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意識のハードプロブレムの答え15

495 :考える名無しさん:2022/01/07(金) 10:48:33.71 0.net
日本語において、「我(われ)」は、それが「主(ぬし)」である相手に対する
自称であることからも分かるとおり、自己卑下である(「僕(ぼく)」に
ついても同様である。ただし、「私(わ・たくし)」については、「託し」に
おける権限の委託がかかわるので、ここでは措いておく)。このみづから
(身づ柄/自ら)を「我(われ)」として指し示す自己卑下において表現される
「卑下」の意識が、すなわち、»Verachtung«/「さげすみ」である。
このことは、例えば、フランス語で《Oui monsieur》と応えること、
スペイン語で"Sí Señor"と応えることが、主(ぬし)と僕(ぼく)の関係
を表現し、その関係が»Verachtung«/「さげすみ」を伴うのと同様である。

では、なぜ日本語において、自らの「我(われ)」として指し示すたびに
その都度、その»Verachtung«/「さげすみ」を意識させられずに済むか
といえば、それは、「主(ぬし)」と「我(われ)」の呼称が、相手と自分
の間で交替可能に使われるからである。その交替によって互いの等しさ
が確認されるように見えるため、その交替の一般化によって全体の
平等がもたらされるかのように思える。しかし、この相互的な「自己卑下」
によって実際に生じるのは、「卑下」の相互的な取消し/キャンセル
ではなく、暗黙裡に互いに貶め合ふ「お前もな」という「なあなあ」の
抑制的な関係の強制であり、この相互的な「お前もな」の「な」が表現
するのは、下僕としての連帯感だろう。したがって、この「なあなあ」
の関係は、「己(な)を汝(な)として主(あるじ)する」ことによって
「な(己/汝)」の関係性を生じさせること、すなわち、みづから(身づ柄/
自ら)を"the patronizing we"として生成することを阻止するのである。

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