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第二次世界大戦の戦犯って結局誰?

1191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/14(木) 12:39:19.47 ID:Xr8xP2gs9
1915年6月、バボージャブは配下の2人を日本へ派遣し、軍資金や武器弾薬の援助を日本に求めた。
また、清朝の復辟(復活)を目指す宗社党とも手を結んだ。
バボージャブの要請に対して、川島浪速がその援助に乗り出した。
川島は1912年にも満蒙独立運動を画策したが、これは失敗に終わっていた(第一次満蒙独立運動)。
川島は大倉財閥から資金を、軍部から武器弾薬を手に入れ、大陸浪人や予備役軍人などの同志を募って現地に派遣した[6][7]。

1916年7月下旬、ハルハ川河畔から奉天を目指して南下したバボージャブ軍(「勤王師扶国軍」:約3,000名)は張作霖軍との戦闘を開始し、激戦が一週間続いた。
8月14日、バボージャブ軍は郭家店を占領した[8]。
そのころ、日本政府は袁世凱の死去にともなって独立計画の中止に動き出しており、バボージャブ軍は張作霖軍と休戦して西方へ撤退することになった[9]。
9月2日、川島らに説得されたバボージャブ軍は郭家店を出発し帰路についた。
途中、各地で張作霖軍との戦闘を続けながら、10月初めに林西に到達した。
林西は内モンゴルへの入り口で、その北には本拠地のウジムチンがある。
林西城への攻撃を開始したバボージャブ軍は緒戦で勝利し、10月8日、これを見たバボージャブは手勢300騎を率いて敵陣地へ騎馬突撃をおこなった。
その際、機関銃の掃射を受け、左肩に弾丸が命中してバボージャブは戦死した。
バボージャブ軍は12月に内モンゴルへたどり着き、のちに解散した[7][10][11]。


(第二次満蒙独立運動)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%96

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