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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

1751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:01:22.57 ID:sSPxbFS6n
塩尻の大和屋と権堂の島田屋は言わずもがなだ。

正徳院は、松本にいた修験だろうかね。
上諏訪の大和屋栄蔵は一寸(ちょっと)気になる。

1752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:16:18.69 ID:sSPxbFS6n
埼玉県新座石大和田の大和田氷川神社は、ふつう裸祭りで有名なわけだが、
鳥居すぐを入ったところに建立されている石橋供養塔は
田中屋万五郎親分が建てた物だ。(元治元年)

石橋供養塔はふつう、石橋を建てた時に一緒(あるいは時間差を以て)建てられる。
当時の橋というのは、建立に莫大な金がかかったのだから、
それこそ一生一大だ。
…というのは民間で使う大きな川にかかった橋。
しかし神社や寺前の、用水路の様な川にちょっとした橋を立てることが、実はこの方が
ずっと多い。しかも老若男女が参詣のために渡れるのだから、これもまた有用だ。

おもしろいのは橋の建立には、民俗学的意味があること。
それ以上先への悪疫や魔物を封じることを「防ぐ(塞ぐ)」意味合いがある。

本来来れない所に、筋道を通すというい意味で、
橋の建立は大事業なのだ。

1753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:36:31.16 ID:sSPxbFS6n
たとえば、八軒の栄次とか回田の栄太郎の子孫のとこへ、
「研究で載せたいから」と言って、頭を下げて頼み込むわけだ。そんなのピンポン押すところから恐怖だ。
でもそうやらないと、筋が通らないでしょ。血縁が、先祖の逸話を記録していいか、ダメか
墓を詣でて、場合によっては写真を撮っていいか、ダメか、決めるのだから。(これは侠客だけでなく万人にそうでしょ)
すごいストレス(場合による)だが、この過程をすっ飛ばしては駄目さね。

だから、遠方からやってきて、墓の写真を無断で取って、すぐ既存資料(普通は研究者の本のコピペ)
と一緒にアップする馬鹿は
俺は許せんわけだ。

…もっともこれ自体、自分の「筋」の押し付けなんだろうけどね。(時代は、むしろそういう「勝手にアップする」ことに傾いてるから)
でも最低限そこは守らないと、やっぱり嫌じゃないか。

1754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/28(木) 22:33:49.36 ID:rzq+JN2ND
馬鹿だなあ。ほんっっっっっとに馬鹿だなあ。
「岡島」を閉めるなんて。
甲府の町が無くなるということじゃないか。
冗談じゃねえ。ほんっとに冗談じゃねえ。町が無くなるじゃないか。
故郷が無くなるじゃないかっ

1755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/28(木) 23:14:03.44 ID:rzq+JN2ND
三井宇吉の墓も若尾逸平の墓も、全く無邪気に何の罪悪感も無く廃棄したよな。
何が嫌って、物を捨てる・つぶす・終わらすことになんの躊躇もないのが、この県だってことだ。
多分、自分らにその拒否権・執行権があっても、自分の事と思っていないのだろうな。
それくらい思考がマヒしてんだ。
与えられたエサばかり食ってきた連中が年寄になって中心に居座ってるのだから、
もう駄目だ。公務員になれたらお殿様。そして、そうなったら改革や改善よりも、
なるべく目立ったことはしないで自己保身に回ることが最重要と教育される。
あとは労働者だけ。
典型的な地方の人員構成だ。これが地方都市の一般的なモデルというやつか。
あとになって悔やんだって、無くなったものは、もう戻らんのだぞ。

1756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/31(日) 20:48:38.92 ID:7D2mHLJ8v
柿沼仙右衛門

1757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 21:54:57.55 ID:af/bUou9R
小金井小次郎と抗争した堀端の与三兵衛
苗字は「おない」という。小内か小家か。どういう漢字か忘れてしまった。
が、元の姓は林。
どこで「おない」に変わったのかはわからん。墓もない。
静岡の方にあると、子孫が言っていたが、その子孫も先日訪ねたら居なくなってた。

一宿一飯の義理のために富士の裾野の出入りに加わり亡くなった。
それゆえ子孫は「博奕」を避け、トランプすら触ってはいけないと言われた。
そんなことを十数年前に聞いた。

1758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:02:59.03 ID:af/bUou9R
国分の三蔵のルーツを探して利根川沿いの明和町、川俣宿まで、
この熱波の中行ってきた。
なるほど日光脇往還(千人同心街道)という点で、高萩宿(日高市)とつながる。
高萩万次郎と国分三蔵には確かに類似点が多い(目明し+次郎長と親しい等)。
だが、まあその間には坂戸宿、高坂宿、松山宿、吹上、忍(城下町)、新郷宿と結構な距離がある。
面白いのは、この宿場もそれぞれ侠客発生地だということだ。
しかも川俣は、天下の利根川の川岸。なんといっても平手三木の「大利根暮らし〜」からしても
侠客とつながりが深いだろう。
川俣は南北も、東西も侠客にはさまれる土地だ。しかも組合の寄せ場だったらしい。

1759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:10:34.13 ID:af/bUou9R
さて、川俣40ヶ村組合の惣代としては
高瀬仙右衛門、つまりは相之川政五郎=上総屋源七が有名だ。彼が
これを務めていたのは事実。
その一方でもう一人の実力者柿沼仙右衛門のことはさほどしられていない。
しかし、この人も大した侠客だ。
どうも博徒ではなく、名主お旦那の出であったようだが、気風がよく
江戸屋虎五郎や赤荒地の鉄五郎らが八州廻りに捕らえられたときは、身を挺して守り、
彼らを逆に目明しに取り立てることで、地域の治安を守った。その他治水、渇水の際の農村の守りなども、
この人が率先して行ったらしい。事績を記す書物は少ないが、『明和村誌』に記載がある。

川俣宿西の江口の普済寺に墓石がある。明治4年に69無くなっている(と思う。)
この墓所は、正直見つかりにくい。この夏日に、正直死ぬかと思ったくらいだ。
何か地理的な探し物をしている時に、一番大事なことは、
一旦止まって地図をじっくり眺めることだ。

1760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:25:42.40 ID:af/bUou9R
日本全国に所々存在する「道の駅」というのは野宿をする者にとっては、
非常に都合の良いものである。しかし、世の中みんなだいたい同じような考えをするものらしく、
田舎では、バイク乗りやもうちょっと鉄火な若者たちが、「集会」を開く場所として利用される。
そのようなわけで自分も何度もそういった集団と同じ場に出くわした。
幸い何の悶着も起きずに済んでいるが、
そんな時にぐうすか眠るほどの度胸は自分には無く、結局、朝までもう少しという時まで、
精神が覚醒を命じるものだ。

くたくたな頭が、そんな時にようやく自分に教えるのは、しょせん自分など、無力、ちっぽけ、臆病で、愚者
だという認識だ。でも、これは万金にも代えがたい。全くありがたい認識だ。

苦しい旅の良いところは、自分を絞れるという点だけだろう。他には何のメリットもない。

1761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:47:57.81 ID:af/bUou9R
「川俣宿西の江口の普済寺に墓石がある。」

またまた間違いだ。「川俣宿東の江口」が正しい。

なおこの近隣の津島神社は奉納額も石灯籠も見るべきものが多い、ちょっとした
名所だ。

1762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/03(水) 23:42:05.54 ID:8accUCYFJ
正直言って、宮島の年蔵と森嶋の重吉は同一人物だと私は思ってる。
『安東文吉史料集』は、国分三蔵と勝沼三蔵のように
同一人物を別人に表記してしまう注意点がままある。

1763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/09(火) 22:06:26.24 ID:P9hcl3opF
随分かかったが、
甲州布施の仙次郎と下曽根の弥十郎が衝突したのは、
明治12年3月5日と翌6日の二日間。どちらも場所は下曽根とのことだ。

通説だと11年とか16年とかあるが、これは12年が正しい。

1764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/09(火) 22:10:02.90 ID:P9hcl3opF
さらにその10日後、同じ下曽根で長五郎という博奕打ちが
妾と間男を殺傷し、
おまけに外にも間男が5人いるとの風説を信じて、毎夜林野に隠れては
住人を突け狙った。
これにおそれを抱いた村の男たちは、日が落ちると外出をやめ、ある夜
近隣の家が出火した際も、だれもその消防に努めることができなかったのを
甲州中から笑いものにされたとのことだ。

無論この不名誉なことは、どんな伝説・伝承にも語られることはなかったが。

1765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 21:54:20.82 ID:m4SRGzuvi
五明の亀吉
田黒の文吉

1766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 21:56:14.22 ID:m4SRGzuvi
増尾村の橘勝

1767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:10:48.72 ID:ruaV/vnhE
増尾村(埼玉県比企郡小川町)の橘勝こと重左衛門は
相当な親分だったのだろうが、本人の事績は見つからない。ただし子分には
西ノ入村無宿平太郎などがいた。
平太郎ら橘勝の子分数名が長脇差を帯びて、秩父・比企一帯を歩き回り、
旅人や百姓にけがを負わせていることから、手配に上がっている。
これは天保4年と、随分早い時期のことだ。

この年からして、近隣の博徒である田黒の文吉や、五明の亀吉は
橘勝の子分のような存在だったのではないか、と推測される。

橘勝の出る史料は『小川町の歴史 資料編5 近世U』、小川町、平成13年
の464頁

1768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:36:27.41 ID:ruaV/vnhE
五明村の亀吉は、
嘉永二年の石原村幸次郎騒動で、共に行動した仲間として有名だろう。
もちろん親分格。
嘉永二年の10月には捕まり、打ち首(?)らしい。

しかし、それ以前から亀吉の活動はこの地域ではちらほらうかがえる。
中には「亀吉とその子分に宿を貸さないように」などという触れも出ているくらいだから、
結構な知名度が地元ではあったのだろう。
今でも五明は道が交差する交通の要所で、南から来た場合小川町への入り口の様な場所に位置する。
それだけに人の往来もあり、金銭収入を目論む博奕打ちにとって、都合がいい場所だったのだろう。

1769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:40:22.46 ID:ruaV/vnhE
田黒村文吉は、五明村亀吉の兄弟分だと書かれている。
いずれ、今でいう埼玉県の生越、都幾川、小川の辺りの人たちだ。

嘉永元年には、はやくも入間郡の寺竹村で捕まっている。割合に南に降りてくることが多いらしく、
扇町屋(入間市)辺りで博奕を催したりなどしている。
これを捉えたのが、飯能の岡っ引き・森太郎。
なので、報復として一年後に森太郎の宅は文吉の子分や兄弟分から襲撃を受ける。
ただ、本人は何処からか情報が回ってきたのか、いずれにせよたまたま留守にしていて
無事だった。

1770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 13:28:41.79 ID:3ZWO2cBsq
読めば読むほど、『博徒の幕末維新』は、
それまでの任侠研究者の発見を、さも自分で見つけたもののように扱う点で
ダメだ。
もっとも侠客・博徒を「学術」の世界に置いた点で「初」と
著者が、自分で言っているので、そういう意味で「発見」となるのかもしれない。

鹿島茂のような頭のいい人でも、
分野が違うことから、その辺りの差異がまるでわからぬので、
手放しで称賛したあとがきを書いてしまう。
よっぽど任侠研究史に詳しくなければ、それは確かにわからんだろう。

でも誤魔化されない人間は、結構多くいるものなのだ。

1771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 19:17:40.18 ID:3ZWO2cBsq
卯年(天保14年)に多摩から入間、高麗にかけて回覧された人相書きには
武州比企郡玉川村 無宿金八、
忰 八蔵
同村 伝三郎
同州同郡立原村 無宿代三郎
同州同郡田黒村 文吉
同州同郡五明村 亀吉
右玉川村 菊
とある。計七人の人相書きだ。(人相部分は略)
これは上尾宿の目明し枡木屋太郎吉が、青梅の川越領へもたらした。
最期の菊という人は女性なのかもしれない。二十三才くらいで、丈は低く、痩せがた、色黒、顔は細く、眉は太い。
さらに鼻筋が通っているという。

この文書には、手配に挙げられた理由は書かれていないが、他の史料と照らし合わせると、
どうやら八蔵が岡っ引きを二人斬ったことが、手配に挙げられた理由のようだ。
なお八蔵の渡世名は「砕岩(破岩)の八蔵」らしい。

1772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 19:19:50.38 ID:3ZWO2cBsq
武州比企郡玉川村は、現在では埼玉県ときがわ町

1773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 21:45:47.53 ID:3ZWO2cBsq
豆州の浅五郎

1774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:26:54.19 ID:ricNYUTBn
樋口村無宿平六

1775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:37:06.43 ID:ricNYUTBn
樋口村の平六は、やはり嘉永二年の石原村無宿幸次郎の件で、
連座して捕まった博徒親分。
いろいろと経歴はわからないわりに、大物だったらしく、後の時代になっても
樋口村平六の子分だった、という任侠が村々を騒がせている。
(小川村の弥十郎、鷲太郎など)

さて、この樋口村だが、今日検索すると、秩父郡樋口村というのが一番に上がる。川船流れで有名な
長瀞あたりの村だ。
だが、平六の捕まった時の記録によれば、彼の出自は大里郡樋口村であり、実は違う場所なのである。
大里郡樋口村は既に地名としても残っていない(実はあるのかもしれないが)が熊谷市の「樋春」というところがそれにあたる。
樋春は明治五年に樋口(ひのくち)村と春野原村とが合わさってできた地区なのだという。
合併が何と言っても明治の5年なので、それ以前の樋口村という地名が完全に消え去ってしまっていても
これはもう仕方がないことだ。

というわけで平六はこの辺りの出身。

1776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:38:41.20 ID:ricNYUTBn
なお田中村岩五郎も大里郡田中(深谷市)であって、比企郡田中(ときがわ町)ではない。
五明の亀吉が比企の田中のすぐそばの出生ではあるが、岩五郎はもっと熊谷寄り。
中仙道や荒川に近い方を出自としている。

1777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:45:06.33 ID:ricNYUTBn
いずれにせよ、埼玉県北部の侠客を調べてみると、やはり熊谷に中心があるように
思えてくる。なのに現在進行形の熊谷市史では、
その点を全く無視しているというのは、けしからん話だ。むしろ昭和に編まれた市史の方が、
そういったアウトローと呼ばれる人々の記録を市史・町誌・村誌に挙げた。
今の学問世界がいかに政治的な歴史観の下にしか機能していないか、露骨に示す事態だろう。
手に負えないのは、編纂を行っている大学院での先生方が、本気で地域の博徒・侠客、伝説、伝承の類を
知らない、ということだ。彼らに全く悪気はないし、純粋。(人間的にも良い人が多い。)
単にそう言った者にたいする興味や存在そのものを問うという姿勢が、いまや初手から全く無いのだ。
歩いて歴史を見つけるなんてのは、もう化石化した、古い古い学問態度なのだ。

1778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:34:47.22 ID:QnvFQTIvz
豆州の浅五郎と書いたが、友五郎の誤りだ。すまんことです。

1779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:52:57.25 ID:QnvFQTIvz
伊豆の友五郎は最初、相良の富吉の子分だったが、
富吉が田中の岩五郎との抗争で、藩の意向に背いた行動をとったため、
流浪するに及び、さらに後年、安東文吉子分の小出の繁蔵に召捕られ、不運にも牢死した後は
明治5,6年まで安東文吉の元に厄介になっていたという。
その後、同郷の兄弟分だったとの理由で伊勢の丹波屋の元へ行った。

姓も分からないが、実在の人であったことは、確かな文書に残っている。

1780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:56:39.15 ID:QnvFQTIvz
中条の弥五郎

1781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:17:54.01 ID:uZysahKDF
「中条弥五郎さんと勝頼さんは死んで新府に名を残す」

これは甲州韮崎に伝わる歌だ。いうまでも無く「勝頼さん」は武田勝頼。
父信玄が死んだ後、織田、徳川と戦うため、新たに新府城を韮崎に築き、ここを
中心に国を固めようとした。しかしその矢先に織田の侵攻に合い、泣く泣く出来上がったばかりの城を捨て、
東へと落ち、笹子峠を越えられぬまま死んだわけだ。
だから、地元の同情も込めて、死んで新府に名を残した。

一方中条の弥五郎さんは、博奕打ちだったと言われている。詳しいことは何もわからないが、
多分賭場の上の争いで亡くなり、その様が天晴だったのか、名が残ったのだろう。
(もっとも歌にしか残らず、伝承の類は消えた。もちろん史料も無い)

一点いえることは、中条は「佐久往還」の宿場だった、ということ。信州では、
佐久甲州街道と言い、往時は結構盛った土地だった。今ではその片鱗もないし、研究も、
ここが宿場だったことは地元民ですら認識していない。
でもだからこそ、弥五郎さんのような博徒・侠客が活躍できたのだ。

1782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:30:44.78 ID:uZysahKDF
秩父には「忍藩秩父領割役公用日記」という日記が残っている。
秩父の図書館に行けば紙焼きで膨大な数残っている(閲覧・印刷可)し、『秩父市史資料』として、
翻刻が今も出続けている。

秩父で事件が起こると、わりあい近場の組合から人員(人足や岡っ引き)が呼ばれ、その中には
飯能組合や扇町屋組合も出ることがある。
飯能では小山森太郎はほぼレギュラー入りで名を出す。注目したいのは扇町屋組合(扇町谷組合とも)で、
基本になる場所は、今の「入間市」近隣の村々だ。
ここの道案内(目明し)として、まま名がでるのが、「安五郎」と「庄五郎」。

これはひょっとしたら、二本木村の安太郎と庄五郎兄弟なのではないだろうか。
基本的に、道案内(=岡っ引き、目明し)は、その組合村の人員の中から選ばれる。
二本木村は扇町屋のすぐ隣で、当然扇町組合に含まれる。
もちろん人違いということもあるが、名前がほぼほぼ一致するし、立場としては申し分ない。
彼の墓石にいる「黒須の茂助」や「大井の加藤健三郎」なんかも同類だったらしいし。
とすれば、あの立派な墓石や、勢力の理由もよくわかるというもんだ。

1783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:41:04.83 ID:uZysahKDF
ただし、慶応2年の武州一揆に際し、同一族からは「瀧蔵」(滝之助)という
博徒が出ており、一揆に参加し、頭どりとして騒ぎ立て、ついには捕縛までされている。

瀧蔵が実在したことは史料からも明らかで、そこにはご丁寧にも「博徒安五郎弟」とある。
「安太郎」とは無いが、これは安太郎本人に違いないし、あるいは安太郎は渡世名が「安五郎」だったのかもしれない。
(他にも例がある)

つまり、二本木の親分は三兄弟で、安太郎、庄五郎、その下に瀧蔵がいたのかもしれない。
上の二人は幕府に尽くし、滝蔵は「変革」に賭けたということになるだろうか。
いずれにせよ瀧蔵の墓は無い。
存在は子孫にすら伝わっていないし、子孫は自家の詳しい履歴さえ、もうわからぬとのこと。
(責める気は毛頭ない。当然、もうそういうものだ。明治よりまだ前なんだもの)
菩提寺のご住職も若く、とても良い方だが、地元の侠客一家の存在や、その土地がどういう地理的位置づけだったかすら、もう知らない。
これも責める気はない。全国的にそういう時期なのだから。就中、俺だって「何にも」知らない、わかってないのだから。

1784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 00:01:53.79 ID:fMLaPnVXy
せっかくだから南信州出すと、諏訪は、おいておくとしても、その東側の道を通る
佐久(岩村田)。
手前の佐久穂から南牧村(海尻、海瀬、海口)などに関しては、
『川上村誌 資料編』(川上村、平成10年)の662頁あたりに、割とその筋の人間のいざこざが
書かれている。岩村田の伊勢松とか、松井田の嘉市、海瀬の嘉兵衛、広瀬村吉右衛門とか言う人たちがいたようだ。
文久3年のこと。

1785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:17:08.64 ID:rrimjqskJ
黒駒勝蔵一党の永井村新助は
姓藤巻。
芦川村での新助騒動一件として、伝承(あるいは古文書史料)が残っており、
あらましは、1443に記したとおりだ。

しかし親族には恵まれたらしく、明治になってから兄ちゃんによって、なかなか立派な墓が
建てられた。「遺言により」とか寺の過去帳には入っているそうだ。
没時は慶応3年十一月。

1786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:26:33.90 ID:rrimjqskJ
勝蔵と一緒に名をあげる手配書の中で、
墓石が残っているのは、正徳寺の太八(根津太八)と、万力の森太郎、それとこの永井の新助。
甲州外では平井の雲風と宮島の歳蔵(←もう現存していなかったように思う。)
川口の安太郎はひょっとしたら(けっこう正しいと思うのだが)弁天安太郎事笹本安太郎かもしれない。

他にも以外にあるかもしれないので、調査を続けよう。

1787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:31:21.77 ID:rrimjqskJ
八千蔵の要次郎というのは、文久3年(元治元年と「口供書」にはある」では、
祐天と三蔵宅に殴り込みをかけた際に、
三蔵方相手に一隊を率いていった程の、黒駒組では重鎮にあたる人物。
古屋留吉の証言では四天王の一人という。(大岩、小岩、要次郎、綱五郎)
けれど伝承もないし、史料もない。
慶応二年の手配書には名前がないから、それ以前に切り死にしたか、捕まって牢死したか。

1788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:42:48.88 ID:rrimjqskJ
八幡北村猪之助は、四ノ介とも書かれる。
(悪いけれど)今川徳三さんの本では、東京にいった勝蔵に付き従った腹心子分の様に
かかれていたが、多分慶応2年に勝沼の田の溝に遺体となって倒れていた
猪之助(亥之助)が彼の事だろう。出典は詳しくは忘れた。勝沼町史料のどこかだったように思う。
ただ、元治元年の犬上郡次郎襲撃では、猪之助の棒が郡次郎の足を払ったおかげで、
仕留めることができた、と「口供書」に確かに書かれている。

思うのだが、もう死を覚悟した勝蔵が、子分連の名前を挙げるとき、
あるいはかつての仕業の中でも特記すべき郡次郎殺しを挙げる時、かなり詳細な記録を口述していることになる。
勝蔵は、事件の年度こそ、度忘れすることはあっても、子分の面々の名前や
活躍はしっかり覚えているのだ。(他失念の面々と言う時は、現命していて、名前を挙げると本人の不利になるとわかっているから
挙げないのだ)
だから、これらの血なまぐさい活動を、新政府の下で窮屈に陳述するとき、
その時だけは勝蔵の口角は上がっただろうと思われる。
勝蔵はなんやかや言って、仲間たちとわいわいやってる時が一番うれしかったのだと、私は思う。
蛇や蚊や蜂、ネズミだってでるような山奥のぼろやにいるときも、
武装した役人や農民兵の追跡を受けるときも、頼りになるのは
かけがえのない仲間だ。
給金を払うでもなく、未来を保証してやるわけでもない。現在すら危ういのに、
逃げずに固まって傍にいてくれる。人間たちだもの、忘れるわけがないのだ。

1789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 23:08:09.95 ID:rrimjqskJ
村芝居(天下の守屋穀氏が好んだ言い方)
には、地元の侠客が関わることが多かったという事実は言を俟たない。
彼らは村芝居を支える「若者組」の相談や、後ろ盾として(もちろん自分の利益第一だが)
興行の表に立って交渉した。
好い例が『手前味噌』の岡田の瀧蔵などである。

このことは他にも守屋氏の著作や、天才氏家幹人、小林文雄などの論文・著作を読めば明らかだ。
ところで、これを逆に考えれば
村芝居(最近でh「地芝居」「田舎芝居」「農村歌舞伎」と呼ばれる」
の盛んだった場所を当たれば、そこに勢力のある侠客がいた、ことになる。
もちろん上に上げた碩学の本を読んだ上で、同じようにフィールドワークをすることなど、
凡人には出来ないことだが、
遠州で、「都田」が昔から村芝居の盛んだった(今はどうだか知らんよ)という点は
無下にできまい。
都田源八、吉兵衛、常吉、梅吉が登場した場所というのは言うまでもない。
ちなみに今は都田テクノポリスだ。

1790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/19(月) 21:57:50.70 ID:bj4Ud06lG
ヤフーオークションで古文書が高騰しているのは、周知の事実だが、
大事なのは、その古文書なり史料なり、あるいは墓石史料(きちんと供養の心があるなら、碑文は十分史料と言っていいはずだ。)なりが、
自分のところに来るか、どうかだ。

自分のところに来ないのなら、それは縁がなかったのだし、「お前はこれについて色々言ったり発表したりするんじゃないよ」
と云う意味なのだ。いわゆる縁がないというやつだ。
だから大金を積んで無理をする必要はない。

しかし自分が適合だった場合、これが来てくれるんだわ、向こうから。
そして来てくれたら、それに答えるだけの努力をする。これが唯一の返礼と言うものだ。
これが最近やっとわかったことだ。教科書は無い。自分で模索するしかない。
しかもそんなの当然わかっていて、ずっとそれをやってる人も多数存在するのだから
まったく参る。

1791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 22:32:57.78 ID:MlE9VE6WD
18世紀のイギリス文学者にサミュエル・ジョンソン(ジョンソン博士)という人がいる。
生まれつき、片耳が聞こえず、片眼が見えず、首には醜いコブがあった。
しかし文が立ち、多少変人ではあったが、人格が高潔で弱者を愛し、権力には反抗した。
英語史の上では『英語辞典』を編纂した(それも独力で)ことで有名だ。(他にもいろいろやったが)
この人は多くの警句・格言を残したことでも知られるが、次のそれは侠客を考える上でも有用だ。

「愛国主義は無頼漢の最後の避難所である。」

そうであってはならない、ということ。さらには、後世の人が無理やりに、そういう評価を下してはならないということだ。

1792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:22:01.89 ID:Vd3b5tvAi
いまだに後悔するのは堀端の与三兵衛のことだ。
ちょうど10年前に子孫と思しい方にお会いして、話をした。全く偶然だった。
ただそこで、ちょっと苦手な人だな、と思ってしまい、またいずれ…
としてしまった。
今では引っ越してどこへ行ったか定かではない。
上でも何度か書いたが、富士の麓の出入りに一宿一飯の恩義で参加して戦死した、
との話を聞いたし、それ以来子孫の間では博奕は絶対手を出してはならない。
トランプに障るのすら禁忌とされている、とのことだった。

もっとも、このトランプに障るのすら御法度!というのは、かつて先祖に博奕打ちがいた、
というお宅ではまま同じフレーズが聞かれるので、何か元ネタがあるのかもしれない。

『慶応水滸伝』では与三兵衛(與惣兵衛とも)は、親分格となっているが、どうも一本独鈷の
博奕打ちだったと伝わっている。これは義兄に当たるとされる回田の栄太郎や連雀の嘉助も、どうもそんな話だ。
平親王平五郎、小川の幸八は確かに親分だったらしい。八軒栄次はむしろ
地元の顔役で、香具師みたいなことをやってたらしい。

1793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:27:28.65 ID:Vd3b5tvAi
小金井小次郎の周辺だと、意外に大物なのが、
田無の増五郎と野中の音次郎だろう。この二人は小次郎の子分では無く、兄弟分で、
それぞれ小川の幸八と敵対している。これは推測だが、増五郎は久米川にいたこともあったのではないだろうか。
田無には他に鉄五郎(鉄蔵)という人もいて、この人が事跡は残らないが、相当な勢力があったっぽい。
まず小川ー田無間で反目があり、それが府中ー小川間に飛び火した。その後、所沢、前沢、砂川といった地域が
それぞれ分かれて、共闘し、小次郎が一つにまとめるまで各々独立して気炎を吐いていたのだろう。

1794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:35:05.46 ID:Vd3b5tvAi
砂川に清水三兄弟という小次郎の兄弟分がいたようだが、
彼らの父は清水与五右衛門と言って、八王子千人同心を務めていた。
武芸も達者で、伊勢腹(伊滝伊勢五郎)先生の門下で天然理心流を学んでいる。
どういう理由か与五右衛門さんは千人同心を首になり、没落した。なにか大きなミスをしでかしたらしいが、
今のところ、それがなんであったかは不明だ。

腕も立つし、一時は立場も普通の百姓よりちょっと上だった三兄弟が、
気落ちする父親の後ろ姿もみながら、気合入れて頑張ってしまうという気持ちもわからないでもないだろう。
砂川は新田としては非常に広大で、資料なんかだとしょっちゅう博徒の抗争が起きている。
玉川上水が中央に流れ、木々も豊富だ。オウム事件の時にサリンをここの橋のたもとに隠した、
なんてことを地元の風呂屋(今はもうない)で聞いたこともあるが、
ちょっと他の村、新田とは趣やシステムが違うように思える場所だ。

砂川は良い郷土研究会があって、精力的に機関紙をだしている。ご高齢だが、
すごい方々が集まっておいでだ。ただ、博徒・侠客に関しては何も書かれない。
知っていてわざと口をつぐんでおられる可能性が高いが、みな人間レベルの高い方々なので、俺など
行っても手も足も出ない。

1795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:44:04.94 ID:Vd3b5tvAi
酔ったついでに書いてしまうが、郷土史で一番つまらない文章を書くのは、
若い頃に史学をかじった、または史学科に所属した、という人達。
下手に学会を意識したような、史料を元に分析した、みたいな文章を書いてしまう。しかも
結構紙面を使って、気合のはいった表なんかを貼る。
実はこれがつまらない。一番とは言わない。(一番つまらないのは、自分の生い立ちや経歴、職歴を並び立てる輩だ。)
これに比べると、自分が昔見たことや、上から聞いたことを、そのまま陳述してくれる
朴訥な書付の方がずっといい。(というよりこれは理想だ。)

しかし今気づいたが、これはそのまま自分に向けて跳ね返ってくることだな。

1796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:51:39.83 ID:Vd3b5tvAi
赤間源右衛門

1797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 22:40:28.32 ID:JaJ8Lc/L2
赤間源「左」衛門が正しかった。
芝居『与話情浮名横櫛』で、敵役として登場する侠客が赤間源左衛門である。
主人公与三郎は「切られの与三」として名高い。
作り話ではあるが、与三郎も源左衛門も、それにお富もモデルがおり、
当時の風俗を活写した作りになっている。そこで源左衛門の登場する「赤間別荘」の場はこんな感じである。

一「されば、ここの親分の赤間源左衛門様は、この木更津で羽のきく親方」
ニ「近郷近在を男を磨く手合いが、時折ふしの見舞い」
三「その喜びだと言って、この通り、酒肴もたっぴつ(たっぷし?)に」
四「村方のわしらへまで、酒をたらふく振る舞わっしゃるからは」
全員「さてさて気を張られたことでござる!」

この芝居が瀬川如コウに書かれたのが嘉永6年(1853)というから、だいたい当時の
言い回しや単語、そういう慣習が書かれているわけだ。
この時源左衛門は「御用を達す身分」になったとされている。つまり目明しに任命されたわけで、
得意の源左衛門は子分ではない、村の若い衆にも「酒をたらふく振る舞わっしゃ」ったのである。
侠客と百姓、とくに若者衆とはかなり近い距離にあって、
しかも一種、憧れの存在という意味合いも、この十手持ちの侠客にはあったということがわかるだろう。

以上は、もちろん私の思い付きではなく、氏家幹人氏の『江戸の少年』の一部分を
抜き書きした。(この本は侠客研究でも必携と言っていい)

赤間源左衛門、モデルになったのは実在の侠客である「山本源太左衛門」という
人との事。木更津の人かどうかは不明で、一説には東金。あるいは品川の人とも言う。

1798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 22:44:23.97 ID:JaJ8Lc/L2
ああ、一、二、三、四、全員というのは、
源左衛門の宅に招かれた若者衆である。四人いて、それぞれ台詞を言った後で、
最後に全員そろって「さてさて気を張られたことでござる!」
という訳である。当時のこの芝居の呼吸というのは、衣裳のすばらしさや、台本の妙や(もちろん芝居自体の巧みさ)
らがわかれば、きっと相当に面白いだろうなとは思う。
ただ今日では日本の芝居・歌舞伎は日常からは遠いところにありすぎて
とっつくことができない。まだミュージカルの方が身近にあるというのが、なんとも皮肉なことよ。

1799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 20:52:11.18 ID:SSvWyrVxe
黒駒勝蔵は悪者に決まってるだろ。
だから良いんだろ。

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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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