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【竹島問題】寒さに体寄せ合った15歳の抑留生活 韓国に拿捕された元漁船乗組員・小川岩夫さん[2/22]

1 :ねこ名無し ★@\(^o^)/:2017/02/22(水) 13:50:31.79 ID:CAP_USER.net
 韓国による竹島の不法占拠は、1952(昭和27)年の「李承晩ライン」宣言が出発点だ。この線を越えたとの理由で29年11月、乗っていた漁船が拿捕(だほ)され、韓国で約8カ月の抑留生活を強いられた元漁船乗組員の小川岩夫さん(78)=松江市=は、「竹島の日」を迎えるたびに怒りがこみ上げる。

 バリバリバリ−。昭和29年11月、島根県浜田市の底引き漁船「第2大和丸」に乗り、長崎・対馬沖で漁の準備をしていた小川さん。韓国警備艇の激しい銃声を聞き、慌てて船内に逃げ込んだ。網でつながった「第1大和丸」ともども拿捕された。

 中学卒業後の29年8月、船に乗り始めて数度目の航海。釜山港で船から降ろされると、海洋警察へ。検事局に連行されて取り調べを受けた。「『李ラインに入ったか』と聞かれたが、15歳で下っ端の私が李ラインなど知るはずもなかった」

 留置場を経て刑務所に収監。刑務所内は劣悪な環境で、わらの布団と毛布が与えられただけで、厳しい寒さが体にこたえた。8畳ほどの板間に21人が詰め込まれて、すし詰め状態で「部屋の隅に排泄用の樽(たる)が置かれ、最年少者の私はそれを抱きかかえる形で寝なければならなかった」ことが辛かった。

 20日ほどが過ぎ、小川さんを含めた数人の乗組員は郊外の収容所に移った。食事は、石が交じった丸麦のご飯と岩塩を溶いた湯。ここでも毛布1枚しかなく寒くてたまらず、男同士で体を寄せ合い震えていた。わずかな楽しみは、近所なら自由に外出できたことだった。

 30年6月に釈放されるまでの8カ月間で風呂に入ったのは1度だけ。日本政府の接触はなく、「帰国後、政府からは抑留期間中の日当として1日千円分が出ただけ。ほかの補償やわびもなかった」。

 小川さんはその後も漁に出た。31年4月には、浜田から一緒に出漁した船が拿捕され、五島列島付近まで一目散に逃げたこともあった。平成2〜5年頃は、かにかご漁船に。漁場までは竹島付近を通るルートで、「ヘリポートや警備の隊員がひなたぼっこをする姿などがよく見えた」と振り返る。

 国が記念日を定め、式典を主催する北方領土。米トランプ政権に対しても「日米安保の対象」と言質を取り付けた尖閣諸島−。これらに比べ、島根県主催の記念式典で首相や閣僚の出席もなく、領土権の確立に向けて有効な手立てを打ち出せていない竹島に対する国の姿勢はあまりに冷淡だ−と嘆く。

 「拿捕当時、政府が真剣に交渉していたら、抑留生活も無駄じゃなかったのに」。抑留体験者が高齢化し、生存者も少なくなる中、語り継いでいく必要性を痛感している。

http://www.sankei.com/west/news/170222/wst1702220047-n1.html
http://www.sankei.com/west/news/170222/wst1702220047-n2.html

http://www.sankei.com/images/news/170222/wst1702220047-p1.jpg
乗り組んでいた漁船が拿捕され、釜山の収容所で抑留生活を送る小川岩夫さん(左列の中央)。仲間たちと付近を散歩するのが、わずかに息を抜けるひとときだった(小川さん提供)
http://www.sankei.com/images/news/170222/wst1702220047-p2.jpg
抑留当時に撮影された写真を見ながら収容所での生活を振り返る小川岩夫さん

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