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● 孝明天皇は殺されたのですか? ●

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/02(月) 09:23:16.59 ID:hrP9x7tl0.net
町田 明広@machi82175302
杉立論考でも若干の言及があった、元典医である山科元行の証言(『史談会速記録』、明治32年3月14日)を考察したい。
既に30年以上も昔のこととは言え、やはり当事者のものとして無視はできない

山科は天然痘に間違いなかったと断言し、当初二、三の黒疱瘡が見られ、極めて悪性であったとする。
また、小児科同僚の久野典医も同様の診断をした際に「堪りませぬ」と漏らし、
これから9日目の晩に「御宜しくござりませぬ」と最初から上申していた。

そして丁度その日が12月25五日にあたり、後に久野の診察が一番良かったと同僚が皆感服したと証言する。『中山日記』でも、
久野が最も信頼できる医師としており、天皇の最も近くにいた医師団、特に久野の見立ては、やはり重視すべきであろう。

薩摩藩史料でも、「主上崩御藩内布告」において、孝明天皇の天然痘の病状を「表向は御軽目の筋」と公表していたが、
実際には「全体初発より御難痘の御煩」だったとあり、
病死説を推している事実は注視すべきである。黒幕に数えられる薩摩藩であるが、むしろ真実を伝えているのではないか。

毒殺説では回復傾向から突然悪化して急死したことを不自然としている。
しかし、発熱後3〜4日目に一旦解熱し、7〜9日目に再度40度以上の高熱になることから、
天然痘として普通の経過をたどっている。

公式見解では、この経過を「益々御機嫌よく」としているが、実際には多少解熱した程度で、
症状は極めて重篤だった。はやり、真実を公表することは憚られたのではないか。

最後に、明治天皇の祖父にあたる中山忠能は、当時の病死を不審がる言説に対しては、
「例の雑説、採るに足らず」と一蹴していることも注視すべきだろう。

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