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【朝鮮日報】言うべきことは言う朝鮮日報、その資格はあるのか我が身を振り返りたい 読者の皆様、お許しください[9/09]

1 :ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/09/09(金) 11:06:27.83 ID:CAP_USER.net
先輩主筆たちの写真を前に顔を上げられなかった。
国と民族のため骨身を削った主筆の先輩方が昨今の不祥事を見て悲痛な嘆きを上げているだろうと言ったものの、それを言う資格があるのか常に我が身を振り返りたい。
読者の皆様、お許しください。

 朝鮮日報の第2代主筆は安在鴻(アン・ジェホン)だった。ほぼ毎日のように社説やコラムを執筆する情熱的な記者だった安在鴻は、帝国主義国だった日本の弾圧により計9回捕らえられ、年数にして7年間余りを刑務所で過ごした。
1942年12月の朝鮮語学会事件で極寒の咸鏡南道の監房に送られ、3カ月余り収監された後は余命いくばくもないようなやつれた姿になってしまった。監房の気温は普段マイナス20℃前後で、日本側は安在鴻に横たわることも座ることも許さなかった。
同じく投獄された二人は監房で死んだ。解放(日本の終戦)後、自主民族国家を樹立しようと東奔西走していた安在鴻は6・25(朝鮮戦争)時に北朝鮮に拉致され、1965年に無念の思いを抱えながらその生涯を終えた。

 朝鮮日報主筆室の入口には安在鴻を筆頭に歴代主筆全17人の色あせた写真がかかっている。洪鍾仁(ホン・ジョンイン)、崔錫采(チェ・ソクチェ)、鮮于W(ソンウ・フィ)などいずれも当代最高の言論人だった。
なぜ主筆室の中ではなく入口の外側の狭い廊下に写真がかかっているのかと不思議に思ったことがあった。考えた結果、主筆だけでなく論説委員全員が出入りするその廊下で、こうした言論人の視線を毎分毎秒感じろという意味ではなかったかと感じた。
主筆の先輩方は約100年という長い歳月にわたり、時には誇りを、そして時には失望を感じながら後輩たち見守ってきたと思う。それでも、後輩たちの記者精神だけは疑うことがなかっただろうという信念を胸に、あの狭い廊下を歩いていた。

 このほど朝鮮日報前主筆が不祥事により辞表を提出し、受理されるという前代未聞の事件が起こり、筆者は突然、論説の責任を負うことになった。外出先から戻り、論説員室に入る時、ふと安在鴻元主筆の写真と目が合った。
「顔を上げにくい」という言葉はこういう時に使うものなのだろうと思った。国と民族のために骨身を削り、骨を折った先輩の前で「記者精神」という言葉も口にできなくなった後輩は、逃げるようにしてその写真の前を通り過ぎた。
「我々の過ちにより先輩方の衷情(うそ偽りのない心)にまで泥を塗ってしまった」という自らを恥じる気持ちをどうすることもできなかった。先輩方の悲痛な嘆きが聞こえてくるようだった。

 筆者が考える記者精神はただ一つの逸話に凝縮される。1973年に金大中(キム・デジュン)拉致事件が発生した時、メディアは権力の圧力により記事が書けなかった。
記者らが警察に付けられ、韓国中央情報部(KCIA)に連れて行かれて殴られるという恐ろしい時代だった。1カ月が過ぎたある夜、鮮于W主筆が一人で論説員室に現れ、社説を書いた。
「最近は知りたくても知ることができないし、言いたいことがあっても言えない」という文で始まる社説は、拉致事件の真相究明を求めるものだった。鮮于W主筆は夜勤の当直たちに輪転機を回すよう指示し、社説を差し替えた。
そして、その場で「主筆としての判断に基づき、責任を持って行動したい。どんな脅しにも、誰の干渉にも屈しない」と宣言した。真夜中の社説差し替えは発行人の社長さえ知らなかった。翌日朝、韓国中が大騒ぎになった。
KCIAは新聞を回収しようとしたが、すでにかなりの部数が配達されていた。鮮于W主筆は検挙令の中、辞表を送ってきた。当時社長だった方又栄(パン・ウヨン)前顧問は回顧録で「あの社説を事前に呼んでいたら掲載させなかっただろう」と率直に語った。
記者精神がなければ、あの社説は存在しなかったのだ。

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/09/09/2016090901061.html

>>2以降に続く)

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