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ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 22

131 :考える名無しさん:2022/02/27(日) 19:26:25.03 0.net
80年代の広告やメディアの軽佻浮薄な文化を今苦々しく振り返るインテリは多いわけだが、僕はまさにその渦中で育ったので、それへの批判もわかるが、それによって心身を形成されたという事実の方がはるかに大きい。80年代否定派と僕では価値観がまったく違う。僕は80年代的横断性をまさに「子供心」で受け止め、それを動力として生きてきた。実際そのときに子供だったのだから。

80年代にドゥルーズが持ち上げられた、逃走とかリゾームとか言われた、それは80年代だ、80年代ダメ、逃走とかリゾームとかダメ、ドゥルーズを読むなら80年代みたいに読んじゃダメ、というつながりなのだろう。結局、そういうことだったのだろう。

ドゥルーズを貶すのも祭り上げるのも僕にとっては違うのである。

僕のドゥルーズ読解は、そもそも心身があまりドゥルーズ的でないような人たちのヘンテコリンなドゥルーズに対する距離の取り方が周りにわさわさあるなかで、なんとかそれと付き合いながらひねり出す形になり、余計な負荷がかかっている。本来、自分にとってドゥルーズの考え方は自然だ。そこに戻る。

坂口恭平さんが『けものになること』で「おれはドゥルーズだ」と言ったのにはびっくりしたが──ドゥルーズ的であることと「ドゥルーズだ」というのは違うので、というのは「同一化」のように見えるわけで、それは違うよなーと正直思ったのだが——、これも彼にしばしば感じる同世代感覚のひとつかもしれない。

ドゥルーズの言っていることを容易にはわからないものとして捉え、それをわかろうとしない人も説得できるように書き直すような仕事というのはやる必要がないと思ってしまう。端的に言って。つまり同一性の論理の方に妥協してそっちの言葉で書き直すわけでしょう。しょうもねぇわ(栃木弁で)

ある対象の本質について本来はわかっていたのに、諸事情によってわかっていたということがわからなくなっていた、わからないようにさせられていた、ということがおそらくある。本当にこれまで、いろんな人に支えられてきたが、それと同時に、いろんな人に自分の直観を邪魔されてきたと思う、そのこともこの歳になって客観視できるようになった。

いつか、もう一度ドゥルーズの全体を捉える本を書くときが来るかもしれない。それはきっと、ひじょうにシンプルな本になるだろう。

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