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熊野純彦

1 :考える名無しさん:2013/09/16(月) 18:02:19.89 0.net
『存在と時間』とカント三批判書の翻訳をしながら、
『資本論』の読解本を出すとは驚異的な仕事量ですね。

862 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 20:24:03.73 0.net
読者氏は無茶であろうと思う。思うが力及ばずそれ以上何も出来ない。

863 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 20:46:42.12 0.net
でもここにちゃんだけど。

864 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 20:56:26.82 0.net
>>861-862
熊野氏を神格化しちゃったんだね。

それだと、哲学なんかやる意味ないんじゃない?

865 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:00:19.10 0.net
神格化してません。

866 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:08:32.36 0.net
>>865
熊野氏の間違いをいくつか指摘してごらん。

867 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:12:58.65 0.net
熊野は通説を踏まえた固有のハイデガー理解をもっているだろうと思っただけです。
これは単なる臆断、信仰、神格化と言えるかもしれない。

ともかく、ここから導かれて読者氏の熊野をレヴィナスと等値して、それらを共に神学として批判し去る批判を見たときに、それは違うだろうと思った。
しかしそれもまた不十分。

868 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:15:27.46 0.net
熊野エライ=俺エライのかわいいガール大好きおじさんがいなけりゃ
熊野氏もwebでこんな軽く語られなかったろうに
不憫でしかたない

869 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:16:32.04 0.net
惰性で首を突っ込みすぎた。今度は主体的に介入できるようになりたい。

誰も批判できないんだから、今は読者氏が正しいとせざるを得ない。
自分も十分な批判は出来ないので消えます。

870 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:19:18.73 0.net
>>867
>読者氏の熊野をレヴィナスと等値して、それらを共に神学として批判し去る批判

読者氏が、熊野をレヴィナスと等値している、という意味で書いたんなら、読者氏のレスの主旨を取り違えてるよ。

871 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:25:55.76 0.net
読者氏は、ハイデガーは他者の死を「存在と時間」で扱っていたとする読者氏。
しかしそれは存在的な次元においての話。
死は存在論の次元に属する、その次元における他者の死の扱いは「存在と時間」には恐らくないだろう。
存在論の書である「存在と時間」が、他者の死の存在論的な考察を欠いている。ここは足りないのではないかと思う。

872 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:27:09.57 0.net
臆断。これには何の意味もない。
惰性で臆断を垂れ流してしまった。
それを避けるためにも原典を読んで理解したい。

873 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:36:05.94 0.net
本当は臆断すらない。

874 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:38:46.72 0.net
ただ、本当にハイデガーの死の概念はそんなに拡いのか。

875 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:41:13.13 0.net
そして無、死はあるのか。

876 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:46:12.21 0.net
自己の死から世界を構築するハイデガー。
そこにおいて他者の死は二義的。

877 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 21:53:02.98 0.net
○二次的

自重する。

878 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 22:04:15.68 0.net
ps
自己の死からもたらされる能動性には疑問を付せられるべきと思う。

879 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 22:06:00.23 0.net
「存在と時間」には、有としての他者の死からもらたされる受動的能動性の契機が、存在論的に考察されているか。
引用文からすれば、存在的かつアイロニカルに触れられているだけのように見える。

880 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 22:08:24.72 0.net
《いかなるひとも他者から彼の死を取り除いてやることはできない
のである。誰かが「他者の代わりに死んでやる」ことなら、たしかに
できはする。けれどもこのことは、つねに、「或る特定の事柄において
」他者の代わりに犠牲になってやることにほかならない。》

自己の死からもたらされる、主体的能動性をもって他者の死と存在的に関わる事だけが可能なのだと言われてはいないか。

881 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 22:10:40.68 0.net
自己の死によって先立たれる主体性と、その後に存在的に見出される他者。
それに対する、他者の死をも含む、痛み-有としての包括的な死によってもたらされる、受動的主体性によって存在論的に見出される他者。

882 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 22:17:32.43 0.net
本当にハイデガーの死の概念はそんなに拡いのか。

883 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 22:20:33.12 0.net
自己の死は経験できないが、他者の死は経験できる。

884 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 23:19:12.21 0.net
現存在は、他の存在者の死からの照返しによってしか自らも死すべき存在者であることを知るこどができない。

885 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 23:23:19.23 0.net
痛みが自分の痛みであることを知るのは、他人の痛みを自分が感じないことによってでしかない。

886 :考える名無しさん:2014/09/20(土) 23:26:14.05 0.net
レヴィナスの他者論はそもそもハイデガーの「現存在」の概念を全く理解していない。

887 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 00:03:14.09 0.net
痛みが自分の痛みであることを知るのは、他人が自分の痛みを感じないことによる、
というのが俗な理解の仕方だ。だが、その理屈で言うなら、他人が自分の痛みを
感じているか否かは判断する術がない。他人の痛みを自分が感じないことが、
自分の痛みを他人が感じないことと同じであると了解するからこそ、痛みは
他人の痛みではなく、自分の痛みとなるのだ。

888 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 00:13:27.05 0.net
シュミット、デリダ-サール論争も読まないと

889 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 00:18:34.81 0.net
忘れないようにチラ裏にでも書いとけ

890 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 00:19:27.59 0.net
何でデリダに至るまでコミュニケーションの不可能性について考えられてこなかったのかな

891 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 00:24:14.93 0.net
>>890
>実際の実存的な分かち合い[Mitteilung=伝達]によってはじめて、
>ある現存在が他の現存在と一つの世界を共有する可能性が構成されるわけではありません。
(現象学の根本問題、p.477)

892 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 05:08:57.52 0.net
>>888
熊野先生はそんなことやってない
出直してきな

893 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 09:44:15.25 0.net
現存在にとって、他の現存在の死とそれ以外の存在者の崩壊はどう区別されるのか

894 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 09:47:54.30 0.net
それから、現存在は挫折した時、もしくは不自由、また死以外の不可能性をどう捉えるのか

895 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 09:49:36.54 0.net
自己の非本来性に気付いた後に、現存在としての本来性において実存に関わろうとした時、その可能性が不本意なものしか残されていないとしたら、どうするのか

896 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 09:50:36.71 0.net
現存在の本来的な不本意さをハイデガーはどう扱うのか

897 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 09:53:37.25 0.net
世界内存在としての現存在が、世界において親しく住まえないとしたら

898 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 09:54:11.06 0.net
世界とは

899 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 10:01:05.75 0.net
>>893
それについては、ハイデガーが「存在と時間」で触れてたな。

900 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 10:07:22.46 0.net
人生論的に読みすぎか
学ってなんだ、それは人生論とどう区別されるべきか

901 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 10:37:20.55 0.net
お、丁度学問論が来た
一部、一編、一章、十節

902 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 10:41:15.26 0.net
>>829->>832
 読んだけどもこれで>>832最終節の

>この後も興味深い内容が続くが、
>以上で >>760 の読解・要約すなわち

 > 「人間が利己的にか利他的にか関わらせ得る制約」「人間が他人のために
 >犠牲になる」ことと「人間が自分自身のために実存する」ことは両立する。

>がいかに不正確であるかを示すには十分だろう。

 が言えるというのは誤りでしょう。わざわざ原文対照で訳してくれて
御苦労さまなんだけど、あなたの長い原文対照は創文社版全集9巻『道標』
194頁、クロスターマン版Band 9『Wegmarken』157頁での鍵となる文

 現有はそれ自身のために実存する

 原文:Das Dasein existiert umwillen seiner

 に表されている内容を細かく説明してくれた。それだけのことなので、
それだけで私の言うことが反駁されて行く訳ではない。貴方が
よく引用してくれているように、この命題とは、まさに私の概念でいう
有の振幅をハイデッガー自身が細かく説明している部分にすぎない。

903 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 10:43:31.31 0.net
903つづき

 あえて貴方の言い方で言いなおせば<人間が「それ自身」を「利己
的」か「利他的」にかどちらかの仕方で関わり合わせ得るということ
を可能にする>有的な態度とは有論的にいう<現有はそれ自身のため
に実存する>の具体性であり後者に包括されている。包括されている、というところを
貴方は長く原文対照で説明してくれた。貴方がやってくれたのはその
こと である。

 たしかに「現有」とは有論的な概念、「人間」は有的、という違いは
あるけども、そこで立論そのものを誤りだとする大きな誤りはない。「有る
sein」の場所・時間 Da こそが人間だという意味でなら、そう大きな
違いはない。

 貴方のへは最後の反論以外はおおむね同意でいい。ただ
あれは反論にはなっていない。ただ細かく具体的にやってみせた、と
いう だけですね。反論だと思っているならそれもまた問題で読みがお
かしい ということになる。

 あえて言うなら、原文対照するほどの話ではない。しても出てくる
結論は 変わる訳ではない。熊野氏の誤りも変わらない訳である。

904 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 10:46:11.65 0.net
>>900
検証可能性や反証可能性があることっすね

905 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 10:55:37.55 0.net
受動的主体性、言い換えれば責任概念はハイデガーの理論の中のどこにあるのかという話じゃないの?
それは現有論から導き出せるのかどうか。

906 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 11:01:25.51 0.net
現存在にとって他者の死ってなんなのよ。

907 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 11:02:05.86 0.net
それはどう包括されてるんだ?

908 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 11:06:23.13 0.net
>>904
なるほど。
フッサールも読んでみます。

909 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 11:15:17.46 0.net
ハイデガーとレヴィナスの、それぞれ対象的な死の概念を対比しているだけだよ。
ハイデガーは死を現存在自身に固有のものと見て、そこから専ら能動性のみを引き出す。
レヴィナスはそれに対して死の受動的な側面を改めて提起し、更に、他者の死のもたらすものを問う。

910 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 11:17:20.59 0.net
ハイデガーの死の捉え方が、取りこぼしたものがあるのではないか、そういう事ですよ。
ハイデガーの死の捉え方が、一面的であることは否定でき無いんじゃないかと思う。

911 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 11:26:19.31 0.net
ハイデガーの死の捉え方が一面的なのではないか、と問う事がどうしてハイデガーの無理解を証す事になるのか良く分からない。

912 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 11:33:57.79 0.net
動画で提起されてるのは、ハイデガーの死の捉え方の一面性と、それがもたらす、他者への応答の契機の欠如についての疑問だと思う。

913 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 12:06:03.88 0.net
「存在と時間」は特殊な感じがする。主体性を自明のものとしない。

914 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 12:08:13.45 0.net
本文の表現で言うと自我、主観。

915 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 12:11:49.70 0.net
主観を前提とする事を明確な方法意識に基づいて廃するという発想は面白いです。

916 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 12:41:48.60 0.net
>>886
そんなにハイデガーを持ち上げるなよ。
留学中の伊藤氏からもらった岡倉天心の『茶の本』を読んだ
直後『存在と時間』のペンが進んだんだよ。

917 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 13:57:31.85 0.net
>>916
その出典教えてくれよん
あと、鈴木大拙の説をこれがやりたかったことだといったという出典
こっちは孫引きは多いが根本的な典拠が分からないっす

918 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 14:44:32.25 0.net
てか、日本人がハイデガーの存在論を理解することが難しいとすれば、
それは西洋の哲学の伝統をよく知らないからというより、ハイデガーの
論じている存在の態様が日本人には当たり前すぎて何をわざわざ問題に
しようとしてるのか分りにくいからだろう。

919 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 14:50:47.92 0.net
「有論」とかキモいわ。普通に「存在論」と言えよ。
あと「ハイデッガー」じゃなくて「ハイデガー」な。
ただでさえ、ナチス関与で胡散臭く思われてるのに、
大政翼賛に加担した京都学派のイデオロギーが滲み出た党派的な訳語は要らん。

920 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 14:52:02.75 0.net
日本人が存在論を研究するのに、哲学や聖書の解釈を意図的にタルムードなどの
ユダヤ教の教義と関係づけようとしているレヴィナスの研究を通してやろう
とするのは、ユダヤ教文化を研究したいという動機があるのでなければ、とても
奇妙な話。哲学の営みは神学的な前提から自らをふりほどくことに努めてきた
のだから。東洋哲学を研究したいわけでもないのに、仏教講和を通して哲学を
研究するようなものだ。

921 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:05:29.89 0.net
ハイデガーは、人間の存在について問わないという点で、ギリシア的人間観と共にキリスト教的、神学的人間観を批判してる。
つまり、神学には存在論がないから駄目だと言ってる。

922 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:06:48.72 0.net
そうすると、存在論はなぜ必要なのかという事になる。
この必要が明らかになり、そのうえでそれに整合する限りならば、何をしても特に問題は発生しない。

923 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:08:15.22 0.net
ハイデガーにとって存在とは何か、その論点が必要だと思う。

924 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:10:19.64 0.net
科学的、神学的、哲学的、その他○○的に語っていていけないのは、存在論がかけている限りにおいてであるという事になる。
そういう意味では、存在論さえあれば、何をどう語ってもいいのではないか。

925 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:11:15.89 0.net
>>921
典拠示さないとなあ

926 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:11:51.06 0.net
×科学的、神学的、哲学的、その他○○的に語っていていけないのは、存在論がかけている限りにおいてであるという事になる。
○存在論を欠いて、科学的、神学的、哲学的、その他○○的に語るのがいけないのだ、それは天下り的になるから、という事だと思う。

927 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:18:00.81 0.net
>>925
「伝統的人間学にとって、重要な源泉である、ギリシア的定義と神学的手引きから暗示されるのは、
「人間」という存在者の本質規定をめぐって、その存在者の存在への問いが忘却されたままであり、
この存在はむしろ、その他の被造物が目の前に存在しているのと同じ意味で「自明」なものとして把握されていることである。」
『存在と時間』第一部 第一編 第一章 第十節

これは批判とは言えず、伝統的人間学や、近代の実証科学における存在論の欠如を指摘に留まるかもしれない。

928 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:20:47.49 0.net
その本質において、存在について問いつつ、それに関わり続ける存在者-現存在の特殊性が明らかになる。

929 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 22:27:41.48 0.net
>諸学科における存在論の欠如を示す事で、

930 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 23:01:17.99 0.net
>>927
>921の典拠にはならないじゃないの

931 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 23:07:20.92 0.net
>>930
>>921は勇み足に過ぎた。
確かにこの部分でハイデガーは、ギリシア的、キリスト教的人間観には存在への問いが忘却されている、とは言っているけども、
それが無いから駄目だ、とまでは言っていない。

932 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 23:21:24.92 0.net
ここで注目されても良いと思うのは、ここでキリスト教的人間観と共にギリシア的人間観も存在を考慮に入れず、現存在の分析論を不可能にするものとして、
前者と並べて解釈されている事。
つまり現存在分析を不可能にすると言う点において、キリスト教的人間観と、ギリシア的人間観は同等であるとされている。

933 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 23:27:15.05 0.net
だから宗教的なレヴィナス研究を批判するに当たってまず問題とされるべきは、それが現存在分析を不可能とするようなものであるか否か。

934 :考える名無しさん:2014/09/21(日) 23:40:15.74 0.net
熊野先生は宗教的崇拝対象デス!

935 :考える名無しさん:2014/09/22(月) 00:43:04.99 0.net
在特会について全然知らずに発言してしまった

936 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 00:31:19.73 0.net
そもそも『存在と時間』という訳がおかしい。存在は神を意味する。
人間は現存在だ。人間に時間はあるが、神に時間はない。
>>917
伊藤吉之助と言ったかな、今道友信の恩師がドイツ留学中、ハイデガーの
個人教授をすっぽかしたお詫びに『茶の本』のドイツ語訳をプレゼント
したんだ。

937 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 00:37:24.03 0.net
>>936
自分もそう読みたいんだけど、いいのかねえ?

938 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 08:10:31.30 0.net
熊野純彦先生はハイデガーの生まれ変わりだよ

939 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 10:38:39.33 0.net
家に在/不在であるのと、家に有る/無いのとでは、存在の様態が違う

940 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 10:42:39.35 0.net
>>939
 そこらへんは用法と文脈次第でしょ
 記号に一義的意味があると考えるのは間違いの元

941 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 10:43:33.53 0.net
>熊野純彦先生はハイデガーの生まれ変わりだよ

石黒ひでや北川東子の類と同類だろう

942 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 10:46:23.59 0.net
>記号に一義的意味があると考えるのは間違いの元

一義的意味に一義的意味があると考えるのが間違いの元でわ?

943 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 10:50:35.11 0.net
>>942
 そりゃこの場合は、唯一無二の意味、指示内容ということを指してるって流れからも、文からも分かると思うが

944 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 10:50:44.79 0.net
>人間は現存在だ。

これ、最近、亡くなった木田氏お得意の曲解だね。
現存在が人なのであって、神や動植物や無生物と区別される人間が現存在なのではない。

945 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 10:52:48.88 0.net
ハイデガーの「存在と時間」を神学の一種にしたい人がいるみたいね、このスレ

946 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:07:49.28 0.net
ハイデガー以前の哲学の成果をフルに踏まえて「存在と時間」を読めればもっと楽しく読める。
今は「存在と時間」をただ読んでるだけ。その読みがどんなものか、どうなるか、全く把握できない。

947 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:12:16.88 0.net
ハイデガーは哲学は異常な事を、異常に問う事だと言ってる。

948 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:13:57.87 0.net
つまり、存在を問わないと、存在者がカテゴリカルに、日常的に、規定されてしまい、異常な事を問えない。
異常な事を問わないので、その問いの意味についても、異常に問う事が出来ない。

949 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:15:06.56 0.net
普通の弁護士は、法律の意味を問わない、だから法律の意味を問うてしまう自分をも問わない。

950 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:17:38.96 0.net
現存在ではなく、存在を忘却した人間になる。

951 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:19:44.73 0.net
神学が何を意味するのか分からないが、存在を忘却する為に「存在と時間」を読むという事は可能だろうか。
神学的に「存在と時間」を読むという事は可能だろうか。

952 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:20:35.21 0.net
神学的な「存在と時間」の読みがどういう読みなのか興味がある。

953 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:21:45.71 0.net
レヴィナスのハイデガー読解は神学的であるという批判があったと思うが、そこについてご教示頂けるとありがたい。

954 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:40:34.13 0.net
上に挙げられた動画を見る限り、ハイデガーの死の概念の狭さを批判するレヴィナスこそが、より存在論に近いのではないかと思う。
人を現存在の位置に置くのは、単なる自己の死ではなく、他者の死。
他者の死こそが死だ。

955 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:44:21.98 0.net
唯一無二とは、天下統一の話で、自分以外の正統性は認めない、
自分以外の正統性を主張することは禁ずるって意味だよ。万世一系と同じ。
存在=神なら、存在という言葉が必要ないか、神という言葉が必要ないか
どちらかだな。どちらにしてもユダヤ・キリスト教の人格神ではない。

956 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:46:37.36 0.net
レヴィナスの専門家の内田樹氏によれば、レヴィナスの他者とはほんどんど
死者のことらしいんだけど、既に死んでる死者が死ぬってどういうこと?

957 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:47:21.07 0.net
死に先立って他者を前提としてしまう事は不適当ではないかとも言える。
その点に関して、動画で熊野はレヴィナスの議論を引きつつ、「世界は無ではありえないのではないか」という問いを提起する。

958 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:54:21.85 0.net
他者の死は、外部から非カテゴリカルに人間に到達する。

959 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:57:18.20 0.net
死を自己の死に限定するのは恐らく不適当だと思う。
死そのものを考えると、無になってしまい、呼び声とはならない。

960 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:58:13.86 0.net
とすると、自己のそれでも、単なる無でもない、他者の死こそがより包括的であると言えないか。

961 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 11:59:28.95 0.net
○他者の死のみが、具体的で、包括的

962 :考える名無しさん:2014/09/23(火) 12:00:47.10 0.net
他者の死は、神学的か、それとも存在論的か。

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