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子供たちは負け組大人を見下しすぎ!

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/11/18(水) 06:15:12.96 ID:+wV2zjXr.net
子供たちが無職のおじさんをバカにしている。
年収1億円とか、そういう話をテレビで知り過ぎているんだ。

子供って無職の若い女性とかはバカにしないのに、
無職の男性はバカにするよね。
無職のおじさんなんて罵声を浴びせたりする。

2 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:15:53.45 ID:Ls2dGtVFb
【鳥の目】
ヘーゲルは「自己意識はいったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返ることであり、自分自身の
フレームワークから離れて想像的にしつらえた俯瞰的視座から地上の自分や周辺の事態を一望して個を認識する」としている。

「病的なまでの心配性で知識を集めて知性を高め、好きということのすさまじさを認識し、誰にも負けない知識を蓄え情熱を
たぎらし、そして、(時代の、技術の)最先端で何が起こっているかを一望できる場所(vantage point)に行くべきだ」とする。

個は個を俯瞰できる高みから眺めていることが大切で、それが、自己認識があるということだとするのである。

3 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:17:26.44 ID:Ls2dGtVFb
ドイツからアメリカに移り住んだユダヤ人哲学者エーリッヒ・フロムは有名な著書 Escape from Freedom(『自由からの逃走』)で、
individuation、すなわち、個となることについて次のように説明している。

子供にとっては primary tie (生まれながらにもっている繋がり)から解きほぐされることが、初めての束縛からの自由である。
それが個となることである。その個は束縛から解放された瞬間から、新しい課題(task)に直面する。

自分で立ち上がり、自分が何所に居るかを視つけ、地図にたとえるのであれば、何所かに拠点を置いて(root)、
そこから方向づける(orient)という仕事、つまり自立という行為を行うのである。白地図の上に道を書き込む。

自由ではあるが、自分の力で自分の安全を確保する方法を見つけなければいけない。
彼(女)らは、少年期(少女期)、青年期を経て、確実に自立した強い個になることが運命づけられている。

4 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:17:57.82 ID:Ls2dGtVFb
服従だけが孤独や不安から解放される唯一の方法ではない。人は森羅万象に対する自発性があるとされる。

人が自主自立的に行動を起こす場合、自然に役割(role)を分担し、約束事(rule)を決め、
工夫(tool)を凝らす。日本では、ふるまい、おもてなし、しつらい というような言葉もある。
これらは人間関係をワークさせるために自発的に生み出されたもので権力者が決めたものではない。

組織に入るということは、集団に属して単一に一員となることではない。組織における自分の自発的行動を明確化することである。

5 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:18:30.42 ID:Ls2dGtVFb
阿部は、それらの人々のことを考慮に入れ、教養とは「自分が社会の中でどのような位置にあり、
社会のために何が出来るかを知っている状態、或いはそれを知ろうと努力している状況」と再定義しているのである。

教養とは個人が自己の完成を願うためのものではなくて、社会の中での自己の位置を知り、
その上で、世間の中で自分の役割を果たすためのものでなければならないのである。

柔軟な心性を意味するこころの広さ(breadth)を涵養することが、変化する世界を生き抜く人生に向けての正しい
リベラルエデュケーション(教育)である。-中略- ありとあらゆる観点から、人間の存在状況を照らし出すものである。
-中略-宗教の教義、迷信、偏狭な権威(ドグマ)が引き起こす奴隷状態(=営利誘拐、囲い込み、埋め込み、人罪振り込め詐欺、牽制、
精神的搾取、私刑(リンチ)…etc)からの解放を行うものである。リベラルエデュケーションとは日常生活における最高の礼儀作法である。

6 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:19:10.35 ID:Ls2dGtVFb
哲学的著書を残しユダヤ教・キリスト教に詳しい、ジャーナリスト山本七平は空気論により、
個の自立ができていない近代の日本人的集団主義を強く批判している。彼は、数百万人の犠牲者を出した
戦争の責任はそこにあるとして、視野の狭い合理性に欠ける島国的な民族性に対して猛省を求めている。

「統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものを如何に精緻に
組み立てて置いても、いざと言う時は、それらが一切消し飛んで、すべてが<<空気>>によって決定されることになるかも知れぬ」と嘆く。

大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこのようにならない人間のことであり、
対象の相対化によって対象から自己を自由にすることが出来るということを知っている人間のことであるとする。

7 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:23:27.02 ID:Ls2dGtVFb
学問論というものは、いま、あまり語られない。「学習」はあるが「学問」という言葉が
死語になりつつあり、「勉学」は「勉強」に取って代わられている。経験知を自分の知識の世界の中に
どうやって落とし込むか。経験知を一般知=定説と照合し、これも修正しながら「自分自身の知識」を作る。

このいわば「ローカルな知」とその生成能力の部分がコンピテンスなのだと思う。
ローカルな知=コンピテンス=コンプリートする能力、つまり状況の中で競り合う力。
ある状況に何を足したり引いたり工夫したりしてコンプリートしていく臨機応変の力だと思われます。

これを育てるために、一方では経験知が、他方では一般知を取り込むための基礎学力が必要です。

8 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:24:15.72 ID:Ls2dGtVFb
問いが欠落する知識基盤社会は極めて危うい。誰だか知らない人が「知識(物語)」を作ってそれが圧倒的多数の
人々を振り回す。リーマンショックにしろ、福島第一原発にしろ、その結果、大きな破綻が「突然」やってくる*。

「知識」は誰が作っているのだろうか? 誰が作っているかよく分からないまま、マスメディア等が「真実の知識」として振りまくる。
知識を作るといっても、自分たちで創り出すことをしなければ、知識を作る主体は育たず、キャリアデザインは無理になる。-中略-(補足)
「私たちが『知識』を創る」「私たちの『知識』を創る」ことを、はっきり意識しあい励まし合い、支え合う、そういう学問共同体を作ることが大事だと思います。

私は知識が個別にあるのではなく知識は浮遊していて、受け取る主体がどこを捕まえるかというのがそもそものモチベーションとか好奇心だと思う。
一見ばらばらな概念を組み合わせて新しい構想や新しい概念を生み出す能力であり、それを得た者がお互いに有機的に反応させながら自分の知としてしまっておく。


*フランクルたちは何の罪も犯していないのに、ある日突然ナチスに拉致(=営利/奴隷船-誘拐)され、一方的に(社会人生命の)生殺与奪の権を握られました。
まことに理不尽です。東北の人たちもまた、何の罪もないのにいきなり財産を奪われ、愛する人を奪われました。これもまったくの理不尽です。

(諸富祥彦『夜と霧―絶望の果てに光がある―』NHK出版、2013年。)

9 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:25:07.46 ID:Ls2dGtVFb
アメリカでは、大学生活の始めの期間を中学高校でインプットされた価値観をリセットする時間に充て、その初心にキャリアデザインの学び
(キャリアデザイン学)を修める。その期間は他の学問分野について「そもそもの学問とは何であり、どのような意味を持ち、人間にとってどのように有用なのか」
などを考察する時間が与えられる。そして、自分なりの考え方(法政経観(ファイナンス観)/社会歴史観(フマニタス観))をもつことが出来るようになる。

その行為は社会に出るにあたって極めて重要なものになる。今の日本人には欧米から輸入した学問について
何故その学問があるのか、何のためにあるのか、どのように使うべきなのかを理解しようとする姿勢が強く求められる。

私が一番大事だと思うのは(自己)評価基準(=視座,キャリア観)をどう高めていくか。自己(自他)評価
するための評価基準(規準)を高めていくという作業が知識を自分で組み立てていくことだと思っている。

10 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:25:47.01 ID:Ls2dGtVFb
私は東アジア=太平洋共同体の一員として「日本」と「日本人」という捉え方が大事だと思っています。
そういう中(文化相対主義の多文化社会(ピアグループ))で日本や日本人が生きていくためには、「生活様式としての文化」
の再評価が大事だと思います。日本人は、オリジナルと思われる温泉文化、刺身文化に加え、色々なものを雑多に飲み込んで
アレンジして、生活様式としての日本文化を作り世界標準にしてきた。茶道も宋代までの宮廷茶の様式を基に創造されたもの。

―「生き方」というのは美意識でしょうか? 「いき」とか「伊達」とか「武士道」とか? それをさらに、
素数みたいな構成要素(個別科学:ディシプリン)に分解する。キャリアデザイン学の素数(下位分野)は
何かを議論する必要があります。―生き方を考える学は大切です。キャリアデザイン学とはメタ的に生きる
ことを考える学部なのだと思います。つまり生き方について自分を中心において生き方を考えるということです。

―言語学ではメタ、つまり内包を絞り込むことは「言語とは何か」を考えることです。そこに外延(隣接/関連分野)として
音声学とか文法論、語彙論など個別の学が含まれ、そこで実証が極めて必要です。―そもそも言語って何かを言語的に考える。
それがメタ的にということです。したがって、キャリアデザインって何かということをキャリアデザイン的に考えるということになります。

11 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:26:47.26 ID:Ls2dGtVFb
【虫の目】
我々日本人は集団という輪っかに囲われている。個は、家族であり友人仲間であり会社であり地域社会であるなど
複数の大小混ぜた輪っかの中心に居ると云われる。それを自然とし、自立せずとも、そこで安全安心が確保できた。

個は孤立化の反動で圧倒的に強い外の世界との絆を服従(submission)という形で取り戻し安全を求めようとする。フロムは
それが個として、ナチズム(集団ナルシシズム)に走らせたとする。強がるが故に全体主義に逃げ込んでしまったと説明している。

「日本人が自分に関心を持ち始めたのは最近のことである。ひと昔前までは多くの若者は天下国家を論じた。男性は会社のために
女性は子供のために我が身を顧みない生き方をした。その時代に自分探しを行うのは、社会から落ち零れた人(≒水面下の人獣)が
大半であった。現在自分探しが流行しているのは西洋近代に確立した個人主義が浸透してきていると認めざるを得ない。」(河合隼雄)

12 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:27:18.58 ID:Ls2dGtVFb
日本は「法の支配」による国ではない。権力を得たものが支配の手段として法を使っているように映る。
世間的に疎ましくなった人を正面突破ではなくて通常適用されないような法律の条項を持ち出して別件逮捕を行ったりする。

日本は村八分を典型とする排除の論理に背後で支配されていたり、表向き穏便に事を運びながら、曖昧な態度を取り続け、
いざと言う時になると、突如、集団でNOを突きつけるような文化(民族文化、エスニシティ)を長い歴史の中で醸成している。
レスポンス(応答する)をしないで放置("エクストリーム無視")する(という行為をレスポンスする)。レスポンシビリティ
((応答)責任)という言葉を生み出さなかった(歴史的無意識/財政的無意識的)理由も此処にある。

日本では、権利は与えられたもので、その侵害があればお上が守ってくれるという意識が強いが、アングロサクソンは権利とは夫々の人間が
主張し実現すべきものと観念している。自力救済(競争の機会均等)が原則として認められ、正当防衛が日本より広い範囲で認められるのである。
これは文化的背景として顕著な相違点である。‐中略‐自分をしっかり持ち主張しないといけない。アングロサクソン社会では個の自律は必然である。

13 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:27:50.96 ID:Ls2dGtVFb
日本異質論者の代表格のひとりが、自由主義と環境の最先進国オランダに生まれたジャーナリスト、
カレル・ヴァン・ウォルフレンである。彼は『人間を幸福にしない日本というシステム』を著し、日本社会に潜む
"偽りのリアリティやシカタガナイの政治文化、序列システム"* が非公式の権力構造となっていることなどについて鋭く切り込んだ。

*(資本家を頂点(御上)とする円錐ラダーカースト(搾取装置ピラミッド)の威信、秩序、調和
 (―要するに塗装仕掛けのパチの神話物語))(=ハンザ同盟)を守る為に作られた、社会のしわ寄せ(トラブルメーカー)。

そして其処には、市民の存在(市民教育)はなく、国民は臣民(臣民教育)として巧妙に手懐けられ(=飼い殺され)、精緻な官僚に因る
独裁(学閥政治組織(=学歴身分組織/学歴人種差別組織))国家が造り上げられていると断じている。その原因は国民の根本的な
無関心と根本的な無能力(東洋人的静穏・べしみ的無視、学習性無力感=作られた(人生の)嘘、サクラ、カマセ)にあると手厳しい。

「法は社会の骨格ではなくて、全体の動きを不当に乱す者に対する特殊な細部の手当としての適用に
とどまり、専門家による技術的なものとされ、全体社会を規制する原則となりにくいものとなった。」

14 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:29:41.80 ID:Ls2dGtVFb
日本人は日本的集団主義に陥り易く、その場合、社会の恒常性の砦となるべき善き伝統や慣習をなぎ倒し、
そして法をも歪め、宗教をも封じ込め合理性を押しつぶす。マスコミも個としての主張は少なく、集団主義に取り込まれ
顔色をうかがい、場の空気をこぞって文字にするきらいがある。(中二病、言語帝国主義 = 演説垂れ出したがる病、過剰な自分語り)

15 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:30:26.59 ID:Ls2dGtVFb
丸山(評論家)は、日本人は、権力や権威に従順で、頂点に仰ぐ支配者たるもの(資本家=経営者)との関係性や距離に応じて
個人の序列が決まり、御国(会社)の為とか天皇(司祭(バラモン)/キリスト)万歳という表現に見られるように、個の意志ではなく
支配者の意をそのまま受けて行動している(超国家主義者=ナショナリスト、エスノセントリスト、集団ナルシスト)と指摘した。

そして、日本人を「自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心の内に持たずして、より上級の老(究極的価値に近い者)
の存在によって規定されている存在」と喝破した。日本人の中に自立的意識は認識できなかったのである。(=犬的忠義の(劇場)世界)

16 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:31:04.85 ID:Ls2dGtVFb
日本人は、歴史に繰り返される圧倒的な優れた文化圏に遭遇する。その度に同質性を保ちつつ生きながらえるために、ひれ伏し前面屈服することを
強いられた。大きいモノに巻かれる。巨大な文明には決して歯向かわない(唯一の例外が大東亜戦争)。卑屈で、土下座を厭わない日本人像がそこにある。

幸か不幸か、日本人は、巨大文明に接しながらも巧みに恭順の意を表すことにより、地勢的に民族大移動が起こるような、
他民族と混ざり合うような、あるいは民族が全滅するようなクライシス(ホロコースト、ジェノサイド)に巻き込まれなかった。

17 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:31:40.13 ID:Ls2dGtVFb
日本は、父性(≒資本主義)原理の欧米人のように個としての意見を明確に最初から表明し交渉するような、ビジネスライク
(=競争の機会均等)な文化風土にはない。欧米的に競争とは、フェアに競い合い、高めあうことであり、争い蹴落とす
ことを目的としているとは必ずしもいえない。切磋琢磨や信賞必罰という言葉の方が適切かも知れない。人間の尊厳を重視し、
個性という能力を重視する欧米とは異なるようだ。

また、母性社会(封建的共産主義社会)では、成員である個が「個」の重要性を認識すると、あるいは「個性」を感じ始めると
集団に問題が生じる。個性とは他と異なるということであるから、「全員平等」あるいは「平等」の原則を破ることになり、
「出る杭は打たれる」や「足を引っ張る」という世界が現出するのである。これからの時代が求める個性という観点からすれば、
逆行し、まったく魅力のない人間を生み出すことになる。

欧米的にいえば、無意味な、差をつけることだけが目的の競争が行われることになる。教育ママがそれに拍車をかける。
我が子を成績の「よい子」にすることだけにエネルギーが向けられ、史実・従順を旨とする、母性社会(封建的共産主義社会)
のなかで摩擦を起こさず「平和」に生きる子が生み出される。子どもにとって貴重な時間帯である幼少・青年期に日本の教育が
マイナスに作用しかねない。教育の本来の目的である、尊厳ある人間として人間同士が尊敬し合い、その中で「生きる」ために
必要な知恵を獲得すること、すなわちリベラル・エデュケーションの精神(デザイン思考力、MBA思考力、総合政策(企画)力、
資源(ルートチャネル/チャネル)整備能力、マーケッタビリティ…etc)が欠落しているのである。

18 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 16:32:27.71 ID:Ls2dGtVFb
収容所のユダヤの人びとは、皆人間以下の酷い扱いを受けました。その所為で、ある人は抜け殻
のようになり、ある人は生きるために狡猾になり、中には敵に魂を売って二重スパイになる人も居ました。

しかしその一方で、嘆き悲しみながらも他人への思いやりを忘れず、人間らしい心を失わない人も居ました。同じ状況の中にあっても、
染まる人間と染まらない人間が居たのです。それを見てフランクルは、人間は外的条件の単純な変数ではないと確信しました。

フランクルは言います。”彼等(収容所の中でも天使のように振る舞えた人)は、人が強制収容所の人間から一切を取り得るかも知れないが、
しかしたった一つのもの、即ち与えられた事態にある態度を取る人間の最後の自由、を取ることは出来ないということの証明力を持っているのである。”

圧倒的優位に立っているナチスは、強権を発動し、被収容所から財産どころか命も奪うことが出来ました。
しかし、与えられた状況に対して、どのような態度を取るかという精神的態度の自由だけは奪い取ることが出来なかったのです。

強制収容所の中でどれほど「創造的価値」実現の機会が失われ、「体験価値」実現が奪い取られても、
尚「態度価値」を実現する機会だけは失われることが無かったのです。

(諸富祥彦『 夜と霧 ―絶望の果てに光がある― 』NHK出版、2013年。)

19 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:31:41.72 ID:Ls2dGtVFb
【魚の目】
"One for all, all for one"(国民は玉座の中にあり 玉座は国民の中にある(『ナポレオン言行録』))という言葉がある。
みんなが自分を支えてくれていて自分もみんなのために存在する。我々は生まれたときから自然の恵みを受け同時に自然に対する
責務があるのである。それを日々の生活のなかで実践すること、それがスチュワードシップ((自己)経営管理-責任)という行動原理である。

スチュワードシップなどという難しいことばを持ち出すまでもなく、「勿体無い」「罰が当たる」という文化を継承して来た。
昨今、地球環境問題で頻繁に用いられる「グローバルに考えローカルに行動する(think globally,act locally)」を実践した来た民である。

日本は島国的閉鎖性を払拭出来ない。異文化を受け入れ何とかうまくやって行こうとする意志が大幅に減退し、むしろ武士道美学や
ナショナリズム(集団ナルシシズム)を賛美し内に籠って居るようにも見える。自立意識なくもたれ合う烏合の衆で居る限り、未来はみえない。

20 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:32:28.03 ID:Ls2dGtVFb
私有財産制にいち早く柔軟に適応した貴族・ブルジョワ階級は、共和政治の理想郷づくりに成功した。
イギリスでは清教徒革命に続いた名誉革命で絶対王政を打ち破り国会を主体とする立憲君主制と呼ばれる共和的政治体制を築く。
「国王は君臨すれども統治せず(The Kings reigns, but does not govern)」の原則を打ち立てるのである。

このとき旧来の伝統的共同体から脱却できなかった人々にとっては暗黒郷に止まらざるを得なかった。
彼(女)らにとって其処からの唯一解放される方法として新天地(都会)への冒険の旅立ちがあった。
彼(女)らは自由と民主主義を掲げて宗教的迫害と貧しさから新大陸に向かう。さながら現代のボートピープル(漁民,人魚)である。

何れにせよ、欧州近代の歴史は、国家の形態でいうと、「資本主義国家」(私有財産制、自由、市場経済)、「社会主義国家」
(共有、平等、計画経済)、「全体主義国家」(個人の平等を標榜しつつ実は自由を拘束し国家の利益を優先する専制国家)
の三つを誕生させた。(補足豆知識. 全体主義 = 封建的社会(共産)主義 = 資本主義 (順不同可) )

21 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:34:02.37 ID:Ls2dGtVFb
残念ながら、我々は、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し、「言必信、行必果」なものを純粋な立派な人間、対象を相対化
するものを不純な人間と見る。そして、純粋と規定された人間を絶対化して称揚し、不純と規定された人間を反対の意味で絶対化する。

(ex.)―こんな心理実験があります。実験者は学生たちに『電気ショックで苦しんでいる人』の映像を見せました。そして学生をABCに分けて、
A「実際には電気ショックは流れておらず『演技で苦しんでいる』と説明」、B「電気ショックを受ける代わりに『30ドルの報酬を貰っている』と説明」、
C「『何の理由もなく電気ショックを受けている』と説明」としたのです。さてこの時、学生たちの印象はどうなったと思いますか?

(―う、うーん…)

実はC「理由なく電気ショックを受けている」とされた人は、一般的な平均値よりも「(魅力的じゃない)」と判断されたのです。

(―ええっ!?)

しかし、A「演技」B「おカネのために電気ショックを受けている」という人たちは、一般的な平均値よりも「(魅力的…!)」と判断されたのです。

(―えええっ!?) (―ど、どうしてですか!?)

人間は誰でも「(安全で居たい…!)」という欲求があります。そのため、「普通の人が何の理由もなく電気ショックという不幸に遭っている」
と認めてしまったら、「(自分も同じように理由なく不幸があるのでは…?)」ということになってしまいます。それ故に「(この人にはこれだけの
不幸を受ける何らかの理由が落ち度があるんだ…!) → (駄目な人なんだ…!)」と思ってしまうわけです。

(―踏んだり蹴ったり!)

逆に『演技』や『おカネのため』という場合は「(積極的に苦しみと戦っているんだ…!)」と思われるため印象が良くなります。


(ゆうきゆう・ソウ『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』少年画報社(株)、2014年。)

22 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:34:52.45 ID:Ls2dGtVFb
一方で山本は明治時代までの日本人には水を差すという知恵があったと次のように指摘する。「空気の支配」に
全く無抵抗だったわけではない。「水を差す」という方法を、民族の知恵として、我々は知っていた。しかし、
この「水」は伝統的な日本的儒教の体系内における考え方に対しては有効なのだが、擬似欧米的な「論理」には無力であった。

日本はなお近代の(科学)精神さえ消化してないのではなかろうか。新しい時代(国際組織社会)への準備が出来て居ない
のではないかという点である。司馬遼太郎曰く「農奴的存在(内弁慶-家父長(殿方)妄想)から我々はなお脱却できない」のである。

―「国の指導的立場にある御上は、弥生式の農耕意識から解放されず、実社会に対する感性が鈍く(アニメ/ロマン頭)、
貨幣経済・商品経済論理が劣後(蔑視)されるため、総じて合理主義が育たない風土を醸成している。」(司馬遼太郎)

―「弥生時代の純農地帯から来た高等文官では、貨幣経済を理解できないから合理主義も生まれない。
彼ら(=右翼(右派))は異常な愛国心で出世する。彼ら(=右翼(右派))が大東亜戦争を起こした。」(司馬遼太郎)

貨幣経済を生み出した大阪商人や足利義満、商品経済に理解を示した側用人=田沼意次など、
合理性を理解できる人たちは居た。しかし、日本社会全体を覆うイデオロギー("タテマエ"としての米本位制)は、
情から離れる合理性には冷ややかで、どちらかと云うと彼らは蔑視され賤民や悪人として歴史の裏舞台に名を止めることになる。

23 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:35:30.71 ID:Ls2dGtVFb
「責任という言葉があるが、責任とはレスポンドすることである。問いに対してまともに答えることである。
しかし、権威と圧力が支配している世の中で、まともに答えることは圧力に服することに繋がって行く。
昔の征服された神々(=人罪、社会のトラブルメーカー、穢多非人、不可触賤民)は、一切新しい神の威力に
取り合わぬことにした。それがべしみの起源である。」と日本人「べしみ」(べしみ・もどき)論を説く。(加藤典洋)

昨今もてはやされる、コミュニケーション、アサーション、ファシリテーションなどの個を表に出し、人との関係性を
向上させるスキルや、ひたすら相手に話させることを主眼に置いたカウンセリングやコーチングなどの導入も、日本人の心の
底に流れるべしみ文化(パッシング/否認/拒絶/極道/覇道/エクストリーム無視)の前では、小手先のまやかしに過ぎないことになる。

べしみ文化を内包する日本の集団主義も根深いものがある。我々は、長い歴史の中で
摺り込まれたニヒリズム(東洋人的静穏)のDNAを変えられるだろうか。加藤(典洋)は我々に問いかけている。

24 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:36:12.27 ID:Ls2dGtVFb
日本人は欧米の近代を見て驚愕した。目が覚めた。しかし、今もなお
日本人は義理人情や「理屈をいうな、理屈を」の世界で生きてきたように思う。

キャリアデザインとは、自己覚醒を繰り返し人間としてのスキルや技能を磨き
変身しつつ、そして人生の折々に自分にふさわしい”キャリアという船(=キャリアカー)”
を見つけ自分の判断で乗り込み、そして機会を捉えて船を乗り換える力を身に着けることではなかろうか。

25 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:37:04.02 ID:Ls2dGtVFb
人間が極限状態に置かれた時に表れる精神の変化としてフランクルが最も注目したのは、多くの人が何を見ても、何に触れても、
何も感じない「無感動」「無感覚」「無関心」(パッシング/否認/拒絶/エクストリーム無視)状態になっていたことでした。

収容所での余りにも悲惨で受け入れ難い状況を生き抜いて行く為に、一々驚かない、嘆かない、怒らない、悲しまない
という防衛策を人々は身に着けて行ったのです。出来るだけ心の揺れを少なくして、失望したり傷ついたりしないようにする。
それが収容所を生き抜く為の最良の方法であることを理解していたのです。

また、収容所に居ると、生命維持という原始的な関心以外には一切心を動かさないようになって行きます。
フランクルは収容所では殆どの人が「文化的冬眠」状態に陥っていた、と言っています。

フランクルは、自己実現を追求する現代人の風潮に疑問を呈し、それは「ブーメラン」のようなものではないかと言いました。
ブーメランは、目標とするものにヒットしなかった時に、自分のところに戻って来ます。これに準(なぞら)えて言えば、
自己実現を求め続けている人は、永遠に目標が叶えられない状態にあって、ブーメランを飛ばしては受け、飛ばしては受け
―し続けている様なものだと考えたのです。

(諸富祥彦『 夜と霧 ―絶望の果てに光がある― 』NHK出版、2013年。)

26 :社会史学(歴史社会学)から見抜く(現代)社内-人間関係論:2015/11/30(月) 17:42:12.67 ID:Ls2dGtVFb
(小門 裕幸 『自己変革・社会変革―文化を創り制度を変える―』泉文堂、2012年)より。

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