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映画批評、映画評論を考える映画研究塾 #2

1 :名無シネマさん:2014/01/20(月) 23:06:53.50 ID:bJOf7kwF.net
異端の映画研究サイト映画研究塾のスレッド
ttp://movie.geocities.jp/dwgw1915/

前スレ
映画批評.映画評論を考える映画研究塾
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/movie/1294664534/

2 :名無シネマさん:2014/01/20(月) 23:57:45.32 ID:bJOf7kwF.net
なぜ二つ目のスレッドを立てたのかというと、研究塾についてまだ語ることがあると思ったからだ

それというのも、研究塾が傾向として啓蒙的になってきていると思うからだ。塾長は蓮實重彦の著書
『凡庸さについてお話させていただきます』を読んでいるはずなのに、教育的なところのない啓蒙的な
言説をたびたび投稿する
それによって、たとえば本日のたまてばこで言及された とーる さんしさん は、「(蓮實の)映画時評は
批評というより動員させるための文章だな、ありゃ。」といった、かつて塾長が語った物語を紋切型として
安易に反復してしまうことになるわけだが、これは塾長の言説が彼を実践へと向かわせるのではなく
安心感の連帯へと向かわせてしまったことを意味する
つまり、それ自体は否定さるべきものではない研究塾の言説が、意図せず啓蒙的に作用することで
読者を「それを真に受けておきさえすればよい」といった安心感へと向かわせてしまったのだ
本来、いくらも解釈可能な第九地区のベストテン入りという現象が、塾長の啓蒙的振る舞いによって
無反省的に「あれは映画館へ動員させるためのもの」として物語化され、紋切型として反復される
何の「証拠」も出していないはずの言説が反復の対象となるのは、そうしておけば「安心」だからだ

塾長は「言説に力をつけようとすればヒッチコック論文とかなんとかで間接的に証明してゆくしかない」
というが、それならば啓蒙的振る舞いをするのは間違っているし、そもそも前スレで教祖として扱われ
はじめていたことに何らかの反省があってしかるべきだと思う
なぜ自分の言説を無反省に真に受ける「信者」が生まれてしまうのか、ということを考えてもらいたい
生意気ですみません

3 :名無シネマさん:2014/01/22(水) 20:02:33.85 ID:IxrqN4cK.net
「It's Good!」

4 :名無シネマさん:2014/01/24(金) 03:18:38.40 ID:IQb3VW47.net
塾長の身の振り方が転移しているようなやついるけど自力がないぶん純粋な蓮實信者よりタチ悪い
リンチだトリアーだフィンチャーだと言ってた人間が、ある日とつぜん小津を語りだすという
ツイッターだとこいつ 成沢行彦@Petit_Cineclub みたいなシネフィル気取り、最近よくみる

あと塾長はSNSに適正あると思うからはじめたらよろしいやん

5 :名無シネマさん:2014/01/27(月) 22:43:56.72 ID:oMuV8/Rd.net
啓蒙的ねぇ。俺には単に映画を通して俺凄いって自己アピールしてばかりに思えるよ。
映画をまともに語るよりも何分で出た!って記録チェックと他者を貶すのにばかり
忙しいみたいでな。

6 :業務連絡:2014/01/29(水) 21:35:13.35 ID:fYEO7She.net
忘れたDVDが出てきたのは、あなたが映画に愛されているからだと思うぞ!
ただし、Aさんの件については今度きっちり話をつけようではないか!!

7 :名無シネマさん:2014/01/31(金) 01:26:57.37 ID:9vAaKVmZ.net
インテリが嫌いなわりに、
ニーチェだの柄谷だの知識人の名を頻繁に出すのはなぜだ?

8 :名無シネマさん:2014/01/31(金) 08:19:32.04 ID:Z7EftsWm.net
4は根拠もなしに自分が特別だと思ってるバカだな。

9 :名無シネマさん:2014/01/31(金) 13:45:01.06 ID:NZiJurCE.net
>>7
肩書きだけで映画を語ってる人が嫌いなだけだけど?

10 :名無シネマさん:2014/01/31(金) 14:11:13.04 ID:Z7EftsWm.net
偉そうなこと言ってるだけで、論文なんて出ねぇじゃねか。

11 :名無シネマさん:2014/01/31(金) 17:21:57.25 ID:0lkf8UbV.net
そんなことより映画の話しよーぜ

『大脱出』はイイよ。最初の20分なんて滅茶苦茶いい。
前スレで「塾長の言う逆から撮るってどういう意味?」って書いてた人がいたけど
この映画見たらそれがスゲー分かりやすいよ。イスラムの囚人とかあのバカバカしいライトの拷問とか
その為だけに設置されたことが分かると「おおー!」ってなる。

12 :名無シネマさん:2014/02/06(木) 20:47:23.34 ID:LsJXbIYJ.net
「It's Good!」

13 :名無シネマさん:2014/02/06(木) 21:51:28.82 ID:5DBGPdrk.net
ブラックコメディ化していたチャイルドプレイですがエルム街もですがどうもブラックコメディになっていくのは好きじゃないです。エルム街も1は傑作ですが、あとはいらないw。
今回は原点回帰していてシリアスモードに戻りたのしめました。ヒロインも綺麗だったし(笑)。
ちなみに
シリーズではチャッキーの種は観てないです。

14 :名無シネマさん:2014/02/08(土) 19:16:50.95 ID:uG+xPeL7.net
なんでここでチャイルドプレイが語られなきゃならんのかわからんが…
なおかつエルム街を持ち出すなら、「3」こそが真の傑作だと思うですよ。

15 :名無シネマさん:2014/02/15(土) 14:01:32.26 ID:HZ+2FwAF.net
ゼロ・グラビティで書かれてる、2人の批評家って誰?

16 :名無シネマさん:2014/02/17(月) 02:22:05.51 ID:qR3WpVWj.net
>蓮實さんが基本的にパフォーマティブな人で「うそつき」の常習犯

これはポスト・モダンにふさわしい身の振り方を実践してるんだよね。本人の言葉を借りれば次の通りで

 >消費社会批判が消費社会的に消費されてしまうことの不気味を知る者なら性急な態度の表明こそが
 >最大の罠であることに気づくだろう。血統だの才能だのに保護されてもおらず、平等に分配された努力
 >の可能性をも真剣に活用しえない人間が竹馬の曲乗りなどしてみせれば、地面に転げ落ちてけがでも
 >するのがせいぜいである。
 >(『凡庸さについてお話させていただきます』 P145より)

「平等に分配された努力の可能性=芸を磨くこと」と定義できるんだけど、しかしそれが「現状の曖昧な容認
には繋がらない」と書いてある。ご存じの通り蓮實重彦は(理由は省くが)「反動性」に厳しい人で、時代がこう
だからその逆へ行くといった反動的な態度を容認しない。それは羞恥心の問題でもあるんだけども、たとえ
時代の趨勢が気に食わなくても時代に合わせるフリくらいはすべきだ、というのが彼の立場なのであって、
そういう意味では蓮實重彦がその主体をどこに置いているかは棚上げするにしても、時代がパフォーマティブ
を要請している以上は、反動性を回避するために芸人として振る舞うことも必要だと言っているわけだ。
だが時代はもう十九世紀ではないのだから、そうした身振りが真理になりえるわけもない。つまり、「性急な態度
の表明こそが最大の罠である」ように、パフォーマティブであることは結論=真理ではない。それは「とりあえず」
選択された戦略にすぎない。それが二十世紀以降(=ポスト・モダン)にふさわしい知のあり方だと彼は言う。

塾長も蓮實重彦も表層批評をやってるけど、二人が決定的に異なるのはそれを真理として考えているかどうか
という点だ。塾長は真理だと信じている。これが映画を守り、救う方法だと。一方、蓮實重彦は建前としてそれを
「とりあえず」選択したフリをしている。誰もが映画の物語ばかりを語る時代に多様性を確保するための戦略として
細部を語った「ことにしている」のが蓮實重彦だ。なぜなら表層批評を唯一絶対の真理として顕揚することが
十九世紀的な知の配置に収まる程度の時代錯誤でしかないと彼は自覚しているからだ。

17 :名無シネマさん:2014/02/17(月) 02:23:17.63 ID:qR3WpVWj.net
この際、蓮實重彦の本心は重要ではない。彼が本心では表層批評を映画を救う唯一の方法だと信じていようが
信じていまいが、そんなことはどうでもいいのだ。問題は、表層批評が真理たりえる時代はとっくに終わっている
ということなのである。彼はそれを自覚しているからこそ、態度をそのつど「とりあえず」選択することで常に複数性
を確保する。要するに、芸人なのも、映画の内部を論じるのも、その逆に外部を論じるのも、『第9地区』を擁護する
のも、すべてが蓮實重彦の一つの様相なのであり、その矛盾のどれかが真実でどれかが嘘ということはない。
すべては、「蓮實重彦とはこういう人」という結論=真理になることを回避し、輪郭を曖昧なまま保つポスト・モダン
にふさわしい身振りを演じるためなのだ。だが重要なのは、真理が存在しなくなったポスト・モダンにおいて、最期に
残るものは「法廷に出しても通用する証拠」だけだということだ。

蓮實重彦は「うそつき」なのではない。蓮實重彦はその顔も、名前も、過去も消滅した世界(ポスト・モダン)で
テクストの強度(解釈を蒙る以前の記号=証拠を指摘すること)のみによって映画を守ろうとしているのだ。
ただ、塾長は真理を顕揚する分だけ時代錯誤をまぬがれず、蓮實重彦は「消費社会批判が消費社会的に消費
されてしまうことの不気味を知る者」として、ポスト・モダンにふさわしい批評を練り上げたという差異はある。

もちろん「だから研究塾はダメだ」とは言わない。塾長はいっそ蓮實重彦と決別して十九世紀的な知の配置を
顕揚し続けてもいいのだ。そのときは反動的との誹りは免れまいが、少なくとも、もう蓮實重彦の複数性の間で
引き裂かれて、苦しむことはないはずだ。

18 :名無シネマさん:2014/02/17(月) 18:25:24.37 ID:H8K23VkC.net
なんか映画研究塾のサイト、真っ黒なんすけど……なして?もしかして、俺だけ?

19 :名無シネマさん:2014/02/17(月) 18:26:04.34 ID:8JJdlxQs.net
喪中

20 :名無シネマさん:2014/02/19(水) 02:04:49.76 ID:gAv72u7+.net
「あなたに映画を愛しているとは言わせない」って蓮實重彦のサイトがあるけど、
あのタイトルの差別性は、死ねフィル同士の恣意的な排除ゲームのそれなんかでなく、
「映画」の側に問答無用で択ばれるか択ばれないか(愛されるか愛されないか)という事実の
残酷さ、酷薄さ、その運命的な差別性のことだと思う。

どんなジャンルでもその天才と呼ばれ得る人々は、見出そうとしたものに逆に見出されてしまう。
そいつは否応なく固有の宿命を生きる。

塾長?が若い論客?の潜在的な自己愛志向を責める意味もそこにあるんだと思う。
根本的に、余所見しているってこと。

21 :名無シネマさん:2014/02/19(水) 20:00:38.08 ID:3hzSBYjV.net
でもそれならば余所見も何も先天的なものとして決定付けられているんじゃない?
そこをいくら責めたところでそれは運命的なものであると。
そして塾長はそれ以前にどうも映画から逃げているように思えるし。
自らが実はサリエリである事を恐れているというところかな。

22 :名無シネマさん:2014/02/24(月) 06:16:14.02 ID:YQXf6CrD.net
ちらっと読んでみたけど、まったく映画に対して真摯じゃなかったので、
アホらしくなって閉じました

23 :名無シネマさん:2014/02/25(火) 01:09:08.05 ID:0gdllIgY.net
16、17だが、あれから塾長にさらに言いたいことがあったのだが、しばらく投稿規制を食らっていたので
時期を逸してしまった感がある。というわけで全然関係のない話をすることにした

いま、人は、蓮實重彦とは何かという真理を語ることができないという話
それはなぜなら先に書いたように彼の輪郭が曖昧だからだ
そこでは塾長の蓮實重彦と、私の蓮實重彦と、東浩紀の蓮實重彦とが同時に成立してしまう

>文芸誌で仕事するコツは、編集者と「文芸誌が最高」という価値観を共有しつつ、原稿のうえでは
>「文芸誌は退屈だ」とか言い続けるという二枚舌です。蓮實重彦とか見るとよくわかる。
>hazuma 2010-12-17 00:45:49

ポスト・モダンの思想家でありポスト・モダンを論じる東浩紀が、このような十九世紀的な思考を実践して
蓮實重彦という風景の構図を安定させにかかる事実をここで批判することは差し控えるにしても、こうした
解釈がありうるように、いまや蓮實重彦はフーコーが目指したような、自らを「解読さるべき記号」へと作り
変えてしまっている

問題はこの後だ。ポスト・モダンにふさわしく己を記号と化した蓮實重彦をどのようにも解釈可能ないま、
つまり積極的に「誤解」される対象となった蓮實は映画や文学を救うことが可能なのか。というか彼の
やっていることとはいったい何なのか

24 :名無シネマさん:2014/02/25(火) 01:10:05.68 ID:0gdllIgY.net
それを知るためにフーコーを引用してみよう

>私は、一篇の作品、一冊の書物、一行の文章、一つの観念といったものに対して、それを判断するのではなく
>存在させようとする批評といったものを思い描かずにはいられません。そうした批評は、火を点してまわり、
>草花が生長するのに瞳に注ぎ、風の音に耳を傾け、あわを手につかんで空中にとび散らせてくれるものです。
>判断をいくつも下すのではなく、存在することのしるしを無数にきわたたせてくれるような批評。それは無数の
>存在のしるしに声をかけて、その眠りから呼びさましてくれるような批評なのです。

実は蓮實が実践しているのはこれなのだ。だから蓮實派の連中のように彼の「判断」に幻惑されてはならない
事実、蓮實はそうした判断に飛びつくことで相対的に聡明であろうとする態度を凡庸だときっぱり断じている
わたくしの判断などどうでもよろしい、よって蓮實重彦はその輪郭を積極的に曖昧なものにしようと努める
蓮實派のようにそれを反復するだけの者は必然的に分裂病たらざるをえなくなり、そこに真理は存在できない
まったく矛盾したことがらを口走るほかはないからだ(その意味で、蓮實の言説はいささかも啓蒙的ではない)
いまや蓮實の言説に対して、「それを誰が言ったか」という同一性の追求は無意味なのである

25 :名無シネマさん:2014/02/25(火) 01:11:57.42 ID:0gdllIgY.net
したがって蓮實重彦は存在しない。解釈さるべき記号があるだけだ。そのときはじめてフーコーの目指した世界が
視界に浮上する。「存在することのしるしを無数にきわたたせてくれるような批評」だ。それは何か。あなた方の
手元にある 『映像の詩学』 を手に取ってみればよい。最初の項目、そこには概ね次のように書いてあるはずだ
「ジョン・フォードの男たちは白布に引き寄せられて帰ってくる」と。もちろんここでの蓮實の判断はどうでもよい
男たちが白布に引き寄せられて帰ってくるという解釈を真に受ける必要はまったくないのである。大切なのは、
そこに白い布が存在しているという揺るがしがたい事実だ。そう、蓮實の批評とは、蓮實重彦の名前と顔と過去とを
己を記号と化すことで消滅させ、解釈される以前の記号である「存在のしるし」だけを救おうとするものなのだ
(そしてそれこそがフーコーの目指した真の意味での「匿名性」だ)
自己同一性を欠いたテクストも、あえて下手な解釈を実践して、読者を解釈される以前の記号へと向かわせようと
するのも、蓮實にとっての重要なものが判断ではないことを裏付ける

以前、塾長は蓮實が『J・エドガー』を褒めたときには心臓が止まりそうになったと書いていたが、蓮實の判断に
翻弄されて苦しむことはないのだ。蓮實重彦とはなにものをも表象しない記号なのだから、誰がどのように解釈
してもよいものなのだ。それこそ東浩紀のような解釈もあってよい。しかし、後の世に残るのはそのような蓮實を
めぐる小さな物語ではなく、彼の指摘した「存在のしるし」だけであるという意味で、状況は何ら絶望的ではない

と、ここでは「とりあえず」そう結論することにしよう

26 :名無シネマさん:2014/02/25(火) 15:23:21.64 ID:X/uz2G06.net
つまり、簡単にいうと、映画が膠着しないようにその都度、状況に合わせて蓮實重彦は立ち回っている。
その立ち回りそれ自体が蓮實重彦の批評の実践である。
そこに普遍性を見いだそうとする研究塾は東浩紀と同じようにまた凡庸である、
ということでしょうか?

そして、研究塾的批評のような「小さな物語」に囚われていては袋小路に陥るばかりで希望はない、と?

27 :名無シネマさん:2014/02/27(木) 14:14:16.02 ID:8hbbgM41.net
ポルトガル、ここに誕生すの封切館出さないのは何故?

28 :名無シネマさん:2014/02/27(木) 19:39:40.41 ID:HkToHO6N.net
お前が書けってことだよ

29 :名無シネマさん:2014/02/28(金) 00:17:57.80 ID:1wA6XZuY.net
>>26
その解釈について問答はしませんよ
どんな解釈をしてもいいのがポスト・モダンの言説なので、正解も誤解もないのです

ただひとつ言えるのは、「つまり〇〇ということ」と今あなたが下しつつある結論は常に
とりあえずのものでなければならない
そうでなければ映画研究塾が収まる風景の構図を安定させるだけの言説になってしまう

それこそ塾長が知識人連から無視されているのは何でかっていうと、研究塾を語る言説の
構図が安定してるからなのであって、つまり「どうせ蓮實のエピゴーネンでしょ?」と高をくくる
ことで容易にやりすごすことができてしまうのが今の映画研究塾なのです
こうなるとある意味で分節化が済んでしまい、連中にとって研究塾は怖いものではなくなる
ゼロ年代の思想家たちが「蓮實は古い」を連呼してやりすごそうとしているのと同じです
物語が語られ、それが説話論的な磁場に定着し、紋切型になり、既成事実となる

今後の塾長としては(というよりも私が塾長に促しているのは)、啓蒙者の立場を脱しつつ
特定の構図に収まらないような戦略を練ることです


ところでその第一歩として、塾長には封切館の更新ペースが早くなってきていることを指摘したい
以前、塾長は「時評はやらない」といっていたけど、「封切館の点数を参考にして映画館に行く」
という使い方をしている人が前スレにもいたように、最近ではその更新の早さによって、封切館は
読者を映画的実践に向かわせる批評ではなく啓蒙として作用しつつある気がします
たびたび生意気ですみません

30 :名無シネマさん:2014/02/28(金) 02:29:37.05 ID:cx9dMkwu.net
>>28
2013年のベスト作品でただ一つだけ封切館出してないのが不自然に感じただけだよ
あと風立ちぬの封切館消してるよね?何故

31 :名無シネマさん:2014/03/03(月) 03:44:21.72 ID:pIV4TmC6.net
セルジオって本物の海外の一流どころはきちんと褒めるけどね
本物の一流選手のスーパープレーなんかは、あられもなく褒めてるよ

32 :名無シネマさん:2014/03/03(月) 21:30:38.12 ID:7hlE3XlS.net
31とは違う者だが…

自分の方がスポーツ評論家よりも判ってる…
みたいなのはやめなよ。

コンフェデでピッチ居なかったはずの「駒野のミス」を書いちゃうんだからあなたのサッカーのテクストはその程度ってこと。

33 :名無シネマさん:2014/03/03(月) 21:44:21.74 ID:7hlE3XlS.net
松木さんは大衆のリミッター中でも「サッカー」の解説を試みている人だと思う。
あの人の勝負の狙い目やピンチをピタリと言い当てる眼はすごい。ベルギー戦とか
アジアカップの時とか。

大衆の要請で心理的なパフォーマンスをしているけど
彼はあくまで「サッカー」を語っているのであって、自分のパフォーマンスのために
サッカーをダシにしているのではない。

セルジオのコメント文なんかは仰る通りと思うが。

34 :名無シネマさん:2014/03/03(月) 22:05:44.65 ID:7hlE3XlS.net
スポーツなんてそれこそ真剣に訓練をつんだものたちのガチの世界。

テレビのせいで心理的な演出がかけられているのであって、決して競技者が「忠雄」クラスなのではない。

それを訓練を積んでない映画研究塾が上から目線で語るのそれこそ批評の堕落でしょう。

本田、ダルビッシュが心理的でメッシ、宮市は違うって何が解っててそう言ってるんだ。

映画についてはともかくスポーツに関しては映画研究塾こそ忠雄だ。

語るのはいい。でも謙虚であるべきだ。

35 :名無シネマさん:2014/03/10(月) 15:43:42.20 ID:KLEGNyHN.net
This is 独善

ヤフーチャッ、、、、映画研究塾バンザーイ!!!!

36 :名無シネマさん:2014/03/12(水) 00:54:28.27 ID:wN4GAPjY.net
塾長は私の批判を研究塾の運営方針全体への批判として抽象化して反論しているけど
私は塾長の作品論が啓蒙だとはどこでも言ってないよ。私が具体的に挙げたのは

・たまてばこ
・封切館の更新の速さ

の二点。たまてばこについては以前 とーる さんしさん の例を挙げたように、それを反復しておけば
安心というのがあるでしょう。たまてばこには突然不可解なことが書かれるわけではないから
たまてばこ的言説というのはどうしても特定の構図に収まらざるをえない
そこには「塾長→たまてばこ→読者」という階層的な秩序が存在する
塾長は「うちのが伝わっているという前提ですよね。」と言うが、たまてばこについては伝わってるんだよ
テクストの背後に絶対的な作者がいる=パロールとして書かれてるから
たまてばこを通して塾長の顔色を伺うことが可能になってしまっている
もし塾長の話が伝わっていないのなら、前スレであった宗教じみた連帯なんて成立するわけがない
少なくない読者が研究塾を神学の対象にするのにはそれなりの理由がある

そして封切館については前スレ483の人がこんなことを書いている

>研究塾さんの封切館とかの寸評?読ませてもらうと、観る気が起きなくなることが多い。

封切中の映画の点数を出すとこうなる。人は安心を求めて点数の高い映画だけを見に行くようになる
でもこれが映画研究塾の目指した教育なのかといえば、全然そんなことはないでしょう
封切館は映画的実践を経た後の答え合わせとしてあったのではないのか
映画を見た後で、自分には何が見えていなくて、塾長には何が見えたのかを教えてくれるのが封切館でしょ
ところが映画を観る前に点数が出てしまうと普通の読者は実践に向かわなくなるよ
もちろん研究塾の間違いを指摘してやろうという気概あるシネフィルは低い点数の映画を見に行くだろうが
そんなのは少数のコニャック党のようなものであって、封切館がサントリー化を免れるわけのものではない

『凡庸さについてお話しさせていただきます』を読んだらしいけど、それなら「これでいい」と考えることが凡庸さで
「これでいいということはない」というのが愚鈍さだってわかるでしょう(この要約がまさに凡庸さそのものだけど)
塾長はたまてばこや封切館をこれでいいと思うのかい

37 :名無シネマさん:2014/03/12(水) 23:17:41.76 ID:7dwFV2Id.net
おいお前ら独善先生がまた何かおっしゃっているぞ。よく聞いとけよ。
髪型やファッションは外部ではないのだ。ようするに人間性だ。人間性のオ・ハ・ナ・シだ。
32がしてるのは4─2─3─1のオ・ハ・ナ・シだ。独善先生の人間性に訴えかけようとしても無駄だ。36もだ。意味がない。
そう考えるとスナイデルがバロンドール獲れなかったのはタトゥーなんかしてるからだ。アホだ。アホ嫌い。

38 :名無シネマさん:2014/03/13(木) 22:58:23.33 ID:nzL3CSvr.net
俺たちがやらないと、と塾長は言うのだが、その俺たちにわれわれは含まれているのだろうか
そうだとしても、5年前に映画の訓練を始めた身からすれば、自分の訓練が足りているとは
とうてい思えない

半年前にエリック・ロメール論を書こうと思い立った。ロメールの主題論的=説話論的な細部
(別にもったいぶるつもりはないので書くが、「飲食物を共有すること/しないこと」が人間関係
にある種の変化を導入するというもの)をまとめているところで、高畑の『かぐや姫の物語』に
ロメールの主題論的=説話論的な細部が継承されているのを見つけてしまったのだ
「私が書こうとしていたのは既に知れわたっていることだったのか」と愕然とした。結局、それから
ロメール論には一度も手を付けていない

映画史的記憶についても、研究塾に書かれていないことをいくつか見つけた。だがそれもきっと
まだ書かれていないだけのことで、すでに常識となっている細部なのかもしれない
(たとえばここで、「見送りの映画史」とか「食べ物を撮影する際の倫理」とか言ってみたところで
誰も聞く耳を持たないだろうことは明らかだ)

私のような、身体性の伴わない無邪気な批評に映画が救えるわけもない
研究塾にはずいぶんと偉そうな批判を書いたが、当の私は映画の訓練が絶対的に足りていない
私にはおそらく塾長やまぶぜ氏の半分も見えていないだろう

39 :名無シネマさん:2014/03/13(木) 23:00:38.41 ID:nzL3CSvr.net
ところで話は変わって
今日インテリ連中と話していて、ポストモダンは古い、なんて言われてしまった
その心は、どうやらソーカル事件で終わったから、とのことらしい、とりあえず私は
あれはソーカルとかいうバカが自然科学的な遠近法でポストモダンを語ったのが
悪いんでしょうと金井美恵子の受け売りで反論してみたのだが、どうにも具体的な
反論は返ってこず、挙句に「駒場でそんなこと言ったら笑われるよ」と一方的に俯瞰
されてしまい、これにはたいそう苛立った

とはいえ、どうやら現在はポストモダンに変わる新しい思想が支配的であるらしい
古い知識しか持たぬ私はこれについて何も知らないのだが、ちょっと調べただけでも
それが危ういものであることはわかってくる
↓たとえばこれがその新しい思想だとは言わないが(もう9年も前の文書なので)
http://www.phenomenology-japan.com/takeda/mainichi051003
これにしたって社会と人間とを積極的に扱うべき問題として特権化し、ポモ思想の
可能性を排除するという意味で、ちょっとどうかしているくらい古めかしさが漂っている
へたをするとポストモダンを乗り越えるどころかモダンへの退行にしか見えない

そういうわけで、やはりポストモダンが古いというのは大学内部の言語政治にスポイル
された連中の戯言ではないのかという感触がある。あの手のインテリ連中は先物買い
よろしく新しい思想に次々と乗り換えて世渡りに励んでいるだけなのかもしれない
しかし、学問が政治的な問題に還元されてしまうというのは、それはそれでさみしい

ところで、このポストモダンに取って代わったらしい現在支配的な流行の思想について
明るい方がいらしたらぜひともご教示願いたい

40 :名無シネマさん:2014/03/14(金) 15:04:50.12 ID:3xvzVPL9.net
はあ?シェフチェンコとカンナバーロはタトゥーあったぞ。
レブロン・ジェームズも二流なのかい。

Cロナウドがゴールの後脱ぐのは研究塾の言葉を借りれば「土人」かな。

スポーツに人間性は関係あると俺は思うが

髪型にそれを集約させる、
それをスポーツマンの「二流さ」の証明とする。

研究塾のスタンスは自分の目でまず観察する「批評」じゃなくて
自分の物語を正当化するためにスポーツを利用しているに過ぎないと俺は思う。

41 :名無シネマさん:2014/03/14(金) 21:22:27.59 ID:2r6xDpDr.net
>>40
塾長は物語批評のひとだからそうかもな。

42 :名無シネマさん:2014/03/16(日) 01:55:27.74 ID:/MtMJw/M.net
未だに「蓮實は抑圧者だ、蓮實を葬らねばわれわれに自由はない」という反動主義思想が蔓延している
連中は、蓮實を葬ったところで自由など得られぬどころか、却って自由が遠ざかることを自覚していない
蓮實が抑圧者ではなく解放者だという事実に目を向けず、ゼロ年代のプロパガンダに踊らされる者たちに
どうして自由な振る舞いが可能となるだろう

自由とは、好き勝手に振る舞うことでもなければ、現状追認と自己肯定による安心の甘受でもない
それは回路の確保と言ってもよいが、絶えず選択の余地を確保することによって獲得しうるものであったはずだ
したがって、まずは反動主義勢力の掲げる自由なるものが、自由でも何でもないことを自覚せねばならぬ
ここでそれを子細に論じている余裕はないが、連中の掲げるものこそが実は人を不断の自己肯定というパラダイム
へと縛り続けることで、その外部へと出る自由を奪う、まったき反動主義にほかならない

そして、この不自由に誰よりも憤るのが蓮實重彦だ。彼は、特定のパラダイムの内部に閉じ込めれられ、
思考や選択の自由が制限されざるを得ない不自由な環境から人を解放しようとした。だからこそ、彼は人を
批判したとしても、「こうしなさい」と指示したことは一度もない

蓮實が批判したのは常に不自由を自由と錯覚する者たちであった。それは不自由な者を自由にするために
「あなたは不自由だ」と指摘しただけなのだが、人はそれを解放とは真逆の振る舞いだと誤解してしまった
たとえば彼が「太宰は感傷的だからダメなんですよ」と言うとき、人はこれを安易に抑圧だと思い込む
だが、蓮實は「だから太宰なんて読むのはやめなさい」とは言っていない。彼は単に「太宰は文学史が肯定
する作家ではない」という事実を指摘しているだけだ。繰り返すが、そこに生じるのは選択の自由なのである
蓮實は、文学史と太宰との距離を示すことで、それまで自由という名の不自由によって太宰を肯定するほか
なかった読者を、はじめて主体的な選択の場へと導いたのだ
そのとき、真の自由がすべてを知った上でなお選ぶことの強さにほかならぬことがわかる

しかし、それでもそこに抑圧が見出されるというのであれば、それは文学史に後ろめたさを持つ精神にとって
のみの抑圧であるだろう

43 :名無シネマさん:2014/03/16(日) 01:56:48.80 ID:/MtMJw/M.net
もちろん誤解してはならぬのは、太宰を否定して文学史を選ぶことが弱さなのではないということだ
弱さとは、パラダイムの内部に安住し、主体的な選択を回避し続ける態度のことである
(そしてこの話の目的が、反歴史的な態度の顕揚などではありえないことは、わざわざいうまでもない)

44 :名無シネマさん:2014/03/17(月) 11:43:04.36 ID:mo74bJik.net
>肉親が死んだからってああまで大きく言えちゃう神経ってわたしは嫌い。吉田ね。レスリングの。子供だ。ガキ。
こういうことを言うのもどうかと思うがとりあえずこの問題は置いて、これを前提とした
>自分はなんか特別だと思ってるんだろうね、あれ。
この発言。
これを読んだ多くの人が、そりゃ、てめぇだ!と思っただろうね。
実際吉田は塾長の数億倍は特別だしね。これはどうしたことか……
この人ほんとに独善的だね。

45 :名無シネマさん:2014/03/17(月) 23:07:33.27 ID:vjKRvjJK.net
公式の場で「お父さん」なんて言葉を使ってる時点でどうしようもなくガキだよ。

46 :名無シネマさん:2014/03/18(火) 00:09:47.53 ID:0hIIhy38.net
羞恥心がないんだよな、公私の線引きがな
身内の死なんて私事なのにさ

47 :名無シネマさん:2014/03/18(火) 04:02:47.26 ID:6l3oEunc.net
たまてばこって次どこにあるの?優しい人、教えてください。

48 :名無シネマさん:2014/03/18(火) 04:08:10.45 ID:6l3oEunc.net
すまん。見つかった。

49 :名無シネマさん:2014/03/18(火) 19:34:37.27 ID:mfVSWD33.net
>>46
そうか?
身内ごとでなかなか醜い泣き顔をテレビでドアップで見せられても
相手は結果を残してる人間だから愚民は甘んじて受けなければならない
それが日本の階級社会でしょう

50 :名無シネマさん:2014/03/18(火) 19:54:26.02 ID:WU+dsR0Z.net
なんだか・・・途方もないシニシズムが蔓延しているな、最近のここは・・・

51 :名無シネマさん:2014/03/19(水) 00:30:03.62 ID:w73jc9zH.net
>>49
それが何の皮肉かはよくわからないんだけど
TVは愁嘆場を垂れ流すにあたって相手が結果を残してる人間かどうかを区別しないよ
そこに泣いている人間がいればクローズアップを撮りに行くのがTVです
それは吉田だろうが名も知らぬ被災者だろうが同じことで、階級は関係ありません

52 :名無シネマさん:2014/03/19(水) 07:47:53.63 ID:JfhtO8hO.net
その通りなんだけど、じゃあテレビカメラが涙をとらえたら
その人は「心理的」で、すなわち人格も能力も「二流」扱いになるのは
どうなのかね。

映画の美意識がどこでだって通用するわけじゃないだろうに。

スポーツマンの髪型やプライバシーに眼がいっちゃうのはマスコミが
演出する物語に、研究塾自身がのせられているからなんじゃないか。

53 :名無シネマさん:2014/03/19(水) 07:56:13.90 ID:JfhtO8hO.net
この人には
本田も吉田も、佐村河内も忠雄も一緒に見えちゃうのかな。

54 :名無シネマさん:2014/03/19(水) 08:05:09.78 ID:JfhtO8hO.net
何が言いたいかってスポーツマンって
そんなに安っぽくないでしょ、って事なんだけど。

55 :名無シネマさん:2014/03/19(水) 23:10:59.15 ID:w73jc9zH.net
こういっちゃなんだが、カメラに涙を捉えたがる精神とカメラに涙を捉えさせてしまう精神に
それほど大きな開きがあるとは思わない
目の前に自分の泣き顔を撮りに来ている下品な連中がいるとき、吉田は涙を流すことができる
身内の死の悲しみを公の場に開陳する破廉恥、それは映画の美意識とは何の関係もないし
結果を残したスポーツマンであるか否かも関係がない

 ……そのときだった、信太郎は、ひどく奇妙な物音が、さっきから部屋の中に聞こえているのに気づいた。
 肉感的な、それでいて不断きいたことのなお音だ。それが伯母の嗚咽の声だとわかったとき、彼は一層
 おどろいた。人が死んだときには泣くものだという習慣的な事例を憶い出すのに、思いがけなく手間どった。
 なぜだろう、常人も泣くということを彼は何となく忘れていた。その間も絶えず泣き声がきこえてきて、
 その声はまた何故ともなく彼を脅かし、セキ立てられているような気がした。ついに彼は泣かれるということが
 不愉快になってきた。それといっしょに、泣き声をたてている伯母のことまでが腹立たしくなった。あなたはなぜ、
 泣くのか、泣けばあなたは優しい心根の、あたたかい人間になることが出来るのか。
 by 安岡章太郎(『海辺の光景』)

56 :名無シネマさん:2014/03/19(水) 23:50:48.85 ID:q2SXEpD2.net
研究塾は
「ホークスはあんなの嫌うだろう。」
って書いてるじゃん。
いや、映画の美意識としてはそうだと思うけど。

ただ彼らアスリートは表現や感性のエキスパート
じゃないわけで、子どもみたいに泣く奴があったとして
ほっとけよ、としか思わんね。

なんでそんなことが気に障って批評したがるかね。
いちいちマスコミにつられ過ぎじゃない?

研究塾自体プライベートの事書いたり、「泣いた」
って書いたりしてるわけでしょ。

人間って、そんなもんじゃないのかな。

57 :名無シネマさん:2014/03/20(木) 17:24:54.22 ID:tCu8aY8u.net
話変わるけど黄色い目の魚っていう小説
小説で成瀬巳喜男してるから泣いてしまったわ
映画化してないことが疑問

58 :名無シネマさん:2014/03/22(土) 03:17:30.45 ID:2EkeY/m2.net
>>56
「人間って、そんなもん」って言えちゃうのが私にはわからないな
だいたい「人間って(映画って)こんなもん」っていう通説(安定した構図)を超える(崩す)のが批評でしょう
人間がダメなら教育すりゃいいし、土人は文明化すればいいんじゃないの

59 :名無シネマさん:2014/03/23(日) 02:45:28.40 ID:0CPIAnt8.net
うーん、どうしてもわからんね。
あなたにしても、研究塾にしてもまず自分の社会論なり物語なりが
先にあって、そこに当てはめるようにしてメディアの中の人物を
批評しているように俺には見えてしまう。

まず偏見や先入観、背後の物語なしに物事をなるべく
クリアな眼で観るという事の大切さを研究塾は説いていたのではないかな。
それを行うために研究塾が努力を重ねてきた事も疑わない。

でも映画以外の事、例えばスポーツなりを語る際まず観る前から
「こういう奴はすでに土人だ」
という決めつけありきで話しているように感じて
俺にはイラッとくるし、疑問にも感じる。
批評じゃなくておっさんのぼやき、その「土人」同レベルではないのかと。

58にしても人を「土人」として「教育」しよう等といえる感覚が俺にはわからない。

人間ってそんなもん、ってのは私たちは人をあれかれ詮索したり批評したがったり
するけど、そういうのって本来傲慢だし、判った気になるのはよくない、って
意味で言ったんだ。

まあ、意見が合わないんだろうな。

60 :名無シネマさん:2014/03/23(日) 03:49:31.00 ID:0CPIAnt8.net
研究塾もちょっと肩書き野郎な所があるよね。

こっちはバルサを観てるんだぞ!なんて

いや、責めてはいないよ。人間臭いなと思うよ。
本気で言ってたら痛々しいけどね。

61 :名無シネマさん:2014/03/23(日) 11:20:10.60 ID:ztvX0i1/.net
2ちゃんですら書き込みや人が増えてくると暗黙のルールが出来てしまったり、
自分の意見にどれだけの人が賛同してくれるか、あるいは攻撃される危険性があるか
を無意識に計算して言葉を選んでしまう。
そのタブーを秩序と考えるか、思考の制約と考えるか。塾長は後者なんでしょう。

62 :名無シネマさん:2014/03/25(火) 13:52:08.40 ID:g/1OwXOm.net
研究塾殿、、、googleの検索は個人の普段の利用傾向によって
出てくるサイトの順番は変わるそうです
ちなみに自分は研究塾は1ページ目には出て来ませんでした

63 :名無シネマさん:2014/03/25(火) 20:12:36.33 ID:SFhZuqCl.net
ほんとだ。俺は前田有一が船頭に出る。全く見ないのに。

64 :裁判負一声会さくら接骨院親分歌代英二:2014/03/25(火) 20:23:09.76 ID:NMgfSb0p.net
vbg

65 :名無シネマさん:2014/03/25(火) 21:35:01.72 ID:yX4uFwnt.net
ほんとだ。俺も前田有一。見たことあったかな?
研究塾は見当たらず、2ちゃん(これ)が5ページ目に出た。

66 :名無シネマさん:2014/03/25(火) 21:53:21.68 ID:DGQrUfob.net
映画研究塾スレで、こともあろうに前田有一の名前が連呼されるとはw

67 :名無シネマさん:2014/03/25(火) 22:40:52.74 ID:SFhZuqCl.net
よし、わしも!

思〜いで〜は〜前田有一〜!い〜ろをつ〜けてくれ〜♪

68 :名無シネマさん:2014/03/26(水) 04:01:50.30 ID:u7PSUQSw.net
>>59
社会論とか物語っつーかさ、こちらは話の前提として蓮實が『物語批判序説』で書いていた
「十九世紀は上から下(教えるものから教えられるもの)へと物語が流れる階層的な秩序の時代」
というのと、「その時代は終わって、現在は誰もが他人の物語を語る時代」というのがあるわけだ
それを踏まえて「真理=気持ちを伝えずにはおれないのは十九世紀的な時代錯誤だ」という話をしている
もう特権的な知(真理)を語れる者などどこにもいないのが現代なんだよ、ということ
だからあなたが「まあ、意見が合わないんだろう」と書くとき、その言葉が内包する意見の多様性も
実は「誰もが物語を語れるようになった時代」が保証しているのだ

したがって「土人を文明化しろ」というのは、いつまでも時代錯誤な真理を伝えようとしている反動主義者を
はやく現代(多様性の時代)にふさわしい知の在り方に到達させろというだけのことなのだ
塾長はどうか知らないが、私が土人と書くときはそういう意味だよ
もちろんそれを傲慢だと言われてもいいし、そうしたことをひっくるめてそれは虚構だ物語だと言うことも
できるのが今という時代だ(くどいようだがそれを保証するのは真理の時代の終焉だ)

つーかだから吉田が土人だというのはこの多様性の時代に自分の気持ち=真理を伝えようとしているから
にほかならない。あなたはこうしたことを決めつけだというかもしれないが、決めつけなどとんでもないよ
吉田自身が身内の死に際して、おそらくは悲しいはずだと想像する周囲の先入見を補強するような涙を
見せることで多様性を奪っている。自分自身の見られ方を決めつけにかかっている。それは彼女が自分の
気持ちは唯一のもので、誰の解釈にも妨げられないはずだという特権性を前提としているからだ
私はそれをこそ傲慢だと思う

映画なりスポーツなりを決めつけなしで語るのは、こうした土人を文明化した後の話でなければありえない
なぜなら我々の語りを妨げるものこそが土人的な知の在り方だからだ
クリアな眼で見ることを妨げ、解釈以前の記号の記号性を破壊して単一の物語だけを流通させようとするのが
土人なのだから、それだけは批判しておかないと話がはじまらないんだよ
(そしてこの説明自体が時代錯誤だ。もっと誤解される書き方をすべきだった)

69 :名無シネマ:2014/03/26(水) 11:43:33.99 ID:UVO55xGJ.net
多様性、言えば、蓮實さんが、批評にできることは多様性が失われそうになった
ときにその危機を指摘すること、みたいなことを闘争のエチカで書いてたよね。
これ、お気に入りなんだけど。
でも一方で、ともすると、多様性を希求することなんて誰も本音ではしてないのかもしれない。
シネフィルも誰もかれも含めて。そういう恐さが常にある。
だから、吉田が多様性を奪っている、と言ったところで、いや誰も求めてないので、
って言われたらそれまでなんだよね。で、そこから批評が始まるってことなんだろうけど。

70 :名無シネマさん:2014/03/26(水) 12:22:47.40 ID:h7AQEz/P.net
>クリアな眼で見ることを妨げ、解釈以前の記号の記号性を破壊して単一の物語だけを流通させようとするのが
土人なのだから、それだけは批判しておかないと話がはじまらないんだよ

クリアな眼、ですか・・・

「誰もが語れる物語」を語る者が「クリアな眼」の持ち主で
唯一の「真理」なるものの特権性を疑わない者が「土人」なのだとしたら

オレはまだしもそういった“愚鈍”な「土人的知」こそを拠り所にしたいと思うなぁ。
それでも「真理」はある(べきな)んだ、という信念(信仰?)ゆえに、たとえば映画を見て、それについて語れるんじゃないか、と。

多様性の時代の「誰もが語れる物語」の“凡庸さ”ほどタイクツなものもないとは
すでに「ポストモダン以後」散々思い知らされてきたんじゃないかねぇ・・・

71 :名無シネマさん:2014/03/26(水) 17:24:18.60 ID:u7PSUQSw.net
>>69
現象としては、自分は尊重されたいけど他人を尊重したくはないという人が増えたんだと思います
この矛盾をどう生きるかなんですが、結局はみんな相対主義に逃げ込んでしまった
俺は俺で自由にやるぜと。しかしその自由は本来、他人の自由を保証してこそのものです
自分は多様性に依存してつるつる生きるけど他人に多様性は認めない、こういう「野蛮」な生き方を
省みないのが土人ですから、「そういうことをしてはいけないでしょう、お友達を尊重しなさい」と
教育してやらないといけない。多様性の確保が必要な時代に誰も多様性を認めないのだから
おっしゃる通りに批評が始まるのはそこからだと思います

72 :名無シネマさん:2014/03/26(水) 17:37:32.79 ID:u7PSUQSw.net
>>70
>唯一の「真理」なるものの特権性を疑わない者が「土人」なのだとしたら
                       ~~~~~~~~~
>それでも「真理」はある(べきな)んだ、という信念(信仰?)ゆえに、たとえば映画を見て、それについて語れる
                            ~~~~~~~~~~~~~
はあ、つまりあなたは、このポストモダンにあっては多様性に反動思想も内包されるはずだと
言いたいのですね。それはもちろんその通りで、現代でも頑なに真理を信じることはできる
しかし、信じるしかないものである以上、それはすでに真理ではなく、多様性に保護された
いま一つの思想にすぎません。これは反動主義者が不可避的に抱え込むことになる問題ですが、
プレモダンな真理を温存するために結局はポストモダンに依存することになる、というのはなんだか
情けない話に思えます。親に逆らう反抗期の子供みたいです。その依存ぶりからしても、とても
多様性の時代の"タイクツ"(これに同意はしませんが)を超克できるとは思えない

何にせよこちらとしては、いまどき真理を顕揚するような反動主義者は批判するだけです

73 :名無シネマさん:2014/03/26(水) 19:34:24.01 ID:w5Q+RAN1.net
>>68
いちいちオーバーだな、としか。
吉田があなたに泣けと強要したのかね。

74 :名無シネマ:2014/03/26(水) 20:12:11.26 ID:UVO55xGJ.net
>>71 なるほど、おっしゃる通りだと思います。

75 :名無シネマさん:2014/03/26(水) 22:02:03.17 ID:w5Q+RAN1.net
スポーツマンの涙の話が
ポストモダンと土人の話になるのか…
批評ってやつ宿命的について回る議題なのかね。
研究塾にしても白黒はっきりした書き方するしね。

76 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 01:23:47.44 ID:tXN2YH2U.net
>>73
私が68で書いたことなんかどうでもいいんだよ
要は「公衆の面前で泣いたの? 破廉恥だね」って気軽にコメントして何が悪いのってだけの話なんだから

それにしてもだ、あなたが59かどうかは確証ないけど、自分から深みに誘っておいて頭まで浸かりそうに
なると途端に引くやつってどこにでもいるんだよな。「こんなことにマジになってどうするの?」みたいにさ
流行の処世術か何かかね。以前もいたよ、文学の話をしていたのに話の具合が悪くなった途端に文学を
けなしはじめる人。塾長風にいうならハートがないんだよね、自己愛と保身ばかりでさ
まあ、これはあなたが59だと仮定しての話だから、人違いなら気にしないで
でももし59なら、あんたにオーバーだなんて言われる筋合いはない、恥を知れ

77 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 03:33:44.28 ID:KyokEZ6I.net
俺の言いたい事変わってないよ。
具合が悪くなったとも思わんし。

研究塾はまず表層ありきの批評ではなく
深層からありきで
表層を拾い上げてるんじゃないか?

アスリートだったり他分野を。っていう疑問なんだから。

しかし68は俺が問いたいのとはちょっと違ってたから。
俺が話したいのはポストモダン
じゃなくて表層に対するスタンスの話。

あと76と議論のための議論をしたいんじゃないんだが。
長文だから話から引いたよう見えたんなら誤解だよ。
話が違うとこ行くんじゃないかと思ったからだよ。

しかし、ハートがないとかよく言えるよな。

78 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 12:17:15.58 ID:RDf52uLY.net
たとえば、なぜデミルじゃなくホークスなのか、同じマイケルでもベイじゃなくマンなのか
このショットじゃなくあのショットなのか、この光じゃなくあの光なのか・・・等々

映画とはそういう「特権的」なるものの“顕現”する場じゃないの?
いや、「このショット」でも『パブリックエネミーズ』は成立するし、「この光」でも『我が谷は緑なりき』は成立するだろうけど
それはまったく別物の(おそらくは「タイクツ」な)映画になってしまう・・・

つまり映画とは、ここで>>68さんがいう「吉田」そのものじゃないのかな?
そのとき、問題なのは「吉田=映画的」なるものをとりまく言説の限りない凡庸さであり、悪しき制度的なというか紋切り型というか
「決めつけ」なのであって、自分たちは「ポストモダン的」にふるまっていると思っている側こそなんじゃないか。

蓮實氏的な意味での「愚鈍」とは、単なる否定的なコンテキストでは用いられていなかったと思うのだけどね・・・

79 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 17:13:55.16 ID:KyokEZ6I.net
それはわかっておーる!

研究塾はスポーツ観戦においても
自らの映画理論を実践してきた。

例えばサッカースペイン代表をして
そのパスワークと動きを
「映画だ」
評していた。

最初は「ふーむ」と思って読んでたが
次第に疑問を感じた。
それはサッカーの本田や遠藤の
髪型、顔つきをして「心理的」と
評したりする点においてだ。

そしてネイマールが髪型を地味に変えた事を
例に出し、海外の一流はそれらの佇まい
からして違っていて日本サッカーは
すでに顔や髪型で戦う前から負けている
アホの集団だと。髪型は実力と関係するバカ、と。
こういうわけだ。

80 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 17:14:58.52 ID:KyokEZ6I.net
で、俺はこらこら待てよ。と言いたいわけ。
実際は海外の一流にだって心理的、パフォーマティブ
な側面を、三流の選手にだって映画的な瞬間を見い出せる
瞬間があるはずだ。少なくとも俺にはある。

例えば前者ならメッシは苛ついて
ボールを観客にぶつけたりするし
Cロナウドはすぐ泣くし、自分の体
を見せたがったりする。
ジダンは頭突きだしね。
しかし研究塾はこういったことには
口をつぐむんだ。
もし本田が同じ事をやっていたら
鬼の首をとったかのように
「本田って心理的なんだよね。」
と評しただろう。
遠藤なんてむしろ他の選手からは
感情のムラがないと言われる選手だ。
あと研究塾は日本サッカーが
調子悪いときにだけ、批判するよね。

81 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 17:17:24.17 ID:KyokEZ6I.net
俺がそこで思うのは研究塾って
スポーツで映画批評をやってるんじゃなくて
映画と異なる印象論や物語論、社会批評を
やっていて、それを正当化するために
選手の格付けや立ち振舞い、そして
「映画的」って言葉を利用しているのではないか
と言うことだ。
それはもはや批評ではない。
むしろ研究塾の方が大衆的な心理に陥っている
のではないかとも思う。

人間の観る目って怖いと俺は思うんだよ。
スポーツの場面でAが負けていてBが勝っていたら
「Aは心理的だ。顔つきを見ればダメと判る。
Bは映画的だ。」というと
そのように本当に見えてきてしまう。
一見正しそうに見えるから恐ろしい。

そしてこれは映画にも凄く関わる事だから
俺は気になるんだ。

82 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 18:00:23.32 ID:TmXeRoNc.net
宮崎駿は引退会見をやったけど、
あれが山田洋次だったら
「お前バカ。」
って言ってるよね。

んで吉田なんだけど…
俺はこの人を話の中心にしたかったわけではない。
スポーツマンの話の流れから出てきたから交ぜてしまった。

でも根は前述の話と一緒だと思うんだよな。

現代の日本における心理性の問題。
それは認識しているつもり。
でもいち個人の「心理的」な面を対立構造の批評の一部としていくこと。
これも健全とは思えないんだけどね。

83 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 18:05:09.99 ID:LhwGzKHN.net
宮崎駿の引退会見のとき研究塾はちゃんとバカだって批判してたはずだが?

84 :名無シネマさん:2014/03/27(木) 18:18:07.15 ID:TmXeRoNc.net
そうだったのか。それは見落としていた。ちくしょう。

85 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 02:21:28.25 ID:ovDLe6BJ.net
>>77
いや、「俺が問いたいのとはちょっと違ってたから」とか言いわけしてるけどさ
私は68で、あくまでも59で私に対して書かれたことへの応答として自分の話だけをしているんだよね
(だからこそ76で、研究塾の話からそれるから「68で書いたことはどうでもいい」と断ったんだよ)
それに対して「いちいちオーバーだな」とか茶化されたら頭にくるだろう、元はあんたが始めた話に付き合って
書いたことなんだぜ。あなたもしや自分の話をすることにしか興味がなくて、それに少しでも関わらないような
他人の言い分は不誠実に扱ってしまってよいとでも考えてるのかい
(「議論のための議論をしたいんじゃない」とか書いているから本当にそうなのかもしれないな)

あと話の具合が悪くなった途端に引くような態度に対して「ハートがない」というのはもちろん心理的な意味
ではないし、運動の不誠実さから遡行される精神をとりあえずそう呼んだまでのことなので撤回はしないよ
それには蓮實がフランス語の慣用表現を援用して「○○な精神」と書くほどの意味しかない
あなたとて81の前半で研究塾の発言内容から遡行して背後を穿鑿する程度のことはしているじゃないか
(ああ、それに上の方で「独善」とまで書いていたよな)
そういう部分で筋を通さないで「ハートがないとかよく言える」とは、本当にどこまでもハートがない人だね

それとも単に「ハートがない」を侮辱だと受け取ったのかな、だとしたらこちらとしても今まさに侮辱するつもり
なんだから結構なことだよ。一方的に不誠実な対応をしたんだから罵倒でも侮辱でも望むところだろう
他の人も見ている手前、口汚いことは書かないでおくけどさ

86 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 03:10:07.30 ID:ovDLe6BJ.net
>>78
いやあ、その「特権的」なるものには「映画の名のもとに」って大義があるんですよ
だからホークスだ、マンだ、と言える。そして、そうした視座に立つことを可能にしたのが
ポストモダンなんです。間違っても真理ではないんです。これが仮に王権性の時代なら
ホークスもマンも支持しようがない。映画の見方は王が定めた一つの方法しかないからです
そしてそれは王権神授説ではないけれど、王に映画を見るだけの身体性があったから王位に
着いているわけではなかった。王に押し付けられた、しかし絶対的に「正しい」見方だけがあった、
それが真理の時代なのです。

だから今、映画の周囲に限りなく凡庸な言説と蓮實的な言説が対等に存在していることは
実は幸福な事態なのです。誰もが身体性を磨きさえすれば映画を救うことができるからです
いま凡庸な言説を口にする人でさえ、この先もそのままかどうかはわからない
(とはいえ素人が映画を気軽に語って悪いということはないのです)
蓮實重彦も「絶望しないために教育がある」と言っています。映画をとりまく言説のほとんどが
凡庸だからといって、これから先もそうだとは限らないのです(映画研究塾もあるしね)
つまりここには主体性と呼ぶべきものがある。現代は誰もが映画を救うことを選べる時代です
真理がないというのはだいたいそのような意味で書きました

87 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 03:49:29.90 ID:ovDLe6BJ.net
しかしまあ、その主体的な選択など許さん、誰もかれもが映画を守るための言説のみを
口にするべきだし、それができないなら沈黙しろというのであれば、それは結局、別の王が
王位に着いただけのことなので反動的たらざるをえない、という点には注意してください
この話の肝心なところは、もう誰にも何も押し付ける権利はないってことです
(だから尊重がどうのこうのなんて話をしたのです)

たしかに批評家は支持すべき映画を示す仕事です、でも読者はさらにそれを選ぶのです
それに対してわれわれはただ証拠を突きつけることしかできない
「この映画のここが映画の名の下に優れていますね」と
「ああ、本当だ」と言う人もいれば、「Fuck you , asshole」と言う人もいるでしょう
でもそれは決して無駄ではない。多様性の中で映画を守っていくことができるからです
そして一つ確かなのは、真理の時代にはそれが許されなかったということなのです

そして私もあなたの言うことを誤解していた、あなたの言う真理とは「映画の名の下に正統」
という意味だったのですね

88 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 03:53:36.09 ID:ovDLe6BJ.net
×王権性
○君主制

89 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 05:24:44.09 ID:lPDMC52R.net
>>77
攻撃的な人だな。
独善と書いたのは俺じゃないし。

オーバーってのはあなたの態度を茶化したんじゃなくて
「吉田が多様性を奪っている」という意見に
そりゃ拡大解釈し過ぎだと思ったから書いたんだよ。

つまりさ、解釈や深読み、思索が
膨らむってのは「観る」「触れる」って行為、
表層からずれてしまうと思うわけだ。
解釈がオーバーな事、
それ映画的ではなくない?ってこと。
俺の書き方で気を悪くしたなら悪かったな。

90 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 12:54:23.96 ID:p0fkWnvU.net
横から失礼します。
塾長にしても85の人にしても
良く分からないのは
吉田の涙は解釈を押しつけているとしていますが
そもそもの感情はなぜ無視されるのか
無視していないのだとしたら、なぜそれが解釈の強要になるのか
それとも感情そのものが悪いのか
ここら辺がよく分からないのです。
まるでソフィストが物事を高みから見物し
詭弁をふるっているようにしか見えないです。
それゆえに「ハートがない」の意味が良く分からないです。

91 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 13:49:48.53 ID:xzH6lmjP.net
感情が悪いのでもなく、無視しているわけでもなく
マスコミに囲まれるという衆人環視の舞台の上で「父のためにメダルがなんとか〜」などと宣いながら流す涙は、
純粋な感情の発露ではなくて、吉田自身が既存の物語を自らにあてがう形で演じた結果のメロドラマであり、
その人の死を土人的物語に矮小化してしまうことに対しての無自覚さを非難してるのでは?

92 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 14:45:51.73 ID:p0fkWnvU.net
なるほど。
にしても、「純粋な感情の発露」かどう確証しようもないことに対して
映画的言説をあてがうことでそれを「純粋な感情の発露ではない」と確定している以上
それは詭弁の域を出ないのでは?
それも同様に、解釈を押しつけているだけでは?

93 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 15:06:57.68 ID:xzH6lmjP.net
まず「純粋な感情の発露」という表現は研究塾は使ってないし、おれが今ここで勝手に書いてしまったものだから
誤解を招きそうだからあやまっておくけど、そのうえで
確証どうこういったらおれは今キーボードを打ってる自分自身の存在にすら確証なんか持ってないしw
社会学的な言説を立証するうえでの十分足り得る証拠、という意味でいったのなら
研究塾のあの日記的なスペースではそれを行ってなくて、今書いてるらしい論文の方に求めるべきじゃない?

だからあなたがここで確証がない、とかいっても、まあ確かにそうだけど、とは言えるが
それが建設的かどうかは全く別問題だよね。

94 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 16:20:20.88 ID:p0fkWnvU.net
「社会学的な言説を立証するうえでの十分足り得る証拠」というのじゃなくて
人の「感情」は、その人でない限り分かりえないことですよね。
で、その感情を図る上で、映画的言説をあてがい(のかどうか分かりませんが)、
それを、純粋な感情ではないと確定している以上
この解釈も同様に、押し付けでしかないということ。
で、その解釈をもとに批判している以上、それは詭弁の域を出ないですよね?
ってことを、あなたに言っているのですね。

95 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 16:22:51.37 ID:p0fkWnvU.net
↑の補足
とさっきの92の文章で言っているのです。

96 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 16:39:52.49 ID:p0fkWnvU.net
さらに補足
何が言いたいかというと
という詭弁で納得しろ、認めろ、というのは無理があるのでは?ということです。
まあ私も吉田の行為を擁護する立場ではないですが
89の人と同様、何でもかんでもソフィストのように高い位置から批判していることに違和感を感じるということです。

97 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 16:54:29.39 ID:xzH6lmjP.net
純粋な感情の発露という言葉がどこまでも誤解を与えてしまってると思うんだけど、
研究塾もおれも問題にしているのは「感情」という「原因」ではなくて、
メロドラマを演じるという「行動」そのもののことで、
吉田が演じたメロドラマが本当の感情から来たものであれ、嘘の感情から来たものであれ、
あの醜態そのものが現実を物語の中へ押し込めようとする、解釈の強要であると。
この言説自体が押しつけであるかどうかは上で行われてるポストモダンの議論なのかもしれないが、
我々は解釈を押し付けているのではなく、解釈を押し付ける者に対して押し付けるな、と言っているだけ。

98 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 18:40:51.24 ID:p0fkWnvU.net
なるほど。良く分かりました。
私も同様に、あなたたちを解釈を押しつけている者とみなしていたのかもしれませんね。
それに対して、同様に押し付けるなと言っていただけかもしれません。
しかし、それはこちらの勘違いなのか、何なのか結局よく分かりませんが、とりあえず、あなたの態度には納得しました。

99 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 19:12:09.87 ID:ovDLe6BJ.net
>>89
こっちこそ悪かったよ
でも私がしたのは解釈する以前の話だったんだよ
xzH6lmjPさんが全部説明してくれたけどね

かつて蓮實重彦は奥さんのシャンタルさんと映画を見た折に
彼は冒頭の単純な画面連鎖に涙してしまったそうだが、それを
奥さんに「あなたは何で泣いてしまったの?」と驚かれたそうだ
だけど彼はその理由を彼女に説明しはしなかった

私はこの逸話が好きだし、これこそ現代にふさわしい身ぶりだと思う

100 :名無シネマさん:2014/03/28(金) 23:06:08.48 ID:lPDMC52R.net
>>99
どうも。ちょっとほっとしたよ。

涙、あるいは私的なものは
秘め事だからこそ美しい。
パブリックエネミーズや
風立ちぬの結婚式だね。

その美意識は理解しているつもりだし、
おれ自身感動するけど
「吉田が解釈を押し付けてる」
はどうしても「?」なんだよな。
でも、そう見える人にはそう見えるんだろうな。

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