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【歴史】 加藤清正が韓国から搬出したとされる「五色八重散椿」の「蔚山椿」起源説、根拠なし…ただの日本産だった[04/18] [LingLing★]

6 :LingLing ★:2024/04/19(金) 00:00:33.29 ID:6nZFqjVv.net
当時の記事

1992.05.26.
希少椿五色八重 後裔3本古国の懐に

(東京=聯合ニュース)文永植特派員=壬辰倭乱当時、倭長・加藤清正が略奪していった希少ツバキの後裔3本が約4百年ぶりに故国の元に戻ってくることになった。

希少数「五色八重散椿」の還国祝賀式が26日の午後1時頃、韓国側から朴三中僧侶、崔鐘斗韓国芸総蔚山支部長、鄭南伊釜山女子短期大学長ら約30名が、日本側からオオコウチ(大河内存無)住持、カキヌマ(柿沼洗心)韓・日仏教福祉協会会長らがそれぞれ出席した中、京都にある地蔵院(椿寺)で、しめやかに行われた。

五色八重散椿とは、一本の木から5色に八重咲に花開いた後、散る時も、花びらがいっぺんにに散らずに一つ一つ散るとして付けられた名だ。

壬辰倭乱の時、加藤清正が自生地の蔚山鶴城で偶然発見し、美しい花の姿態に魅了され日本に持っていった。その後、彼はこの希少種を君主である豊臣秀吉に捧げて、豊臣秀吉は自身が茶道会のためにしばしば訪れた地蔵院に寄贈した。

1世は400年の風霜に耐えられずに83年末に枯死して根に近い部分だけ残り、代わりに樹齢百年前後の2-3世の10本あまりが、寺の裏庭で3月下旬から4月末まで開花し、絢爛な五色で壮観を成している。

したがって、この寺は地蔵院という名前よりも、椿の木の寺という意味の椿寺としてよく知られている。

崔支部長と朴は、たまたま希少種の事情を知った後、熱烈に還国運動を行った末に、柿沼韓日仏教福祉協会会長のあっせんで大河内住持の許諾を受けて、若い木ではあるが3本だけでも返される結実となった。

これらの木は、挿し木によって育てられた8年生くらいの大きさで20〜30cmに過ぎない。しかし、葉が普通のツバキとは異なって、玲瓏に光を放ち神秘的な感じさえするというのが記念式に出席した人々の一様な話だ。

朴僧侶と崔支部長は、日本側との約束により、3本を本来の故郷である蔚山市と独立記念館、耳塚(慶南、泗川市)にそれぞれ分けて植えることにした。

蔚山市は、返された1本の木を市昇格30周年記念日である6月1日に市役所前の庭に植樹し、鶴城跡の場所に壬辰倭乱功臣を追慕する顕忠詞が建てられる日に移植する予定だと伝えられた。

https://n.news.naver.com/mnews/article/001/0003641775

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