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【四国】「私のことは嫌いにならないで」遍路の道案内にハングルシールを貼って批判された韓国人、崔象喜さん -朝日

784 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2014/12/24(水) 20:24:30.24 ID:F/fcU7wO.net
【被害者証言】黄阿桃(台湾)
1923年、桃園県観音郷に生れる。2011年逝去。 
連行年(歳):1942年
●証言概要
■看護助手の募集に応募してインドネシアへ
私が生まれた家は貧しく、学校にももろくに通えず、家事の手伝いをしていました。
やがて台北に出て、萬華の日本人写真館で住み込みの飯炊きの仕事をしていました。
戦争(アジア太平洋戦争)が始まって、南方で働く看護助手を募集しているという広告を
見た友人に誘われて、私も応募しました。文字が読めなくても雑用の仕事があるという
ことで、1942年の旧正月のころ、日本人の男女に引率されて23人の女の子たちと
高雄から「浅間丸」でインドネシアに向かいました。船には大勢の軍人たち、そして
日本人の女も乗っていました。

■バリックパパンの慰安所で兵士の相手を強制されました
セレベス島のマカッサルに着いて、しばらくそこの軍人宿泊所に滞在して、別の船で
ボルネオ島のバリックパパンに到着しました。着いてすぐから、連日激しい空襲があり、
一緒に行った仲間の3人が亡くなりました。私は下腹部と目にひどいけがをして
海軍病院で手術を受けましたが、子宮と右目を失ってしました。

退院すると、私は兵隊の相手をすることを強制されました。慰安所では、軍人は札を
買って自分の買った女の子の部屋に入ります。砲弾の空き箱を並べて作ったベッドと
椅子、テーブルだけの小さな部屋でした。最初に私の部屋に入ってきた兵士は、
私が泣くのを見て何もしませんでしたが、その次に入ってきた兵士は酒に酔っていて、
乱暴に私の身体に襲いかかってきました。血が流れ、痛みに驚いておかみさんに
言いつけに行くと、「だれでも最初はそうなるので大丈夫だ」と言われました。

私ちは毎月1回、軍医の身体検査を受けました。性病にかかっているかどうかを調べる
のです。やってくる兵士の数はそれぞれの女の子によって違い、きれいで歌のうまい子
にはたくさん来るのです。おかみさんが私に、「もっと客をとるように。1日20人だ」と
言うので、私が「それなら自分でやってみたら」と必死で言い返したところ、それ以上は
言いませんでした。死にたいと思いましたが、いつか台湾に帰って両親に会いたいと
我慢しました。

ひでぇええ…

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