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【韓国】福沢諭吉1万円札が今も日本で流通している理由[07/24]

750 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2015/08/23(日) 01:16:39.50 ID:SlJ3l4mR.net
>>744
はい。ご指摘の通りです。
一般に「脱亜論」が(福澤が絶対的侵略主義者であることを示す証拠と
して)発見されたのは、戦後の1951年(昭和26年)11月に発表された
遠山茂樹の「日清戦争と福沢諭吉」においてであったとされています。

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2.3. 3 一九五一年・遠山茂樹によって発見される
2.3.1. 社説「脱亜論」の発見者遠山茂樹

管見のかぎり「脱亜論」が最初に言及されているのは、遠山茂樹が一九五一年一一月に『福沢研究』第六号に発表した「日清戦争と福沢諭吉」の以下の記述である。

  政府当局者よりも積極的であったといわれている、福沢の対朝鮮、
  対中国進出論をささえていたものは、やはり彼なりの開化主義であった。
  (中略・福沢の見解では)
  強大文明国の植民地となることが、むしろ朝鮮人民の幸福ーー
  これは修辞の上の誇張の言ではなく、日本の朝鮮侵略を主張する論の
  前提となっている。
  曰く、
    「我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、
    寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も
    隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に
    従て処分す可きのみ。……我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
    (「脱亜論」十八年、続全集二)。
  アジアの一員としてアジアの興隆に尽すのではなく、アジアを脱し、
  アジア隣邦を犠牲にすることによって西洋列強と伍する小型帝国主義と
  なろうとする、日本のナショナリズムの悪しき伝統の中に、この類い稀な
  思想家も、「文明」の名においてとらえられていた。
  (『遠山茂樹著作集』第五巻(一九九二・六)三二〜三三頁)
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平山洋「何が「脱亜論」を有名にしたのか」(65--100頁)
静岡県立大学国際関係学部編『グローバルとローカル』(静岡県立大学国際関係学部、2002年)
http://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/how_did_datuaron_become_famous/#id_2_3

また、平山さんによる「「脱亜論」紹介年表」でも、
丸山による最初の「脱亜論」への言及は
1977年09月 丸山真男「古典からどう学ぶか」『図書』九月号(岩波書店刊)
とされています。

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1885年03月 「脱亜論」『時事新報』紙上に発表
1933年07月 「脱亜論」初めて『続福沢全集』第二巻に収録
1951年11月 遠山茂樹「日清戦争と福沢諭吉」福沢研究会『福沢研究』第六号「脱亜論」言及T
1952年05月 服部之総「東洋における日本の位置」『近代日本文学講座』(河出書房刊)「脱亜論」言及U
1953年08月 服部之総「文明開化」『現代歴史講座』第三巻(創文社刊)「脱亜論」言及V
1956年06月 鹿野政直『日本近代思想の形成』(新評論社刊)「脱亜論」言及W
1960年04月 飯塚浩二「極東・東亜・近西」『中央公論』四月号(中央公論社刊)「脱亜論」言及X
1961年06月 岡義武「国民的独立と国家理性」『近代日本思想史講座』第八巻(筑摩書房刊)「脱亜論」言及Y
1961年06月 竹内好「日本とアジア」竹内好・唐木順三編『近代日本思想史講座』第八巻(筑摩書房刊)「脱亜論」言及Z「有名である」とされる
1963年08月 竹内好「アジア主義の展望」竹内好編『現代日本思想大系』第九巻『アジア主義』「脱亜論」全文を掲載言及[
1967年04月 河野健二『福沢諭吉ー生きつづける思想家』(講談社刊)講談社現代新書「脱亜論」言及\
1967年12月 鹿野政直『福沢諭吉』(清水書院刊)「脱亜論」言及]この時点で「有名さ」が定着する

1977年09月 丸山真男「古典からどう学ぶか」『図書』九月号(岩波書店刊)丸山による最初の「脱亜論」への言及
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「脱亜論」紹介年表
http://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h33/

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