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意識のハードプロブレムの答え15

1 :時計 :2021/12/20(月) 04:11:34.94 0.net
1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。

意識のハードプロブレムの答え14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637997170/

444 :anonymouse :2022/01/04(火) 22:23:09.61 0.net
魔というのはカオスで、
対義語はコスモス(真とか神とか呼べばいいんかね、)
自然数すべてに固有の真偽値があるとすれば、
自然数上で生じたカオスは、矛盾を拡張した概念と言えそう

445 :Wille zur Macht:2022/01/04(火) 22:47:53.14 0.net
"true gratidude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74

446 :Wille zur Macht:2022/01/04(火) 22:50:24.54 0.net
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74

ミスタイプ訂正

447 :時計 :2022/01/05(水) 04:50:15.69 0.net
>>439
それは社会の習慣が間違えている場合だと考えます。

>>440-441
社会の習慣等、外部的な矛盾を悪と見る見方はあると思います。
しかし、内部的な矛盾こそ、真の悪だと私は思います。

>>442-443
回避はいいですね。矛盾許容論理、いつか学びたいです。

>>444
確かに、魔やカオスと言ってもいいかもしれません。
自然数に固有の真偽値があるとはどういうことでしょうか。

>>446
gratitudeは大切な感情ですね。

448 :時計 :2022/01/05(水) 05:21:04.62 0.net
>>447
社会の習慣が間違えている場合というのは、
要するに、悪というものは何よりも自己矛盾だということです。

449 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 07:03:40.99 0.net
くだらん理論も回避しろよw

450 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 07:43:43.47 0.net
悪ではない、つまり、偽善ではない道徳とは、不特定の人にとって
有効となる自己正当化の根拠である。そのような根拠は、つねに
各々によって試行錯誤によって追求されるものであり、誰にとっても
(すなわち、統治する者にとっても)あらかじめ定められたものとしては
存在し得ない。

451 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:08:55.81 0.net
>To believe your own thought, to believe that what is true for you
in your private heart is true for all men, ー that is genius. [...]
Yet this principle, in practical life as arduous as in the intellectual,
may serve for the whole distinction betwixt men. It is the harder
because you will always find those who think they know what is
your duty better than you know it yourself. It is easy in the world
to live after the world’s opinion. it is easy in solitude to live after
our own. But the great man is he who in the midst of the crowd
keeps with perfect sweetness the independence of solitude.<

― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.78

452 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:18:34.60 0.net
"in practical life as arduous as in the intellectual"という箇所の構文が
少し分かりにくいが、
"[which is] as arduous in practical life as in the intellectual [life]"
と読みかえれば、理解しやすくなるだろう。

453 :Das Man:2022/01/05(水) 08:22:41.09 0.net
さて、"those who think they know what is your duty better than
you know it yourself"とは誰のことでしょう?w

454 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:40:51.50 0.net
この問いに対する正しい答えを知らないオイディプス的な悲劇の
主人公を彷彿とさせる人々を見かけることは、ソーシャル・ネットワーク
での発言を眺めているだけでも、そう珍しいことではないでしょう。

455 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 08:46:18.75 0.net
さて、»Das Man«とは誰のことでしょう?

456 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 09:32:28.95 0.net
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を

出典万葉集 三一七

457 :する=なる:2022/01/05(水) 09:36:57.45 0.net
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」

458 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 11:44:03.58 0.net
日本語において「を」の発音は、本来的に、それに何かが応へる
ことを求める呼びかけの声そのものを想起させるものとして
用いられ、呼びかけの「〜を」とそれに応じる「を」の呼応関係
を成立させる行為の遂行において、「意に沿ふ」ようにすること
を表現し、「意に沿ふようにさせる」ことを表現する行為としての
「を(長/治/食)す」を派生させるとともに、その行為を具現化する
者としての「長(をさ)」、「をさ(治/収)む」、「をさ(治/収)める」
などの表現において用いられる。さらに、「意に沿ふようになる」
ことを具現化させる、すなわち、そのように効験をもたらす潜在的な
力を表象する「をなり神(かみ)」としてうやま(敬)はれる一方で、
「〜をの神(かみ)」は、物神化されて「〜男の神(かみ)」となる。
ここで、「〜男の神(かみ)」が「〜をの神(かみ)」の物神化である
ことに注目するなら、「男(を)」という名詞化そのものが、
「意/『を(の呼応関係)』/»Wille zur Macht«の実現」の物象化であり、
»Das Man«の生成であると言うことができる。

459 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 11:58:44.46 0.net
>「『みづから(身づ柄/自ら)』/《soi-même》を『もてなす』」こと/
「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」
ことにおいて、「な(己/汝)」の関係性を生成しつづけ、己(おのれ)を
乗り越える。<

106考える名無しさん2021/12/23(木) 09:17:16.440
「できることをしようとする」ことが、自然と、
「『みづから(身づ柄/自ら)』/《soi-même》を『もてなす』」こと/
「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」
ことになる。

107天のめぐ(恵)みとは2021/12/23(木) 10:36:52.520
みづから(身づ柄/自ら)に「できることをしようとする」ことにより、自然と
《La plénitude sans aucun manque de ce qui est à venir à travers soi-même》
がもたらされる。

109考える名無しさん2021/12/23(木) 10:41:28.900
ここで、《manque》は、日本語の呼びかけの「〜を」に対応することに
留意しよう。つまり、ここで、《sans aucun manque》とは、「を(惜)しみ」
を生じることがないことを表現している。

これらのことを忘れたなら、自己の統治を含む統治(「をさむ」こと)そのもの
が自然に»Das Man«を生成することにより各々を、物神化された統治への
自発的隷属に導くことになる。

460 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 12:26:36.92 0.net
「できること『を』しようとする」ことが、すなわち、
「みづから(身づ柄/自ら)『を』もてなす」ことになるのとは
対照的に、「○○は〜『を』すべきである」と考えることは、
その意見が自分自身に向けれたものである場合も含めて、
»Das Man«の生成を強化することにしかならない。
なぜなら、「○○は〜『を』すべきである」とは、
言い換えるなら、「○○は〜『を』することを怠っている」
ということであり、「〜『を』するのが〇〇の本来、ある
べき在り方だ」という「○○の在り方の物象化」をもたらし、
強化するからである。

461 :時計 :2022/01/05(水) 12:46:28.58 0.net
>>460
人は勝利すべきである等は?

462 :時計 :2022/01/05(水) 12:51:02.26 0.net
>>458
日本語において、「〜を」は一般的に対象を示す為に使われると思うよ。

463 :時計 :2022/01/05(水) 12:58:14.86 0.net
>>453
Das Manじゃない。

464 :anonymouse :2022/01/05(水) 13:47:50.60 0.net
>>447
自然数、たとえば1や2や3には、固有の特性がある
仮に温度のような量として数を扱えば、それは(任意に置いた0を基準とする)を相対的なものになるが、
そもそも、1はいくつ掛けても同じ数になるし、足すと次の自然数になる特別な数だし、
2は偶数における最小の数、3は三角形の性質から三角関数を与えるとか、
探したらもっといっぱい出てくるかもしれんけど、それぞれが意味を持っているわけだ
その性質を持ってして、自然数個の対応する真偽値を与えられたなら、
自然数は自然数個の真偽値を持つ多値論理と言えるのではないかと

465 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 14:12:29.88 0.net
>>462
では、「あしはらのしこを(葦原醜男)」の「〜を」は?

466 :考える名無しさん:2022/01/05(水) 14:47:02.20 0.net
http://entersection.com/posts/666-ralph-waldo-emerson-on-the-adoration-of-books

>Yet hence arises a great mischief. [...]
...forgetful that Cicero, Locke, and Bacon were only young men
in libraries when they wrote these books.<

467 :時計 :2022/01/05(水) 18:11:36.50 0.net
>>464
そのようなことは考えたことはなかったです。
面白いかもしれません。
ブール代数は0、1だから美しいのかなと思いますが。

>>465
その「〜を」ですか。
それは対象というよりは、「男」ですよね。
現代の女性に「〜子」を付けるような習慣的なものではないでしょうか。

468 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 09:29:34.62 0.net
「名を呼ぶことがその名によって指し示される物事を呼び寄せて
現実化することになると信じる『ことだま(言霊)思想』」などという
ものを持ち出すまでもなく、名づけるという行為自体が、
呼びかけであり、»Wille zur Macht«の行使なのだ。

したがって、例えば、「あしはらのしこを(葦原醜男)」の「を(男)」
とは何か、と問ふその問ひの形式そのものが、名づけを名詞として
扱い、既に沈着物のように堆積した物象化を前提としていることになる。

469 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 10:09:25.63 0.net
同様のことが、「ニーチェの表現における»Übermensch«/「超人」とは
何か」という問ひについても言える。多くの人々が「»Übermensch«/
『超人』とは何か」という問ひに応えようと様々な説明を繰り返して
きたが、ほとんどだれもそれにうまく応える端的な説明をすることに
成功していないだろう。それは、そもそも、そのような形式の問ひに
応えようとすることが、物象化の罠にはまることになるからだ。
しかし、ここで、「男(を)」について、その物象化のプロセスを
逆転させて、
>「男(を)」という名詞化そのものが、
「意/『を(の呼応関係)』/»Wille zur Macht«の実現」の物象化であり、
»Das Man«の生成であると言うことができる<
とするならば、»Übermensch«/「超人」について簡略に説明することも
そう難しいことではないだろう。なぜなら、»Übermensch«/「超人」
とは、»Wille zur Macht«を顕現させる者、言い換えるなら、
「を(≒»Wille«)な(成)り(»Wille zur Macht«)神(かみ)」の呼び名であり、
その命名に他ならないと考えることができるからだ。

すると、端的に言って、»Übermensch«/「超人」とは、「物象(/神)化
された»Das Man«/『男(を)』」の裏返しであると見ることができるだろう。
では、その物象(/神)化を裏返す作用はどのように生じるのか。
それは、「»Das Man«/『男(を)』」に触れて「あは(哀)れ」を感じる
ことによってである。しかし、その「あは(哀)れ」が、「あは(憐)れみ」
の方向に向かうなら、みづから(身づ柄/自ら)を含めた「»Das Man«/『男(を)』」
の生の惨めさに対する「同情」にしかならない。その「同情」こそ、
ニーチェが拒絶したものに他ならない。

470 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 10:32:40.34 0.net
では、みづから(身づ柄/自ら)を含めた「»Das Man«/『男(を)』」に触れて
「あは(哀)れ」を感じるにもかかわらず、そこから「あは(哀)れみ」に向かって、
「同情する」ことを拒絶するとどうなるだろうか。ここで留意しなければ
ならないのは、それによって「あは(哀)れ」を感じることがなくなるわけでも、
「生の惨めさ」が否認されて、消えてなくなるわけでもないことだ。
そうではなく、その「あは(哀)れさ」は、「同情」の拒絶によりそのまま、
「生の惨めさ」に対する»Verachtung«/「さげすみ」となるのである。
しかし、ここで、この»Verachtung«/「さげすみ」を「他者に対する侮蔑」
などと混同してはならない。

むしろ、この、「生の惨めさ」に対する»Verachtung«/「さげすみ」は、
それが»Übermensch«/「超人」/「を(≒»Wille«)な(成)り(»Wille zur Macht«)
神(かみ)」にみづから(身づ柄/自ら)を向かはせる限りにおいて、それが
裏返ってそのまま「もののあはれ(≒"*ahtu")」として立ち現れて新たな創造に
向かはせることになるのである。

https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-West_Germanic/ahtu

471 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 10:34:42.43 0.net
誤:「を(≒»Wille«)な(成)り(»Wille zur Macht«)神(かみ)」
正:「を(≒»Wille«)な(成)り(≒»zur Macht«)神(かみ)」

472 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 10:42:47.04 0.net
複数言語を用いると書き方が複雑になるうえに、直接に入力できない
文字や記号が増えて、なおかつ旧仮名遣いは自動的に変換してくれないから、
あちこちに誤記の可能性が生じて、それにより意味が通らなくなるから
本当に面倒くさい。でも、複数言語を同時に運用しようとすると、
その問題は避けられないんだよね。それを避けようとして表現の方を
簡略化しようとすると、伝えようとすることそのものが表現できなくなる。

473 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 10:49:20.73 0.net
>この»Verachtung«/「さげすみ」を「他者に対する侮蔑」などと混同しては
ならない<

この»Verachtung«/「さげすみ」においては、自らを含む「»Das Man«/
『男(を)』」の各々が、《un pauvre con》に見えることになるだろう。

474 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 10:56:46.14 0.net
>この、「生の惨めさ」に対する»Verachtung«/「さげすみ」は、
それが»Übermensch«/「超人」/「を(≒»Wille«)な(成)り(≒»zur Macht«)
神(かみ)」にみづから(身づ柄/自ら)を向かはせる限りにおいて、それが
裏返ってそのまま「もののあはれ(≒"*ahtu")」として立ち現れて新たな創造に
向かはせることになるのである。<

ディオニュソス的とアポロ的の対比が問題とされるのは、そのように創造に
向かふ時点においてである。したがって、ディオニュソス的/アポロ的という
概念の場合も、そこに至るまでの歩みを飛ばして、いきなり、「ディオニュソス的」
とは何か、「アポロ的」とは何かという形式の問ひに応えることは、そもそもが
不可能なのである。

475 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 11:24:39.51 0.net
ながながと不可能である告白、ご苦労様です

476 :でこすけ:2022/01/06(木) 11:28:53.57 0.net
>>251 いわゆる遅レスになりますけど、せっかくなので私の印象を述べさせていただきます。

まず私の世界観の宣伝からになりますが、
私の印象としてこの世界は認識されている部分(形而下(?))と
そのようなものを成立させる部分(形而上(?))から成る
という感覚があります。
このときじつは私にとっては形而上(仮名)が実在するかどうかは
最終的に確定できるものではありませんけど、
とりあえず想定しておいても差し支えは無さげなので
形而上の実在を「真実」とは言えませんけど「妥当な解釈」とすることはできる
というのを基本的なスタンスにさせてもらっています。

さて、このことを踏まえての>251付近ですが
私のかんじでは、それはあくまでも形而下でのこと
というのが率直な印象です。
さらに私の感覚では「意識」は「不在を伝えるもの(能動)」ではなく
「(自動的に)不在を埋めるもの(受動)」というイメージです。
どちらかというと「伝える」というよりも「伝わる」というニュアンスです。
また、駿河さん(私の中では身づ柄さんではなく駿河さんで登録されています)
が「意識」をどのようなものとして理解されているのかが不明瞭でありながら、
とりあえず「不在を伝えるもの」では「クオリア」を説明できない
というのが個人的にはひっかかります。
人それぞれの考え方があるだろうとは思いますが
私は「意識」を語る上で「クオリア」は必須派です。
そして「クオリア」を語るためには「形而上」を考察しなくてはならなくなる
という印象を持っています。

ちなみに私は哲学界で「意識」との関わりから「クオリア」が
どのように位置づけられているのか、
「クオリア」は「意識」そのものなのか、あるいは媒体にすぎないのか、
そのあたりでどのような共通理解があるのかについては存じないレベルです。
恐縮です。

477 :でこすけ:2022/01/06(木) 13:03:21.48 0.net
>>425
私は『悦ばしき知識(筑摩書房)』昨年の暮にさっさと買っちゃいました。
本屋でその部分だけをぱっと立ち読みするつもりだったのですが、
目次が役に立たない上、分厚く、一応は価格的な躊躇がありつつも
お年玉をもらえる予定があったので決断しました。

その帰途、とりあえず目についたのが「11(73ページ)」ですけど
私としてははなはだ残念です。
私の考えとは違う、それ以前にニーチェには人間に対する「愛」を感じます。
そうは言っても「愛」は目を曇らせます(笑)
私は「自然」はもっとドライなものだと思っているのです。

478 :時計 :2022/01/06(木) 13:56:12.01 0.net
ニーチェへのとりあえずの批判。
連帯する善が勝利することはルサンチマンなのでしょうか。
それもまた力なのではないでしょうか。
また、著作に触れてみます。

>>469-470
哀れみは同情とは異なると思いますよ。
同情しない哀れみはあると思います。
私はさげずまれるのは嫌だな。:)

479 :時計 :2022/01/06(木) 13:59:27.01 0.net
>>477
私の借りたのは『愉しい学問』というタイトルですが、
どちらの訳が適切なのでしょうね……
あと、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』も借りました。

480 :でこすけ:2022/01/06(木) 16:27:24.32 0.net
>>478
私は若い頃はお金を持っていなかったので
そのときの恨みを晴らすかの如くにステーキを頬張り寿司を頬張りしています。
それでも若い頃に比べて食える量が減ったので
「若い頃に食いたかった」などと恨みごとをのたまいます。
人間の本質が「善」も含めて「怨恨」というのはわかる気がするし、
また、「そういう奴は如何なものか」という感覚もわかる気がします。
ただ、私も私なりに歳を重ねたので、
人間が残酷で浅ましく恥知らずの救い難い生き物であったとしても
それを徹底的に糾弾する元気やあるいはそもそも感情はありません。
むしろ「ニーチェ君は若いなあ」という感覚です
(実際若干40代で崩壊してしまったそうですが)。
「善の連帯」の本質が「怨恨」ということを指摘しているのであれば
それは率直に鋭いツッコミだと思います。
それに対して「まあまあまあw」というのが
でこすけのでこすけたる所以だと思います。

>>479
私としてはどちらの訳が適切なのか以前に冒頭の
「相似したことを体験した者でないなら、(中略)
 この本の体験に近づけるものではない」
というのが重たくのしかかります。
実際に私にはほとんどちんぷんかんぷんです。
そもそも「彼は何が言いたかったのか」以前に
「何がやりたかったのか」全く理解できないのです。

481 :でこすけ:2022/01/06(木) 17:07:01.56 0.net
>>476
では何故「不在」が生じるのかというと、
それはつまり開闢以前は何も無いのが当たり前だったものが
ある時点から「無い」ということが問題になるということですが、
私的にはこれは階層論として理解できると考えます。
「不在」はどこに生じているのかというと、下位に生じています。
上位は下位要素に依拠しながら成立しますが、
一度上位が成立すると何かの事情で下位に欠損が生じたとしても
許容範囲であればただちに上位が失われることにはなりません
(たとえば「スル○ナル○○」
 音節(下位)の50%近くが欠損していても意味(上位)が成立し得ます)。
そしてこの欠損(不在)を埋めるのが意識の作用だと考えるわけです
(ちなみにその作用は「創発」と名付けられているようです)。
そうは言っても欠損を放置したままでは全体のアイデンティティ(上位)に
崩壊のリスクを背負わせ続けることになってしまいます。

482 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 17:10:52.84 0.net
ニーチェの最もよく知られた著作である"Also sprach Zarathustra"の
冒頭には、»Ein Buch für Alle und Keinen«、つまり、「すべての者の
ための、誰のためのものでもない本」という断り書きが掲げられています。
こではどのような意味でしょう。これまでに様々な解釈が提示されてきた
ようですが、単純に素直に読めば、「この本が自分のためになるかどうか
は自らが決めよ」と読者に求めているように私には思へます。

483 :時計 :2022/01/06(木) 18:36:21.79 0.net
>>480
私は連帯する善に関しては、どちらかと言えば受け身で、
脅威を感じることはあります。
それもまた力なのかなと思いました。

ニーチェと相似した体験ですか……
ニーチェもどちらかと言えば連帯される側だと思いますから、
そういう意味では類似点はあるかもしれません。
とりあえず、愉しい学問ができればいいなと思います。:)

>>481
私は意識は下位的であり得るように思います。
「スル○ナル○○」もそういう意識というか。

>>482
すべての者=私という比喩的表現かなと思いました。

484 :でこすけ:2022/01/06(木) 19:53:32.05 0.net
>>482
せっかくなので当てずっぽうながら私の印象ですけど
「すべての人が読者の対象ではあるけれども、誰の役にも立たない本」
というかんじでしょうか、
私はドイツ語(ましてそのニュアンス)はまったくわかりませんけど
確かその本は超人思想をぶち上げたやつで、
そのあたりから察すれば短絡的ながらそういうことになる気がします。
あるいは「すべての人が超人になる権利はあるけれども、現実的には不可能」
というかんじです。
私は今「超人」と聞いてとりあえず思うのは、
ニーチェは具体的に誰かを想定していたのか、
「超人」はニーチェのまわりのどこかに実在したのか、ということです。
私としては、カエルのツラにションベン的な猛者程度ならあり得る
かもしれませんけど完全な超人は無理のような気がするのです。
そしてそのことはニーチェ自身も薄々(?)感づいていた気がしています。

さて、ニーチェは何を思って「超人」とか言ったのでしょうか、
たぶんそこまでは既に分析されているでしょうけど、
とりあえず私としては「進化論」の方にリアリティを感じます。
ダーウィンによると生き残るのは「強い者」でもなく「賢い者」でもなく
「変化できる者」とのことです。
ニーチェの「超人」というのが「変化できる者」なのかどうかは存じませんけど
自然選択には多分の偶発性が含まれ
超人といえども淘汰されない保証はない気がするのです。
歴史は理屈ではない、というかんじです。

485 :考える名無しさん:2022/01/06(木) 20:27:51.86 0.net
>>468-474の書込みは華麗にスルーですか

486 :でこすけ:2022/01/06(木) 21:11:43.65 0.net
>>483
>愉しい学問ができればいいなと思います
私は「本当に知りたいこと」というのは「知って後悔すること」
あるいは「恐ろしいこと」だと思っています。
これは私自身の経験に基づくものです。
しかし答えを知りたい気持ちは止みません。
とりあえず「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」を思い出します。

>意識は下位的であり得る
栗本的に言うと上位に当たるのが「暗黙知」です
(ちなみに『暗黙知の次元』ではこのことはよくわかりません)。
私としても「暗黙知」とか「神」とかにはちょっと違う感がありますが、
何かがあるはずだというチョッカンはあったりします。
むしろ上位があることによって下位が安定するというおはなしのつもりです。

487 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 01:28:31.64 0.net
>この»Verachtung«/「さげすみ」においては、自らを含む「»Das Man«/
『男(を)』」の各々が、《un pauvre con》に見えることになるだろう。 <

相手からそのように《un pauvre con》として見えるものとしての
みづから(身づ柄/自ら)が「我(われ)」である。

488 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 01:36:10.63 0.net
したがって、みづから(身づ柄/自ら)が「我(われ)」であるという自覚は、
すなわち、「もののあはれ」を覚えることでもある。

489 :時計 :2022/01/07(金) 03:02:57.62 0.net
>>485
駿河さんでしょうか。別人かな。
>>478で触れていますよ。

>>486
私は数学は好きですし、それはないかなと思います。
でこすけさんは、例えば、どういうことを知って後悔しましたか?

『暗黙知の次元』には創発のことは書いていないのかな。
だとしたら、残念です。
そこは、期待していました。

>>487-488
身近なところに「もののあはれ」はあるんですね。

490 :でこすけ:2022/01/07(金) 09:36:23.60 0.net
>>489
>どういうことを知って後悔しましたか?
結果的にどういう感じになっちゃうのかというと
なんだかすべてがバカバカしくなっちゃったりするんだと思います。
誰でもうっすら経験したことがあるのではないかとも思いますけど
見切ってしまうとそれがどうでもよくなるというか、
やる気が無くなるというか、
ただしそのきっかけになる知識はいろいろのようです。
たとえば政治家とか実業家とかが世の中の仕組みをわかってしまうととか、
精神科医が世の中の人々の精神構造を見切ってしまうととか、
風俗嬢が人間の裏側を見てしまうととか、
何やら「限界を知る」ということでしょうか、
あるいは私も投稿を始めた当初は凄いことを言いふらしたい気持ちでしたけど
だんだんどうでもよくなってきてしまいました。
今後の展開が見えてしまったかんじです。
かと言って後戻りもできません。
なんだかすごく残念なことになった気がするんですが、
しかしよく考えてみれば後悔だけでなく
もっとポジティブな思いもあることはある気はします。

491 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 09:44:06.39 0.net
>423考える名無しさん2022/01/04(火) 09:57:02.410>>425
その「『あらたかな』気づき」こそが「もののあはれ」であり<

>474考える名無しさん2022/01/06(木) 10:56:46.140
この、「生の惨めさ」に対する»Verachtung«/「さげすみ」は、
[...]それが裏返ってそのまま「もののあはれ(≒"*ahtu")」として
立ち現れて新たな創造に
向かはせることになるのである。<

ここで、»Verachtung«/「さげすみ」から「もののあはれ(≒"*ahtu")」への
転換が生じるのは、»Ver・achtung«という表現の語源とされる»Acht«/
「気づき」を軸とすることによってであることに注目しよう。»Acht«/
「気づき」とは、パウル・ツェランの言葉を借りるなら、"Atemwende"、
すなわち、「いき(息/生)の休止点/転換点」である。

492 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 09:44:51.41 0.net
誤:"Atemwende"
正:»Atemwende«

493 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 10:01:06.44 0.net
>相手からそのように《un pauvre con》として見えるものとしての
みづから(身づ柄/自ら)が「我(われ)」である。<

>したがって、みづから(身づ柄/自ら)が「我(われ)」であるという自覚は、
すなわち、「もののあはれ」を覚えることでもある。<

であるとするなら、自らを含む、各々が《pauvre con》である»Das Man«
に対する»Verachtung«/「さげすみ」から「もののあはれ(≒"*ahtu")」への
転換は、日常的に生じてよさそうなものだろう。しかし、人々の相互性
によって構成される世間は、その転換を未然に防ぐように作用する。
それは、暗黙裡の、というより制度化された»Verachtung«/「さげすみ」
の相互化によってである。その相互化によって、各々が《pauvre con》
である»Das Man«の在り方が、《pauvre con》/「惨めで哀れな者」同士
の暗黙の連帯として維持されるのだ。その連帯を維持しようとする意識こそ、
ニーチェが「賤民意識」、「畜群道徳」などと呼んで拒絶しようとした
ものであると考えることができる。

494 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 10:09:19.10 0.net
>>453
"those who think they know what is your duty better than
you know it yourself"こそが、《pauvre con》/「惨めで哀れな者」同士
の暗黙の連帯として維持される»Das Man«である。

495 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 10:48:33.71 0.net
日本語において、「我(われ)」は、それが「主(ぬし)」である相手に対する
自称であることからも分かるとおり、自己卑下である(「僕(ぼく)」に
ついても同様である。ただし、「私(わ・たくし)」については、「託し」に
おける権限の委託がかかわるので、ここでは措いておく)。このみづから
(身づ柄/自ら)を「我(われ)」として指し示す自己卑下において表現される
「卑下」の意識が、すなわち、»Verachtung«/「さげすみ」である。
このことは、例えば、フランス語で《Oui monsieur》と応えること、
スペイン語で"Sí Señor"と応えることが、主(ぬし)と僕(ぼく)の関係
を表現し、その関係が»Verachtung«/「さげすみ」を伴うのと同様である。

では、なぜ日本語において、自らの「我(われ)」として指し示すたびに
その都度、その»Verachtung«/「さげすみ」を意識させられずに済むか
といえば、それは、「主(ぬし)」と「我(われ)」の呼称が、相手と自分
の間で交替可能に使われるからである。その交替によって互いの等しさ
が確認されるように見えるため、その交替の一般化によって全体の
平等がもたらされるかのように思える。しかし、この相互的な「自己卑下」
によって実際に生じるのは、「卑下」の相互的な取消し/キャンセル
ではなく、暗黙裡に互いに貶め合ふ「お前もな」という「なあなあ」の
抑制的な関係の強制であり、この相互的な「お前もな」の「な」が表現
するのは、下僕としての連帯感だろう。したがって、この「なあなあ」
の関係は、「己(な)を汝(な)として主(あるじ)する」ことによって
「な(己/汝)」の関係性を生じさせること、すなわち、みづから(身づ柄/
自ら)を"the patronizing we"として生成することを阻止するのである。

496 :「我(われ)」を自覚する/「もののあはれ」を知るとは:2022/01/07(金) 10:53:43.42 0.net
>It is easy in the world to live after the world’s opinion. It is easy
in solitude to live after our own. But the great man is he who in
the midst of the crowd keeps with perfect sweetness the independence
of solitude.<

― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.78

497 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 11:41:08.39 0.net
>>490
むしろ、展開が見えたつもりでいて、実際には語りえぬ現実のほうに馬鹿馬鹿しくなったのでは?

498 :時計 :2022/01/07(金) 15:25:58.43 0.net
>>496
迷惑そうだな。:)

499 :時計 :2022/01/07(金) 15:27:28.32 0.net
>>495
「私」が「託し」だとか、悪い冗談のよう。

500 :時計 :2022/01/07(金) 15:30:10.11 0.net
>>499
ややこしくならないように「わたし」が広まったのかもな。

501 :時計 :2022/01/07(金) 15:35:37.69 0.net
>>490
諦観という概念には個人的にはポジティブです。
全てがバカバカしくなったことはないですね。
世界はいつも驚きに満ちていると思います。

502 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 16:23:59.76 0.net
>>499
確かにあなたには、いくら「私(わたくし)にお任せください」と
求められても、何も安心して委託することはできませんね。

503 :時計 :2022/01/07(金) 19:35:36.34 0.net
>>502
「和足し」の方がまだ納得できるかな。
「和託し」はちょっと……

504 :時計 :2022/01/07(金) 19:48:17.88 0.net
>>503
「和足し」や「和託し」が語源かどうか解らないけれども、
そういうニュアンスがあるのは確かだろうね。

505 :時計 :2022/01/07(金) 19:50:12.46 0.net
>>504
そういうニュアンスを持ち得ることと言うべきか。

506 :時計 :2022/01/07(金) 19:52:27.46 0.net
>>502
ちなみにその問いにはYesでありNoでもある。
内容による。

507 :時計 :2022/01/07(金) 19:54:56.03 0.net
>>506
また変な言い方になったな。
YesとNoどちらもあり得る。

508 :時計 :2022/01/07(金) 20:05:49.41 0.net
>>495
「我」が自己卑下だとすると、「なあなあ」の関係になることは、
確かに正しいかなと思います。
しかし、『我」が自己卑下かどうか私には解りません。

509 :なめとんかワレ:2022/01/08(土) 00:59:52.63 0.net
>白水社 中国語辞典
吾辈
ピンインwúbèi
((文語文[昔の書き言葉])) 私ども.≦我们.<

『吾辈(わがはい)は猫である』=「私どもは猫である」

510 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 01:33:10.44 0.net
>>508
分からないときには、手がかりが得られるように問ひを発するのが
哲学というものです。

511 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 01:44:38.35 0.net
「なめとんかワレ」は、明らかに相手に対する»Verachtung«/「さげすみ」
を表現しているでしょう。では、その»Verachtung«/「さげすみ」は
どのように表現されているのか。»Verachtung«というドイツ語が
「さげすみ」を表現するとすれば、»Verachtung«の»Ver-«はどのような
役割を果たしているのか。ドイツ語で「わす(忘)れる」ことを、
»vergessen«と言うが、この場合、日本語とドイツ語は表現上どのように
対応していると考えることができるのか。分かるように手がかりが得られる
まで問ひを発しつづけることが大切です。

512 :時計 :2022/01/08(土) 01:48:59.49 0.net
>>510
そう言われてもね……
思い浮かぶのは「これ」、「あれ」、「それ」などの
代名詞に使われる「れ」と、
「わが」などの「わ」がくっついたものということかな。
「れ」は中性的だし、「わ」も特に自己卑下しているとは
思わないけれども。

513 :時計 :2022/01/08(土) 01:50:53.38 0.net
>>511
行き違いになりました。
「なめとんのか自分」もいいますね。
しかし、自分はさげすみではないですよね。
我もそうではないかな。

514 :時計 :2022/01/08(土) 01:52:09.12 0.net
>>513
正:「自分」
誤:自分

515 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 01:55:48.62 0.net
>自分はさげすみではないですよね。

自分は、「わきま(弁)へ」ですよね。
「手前」はどうでしょうか。相手を「手前」と呼ぶことはどのような
関係性を示そうとすることになるでしょう。

516 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 02:00:47.13 0.net
「よくも貴様(きさま)!」というときは、相手が「つけあがっている」
と感じているのではないでしょうか。

517 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 02:02:36.57 0.net
「自分」は、分際(ぶんざい)でしょう。
すべて混ぜ合わせて論じようとしてばかりいては、哲学的に考えることができません。

518 :時計 :2022/01/08(土) 02:03:05.38 0.net
>>515
わきまえですか…… うーん。
さげずみよりは、あるかな。
「手前」は「てめえ」と読むのかな。
「お前」みたいな高圧的な態度かなと思います。
「お前」も不思議ですよね。敬語ですし。

519 :時計 :2022/01/08(土) 02:05:45.00 0.net
>>516
貴様も逆に丁寧ですよね。
貴方様とは言わない。
これを言うと自分が小者だと言っているようなものかな。

>>517
分けて考えるといいかもしれませんね。

520 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 02:08:50.50 0.net
>>518
少しは自分で考えてみてはどうですか。
「お前」は、誰を指し、誰の「前」なのか。

521 :時計 :2022/01/08(土) 02:09:48.35 0.net
>>520
私自身の考えは>>512に書きましたけど。

522 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 02:11:45.50 0.net
>>511で応えています。水飲み場まで連れて行くことはできますが、
水を飲むかどうかは本人次第です。

523 :時計 :2022/01/08(土) 02:14:45.38 0.net
>>522
まあ、私の考えは>>512にあるように中性的かな。

524 :時計 :2022/01/08(土) 02:24:15.75 0.net
>>522
もっと美味しい水を飲みます。:)

525 :時計 :2022/01/08(土) 02:35:20.03 0.net
>>518
「手前」や「お前」が高圧的なのは、
自己中心的だからと言えるかな。

526 :時計 :2022/01/08(土) 02:36:52.87 0.net
>>525
「お前さん」が丁寧だったり、文脈には依りますね。

527 :時計 :2022/01/08(土) 02:38:31.63 0.net
>>526
寧ろ、「貴様」が偉そうなのは面白いです。:)

528 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 07:27:46.42 0.net
「貴様(きさま)と俺(おれ)」は、互いに遠慮することのない関係の
ことですよね。相手は自分に対して遠慮なく振る舞っているので、
自分も相手に対して遠慮する必要がまったくない。その意味で
相手を「貴様(きさま)」と呼ぶことが対等の関係性を表現している。

529 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 07:46:03.61 0.net
>>495
誤:自らの「我(われ)」として指し示す
正:自らを「我(われ)」として指し示す

530 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 09:37:16.36 0.net
無礼講が上下関係を無視するように「貴様(きさま)、何様のつもりだ」
という無礼な振舞いをする相手が「貴様(きさま)」として指し示され、
互いにそのように振る舞うものと認め合う間柄が「対等な関係」である
と認識されていることになる。

531 :でこすけ:2022/01/08(土) 09:43:24.22 0.net
>>497
匿名掲示板であっても「言いにくいこと」というのはあるものです。
投稿の内容だけでなく投稿された動機などを模索することをお薦めさせて
いただきます。

ちなみに>>468付近についての私の意見ですが
つまり一連の投稿の動機とか文脈とかがいまいち私にはつかめていないため
なんともコメントのしようがない、というのが率直なところです。
それは私の中で辻褄が合わない(あくまでも私の側で)
ということです。

532 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 09:50:50.83 0.net
「言いにくいこと」があるのは、恥ぢらいによるのでしょうか、
それとも畏れによるのでしょうか?

533 :時計 :2022/01/08(土) 09:51:45.53 0.net
>>528
私は「俺」は日常的によく使いますが、「貴様」は殆ど使いません。
「お前」も結構つかいますよ。あんまりいい言葉ではないですが。
『僕」は卑下というか猫を被っているみたいなところはあると思います。
僕派の方の意見はまた異なるのだとは思いますけれども。

534 :時計 :2022/01/08(土) 09:55:14.68 0.net
>>530
私の感覚では、「俺」と「お前」ですね。呼応するのは。

535 :時計 :2022/01/08(土) 09:55:56.97 0.net
>>534
でも、「お前」は何か偉そうですから、あんまり使いません。

536 :時計 :2022/01/08(土) 10:10:28.08 0.net
>>533
正;「僕」
誤:『僕」

537 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 10:24:25.69 0.net
>私は「俺」は日常的によく使いますが

業務上、電話口でよく使われるようですね

538 :時計 :2022/01/08(土) 10:44:10.49 0.net
>>537
え? 友人に対してですよ。

539 :時計 :2022/01/08(土) 10:45:32.98 0.net
>>538
特に古い友人には「俺」かな。子供の頃は「俺」と言っていたし。

540 :時計 :2022/01/08(土) 10:58:09.79 0.net
>>533
正:使いますよ
誤:つかいますよ
間違いではないが……

541 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 11:44:35.79 0.net
>>531
書き込み動機は書き込む人の心理的なものですから、書き込みを見る側にとっては
書き込まれた内容しか関心が向きません。
書き手の動機を模索するほど書き手に関心があればべつでしょうけれど・・・

542 :考える名無しさん:2022/01/08(土) 16:44:16.05 0.net
革命や独立とされる政変イベントが、社会における人々の関係が
自由で平等なものに向かうという夢/幻想を抱かせるとすれば、
それは、そのイベントが続く限定された期間が「無礼講」として
機能するからである。「無礼講」は、人々の間で定められた
礼節/"civility"を蔑ろにする行為の実践であり、その実践が、
人々の間でそれまで定められていた上下関係などによる規制を
無視して、自由に振舞うことができるという夢/幻想を一時的に
もたらすのである。では、その「無礼講」の「混乱状態」から、
自由と平等と博愛に基づく新たな礼節/"civility"を構築する
ことは可能なのだろうか。一見、誰にでも受け入れられるよう
に見える、「互いを尊重するように各自に礼節/"civility"を
守らせる」ことを目的として掲げる全体的なシステムを
構築しようとすることそのものが、必然的に、「圧政の下
で暮らしている」、「固定化された上下関係に縛られている」、
「自らの自由と平等の実現の可能性が奪われている」と人々に
感じさせる恒常的な状況を生むことになるのではないか。

543 :時計 :2022/01/08(土) 16:54:56.72 0.net
ノブレス・オブリージュを身に付けないと。
日本人も西洋人ノブレス・オブリージュを期待しているようでは、
真の先進国民とは言えないだろう。

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