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【最後の】徳川慶喜【将軍】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/12/30(土) 17:01:25.79 ID:zVG0uPry0.net
徳川慶喜だけは有能か無能かで極端に評価が分かれやすい

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 12:53:40.73 ID:cL33FKKU0.net
ぜんぜん慶喜の話じゃなくなってるw

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 13:55:06.66 ID:6QQkxScS0.net
一部の信者から戊辰戦争で最悪を免れたのは徳川慶喜の功績だと。

まあ人口3000万人国家の内戦で1万人余りの戦死者で終わったのは
最善ではないが最悪は免れてる次善なのかもしれない。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 15:14:15.72 ID:cL33FKKU0.net
戊辰戦争って天下分け目の戦いじゃないんだから、南北戦争や関ヶ原と比べること自体ナンセンス
西日本と中部はほとんど無戦で恭順したので、慶喜が東に逃げなければ、鳥羽伏見後は政治的解決で済んだ可能性もある

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 15:29:53.03 ID:BMnl3Gyx0.net
兄の尾張藩だって佐幕派を大粛清をして
許してもらったんだから、弟の容保もやればよかっただけ。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 15:37:51.70 ID:5zWRU5KF0.net
>>199
>>200
戦国時代からどれだけGNP/GDPが江戸時代で伸びてるとおもってんねん

江戸時代で兵農分離が完了
その枠組みで閉じコンなのでほぼ内需だけの経済成長により、物価や人件費の上昇と経済とのバランスがひと減らしでもせんと取れんのだぞ

ちなみに幕末に兵士として志願した庶民はたしかにいる
だがそれは全体のごくごくごくわずかの話

兵卒を構成してたのは当時もいた足軽身分や中間、小者、若党などと呼ばれた武家奉公人でまるっきりの庶民ではない

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 19:11:50.13 ID:9ZeXp91U0.net
>>204
長州征伐を三家老の首ですませた義勝(総督)を慶喜がクソミソに貶してそれゆえに慶喜嫌いになったというネタ

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/26(金) 20:10:32.31 ID:90Rf0+ki0.net
会津としては天皇に信頼され手を汚してきたプライドがあったんだろうな
長州藩も朝敵になりながら抗戦したし
西南戦争の薩摩もだけど

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 01:39:03.79 ID:ZeH8J5JR0.net
ふむ

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 14:32:50.70 ID:ZeH8J5JR0.net
徳川の英知

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 14:43:53.77 ID:ZeH8J5JR0.net
無能でもあり有能でもあり

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 21:47:38.63 ID:WIRJXi0w0.net
慶喜はとかく頭が切れ、先を見る力があった。それゆえ、鳥羽伏見後に「俺、オワタ。」と悟ったんだろうね。
ただ、「外国勢力の介入を防ぎ、内戦を回避した英傑」というのは過大評価で、自身と徳川宗家の保全第一が主眼であり、
それは成功し、結果として徳川→薩長への政権移行を上手く成し得たということであろう。
このソフトランディングのおかげで本人も晩年「維新の功臣」入りした。
後知恵だが、慶喜は乱世をうまく泳ぎ切った。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 23:20:50.60 ID:kjTtJu7+0.net
>>211
徳川慶喜は後に長州よりも薩摩が許せないとかそんなことを言ったそうだけれど
最初は公武合体派だった薩摩の島津久光が政治に口を出すことを嫌って排除しようとしたのは
徳川慶喜のほうであって
もしもこの時期に島津久光と友好的な態度で接していたら
薩摩が討幕派になることはなかったのではないか?と思えるんだよな
あの時期の徳川慶喜はなぜ島津久光を嫌ってしまったんだろうなあ

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 00:26:07.53 ID:ofOS546K0.net
>>211
ようするに先手必勝タイプだったと、現状対応は苦手とは言わないがなんせ動くのは部下達その他大勢なので
何が起きるかは不明、だったら先手で主因となる芽を排除したほうがいいのでは?と
それが駄目ならもう尾張というあっさり感

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 12:31:12.25 ID:+pE9iWcs0.net
age

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 15:31:49.57 ID:9cH7GuT60.net
後の先こそ王道だぞ徳川慶喜さん

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 19:21:30.45 ID:VgjXpBJO0.net
>>211
自分の身だけを考えればむしろ薩長と戦争すりゃ良い
軍事力で圧倒してるから
大阪城にでもこもれば新政府の兵力じゃ落とせないし
西南戦争見ても武士最強とされた薩摩でも熊本城は落とせず百姓兵の物量に押され敗北したからね

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 02:19:13.54 ID:rKloKQdo0.net
>>210

結局そういうこと

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 11:49:26.92 ID:pV65zrXR0.net
>>212
そもそも自分を担ぎ出そうとする薩摩が嫌いだったんだよ
それこそ斉彬からずっと

慶喜は何事もなく、ゆったりと過ごしたかった人
それを薩摩が面倒の火中のど真ん中に引っ張り出そうとするし
徳川の人間として、外様が政治に口出したり、介入したり、政治そのものに直接入ろうとしたりすることは秩序の崩壊になるからなにより嫌った

世の中のこの危機的状況が慶喜の才能を必要としてるのに、当の本人はそんな面倒くさくて大変なことなんてやりたくないっていう
ホントこの人すごく人間くさい

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 14:51:33.53 ID:JgdlpRfg0.net
嫌いな薩摩から豚肉全部取り上げるんだ

220 :211:2024/05/01(水) 21:12:23.74 ID:BYBfwHwr0.net
>>212>>216
基本的に慶喜の政治志向は雄藩連合路線ではなく幕府専制路線なんだね。だから、本当は政策的には薩摩と協調できるんだろうけれど
国政に外様が主導権を握ることが嫌なんだよ。参与会議潰したのは慶喜だし。
ここまでの見立ては>>218氏と同じだが、彼と俺が違うのは慶喜は非常に権力欲は強かったと思う。
頭がいいし、自分以外は馬鹿に見える。主導権はずっと自分が握りたい。
しかしながら、あの鳥羽伏見後のザマは一体どう理解すればいいのか?
216氏が言うように大坂城に籠っていれば勝てないまでも負けることは無かったかもしれない。
しかし、籠城してる間に朝廷を握ってる薩長に次々と政治工作を打たれる。何十手も先読んだら「俺、詰んでるやん」とそう考えた時に嫌になっちゃたんだろうねえ。
「もう、どうでもええわ」とヤケクソになるところは218氏のいうように人間臭いとこなんだろうねえ。
ま、単純に、「朝敵にされて心が折れてしまった説」かもしれんけどね。


221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 02:46:20.63 ID:SCnUV93W0.net
豚一さま

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 10:07:20.42 ID:liVfVOqC0.net
「もし江戸と京の間に戦が起こるような事があれば、全てを捧げて京を奉ぜよ」
子供の頃からこういう考えを叩き込まれた慶喜が戦える訳ないな

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 10:09:59.46 ID:tr4CJ8c+0.net
それよく言われるけど、だったら京に進軍したいと言われたときに「勝手にせい」とは言わなかったと思うの
慶喜オタは本人が書き残してない心情を、勝手に断言する人多い

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 12:10:15.83 ID:S2hXyxU20.net
朝廷と徳川宗家が対立したら水戸家は朝廷側につけ、って考えは神君家康否定・幕府否定の発想で
道徳的にどうなんかね。水戸家が上級国民にいられる根拠を自己否定し、家祖をも裏切っている。
尊王思想というのはカルトそのものだよ。

尾張と紀伊が慶喜を見限って薩長についたのは尊王というより自己保全だ。
慶喜は徳川宗家というより水戸家の人という認識が尾張紀伊にあったのではないか?

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 15:24:55.67 ID:tr4CJ8c+0.net
幕末を通じて慶喜の最大の敵は、薩摩ではなく江戸の幕臣たち
こいつらは大政奉還に反対で、討薩の表を持って京都に上ろうとして鳥羽伏見の戦いが起きた
ネットではなぜかこいつらを徳川代表みたいに言う人が多いけど、いつから慶喜を廃して滝川具挙が徳川家を就いだんだ?って思う

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 01:12:48.99 ID:Dzk06yxc0.net
単純に大政奉還は誰が将軍になっても御手上げの泥舟を見限って捨てただけ
そこに有能だの無能だのは本来はない
なぜなら誰が将軍に就任しても崩壊は決定づけ得られていたからだ

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 02:08:09.46 ID:l30WyGll0.net
そうやな

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 19:21:32.29 ID:qS7yjTnj0.net
薩長と戦う気なら大政奉還は悪手だろう
大政奉還せず戦えば将軍として顔が効き薩長に付く藩も限られた
土佐が大政奉還を進めてるため顔が潰せなかったのだろう

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 03:22:19.30 ID:9lYjVLaq0.net
慶喜は手裏剣の名人やで

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 16:10:26.69 ID:I+9I5RRM0.net
基地外水戸学の出だから錦の御旗建てられた段階で
そりゃ無理だろ。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 00:17:54.74 ID:5Nk97PWq0.net
母親の血筋たどれば霊元天皇にまで遡るからね、しかも長寿だったし

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 02:35:51.08 ID:OE1FZsi20.net
30代から隠居生活

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 18:24:19.75 ID:lPeOYRbJ0.net
若くして天下に名を轟かせ、その後の隠居、幽閉、亡命生活の方が長く死んだ時はほとんど忘れられている

こういう慶喜的な人物は、本邦では、宇喜多秀家、松平忠輝 異国だとケレンスキー、張学良あたりだろうか

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 19:59:51.51 ID:r+3oJ8qQ0.net
>>233
ちょっと違うな。慶喜の隠遁生活は幽閉ではないし、多芸多趣味の充実した生活だった。
明治の後半には公爵・勲一等も拝受して名誉も挽回した。いい人生ですよ。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/08(水) 00:02:00.10 ID:oUhnfaEd0.net
配流とはいえ幕末まで前田家からの金銭、子孫も傍流あわせりゃ20家ちかく存在しているという宇喜多家はまだいいほうやろ
忠輝もなんだかかんだ配流先では自由気ままのようだったし

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/10(金) 02:59:22.04 ID:TMm6oJL30.net
史上最強の一発屋

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/11(土) 04:54:53.17 ID:WxBToLBb0.net
>>190
あの知事は京都人やで
静岡県人は気風が大らかよ

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/12(日) 11:26:51.87 ID:QvksL7nU0.net
>>236
ん? 「一発屋」って、一応一発だけは当ててるんだが、慶喜はなんか当てたのか?
慶喜の人生最高は禁門の変で長州軍を撃退したときぐらいじゃね?

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/12(日) 19:14:29.25 ID:p/vaA7NU0.net
慶喜やゴルバチョフみたいに先が見えすぎる人物はその時代の人間から忌み嫌われる

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/13(月) 02:35:56.40 ID:kKjQLgxf0.net
大政奉還こそ史上最強の一発屋。

あれこそ徳川慶喜以外は不可能であった。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/14(火) 22:24:24.30 ID:X7KCrT8g0.net
あんな状況で将軍になってババ引いたとしか思えない
家慶、家定のように将軍世子の期間が長ければ幕臣の忠誠心もあり把握もできただろうけど、今まで列侯に過ぎずぽっと将軍になっても、押しが聞きにくいんじゃなかろうか

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/20(月) 20:16:56.19 ID:gv4CZNxB0.net
>>241
ご指摘の通り、あの状況で将軍就任は、まさに「ババ」を引いたような展開だったと思いますよね。家慶や家定のような長い将軍世子期間があれば、幕臣との信頼関係も築け、状況把握も容易だったでしょう。

しかし、突然列侯から将軍に昇格した彼にとって、周囲の意見を取り入れるのは難しかったかもしれません。家臣たちは、彼を「自分たちと同等の存在」と捉えていた可能性もあるでしょう。

さらに、当時の幕府は既に権威が衰退しており、改革への機運も高まっていました。そんな中で、経験不足の将軍が改革を主導するのは、非常に困難な状況だったのではないでしょうか。

彼の立場であれば、周囲の意見に耳を傾け、慎重に判断していくことが重要だったでしょう。しかし、それができなかったために、幕府の威厳をさらに失墜させてしまったのかもしれませんね。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/21(火) 03:06:00.68 ID:RS9jWz4j0.net
>>240
一発屋人生

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/22(水) 13:06:07.53 ID:611r5pb90.net
大政奉還だけの将軍

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/22(水) 20:26:53.91 ID:EqFnvyer0.net
江戸城無血開城にも貢献してる

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/22(水) 20:51:00.61 ID:ULo41NIA0.net
山一證券最後の社長 とまでは言わないが在位1年足らずで実績がと言われても店じまいしかしようがない

ルイ16世とか足利義昭とかならもう少し頑張れよと思うが

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/23(木) 02:27:16.69 ID:+zz39Gn30.net
それで歴史の役割が終わったんやで

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/24(金) 03:45:26.47 ID:WsDNIURH0.net
徳川幕府に人材なし

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/24(金) 06:18:53.07 ID:ohxBJpFm0.net
幕軍が雑魚すぎて袋小路の長州にすら勝てなかったのに、
最強薩摩と組まれたらで判断したのは立派だろ。
東北や越後の間抜けとは違うのだよ。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/24(金) 22:36:28.99 ID:29EziOio0.net
大奥、譜代、旗本からは嫌われ、酒井玄蕃みたいな陪臣からも馬鹿者扱いされていた。
しかし江戸を戦火に巻き込まなかった、ならば、
江戸からは感謝されても良いんだが、余りそういう声は聞かれない。
新門くらいか

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