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【歴史】「琉球処分」など琉球王国の歴史認識を共有 北京で「琉球・沖縄最先端問題国際学術会議」が開幕[05/16]

218 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2016/05/16(月) 18:09:35.66 ID:9992ckB6.net
【歴史】琉球王国の先祖は源氏 琉球王国を造ったのは源氏

教科書では1429年に琉球王国誕生 尚巴志が初めて沖縄本島を統一琉球王国を築いたとされている。

今帰仁村にある源氏の石碑は12世紀に源氏が上陸した記念碑である。運天港 源為朝が運を天に任せて辿り着いた場所で運天港と呼ばれるようになった。

源為朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と幼少期に
牛若丸とされる義経の叔父さんにあたる。

1156年に保元の乱に参戦に頼朝の父に破れ伊豆大島に流され31歳で自害とされているが本当は沖縄に流れていた。

本当に可能なのかと疑いの目が向けられるが
東京大学 海洋学研究所 講師 岡英太郎氏は、黒潮の沖側つまり南側には弱い西向きの流れが流れていて、それに乗れば小笠原諸島からは沖縄まで流れるのは十分可能と証言している。

中山世鑑には1650年編纂された琉球王国初の正史には琉球王国の王様である舜天が為朝公の子供であると沖縄県立博物館 稲福氏は語っている。

そして都にも源為朝 琉球へ渡り 建国の主となると伝わっていた。

何故、為朝親子は琉球を統一が出来たかというと舜天の背後に源氏のバックアップありその源氏と父、為朝との繋がっていたのである。

当時の頼朝と敵対ししていたので後ろ盾となったのは誰なのか?と素朴な疑問が生まれると思います。

それは義経であり、義経は兄頼朝に命を狙われていた。保元の乱で頼朝に敗れた為朝と共通の敵であった。

しかし東北の義経とどのような繋がりがあったのだろうか?

ここでも素朴な疑問が生まれる。

沖縄県立芸術大学 教授 安里進氏

平安時代に岩手の中尊寺金色堂に、沖縄の夜光貝を使った螺鈿細工が大量に柱や台座に使われていた。

交流の証であり琉球と奥州は深く繋がっていた。

突然15世紀に統一王国が出来たのではなく夜光貝の交易を通じて、12〜13世紀頃から政治的権力者が存在し13世紀には王権が登場していた。

教科書の15世紀前から琉球王国は存在していた。

源為朝には琉球だけじゃなく奥州(岩手)にも子供が存在した。

鎌倉時代の奥州を治めていたのは為朝の四男為頼
為朝と義経のパイプ役を果たしていた。

義経(21歳)と為頼(20歳)は従兄弟同士であり年齢も近かったので仲良しであった。

義経が北から為朝は南から鎌倉を挟み撃ちにしょうとした密約を交わしていたのであった。

義経はアイヌ民族の力を借り、為朝は琉球王国で
頼朝への逆襲の力を貯めていたのであった。

打倒頼朝であった。

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