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【国際】中国政府が日本の教科書検定に抗議「南京大虐殺はとっくに定説になっている」 欧米ネット「世界中が中国にうんざりしている」

384 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2016/03/25(金) 13:30:17.60 ID:MbjWCAAo.net
「上海時代」より(2)
私は、最近、従軍記者として南京攻略直後に取材のため南京に数日を過したという元同僚の
新井正義、前田雄二、深沢幹蔵の三氏から、参考のため、直接話を聞いた。
とくに深沢氏は、ずっと従軍日記をつけていたので、それも読ませてもらい、大いに参考になった。

三人ともが十二月十六日から十七日にかけ直接に見たというのは、まず下関から草鞋峡の方向への河岸一帯にあった多数の焼死体であった。
約二千という人と二、三千ぐらいであったという人があった。
おそらく、機銃掃射され、ガソリンをぶっかけられて焼け死んだものであったらしい。

それから、元軍政部構内で若い将校や下士官が「新兵訓練」と称して新兵を使って中国人の捕虜を銃剣で突き、
そこにあった防空壕にぶちこんだが、前田氏は、捕虜十二、三人目が突き殺されたのを見て、
それだけで気分が悪くなり、嘔吐を催して、立ち去ったという。
また、軍官学校構内で捕虜を拳銃で射殺するのを見て、二人ぐらい見ていて、もう見ていられなくなったという。
また、三氏が話してくれた共通の点は、戦闘行為と、暴行、虐殺との区別がなかなかできないということであった。
大本営発表の中国軍の損失九万というのには、捕虜の虐殺数が相当入っているのではないかとの話もあった。

日本軍が半ば包囲陣形をとったので、下関や雨花台などで中国兵が多数殺されたが、これも戦死とみるべきかとも考えられた。
その他女子に対する暴行、殺人も極端にまで行われたらしいが、軍隊として組織的にやったものとは信ぜられないという。

三氏は、みんな相当の練達の記者であるが、何十万とかいう「大虐殺」事件はなかったようだといい、
戦闘以外の虐殺被害者は、まず、一、二万というところではないかともいっていた。
また、前田氏は社会ダネを拾って駈けまわったが、そのほか、占領直後、十四日、十五日には便衣隊狩りが相当行われたことも聞いているが、
十二月二十日ごろを境にして、市民の生活には、街頭にも平常の雰囲気がとり戻されていたという。

十八日の松井最高指揮官の訓戒に対し、ある師団長などはせせら笑っていたそうだが、
とにかく、翌日からは、第十六師団だけが南京の警備に当り、その他の部隊は、蕪湖方面その他城外に移された。
ところが、その警備のため南京に残された第十六師団の兵士たちの一部が、その後も、乱暴を続けたということは、
南京難民区の委員の一人であった、M・S・ベイツ教授が、極東軍事裁判で証言したところであった。

私は、ベイツ教授を個人的にも知っていたが、その数日後、軽井沢で会ったことがあった。
彼は、口も重く、「あのときは、全くひどかった。もう何も言いたくありません」と一言、語ったばかりであった。

「南京大虐殺」の数量も真相も、なお不明であるにしろ、われわれ日本人の心の奥底に、消そうにも、消すことのできない傷跡が残っていることは、確実である。

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