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 ─スラヴォイ・ジジェク─

267 :考える名無しさん:2014/04/21(月) 15:19:38.68 0.net
ヘンリー・アリソンがストローソンによるカント批判を要約しながら述べているように、この同一視[[=純粋統覚としての”私”と考えるモノとしての”私”との矛盾をはらんだ同一視]]がなされた場合、
現象的な私(経験的主体)は、同時に、叡智的主体へと現象する何かとして(経験の対象の装いのもと)捉えられるとともに、叡智的主体の現象としても捉えられるとこになる。
つまり、構成された現実性の一部として現象するすべてのものは、超越論的主体(ここでは叡智的主体と同一のものととらえられている)へと現象する。
他方で経験的主体は、すべての直観に与えられた現実性の例に漏れず何か現実的な実体、この場合では、英知的主体の現象界への現れである。
この二重化は、しかし、無意味な、自分自身を消し去るようなショートを起こしているのである。もしも叡智的主体が自分自身へと現象するのだとしたら、現れを叡智的なものから隔てる距離はなくなってしまう。
何ものかを現象として認識できる存在agencyは、それ自体現象ではありえない。

ジジェク著、坂井・田崎訳、文庫版『否定的なもののもとへの滞留』35頁より(改行および[[]]内は引用者註)
手打ちなので手打ちなのでミスしてるかも


これの前半部分がこんがらがる

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