれる時代、
そこに盆御座を敷いて、明かりがついて、賭場が開かれる様はさぞかし幽玄に見得たことだろう。
一種神事に見えてもおかしくない。

民俗学では「昭和30年」は、一つの転換期と言われ、それは「囲炉裏」(いろり)がなくなった年
だと言うが、
同時に暗闇が生活からなくなった年でもあり、所謂近世からの「博奕」がなくなったのも
このころだろうと思われる。

955 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/28(水) 23:38:32.29 ID:qoJTT8p+/
源八の吉兵衛(都田吉兵衛)の経歴として、万延元年、宮島ノ年蔵と共に、
吉原宿の警吏を斬った、
というのが『東海遊侠伝』に書かれているが、これは年代も事件内容も、事実だ。

遊侠伝はあからさまに、年代が誤っている部分もあるが、意外な程真実を記録している部分もある。

956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/29(木) 00:30:28.00 ID:KBSsRaRAj
よくわからんが遠州侠客について

森ノ太一(五郎の倅)を殺したのが山梨の周五郎。
山梨の周五郎を殺したのが、森の新虎。
森の新虎を殺したのが大岩。
で、平井の襲撃で大岩を殺したのが、森ノ太一の子分だった八五郎。

山梨の周太郎とは、四角山周吉のことか。

957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/30(金) 23:33:29.25 ID:f7K49S+yd
歴史的な文献をあさって、何か発見があったとしても、
心しておかねばならない大事なことは、
自分に才能があったわけではなく、
ただ、そういうものに出会えるだけのヒマと運が今の自分にあった、というだけの事だ。

958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/01(土) 13:19:13.53 ID:BifuwKikr
安政3年、武蔵国の小川村幸蔵が、弟梅次郎と子分と三人連れで、八坂神社で、隣村野口村の百姓二人と
口論になり、不意を打って二人に疵を負わせた。
仁侠親分にしては随分と小さな事件だが、これがアウトローとしての小川の幸蔵の動向の初出と言われている。

ともあれ、この時の喧嘩相手の百姓・野口村の源蔵も、最近の史料だと博奕の貸元をやってた人のようで、
つまるところ、この一件は渡世人同士の喧嘩だったらしいことがわかる。

結果的には歎願が出て、おとがめなしということになるのだが、当の負傷者源蔵が、幸蔵の為の歎願に
署名しているのが興味深い。幸蔵の威勢によるのか、源蔵の男気に拠るのかはわからない。

959 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/02(日) 23:43:45.77 ID:eYgUQFTaR
駿州由比宿 平野屋ノ三平

960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 00:40:04.25 ID:z/duPpfh0
甲州春日井辺りに、文七という渡世人がいた。
文七は下田の安太郎の跡目である常太郎の家で客死する。
文七、身なりは立派ではなく、むしろ小汚い格好であったが、褌の中に「五両」隠し持ち、
自分の葬式代としてそなえていた。
常太郎、その気持ちを組み、下田太安寺に、その五両を資堂金として立派な墓石を建てたという。
明治29年6月、日野原が苗字だと言う。

961 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 22:42:04.20 ID:z/duPpfh0
宮島ノ年蔵(俊蔵)の兄弟分だが、非常に評判の悪い親分が、本市場の金七。
別に加島の金七とも言う。

かつて甲州の、ある縞買い付け商人(名は伝わらず)が、吉原宿で惚れた遊女がいたので
見請けしようと思ったところ、金七がそれと察して、先に見受けし、妾にしてしまった。
商人はこれを恨んで、発起して中元奉公し、数年後、韮山で「足軽」身分となり、金七を捕らえることを主張した。
金七は一早く逃走したが、子分房五郎は捕縛されてしまい、韮山で二年間牢に入れられる。

962 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 22:50:30.93 ID:z/duPpfh0
ようやく獄を出た房五郎は、故郷に帰るが、既に子分は一人もいず、縄張りも
他所に取られてしまっていた。困窮していたため、自分の脇差を質に出すが、
そこから、親分金七とともに強盗を働いたことが知られてしまう。
(この脇差は「加島の源兵衛さん」の物だったと言う)
これを知った金七は、口封じのために房五郎を殺す。房五郎は剣は相当に使ったが、牢後の身で思うように動けず
無念にも殺害される。
更に房五郎の妻を騙して招き寄せて、わざわざ
海岸の砂丘に埋め、上半身をめった斬りにした。この殺人は目撃者が昭和の初めまで生きており、
彼に拠れば、「世の中にこれほどむごい殺人は無かった」との事である。

金七は、この一見を聞いた大場久八の怒りを買い、船に括られて海に流されたと言う。

963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/10(月) 22:54:52.43 ID:aPEQar/v3
昨日偶然にして長谷川昇先生の『博徒と自由民権』を古本屋で見つけ、購入することができた。
これは快作。
歴史学からしたら異端で、文章形式などもアカデミックではないかもしれないが、
情念と、何より「足で稼いだぞ」という気概が伝わってくる。
書店は頼むからこの傑作を増版してください。

964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/12(水) 23:05:51.21 ID:f1xQ/dJ/I
江戸末期の「村」は、たいてい今では電柱に貼られた「地名」になってる。
もう少し詳しいことを知りたければ、図書館に行けばわかる。
村のうち、大きい物が「宿」になり、たいていは街道の要地に当る。
次に大きい村は「町」になる。
博奕打ちの「親分」と呼ばれる者は、だいたい村に一人はいる。そして、町や宿なら
二人以上いることもざらにある。

松尾四郎はこのことを、現代で言うところの「パチンコ屋」に例えているが、
だいたいその通りだろう。

965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/12(水) 23:15:58.87 ID:f1xQ/dJ/I
当り前の事だが、博奕打ちに「悪い奴」はいる。どうしようもない人間。
しかし、良い人、素晴らしい人間も「いる」ことは事実である。
(もっとも、これはどの世界にも共通して言えることだが。)

少し飛躍するが…子母澤寛や長谷川伸が書きたかったのは、まさにそういう
一見社会悪と呼ばれる中に出た傑出した人格者なのだと、最近氏らの著作を読むたび思う。
そして共通して言えることは、彼らは「負ける」ということの価値を、知っている、または体現している
ということなのではないだろうか。

966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/21(金) 21:59:39.62 ID:tG5hvkpgU
色々と不明な点の多い神山村の栄五郎だが、明治六年の初春には南秋津不動(現・東村山市)
の鳥合せ(闘鶏博奕)の場に姿を現したことが記録に残っている。次郎長子分の愛之助、竹三郎を
連れていた。
そこから、中藤村の増五郎(博労の定右衛門の倅)の元を尋ねて旅銭をもらい、更に西へ行って、
師岡ノ孫八の元に逗留するが、孫八が既に引退していたのか、跡を継いだ馬之助の宅を訪れ
道銀をもらっている。
多分青梅街道沿いに移動したのだろう。そこから、大菩薩峠を抜け、甲州へ入ったか?と言うところで
この書類は惜しくも終わっている。

967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/21(金) 22:05:43.50 ID:tG5hvkpgU
田黒村ノ文吉

嘉永二年に東海道を騒がせた、田中村岩五郎、石原村幸次郎、五明村亀吉の
一派の一人で、早くから関東取締出役の手配書に名前を出す。
文吉自身も親分格で、五明村亀吉と兄弟分であったという。

968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/26(水) 22:58:22.12 ID:QVshA4pkY
「まさも、さけと、わかい、おんな
で、はらお、くさらせ、とても、ぜんかい、
なし、だんだん、かんかいて、
みると、かづのこお、しろみつで、
ひやして、みれば、よくわかる、
さけは、しろみづなり、つよいから、
たくさんのめば、はらがくさり、
ます、それだから、すてられぬ、
ひとには、よく、ねんごろに、おまゑさんから、よくはなして、おくれなさい、

五郎さんおよとりに
きめたからおたのみ
もおしますやまも
ことしからはみなこして
せいだいにするから
あんしんしておくれなさい
二月五日          山本 長五郎
山おか せんせいさん」

969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/26(水) 23:13:14.19 ID:QVshA4pkY
いったい次郎長の手紙は、見つかってる限り(写しも含めて)何枚くらいあるのだろう。
それまで文を書いたことに無い次郎長が、誰に習ったか、文字を書き始めたのは
明治に入ってからだと思われる。しかし筆致は素晴らしく、
配列といい、大きさと言い、他に類をみない。(と素人の私にも思わせる。)

上のは、明治14年のものと言われる。「まさ」は大政。米のとぎ汁に浸した数の子がダメになるように
酒ばかり飲んできた大政も、もういけない、という意味。(大政は、また、若い女にも当てられていたようだ。)
「五郎さん」は天田愚庵で、「およとり」(養子)に決めたとの意味。
「やまも」は富士市大渕の開墾のことを言うようだ。

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