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【最後の】徳川慶喜【将軍】

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/21(日) 15:50:49.87 ID:y7oh8XUG0.net
>>187
静岡県知事かよw

慶喜も隠居後は静岡で暮らしていたんだっけ?

まさか静岡の風土か?

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/21(日) 23:26:37.98 ID:wyu7KY5j0.net
>>182
当時の工法では無理だった説や相次ぐ、もしくは水害多々で諦めた説
多摩川も当初は橋がかかっていたらしいがやはり水害多々で無くしたとか

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/22(月) 01:39:45.16 ID:RAWzF+sq0.net
家康の再来と評してたのは木戸孝允

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/22(月) 20:24:55.05 ID:A33KlBq00.net
政治的には、慶喜が新政府に入るのは、確定的だったんだから
戊辰戦争なんて、本来要らんかったんだよね

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/22(月) 20:50:51.48 ID:Vc9X8K/e0.net
そうそうバカな幕臣や会津・桑名が武装して京都に上ろうなんて
長州のやらかした失敗をなぞらなければ戦にならずにソフトランディングできてた

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/22(月) 20:59:14.85 ID:A33KlBq00.net
池田屋は薩摩藩邸焼き討ちと被る
長州も朝敵なのに戦ったので会津もなぞる様同じ事をしてる

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/22(月) 22:02:57.46 ID:Vc9X8K/e0.net
失敗から学ばない会津w

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/24(水) 13:29:51.29 ID:iS2MfTZr0.net
太平の世になれきってしまった幕臣たちが
いざ戦争になると知らされたら
隠居して8歳の息子に家を継がせたとかひどい例が続出して
慶喜はこれじゃ幕府は滅ぶわと嘆いたとか
そんな感じだったから、慶喜も腐りきった幕府はつぶしてもいいかなあと思っていたんじゃないかな?

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/24(水) 18:49:38.16 ID:EDSBnnaX0.net
幕末の頃日本とアメリカの人口は、ほぼ同じ3000万程度だったそうである

鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍1万5千、新政府軍5千が交戦し両軍合わせ500人が戦死したと言う

南北戦争最大の激戦ゲティスバーグの一戦では北軍9万、南軍7万が戦い両軍合わせて約8千が戦死

天下分け目の関ヶ原ではゲティスバーグとほぼ同規模の動員兵力で戦死はそれ以上だったそうである

戊辰戦争も天下分け目であるが交戦戦力が戦国時代、同時期の欧米に比べ、また人口の割には小規模であるのは何故なのだろうか

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 00:49:52.27 ID:w8V0vYZc0.net
>>198
想像だけど、長年戦争が無かったから百性を兵として徴兵する制度が無くなってしまっていて、武士だけが参戦したから人数が少なかったのではないだろうか?
戦国時代は徴兵された百性の他、足軽というフリーの兵士というべき職業もあったが、幕末にはそんな職業も無くなってしまっただろうし

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 12:18:03.26 ID:OFMffbjb0.net
四境戦争でも会津戦争でも上越戦争でも町人・農民などの非武士階級が志願兵として多く参加している。
慶応の幕政改革でも幕府軍には天領の農民が参加している。
>>199
なんか根本的に知識不足による歴史間違いしてるけど、足軽どころか、将校と兵卒が現れたのが戊辰戦争だぞ。
それまでは一人の上士が数人の徒歩(家来)を率いており、それの集合体が軍を構成したていたが、幕府や雄藩では近代的な兵制改革を行っており、
兵卒不足を補う意味からでも非武士階級からの志願兵を積極動員した。
それから戦国時代の農民徴兵は強制でも根こそぎでもないよ。それは昭和の歴史観だな。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 12:53:40.73 ID:cL33FKKU0.net
ぜんぜん慶喜の話じゃなくなってるw

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 13:55:06.66 ID:6QQkxScS0.net
一部の信者から戊辰戦争で最悪を免れたのは徳川慶喜の功績だと。

まあ人口3000万人国家の内戦で1万人余りの戦死者で終わったのは
最善ではないが最悪は免れてる次善なのかもしれない。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 15:14:15.72 ID:cL33FKKU0.net
戊辰戦争って天下分け目の戦いじゃないんだから、南北戦争や関ヶ原と比べること自体ナンセンス
西日本と中部はほとんど無戦で恭順したので、慶喜が東に逃げなければ、鳥羽伏見後は政治的解決で済んだ可能性もある

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 15:29:53.03 ID:BMnl3Gyx0.net
兄の尾張藩だって佐幕派を大粛清をして
許してもらったんだから、弟の容保もやればよかっただけ。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 15:37:51.70 ID:5zWRU5KF0.net
>>199
>>200
戦国時代からどれだけGNP/GDPが江戸時代で伸びてるとおもってんねん

江戸時代で兵農分離が完了
その枠組みで閉じコンなのでほぼ内需だけの経済成長により、物価や人件費の上昇と経済とのバランスがひと減らしでもせんと取れんのだぞ

ちなみに幕末に兵士として志願した庶民はたしかにいる
だがそれは全体のごくごくごくわずかの話

兵卒を構成してたのは当時もいた足軽身分や中間、小者、若党などと呼ばれた武家奉公人でまるっきりの庶民ではない

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 19:11:50.13 ID:9ZeXp91U0.net
>>204
長州征伐を三家老の首ですませた義勝(総督)を慶喜がクソミソに貶してそれゆえに慶喜嫌いになったというネタ

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/26(金) 20:10:32.31 ID:90Rf0+ki0.net
会津としては天皇に信頼され手を汚してきたプライドがあったんだろうな
長州藩も朝敵になりながら抗戦したし
西南戦争の薩摩もだけど

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 01:39:03.79 ID:ZeH8J5JR0.net
ふむ

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 14:32:50.70 ID:ZeH8J5JR0.net
徳川の英知

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 14:43:53.77 ID:ZeH8J5JR0.net
無能でもあり有能でもあり

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 21:47:38.63 ID:WIRJXi0w0.net
慶喜はとかく頭が切れ、先を見る力があった。それゆえ、鳥羽伏見後に「俺、オワタ。」と悟ったんだろうね。
ただ、「外国勢力の介入を防ぎ、内戦を回避した英傑」というのは過大評価で、自身と徳川宗家の保全第一が主眼であり、
それは成功し、結果として徳川→薩長への政権移行を上手く成し得たということであろう。
このソフトランディングのおかげで本人も晩年「維新の功臣」入りした。
後知恵だが、慶喜は乱世をうまく泳ぎ切った。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 23:20:50.60 ID:kjTtJu7+0.net
>>211
徳川慶喜は後に長州よりも薩摩が許せないとかそんなことを言ったそうだけれど
最初は公武合体派だった薩摩の島津久光が政治に口を出すことを嫌って排除しようとしたのは
徳川慶喜のほうであって
もしもこの時期に島津久光と友好的な態度で接していたら
薩摩が討幕派になることはなかったのではないか?と思えるんだよな
あの時期の徳川慶喜はなぜ島津久光を嫌ってしまったんだろうなあ

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 00:26:07.53 ID:ofOS546K0.net
>>211
ようするに先手必勝タイプだったと、現状対応は苦手とは言わないがなんせ動くのは部下達その他大勢なので
何が起きるかは不明、だったら先手で主因となる芽を排除したほうがいいのでは?と
それが駄目ならもう尾張というあっさり感

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 12:31:12.25 ID:+pE9iWcs0.net
age

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 15:31:49.57 ID:9cH7GuT60.net
後の先こそ王道だぞ徳川慶喜さん

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 19:21:30.45 ID:VgjXpBJO0.net
>>211
自分の身だけを考えればむしろ薩長と戦争すりゃ良い
軍事力で圧倒してるから
大阪城にでもこもれば新政府の兵力じゃ落とせないし
西南戦争見ても武士最強とされた薩摩でも熊本城は落とせず百姓兵の物量に押され敗北したからね

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 02:19:13.54 ID:rKloKQdo0.net
>>210

結局そういうこと

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 11:49:26.92 ID:pV65zrXR0.net
>>212
そもそも自分を担ぎ出そうとする薩摩が嫌いだったんだよ
それこそ斉彬からずっと

慶喜は何事もなく、ゆったりと過ごしたかった人
それを薩摩が面倒の火中のど真ん中に引っ張り出そうとするし
徳川の人間として、外様が政治に口出したり、介入したり、政治そのものに直接入ろうとしたりすることは秩序の崩壊になるからなにより嫌った

世の中のこの危機的状況が慶喜の才能を必要としてるのに、当の本人はそんな面倒くさくて大変なことなんてやりたくないっていう
ホントこの人すごく人間くさい

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 14:51:33.53 ID:JgdlpRfg0.net
嫌いな薩摩から豚肉全部取り上げるんだ

220 :211:2024/05/01(水) 21:12:23.74 ID:BYBfwHwr0.net
>>212>>216
基本的に慶喜の政治志向は雄藩連合路線ではなく幕府専制路線なんだね。だから、本当は政策的には薩摩と協調できるんだろうけれど
国政に外様が主導権を握ることが嫌なんだよ。参与会議潰したのは慶喜だし。
ここまでの見立ては>>218氏と同じだが、彼と俺が違うのは慶喜は非常に権力欲は強かったと思う。
頭がいいし、自分以外は馬鹿に見える。主導権はずっと自分が握りたい。
しかしながら、あの鳥羽伏見後のザマは一体どう理解すればいいのか?
216氏が言うように大坂城に籠っていれば勝てないまでも負けることは無かったかもしれない。
しかし、籠城してる間に朝廷を握ってる薩長に次々と政治工作を打たれる。何十手も先読んだら「俺、詰んでるやん」とそう考えた時に嫌になっちゃたんだろうねえ。
「もう、どうでもええわ」とヤケクソになるところは218氏のいうように人間臭いとこなんだろうねえ。
ま、単純に、「朝敵にされて心が折れてしまった説」かもしれんけどね。


221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 02:46:20.63 ID:SCnUV93W0.net
豚一さま

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 10:07:20.42 ID:liVfVOqC0.net
「もし江戸と京の間に戦が起こるような事があれば、全てを捧げて京を奉ぜよ」
子供の頃からこういう考えを叩き込まれた慶喜が戦える訳ないな

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 10:09:59.46 ID:tr4CJ8c+0.net
それよく言われるけど、だったら京に進軍したいと言われたときに「勝手にせい」とは言わなかったと思うの
慶喜オタは本人が書き残してない心情を、勝手に断言する人多い

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 12:10:15.83 ID:S2hXyxU20.net
朝廷と徳川宗家が対立したら水戸家は朝廷側につけ、って考えは神君家康否定・幕府否定の発想で
道徳的にどうなんかね。水戸家が上級国民にいられる根拠を自己否定し、家祖をも裏切っている。
尊王思想というのはカルトそのものだよ。

尾張と紀伊が慶喜を見限って薩長についたのは尊王というより自己保全だ。
慶喜は徳川宗家というより水戸家の人という認識が尾張紀伊にあったのではないか?

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 15:24:55.67 ID:tr4CJ8c+0.net
幕末を通じて慶喜の最大の敵は、薩摩ではなく江戸の幕臣たち
こいつらは大政奉還に反対で、討薩の表を持って京都に上ろうとして鳥羽伏見の戦いが起きた
ネットではなぜかこいつらを徳川代表みたいに言う人が多いけど、いつから慶喜を廃して滝川具挙が徳川家を就いだんだ?って思う

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 01:12:48.99 ID:Dzk06yxc0.net
単純に大政奉還は誰が将軍になっても御手上げの泥舟を見限って捨てただけ
そこに有能だの無能だのは本来はない
なぜなら誰が将軍に就任しても崩壊は決定づけ得られていたからだ

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 02:08:09.46 ID:l30WyGll0.net
そうやな

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 19:21:32.29 ID:qS7yjTnj0.net
薩長と戦う気なら大政奉還は悪手だろう
大政奉還せず戦えば将軍として顔が効き薩長に付く藩も限られた
土佐が大政奉還を進めてるため顔が潰せなかったのだろう

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 03:22:19.30 ID:9lYjVLaq0.net
慶喜は手裏剣の名人やで

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 16:10:26.69 ID:I+9I5RRM0.net
基地外水戸学の出だから錦の御旗建てられた段階で
そりゃ無理だろ。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 00:17:54.74 ID:5Nk97PWq0.net
母親の血筋たどれば霊元天皇にまで遡るからね、しかも長寿だったし

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 02:35:51.08 ID:OE1FZsi20.net
30代から隠居生活

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 18:24:19.75 ID:lPeOYRbJ0.net
若くして天下に名を轟かせ、その後の隠居、幽閉、亡命生活の方が長く死んだ時はほとんど忘れられている

こういう慶喜的な人物は、本邦では、宇喜多秀家、松平忠輝 異国だとケレンスキー、張学良あたりだろうか

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 19:59:51.51 ID:r+3oJ8qQ0.net
>>233
ちょっと違うな。慶喜の隠遁生活は幽閉ではないし、多芸多趣味の充実した生活だった。
明治の後半には公爵・勲一等も拝受して名誉も挽回した。いい人生ですよ。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/08(水) 00:02:00.10 ID:oUhnfaEd0.net
配流とはいえ幕末まで前田家からの金銭、子孫も傍流あわせりゃ20家ちかく存在しているという宇喜多家はまだいいほうやろ
忠輝もなんだかかんだ配流先では自由気ままのようだったし

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/10(金) 02:59:22.04 ID:TMm6oJL30.net
史上最強の一発屋

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/11(土) 04:54:53.17 ID:WxBToLBb0.net
>>190
あの知事は京都人やで
静岡県人は気風が大らかよ

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/12(日) 11:26:51.87 ID:QvksL7nU0.net
>>236
ん? 「一発屋」って、一応一発だけは当ててるんだが、慶喜はなんか当てたのか?
慶喜の人生最高は禁門の変で長州軍を撃退したときぐらいじゃね?

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/12(日) 19:14:29.25 ID:p/vaA7NU0.net
慶喜やゴルバチョフみたいに先が見えすぎる人物はその時代の人間から忌み嫌われる

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/13(月) 02:35:56.40 ID:kKjQLgxf0.net
大政奉還こそ史上最強の一発屋。

あれこそ徳川慶喜以外は不可能であった。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/14(火) 22:24:24.30 ID:X7KCrT8g0.net
あんな状況で将軍になってババ引いたとしか思えない
家慶、家定のように将軍世子の期間が長ければ幕臣の忠誠心もあり把握もできただろうけど、今まで列侯に過ぎずぽっと将軍になっても、押しが聞きにくいんじゃなかろうか

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/20(月) 20:16:56.19 ID:gv4CZNxB0.net
>>241
ご指摘の通り、あの状況で将軍就任は、まさに「ババ」を引いたような展開だったと思いますよね。家慶や家定のような長い将軍世子期間があれば、幕臣との信頼関係も築け、状況把握も容易だったでしょう。

しかし、突然列侯から将軍に昇格した彼にとって、周囲の意見を取り入れるのは難しかったかもしれません。家臣たちは、彼を「自分たちと同等の存在」と捉えていた可能性もあるでしょう。

さらに、当時の幕府は既に権威が衰退しており、改革への機運も高まっていました。そんな中で、経験不足の将軍が改革を主導するのは、非常に困難な状況だったのではないでしょうか。

彼の立場であれば、周囲の意見に耳を傾け、慎重に判断していくことが重要だったでしょう。しかし、それができなかったために、幕府の威厳をさらに失墜させてしまったのかもしれませんね。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/21(火) 03:06:00.68 ID:RS9jWz4j0.net
>>240
一発屋人生

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/22(水) 13:06:07.53 ID:611r5pb90.net
大政奉還だけの将軍

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/22(水) 20:26:53.91 ID:EqFnvyer0.net
江戸城無血開城にも貢献してる

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/22(水) 20:51:00.61 ID:ULo41NIA0.net
山一證券最後の社長 とまでは言わないが在位1年足らずで実績がと言われても店じまいしかしようがない

ルイ16世とか足利義昭とかならもう少し頑張れよと思うが

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/23(木) 02:27:16.69 ID:+zz39Gn30.net
それで歴史の役割が終わったんやで

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/24(金) 03:45:26.47 ID:WsDNIURH0.net
徳川幕府に人材なし

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/24(金) 06:18:53.07 ID:ohxBJpFm0.net
幕軍が雑魚すぎて袋小路の長州にすら勝てなかったのに、
最強薩摩と組まれたらで判断したのは立派だろ。
東北や越後の間抜けとは違うのだよ。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/24(金) 22:36:28.99 ID:29EziOio0.net
大奥、譜代、旗本からは嫌われ、酒井玄蕃みたいな陪臣からも馬鹿者扱いされていた。
しかし江戸を戦火に巻き込まなかった、ならば、
江戸からは感謝されても良いんだが、余りそういう声は聞かれない。
新門くらいか

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/29(水) 04:06:11.90 ID:LO6kXqUC0.net
西郷、大久保の力量を見抜いてのは、
さすが腐っても将軍

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/29(水) 20:39:21.50 ID:5LcKGJDW0.net
>>250
大奥、譜代、旗本からは嫌われ、酒井玄蕃のような陪臣からも馬鹿者扱いされていたというのは事実ですね。しかし、江戸を戦火に巻き込まなかったという功績は非常に大きく、1868年(慶応4年)の戊辰戦争勃発時に約26万人が住んでいた江戸市中を壊滅的な被害から救ったことは、もっと評価されるべきではないでしょうか。

確かに、江戸の人々から直接感謝されたという記録は多く残っていませんが、それは当時の社会情勢や情報伝達の制限などが影響している可能性があります。江戸城が無血開城という形で戦火を免れたことは、江戸市民にとってはもちろん、日本全体にとっても大きな幸いであったことは間違いありません。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/29(水) 20:41:13.46 ID:5LcKGJDW0.net
>>251
西郷隆盛と大久保利通の力量を見抜いたのは、徳川慶喜の慧眼であったと言える

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/30(木) 21:28:34.36 ID:JkhqxXKh0.net
慶喜は西郷にも大久保にも直接あったことないんだろ
それを炯眼と言っていいのか・

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/30(木) 22:52:54.29 ID:TS7ZLqfM0.net
まず征夷大将軍が一介の他藩士の名を知ってるだけで余程の情報通

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/31(金) 03:44:59.59 ID:4Y+ggaQ60.net
そのとおり。
慶喜は時勢は読めてるよ。
時勢が読めてるから無駄あがきせずに大政奉還を成し遂げたともいえる。

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/31(金) 09:12:44.22 ID:XdzDranQ0.net
将軍になる前の幕政に関わった時期が長かったからな
一橋の当主という立場は、むしろ他の諸侯より身軽に動きやすそうだ

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/31(金) 23:07:45.56 ID:SZUC3ORG0.net
幕臣や大奥に好かれる将軍=日本にとっては最悪の将軍

この場合の好かれるは、舐められてる、既得権益を温存して自分たちにうまい汁を吸わせてくれて都合がいいということだからだ
あの情勢下で幕臣大奥に嫌われるというのは誇るべきことだろう
慶喜には「嫌われる勇気」があったのだ

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/01(土) 00:09:36.22 ID:8Z7FeTR30.net
幕府もそれほど馬鹿じゃない、各藩で脱藩者のリストを作成しその中で目ぼしい人物をリストアップさせたくらい
坂本龍馬もその中に入っていたしね

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/02(日) 05:15:04.35 ID:NCWzGg550.net
徳川慶喜でも匙を投げるぐらい幕末の幕府は人材不足だったということだろ。

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/02(日) 07:52:06.80 ID:zlF2QVyp0.net
幕臣中で唯一薩摩と戦えた原市之進は元水戸天狗党の過激派で、旗本に斬られるというのがすべてを物語ってる

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/02(日) 10:39:15.11 ID:acQDzTag0.net
慶喜は才子だからな 才子は己が賢いので人を使うのが下手な面がある
石田三成とか東條英機とか使われている間はいいがトップに立つと全くいけてない
慶喜も一橋のいち諸侯のままの方が本人も良かっただろう 大体やりたくもないのにやらされて、それで文句を言われても堪らん

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/02(日) 11:25:18.01 ID:zlF2QVyp0.net
家茂って創作では大抵いい人に書かれて勝海舟の理解者とされるがそんなわけない
骨の髄までの幕府独裁主義者だし、勝とはそもそも上洛の行き帰りで軍艦を利用した際の艦長だったってだけで家茂にとってはごまんといる幕臣のなかの中堅官僚でしかない
慶応二年の時点では名前すら覚えていたかどうか

慶喜の尽力に対して全然感謝しないし幕臣にとりなすこともしないし、条約勅許では足をひっぱり最後はあてつけがましく四歳児を跡継ぎに指名してしぬ

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/03(月) 15:00:05.60 ID:dOQ/43Xe0.net
水戸藩も自滅で徳川幕府も自滅

これが何もかもを自滅に追い込む水戸学の恐ろしさなのか・・

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/03(月) 16:38:39.58 ID:ohSa6LIg0.net
>>263
家茂公は創作作品では好人物として描かれることが多いですよね。でも、実際には幕府独裁主義者だったという指摘は興味深いです。勝海舟との関係についても、上洛時の軍艦利用が唯一の接点だった可能性は十分に考えられますね。慶喜公への感謝の欠如や、条約勅許での足かせなど、家茂公の政治的側面は複雑だったようですね。四歳の跡継ぎ指名も、幕府の行く末を案ずる家茂公の苦悩を象徴しているのかもしれません。

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/03(月) 17:48:26.61 ID:3WfXHQK/0.net
キモいレスここにも来てる

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/04(火) 00:26:58.38 ID:/LLcHE1O0.net
ん、田安亀之助は既に14代選定の時点で名に上がっていたと思うがね

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/04(火) 12:01:59.58 ID:8jFIGsHZ0.net
ん、田安亀之助が生まれたのは13代家定の死後5年後なんだが

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/05(水) 13:44:08.20 ID:l3PJ1YPv0.net
>>265
なるほど、家茂公は創作作品では好人物として描かれがちですが、実際にはもっと複雑な人物像だったようですね。

確かに、幕府独裁主義者という指摘は興味深い視点です。上洛時の軍艦利用以外は勝海舟との接点が少ないことも、史実を裏付けていると言えるでしょう。

慶喜公への感謝の欠如や条約勅許での足かせなど、政治的な側面も決して単純ではありません。四歳の跡継ぎ指名も、家茂公の苦悩を象徴しているのかもしれませんね

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/05(水) 13:56:29.61 ID:VSwITF7G0.net
気持ち悪い人キタ

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/07(金) 03:40:21.92 ID:574R2+gJ0.net
水戸藩は自滅する

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/07(金) 13:20:44.20 ID:YxRoxfZ00.net
家茂公は複雑な人物像ですね。
創作作品では好人物として描かれがちですが、実際には幕府独裁主義者という側面も持ち合わせていたようです。上洛時の軍艦利用以外は勝海舟との接点が少ないことも、史実を裏付けていると言えるでしょう。
政治的な側面も決して単純ではありません。慶喜公への感謝の欠如や条約勅許での足かせなど、様々な課題に直面していたことが伺えます。四歳の跡継ぎ指名も、家茂公の苦悩を象徴しているのかもしれませんね。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/07(金) 15:03:06.57 ID:bWWk9oBS0.net
同じ内容を何度もレスするのもAI君の精神破綻を象徴しているのかもしれませんね。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/07(金) 21:24:52.42 ID:+feEC4h60.net
AI君みたいな回答も必要

275 ::2024/06/08(土) 03:40:55.96 ID:PSlbqhGh0.net
威公

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/08(土) 12:04:24.24 ID:Y7+0XJWk0.net
>>273
何でもAI呼ばわりする基地外

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/08(土) 12:28:52.65 ID:Y7+0XJWk0.net
西郷隆盛と大久保利通は、幕末から明治にかけて日本の近代化に大きく貢献した人物です。確かに、両者は政策や思想をめぐる対立があり、それが政治的な駆け引きに繋がることもありました。しかし、彼らの行動を単純な「権力闘争」と断じるのは短絡的です。
西郷は尊王攘夷思想に基づき、武士の誇りと伝統を重んじる国家を構想していました。一方の大久保は、富国強兵政策を推進し、欧米列強に伍して国際社会で競争できる国づくりを目指していました。こうした異なる理念に基づく対立は、政治的な闘争として表面化することもありました。しかし、彼らの目的は権力そのものではなく、それぞれの信じる道を貫き、より良い日本を築くことだったと考えられます。
徳川慶喜は、大政奉還と江戸城無血開城によって日本の近代化に重要な役割を果たしました。彼の決断は、戊辰戦争の勃発を回避し、日本を更なる戦争の惨禍から救ったと言えるでしょう。しかし、慶喜の功績はそれだけではありません。彼は武家政権の終焉を決定づけ、日本の歴史における大きな転換点に貢献しました。

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/08(土) 12:40:15.96 ID:OY6tgufw0.net
慶喜は薩摩だけは許せなかったみたいだな

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/08(土) 23:56:52.54 ID:Od6MrN3n0.net
>彼の決断は、戊辰戦争の勃発を回避し
AI君の文章は語句の使い方がいつも変なんだなあ

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/09(日) 21:26:03.71 ID:vxyUtjjR0.net
薩摩ってあれだけ政治に介入しようとしてたのに、維新後具体的な政策など誰ひとり持ってなかったわけで
正直、斉彬時代からなにをしようとしてたのかサッパリわからんな

結局慶喜が将軍になったらなんとかなる程度やんそんなの
久光も知識も経済力も軍事力もある薩摩が政局に参画すればきっとなんとかなる程度やろ?

外様だから政局からずっとパージされてたことから結局ただただ政治に絡みたかったというだけにしか最終的に見えないわ

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/09(日) 23:46:42.07 ID:9mWfBYKf0.net
まあ結局は長州以外は全て負け組になってんだよ。

何もかも長州の掌に踊らされてただけと思えばいい。

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 04:42:06.17 ID:FPdZhSKX0.net
徳川慶喜は伊藤と木戸に救われたな

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 11:15:38.83 ID:GpFxDkox0.net
どこはやねんw  慶喜を救ったのはパークスやろ。あとは天璋院と和宮かな

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 15:03:35.72 ID:0pQZJqGx0.net
長州も掌で踊らされまくった負け組なのにナニ言ってんだコイツ?

自分の巣の伊藤井上山縣スレでいつものごとく気色悪いお馴染みの長州を妄信盲目賛美でもしてろやバイアス馬鹿が

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 15:47:18.27 ID:S3zezhX+0.net
長州が負け組?

明治、大正の国政を支配したのは長州閥やろうがアホw

薩摩閥は西郷、大久保亡き後を受け継いだ黒田で終了

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 15:52:03.67 ID:Cf8SbRNe0.net
>>280
維新後の薩摩は大久保一強みたいなもん。
バカ殿なしの島津も最後の最後で究極のバカ殿が出てきてしまうとはねえ。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 20:12:02.07 ID:KHMNLYLj0.net
薩摩も長州も外交の違いとかあったが
最後の方は権力闘争しかしてないからね
慶喜を新政府に素直に入れときゃ多くの藩が参加したスムーズな近代化になったんだろうが

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 20:17:11.62 ID:S5sIOyI20.net
薩摩藩、政治大好きだったのに維新後具体的な政策ゼロってマジ?斉彬時代から何したかったの? 慶喜に将軍になってもらえればなんとかなるってレベル?久光も知識、経済力、軍事力あったのに政局参画すればなんとかなるって?結局、外様だから政治から排除されてただけで、ただ権力欲しかっただけって結論?薩摩藩、切ないね。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/10(月) 22:42:21.79 ID:pBOyu4Cn0.net
大久保1人に薩摩閥は支えられていた

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/11(火) 02:00:31.94 ID:yD1x3J+O0.net
大久保が「木戸と台湾出兵以外は政策は
一緒」って言うぐらいだから、この両者は
漸進主義と急進主義ぐらいの違いなんだろう。

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/11(火) 13:21:04.58 ID:hk4rGO3a0.net
それでも維新の三傑と言えば西郷、大久保、木戸で薩摩はふたりも入ってくる

もっと長いスパンで幕末から維新にかけての三大人物となれば一橋慶喜、孝明天皇、島津久光だろ
ここでも薩摩はやはり入ってくる

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/12(水) 03:38:49.62 ID:PxOWBaxa0.net
>>282
西郷は強固に徳川慶喜の処刑を要求してたしな。

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/12(水) 12:40:18.43 ID:pkoPg2edn
鉄と土の夕暮れから黄金の夕暮れの時代へ第8の時代。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/12(水) 12:46:16.09 ID:pkoPg2edn
Kyogo, illy illy illy🦴
https://youtu.be/D5drYkLiLI8?si=LEd-G8S3BD6FtDFt
誰が君の代わりに家に帰るんだよ。 🌈

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/12(水) 12:51:11.02 ID:pkoPg2edn
ily 永井大

https://youtu.be/D5drYkLiLI8?si=LEd-G8S3BD6FtDFt

ily〇 illy?

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/12(水) 15:52:54.34 ID:uVaSRoO40.net
幕末から維新にかけて大きな影響を与えた人物

薩摩藩出身の西郷隆盛が維新の三傑に数えられるように、幕末から維新にかけて大きな影響を与えた人物を3人挙げるとすれば、やはり西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允となるでしょう。
この3人はいずれも倒幕運動の中心人物であり、明治維新後の国家建設においても重要な役割を果たしました。
一方、一橋慶喜は鳥羽・伏見の戦いで敗北し、その後は明治新政府に恭順したため、維新の三大人物とは言い難いと言えます。孝明天皇は明治維新前に崩御しており、島津久光は維新の功労者ではあるものの、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ほどの中核的な役割を果たしたわけではありません。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/13(木) 13:49:22.90 ID:RlV72OJx0.net
西郷、大久保、木戸の三傑はあくまで討幕を成し明治という新しい世を切り開いたというピンポイントにおけるものだぞ

幕末から維新にかけての政局、情勢、世の中は常に孝明天帝、慶喜、久光を中心に回っていて
三傑などその手足として動いていただけなのを理解てきてないようだな

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/13(木) 14:34:29.26 ID:B4Gysvz60.net
>>285
全ては長州藩の手の平だったのです
徳川慶喜も利用価値があるから処刑されずに済んだ

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/14(金) 02:20:11.38 ID:ygruQDd+0.net
幕府が禁門の変で毛利敬親に切腹させてないから、
まあ慶喜も松平容保も自刃に追い込まれないのは既定路線かと。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/14(金) 10:44:04.36 ID:F7NNG8YI0.net
会津戦争の戦後処理における三家老切腹も、一次長征での三家老切腹の先例にならいなぞりそうなったもんだからな
あのときそうせいを処断せんことが巡りめぐって慶喜の命を助けた

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/15(土) 04:07:54.25 ID:GEyNu+TF0.net
そういえば徳川慶喜は大久保利通だけを終生に意識してたみたいだな

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/15(土) 09:48:36.47 ID:tGlSum+c0.net
「一次長征」って、なんでもかんでも省略するバカ。毛沢東じゃないんだからw

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/15(土) 11:21:08.59 ID:1JPPjbFd0.net
伝わることをイチイチそんなどうでもいいことで揚げ足取ってる方がよっぽどバカ中バカで共産主義的な思考発想

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/15(土) 11:39:40.46 ID:tGlSum+c0.net
そんなに逆切れするとは思わんかったwww  沸点低いんだねえ

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/15(土) 12:22:02.89 ID:/I2Q7FZ/0.net
禁門の変における毛利敬親の処遇は、切腹ではなく斬首でした。
慶喜や容保の自刃は、禁門の変以後の政治情勢やそれぞれの立場など、様々な要因が複雑に絡み合って起きたものです。
禁門の変と彼らの自刃を単純に結びつけるのは、歴史的事実を軽視する行為と言えます。

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/15(土) 19:58:55.76 ID:q8o6mTjW0.net
まともな反論できんから論点ずらして別のものにすげ替えようとヒッシで草
頭の超絶に悪い揚げ足取りした挙げ句に逆ギレだ沸点がーとかホント悔しそうでなによりです

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/17(月) 16:18:55.08 ID:W7gL/XPo0.net
>>305
>禁門の変における毛利敬親の処遇は、切腹ではなく斬首でした。
すごいデタラメ言ってるな嘘つきめ
斬首でもなきゃ切腹でもない
このとき毛利敬親及び元徳の処遇はそもそもまったくもって決まってなどいない
それなのに斬首とはナニをソースにこんなデタラメ言ってるのだか?

極刑論はもちろん一部あったがそれは慶喜と容保も同様である

むしろ慶喜、容保のほうが追討令が出た時点で異例の等級分けまでされて死が確定路線だったという事実のほうがはるかに特筆されるべきこと
ゆえに様々な史料に"慶喜、死一等免除"は散見されるが
毛利親子、もしくは敬親の斬首免除や切腹及び死罪免除や回避に相当する記述などはない
あくまで敬親らに課せられたのは出頭である

そしてここからが最も大切なこと
毛利敬親は武家で大名であるが参議の公卿でもあるということ
公卿の死罪、まして斬首など先例がない
大名でも斬首になったのは松倉勝家しか例がなく
敬親がそもそも斬首になるなぞまったくもってあり得んことだということ

この先例を守り秩序則って強硬論者の主張を退け敬親の首をとばさなかったことが将軍でもあり、公卿でもある慶喜の死罪を回避し、そして容保の首も何故つながったのかというのはそういうことだということ勉強不足で知らんでなにが歴史的事実を軽視だと
歴史を不勉強でしかもでっち上げて、軽視し冒涜してるのは明らかに貴殿の方である

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/22(土) 00:32:10.72 ID:/M8pp0Bq0.net
今だけです
https://i.imgur.com/wQpLF8I.jpg

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/22(土) 13:15:28.44 ID:golTVe+p0.net
>>308
もう各種マネーへ変換したわ

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/23(日) 03:57:08.31 ID:4TGP/wEr0.net
慶応2年12月5日、徳川慶喜は江戸幕府第15代将軍に就任する。

崩壊寸前の幕府を立て直すため、慶喜は果敢な改革に乗り出す。

フランス軍事顧問団を招き、フランス式近代軍備の整備を図る。長州藩一藩にも劣っていた軍事力の強化に努める。
積極的な外交政策を展開。兵庫開港を実現し、海外留学を奨励する。
家臣・渋沢栄一を欧州へ派遣し、欧米諸国の最新技術や制度を学ぶ。
当時としては珍しかった写真技術を活用し、自らの写真を諸外国の君主と交換。日本のリーダーとして国際的な評価を高める。

しかし、慶喜の改革への道は険しいものであった。

薩摩藩は武力による倒幕を企て、朝廷内部では岩倉具視が暗躍し、討幕の密勅が密かに出される。
慶喜の腹心は暗殺され、フランスからの資金援助も頓挫。近代軍備整備は失敗に終わる。
孤立無援となった慶喜は、冷静に状況を見極め、ある決断を下す。

それが、大政奉還であった。

慶喜は後にこう語っている。「家康公は日本を治めるために幕府を開いた。私はその幕府を葬り去るために将軍職に就いた。」

慶喜の大政奉還は、日本の歴史における大きな転換点となった。

幕末の動乱を経て、明治維新という新しい時代が始まろうとしていた。

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