2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【沖縄】高江の抗議活動、韓国の若者たちが駆け付ける

334 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2016/11/23(水) 15:14:45.44 ID:IMgSJY8T.net
>>319
裁判、拘置、処刑
その後、一旦安はロシア帝国側に2日間身柄を確保された(当時のハルビンは清朝の領土だが、ロシア帝国が鉄道を引くにあたって範囲限定ながら自治権を得ていた)のち、日本側に引き渡された。
そして関東州の旅順に移送され、そこにある関東都督府で裁判を受けることになった。
6回の審理ののち、安は1910年2月14日に死刑を宣告された。同3月26日に絞首刑に処せられた。
享年30。他の共謀者も有罪にはなったが、実行犯ではなかったこともあり死刑にはなっていない。
安は先に述べたように抗日活動を行う軍事的組織「大韓義軍」に所属していたことを理由に、「暗殺者」ではなく「捕虜」として扱われることや、死刑が決まった後には銃殺での処刑を希望しているが、いずれも却下されている。
勾留・拘置期間中には新年の馳走が振る舞われたり、弟二名との面会が許された記録もあるとのことで、権利は尊重されていたようだ。
酒や煙草まで与えられたとされている。日本人看守と交流して彼らから共感を得たとも言われており、直筆の書を安から贈られた者も居る。
これらの扱いに対して安は、「朝鮮にいる日本人は朝鮮人に対して辛く当たるのに、旅順にいる日本人は素晴らしい。同じ日本人であるのになぜこうも異なるのか」といった意味の文を書き残している。
自叙伝によれば、抗日活動に身を投じる以前、朝鮮にいる時期に日本人とトラブルになったり、商売を日本人に邪魔されたりしたという。
こういった個人的恨みも反日感情を形成する一助になっていたと思われ、獄中でこれまでのイメージと異なる日本人と触れて驚いたようだ。
またこの期間に自叙伝「安応七歴史」を記している(下記「関連商品」欄にある「安重根と朝鮮独立運動の源流」に収録されている)。また、自叙伝を書き終えたのちには「東洋平和論」という思想書を書き始めたが、既に処刑日時が迫っていたために未完に終わっている。

総レス数 1000
255 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200