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【大虐殺】関東大震災・朝鮮人大虐殺の実態を語ろう

1 :マンセー名無しさん:2018/10/04(木) 15:32:47.58 ID:g81eumlK.net
警察に「保護」された朝鮮人たちは、9月3日、埼玉県南部の川口付近から出発して、旧中山道を北へ北へと町や村ごとに
引き渡されながら、順送りに護送されていった。朝鮮人たちは、周囲を武装した自警団に取り囲まれ、しばしば彼らから暴行を受けながら、
何十キロもの道をひたすら歩かされた。

残暑厳しい中を、食事や水も与えられず、目的地も分からないまま連行される不安と恐怖から、途中で何人かの朝鮮人が逃亡を図った。
しかし、疲労困憊し、土地勘もない彼らが逃げ切れるはずもなく、たちまち捕えられて殺された。ほとんどが鳶口やツルハシを打ち込まれて
惨殺されたという。彼らが蕨から約50キロの熊谷にたどり着いたときには、出発から約30時間が経っていた。4日の夕方である。

ここで最初の集団虐殺が行われた。熊谷町柳原地区の自警団に護送された朝鮮人が熊谷町の中心部へ、英泉の描いた八丁の地から
中心部の筑波との境にさしかかろうとした時、熊谷町の中心部のほうから群集となった民衆が手に手に武器を持って押し寄せてきた。
引き継ぐはずの熊谷町中心部の自警団がすでに暴徒化していた。自警団だけでなくやはり暴徒化した熊谷町の町民が多く加わっていた。

群衆は一旦暴走し始めたら止まるところを知らない。そして熊谷町中心部入り口で熊谷町最初の殺戮が行われた。
おとなしく送られてきた朝鮮人に民衆が集団で襲いかかり、牙をむけたところに熊谷の虐殺の特徴がある。

中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた
朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない。

狂気に支配されたとはいえ、血に飢えた者が獲物を捜し求め、狩りを楽しみ、みつけたら殺戮を楽しむ、というのが実相である。殺戮は逃げた
朝鮮人に向けられるだけではすまなくなった。逃げた者を探して殺すだけでは満足できなくなった殺戮者たちは、おとなしく数珠繋ぎで
連行されている、拘束されている朝鮮人へも攻撃の刃を向けるようになった。

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