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悟りとあきらめって何が違うの?

1 ::2014/11/25(火) 16:54:19.20 0.net
フツーに疑問、すべてにおいてやる気ないのと一緒な気がする

2 :なんとなく思ったななしさん:2014/11/25(火) 17:15:00.66 0.net
 
 眠くなったら悟り   

 他の事始めたらあきらめ 
 
 

3 ::2014/11/25(火) 17:38:39.94 0.net
全てを穏やかに受け流すとか結局やる気ないか無関心なだけだと思う
それに悟りは思考の停止であってその点で諦めだと思う

4 :なんとなく思ったななしさん:2014/11/25(火) 17:53:05.44 0.net
 
 思考の先には GAMEがあるだけ
  

5 :考える名無しさん:2014/11/25(火) 20:12:28.29 0.net
頑張る
あきらめる
逃げる
望みをもつ
忘れる
やり遂げたい
死にたい
生きたい
なんとかなる
もうダメだ
まだまだいける

人間は誰でも、これら多数の矛盾した思いを同時に持っている。

「やりたいのにやりたくない。」
「死にたいのに死にたくない。」
こんなジレンマの中を当たり前のように生きている。
自分を納得させる言い訳も有り余るほど用意されている。

こんな矛盾の中で苦しいのは当たり前だ。
苦しみにも慣れっこで、麻痺しているほどだ。
悟りはこの苦しみからの離脱だ。

悟りは、これらのすべての思い、観念、記憶から自由になること。

これらの観念を自由に使い、自由に離れ、自由にくっつく。
これが自由自在。

あきらめるは「あきらめられなかった対象」から自由になることだ。
だが「あきらめる」と「自由」が結びつく人は少ないだろう。

6 :考える名無し:2014/11/25(火) 23:05:02.32 0.net
>>5
あきらめるって対象がありますよね

じゃぁ悟りって対象があるんですか?

たしかに、あきらめる…というか
その対象を欲している自分を
あきらめられた時には
その対象に執着?しなくなった自分はいますが、
それはあくまでもあきらめであり、
悟りとは何にむかいなにをみているのでしょうか?

『悟りは、これらのすべての思い、観念、記憶から自由になること。』

観念、記憶は自分ではなく
観念、記憶にしかすぎない
ということでしょうか?

そして『すべて』とは自分の持ち得るもの、自分の中で自分と認識しているもの、ということでしょうか?

まとまらない文章ですみません。

7 :考える名無しさん:2014/11/26(水) 00:05:33.44 0.net
>その対象を欲している自分を
「その対象を欲している思い」というべきなのに、自分と言ってしまっている。
思い、観念、記憶はあなたではない。

>観念、記憶は自分ではなく
>観念、記憶にしかすぎない
>ということでしょうか?

いいね。いいね。
「○○にしかすぎない」と言う事で自分から離す事ができる。

「すべて」は知ることの出来る対象すべてだ。
肉体も、思いも、感覚も当然含まれる。

肉体は観念じゃない。と反論するだろう。
夢がヒントだよ。
夢の中のあなたは何でできているだろうか?

まあ、思い、観念、記憶から自由になれば、自然とわかるようになる。

8 :考える名無しさん:2014/11/26(水) 01:02:47.93 0.net
人は、心が死んだとき、生きていけなくなる。 〜肉棒〜

9 :考える名無しさん:2014/11/26(水) 01:29:26.45 0.net
悟りは、真理を知っている。
あきらめは、真理を知らない。

10 :123:2014/11/26(水) 12:03:04.75 0.net
悟りは真理か。その真理の内容とは。
思い、観念、記憶、から自由になるか。
仏教では、それらが発生するところの、無明から解放されることである。
それは観念の連鎖であるが。
その観念の発生の根拠であるところの、肉体、物質から解放されることである。
それが無であることになる。
そして無とは存在であるのか観念であるのかと問うことになる。

11 :考える名無しさん:2014/11/26(水) 18:42:38.59 0.net
日本人は曖昧だから
悟りもあきらめも区別はつかない
間をとって、さとらめる

12 :考える名無しさん:2014/11/26(水) 19:22:36.12 0.net
>>10
とんでも発見。

13 :考える名無しさん:2014/11/26(水) 21:14:08.02 0.net
言葉を使っている限り、観念から脱することは出来ないと思うんだけどね

14 :考える名無しさん:2014/11/27(木) 21:56:54.11 0.net
>>13
ジャンケンのクーチョキパーの3つが答えなら、悟りなど不要である。

15 :考える名無しさん:2014/11/27(木) 22:34:26.49 ID:UmdBHWgb0
悟りとあきらめは同じと考えていい。ポイントは最終目標をどう評価するかということ。
一生懸命努力することは良いことだと考えればあきらめることは悪いということになる。
しかし、一生懸命努力することはむだなことで苦痛なだけだと考えればあきらめることは正しいということになる。

16 :考える名無しさん:2014/11/28(金) 04:20:11.55 0.net
>>14
凡人にはその3つの答えしか選べない。
悟りを望んでも3つの中から悟りを選ぶ。それが論理というもの。
>>13
言葉は論理ではない非論理も扱える。ただ言葉を理解する側はそれを
理解できないだけ。

17 :諦め:2014/11/28(金) 04:44:00.98 0.net
少なくとも仏教の悟りは解脱の所行であって、四諦・八正道の先にあるものである。
通常に考えてはアキラメという単語にたどり着くがそれは近似していても
アキラメではない。執着と理解と確信した思考から抜け出すことにある。

>悟りへの道「四諦・八正道」
>http://homepage2.nifty.com/shusse-kannon/budda/budda4.htm

>四聖諦
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%A6
>諦(たい)とは、仏教及びその他のインド系宗教において、真理・真実を意味する語。
おまえらが知っている諦めとは似て非なるものだ。

「無常観」を知ることで世界を再認識する過程で悟りを会得する。
生きたまま"仏の世界"(常世)での思考は物事への拘りを捨てて初めて
たどり着ける。これはアキラメともいえる。
精神世界の術には、論理や物理を基本とした科学思考で行う術である物事を
論理的に積み上げてたどり着く業ではない術がある、それは全てを失うことで
地獄に落ちることで得られる術の類である。
目標に目指すには登る道だが、それとは間逆に転げ落ちることでしか得られない
類も存在している。それは精神世界という形而上の仕組みが成す現世での術で
形而下で判断される機械的な術ではない。

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