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【グルメ】味にうるさい日本を魅了した韓国食品

919 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2017/04/30(日) 12:32:09.37 ID:vo79Nf3C.net
釜山に管理官を置く

 明治9年10月31日、日本は修好条規第八款に基いて釜山に管理官を置き、11月13日に外務省七等出仕近藤真鋤をこれに任じ、同時に朝鮮側にも伝えた。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi024.html


恐るべき飢餓大国

 沿海の大小の村落をいくつか尋ねるうちに、大変なことが分ってきた。昨年の明治9年は朝鮮は大飢饉であったのである。
 各地で餓死者続出、海南では人口6千人中3千人が餓死して半分に減じ、ある村に至っては餓死者132名、生存者わずかに34名で、60戸が12戸に減じた所もあった。
 この時釜山では日本米を輸入しており、その周辺地区でも日本米を購入することが出来て飢饉をしのいで麦が収穫できる時期に達した所もあった。
 しかし、その日本米も釜山から離れた地方ほど入手困難となり、また価格も高くなり、ある地方官はもはや購入も諦めて、村民の飢えるに任せる所などもあった。
 またある湾岸の漁村には船が殆ど見当たらないので、その理由を村民に問うと、食料に替えるために皆売ったと言う。
 日本人は行商を禁じられているので、日本米の売買は朝鮮人に限られている。おそらく価格高騰を狙っての売り惜しみもあっただろう。
 花房義質公使たちは、釜山を離れるに連れて深刻になっていく実情を知り、上陸するたびに地方官が盛大な酒食をもって接待するのが心苦しくなり、
 辞退すること数度に及べど地方官は聞かず、小さな村で村長が一瓶の濁り酒と一匹の干し魚をもって接待したことにかえって好感を持ったほどであった。

 かつて宮本小一が京城周辺の農作物を見た時点で、やや旱魃であると報告していたが、結局大旱魃となり、明治7年から明治8年にかけても飢饉があったが、
 明治9年は更にそれを上回る大飢饉となったらしい。以上、(代理公使朝鮮日記/2 明治10年9月9日から明治10年11月30日)

 地方官に今年(明治10年)はどうかと尋ねると、米は大丈夫だが雑穀が不作とのこと。
 海南県監 金演奎が言うのに、「昨年の如きは実に未曾有の大飢饉にして、今年は尋常の飢饉なり。」と言う。(「高雄丸韓国沿岸測量一件/2 明治十年 朝鮮紀事」p13)

 どうやら朝鮮では飢饉は慢性的なものだったらしい。
 宮本は、土地は痩せていないと言い、随行した陸軍士官らは、朝鮮人は新たに田畑を開墾することをしない、井戸を掘る努力をしない、などと述べていたが、両班官憲の苛斂誅求も影響していよう。

 11月25日、京城に着いた花房義質が政府側要人にまず話したのも飢饉のことであった。

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