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【韓国】李承晩(イ・スンマン)政府、韓国戦争勃発直後に日本への亡命を打診 一方、日本側は・・・[6/24]

261 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2015/06/25(木) 09:05:00.58 ID:ekZwYBQa.net
朝鮮戦争と日本の対応 ――山口県を事例として――
http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j8_3_03.pdf

そのようななかで最も重要な事案のひとつが、昭和天皇の御巡幸であった。1947年秋、宮内府から山口県に、
同年12月1日から5日間天皇が山口県を回られるとの通達がなされた。当時山口県は、後述するように在日朝鮮人
をめぐって治安が悪化しており、かつ反天皇感情から北朝鮮系のグループによる天皇暗殺計画の情報ももたらされていた。

一方、不安定な朝鮮半島情勢や、後述するような朝鮮半島からの密入国の増加などに対応するため、田中知事は
就任直後、知事部局に「朝鮮情報室」を設置、朝鮮半島から発信される中波、短波の電波を傍受、翻訳のうえ、
「朝鮮情報」としてまとめ、県庁内はもちろん、首相、外相、法相など約10部を内閣にも送っていたのである。
さらに、朝鮮半島に情報員(「密偵」)までも派遣していた。こうした情報活動の基盤となったのが、朝鮮総督府時代の
日本人官吏や、当時の山口県警察警察部の担当者らで、彼らは、朝鮮語も堪能で、かつ朝鮮社会にも深く溶け込んだ
情報通の人材であった。田中知事も、「総督府にゃあ、優秀な人がおるんですよ。ほんとに朝鮮人より朝鮮語がうまいん
だから」と語っていた(11)。

山口県庁は、「朝鮮情報室」を設置、朝鮮半島の情報収集に尽力していたが、1950(昭和25)年になると、情勢が
緊迫しているとの情報分析結果が出た。そのため、危機感を感じた田中知事は、上京を決断、6月21日大磯に吉田茂首相
を訪ね、「どうもこのままでは、有利な北朝鮮が侵攻する可能性が高いから、何とかして下さい」と報告したところ、
吉田首相は、「3日前に38度線を視察したジョン・フォスター・ダレス特使(のち国務長官)が、帰途日本に立ち寄り、
『米軍の指揮は旺盛で、装備も充実しており、決して心配ない』と言ったばかりだ」と怒り出したのであった(20)。

それからほぼ1週間後の1950(昭和25)年6月25日、田中知事の予想通り北朝鮮軍の南進によって、朝鮮戦争が
勃発した。直後に吉田首相の方から、田中知事に至急上京を願うとの連絡が入り、田中知事は、閣僚懇談会の席上において、
朝鮮半島情勢、すなわち勃発までの経緯、今後の戦局の見通しなどについて報告したのである。一知事としては、極めて
異例のことであった(22)。さらに、朝鮮半島の非常事態に鑑み、西日本の治安その他統合政策のため万全を期するよう、
政府に要望したのである(23)。

その頃、外務省から、「韓国政府は、6万人の亡命政権を山口県に作るということを希望している」との電報が入り、
それらの施設、宿舎等遺漏なきようにということであった。当時山口県は、県民分の米の配給も、半月以上欠配し、さらに
軍人の復員、下関などからの引揚げ者が増えつつあり、6万人分の食料を確保するのは困難であった。そのため、田中知事は、
再度久原を通して、GHQに山口県の実状を伝えさせたりした(24)。しかし、9月16日国連軍が仁川に敵前上陸を敢行した
ことにより、戦局は大きく逆転することになり、亡命政権構想も消えたのであった。田中知事は当時を回想して、「とんでも
ない話だ。もう、そうしたらもう、山口県人なんかどこかへ出てくれなければね。なんぼなんでも、どこかに行けやしないしね、
そういう問題で」、「いま顧みれば一つの物語に過ぎないが、そのときのことを思うとゾッとする」述べていた(25)。

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