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【三十一谷人】福沢諭吉について(其の10)

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/05(土) 14:24:03.76 ID:5VIo6jjS0.net
・「三十一谷人」とは、福澤諭吉の雅号です。

前スレ
【三十一谷人】福沢諭吉について(その9)
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1345889094/
【三十一谷人】福沢諭吉について(其の8)
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1323680099/
【三十一谷人】福沢諭吉について(その7)
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【偉人】福沢諭吉について(その6)【悪人】
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1284343842/
【偉人】福沢諭吉について(その5)【悪人】
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1272338953/
【偉人】福沢諭吉について(その4)【悪人】
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1253956268/
【偉人】福沢諭吉について(その3)【悪人】
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1243898641/
【偉人】福沢諭吉について(その2)【悪人】
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1226896359/
【偉人】福沢諭吉について語るスレ【悪人】
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1147733623/

958 :マグナ ◆vI4NRkhGyA :2014/07/02(水) 15:42:09.96 ID:f7dubQ0n0.net
佐藤一斎に「独立自信」という言葉があるんだよな。これと福沢の「独立自尊」との関係やいかに。
http://diam47311066.blogspot.jp/2012/06/blog-post_10.html

959 :代理屋 ◆XFizselqIb3B :2014/07/02(水) 18:33:26.50 ID:BIzMvTYU0.net
>>956
>中国人もそうした過去を思い出してくれるとよいが。

同意。と同時に、日本もチャンコロ思想やらで中国に「人喰いの顔」
(※周作人)をむき出しにしとった過去も、もう少し検証しといたほうがいい。

諭吉は日本留学組には知られてた。山室信一『思想課題としてのアジア』には、
彼らが中国に逆輸入した和製漢語(諭吉作とされるものふくむ)がズラっと紹介され
とります。庶民はともかく、知識人/学生の間では有名だったかと。

>>936
孫文らは和製漢語同様、儒教を排せの「脱亜」については輸入したと
思うです。

960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/02(水) 22:08:03.48 ID:L6itKjRE0.net
>「人喰いの顔」
?

961 :マグナ ◆vI4NRkhGyA :2014/07/03(木) 02:20:13.52 ID:YXJFu9se0.net
周作人は魯迅の弟だな。日本談義集からの引用か?

962 :代理屋 ◆XFizselqIb3B :2014/07/03(木) 12:31:41.96 ID:ZjqD3Tup0.net
936年の書簡。出展は劉岸偉『東洋人の悲哀』(河出書房新社 1991)
(※劉氏は中国人で、書簡の全訳はなさそう? 10年ほど前に調べたかぎり
では分からなかった)

周作人は「新しき村」を中国に紹介した人物で、彼のもとに学生の毛沢東が
学びに訪れたことでも知られる。作人は兄・魯迅と袂を分かち、国共両党から
売国奴と糾弾されるなか日本にとどまり文筆活動をつづけた。1937年当時の
日本は世界一の麻薬密売国で国連から非合法麻薬の90%は日本製などと批判され
てたが、(江口圭一『日中アヘン戦争』)そうした点は著書でアイロニカルに
批判しつつも親日を堅持した。
(それでも蘇峰らから非協力的と批判されるが)
作人は政治に関し、親交のあった武者小路にすら胸のうちを語らなかった。
武者小路は、周囲の両国の若い連中が激論する間も、微笑んで聞いている
だけだったと書き残している。
その作人も中国人編集者への書簡のなかでは《二十年来、中国に向けられた
日本の顔は人喰いのそれでありました》と、辛辣な口調で日本(軍)批判
していた。で、むろん「人喰い」は、『狂人日記』をかけた表現。

ちなみに『狂人日記』の最重要モチーフのひとつは、諭吉が初代会長を務めた
東京(日本)学士院の機関誌に掲載された、諭吉の幕政時代からの盟友の
小論文だったと当方は推測。この話を展開すると、日中の歴史の断面が浮き彫り
となり(※世界史の断層も^^)じつに興味深いですぞ。

963 :つうこうにん ◆XFizselqIb3B :2014/07/03(木) 12:40:52.34 ID:ZjqD3Tup0.net
訂正
〇 1936年
×  936年

964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/03(木) 21:11:05.38 ID:z6l35a5U0.net
盟友て?

それ福沢と関係ある話?

965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/03(木) 23:15:05.43 ID:nGrr40jN0.net
>>962
「諭吉の幕政時代からの盟友」って誰なの?

966 :代理屋 ◆XFizselqIb3B :2014/07/03(木) 23:32:23.01 ID:ZjqD3Tup0.net
盟友は言い過ぎかもしらんが……文部官僚となった神田孝平氏。

緒方塾の同窓で、諭吉が『万国国尽』など上梓した同年、自ら出版した
杉田玄白『蘭学事始』の「救い主」。地震の大火で玄白の唯一の原稿
(だれも写本してなかった)が焼け、関係者が絶望しとるなか、神田が
神田の露店で玄白自身が写本した一冊を発見。事なきを得たと、諭吉は
書いてる。

967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/03(木) 23:33:22.26 ID:706Waiyb0.net
伊藤博文>>>>>>>福澤諭吉>>>大隈重信。
東京大学>>>>>>>慶應大学>>>早稲田大学
最近の保守系学者の研究によって明らかになりました。

968 :マグナ ◆vI4NRkhGyA :2014/07/04(金) 00:37:17.84 ID:ABewZcaW0.net
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0096/BO00960L103.pdf
>>966
これか。
神田のではないが、桑原隲藏のものはこれ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_14876.html

969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/04(金) 01:38:56.05 ID:3VFkbcmg0.net
>>966
回答ありがとう。
神田孝平氏が『東京学士院会雑誌』に掲載した小論文とはこれのことですね。

「支那人人肉ヲ食フノ説」神田孝平 『東京学士院会雑誌』(一八八一)より
礫川全次『人喰いの民俗学』批評社、1997年06月。ISBN 4-8265-0224-9
http://www.hihyosya.co.jp/ISBN978-4-8265-0224-5.html

ちなみに、福澤先生が『世界国尽』を出版したのは1869年(明治2年)で
この年に先生が『蘭学事始』の復刊をおこなっています。
詳しくは、以下の先生の「蘭學事始再版之序」を参照してください。

--------------------------------------------------------
蘭學事始の原稿は素より杉田家に存して一本を祕藏せしに安政
二年江戸大地震の火災に燒失して醫友又門下生の中にも曾て之
を謄冩せし者なく千載の遺憾として唯不幸を嘆ずるのみなりし
が舊幕府の末年に神田孝平氏が府下本郷通を散歩の折節偶ま聖
堂裏の露店に最と古びたる冩本のあるを認め手に取りて見れば
紛れもなき蘭學事始にして然かも?齋先生の親筆に係り門人大
槻磐水先生に贈りたるものなり神田氏の雀躍想見る可し直に事
の次第を學友同志輩に語り孰れも皆先を爭ふて冩取り俄に數本
の蘭學事始を得たる其趣は既に世に亡き人と思ひし朋友の再生
に遭ふたるが如し而して之を再生せしめたる恩人は神田氏にし
て我輩の共に永く忘れざる所なり書中の紀事は字々皆辛苦就中
明和八年三月五日蘭化先生の宅にて始めてターフルアナトミア
の書に打向ひ艫舵なき船の大海に乘出せしが如く茫洋として寄
る可きなく唯あきれにあきれて居たる迄なり云々以下の一段に
至りては我々は之を讀む毎に先人の苦心を察し其剛勇に驚き其
誠意誠心に感じ感極りて泣かざるはなし迂老は故箕作秋坪氏と
交際最も深かりしが當時彼の冩本を得て兩人對坐毎度繰返して
は之を讀み右の一段に至れば共に感涙に噎びて無言に終るの常
なりき斯くて一兩年を過ぎ世は王政維新の變亂と爲り都下の學
友輩も諸方に散じて東西南北唯兵馬の沙汰を聞くのみ此時に當
り迂老は江戸に住居し獨り目下の有樣を見聞して我國文運の命
脈甚だ覺束なしと思ひ明治元年のことなり月日は忘れたり小川町
なる杉田廉卿氏の宅を訪い天下騷然復た文を語る者なし然るに
君が家の蘭學事始は我輩學者社會の寶書なり今是を失ふては後
世子孫我洋學の歴史を知るに由なく且は先人の千辛萬苦して我
々後進の爲めにせられたる其偉業鴻恩を空ふするものなり就て
は方今の騷亂中に此書を出版したりとて見る者もなかる可しと
雖も一度び木に上するときは保存の道これより安全なるなし實
に心細き時勢なれば賣弘などは出來ざるものと覺悟して出版然
る可し其費用の如きは迂老が斯道の爲め又先人へ報恩の爲めに
資く可しとて持參したる數圓金を出し懇談に及びしかば主人も
迂老の志を悦びいよ/\上木と决し其頃は固より活版とてはな
く先づ草稿を校正して版下に廻はし櫻の版に彫刻することなれ
ば彼れ是れ手間取り發兌は翌明治二年正月のことなりき即ち今
の版本蘭學事始上下二卷是れなり爾後不幸にして廉卿氏は世を
早ふせられ版本も世間に多からず然るに今回は全國醫學會に於
て或は其再販ある可しと云ふ迂老の喜び喩へんに物なし數千部
の再販書を普く天下の有志者に分布するは即ち蘭學事始の萬歳
にして啻に先人の功勞を日本國中に發揚するのみならず東洋の
一國たる大日本の百數十年前學者社會には既に西洋文明の胚胎
するものあり今日の進歩偶然に非ずとの事實を世界萬國の人に
示すに足る可し内外の士人この書を讀で單に醫學上の一小紀事
とする勿れ明治二十三年四月一日後學福澤諭吉謹誌
--------------------------------------------------------
杉田玄白 (翼) 著『蘭學事始』林茂香, 明23年4月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826051/5

970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/04(金) 01:44:08.17 ID:3VFkbcmg0.net
>>969
自己フォロー。文字化けしちゃったけど、
「?齋先生の親筆」とは、
「※[#「懿のへん+鳥」第3水準1-94-71]斎先生の親筆」のことです。

971 :代理屋 ◆XFizselqIb3B :2014/07/04(金) 22:02:27.89 ID:Br0pNyoY0.net
お二人にレス感謝。

>>969-969
その論文です。ただ、諭吉が出版したときは「復刊」でなく初の公刊のはず。

>>968
紹介いただいたその二つ(※桑原論文と、李冬木氏の論考に出てくる
『国民性十論』)と、神田論文とを比べると、興味深いことに気付くです。

一連の「中国食人」関連の著述を時系列でならべると……

1)1881年、神田論文(※維新後初の中国食人論文とされる)
2)1910年、芳賀矢一 『国民性十論』(※当時のベストセラーで近ラにあり)
           h ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798465
3)1918年、魯迅『狂人日記』
4)1923年、桑原論文(※これも閲覧可)

となるのだが、日清戦争前に書かれた(1)と、日露後の(2)ならびに
一次大戦後の(4)では、ある【決定的な違い】がある。
その違いに注目すると、近代日本の自画像の変遷が浮かびあがり、いろいろな
意味で刺激的なんですが……レス違いといえばスレ違い。

さて書いていいものやら。

972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/05(土) 00:55:43.54 ID:aLXy3io90.net
>>971
> 諭吉が出版したときは「復刊」でなく初の公刊のはず。

そのとおりです。失礼しました。
それで、年表にすると以下のようになります。

安政二年    『蘭學事始』の原稿、江戸大地震の火災に燒失
舊幕府の末年   神田孝平氏が古びたる冩本を発見
明治元年     杉田廉卿氏の宅で出版を決定
明治2年正月   諭吉が今の版本『蘭學事始』上下二卷發兌
明治23年4月   「蘭學事始再版之序」を追加して『蘭學事始』再販

973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/05(土) 19:12:41.35 ID:CiMJ7lFH0.net
次スレ
【三十一谷人】福沢諭吉について(其の11)
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1404555135/

974 :代理屋 ◆XFizselqIb3B :2014/07/06(日) 17:29:28.53 ID:+/UY86xE0.net
新スレも出来たようなので、消化の意味をこめ当方の主張のアウトラインだけ
書かせていただく。(細かく書くとキリなし)


まず、神田論文をダイジェストすると……。(旧字を新字にするなどした)

中国は《……文明の国と称し道徳仁義を……》掲げてはいるが、
《……古来史中人肉を食ひしこと続々として……》あとを絶たず、食人理由も
《……飢に因りて……怒に因りて……味を嗜みて……病を医するか為……》
など多岐にわかるとしたうえで、食人記録を列挙した。 
               (*礫川全次『人喰いの民俗学』所収 頁41)

そして結論として、中国人が人を食べないのは法が殺人を禁ずるためであって、
彼らは法がなければ人を食べる「食人種」であると断じていた。

その後登場する>>971の(2)や(4)も、基本は上の神田論文に倣ったもの
だった。

ただし、神田論文は以下の点で【決定的に】異なった。

975 :代理屋 ◆XFizselqIb3B :2014/07/06(日) 17:56:41.66 ID:+/UY86xE0.net
当時の国定教科書の編纂にも参与した芳賀の『国民十世論』や、アジア史の大家の
桑原論文は、日本人はそれを【食べない】という大前提に立っていた。

桑原論文に至っては、飢餓のときすら日本人は食べなかったと、日本書紀の記述まで
否定してみせる念のいれようだった。

に対し、神田論文の結語は、日本の食人事例を一例も言及することなしに、ただ
明治になって肉食が解禁されると、鶴が食べられ急速に数を減らした事実のみ紹介し、

《……我復その食人人種たるを疑はざるなり》としていた。

上の主張は、あきらかに論理の飛躍があるが、それに構わず神田は強引に、
「自分は日本人も食人種だということを疑わない」と結論していたわけだ。


では、なぜ神田はこう書いたのか?
そもそも神田は、なぜ、この時期に、この論文を「かかねばならなかったのか」。

で、この核心を述べるまえに、当方が『狂人日記』の根に神田論文があったと
みなしたのかについて触れておく。

976 :代理屋 ◆XFizselqIb3B :2014/07/06(日) 18:16:07.43 ID:+/UY86xE0.net
>>968の李冬木論文は、魯迅が『国民性十論』を読み、同書を書いたとみていた。
たしかにその可能性は否定できない。神田論文はいかにもマイナーすぎる。

それでも当方が神田論文とみる理由は単純で、小説の記述との共通点だ。

『狂人日記』では、中国史を読むと《……どのページにも「仁義道徳」……》としか
書いていないが、凝視すると行間から「食人」の文字が浮かぶとしてた。
                      (*『狂人日記』岩波文庫 頁19)
一方、神田論文は前述のとおり《……文明の国と称し道徳仁義を……》とあった。
                   (*礫川全次『人喰いの民俗学』所収 頁41)

この「仁義道徳」→「道徳仁義」に加え、具体的な食人事例の紹介でも、
《……子を易へて食ひ……》(磯川 頁43)に《「子を貿えて食う」》(魯迅 頁22)と
同じエピソードが取り上げられていた。

李氏の指摘どおり最初に魯迅がベストセラーを読み、この件に感心をいだいたとしても、
執筆にあたり資料漁りをしたとすれば、神田論文にたどり着くのは時間の問題だったろう。
(※当時の留学生のネットワークを活かせば)
で、同じ下敷きにするなら、ベストセラーよりアカデミックなものを選ぶのは
「インテリ」さんの性だったのではないか^^

と、いうことでいよいよ本題。(後日につづく)

977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/11(金) 11:03:51.80 ID:tF77Yhxs0.net
話題が福沢からそれたのでストップしているのか

978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/11(金) 21:37:49.85 ID:1c43K/HY0.net
礫川全次というのは、例の福沢中傷本を書いたやつか

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