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【日中】日清戦争再発を暗示する中国の不気味な宿命論「再び巡ってきた甲午の年」[4/3]

2 :ニライカナイφ ★:2014/04/03(木) 11:06:40.61 ID:???.net
>>1の続きです。

(イギリスが、清朝よりも遥かに進んだ軍事力を持っていることを知らなかった…:筆者)と
指摘した。
こうした惨敗を経ても朝廷は超然としており、学習しなかっただけでなく、
外国を俗物と見なしていた。

日本民族は学習によって立国し、西洋列強によって開国を迫られてから中国と西洋を比較し
「学をなす要は格物究理に在り」と有用の実学を発見した。
アヘン戦争後、日本人は中国の状況を把握し尽くしただけでなく打開策を見つけた。
中国を侵略し「脱亜入欧」して、東方のボスとなろうとした。
1868年に明治天皇は「古いしきたりを打開し、世界に知識を求めよ」と号令をかけ、
西洋の進んだ文化を学び、留学生、使節団を派遣し、鉄道電信を興し、教育を普及させた。
天皇も節約節食し、民衆は寄付も行い、一体となって軍備を拡充したことは伝説の様に
中国人によく知られている。

李鴻章はドイツから「鎮遠」「定遠」など十数隻の軍艦を購入し仰々しく日本に訪問さえしたが
日本の代表団は北洋水師の艦船を訪問した際にすぐにその破綻に気付いた。
洋務運動を通じ構築が進められていた中国の海軍は、艦船の排水量でも、
火器の装備でも日本の海軍と遜色なかったが、装備を操作する兵士の資質に問題があった。規律は弛緩し、訓練は統制がとれておらず、汚職が蔓延しており、闘志がなかった。
日本のある大佐は白い手袋をはめ、軍艦の砲台を撫でたあと埃がついたのをみて、
軽蔑的笑いを浮かべ、絶対的自信をもって開戦を求める書簡をしたためた。
中国の甲午戦争での失敗は兵力の相違、装備の相違でも戦術、技術が原因ではなかった。
民族精神、先進的文明に対する学習態度の違いだった。
今日、習近平総書記は中華民族の偉大な復興という中国の夢を提起し、
中国の人々の愛国心を大いに鼓舞している。
私たちは歴史を鑑とし、屈辱と失敗に向き合い、教訓を客観的に総括し、
改革開放を深めて思想観念の束縛を突破しなければならない。

■全人代での軍代表の言葉

記事(2)【2014年3月13日『解放軍報』】
今から120年前の甲午の年。中国近代史上一つの屈辱的戦争が悲痛な傷跡を残した。
時はめぐりまた再び甲午の年が巡ってきた。今日の中国は既に他人に凌辱され、
分割された屈辱の歴史から脱して国際的地位でも総合国力においても
天地を覆すような変化を成し遂げている。
全国人民代表会議の軍代表(軍を代表して出席した代議員たち:筆者)たちは、
中華民族の発展、運命に大きな影響を与えたあの戦争から教訓として何を得たのか。
白文奇(海軍中将、元北海艦隊政治委員)代表
我々の北海艦隊の艦艇は、通常甲午戦争が発生した戦場に赴くことが多いが、
毎回波しぶき立つその海域に入るたびに、沸き立つ砲声を聞くかのような思いに囚われる。
歴史を刻み、国恥を忘れないことは一人一人の北海艦隊兵士たちの必修科目となっている。
我々一人一人の兵士において歴史の詳細は時間の流れとともに流れ去ってはいない。

1894年7月25日、日本軍は清朝の兵士輸送艦隊を奇襲攻撃し、豊島海戦が勃発した。
月には大東溝海戦が勃発し、11月には大連が陥落した。翌2月17日、北洋水師は威海
(山東省沖)で壊滅した。かつて兵士に聞かれたことがある。
一体いつを記念日にすればいいのだろうかと。そこで私は次のように言った。
甲午戦争記念日をいつにするかは重要ではない、重要なのは君が国恥を
心に刻むことであり、どのように奮起して中華民族の悲劇を繰り返さないようにするかだ、と。
王華勇(海軍少将、東海艦隊政治委員)
一枚の「下関条約」(中国語では「馬関条約」と呼称:筆者)は屈辱的に領土の割譲と賠償を
迫っただけでなく、清朝が行ってきた洋務運動(西洋化を図り近代化する活動:筆者)を通じた
強国実現構想を御破算にした。
中国近代の反侵略戦争において甲午戦争は最大規模で最も残酷で影響も
最も深い戦争だった。
中国の植民地化プロセスを加速させ、近代化を中断させ中華民族の運命は
歴史的谷底に陥った。

※続きます。

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