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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/20(火) 23:25:11.03 ID:LEVacGXVQ
今で言うところの三重県明和町、明野の駅の西側が、昔の新茶屋村らしい。
ここの新茶屋の勇蔵という親分が居た。天保9年頃、旅の途中の相ノ川又五郎は、ここで
勇蔵の助に入って、北伊勢の博奕打ち達(名は記されず)相手に勇気を示し、誉を得た。

勇蔵から十ニ人の助っ人の裁量を任された又五郎だったが、その内、又五郎子飼いの五人に加え、「新茶屋の増吉」以外は
怖気づいて使い者に成らなかった。(そのような訳で五人は帰された。)

以降増吉はめきめきと頭角を現し、親分勇蔵の跡を継いだのか、伊勢では知らぬ者の無い顔役になった。
山田新町の枡屋増吉(宗兵衛と名乗る)となり、明治の世まで盛名を得た。
彼の名は『東海遊侠伝』にも現れ、次郎長と丹波屋の間を取り持つ大事な役割を果たしている。

952 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/20(火) 23:34:01.51 ID:LEVacGXVQ
伊勢は言うまでもなく「神宮」で有名であり、「お伊勢さん」と唱えて巡礼の列が絶えない程の
盛況地だった。そんなわけで伊勢を地番とした遊侠は多い。
まずは丹波屋伝兵衛、次いで小俣(小幡)周太郎、新茶屋増吉、それに塩浜吉右衛門に松坂の醜五。
これらに加えて、浪人の白根清蔵と言うのが良い顔役だったようだ。

そうそう、松坂の米太郎という人も確か居る。

953 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/27(火) 23:11:23.15 ID:qOWVKdfR9
知らない内に国文学研究資料館の歴史アーカイブスで「連光寺富沢家」の日記が、
見られるようになっていて嬉しい。
同日記は今まで、「天保14〜弘化5年」と「安政7年〜明治2年」までが翻刻慣行されている。
それ以外のものも見ることができるわけで、これはなかなか楽しめる。

とりあえず、博奕打ちとは関係ないが、安政6年4月、近藤周平先生が府中六所宮に剣術の奉納額を
寄進している。

954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/27(火) 23:23:00.51 ID:qOWVKdfR9
確かに博奕は娯楽以外の何物でもないだろうが、今と違って電灯もネオンも無く
夜がうっそうとした林に包まれる時代、
そこに盆御座を敷いて、明かりがついて、賭場が開かれる様はさぞかし幽玄に見得たことだろう。
一種神事に見えてもおかしくない。

民俗学では「昭和30年」は、一つの転換期と言われ、それは「囲炉裏」(いろり)がなくなった年
だと言うが、
同時に暗闇が生活からなくなった年でもあり、所謂近世からの「博奕」がなくなったのも
このころだろうと思われる。

955 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/28(水) 23:38:32.29 ID:qoJTT8p+/
源八の吉兵衛(都田吉兵衛)の経歴として、万延元年、宮島ノ年蔵と共に、
吉原宿の警吏を斬った、
というのが『東海遊侠伝』に書かれているが、これは年代も事件内容も、事実だ。

遊侠伝はあからさまに、年代が誤っている部分もあるが、意外な程真実を記録している部分もある。

956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/29(木) 00:30:28.00 ID:KBSsRaRAj
よくわからんが遠州侠客について

森ノ太一(五郎の倅)を殺したのが山梨の周五郎。
山梨の周五郎を殺したのが、森の新虎。
森の新虎を殺したのが大岩。
で、平井の襲撃で大岩を殺したのが、森ノ太一の子分だった八五郎。

山梨の周太郎とは、四角山周吉のことか。

957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/30(金) 23:33:29.25 ID:f7K49S+yd
歴史的な文献をあさって、何か発見があったとしても、
心しておかねばならない大事なことは、
自分に才能があったわけではなく、
ただ、そういうものに出会えるだけのヒマと運が今の自分にあった、というだけの事だ。

958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/01(土) 13:19:13.53 ID:BifuwKikr
安政3年、武蔵国の小川村幸蔵が、弟梅次郎と子分と三人連れで、八坂神社で、隣村野口村の百姓二人と
口論になり、不意を打って二人に疵を負わせた。
仁侠親分にしては随分と小さな事件だが、これがアウトローとしての小川の幸蔵の動向の初出と言われている。

ともあれ、この時の喧嘩相手の百姓・野口村の源蔵も、最近の史料だと博奕の貸元をやってた人のようで、
つまるところ、この一件は渡世人同士の喧嘩だったらしいことがわかる。

結果的には歎願が出て、おとがめなしということになるのだが、当の負傷者源蔵が、幸蔵の為の歎願に
署名しているのが興味深い。幸蔵の威勢によるのか、源蔵の男気に拠るのかはわからない。

959 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/02(日) 23:43:45.77 ID:eYgUQFTaR
駿州由比宿 平野屋ノ三平

960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 00:40:04.25 ID:z/duPpfh0
甲州春日井辺りに、文七という渡世人がいた。
文七は下田の安太郎の跡目である常太郎の家で客死する。
文七、身なりは立派ではなく、むしろ小汚い格好であったが、褌の中に「五両」隠し持ち、
自分の葬式代としてそなえていた。
常太郎、その気持ちを組み、下田太安寺に、その五両を資堂金として立派な墓石を建てたという。
明治29年6月、日野原が苗字だと言う。

961 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 22:42:04.20 ID:z/duPpfh0
宮島ノ年蔵(俊蔵)の兄弟分だが、非常に評判の悪い親分が、本市場の金七。
別に加島の金七とも言う。

かつて甲州の、ある縞買い付け商人(名は伝わらず)が、吉原宿で惚れた遊女がいたので
見請けしようと思ったところ、金七がそれと察して、先に見受けし、妾にしてしまった。
商人はこれを恨んで、発起して中元奉公し、数年後、韮山で「足軽」身分となり、金七を捕らえることを主張した。
金七は一早く逃走したが、子分房五郎は捕縛されてしまい、韮山で二年間牢に入れられる。

962 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 22:50:30.93 ID:z/duPpfh0
ようやく獄を出た房五郎は、故郷に帰るが、既に子分は一人もいず、縄張りも
他所に取られてしまっていた。困窮していたため、自分の脇差を質に出すが、
そこから、親分金七とともに強盗を働いたことが知られてしまう。
(この脇差は「加島の源兵衛さん」の物だったと言う)
これを知った金七は、口封じのために房五郎を殺す。房五郎は剣は相当に使ったが、牢後の身で思うように動けず
無念にも殺害される。
更に房五郎の妻を騙して招き寄せて、わざわざ
海岸の砂丘に埋め、上半身をめった斬りにした。この殺人は目撃者が昭和の初めまで生きており、
彼に拠れば、「世の中にこれほどむごい殺人は無かった」との事である。

金七は、この一見を聞いた大場久八の怒りを買い、船に括られて海に流されたと言う。

963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/10(月) 22:54:52.43 ID:aPEQar/v3
昨日偶然にして長谷川昇先生の『博徒と自由民権』を古本屋で見つけ、購入することができた。
これは快作。
歴史学からしたら異端で、文章形式などもアカデミックではないかもしれないが、
情念と、何より「足で稼いだぞ」という気概が伝わってくる。
書店は頼むからこの傑作を増版してください。

964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/12(水) 23:05:51.21 ID:f1xQ/dJ/I
江戸末期の「村」は、たいてい今では電柱に貼られた「地名」になってる。
もう少し詳しいことを知りたければ、図書館に行けばわかる。
村のうち、大きい物が「宿」になり、たいていは街道の要地に当る。
次に大きい村は「町」になる。
博奕打ちの「親分」と呼ばれる者は、だいたい村に一人はいる。そして、町や宿なら
二人以上いることもざらにある。

松尾四郎はこのことを、現代で言うところの「パチンコ屋」に例えているが、
だいたいその通りだろう。

965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/12(水) 23:15:58.87 ID:f1xQ/dJ/I
当り前の事だが、博奕打ちに「悪い奴」はいる。どうしようもない人間。
しかし、良い人、素晴らしい人間も「いる」ことは事実である。
(もっとも、これはどの世界にも共通して言えることだが。)

少し飛躍するが…子母澤寛や長谷川伸が書きたかったのは、まさにそういう
一見社会悪と呼ばれる中に出た傑出した人格者なのだと、最近氏らの著作を読むたび思う。
そして共通して言えることは、彼らは「負ける」ということの価値を、知っている、または体現している
ということなのではないだろうか。

966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/21(金) 21:59:39.62 ID:tG5hvkpgU
色々と不明な点の多い神山村の栄五郎だが、明治六年の初春には南秋津不動(現・東村山市)
の鳥合せ(闘鶏博奕)の場に姿を現したことが記録に残っている。次郎長子分の愛之助、竹三郎を
連れていた。
そこから、中藤村の増五郎(博労の定右衛門の倅)の元を尋ねて旅銭をもらい、更に西へ行って、
師岡ノ孫八の元に逗留するが、孫八が既に引退していたのか、跡を継いだ馬之助の宅を訪れ
道銀をもらっている。
多分青梅街道沿いに移動したのだろう。そこから、大菩薩峠を抜け、甲州へ入ったか?と言うところで
この書類は惜しくも終わっている。

967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/21(金) 22:05:43.50 ID:tG5hvkpgU
田黒村ノ文吉

嘉永二年に東海道を騒がせた、田中村岩五郎、石原村幸次郎、五明村亀吉の
一派の一人で、早くから関東取締出役の手配書に名前を出す。
文吉自身も親分格で、五明村亀吉と兄弟分であったという。

968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/26(水) 22:58:22.12 ID:QVshA4pkY
「まさも、さけと、わかい、おんな
で、はらお、くさらせ、とても、ぜんかい、
なし、だんだん、かんかいて、
みると、かづのこお、しろみつで、
ひやして、みれば、よくわかる、
さけは、しろみづなり、つよいから、
たくさんのめば、はらがくさり、
ます、それだから、すてられぬ、
ひとには、よく、ねんごろに、おまゑさんから、よくはなして、おくれなさい、

五郎さんおよとりに
きめたからおたのみ
もおしますやまも
ことしからはみなこして
せいだいにするから
あんしんしておくれなさい
二月五日          山本 長五郎
山おか せんせいさん」

969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/26(水) 23:13:14.19 ID:QVshA4pkY
いったい次郎長の手紙は、見つかってる限り(写しも含めて)何枚くらいあるのだろう。
それまで文を書いたことに無い次郎長が、誰に習ったか、文字を書き始めたのは
明治に入ってからだと思われる。しかし筆致は素晴らしく、
配列といい、大きさと言い、他に類をみない。(と素人の私にも思わせる。)

上のは、明治14年のものと言われる。「まさ」は大政。米のとぎ汁に浸した数の子がダメになるように
酒ばかり飲んできた大政も、もういけない、という意味。(大政は、また、若い女にも当てられていたようだ。)
「五郎さん」は天田愚庵で、「およとり」(養子)に決めたとの意味。
「やまも」は富士市大渕の開墾のことを言うようだ。

970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/27(木) 00:01:22.88 ID:CF5TjuaHt
このスレッドでは三回も名前を書いた駿州由比宿の平野屋三平。
本姓は「畑」。没年は明治15年。(63歳と伝わる。)
この地方の大親分として、幕末期を生き抜いた。娘が一人いた。(シマと言ったとか、言わなかったとか)

宮島ノ年蔵や大場久八、更には黒駒勝蔵、鬼神喜之助と親しかった、とも言う。
それだけに、その最期は食客に扮していた博徒に刺されたとも、次郎長一家にやられたとも
伝わる。

971 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/27(木) 23:40:55.27 ID:CF5TjuaHt
天保八年時 天竺ノ乙五郎人相書

 方山村矣宿
 字てんじく事 乙五郎 酉三十歳
一、丈ケ高キ色白キ方
一、鼻筋通り高キ方
一、眼大キ方
一、顔角張りほをこけ候方
一、髪小まけはけすくなく
 其節之衣類
一、木綿紺かすり単物着
一、帯茶はかた〆

972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/27(木) 23:50:12.16 ID:CF5TjuaHt
「…入って来たのは音五郎、綽名は天竺の音と云ふ…(中略)…四五年前に片山村
に落ちついた。生まれが分からないと言ふ所より、彼奴は天竺で産湯を流したものだろうと、
そこでこういふ綽名をとった」(『講談・大前田英五郎』)

上州館林の江戸屋虎五郎は、武州新座郡岡村の生まれで、当時は「七五郎」と言った。
しかし当地に虎五郎所縁の逸話や史料の類は全くない。

唯一存在するのが、彼が対立した、と講談が伝える地元の親分の人相書だけである。
虎五郎(七五郎)は獅子ケ獄十五郎の義理弟・万吉と共に、天竺音五郎(音と乙は同音)
を襲うが果たせず、国を売ることになった。

973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/29(土) 23:18:15.61 ID:lL9VwiSwq
国定忠治は立ったまま刀を上下に振るだけで人を真っ二つにした、というが、
こと、博奕がうまかったとか言う話はきかない。旅先で津向文吉とその一行に会って、
目にもとまらぬ早業で壱両づつみんなに握らせ、「急いでおりやすから」と、その場を去ったとかいう話
には事欠かない。
次郎長は、若い頃は大層巧みなイカサマ師で「ゴロ長」なんていう綽名までついた
というが、晩年になると、全くサイコロなど持たず、荒地の開墾や英語塾に精を出した。
大前田栄五郎は言うに及ばず、黒駒勝蔵や江戸屋虎五郎、相ノ川又五郎なども
あまり博奕に関する逸話はない。

彼らに比べて、小金井小次郎は本当に博奕が好きだったようだ。
在島中、三宅島普済院の住職から博奕のために借金はするわ、
本土に帰ってからも、明治3年、是政村で博奕をして上州まで逃げて捕まったりしている。
賭けごとはあまり強くなかった様だが、本当に博奕が好きだったのだと思わされる。

974 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/06(日) 01:00:46.07 ID:yYy+NKLg0.net
「石松三十石船」は、本当に良いよね
滑稽で笑える作りなんだけど、「これから石松が死ななきゃならない」
っていうことを、それとなく暗示させていて、聞き終わった最後が
なんとなくさびしい。
石松っていう無類の好男児を、わずかの間に余すところなく伝えている。
まさに話芸中の快作だと思う。

975 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 17:07:22.16 ID:J0Xq/xSR0.net
花山薫の話をしようじゃないか

976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 22:29:36.99 ID:Bigy3eJZS
甲州青柳の市松・寅之助兄弟、別に「油屋の兄弟」と言う。
実家は青柳一の資産家で、宅から見渡す限り山裾まで油屋の土地だった。
兄弟は何不自由なく育ち、ある時隣の家の刈り取った稲の上で兄弟が相撲をとっていたことを
咎められると、「稲派皆買い取るから、二人の好きなようにさせてやってくれ」と父親の七兵衛が
答えたと伝わる。
ある年の盆の入りに、市川代官所の目明し「徳松」を斬り、国を売った。

兄弟は武州高山不動尊の高市で、関東岩五郎とその子分・喧嘩幸次郎(田中ノ岩五郎と石原ノ幸次郎)に会い、
意気投合して行動を共にした。各地の賭場を荒らし、甲州に戻って、津向文吉の女房(この時すでに文吉は島流しにあっていた)
に疵を負わせ、井出ノ久右衛門を暴行し、駿河へ出た。

977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 22:39:03.78 ID:Bigy3eJZS
後は嘉永二年の「石原村幸次郎一件」に詳しい。
味方が次々と江川代官所の手代に捕まり、あるいは射ち殺されるのをしり目に、
兄弟は故郷に帰って来た。寅之助は青柳の諏訪神社屋根上へ隠れたが、思わず
草鞋を落としたのをきっかけに捕縛された。兄の市松は身延山まで逃げ、寺の境内を血で
汚しながら討たれた。

油屋、姓は中込。代々見事な墓石を持つが、兄弟のそれは自然石の粗末なもので、
今では誰もわからぬ。元は二基あったそうだが、今は一つしかない。

プロレタリア文学作家の熊王徳平が特に関心を持ち、色々調べ、小説にする予定をたてていたが、
未刊に終わった。

978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 22:45:07.94 ID:Bigy3eJZS
974は随分昔に自分が書きこんだものだが、どういう理由でこのコピーが貼られるのか
よくわからない。
いずれにせよ、あと少しでスレッドも終わる。色々粗末な愚にも付かないことを書きこむのも
終わる。

979 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/09(水) 23:01:44.09 ID:ZlzqorO6a
次郎長さんは昔、なにかの出入りで内腿を刃物で切られたことがあった。
当時の治療は、膏薬を貼ってから自然に治ることを待つのが基本であったため、
場所によっては後で不便が生じることもあった。

次郎長さんの場合、切れた箇所が内腿と離れて、そのまま治癒した。
結果的に股の間に一本棒のような肉が出来てしまい、
晩年風呂に行くと、それを見た子供に「次郎長さんは珍棒が二本ある」とはやし立てられたという。

980 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/09(水) 23:10:56.42 ID:ZlzqorO6a
次郎長さんが数百人の子分を持つ親分となるに至った理由を、
小笠原長生(後の海軍中将)がある時本人に尋ねると、
「自分は子分を然る時は本気で叱る。けれど昔から決して人前では叱らなかった。
ひょっとすると、そのせいかもしれません」と答えたと言う。

次郎長は人の心の細かいところまで敏感に気を使うことに出来る人だったことが、この話から知られる。

981 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/09(水) 23:35:27.70 ID:ZlzqorO6a
>>947
久義氏は、明治40年に甲州国中を襲った大水害の時、子分を指揮して堤防の改修工事に従事させ、
工事終了後に思うところあって一家を解散させた、と竹内勇太郎先生が御本の中で書いておられますね。

また、子母澤寛氏が取材で伺った際には、「堅気様御相手ゆえに…」と終始頭を下げて対座をなさり、これに子母澤氏は
感激すると共に、ひどく狼狽したと書いています。

竹居の遊侠の名を後世に残したことを始め、思慮ある行いは、そのまま甲州遊侠の手本のような人だったのではないか、
と思わされます。

982 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 00:26:52.69 ID:WLAWFbGKy
なんでかわからぬが、その寺の墓石を調査すると、後で体調が悪くなるという場所が
確かにある。
これも馬鹿馬鹿しい話だが…昔年お寄りに聞いたとおり、塩(食卓塩で可)を両肩に振りかけると治る。
単なる自己暗示なのか、本当に効果があるのか、本当の所はわからない。

983 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 21:45:40.58 ID:WLAWFbGKy
甲府の三井卯吉は本名を宇七(宇七郎)と言い、屋号で呼ばれる時は両国屋宇七と言う名の
目明しを務めた。役職は正確には門前目明しと言う。甲府城の東門を出て竪近習町前に
治安を掌る「会所」があったので、まあその辺から門前と言うのだろう。(推測)

この卯吉を「猿屋勘助」とする説がある。この説は村松梢風が嚆矢となって唱えたのだが、
村松は聞き書きを多く行っているので、一概に偽りとは言えない。しかし「猿屋」は
甲府牢の官吏を任された下吏であり、更に言えば被差別身分であるので、甲府牢番20俵3人扶持の三井家とは
一致しない。

実は卯吉の殺害された安政四年の10月に、牢抜けが企てられ、その際、牢番下役の「伊兵衛」と言う者が殺された。
猿屋勘助はあるいは、この伊兵衛のことではないかと思われるが…今のところ、決めてになる資料がない。

984 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 21:49:01.77 ID:WLAWFbGKy
ちなみに
三井卯吉の殺害は安政四年の正月四日
牢番・猿屋伊兵衛の殺害は同年の十月十二日である。

985 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 23:50:01.69 ID:WLAWFbGKy
勢州塩浜地区に吉右衛門という親分が居た。この吉右衛門が嘉永2年あたりに
同じ勢州古市の丹波屋伝兵衛の賭場で騒動をおこした。
その際、三州平坂の相撲取り頭にして侠客の伴兵衛(栗谷川伴兵衛、桐生ノ伴兵衛)が
丹波屋側に付いたため、吉右衛門が怒り、武州岩五郎、幸次郎らに依頼して七月二十日ごろに
伴兵衛を殺させた。

986 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/18(金) 15:17:11.26 ID:0KsXB8HB0.net
明治40年、当時街道一厳格な親分と言われた、神奈川の半鐘兼さん(堀井兼吉)が、
全国の大親分の霊牌を並べて大法要をした際の順位は、次の様であったという。

1.大前田栄五郎
2.大場の久八
3.丹波屋伝兵衛
4.丸屋の忠吉
5.相模屋政五郎
6.新門辰五郎

(7位以下は不明。次郎長、勝蔵、小金井小次郎などの名はずっと下にあった。)
(*子母澤寛『男の肚』より)

987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/19(土) 08:49:47.08 ID:iPh/NoDq0.net
強きを挫き弱きを助けるような任侠道って本当にあったのかね・・・。

はだしのゲンでは作者がやくざへの憎悪をむきだしにしてた。
被爆者の生活を食い物にするやくざ。

988 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/21(月) 00:26:08.58 ID:SZiITELCe
伊勢古市の丹波屋伝兵衛は、当時相撲伴兵衛の兄弟分だったため、伴兵衛の仇打ちと言って、
嘉永二年四月五日、遠州小松村庄太郎の元に逗留していた岩五郎、幸次郎らを
急襲した。
引き連れて行った面々は長州無宿伊達五郎、豆州無宿浅五郎、為五郎、駿洲無宿嘉吉、
相州大山無宿金五郎、上州館林初五郎、同相撲次郎、同千吉、其の他八人。その中には伴兵衛の
倅も入っていたと記されている。また、待機組として大場久八が、これも子分を引き連れて後方に
控えていた。

989 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/21(月) 19:39:57.36 ID:Y7/Rjc1x0.net
侠は見返りを求めてはいけない。
見返りを求めたら、それは侠ではない。

990 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/31(木) 22:57:15.48 ID:MCKP467Ic
このスレッドだと829に当る方からご教授いただいた「季刊・清水」の該当部分を
ようやく手に入れた。ものすごい良資料・すぐれた論文の掲載された雑誌で
まさに目から鱗。これを目当てに清水の図書館へ行って本当に良かった。
とくに勝瀬光安氏の「和田島太左衛門」の研究には貴重な情報がたくさん載っていて素晴らしい。

このスレッドで情報を頂けて本当に感謝しています。

991 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/31(木) 23:15:34.80 ID:MCKP467Ic
さて上の論文の中で、和田島太左衛門(太右衛門ではないとのこと)が官吏に捕まり
入牢の身になったことを示す兄や本人の手紙の翻刻が載っているが、
おそらくこれは嘉永4〜5(ないしは6年)のものであると思う。
というのは発端になった「由比宿の喧嘩」が嘉永4年に起きていることを示す史料が存在するからだ。

嘉永四年五月、由比宿の由比川とぶつかる海辺の道で博徒同士の喧嘩があり、十二人対五人。
五人の内、腕に覚えのあった信州の駒吉が奮闘し、後の四人を逃がした。
駒吉は結局、鬼神喜之助の刃を受けて倒れるが、12人の相手側にも多大な疵を負わせた。

この十二人の打ち分けは太左衛門子分と市川無宿喜之助の子分連合だろう。

992 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/01(金) 22:14:32.49 ID:juPHZWsY+
討ち死にした駒吉は公の資料では「信州無宿」とのみ記され、当時の風聞では
岩渕の弥七(岩渕源七のことだろう)の子分であるとされている。
この出入りには和田島太左衛門は全く関わってなかった、と手紙には書かれているが
多分そうだろう。ただ親分であるからには、彼も責任を取らねばならず、わざわざ武州まで逃げて
八王子近辺で八州回りに捕まったらしい。

おそらく「安東文吉伝史料」にある、由比における太左衛門と岩渕源七の喧嘩の元ネタはこれだろう。
「伝史料」では喧嘩の真っ先に太左衛門方の次郎長と、源七方の坊主勝が一騎打ちをしたと書いているが
これに関してはほんとかどうかわからない。

993 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/03(日) 22:47:26.28 ID:qWyXMQRIQ
穂北久六(初名は惣七)は今の愛知県一宮市の出生である。

母「のよ」が名古屋城下に奉公している間に、ある武家(名は伝わらず)との間に生まれた。
のよは幼い惣七を連れて出身村に帰るが、直後に隣村へ息子を養子に出し、自身は再婚する。
惣七は太左衛門という者に預けられ、13歳までを太左衛門の元で過ごした。
やがて川向うの村へ中間奉公に出され、奉公中に八尾ケ嶽の四股名を持つ相撲取になったようである。

細かい村名は伏せた。今のところはこれぐらいしかわからない。

994 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/03(日) 23:19:28.62 ID:qWyXMQRIQ
上のスレッドで、よく調べもしないまま袋井の四角山周吉を悪者の様に書いてしまったが、
「実談・原田常吉」によれば、遠島になろうとした常吉に、なんとか恩赦をもらえるように
雲風亀吉と共に運動したのが、この四角山周吉だったことを今さら知った。

早くに亡くなってしまった人は、後でなんとでも悪く書かれるものである。
四角山周吉だって、相当な侠客だったのかもしれない。袋井・用福寺の墓石も
実に堂々とした立派なものだ。

ちなみに元の四股名は「三毛猫」といった。

995 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/07(木) 18:24:18.84 ID:PTpbVIzE0.net
>>987
あるわけがない。
今も昔も人間は同じ。
どうせただの作り話だろ。
ほんと昔話はガセが多い。

996 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/08(金) 23:17:13.61 ID:a7wnC2tW0.net
釣りじゃないなら伊藤春奈『幕末ハードボイルド』読んでみ
話はそれからだ

997 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/09(土) 10:02:36.32 ID:w4/XHcBzU
このスレッドに散々書きこんできた我々は、「遊侠」の話が好きなので善い面を多く
強調して話題に上げてきたけど、995氏の様な見方は当然あると思うし、そういう態度も重要だと
は思う。「侠客・博徒・ヤクザ・渡世人・長脇差…」色々呼び方のある者を、手放しで
英雄視する気は毛頭ない。むしろ、騒動や紛争の源になることの方が古今多かったとは思う。

ただ中に何人か、見事で爽快な生き方をした人がいることも本当だし、そういった話題・伝承を
取り上げることは意味の無いことではないと思う。

998 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/09(土) 10:07:17.37 ID:w4/XHcBzU
八王子のソバ亀親分の手紙

本日六日御差出シニ相成候御書翰、同七日正午三十五分ニ落手、拝見致シ候処、
御老人様事、ツイニ去ル三日郡内谷村ニ於テ御病死相成候由、實ニ以テ驚き入候。
サゾ御家内御中様、御シウセウ之至奉察候。最早御老年ト云ナカラ甲州江御出立、
之折ニモ今少シク小生方ニ御滞在、全ク御病快気之上、御出立被致候様、呉々モ
御老人様ヘ申上候得共、日頃之勇気出立ト御自分ニ決定被致候ニ付、最早壮健ニ
相成候ニ付、是非共上ノ原江趣キ度ト被申、小生方ヲ出立上ノ原町え御越ニ相成共
御地ニテ病気再発ト聞、小生之心痛斯ラズ日々夜々安シ病ヒ存候ニ付、今日早朝
上ノ原町ヲ御立、最早御帰宅ニ相成候哉、如何御病気之趣キ如何伺度、御貴家宛ニ
三島町合川氏迄御伺ヒ御書面ヲ差出シ候処ヘ葉書落手、右之趣キ誠ニ家内中驚キ入
申候。直様小生ニ於テモ参上致シ霊顔ヲ拝シ度存候得共、最早御埋葬ニ及ビ、廿六年
三月十三日、壱百日霊ニ付、其節本葬式之由、御通知ニ相成、依テハ其日参上仕、霊位
ヲ送リ奉ルヘク候。乍去三島町合川佐十郎氏江、宜敷御伝可被下候。先ハ御見舞迄斯ニ
御座候。恐々敬白   
八王子横山 亀吉 拝 (明治二十五年) 十二月七日

☆ 御老人とあるのは大場久八の事、これは久八が亡くなった際に出した手紙。

999 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/11(水) 19:29:02.30 ID:RqhsyDShC
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1000 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/12(木) 23:09:13.83 ID:r4D1XOCwB
でーぷのぶぶんのねつぞうわすれたな なんだっけな

どなたのどのばんぐみのどのしーんはおぼえてるけど

1001 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/13(金) 23:20:33.59 ID:KW2dc0I+I
くだらない広告で1000を越えてしまったが、どうしても書きこむ必要があるので。

青山光二という作家は、素晴らしい作家。
都田三兄弟や父の火の玉源八を考証した「都田一家の終焉」も忘れてはならないが、
それを離れても『吾妹子哀し』は知られるべき著書だ。
むろん「都田の終焉」も貴重な伝聞・研究資料だ。

1002 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/18(水) 21:49:34.88 ID:oZgjIHCU6
まだ書けるようなので、丹波屋伝兵衛をまとめておく。
伝兵衛こと竹之助は、本姓「半田」(「多田」とも)。出生は伊豆国田方郡多田村で、
父宗右衛門、母りうの長男として文化十四年に生まれている。伝承では姉に「しず」がおり、彼女は大場久八の最初の妻になったという。
天保10年、23歳の時に博奕の罪から中追放の仕置きを受ける。その後弘化4年、再び博奕で捕まり、韮山の牢に入れられるも
牢抜けを成功させ姿を隠す。この時点で既に「丹波屋」と呼ばれているので、伊勢古市とのつながりは出来ていた。また「重き咎人」とされ、
子分も数人かかえるとの記述があるので、相当な侠客と成っていたようである。
嘉永2年には東海道で武州の岩五郎・幸次郎らと抗争し、4月には自ら得物をとって斬り合いに及んでいる。
この後暫く資料に名が出ない。
文久元年、菊川の手打ちで赤鬼金平と次郎長の間の仲裁人を務め、街道筋に貫禄を見せつけるが、
勝蔵と次郎長の抗争の際には、勝蔵派に組みしていたことから、次郎長の敵役として位置付けられ、
『東海遊侠伝』を通してあまり良いようには描かれていない。
しかし、実際にはその後も伊勢の古市の大親分として勢力を保ちつづけたようだ。

1003 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/18(水) 21:52:37.15 ID:oZgjIHCU6
理由は不明だが明治23年2月に、養子の「竹助」の実家である静岡県榛原郡川根本町に家族総出で転居し、
同年11月には今度は武州八王子の横山町に移っている。翌月12月16日に同地でなくなった。
八王子で彼を招き、面倒を見たのは「蕎麦亀親分」こと伊野亀吉。
伝兵衛の孫娘「たま」は、亀吉の養女として育てられ、伝兵衛死の直前に亀吉の家に籍が移されている。

伝兵衛は当時第一級の侠客とうたわれ、昔伊豆で世話になった村の人々を定期的に古市に招き、大層な歓待をしたと言う。
また、御一新の際には、伊勢に侵入してきた暴徒を子分を指揮して押さえたとも、
官軍と幕府軍の生き残りとの戦を説得して止めたとも伝わっている。

1004 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/21(土) 14:36:00.10 ID:U2C7bf0lB
和田島ノ太左衛門事 上田竹次郎に関して、最も古く豊富な情報を
記載している資料は、大正5年の『両河内村誌 下編』だろう。
貴重資料だが、有り難い事に静岡県立図書館の「デジタルライブラリー」で閲覧が可能だ。
これだとページ番号「109」から数ページに渡って彼のあらましが載っている。

有名な「和田島竹さん、火事より怖い 火事じゃ身ぐるみ焼けはせぬ」の歌も、これが出どころのようだ。

1005 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/21(土) 22:08:06.17 ID:U2C7bf0lB
遠州小松村七五郎は、代表的な打会士(=半可打ち、または親分を持たぬ博徒)であり、実在の人物で瀕死の石松を匿ったという人。
その妻が「おその」で、これまた女傑。
石松を探しに来た都田三兄弟を小脇に抱えた鎗と気風で追い払った。(夫に勝る大酒飲みで170cm長身。しかし不世出の美女。当時36歳。)
このおそのの義親に当る者が「庄太郎」。近隣に評判の良い人物で通称「題目庄太郎」。
甲州石和の人だったと伝わる。実は七五郎の方が流れ者で、庄太郎晩年にこの家に草鞋を脱いだ所、庄太郎に認められ、
おそのの旦那となって一家(?)を継いだらしい。

なぜ、こんなことを書くかと言えば、今まで「庄太郎」という人の伝承は嘘だと思っていたのだが、
江川文庫の嘉永二年、関東岩五郎・幸次郎が匿われた家が「遠州小松村庄太郎」とあることから、実在の人物と分かったことによる。(ここから岡田村の斬り合いに及ぶ)
「森ノ石松」自体が謎に包まれる一方で、その周辺の人々の伝承はかなり正確であるということは一寸面白い事のように思える。

1006 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/23(月) 21:56:07.98 ID:xcyhYygAU
東京都奥多摩河内村に「鶴の湯温泉」という幻の温泉場があった。
現在では小河内ダムの底に沈んでいる。

ここの逗留していた悪党を捕らえるための許可を武州の田中屋万五郎に
願い出た祐天仙之助の手紙が残っている。

1007 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/15(水) 22:56:59.35 ID:28SmoLi60
上記の手紙だと、仙之助は「萩原村」での刑事事件を担当しているらしい事がわかる。
彼は勝沼から、青梅街道の入口に当る萩原村(現・甲州市塩山)までを掌握していた。
萩原村には通称を「街道端(けいどうばた)の親分」と呼ばれた「萩原の秀蔵」がおり、
祐天とは飲みわけの兄弟分となっていた。

安政四年、この秀蔵親分が、同村の「太吉」と「あやめ」という若い恋人同士で、
親に夫婦になることを反対されている若者二人を説き伏せて、江戸へ欠け落ちさせた。
両人は故郷から出た出世頭・真下晩ッを頼り、新たな生活を始めるが、この二人の間に生まれた子供のうち、
二番目の娘が、後の天才女流作家・樋口一葉である。

1008 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/17(金) 20:53:58.20 ID:grn8B4QYX
清水次郎長と黒駒勝蔵の抗争は幕末の仁侠抗争史の代表だが、
実際に大規模にぶつかったのは
文久3年6月の平井の襲撃(愛知県豊川市平井)と、
慶応元年6月(と推定される)の富士川の抗争(静岡県富士市)の
二つの戦いだろう。

1009 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/21(火) 23:18:45.96 ID:VgGgTMHzz
明治43年からおよそ一年の間刊行された「週刊多摩新聞」には「小金井小次郎実動」という
連載小説が掲載された。作者は確か柳雷子(間違ってたらすみません)。

結局新聞自体の廃刊により、砂川村での喧嘩あたりで未完に終わるが、登場人物中に、
塚(現・三鷹市)の貸元、鍛冶留事・境村の留吉が出てくる。留吉は神山栄五郎との間で喧嘩になりそうな
雰囲気の中登場し、小説では無事に女房の元へ帰って来た、と言う所で終わっているが、
本当の所は、結局栄五郎一派によって命を落とす。
その仇を討つために陣屋が栄五郎宅へ乗り込むが、栄五郎と人違いした男を殺し、
帰って官憲に追われる身となる。
小説はそこまでは描いていないが、今日残る資料から、作者がそこを狙ってたことがわかり、
未完に終わったことが、返す返すも残念に思われる。

1010 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/23(木) 23:11:23.00 ID:gTgV5MwY4
日本では「明治八年」に警察機構が出来上がった(明治五年とも言う)とされるが、
それより前の幕末期に、既に「警吏の機構」が出来あがっていたと考えられる。
幕府領の都市部や藩領では「目明し」が連絡経路も含めて系統だった機能を持っていたし、
関東の村落では「道案内」が「頭」を中心にした連絡・命令網を用意していた。
これらはアメリカで言う所のsheriffの様なものだったと思われるが、明治に入ると、近代警察機構の登場により、
急速に瓦解された。

明治にはいって暫く「探偵」という職業が存在したのは、あるいは道案内・目明しの末路だったのかもしれない。

1011 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/27(月) 23:16:59.76 ID:tvyiR7ovm
松尾四郎の『竹居吃安 正伝』という本は不思議な本だ。
実際のところ、2017年の現在を以てしても、その全てを検証しきれない。
しかし、検証できる所は全て正しい。
松尾氏には40年くらい先くらいまでが見えていたとしか考えられない。この分野に関して
子母澤寛、今川徳三、高橋敏、高橋修などが太刀打ち出来ぬ程正確な史料を
早い段階で揃えていた。本当に恐ろしい人だ。

1012 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/04(月) 22:18:04.44 ID:sTG2sHMFr
大沼田村の周蔵

1013 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/13(水) 22:15:41.30 ID:TNrAD5s0Y
笹川の繁蔵と飯岡の助五郎が利根川で戦う、所謂「天保水滸伝」について
書かれた小説は多いが、白眉なのはやはり中山義秀の『平手造酒』だろう。
力量のある作家の筆だけに話としても、面白いが、逸話の類もかなり正確なものを
吟味して書かれているからだ。
今だと「ちくま文学の森」シリーズの『もうひとつの話』に収録されているそれが、一番手に取りやすいだろう。

1014 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/13(水) 23:07:14.35 ID:TNrAD5s0Y
あらためて黒駒勝蔵一党

 三州平井村雲風(亀吉)、駿州安居山佐左衛門、遠州米吉、駿州宮嶋村年蔵(←四人は勝蔵兄弟分)
 塩田村玉五郎、八代村綱五郎、八千蔵村要次郎、成田村岩五郎(小岩)、中川村岩吉(大岩)(← 玉五郎は軍師、以下は四天王)
 八代村村千代蔵、同多一郎、北八代村多五郎、八幡北村猪之助、同村勝吉 黒駒村惣吉、同村林兵衛、同村乙助、武川村由五郎、甲州吉五郎
 古府中与五郎、落合村角太郎、国分村乙吉(大乙)、東花輪村乙吉(小乙)、轟村大五郎、
 遠州掛川宿万平、 遠州森村秀五郎、三州勘作、同清五郎、同寅蔵
 信州喜十郎(喜三郎とも)、信州文五郎、同州清五郎、信州飯山軍之助、松本在繁蔵、肥後次三郎、狐新居村兼吉、郡内吉田村房吉、同藤次郎、同庄次郎
 郡内川口村安太郎、 伊豆無宿与兵衛、伊豆無宿国五郎(赤鬼金平倅)、同熊五郎、越後伝作、下田常五郎
 中川村新左衛門、成田村文作、駿州吉原宿勝太郎、小笠原村伊三郎、
 正徳寺村太八、上万力村森太郎、同照太郎(←正徳寺一家)、甲州築山村与十、栗原宿庄太郎、 身延村鉄蔵
 坊主鉄(駿州岩渕繁八)、永井村新助 、尾州一ノ宮久太郎、同州遠治郎、濃州熊五郎、伊勢惣五郎、奥州啓次郎、
 相州吉野宿輔次郎(ただし、黒駒出生)、浪人富(剣道達人)、浪人市之進(剣道達人)

1015 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/15(金) 23:58:47.19 ID:uMluSo7Ta
小金井小次郎の四天王と呼ばれる子分(自らは親分)に矢畑の藤五郎(藤蔵とも)がいる。
別に仙川の藤五郎とも言う。今で言う所の調布市と三鷹市の間のようなところに居住していた。
上にも記した『週刊多摩新聞』の小説だと「小金井一家一番の知恵者」と書かれる。
また小次郎の墓石には、陣屋三之助に次いで二番目に名が上がってることからも
その威勢が知られる。姓は高橋。
しかしながら、今日墓石はおろか逸話、資料の一切も残っていない。
と思っていたが、一通だけ安政3年の文書があり、それによれば
「小金井小次郎の子分として、小次郎遠島の後は自ら親分を名乗り、その配下を引き連れ、
府中宿で博奕渡世をし、上がりを親分小次郎遠島場所へ送っている」と記されている。
勢力からしても、また小次郎への忠誠心からも、藤五郎は四天王にふさわしい博徒である。
なお、彼は生涯百姓として生き、「無宿」とはならなかった。

1016 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/28(木) 00:31:13.58 ID:nclit2hXj
武州二子村の子之吉

1017 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/01/31(水) 13:40:08.80 ID:I/Y5AjPQ0.net
近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
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1018 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/14(水) 23:10:27.31 ID:NcdSce0uw
「湊屋伝兵衛さんは畳をしょって死んだ」

毎回ながら甲州の話で恐縮だが、韮崎宿に伝わる歌の一つ。伝兵衛ではなく
「善兵衛」が正しい。湊屋善兵衛は姓・岩下。元々は甲府の博奕打ちで流れ流れて
韮崎宿の湊屋に婿入りした。兄弟分には宇津谷の伝右衛門がいる。
明治の初年(三年か四年ってとこか)出入りで負けて敗死した。
畳をどんと上に積まれて、その上に相手方の親分がデンと座ったら、肉片がつぶれ目玉が飛び出し、
悲惨な姿で亡くなったとのことだ。場所は御勅使川の河原とのこと。

1019 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/15(木) 22:56:30.94 ID:Kcpl9Sx5J
みんな一体どうしてしまったのだ?
と思うくらい、明治になると突然手紙の文体が変わる。正直言って幕末より
明治初期の古文書の方がはるかに読みにくい。これは実感だ。

なわけで津向の文吉事宮沢文吉親分の、八丈放免以降の手紙は、
たとえ、写しを手に入れていても、読解に難を要する。文字は整っていて、細く、見た目優しい字である。
実際は帰国後、博奕に凝った若者衆を更生させるに際し、
とにかく「怖い人」と逸話が残るほど、威厳と貫禄を持った親分だったそうだ。

1020 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/22(木) 23:29:04.17 ID:NOT7fRhvf
『歴史読本』(昭和46年3月特別号)は「幕末任侠伝」と銘打って、その種の
研究、文学、逸話を中心に据えた実に力の入った号になっている。
執筆陣も青山光二、八切止夫、江崎惇、中田耕治、竹内勇太郎、今川徳三
と豪華だ。
どれも有用な内容揃いなのだが、なかでも中田氏の「博徒勤王に奔る」が看過できない。
氏は幕末の混迷期において、重要な役割を果たした侠者として、次郎長、勝蔵、津向の文吉、
長楽寺の清兵衛、日柳燕石と並んで、武州「腰塚喜三郎」という人の略歴を挙げている。
北武州で相当な勢力を張った人なのだというが、
不勉強のため、この人に関して全く知識が無い。また史料・逸話の類を見つけられないのだ。
ネットもない、その時代。やはり一流の研究者の知識は広く深いものだと改めて思わされる。

1021 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/22(木) 23:39:45.25 ID:NOT7fRhvf
小堀茂三郎(小森とも言う)は八丈島に長いこと流されていた侠客のようで、
後に江戸に帰り、上万さんに劣らぬ貫禄で知られた。
最近どうやらこの人の手紙らしい、三宅島遠島中の小金井小次郎へ出した手紙を
見る機会があったが、残念ながら保存状態が悪く半分も読めない。そもそも茂三郎のこと
じたいあまり知らないと言う不勉強さもある。近デジには彼の伝記講談もあるのだが、
なかなか手がつけられないでいる。

1022 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/27(火) 00:19:39.86 ID:xhhw3t6w5
仁侠の学術的研究は、中野好夫が「もはや戦後ではない」と発言してから二十年間あたりがピークだったと思う。
もっとも戦前には、そういった人々の実体を重視する研究者が多く居いたし、
上に示したように昭和40年〜60年には斯界の隆盛をむかえた。
「木枯らし紋次郎」が放映されたのが昭和47年。昭和61年には藤田五郎先生の『仁侠大百科』が刊行されている。

ついで2004年(平成16)の『博徒の幕末維新』高橋敏から先がうまく研究者を引きつけて
この分野を引っ張ることができれば、博徒の研究は進むし、ひいては、それが近世の「民衆」研究に繋がってゆくはずだ。

1023 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/28(水) 23:30:06.19 ID:wpDnWUvm/
野崎の藤五郎

1024 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/04(日) 23:07:55.80 ID:hBYuG2SA0.net
飯岡助五郎

1025 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/05(月) 22:40:57.29 ID:l5tycKipo
武州野崎村の藤五郎は小金井小次郎子分だが、天保12、13年あたりの生まれ
ということから鑑みれば、幕末期の子分ではない。おそらく陣屋三之助か矢畑藤五郎の
子分として売り出したのだろうと思われる。地域ではかなり良い顔の親分だったと伝わっている。(姓・岩城)
一度は成らず者を捕らえたことで、神奈川県から褒章も受けている。
彼の常賭場は深大寺門前の米屋藤助(米屋といいながら酒屋も兼ねていた)。
見た目は、

中丈中肉顔長き方、
色浅黒く眉毛濃き方、
鼻筋通り、髪の毛薄き方

だそうだ。
残念ながら墓碑がどこにあるのかは今のところ不明。

1026 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/06(火) 22:36:57.24 ID:dkkkghuDm
ウィキペディアに「辺見貞蔵」の項が立った。
正直このメディア媒体は嫌いだったのだが、今回は素晴らしいと賛同できる。
一度は聞いたことがあるという盛名の割に、
余り知られていなかったこの侠客のあらましが実に詳しく活写されており、
後進の研究にも道を開いたと言えるだろう。
とても教えられるところが多かった。

1027 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/11(日) 22:18:50.29 ID:9u0c+B1fR
上総三直の玉吉

1028 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/22(木) 00:11:04.71 ID:itFVWA7eU
小島の米こと、杉山米吉
武州五宿(現・調布市)から神奈川にかけて名を知られた。
三多摩壮士とも交友があり、触れれば切れるような威勢の良い男だったと
伝わる。

米吉の屋敷には裏道がなかった。杉山家は名門であるが、これ以上
裏道を歩かれた日には堪らない、というのがその理由だったそうな。

1029 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/22(木) 00:29:06.02 ID:itFVWA7eU
小金井小次郎が三宅島から帰って来た当時、
若い者のなかで際立っていた者が、小島の米と新橋の長蔵。
米吉は、武州から相州にかけて侠客仲間の内で広く名を知られた。
一方長蔵は地元の堅気衆から「親分、親分」と慕われて何かにつけて頼りにされたそうだ。
家業が菓子屋だったことから、花見の頃にはたいそう忙しかったらしい。

二人に並んで、よい顔だったのが、神山の辰五郎に小川の幸蔵、陣屋の民五郎(三之助の倅)
二代目稲荷の増五郎、砂川の平蔵。
詳しいことはわからないが、砂川の平蔵などは、明治の刀狩り令を逃れるために
知り合いの百姓の田んぼに刃物・鉄砲などを全部埋けて隠したとか。

残念だが「丸辰」こと新宿の仁三郎のことは、私は全く知らない。

1030 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/28(水) 21:16:27.10 ID:y5Yy6dpih
二階の弥太郎

1031 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/02(月) 17:51:44.58 ID:p+kWlLJ8i
>>1026

逸見貞蔵は東京では逸見の親分として尊敬を集めたと『関東侠客列伝』にある。勿論、貞蔵の子分である小川卯兵衛、卯兵衛の子分である井上吉五郎の存在を抜かせないが、当時とすれば生きた伝説の大親分だったのだろう。



しかし、時代は内川寛次郎、坂本林之助、前述の古河吉こと井上吉五郎、金子政吉に移っていく。明治期に内川が死ななければ面白い絵がかけたんだろうな。

1032 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/03(火) 00:03:07.39 ID:x7SMohG71
さらっと「金子政吉」氏の名前を出すとは…すごいな 御見それしました。

佃政、川越寛次、秩父の中金三郎氏などは、本当に「侠客」と
呼べるような生き方をした人たちですよね。残ってるエピソードを読んでも
思わず背中が正されるようです。
貞蔵氏は、更に彼らの模範となるような大親分だったのでしょうね。

1033 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/15(日) 23:38:41.06 ID:q36sA0/oD
悟道軒圓玉は侠客物を得意とした講談師で、慶応年間の生まれという。
彼のモノとされる講談は多いが、まさにそれこそ、「講談師みて来たような事を言い」
との言葉が当てはまるだろう。決してけなしているわけではなく、嘘も多いが、
誰も知らない様な真実も盛り込んでいる。
白文館の「祐天仙之助」などはその最たるもので、本当らしいところも多いが、明らかな嘘もある。
しかし、「読み物」として洗練されている。

この作品で祐天仙之助の最期の様子、つまり切られた箇所は、当時の検死に基づいた
かなり正確なモノになっている。しかし、大村・藤林、更に市川文蔵らが画策して
祐天の刀に「松やに」を抜き、抜けないように細工したとの解釈は
何が出どころか、イマイチわからない。しかし、他の部分が正確なので、あるいは事実なのかも
と読み手に思わせるだけの力量がある。
これに比べれば、中村彰彦の考証などまるで当てにならない。

1034 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/15(日) 23:40:45.82 ID:q36sA0/oD
すまん。「松やに」を抜き、
ではなく「松やに」を塗り、だ。情けない…

1035 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/16(月) 21:29:17.99 ID:5xY7m1sSf
博徒・仁侠の者と言えば、それを取り締まる八州回りや道案内(岡引)の旦那
などが対として付き物だが、その背景には当然、それ相応の「世相」がある。

「改革組合村」は文化十年に関東の主だった村々に敷かれた、治安維持の代表的制度だが、
実際には天保4年の「寄場圏」の設置によって本格的な警察制度として機能し始めた。
不覚にもこのことは全く見落としていたが、
宮沢孝至氏の「江戸周辺農村の取締構造―『寄場圏(おり)預』制を中心に」(『地方研究』1990年4月)は見事にこれを解き明かした
労作である。28年も前の研究である。惜しい事に著者はこれ以降、続く研究を世に出していない。

1036 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/20(金) 23:44:03.09 ID:+k5u5HvUl
信濃屋喜兵衛

1037 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 00:20:08.90 ID:aoJMy6ugp
小金井小次郎が天保15年、木更津で捕まったのは事実だけど、
一ノ宮万平も文政元年以降、長い間上総国に隠遁していた。
田中屋万五郎は、どういう理由か上総の道案内の任命権を持っていた。

武州多摩の侠客と総州博徒との関係は、相当に根深いものがあるようだ。しかし、
これは多分深く調べてもわからないだろう。

1038 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 21:43:08.42 ID:aoJMy6ugp
「武井の吃安」は間違いで「竹居の安五郎」だ、と厳しく主張するむきがあるが、
それこそ一体何に依っているのか、と問いたくなる。
近世後期の「呼び名」、あるいは「氏名」そのものが流動的(つまり、ある意味いい加減名もなもの)なのである。

往時は、本名が変わることなどザラにあったし、終生綽名でしか認識されない者もいた。
あるいは名のはじめの一文字でしか呼ばれなかったこともしばしばあった。(彦さんや勝さん等)

というわけで、竹居の中村安五郎は、「武居吃安」で正確なのである。

1039 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 22:04:26.04 ID:aoJMy6ugp
990であげた勝瀬光安氏という方は、研究者でもありながら自身、剣聖・中山博道氏に道を学んだ
武術家であることを知った。
勝瀬氏の流派は、本家本元の「水?流」であり、これが漫画の拝一刀の流派と偶然にも一致したそうである。
よって拝を演じた若山富三郎などが、実際に弟子入りしたと言う。

かなり余談だが、勝瀬氏の師に当る中山博道は、
本部朝基に学んだ小西康裕の空手を、「素手の剣術」として認めていたとのこと。
往時の剣術家の慧眼には戦慄すら覚える。

1040 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 22:06:29.05 ID:aoJMy6ugp
「水おう流」と書きたかったのだが、文字が出ないな。残念。

1041 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/29(日) 23:22:50.81 ID:GoW7RXM9n
東京大学土屋家旧蔵文書(デジタルアーカイブス)にある「武州石原村幸次郎並びに与党取調一件」
が、嘉永二年の「石原村無宿幸次郎事件」に関しては一番詳しい史料である。
一党の成り立ちや、出入りに至った経緯、匿った地方の親分衆の名など、どれも興味深い。
残念なことは途中から史料事態の保存状態が悪くなってしまい、ほぼ閉じられた頁の中央に穴が空いてしまってる
ことである。うまく残っていれば鰍沢での周徳の殺害や、津向文吉らの動向が
明らかになったかもしれない。

1042 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/30(月) 22:43:34.82 ID:I7x/+M5ak
甲州正徳寺村の太八(多八)は、およそ文政元年の生まれ。
別名源左衛門ともいい、年番ではあるが、一度は名主も勤めた程の家柄である。
竹居吃安とは兄弟分だったと伝わる。
吃安没後は黒駒勝蔵に協力した。主な縄張りは甲州街道栗原宿。近村塩後村の兵右衛門事
塩山前の藤太郎とは激しく対立した。太八が黒駒、藤太郎が祐天についたのは極めて面白い。
外見は「中丈」で「常体」と、これといって特徴のある要望ではなかったらしい。
万力生まれの森太郎・照太郎と言う良い子分がいた。

逸話としては、吉原の遊女に懸想して、嫁にしたが「金に物言わせる態度」についに嫌われた
とか、塩山藤太郎との出入りで事の成り行きがてら、自分の子(嬰児)を殺害して
相手方の食に饗した、とか
眉をしかめるような逸話しか残っていない。

1043 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/30(月) 22:59:25.59 ID:I7x/+M5ak
侠客研究は一種の民俗学なので、やはり興味を持った人物の地元へ行って、地元の図書館にある
地元の研究者の書いた本を探すことが大切である。その中にたった一行でも大事なことが
書かれていることがあるからだ。

しかし、今日、図書館の有り様は「アーカイブス検索」とか言って、係員が「キーワード」を
パソコンに打ち込んで「お探しの図書はありませんね」とか返事をする、陳腐な仕組みになってしまった。

ところが昨年東海地方のある図書館を訪れた際、そこの司書さんは「後で連絡差し上げます」
と言って、その後本当に詳細な情報を教えて下さった。
嬉しかったので思わず、「何故そんなことがわかったのですか?」と尋ねたら、その人は恥ずかしそうに「目視で一冊づつ探しました…」
とおっしゃた。しかしそれこそ本物の司書と言うべき方だ。こういう人に会うと感謝してもしきれない。その時は本当に頭が下がった。

1044 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/04(金) 17:33:54.62 ID:xDuTtDS+0.net
元和泉村無宿甚蔵

1045 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/07(月) 00:20:11.83 ID:SBSS1qnwh
鳥沢の粂は
本名を粂吉と言うらしい。
猿橋に飛び込み、警吏の目をごまかしたというのは、本当だ。
しかし後に此の話は国定忠治、大場久八、祐天仙之助の逸話とすり替えら得て
継承されて行った。
粂自身は信州まで逃げ、「神田の豊吉」という親分の比護の元旅籠屋を営み、
病没したそうだ。
堅気になってから、その長男がやはり博奕打ちになった際、「お前がその家業を続けるなら
今、俺がお前を殺して、おれも自死する」と言った逸話はそこそこ有名だ。

粂は鳥沢宿の組頭の家の親類だとのこと。なお墓石・史料の類は上記を除いて不明。

1046 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/07(月) 23:56:39.40 ID:SBSS1qnwh
『仁侠大百科』によれば、小金井小次郎の子分で、どういうわけか
清水次郎長に気に入られ、その一家に入った「関東市」という人がいる。

生まれは武州府中宿で、姓は加藤、市五郎が正しいとか。
どういう経緯で清水に行ったのか、その経緯は知りたいが、おそらく永久に
わからないだろう。

1047 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/10(木) 23:50:33.62 ID:JMvSK+jvh
『東海遊侠伝』だと、天竜川の戦いの後に、黒駒勝蔵が袋井宿の芸妓を略奪して
去った、とされるが勝蔵自身がそれをしたかはともかく、
以降女づれで旅をしていたことは、どうも事実のようだ。

1048 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/13(日) 01:01:08.75 ID:XXNgsaPkO
「彼の追懐は重畳としておしよせる波のように、幾重にも重なって崩れ去っていったが、
 その波の白い穂に映し出されるのは、きまって菜の花の海を駆けぬけて、寺々へ
 欠入ろうとする百姓たちの群れだった。
 しかしいつの年、守山の里に彼の追懐の息づかいがこときれたのだろうか
 いま長興寺に伝わる『過去帳』にも、
 忌日の四月四日だけしかしるされていない」

名作『目明し金十郎の生涯』の最期を飾る名文であるが、ここまで本書を読み進めて
くると、この最期の部分は、思わず目頭が熱くなる。
もっと言えば、涙なしには読めない部分だ。

80’s〜90’Sまでの研究者には、文学者並に文章が巧みな人が、まだいたのだろう。

1049 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/14(月) 22:16:44.04 ID:br66rF4Qy
侠客と香具師(興行師)、目明しに通り者。これらの実体に関して極めて詳細に言及した論文に
小林文雄氏の「通り者の世界と地域社会」(『新しい近世史D、新人物往来社、1996)がある。
なんで今までこれを知らなかったのだ、と思うくらい物凄い論文だ。氏はこれ以降、むしろ
侠客や目明しより、農村部の諸興行(浄瑠璃、芝居、相撲など)の方にウェイトを置いて活動されている
ようだが、少なくとも「目明し」に関してはこの論文以上の考察は今のところ無いように
思える。目明しとは通り者の内の権力によって承認された者なのである。目明しという者の存在意義の第一は
芸民の農村部への流入の「入口」となることであり、そこ以外の農民との接点を回避するための
存在との考察はまさに目から鱗というものだ。
無論侠客に関しても含蓄の深い、一読に価する名論文である。

1050 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/14(月) 22:43:13.56 ID:br66rF4Qy
「民俗学」は柳田國男によって開かれ、その初期には柳田の影響を受けた若者が
山村に入り、聞き書きを行った。しかし、惜しむべきは柳田の手法の通りに行った
ため、@村の祭礼、A近所付き合いの方法、B婚礼や葬送の仕方、C昔話などに
ウエイトが置かれ過ぎた。
当時であれば、まだ当代か一つ上の代の「世間話」であった博徒・侠客の逸話は
これらの学徒にとっては採集の対象とはならなかったのだ。

1051 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/23(水) 23:29:49.69 ID:RxSKNeEQS
多摩一ノ宮の万平が、洪水(安政6年)に際して、鮮やかな手筈で防災を行った
ということが、パルテノン多摩、最新の刊行物『災害と多摩』(展示も開催されている)で記されている。
こんな重箱の隅をつつくような記録を見つけてくるとは…
学芸員や研究者の誠意と執念が伝わってくるようだ。
なんにしてもすごい。

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