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● 孝明天皇は殺されたのですか? ●

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/13(土) 03:02:53.21 ID:W7Kkpi8l0.net
GoogleBooksのライブラリーに 徳富蘇峰が書いた「岩倉具視公」があるんだが
これが実に面白い。資料的には「岩倉具視実記」がライブラリーにあるが、
書き下されているとはいえ硬派この上ない漢文調なので、とりあえず概要を知りたい
というこであれば蘇峰の歴伝の方が読みやすい。

同書は安政期から明治維新、西南の役からその後まで編年的網羅的に、
岩倉具視を偉人として称揚するというスタンスで書かれている。
蘇峰は孝明天皇の崩御を淡々と事実と記するだけでそこに一片の疑義さえ
挟み込んではいない。その意味では暗殺説、陰謀説とは無縁と読める。

孝明天皇の崩御の前後、岩倉具視がどういう状態に置かれていたかは
読んで貰えばわかることだが、かいつまんでいえば、徳川慶喜率いる
幕府が将軍家茂の死去にともなって第二次長州征討に失敗した事実を受けて、
岩倉は遠隔根回しで尊皇攘夷的な公家堂上家22名を連署連帯させて
長州毛利氏や政界復帰都落ちした三条実美らを政界復帰、さらに
中川宮朝彦親王や関白二条斉敬らの自発的な辞職を引き出し長州征伐の
敗戦処理を直奏する。ところが孝明天皇はその直奏を拒否し、直近二臣の
辞職を受け入れず逆に廷臣二十二臣を謹慎処分にした。
それ以前の八月十八日の政変ですでに13名の公家が謹慎処分となっており
孝明天皇を支えるべき公家の多くが政務公務に就けない情況となり、
そこで孝明天皇は征夷大将軍職をなかなか引き受けようとしない徳川慶喜に
勅命を下して将軍職に就かせる。といういわば裸の王様というか孤立無援な
状態にあった。慶喜へ将軍宣下した後一月もしないうちに崩御されてしまう。

その間、二十二卿にはそれ一桑会の藩兵による邸内監視が徹底されて
外出もままならない状態であった。が、岩倉具視は桑名藩そして徳川方
の警護監視の藩兵を手際よく扱ったことで監視下であっても外部の人間の
来訪などは自由に行えたらしい。これらの記述が正しいのであれば、岩倉自身が
手を下した。などという事はありえない。しかし、外部の協力者が居れば
不可能ではなかった。かもしれない。

孝明天皇が崩御した後、岩倉が最初に行ったことは、明治天皇の践祚などに
際して、外祖父である中山忠能の蟄居を解いて大伝(伝奏)に任じを行える
ように中御門卿を通して二条関白に同意させたこと。岩倉自身は蟄居はそのままで
入洛OKとなっている。この時点から岩倉具視の快進撃がはじまった。みたいですね。

ちなみに、関白二条斉敬は摂政になって続投。彼の母親は水戸藩主・徳川治紀の娘で
徳川慶喜とは従兄弟同士であった。

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