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☆会津プロパガンダの嘘と真実の会津★

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/18(土) 05:32:32.83 ID:Qd29kjyg0.net
@関宿会談が行なわれる四日前、奥羽鎮撫総督府は仙台・米沢を通じて会津に対し「会津藩が謝罪の態度をちゃんと示すならば、寛大な処置にしても良い」
という通達を行なった
A4月29日(閏4月1日)、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津が会談し、仙台は会津に「藩主の蟄居、謀主の首級の差出」という条件をだし会津は一旦同意する

閏4月3日に「今日に至っては降伏謝罪では済まない、本人自ら陣頭に来い」(総督府)

B閏4月12日、仙台・米沢は奥羽鎮撫総督府に会津の嘆願書を受理させる
ただし、内容は「藩主は城外に立ち退き謹慎」で、関宿で協議されたはずの「首謀者の首級差し出し」に関しては一切触れられていない
(これで世良は十分激オコ)

>15日 世良、却下

C閏4月15日、「我々は徳川家の家名がどうなるかを見届けない内は、謝罪をするつもりはない覚悟でございます(容保)」が
奥羽府には受理されず仙台で止まる(だから仙台戊辰史にしか出てこない)

D閏4月17日、奥羽府はこの嘆願書を拒絶「望みをかなえることができないので、早々に討ち入りを成功させよ」

で筋が通る

CがDに影響を与えてないというのは関係なくて、
BがDを導き出しただけでも会津の強硬な態度が問題なのに、更にその上Dに影響を与えてなくても実はCがあったとなれば会津側の問題点は更に深まる
という結論

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