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意識のハードプロブレムの答え15

1 :時計 :2021/12/20(月) 04:11:34.94 0.net
1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。

意識のハードプロブレムの答え14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637997170/

370 :時計 :2022/01/02(日) 16:15:22.35 0.net
>>369
写真という言葉が出てきましたが、
私は脳の働きを近似的に便宜的にカメラによる撮影のように考えています。
だから、この私のカメラとあの他者のカメラの異なりと
比喩的に表現することもできると思います。

371 :時計 :2022/01/02(日) 16:16:09.44 0.net
>>370
正:脳の感覚の働き
誤:脳の働き

372 :考える名無しさん:2022/01/02(日) 16:17:50.77 0.net
同窓会くらい行けんのか?

373 :時計 :2022/01/02(日) 16:19:56.18 0.net
>>371
また間違えました。:)
正:脳の視覚の働き
誤:脳の感覚の働き

374 :考える名無しさん:2022/01/02(日) 17:55:41.53 0.net
>この私のカメラとあの他者のカメラの異なり

カメラだったら、それが私のものか、他人のものかは、単に所有権の違いでは?
例えば、同じ監視カメラの映像を見ていても、その監視カメラの所有権を
譲り渡したら、権利譲渡前は、自分のカメラで映像を見ていたのに、
権利譲渡後は、他人のカメラで映像を見ていることになるよね?

375 :時計 :2022/01/02(日) 18:02:08.88 0.net
>>374
所有権と異なることの1つは、
他者に譲り渡すことができないことだと思います。

376 :「をなり神」が「世界」である:2022/01/03(月) 08:46:59.32 0.net
https://ja.wikisource.org/伝道の書(口語訳)
>伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。

このような「をし(教)へ」に対して、
「よかろう、『空虚』/"void"を指し示す『を』の呼応関係/"correspondence"
の成立、『を・な(成)り神』/『意の成就』こそが現に世界としてあるのだ」
というのがニーチェ的な読みかえなのです。

ニーチェがそれを乗り越えるべきものとしたロマン主義としてであれ、やはり、
「『を』の呼応関係/"correspondence"」を表現しているのが、エマソンの
"prayers/the will of the Supreme Being"であると見ることができる。

> His prayers, in a certain sense, are like the will of the Supreme Being:

His word leaps forth to its effect at once,
He calls for things that are not, and they come.

His prayers are granted; all prayers are granted.
Unceasing endeavors always attend true prayers, and,
by the law of the Universe, unceasing endeavors do not fail of their end.<

― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.64

377 :時計 :2022/01/03(月) 08:57:05.82 0.net
>>376
何度言われても、私は「〜を」は対象を示すと思うが。:)

378 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 09:02:48.41 0.net
では、ここで"prayers"は、行為としてそれをすることが何を示すのですか?

379 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 09:06:59.19 0.net
>私は「〜を」は対象を示すと思うが

そもそも、私は、「〜を」が対象を示さないなどと主張したことは一度も
ありませんよ。むしろ、ハイデガー的な文脈で読むなら、「を」の呼応関係
の成立として、「目の前にある」/"vorhanden sein"ように「対象」として
現れている(ように見える)のが世界であると表現することもできる。

380 :時計 :2022/01/03(月) 09:34:10.82 0.net
>>378
英文の方ですよね。
存在しないがやって来るものを必要とするとありますが。

>>379
私は呼応関係は省略という文法的事項だと思います。
例として、「太郎!」等。

381 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 10:19:41.69 0.net
>例として、「太郎!」等。

「太郎!」と言挙げするのは、「〜は?」という問いかけでしょう。
さらに、「太郎」を呼んでいるのであれば、「〜は『を(居)』るか?」
ということになりますね。

382 :時計 :2022/01/03(月) 11:03:50.63 0.net
>>381
「〜だ」とか「〜よ}とか色々と考えられますね。

383 :時計 :2022/01/03(月) 11:04:36.73 0.net
>>382
「〜を」もあり得ます。

384 :時計 :2022/01/03(月) 11:05:53.82 0.net
>>383
助詞無しですから、さらに色々なケースが考えられると思います。

385 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 11:40:25.30 0.net
>「〜だ」とか

どうみても呼びかけではありませんね

386 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 11:50:04.35 0.net
>思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に(新古今和歌集巻第八『哀傷歌』)

「を(折)りたくしば(柴)」とは何でしょうね?

387 :時計 :2022/01/03(月) 12:56:43.25 0.net
>>385
「〜だ」の省略は、確かに呼び掛けではないケースかな。
「〜よ」の省略は、呼び掛けでは?

>>386
「折って焚いた柴」と、ウェブにありました。

388 :時計 :2022/01/03(月) 12:57:24.78 0.net
>>382
正:「〜よ」
誤:「〜よ}

389 :時計 :2022/01/03(月) 13:18:10.60 0.net
>>387
あと、「太郎!」は省略ではないという考えも正しいかもしれません。

390 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 14:19:37.80 0.net
「〜を」がどのようにして対象を示すのか、どのような機能的な求めに
応じて使われているのかに先立って、「対象を示す文法機能を担う助詞
として「〜を」が存在する」とする見方そのものが、「目の前にある」/
"vorhanden sein"ことの方を、「手頃にある」/"zuhanden sein"に
優先させる、つまり、物象化を呼応関係の成立に先立たせることに
なる存在論的な転倒なのですよ。

391 :時計 :2022/01/03(月) 14:45:18.91 0.net
>>390
どのようにして対象を示すのかに関しては、
一般的に対象を示すのが「〜を」だと考えています。

392 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 15:07:04.38 0.net
またまた訳の分からないことを

393 :時計 :2022/01/03(月) 15:15:48.78 0.net
>>392
そうですか…… 疑問が一般的過ぎて答えようがありませんが。:)

394 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 16:37:59.88 0.net
アイデンティティが維持されとらんなw
消化されないものでも食べとるのかw

395 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 17:48:52.54 0.net
「〜を」でなにか哲学的な事を言っているんだろうけど、正直意味わからないな

396 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 19:04:52.28 0.net
https://manyoshu-japan.com/10306/
第13巻 3272番

うちはへて 思ひし小野は 遠からぬ
その里人の 標結ふと 聞きてし日より
立てらくの たづきも知らず 居らくの 奥処も知らず にきびにし
我が家すらを 草枕 旅寝のごとく 思ふそら
苦しきものを 嘆くそら 過ぐしえぬものを
天雲の ゆくらゆくらに 葦垣の 思ひ乱れて
乱れ麻の をけをなみと 我が恋ふる
千重の一重も 人知れず もとなや恋ひむ 息の緒にして

397 :時計 :2022/01/03(月) 19:10:31.90 0.net
>>376,395
ニーチェ的読みかえは、「よかろう」だとか、
何で教えてもらっているのに偉そうなの、って感じ。:)

まあ、冗談はさておき、
「言う」の助詞は「を」ではなくて「と」ではないかな。
仮に「を」だとして、そして、
「をなり神」が現に世界にあるとして、何なのか。
教えてもらって、意が成就して、良かったんじゃないかな。
あと、文章がよく解らない理由は、
受動と能動がややこしいことにあると思う。

398 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 19:43:39.63 0.net
またまたご冗談を

399 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 19:46:01.26 0.net
ところで、「言え」というのは命令ですよね、ふつう
では、「バカを言え!」というのは命令なのでしょうか?w

400 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 22:49:00.63 0.net
「馬鹿も休み休み言え!」とう命令ですよw

401 :考える名無しさん:2022/01/03(月) 23:16:12.36 0.net
では、「嘘を言え!」はどうなのですか?w

402 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 00:36:54.45 0.net
いつまでも嘘を言えという命令w

403 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 01:47:10.59 0.net
反出生主義思想とは、一種の【暴力装置】である
ということもまた同時に理解しないといけないね2022年

404 :時計 :2022/01/04(火) 03:46:31.44 0.net
>>398
またまたはそちらこそ。:)

>>399
弟子たる者、師の言ったことの中から、大切なことを
自ら探すのではないかな。
プラトン然り、儒学然り。

>>399-401
否定の「いえ」と呼応しているのかもね。

405 :時計 :2022/01/04(火) 03:51:43.18 0.net
>>403
自由だと思うが。
私は将来的には国家が出生の管理を担うべきだと思うけど。

406 :時計 :2022/01/04(火) 03:57:21.97 0.net
>>397
「と」だと「となり」で平和的でいいんじゃない。

407 :時計 :2022/01/04(火) 04:23:48.75 0.net
>>404
正:>>400-402
誤:>>399-401

408 :時計 :2022/01/04(火) 04:25:13.32 0.net
>>407
いや、違った。:)
正:>>399-402
誤:>>400-402
なんかややこしいね。

409 :時計 :2022/01/04(火) 04:26:36.92 0.net
>>406
師と弟子の関係は「となり」である。

410 :時計 :2022/01/04(火) 04:27:07.54 0.net
>>409
あるいはそれを超えて、人々の関係は。

411 :時計 :2022/01/04(火) 05:47:17.52 0.net
>>409-410
これこそ冗談か。:)

412 :ディオニュソス的ペシミズムとは:2022/01/04(火) 07:51:05.13 0.net
「男(を)の神(かみ)」とは、その本来性において「『〜を』の神(かみ)」
であり、物象化が、「『〜を(の呼応関係)』の実現」を「»Das Man«の現実」
に変えるのである。言い換えるなら、「目の前にある」/»vorhanden sein«
という在り方で表れているように見える「現実」が既に、「〜を(の呼応関係」
が実現されていることの物象化としてあり、そのことには、何か意に沿はない
こと、つまり、»unzuhanden sein«であることが生じて初めて、「あらためて
気づかされる」のである。その「『あらたかな』気づき」こそが
「もののあはれ」であり、「うた(歌/詩)」を詠むことは、その「もののあはれ」
を言葉として表現しようとする、その都度の「こころ(心/試)み」に他ならない。

413 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 08:08:23.15 0.net
誤:「〜を(の呼応関係」
正:「〜を(の呼応関係)」

414 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 08:23:06.85 0.net
Twitterは、その「『あらたかな』気づき」を「»Das Man«の現実」に
引き戻すための装置として仕組まれている。

415 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 08:26:18.64 0.net
Twitterの書込みの言葉の表現において、その仕掛けに自覚的でない利用者は、
表向きに掲げている思想がどのようなものであれ、「»Das Man«の現実」
を維持することに貢献するように働いているのである。

416 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 08:27:40.82 0.net
だから、そもそも私はTwitterを利用することをしない。

417 :時計 :2022/01/04(火) 08:59:35.26 0.net
>>412-416
このスレッドがあらかたな気づきに繋がるといいなと思います。
物象化に否定的な意味が込められているように思いますが、
どうなんだろうな、私は中立的だと思います。
あと「目の前にある」というのは視覚中心的な感覚だと思いますが、
それは聴覚等他の感覚にも一般化できるのでしょうか。

412さん(多分、身づ柄さん)は、うたを読んだりするのでしょうか。
私はあまりしません。:)

414さん(繰り返すが、多分身づ柄さん)はDas Manではないのでしょうか。
人は習慣的なところ、つまりDas Man的なところがあるように思います。
ちなみに、ハイデガーは読んでいません。

Twitterはフォロワーに追い付くのにやっとという感じがして、
私もあまり好みません。

418 :時計 :2022/01/04(火) 09:11:22.08 0.net
>>417
フォロワーじゃなくてフォロイーか。ややこしいな。:)

419 :時計 :2022/01/04(火) 09:19:53.80 0.net
>>417
Das Manに関しては、Wikipediaでさらっと見ました。

420 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 09:27:32.41 0.net
>物象化に否定的な意味が込められているように思いますが、

そのように物象化を一方向的に否定的に捉えることが神学的なロマン主義に
陥ることにつながるのではないかと思います。人はなにもしていないつもり
でも、自然に物事を物象化して捉えているのです。だからこそ、
その無自覚な捉え方について自省を迫られる状況に直面する。
しかし、それでも、自省を迫られることは面倒なので、そのような
状況が生じていること自体を無視して、物象化された現実の方に
しがみつこうとする動機が働き、その動機が「»Das Man«の現実」を
安定的に維持することになる。これは、所謂、正常性バイアスでしょう。

421 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 09:35:16.87 0.net
>あと「目の前にある」というのは視覚中心的な感覚だと思いますが

「目の前にある」というのは、ハイデガーの表現を日本語として意図が
伝わるようにするための変換によるもので、元のドイツ語の表現は、
»vorhanden sein«ですから、「手」、つまり、触覚に関係する表現
であることになりますが、何かに触れているという感覚から、
ハイデガーがこの表現によって伝えようとした意図を日本語にする
ことは難しい。「手前にある」と表現することはできますが、
分かりにくいでしょう。むしろ、日本語では単純に「ある」と
表現されるのが普通ではないかと思います。「ある」に対して
「を(居)る」というのは、»vorhanden sein«ではありません。
「を(居)る」は、動く可能性のあるものがそこに留まるように
していることを表現しています。

422 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 09:45:27.23 0.net
そこで重要になるのが、以前に指摘した"the patronizing we"の生成ではないか
と思います。

115考える名無しさん2021/12/29(水) 08:34:11.460
「現存在」&「呼応」というキーワードで検索してヒットしたハイデガー
からの引用で、論文自体は読んでいないが、このようなハイデガーの表現
を見ても、いかに日本語が哲学をするのに有利な言語であるかがよく
分かるはずである。

https://koara.lib.keio.ac.jp › xoonips › download.php
PDF
Title ハイデガーにおける現存在の「身体性」の問題性格 ...

>ただし ハイデガーが次のようにボスに告げていることにも注意してお
きたい 「しかし 現存在として実存する 人間は その世界の開けから
自分に語りかけてくるものへと それを聞き取るという仕方で本質的に関
係づけられていることにおいて この語りかけてくるものに向かってそれ
に対する自らのふるまい (Verhalten) でもって呼応するように つまり応
える (antworten) ように要請されているのです それも 出会ってくる
ものを自分の保護下におき その本質が展開するよう可能な限りそれを助
けるという仕方で応えることを要請されているのです」 [ZS, S. 292] <

116考える名無しさん2021/12/29(水) 08:50:58.650
>>104
>「己(な)を汝(な)として主(あるじ)する」ことによる「な(己/汝)」
の関係性、英語で表現するなら、"The patronizing we"の生成である<

423 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 09:57:02.41 0.net
>その「『あらたかな』気づき」こそが「もののあはれ」であり、
「うた(歌/詩)」を詠むことは、その「もののあはれ」を言葉として
表現しようとする、その都度の「こころ(心/試)み」に他ならない。<

ニーチェにとっても、ディオニュソスとアポロの対比が問題となる
のは、ここにおいてだろうと私は思います。だから、ニーチェ自身、
「うた(歌/詩)」をパロディとして試みる。

424 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 10:04:40.87 0.net
哲学の営みとしての試行錯誤というのは、その歩みそのものが大切
なのであって、数学のように、検証された手続きを自動化して、
入力に対する出力結果だけ利用できればいいというようなもの
ではないのです。

425 :時計 :2022/01/04(火) 10:57:14.75 0.net
>>420
ということは、物象化の日々を過ごしつつ、
時にそのことを自覚することが大切だということでしょうか。
瞑想等の物象化とは対極的であると思われる行為によって。

>>421
触覚を基本に据えているのですね。何だか腑に落ちた気はします。
「手元にある」という日本語もありますね。
本質的に「ある」と同じだということは、
「有る」と「在る」のような細かなニュアンスの違いでしょうか。

>>422
よく解りませんでしたが、
相手のことを「己」ということ関係するということでしょうか。

>>423
ニーチェに関しては、明日図書館から借りてきます。
『愉しい学問』です。楽しみにしています。

>>424
数学に於いても過程は大切だと思いますよ。
確かに、ショートカットは効きますが。
過程を知っていると、未知の問題を解くのに使えたりすると思います。

426 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 11:19:11.29 0.net
数学であれば、検証された数学の定式を、その手順を自らが
構成することができない人が機械的に利用しても、手順に
正しく従っているなら、自動的に正しい計算結果が
もたらされますが、哲学をそのように「応用する」ことは
できない、ということです。

427 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 11:31:44.02 0.net
>「手元にある」という日本語もありますね。

»vorhanden sein«を「手元にある」と翻訳することの不都合は、
ドイツ語そのものも含め欧米の主要な言語では、「手元にある」は、
「手頃にある」という意味合いで用いられ、»vorhanden sein«と
対比される»zuhanden sein«の方に対応していることにあります。
»zuhanden«は、「手に『つく』」というイメージを表現して
いると思いますが、それが「手に馴染む」ことであり、「手頃である」
ことでもあるのです。このため、»vorhanden sein«という表現は、
»-handen«という要素が含まれているにはせよ、「手の接触」を
想起させるイメージから日本語に訳すことは適切ではないと私は
考えます。

428 :時計 :2022/01/04(火) 11:48:04.99 0.net
>>426
それは数学観の問題ですね。
公式に当て嵌めて計算することを数学と言うのか。
数学と言ってもいいかもしれませんが、本質ではないと思います。

>>427
なるほど。難しそうな問題ですね。
居るはどうですか。検索したら引っかかったので。

429 :時計 :2022/01/04(火) 13:19:59.57 0.net
知は善か。
悪しき考えは、推論により、矛盾に至る。
そう思われる。
したがって、知は善である。

430 :時計 :2022/01/04(火) 13:23:41.52 0.net
>>429
矛盾を露呈すると言うべし。

431 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 13:28:36.67 0.net
知恵を善意に活用するか悪知恵に利用するか、知は扱う人間の品性によって善にも悪にもなり得る。

432 :時計 :2022/01/04(火) 15:31:36.69 0.net
>>431
勧善懲悪の世間なり。

433 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 15:38:49.99 0.net
世間の大人が皆、罰を与えられる前に自律的な振る舞いをする人間になれば理想的なんですけどね

434 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 16:01:03.55 0.net
矛盾に気づきそれが処理できなければこじれていく一方であるw

435 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 16:06:12.72 0.net
ビンゴげーむの哲学

436 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 16:25:58.36 0.net
当人の意識に矛盾として認識されない限り処理する必要性に迫られないからこじれようがないのである

437 :時計 :2022/01/04(火) 18:19:23.68 0.net
>>433
悪を為して反省すればまだいいが。

>>434
こじれるのはあんまり見たくないな。:)

>>435
どういう意味ですか? :)

>>436
それでは悪から善への移行が起きない。

438 :考える名無しさん:2022/01/04(火) 19:02:35.26 O.net
こじれを認めないアホはまた滑稽であるw

439 :anonymouse :2022/01/04(火) 21:41:53.89 0.net
>>429
知と善は別々では?
悪知恵って言葉もある

440 :anonymouse :2022/01/04(火) 21:42:17.45 0.net
>>429
それとも矛盾を肯定することが悪?

441 :anonymouse :2022/01/04(火) 21:42:52.37 0.net
どちらかと言うと、
矛盾を肯定することは魔だな

442 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/04(火) 22:06:15.84 0.net
矛盾許容論理こそ正統派でしょうw
ちなみに、「矛盾」を「許容」する、とは、
「矛盾」をみとめないとか「矛盾」をみとめるとか、
ではなくて、
「矛盾」を「回避」する「論理」です。(そうでない矛盾許容論理もありますけどね)
「公理系」などというものも、「矛盾許容論理」の一種であると考えるべきです。

443 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/04(火) 22:08:32.87 0.net
「否定」でも「肯定」でもなくて、「回避」ですね。
弱「肯定」かなw
弱「否定」かもしれんw

444 :anonymouse :2022/01/04(火) 22:23:09.61 0.net
魔というのはカオスで、
対義語はコスモス(真とか神とか呼べばいいんかね、)
自然数すべてに固有の真偽値があるとすれば、
自然数上で生じたカオスは、矛盾を拡張した概念と言えそう

445 :Wille zur Macht:2022/01/04(火) 22:47:53.14 0.net
"true gratidude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74

446 :Wille zur Macht:2022/01/04(火) 22:50:24.54 0.net
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74

ミスタイプ訂正

447 :時計 :2022/01/05(水) 04:50:15.69 0.net
>>439
それは社会の習慣が間違えている場合だと考えます。

>>440-441
社会の習慣等、外部的な矛盾を悪と見る見方はあると思います。
しかし、内部的な矛盾こそ、真の悪だと私は思います。

>>442-443
回避はいいですね。矛盾許容論理、いつか学びたいです。

>>444
確かに、魔やカオスと言ってもいいかもしれません。
自然数に固有の真偽値があるとはどういうことでしょうか。

>>446
gratitudeは大切な感情ですね。

448 :時計 :2022/01/05(水) 05:21:04.62 0.net
>>447
社会の習慣が間違えている場合というのは、
要するに、悪というものは何よりも自己矛盾だということです。

449 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 07:03:40.99 0.net
くだらん理論も回避しろよw

450 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 07:43:43.47 0.net
悪ではない、つまり、偽善ではない道徳とは、不特定の人にとって
有効となる自己正当化の根拠である。そのような根拠は、つねに
各々によって試行錯誤によって追求されるものであり、誰にとっても
(すなわち、統治する者にとっても)あらかじめ定められたものとしては
存在し得ない。

451 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:08:55.81 0.net
>To believe your own thought, to believe that what is true for you
in your private heart is true for all men, ー that is genius. [...]
Yet this principle, in practical life as arduous as in the intellectual,
may serve for the whole distinction betwixt men. It is the harder
because you will always find those who think they know what is
your duty better than you know it yourself. It is easy in the world
to live after the world’s opinion. it is easy in solitude to live after
our own. But the great man is he who in the midst of the crowd
keeps with perfect sweetness the independence of solitude.<

― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.78

452 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:18:34.60 0.net
"in practical life as arduous as in the intellectual"という箇所の構文が
少し分かりにくいが、
"[which is] as arduous in practical life as in the intellectual [life]"
と読みかえれば、理解しやすくなるだろう。

453 :Das Man:2022/01/05(水) 08:22:41.09 0.net
さて、"those who think they know what is your duty better than
you know it yourself"とは誰のことでしょう?w

454 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:40:51.50 0.net
この問いに対する正しい答えを知らないオイディプス的な悲劇の
主人公を彷彿とさせる人々を見かけることは、ソーシャル・ネットワーク
での発言を眺めているだけでも、そう珍しいことではないでしょう。

455 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:46:18.75 0.net
さて、»Das Man«とは誰のことでしょう?

456 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 09:32:28.95 0.net
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を

出典万葉集 三一七

457 :する=なる:2022/01/05(水) 09:36:57.45 0.net
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」

458 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 11:44:03.58 0.net
日本語において「を」の発音は、本来的に、それに何かが応へる
ことを求める呼びかけの声そのものを想起させるものとして
用いられ、呼びかけの「〜を」とそれに応じる「を」の呼応関係
を成立させる行為の遂行において、「意に沿ふ」ようにすること
を表現し、「意に沿ふようにさせる」ことを表現する行為としての
「を(長/治/食)す」を派生させるとともに、その行為を具現化する
者としての「長(をさ)」、「をさ(治/収)む」、「をさ(治/収)める」
などの表現において用いられる。さらに、「意に沿ふようになる」
ことを具現化させる、すなわち、そのように効験をもたらす潜在的な
力を表象する「をなり神(かみ)」としてうやま(敬)はれる一方で、
「〜をの神(かみ)」は、物神化されて「〜男の神(かみ)」となる。
ここで、「〜男の神(かみ)」が「〜をの神(かみ)」の物神化である
ことに注目するなら、「男(を)」という名詞化そのものが、
「意/『を(の呼応関係)』/»Wille zur Macht«の実現」の物象化であり、
»Das Man«の生成であると言うことができる。

459 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 11:58:44.46 0.net
>「『みづから(身づ柄/自ら)』/《soi-même》を『もてなす』」こと/
「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」
ことにおいて、「な(己/汝)」の関係性を生成しつづけ、己(おのれ)を
乗り越える。<

106考える名無しさん2021/12/23(木) 09:17:16.440
「できることをしようとする」ことが、自然と、
「『みづから(身づ柄/自ら)』/《soi-même》を『もてなす』」こと/
「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」
ことになる。

107天のめぐ(恵)みとは2021/12/23(木) 10:36:52.520
みづから(身づ柄/自ら)に「できることをしようとする」ことにより、自然と
《La plénitude sans aucun manque de ce qui est à venir à travers soi-même》
がもたらされる。

109考える名無しさん2021/12/23(木) 10:41:28.900
ここで、《manque》は、日本語の呼びかけの「〜を」に対応することに
留意しよう。つまり、ここで、《sans aucun manque》とは、「を(惜)しみ」
を生じることがないことを表現している。

これらのことを忘れたなら、自己の統治を含む統治(「をさむ」こと)そのもの
が自然に»Das Man«を生成することにより各々を、物神化された統治への
自発的隷属に導くことになる。

460 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 12:26:36.92 0.net
「できること『を』しようとする」ことが、すなわち、
「みづから(身づ柄/自ら)『を』もてなす」ことになるのとは
対照的に、「○○は〜『を』すべきである」と考えることは、
その意見が自分自身に向けれたものである場合も含めて、
»Das Man«の生成を強化することにしかならない。
なぜなら、「○○は〜『を』すべきである」とは、
言い換えるなら、「○○は〜『を』することを怠っている」
ということであり、「〜『を』するのが〇〇の本来、ある
べき在り方だ」という「○○の在り方の物象化」をもたらし、
強化するからである。

461 :時計 :2022/01/05(水) 12:46:28.58 0.net
>>460
人は勝利すべきである等は?

462 :時計 :2022/01/05(水) 12:51:02.26 0.net
>>458
日本語において、「〜を」は一般的に対象を示す為に使われると思うよ。

463 :時計 :2022/01/05(水) 12:58:14.86 0.net
>>453
Das Manじゃない。

464 :anonymouse :2022/01/05(水) 13:47:50.60 0.net
>>447
自然数、たとえば1や2や3には、固有の特性がある
仮に温度のような量として数を扱えば、それは(任意に置いた0を基準とする)を相対的なものになるが、
そもそも、1はいくつ掛けても同じ数になるし、足すと次の自然数になる特別な数だし、
2は偶数における最小の数、3は三角形の性質から三角関数を与えるとか、
探したらもっといっぱい出てくるかもしれんけど、それぞれが意味を持っているわけだ
その性質を持ってして、自然数個の対応する真偽値を与えられたなら、
自然数は自然数個の真偽値を持つ多値論理と言えるのではないかと

465 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 14:12:29.88 0.net
>>462
では、「あしはらのしこを(葦原醜男)」の「〜を」は?

466 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 14:47:02.20 0.net
http://entersection.com/posts/666-ralph-waldo-emerson-on-the-adoration-of-books

>Yet hence arises a great mischief. [...]
...forgetful that Cicero, Locke, and Bacon were only young men
in libraries when they wrote these books.<

467 :時計 :2022/01/05(水) 18:11:36.50 0.net
>>464
そのようなことは考えたことはなかったです。
面白いかもしれません。
ブール代数は0、1だから美しいのかなと思いますが。

>>465
その「〜を」ですか。
それは対象というよりは、「男」ですよね。
現代の女性に「〜子」を付けるような習慣的なものではないでしょうか。

468 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 09:29:34.62 0.net
「名を呼ぶことがその名によって指し示される物事を呼び寄せて
現実化することになると信じる『ことだま(言霊)思想』」などという
ものを持ち出すまでもなく、名づけるという行為自体が、
呼びかけであり、»Wille zur Macht«の行使なのだ。

したがって、例えば、「あしはらのしこを(葦原醜男)」の「を(男)」
とは何か、と問ふその問ひの形式そのものが、名づけを名詞として
扱い、既に沈着物のように堆積した物象化を前提としていることになる。

469 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 10:09:25.63 0.net
同様のことが、「ニーチェの表現における»Übermensch«/「超人」とは
何か」という問ひについても言える。多くの人々が「»Übermensch«/
『超人』とは何か」という問ひに応えようと様々な説明を繰り返して
きたが、ほとんどだれもそれにうまく応える端的な説明をすることに
成功していないだろう。それは、そもそも、そのような形式の問ひに
応えようとすることが、物象化の罠にはまることになるからだ。
しかし、ここで、「男(を)」について、その物象化のプロセスを
逆転させて、
>「男(を)」という名詞化そのものが、
「意/『を(の呼応関係)』/»Wille zur Macht«の実現」の物象化であり、
»Das Man«の生成であると言うことができる<
とするならば、»Übermensch«/「超人」について簡略に説明することも
そう難しいことではないだろう。なぜなら、»Übermensch«/「超人」
とは、»Wille zur Macht«を顕現させる者、言い換えるなら、
「を(≒»Wille«)な(成)り(»Wille zur Macht«)神(かみ)」の呼び名であり、
その命名に他ならないと考えることができるからだ。

すると、端的に言って、»Übermensch«/「超人」とは、「物象(/神)化
された»Das Man«/『男(を)』」の裏返しであると見ることができるだろう。
では、その物象(/神)化を裏返す作用はどのように生じるのか。
それは、「»Das Man«/『男(を)』」に触れて「あは(哀)れ」を感じる
ことによってである。しかし、その「あは(哀)れ」が、「あは(憐)れみ」
の方向に向かうなら、みづから(身づ柄/自ら)を含めた「»Das Man«/『男(を)』」
の生の惨めさに対する「同情」にしかならない。その「同情」こそ、
ニーチェが拒絶したものに他ならない。

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