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南京大虐殺はなかった

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/23(土) 13:35:21.23 ID:bj9zT/8V0.net
>>111
> 南京戦時には、敵兵を捕えた時点で捕虜としていた。
>
> 指揮官自身も俘虜(捕虜)と認識していた記録
>
> ・第16師団第30旅団長 佐々木倒一少将私記 『南京戦史資料集Ⅰ』『昭和戦争文学全集』
>  12/13 「その後【俘虜】ぞくぞく【投降】し来り、数千に達す。」(注1)

敵兵が【投降】してきて【俘虜】になるのであって、「【俘虜】が投降】して来る」事などありえないのだがw
日本語としてあり得ない事が書いてあるからどうしたw
只の誤字だアホw

> ・第16師団佐々木支隊所属独立攻城重砲兵第2大隊 沢田正久中尉証言 『偕行』(証言による南京戦史)
>  12/14 「多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。【俘虜】の数は約一万(戦場
> のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)」

現場指揮官の自由裁量で捕虜にしただけだなw

> ・第16師団歩兵第33連隊戦闘詳報 『南京戦史』
>  12/10~12/14 [俘虜]将校14、准士官・下士官兵3,082 [備考] 1、【俘虜】は処断す

で、お前がトリミングした箇所にはこう書かれているのだがw

第16師団 歩兵第30旅団
歩兵第33連隊戦闘詳報 第三号附表
[俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3、082、【馬匹】52

そ~か~w「【俘虜】と書かれていれば日本軍は【俘虜】と認識していた」のか~w
つまり日本軍は【馬匹】も【俘虜】として認識していたのか~www
で?【馬匹】が処断されたからどうしたwww

> ・朝日新聞 1937年12月17日朝刊 [南京にて横田特派員16日]
>  「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で【捕虜】にされた一万四千七百七十七名の南京潰走
>  敵兵は(略)それが 皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、」(注2)
>
> 注1 【俘虜】は、正しくは「敵兵」又は「敗残兵」であるが、収容して「俘虜」とした意味であることは明白である。
> 注2 捕虜と書かれているが軍服着用の投降兵なので交戦法規違反はなく、俘虜として扱わなければならない。
>
> 「捕虜はこれを捕らえた個人または部隊の権力内にあるのではなく、抑留国が捕虜待遇について
> 責任を負う。」 [藤田久一]
> だから、現地司令官が勝手に処分(殺害)してはいけない。

幕府山の【捕虜】の反抗で日本軍に戦死者が出ているのだが?
「反抗し」「逃亡を図った」【捕虜】を射殺するのに何か問題があるのかよw

・防衛庁防衛研究所戦史室
第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。
ところが、その夜、半数が逃亡した。
警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。
これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。
なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。
(戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)P437)

戦史叢書によれば日本軍に戦死者が出ているうえに、射殺されたのはわずか1000名程度w

武装解除して、拘束して、抵抗できないはずなのに手榴弾で反抗w
釈放しようと移動しても警戒兵を襲って反抗w

現場指揮官の判断でその場で全て射殺しても何も問題はなかったのになあw
沢田正久中尉みたいにわざわざ捕虜にするなんて日本軍はなんと慈悲深かったのだろうw

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