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意識のハードプロブレムの答え15
- 566 :考える名無しさん:2022/01/09(日) 02:59:58.52 0.net
- まあ、うらやんだあとのアクションが問われる話だなw
下等には無理だがw
- 567 :考える名無しさん:2022/01/09(日) 03:47:13.28 0.net
- huhugaiji
- 568 :時計 :2022/01/09(日) 04:27:44.37 0.net
- >>560
礼は礼節を包摂する概念だと思います。
>>561
>>564
私もあんまり羨まないタイプです。
>>566
仮に羨んだとしても、向上心を持つか、蹴落とそうとするか、
その辺りのことは大切かもしれませんね。
- 569 :し :2022/01/09(日) 05:08:51.23 0.net
- かさ
- 570 :考える名無しさん:2022/01/09(日) 08:49:16.12 0.net
- 空飛ぶ鳥も落とす(読み)そらとぶとりもおとす
精選版 日本国語大辞典「空飛ぶ鳥も落とす」の解説
空を飛んでいる鳥さえも落とす力をもっている。不可能なことはないほど権勢を誇っているたとえ。飛ぶ鳥を落とす。
- 571 :でこすけ:2022/01/09(日) 09:58:03.23 0.net
- >>532
もちろん「恥ぢらひ」とか「畏れ」とかもあるでしょうし、
あるいは「まったくスレ違になってしまって申し訳ない」とか
「水を指してしまって申し訳ない」とか
そういうこともある気がします。
>>541
「動機」という表現はちょっと違ったかもしれませんが
投稿者の「意図」とか「立場」とかについては
私はむしろ意識しておく必要がある気がします。
言葉は文脈の中で理解されるものだからです。
ましてどのようにでも解釈できるものについてはそれは必須だと考えます。
もっとも私のどのような投稿でもまずそちらに関心が向くという傾向は
単に私の癖に過ぎないものなのかもしれません。
たとえばその部分でいうと
何故時計さんは「おそろしいこと」ではなくて「後悔したこと」に
関心が向かったのか、
そういうことから考えたりするのです。
- 572 :時計 :2022/01/09(日) 12:28:12.33 0.net
- >>571
それは難しい問題ですね。
「恐ろしいこと」は自明のようで宗教的でもありますし、
簡単には行かないと直感したのかもしれません。
- 573 :考える名無しさん:2022/01/09(日) 13:28:56.48 0.net
- >>571
動機も意図も立場も、言葉の意味と文脈において的確に表現されなければ
意識しておく必要があるという意識とは裏腹に、共有できないとおもいます。
動機と意図と立場は、意味がまるで違います
使う単語を間違えれば、動機も意図も立場も理解されません。
因みに、恐ろしいと感じる対象は人によってまちまちで、
ようは共感できるかできないかでしかありませんが、
知ったら後悔するほどの「本当に知りたいこと」が本当なら
それは一体なにか?関心を持つのが普通かなと思います。
- 574 :時計 :2022/01/09(日) 15:49:17.56 0.net
- >>571
因みに、恐ろしいこととは例えばどのようなことでしょうか。
- 575 :し :2022/01/09(日) 19:48:27.36 0.net
- 1
- 576 :時計 :2022/01/10(月) 16:43:19.36 0.net
- 実在は確かに存在することである。
それゆえに幻想ではないし、必然ではないという
意味に於いては、幻想である。
確かに存在することには、両方の側面がある。
- 577 :時計 :2022/01/10(月) 17:30:52.63 0.net
- 脳も実在であるから、その存在確率は1ではない。
さらに、私は小さくない確率で、今知られている脳の他に、
意識の座は実在すると考えている。
魂を実体化させると、それと似たようなものかもしれない。
魂は人間の身体の内側に存在すると考えられることは多いだろうが、
私は意識の座は人間の身体の内側に限定されないと考えている。
- 578 :時計 :2022/01/11(火) 12:55:31.06 0.net
- ニーチェの『愉しい学問』、戦争と奴隷制を賛美しているところがあり退く。:)
- 579 :考える名無しさん:2022/01/11(火) 13:27:33.07 0.net
- まぁ完璧な人間は存在しませんね、哲学者さりとて・・・・
- 580 :時計 :2022/01/11(火) 13:33:50.99 0.net
- 「自分の欲することを、相手にする」ことと
「自分の嫌なことを、相手にしない」こととではどちらが大切だろうか。
- 581 :時計 :2022/01/11(火) 13:36:16.90 0.net
- >>579
そうですね。ニーチェは政治家には向いていないということで。適材適所。
- 582 :考える名無しさん:2022/01/11(火) 14:56:09.59 0.net
- >>580
なんにせよ、大切さは優先順位で自ずと決まりそう
- 583 :時計 :2022/01/11(火) 15:23:39.73 0.net
- >>582
まあ、ケースバイケースかな。:)
- 584 :考える名無しさん:2022/01/11(火) 15:35:59.71 0.net
- ケースバイケースって優先順位とおなじでしょ
- 585 :時計 :2022/01/11(火) 15:52:55.23 0.net
- >>584
そうですね。そういうつもりで言ったんですよ。
- 586 :時計 :2022/01/11(火) 15:53:56.90 0.net
- >>585
「まあ、ケースバイケースか」ということです。
こちらの方が解りやすかったかな。
- 587 :考える名無しさん:2022/01/11(火) 18:24:50.88 0.net
- おまえらは完ぺきな人間なんだがw
- 588 :時計 :2022/01/11(火) 18:38:43.57 0.net
- ニーチェの『愉しい学問』を読みましたが、
私は弱者を助けることは社会の平和に繋がると考えますから、
どうも基本的なところでニーチェとは合わないようです。
- 589 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 00:12:18.36 0.net
- では、「病める畜群の予定された救済者、牧者、弁護人」となることを目指しましょう
- 590 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 00:38:45.72 0.net
- 弱者がいつまでも弱者でなければ無理だなw
- 591 :時計 :2022/01/12(水) 01:08:29.54 0.net
- >>589
うーん、嫌な二者択一ですね。第三の道を探ります。
弱者の尊厳を大切にするとか。
- 592 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 01:38:56.36 0.net
- 弱者にとっての尊厳が弱者にとって迷惑だとしたら?
- 593 :時計 :2022/01/12(水) 03:57:19.73 0.net
- >>592
私は人はほとんど皆、尊厳を求めると思いますが。
- 594 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 09:34:37.98 0.net
- >「病める畜群の予定された救済者、牧者、弁護人」
ここで「予定された」という言葉の意味がお解かりでしょうか。
「予定された」とは、予めそのような役割をするように定められている
ということ。つまり、裏を返せば、仕組みとして「病める畜群」が
生まれることが予定されているということでもあります。
- 595 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 09:39:59.22 0.net
- 命令すんなアホ
- 596 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 10:14:55.54 0.net
- まあ、尊厳をもてとか他人から命令されたらウザいわな
- 597 :お前もな:2022/01/12(水) 10:16:47.64 0.net
- そのための「馴合いの相互強制/矯正」≒「畜群倫理」でしょう
- 598 :まあ酒でも飲め:2022/01/12(水) 10:25:46.59 0.net
- 結局は、正常性バイアスが働くように互いに強制力を働かせる
ことにより、さもなければ、それに気づいて意識せざるを得ない
不快な不調和に自らの感性が働くことを麻痺させたいということ。
- 599 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 10:37:36.63 0.net
- なにごとも心の趣くままであるなら、呼応関係の「心地よさ」/"accord"が
保たれて、本来的に違和感の識別として働く「意識」が生じることは
ないのです。呼応関係の「心地よさ」/"accord"に対する不調和が、
互除法の操作において「残差」の反転が繰り返されるように、意識され、
「かむ(神)・か(交)へ/考へ」られるべきものとなる。
- 600 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 10:50:38.50 0.net
- おもしろいことに、ポルトガル語では、"acordar"の方が、「意識が戻る」
ことや「気がつく」ことを意味するように用いられるという反転が生じて
いるんだよね。
- 601 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 11:05:11.85 0.net
- https://www.etymonline.com/search?q=accord
accord (v.)
Origin and meaning of accord
early 12c., "come into agreement," also "agree, be in harmony,"
from Old French acorder "agree, be in harmony" (12c.), from
Vulgar Latin *accordare "make agree," literally "be of one heart,
bring heart to heart," from Latin ad "to" (see ad-) + cor
(genitive cordis) "heart" (used figuratively for "soul, mind"),
from PIE root *kerd- "heart."
- 602 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 11:09:18.14 0.net
- https://en.wiktionary.org/wiki/acordar
From Old Portuguese acordar, from Vulgar Latin *accordō.
Sense of "to wake up" was possibly influenced by Latin cordatus
(“wise, prudent”), which would yield *cordado if inherited.
- 603 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 11:12:33.80 0.net
- 493考える名無しさん2022/01/10(月) 10:19:53.800
1.0=(x^α)/(x^α)=x^0=1
分母と分子のx^αの間の「原始」の呼応関係は、
不特定の同一性を表す1によって代表させても、
変化がみられないことを表す指数の0によって代表させてもよい。
食べ物を何も味わっていないときの舌も、味覚が麻痺しているわけではない。
味覚について特定の変化を意識させない不特定の同一性の状態(心地)に
保たれているだけである。
- 604 :塩なめくじ:2022/01/12(水) 12:06:06.38 ID:dM8c2MU40.net
- 分母の因数にxを持ってくるときはx≠0を明記してくださいね。
- 605 :時計 :2022/01/12(水) 12:45:06.01 0.net
- >>594
私は、「病める畜群」という表現はどうかと思いますが。
面と向かって言えますか?
だから、ニーチェは政治家には向いていないと思います。
- 606 :時計 :2022/01/12(水) 12:53:29.96 0.net
- >>594
「予定された」は「救済者」等にかかると読んでいました。
- 607 :時計 :2022/01/12(水) 12:58:49.45 0.net
- >>596
相手に敬意を払うこと、暗黙知に敬意を払うことかもしれません。
- 608 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 13:22:56.94 0.net
- https://ja.wikipedia.org/wiki/判断力批判
>本書の主要概念である「趣味判断」(または「美的判断」)とは、
人間が物事の美醜を判断する際、その判断の基準は個人の趣味
(ドイツ語: Geschmack ; 英語: taste)であるということを意味する。<
カントに依拠するまでもなく、「よし/あし」の区別は、その最も基本に
おいて、何らかの感覚の変化が「心地よき」/"agreeable"方に向かふもの
であるか、「心地あしき」/"diagreeable"方に向かふものであるかの
区別でしょう。最終的に完全に呼応関係の「心地よさ」/"accord"が
もたらされて、「心地あしき」ものである不調和が解消されたなら、
満足がもたらされ、物事を知覚し、認識するするものとしての意識の
働きは「わす(忘)れ」られる。
- 609 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 13:34:03.06 0.net
- ここで留意しなければならないのは、意識の働きが「わす(忘)れ」られる
ことは、「意」が消滅することを意味しているわけではないということです。
そうではなく、「意」は「やすらふ」のです。
>446Wille zur Macht2022/01/04(火) 22:50:24.540
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74
457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」<
https://www.etymonline.com/search?q=agree
agree (v.)
late 14c., "to give consent, assent," from Old French agreer "to please,
satisfy; to receive with favor, take pleasure in" (12c.), a contraction
of phrase a gré "favorably, of good will," literally "to (one's) liking"
(or a like contraction in Medieval Latin) from a, from Latin ad "to"
(see ad-) + Old French gre, gret "that which pleases," from Latin
gratum, neuter of gratus "pleasing, welcome, agreeable"
(from suffixed form of PIE root *gwere- (2) "to favor").
- 610 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 13:46:14.39 0.net
- これは、ここに引用する語源辞典の記載とも異なる私自身の異端的な解釈
ですが、私は、フランス語の《regret》に見られる"gret"も、《regretter》
という表現が日本語の「を(惜)しむ」にきれいに対応して「意に反する現状」
を指し示すように用いられることから、"agree"について記載される解釈と
同様に、>Old French gre, gret "that which pleases," from Latin gratum,
neuter of gratus<に対応するものと考えています。また、そのように
考えると、エマソンの>true gratitude is to do what you can.<という
表現も、十全に理解できるのではないでしょうか。
- 611 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 13:48:42.00 0.net
- >>608
誤:認識するするもの
正:認識するもの
- 612 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 13:53:25.16 0.net
- >「予定された」は「救済者」等にかかると読んでいました。
もちろん「救済者」にかかるでしょう。「救済者」の役割が予定されたもの
であるなら、「救済されるべき病んだ畜群」が生じることも、その仕組み
において同様に予定されていることになります。これにかんしては、
『善悪の彼岸・道徳の系譜』の方を参照してください。
- 613 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 14:51:25.18 0.net
- >だから、ニーチェは政治家には向いていないと思います。
ニーチェは、政治指導者などになろうとしてはいない。
そのことは、ニーチェ本人が明言している。
ニーチェが何かの政治思想を訴えることで人々を導こうとしている
と考えることは、ニーチェの著作を根本的に読み違えていることになるだろう。
- 614 :時計 :2022/01/12(水) 15:19:25.82 0.net
- >>613
まあ、それはそうですが。
- 615 :時計 :2022/01/12(水) 15:22:01.25 0.net
- >>612
その予定には運命論的なものを感じます。畜群が畜群であるのも運命なのか……
- 616 :時計 :2022/01/12(水) 17:28:05.84 0.net
- >>614
なりたいなりたくないじゃなくて向いていないということですね。
- 617 :時計 :2022/01/12(水) 17:34:24.76 0.net
- >>612
しかし、病んだ畜群という言葉はどうにかなりませんかね……
- 618 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 18:15:29.21 0.net
- 私には「病める畜群」というのは、適切な表現であるように思えます。
「病気」のことを古語では「なやみ」と表現しました。
「なや・む」の「なや」は、ヤ行の活用から推察されるとおり、
「あしなえ(蹇・跛)」の「なえ」や「な(萎)え」と共通であり、
「な・ゆ」を活用して派生させたものであると考えられます。
「な・ゆ」は、支える力が抜けていくようなイメージで捉えることが
できると思います。力が失せていくと自らを支えられない。
支えられないなら、支えようとしている活動の方を縮小してゆけばいい。
それが禁欲主義であり、そのように導くのが「病める畜群の予定された
救済者」の役割です。だから、普通、そのような「救済者」の役割を
自認する者は、我が身の血となり肉となると考えられる肉食を断つのです。
- 619 :時計 :2022/01/12(水) 21:18:15.21 0.net
- >>618
「病める」は語源を出すまでもないでしょう。
「病にある」ということだと思います。
現代の平均的市民は結構健康的だと思いますが。
あと、「畜群」という表現はどうなのか。
- 620 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 22:30:56.83 0.net
- なよなよしい
- 621 :考える名無しさん:2022/01/12(水) 23:09:42.58 0.net
- ようやく訪れた»Genesung«の時を「直毘神(なほびのかみ)」の来訪として言祝ぐ
- 622 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 03:44:09.70 0.net
- >>619
>>618を救済してやれよw
- 623 :時計 :2022/01/13(木) 06:22:04.45 0.net
- >>622
618さんは救われることは侮蔑的だと感じそうですね。
私は救われるものなら救われたいですが。:)
- 624 :時計 :2022/01/13(木) 06:27:22.86 0.net
- >>623
救いというか、真面目に考えると、
禁欲主義者は快楽主義者をアホだと思うし、
快楽主義者は禁欲主義者を「萎え」だと思うし、
ここを超えて行くことは大事なのかもしれませんね。
- 625 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 06:32:33.75 0.net
- 人を救うことも欲になるがなw
- 626 :時計 :2022/01/13(木) 08:06:36.01 0.net
- >>625
禁欲主義に導くのが欲だとすると目も当てられませんね。:)
- 627 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 08:19:08.18 0.net
- ニーチェは、意欲を肯定しているのですよ。
良心の呼び声/悪の誘惑という対比について考えてみましょう。
良心の呼び声と悪の誘惑はどこがどう違うのか。
悪の誘惑とは、自らの欲を満たしてくれるものに誘われるままに
行動することが、一時的な快楽をもたらして我を忘れさせると
しても、最終的には意に反する「心地あしき」/"diagreeable"
結果につながる、そのような働きをする誘いかけ/呼び声のことでしょう。
それに対して、良心の呼び声とは、それに応じて行動することが、
自らが欲しない痛みや苦しみが生じることを一時的に、または
恒常的に伴ふとしても、最終的には、それを耐え忍ぶに十分に値し、
支払われる犠牲を上回る報酬として、意に沿ふ「心地よき」/
"agreeable"結果につながる、そのような働きをする誘いかけ/呼び声
のことであると考えられます。
すると、良心の呼び声/悪の誘惑の対比は、結局のところ、それに
応じることが、意に沿ふ「心地よき」/"agreeable"結果をもたらす
(自分の命を犠牲にしてでも自分が大切にするものを守るという場合も
含め)か、それとも意に反する「心地あしき」/"diagreeable"結果
をもたらすかという判定基準に基づいていることになる。
- 628 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 08:26:23.96 0.net
- >禁欲主義に導くのが欲だとすると目も当てられませんね。:)
ニーチェは、禁欲主義は、「欲」を満足させる可能性を見失った「病める畜群」
の「欲」を救う方策であると指摘しているのです。
>人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する...
『善悪の彼岸・道徳の系譜』、ちくま学芸文庫、p.584
- 629 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 08:39:53.64 0.net
- >いっそむしろ虚無を欲する
虚無を欲しても無論、何も得られないが、
「欲すること」だけは救われる、「欲することはできる」というわけです。
- 630 :時計 :2022/01/13(木) 08:47:57.86 0.net
- >>627
意欲は大切ですね。
良心の「呼び声」ということがポイントでしょうか。
宗教的なものを感じます。
近視眼的な善は良くないですね。
私の良心の呼び声はしっかりしているといいのですが。
>>628
消極的禁欲主義と積極的禁欲主義がありそうですね。
- 631 :時計 :2022/01/13(木) 08:50:01.72 0.net
- >>629
虚無を欲すという言い方はややこしいですね。
寧ろ、無いから欲するわけで。
- 632 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 10:14:24.76 0.net
- ニーチェの言っていることは、日本語で考えるならとても簡単なのです。
それを分かりにくくしているのが、西欧哲学の言語使用の実践であり、
西洋哲学の言説を、日本語で考え直すことをせずに、そのまま日本語
の表現で置き換えようとする翻訳です。
最初から日本語で考えるなら、「水を!」というのが水を「欲する」
ことでしょう。ここで、「〜を!」は、「〜」を求める呼びかけです。
しかし、いくら「水を!」と呼びかけても、誰も/何ももそれに応へて
くれないならその呼びかけは無駄に終わり、「むな(虚)しさ」だけが
心に残る。すると、「水を!」と呼びかけることそのものを諦めて
しまう。それが日本語の古語の表現をそのまま用いるなら、
「いき(息)の『を(緒)』」、「たま(魂)の『を(緒)』」が
「た(絶)へ」るということであり、現代の一般的な日本語にするなら、
「生きる意欲」が失われるということです。「生きる意欲」を失った
人々は、生きることには苦痛でしかないと感じるようになり、
死ぬまで終わりのない耐えがたい苦難に直面していると感じるなら、
自ら命を断ってしまうことになる。そのような人々が「病める畜群」
です。その「病める畜群」の救済者として予定されているのが、
禁欲主義的僧侶であり、禁欲主義的僧侶は、自らが模範を示して、
人々が現世における何らかの対象を欲する代わりに、つまり、
「〜を!」の「〜」に現世的な事物を代入する代わりに「無」を
代入するように人々を導くのです。呼びかけが「無を!」であれば、
それに応へるものとして何も手に入らなくても呼びかけが無駄に
終わることはない。つまりは、生きる意欲である「〜を!」そのもの
が救われることになる。
- 633 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 10:15:00.89 0.net
- しかし、ニーチェは、そのような禁欲主義的僧侶の導きが、形式的に
「〜を!」=意欲を救うとしても、それが「無を!」という呼びかけ
に従うように人々を誘い込むものである以上、結局は、「病める畜群」
の病状を恒常化させ、深刻化させることにしかならないと批判して
いる。そこで、ニーチェが。やまひ(病)を癒へるために必要である
としているのが、「〜を!」の「〜」に「無」を代入することを
拒絶し、その「無」を「できること」、すなわち、»Macht«で置き換える
ことです。それがまさしく、ニーチェの»Wille zur Macht«/「できることを!」
という表現の意味に他ならず、これはエマソンの次の表現をそのまま
受け継ぐものであるものと見ることもできる。
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74
さらにここから、
>457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」<
という関係を導くこともできる。
- 634 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 10:16:53.18 0.net
- 誤:西欧哲学の言語使用の実践
正:西洋哲学の言語使用の実践
- 635 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 10:18:36.29 0.net
- 誤:やまひ(病)を癒へる
正:やまひ(病)が癒へる
- 636 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 10:24:41.26 0.net
- このように見ると、»Wille zur Macht«を「権力への意志」などと訳す
ことが、本当は容易に理解できるはずのニーチェの言説を解釈することを
いかに無用に困難にしているか分かるでしょう。また、日本語の古語と
ニーチェの表現の対応関係を見るなら、日本語は哲学をするのに向かない
言語であるなどという、日本語の哲学研究者によってさえしばしば
なされる主張がいかに馬鹿げたものであるかも明白となるはずです。
- 637 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 11:01:13.91 0.net
- 誤:生きることには苦痛
正:生きることは苦痛
- 638 :でこすけ:2022/01/13(木) 12:19:09.41 0.net
- >>573
>知ったら後悔するほどの「本当に知りたいこと」が本当なら
>それは一体なにか?関心を持つのが普通かなと思います
今更ながら私の言葉が足りなかったようで申し訳ありませんになりますけど、
「知ったら後悔すること」について、
あの時点では哲学的知識に限らず、もっと一般的なことを想定していました。
一般的に言って「クビを突っ込まなければよかった」というのは哲学者に限らず
誰にでもあり得ることだと思います。
ところで私としては「知ったら後悔すること」よりも 「知ったら怖くなること」
の方に関心があるので、 ご指摘のことについては貴重な意見として受け止めさ
せていただいているつもりです。
私(でこすけ)に限らず誰にでも普通とのズレがあるとは思いますが、
私にも自分ではけっこう自分の感性が普通だと思っている傾向はあるので
そのような視点は大変興味深いところです。恐縮です。
- 639 :時計 :2022/01/13(木) 12:27:40.78 0.net
- >>632
息の緒が絶へるや魂の緒が絶へるより、
生きる意欲が失われるの方が私には解りやすいです。:)
生きる意欲……ご飯が美味しいというだけで
楽しく生きる人もいるとは思いますが。
ニーチェは何故病める人々に畜群とキツく当たるのか不可解です。
生きる意欲のない人々は、「生きる意欲を!」と
日々心懸けていればいいのではないでしょうか。
私は似たような言葉として、「克己心」という言葉は好きです。
また、キリスト教的な、聖霊が導いてくれるという考えを
毅然と否定する必要性もよく解りません。
- 640 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:07:26.83 0.net
- >誤:やまひ(病)を癒へる
>正:やまひ(病)が癒へる
病を「癒(いや)す」という表現から考えて、「癒へる」ではなく、
「や行」の活用(「ゆ」の活用)で「癒える」とすべきでした。
訂正します。
- 641 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:12:28.34 0.net
- >ニーチェは何故病める人々に畜群とキツく当たるのか不可解です。
予定された救済者におとなしく従順に誘導され、同じように誘導されない
者に憎悪を向けるからですよ。
- 642 :でこすけ:2022/01/13(木) 13:16:49.47 0.net
- >>574
これまた例によって栗本慎一郎なんですけど、
確か彼が一躍世間に名前を売った『パンツをはいたサル』だったと思います。
彼によると執筆の動機は「怖いことを自分の中にだけしまっておくことに
耐えられなくなった」みたいなかんじのはなしでした。
それがどこまで本当なのかはともかく私がクリモトから学んだ最も重要なことは
「真理というのは怖いことだ」ということだと考えることにしています。
実際に私もクリモトの本を読んで怖くなったのです
(中毒症状もあったわけです)。
- 643 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:17:10.51 0.net
- ただしこの「コワい」という感覚も「真理」とは本質的には関係ないものだ
という認識はあるつもりです。
私がたまたま知っているのは物理学者のラザフォード先生のエピソードです。
ラザフォード先生は原子核を発見した人で
それはつまり原子の構造を解明したということになるようです。
当初は原子の中に電子などがどのようにして収まっているのかが
もちろんわからなかったわけですけど、彼がその問題に決着をつけたわけです。
そして、そのことは優秀な物理学者が大勢輩出された時代であり
研究の成果は早いものがちのような風潮がある中だったので、
つまり競争に勝ったみたいなところもあったようで、
後にお弟子さんが「原子核を発見したときは嬉しかったでしょ?」
と聞いてみたという話があります。
物理学者もやはり人の子で、そういうことにも関心はあるようです。
ところがラザフォード先生は「むしろコワくなった」と答えたというのです。
「世界に隠されていた真理を知ってしまった!」
という感じでしょうか、このことは私には大変興味深いことのように思えます。
もちろん今の科学的認識からすればいろいろなことがあるかもしれません。
しかしこのことから言えるのは「知識は人間にとって脅威になり得る」
ということだと思います。
さて、個人的にはここで気になることがあります。
この「畏怖」は偶然なのか必然なのか、
つまり何らかのシステムが私達から真理を遠ざけるためにそのように設定した
のか否かです。
私達が地震だの雷だのをコワいと感じるのはそのように設定されたからだと思う
のですが、真理も同様にヤバいものとして登録されているということでしょうか?
意識の構造が気になってくるところです。
- 644 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:17:53.46 0.net
- 呼びかけの「〜を!」は、フランス語の《vouloir》に相当するわけですが、
私自身の以前の書込みを引用しましょう。
851考える名無しさん2021/05/30(日) 07:25:39.320
>>788
>「後悔」を表現する《s'en vouloir》の関係を考察してみるなら
ここでは、辞書の記載そのままに、《s'en vouloir》が「後悔」を表現する
としたが、文章表現において実際に訳語をどう当てるにせよ、その表現の論理と
しては、フランス語が再帰表現なのだから、その対応関係を意識すべきであり、
《en vouloir à qn》が、「(人)を恨む」ことを表現するのに対応して、
《s'en vouloir de 〜》は、「自分を恨む」ことを表現しているとまずは解釈
した方がよい。
したがって、
《Je m’en veux d’avoir fait cela.》は、「それをした自分をうら(恨)む。」であり、
《Il s'en voulut de sa stupidité.》は、「彼は自らの愚かさをうら(恨)んだ。」である。
- 645 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:18:45.90 0.net
- 852考える名無しさん2021/05/30(日) 08:53:04.170
したがって、ニーチェが、禁欲主義的な僧侶の「をし(教)へ」に従うことを
畜群倫理として批判するとき、ニーチェは、人々が「恨みを抱く」ことを
単純に批判しているのではない。そうではなく、ニーチェがまず指摘して
いるのは、その「をし(教)へ」が導こうとしているのが、苦悩している人々
の抱く恨みの方向転換、すなわち、苦悩していて、そのことに対して
恨みを抱くなら、「自分自身を恨め」という方向転換であることである。
しかし単に、苦悩している人々に「それは自業自得だ」と説いてもすんなりと
受け入れられるはずはない。では、その方向転換は、どのように動機づけられる
のか。それは、苦悩している人々に対して、「その苦悩は、あなた自身の
せいだ(罪/負債によるものだ)」と呼びかけるのではなく、「その苦悩は、
あなた自身を含む、あらゆる人々のせいだ(罪/負債によるものだ)」と諭す
ことによってである。そのような呼びかけによって、苦悩する人々にとって、
「決して返済することのできない『罪/負債』」が、自らを含め、あらゆる
人にあると率先して認めようとすることが、自らに有利に働くように見える
「負い目の遠近法」が与えられるのである。そのような「をし(教)へ」が
人々によって受け入れられることによって確立されるのが、「罪/負債」
の一方向化であり、苦悩する人々が、「自分自身を恨め」という恨みの
方向転換に、「負い目の遠近法」を利用してあらゆる人々を巻き込もうと
することの正当化である。
- 646 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:21:12.13 0.net
- 852考える名無しさん2021/05/30(日) 08:53:04.170
しかし、そのような「をし(教)へ」による導きには、解消され得ない
根本的な矛盾がある。というのも、「決して返済することのできない
『罪/負債』」があらゆる人々にあるとしても、その「罪/負債」の
方向性は、まさにそのことによって誰にも定めることができないはず
だからである。「をし(教)へ」が、そのような「罪/負債」の一方向性
をあらゆる人々が認めさせようとするなら、その導きは、「罪/負債」
の方向性を定めることができる「神の代弁者」、ニーチェの表現を
借りるなら、「神の腹話術師」(それが制度宗教を離れた脈絡では、
「科学者」、「専門家」と呼ばれるとしても)を必要とするのである。
- 647 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:22:07.75 0.net
- 825考える名無しさん2021/05/29(土) 09:25:26.330
さらに、このような負い目の遠近法は、自発的従属による全体主義的な便乗
の暴力崇拝と極めて親和性の高いものなのではないか。
- 648 :でこすけ:2022/01/13(木) 13:22:52.28 0.net
- >>643
これはでこすけでした。
ちなみに「恐怖」は脳の中でも「脳幹」と呼ばれる
もっとも原始的な部位で感じるということを聞いたことがあった気がします。
「恐怖」は人類が誕生するずっと前からあった可能性があるということです。
- 649 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:28:12.13 0.net
- 「絶へる」の方も「絶やす」から考えるなら、「絶える」ですね。
訂正します。
日常の地の文で旧仮名遣いを使うことを習慣としていないので、
他のことに気をとられて書いていると、どうしても混乱してしまいます。
- 650 :考える名無しさん:2022/01/13(木) 13:39:40.71 0.net
- 「負い目の遠近法」を不特定多数の人々に押し付けようと日々活動
しているのは、どのような社会的立場にある人たちでしょうか?
- 651 :時計 :2022/01/13(木) 18:56:13.92 0.net
- >>641
私の知っているクリスチャンは憎悪しませんよ。
>>642-643
怖くなった事は、例えばどのようなことでしょうか。
ラザフォードの場合は、科学史に名前が残ることへの畏怖ではないでしょうか。
知識自体に畏怖はあるのかな。
- 652 :でこすけ:2022/01/13(木) 21:22:08.24 0.net
- >>651
たとえば私たちが「見えざる手」のコントロールを受けているかもしれない
というのは怖いことではありませんか?
自由意志で選択したつもりでいてもじつは暗黙のうちに選ばされていたりする、
ひょっとすると何者かによるステマに影響を受けていたりなんかするのは
とてもヤバいことのような気がします。
クリモトで印象に残っているのは「都市」についてです。
都市の造りには人間の深層意識が反映している、
たとえば世界中で人間には「聖なる空間」を作り出す習性があるとか、
これは京都でも東京でもそういう傾向があることが地図からでもわかりますし
私が生まれ育った町でもそうなっていたというのは
(そして実際にそこに行ってみると確かに独特の雰囲気があったりします)
何者かによるコントロールを受けているようで
なんだか怖いことのような気がしたものです。
ちなみにそういったことを抽象的に表現すると
ズバリ「自分の正体」になると思います。
「世界」は自分の鏡像かもしれませんからそういう意味でも真実は怖いもの
ということになります。
ただし「自分の正体」は「楽しい知識」でもあり得るものです。
自分について知りたいと思う、
このスレを見ているような人はつうしんぼとか楽しみだったクチではないか
と思うのですが、いかがでしょうか。
なんとも微妙なお話です。
- 653 :でこすけ:2022/01/13(木) 21:48:39.36 0.net
- 原子の構造について、私たちは学校で教わったりするわけですけど
たぶん「へえ、そうなんだ」くらいのものだと思います。
しかし人類史上で初めてそのことを突きとめた人にとっては
何か取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない
という感覚があっても不思議でないと私には思えます。
神の存在を信じていない人であっても
天罰が降るような「コワさ」を感じることはある気がします。
あるいは宗教などでもある種の知識をタブーにすることがあるようですが
「知識」というよりも「知ろうとすること」がヤバいのかもしれません。
- 654 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 01:08:01.98 0.net
- 対象として目の前にあるように見える事物は、「目の前にある」/
»vorhanden sein«という在り方をするよりも先にまず、「呼びかけの『を』」
に呼応する「こた(応)への『を』」として現れる。その現れ方を説明するための
アプローチとして、特に「て(手)ごた(応)へ」を利用したのが、ハイデガーの
「手頃にある」/»zuhanden sein«という表現であると考えることができるが、
日本語では、作用を働かせる対象物は「〜を」として示されるので、日本語の
表現の用法そのものにより、ハイデガーの説明よりもさらに一般的なレベルで
既に哲学的な解決が示されてしまっているとも言える。
- 655 :時計 :2022/01/14(金) 01:21:30.76 0.net
- >>652-623
見えざる手に関しては、私は運命論者ですから、
あまり怖くないかもしれません。
都市に聖なる場所のあることは、まあ文明かなと思います。
「自分の世界」という考えは、面白いですね。
あまり怖くないかもしれません。
神に、「それで正解だ」と言われたら畏れ多い、
そういうようなことかもしれませんね。
私は神や聖霊の存在は信じていますから、
そういうようなことがあっても不思議ではありません。
- 656 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 04:50:07.17 0.net
- >>653
ガキの頃からそうか?
違うならただのトラウマだw
- 657 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 09:19:09.48 0.net
- >>653
宗教が「知識」と呼ぶのはただの嘘だからな
それに対して科学上の知識に対して恐れる必要はないし、恐れるような人はいないんじゃないか
原子の構造が分かったくらいでなぜビビるのか分からん
- 658 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 09:44:07.25 0.net
- 畏れも怒りもともに解消されるべきものであって、それを抱えつづける
ことが正しい畏れ、正しい怒りなどというものはないのです。
「怒っている」/"angry"相手が「恐ろしい」/"fearful"であるように、
怒りと畏れは表裏の関係にある。
「怒り」とは、「心地あしき」/"diagreeable"さは(障)りをもたらす
ものを委縮させて無化しようとするように振る舞ふことであり、
同様に、「畏れ」も「心地あしき」/"diagreeable"さは(障)りを
無化しようとすることですが、「怒り」とは逆に、みづから(身づ柄/自ら)
が委縮することによって、さは(障)りが生じるのを回避しようとする
ように振る舞ふことなのです。その回避がうまくいかないところで
「ねぎ(禰宜)」/"appeasement"(「ねが(願)ひ」はその再帰形)が
執り行われる。
- 659 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 09:47:14.56 0.net
- 誤:"diagreeable"
正:"disagreeable"
誤りをコピペしていたので、気づかないまま、ずっと誤記を複製しつづけてしまいました。
- 660 :でこすけ:2022/01/14(金) 10:51:28.48 0.net
- >>657
その昔『羊たちの沈黙』というサイコホラー映画がありまして、
私は淀川長治氏の解説のテレビ番組で見たんですけど
その解説が大変印象に残っています。
物語はいわゆるシリアルキラーを扱ったものでしたが
解説によると本当に怖いのはそのような人たちではなくて
むしろそのような人たちに対して「沈黙している羊たち」だというのです。
いつ56されるかもわからないのにまったく危機感ゼロというのは
淀川氏が言う通りコワイコワイおはなしのように私には思えます。
ただ、このコワさが多くの人にとってわかりにくいものかもしれない
というのはわかるような気がします。
ことさらな危機感を持たなくても生きていける、
豊かな社会というのはそういうもののようです。
- 661 :でこすけ:2022/01/14(金) 11:04:10.04 0.net
- >>658
>正しい畏れ、正しい怒りなどというものはない
私も以前だったらそう考えたかもしれませんけど
最近考え方を改めました。
世界は善によって治められるべきだと思っていたのですが、
あるいは最後には善が勝つと思っていたのですが、
どうやら善と悪とでバランスをとっていくのが正解のように思えてきたのです。
これは善と悪というよりもライトサイドとダークサイドというニュアンス
かもしれません。
いずれにしても行ったり来たりすることに意義がある気がするのです。
どうやら『スター・ウオーズ』の影響のようです。
- 662 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 11:08:02.10 0.net
- >>661
「悪のあるべきかたち」などは有るわけが無いけれども
「善のあるべきかたち」というようなものも無い、
ということでしょうか。
- 663 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 11:40:35.54 0.net
- 「神の怒りに触れる」というのも、「人々が何か神によって定められた
特定の決まりごとに違反する行為をした」ということではなく、
何か恐ろしい("fearful")出来事が生じて、その恐ろしい出来事を
「畏れる」ことにより、それが何かの「さは(障)り」によって
もたらされたものと解釈され、いずれの神にとって、またどのように
して「心地あしき」/"disagreeable"さは(障)りが生じたのかが
探られるのです。それをうまく探り出すことができる者が優れた
「かむ(神)なぎ/巫」とされる。
- 664 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 11:49:30.80 0.net
- >>663
このように考えると、欧米の思想哲学の言説が、いかに神学を脱しようと
する試みをずっと続けてきたにしても、いまだに制度化された一神教の
神学の重力圏をうまく脱することができていないことが見えてくるでしょう。
そのことは、最近のコロナ禍や環境問題に対する欧米の思想哲学の言説にも
典型的に見てとることができるのではないでしょうか。
- 665 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 14:58:01.60 0.net
- >>638
なぜに一般的なことを想定して、「知ったら後悔するほどの本当こと」
云々と書き込んだのかわかりませんが、ようするに
知ったら後悔するほどの本当に知りたいことを、実際に体験して
知ってしまった話がもとネタになってたわけじゃないんですね
科学史に名前が残るほどの事を発見したラザフォードと
重ね合わせたかのような表現に見えて、盛大に誤解してしまいましたw
まぁ、実際発見していないうちから想像してもしょうがないんじゃないですか
- 666 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 19:35:16.73 0.net
- >At this moment, the desponding patriot says, the present is
full of fear; but in all ages the present is full of fear.<
Ralph Waldo Emerson, "Selected Essays, Lectures and Poems", p.81
- 667 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 22:21:45.97 0.net
- いちばんおまえらが恐れなければいけない現実は人はいずれ死ぬということだけどなw
- 668 :考える名無しさん:2022/01/14(金) 22:39:47.73 0.net
- いずれ死ぬにしても人は自分の死を意識できない、従って生きている間から死を恐れるでない不毛すぎる
- 669 :考える名無しさん:2022/01/15(土) 04:19:01.89 0.net
- 自分だけは死なないと思ってるのかこのパイパンはw
- 670 :考える名無しさん:2022/01/15(土) 08:47:17.01 0.net
- 少なくとも宗教教義が真理=知識と思っているアホには哲学はできないw
- 671 :考える名無しさん:2022/01/15(土) 09:19:36.54 0.net
- より重要なのは、宗教(神学を含む)であれ、哲学であれ、科学全般を
含むその他の学であれ、制度化するとはどのようなことなのかを
しっかりと省察することだろう。制度化は統治形態と直結している。
- 672 :時計 :2022/01/15(土) 09:47:29.60 0.net
- >>671
宗教に関しては、当事者に任せるしかないかもしれない。
その結果、カルトのようなものが現れるとしても、
自由はそれよりも尊いだということだろう。
伝統的宗教の他はカルトだというのは言い過ぎかもしれないが、
長い年月の間、存続してきたことには価値はあると思う。
- 673 :考える名無しさん:2022/01/15(土) 10:34:15.66 0.net
- >Anger's my meat. I sup upon myself,
And so shall starve with feeding.<
William Shakespeare
1608 Volumnia. Coriolanus, act 4, sc.2, l.53-4.
- 674 :学術@死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医師悪魔召喚居士:2022/01/15(土) 10:38:03.70 0.net
- 青白き震える焔。
- 675 :学術@死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医師悪魔召喚居士:2022/01/15(土) 10:52:59.52 0.net
- 殺陣とホコ天
- 676 :学術@死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医師悪魔召喚居士:2022/01/15(土) 10:53:33.66 0.net
- ゼノンのパラドクスは練り不足。
- 677 :学術@死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医師悪魔召喚居士:2022/01/15(土) 10:55:57.41 0.net
- 青いヒノカクグチ 合体銃ブラフマーストラ。
- 678 :学術@死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医師悪魔召喚居士:2022/01/15(土) 10:57:15.74 0.net
- 聖呪殺 ハンマムド みたいな魔術もあるで。攻撃回数〜6
- 679 :学術@死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医師悪魔召喚居士:2022/01/15(土) 10:57:37.98 0.net
- みたいにハープレすればいいじゃん。
- 680 :でこすけ:2022/01/15(土) 13:00:05.65 0.net
- >>671
私としても、たぶん、そういうことなのだろうと思います。
すると率直にうかがってみたくなるわけですけど、
671さんは制度とはどのようなことだとお考えになりますか?
ちなみに私の考えですけど、一番大枠のざっくりになりますが、
それはアイデンティティを維持するための“手段”だと思います。
「統治」にからませて言うと、「統治」というのは統治する側以上に
統治される側のアイデンティティを確保するシステムというかんじです。
この考え方は「世界」を「意味の階層」として解釈することを前提にしたものです。
私にはこの前提がとりあえずしっくりくる気がします。
- 681 :悔い改めよ:2022/01/15(土) 13:15:13.96 0.net
- >>673
「後悔」や「悔恨」というのは、みづから(身づ柄/自ら)に
「悔い」/"remorse"/»Gewissensbisse«を生じること「=(く(食)ゆ)」
であって、それは、みづから(身づ柄/自ら)に向かふように
方向転換された怒りでもあるのですよ。
- 682 :でこすけ:2022/01/15(土) 14:04:36.45 0.net
- 「意味の階層」の付近について
私は、私が認識する世界は意識の外側がまんま反映されているものではなく、
認識する側が意味を与えているものだ、という考え方の方を支持します。
たとえば目の前にセザンヌのリンゴの絵があるとしましょう。
しかし私たちは「リンゴ」というものを知らなければ
そこに「リンゴ」と「その背景」との境界を見出すことはできないでしょう。
私には「リンゴ」というのは客観的な「存在」ではなく
主体によって意味を与えられた「意味」にすぎないもののように思えます。
これは「リンゴ」という物体は存在していないという意味です。
それが実際に存在しているかのような気がするのは
それが共同幻想であるためだと考えます。
私としてはそれが実際に存在しているかのような気がする理由にはもうひとつある
と考えます。
それは「色(映像)」というものは意識が無くてもある気がするということです。
私が漠然と思うに、「色」というものも「リンゴ」と同様に
それが「色」というものであることを知らなければ「色」は成立しない気がするのです。
「主体」は誕生した瞬間、周囲の雑多な情報をとりあえず的に受け止めるだけのもので、
つまり初めは「色」も「音」も「感触」も区別がつかない状態のような気がします。
もはや全く情報が混沌としている状態です。
しかしやがて「色」を「色」として「音」を「音」として区別できるようになります。
これはそれぞれの感覚にそれぞれの意味を与えるということだと思います。
たとえば舌に感じる「痛み」は場合によっては「辛さ」として認識されます。
感覚は客観的要素のみで生じるものではなく、主体がかかわるということです。
- 683 :でこすけ:2022/01/15(土) 14:07:29.11 0.net
- >>682のつづき
さて、それでも意識の外部には主体が存在するしないにかかわらず
「色」や「音」はある気がします。
生まれたばかりの「主体」はそれを知らないだけというかんじです。
しかしもうちょっと考えたとき、これは本当にそういうことなのだろうか
という疑問を持ちます。
私たちが認識する「世界」は私たちが存在していなくても成立しているのか、
あるいはそれは私たちが「外側」を解釈したものに過ぎないのか、
私にはそれは私たちの心の中でしか成立していないもの(共同幻想)
のように思えるという、要は私個人の印象です。
私が認識している「世界」は、先ず私が居て、それから私以外のものがあるのではなく、
先ず私以外の何かが存在していて、その流れで私も存在しているように思えるのです。
ただし「私以外の何か」というのは普通イメージされているものとは全く違うもの
というのが私の印象です。
「人間がいなくても認識されている通りの世界は存在する」という考え方には
じつは先ず人間が存在していることが暗黙の前提になっているように思えます。
ややこしいですけど。
- 684 :でこすけ:2022/01/15(土) 16:27:52.83 0.net
- >>546
私は人間の社会が必ず良い方向に向かっていくとは思いませんけど
しかしある程度で意図的にそちらへ向かわせることは可能であろうとは考えます。
鍵になるのは経済的な豊かさ、つまり「衣食足りて礼節を知る」というやつです。
たとえば縄文時代の列島社会はたいへん治安(?)がよかったのだろう
と考えられているようです。
縄文時代の遺構から人を56せる威力が発揮できる道具が発掘されていないため
そのように解釈されているとのことですが
(海外ではそのようなものが普通に出てくるそうです)、
とにかく列島は自然が豊かだったでしょうから金持ちけんかせず状態だった
というのもうなずける気がするところです。
ただ、貧困と貧乏は違うという考え方もあるようですから、
たとえば幕末だか明治だかに来た西洋人が当時の農村を見て
貧しいけれどもみんながニコニコしていたみたいな記録を残したりしていて、
物質的な豊かさだけが全部ではない気もしますけど、
しかしやっぱり貧すれば鈍する可能性は高くなる気もします。
これまたややこしいところです。
ただまあ単純に、誰かがひもじい思いをする世の中は是正されるべきだ
という、ありきたりな結論があってもいい気はします。
- 685 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/15(土) 16:50:20.79 0.net
- 「意味の階層」
モダリティ関連かな、とも思う。
「階層意味論」などというものもある。
モダリティは「主観性」でもあるのだが、それはsubjective modalityであり、
objective modalityも考えられる。
「可能性」のようなものは、objective modalityだとされているが、
客観性があるものなのかどうか、ということは、疑問だ。
「可能性」であっても、「主観性」で捉えて/捕らえて/囚えてwしまってもかまわない。
- 686 :でこすけ:2022/01/15(土) 16:50:28.89 0.net
- >>684
私はここでもっぱらマルクスを引っ張ってきます。唯物史観です。
ただ、マルクスがみんなで働いてみんなで分け合うことを理想としたことに
若干のいちゃもんをつけたい気持ちがあります。
私は普通の人の理想はぶっちゃけ土鈴経済だと思うのです。
もちろん自分は主人になるのであって土鈴になりたいわけはありません。
しかし土鈴はまんまだとAIに引っかかるかもしれないヤバいものですから、
ところがここでAIが登場するわけです。
土鈴経済ならぬAI経済です。
AIが富を生み出し人間がそれを消費する社会、ベーシックインカム万歳、
シンギュラリティはネガティブなイメージですけど、私はむしろ良くなる気がします。
もちろんそうなったらそうなったで何かの社会問題が生じるでしょうけど
その時代にはその時代に相応の天才たちが現れるでしょう
(私たちはその天才たちの先駆者になれたらいいと思います)。
私ははなはだ楽観的なのです。
- 687 :でこすけ:2022/01/15(土) 17:08:31.20 0.net
- >>685
なるほど「可能性」は確かに不可解です。
たとえば世界の始まり以前がどうだったのかがよくわかりません。
パクらせていただきたく存じます。
- 688 :考える名無しさん:2022/01/15(土) 17:26:37.32 0.net
- 世界の始まり?
脳が悪魔に支配されているカルト信者に哲学は無理だろう
諦めろ
哲学は自由な精神の者のためにある
奴隷の学問ではないのだ
- 689 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/15(土) 17:37:23.13 0.net
- そう考えるなら、モダリティを含めて、
「意味」とは「主観性」である。
客観的意味は「誤読と幻想」であるw
「主観主義」における「(主観的)客観」は「誤読と幻想」にすぎない。
「誤読と幻想」を、単に「主観」とするならば、
「主観主義」における「客観」は「主観」であり、
「客観主義?」における「主観」は「客観」である。
- 690 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/15(土) 21:40:18.04 0.net
- 「可能性は客観か?」
表裏の区別のつくコインがあるとする。
とりあえず、そのコインそのもの客観性は先送りして、表裏だけは客観とする。
コイントスによって表か裏が出る(それ以外は無いのだと、理想化する)。
表裏どちらが出るのかは(現実を無視して理想化して)確率1/2と(推定)する。
これは「可能性」である。
表裏が「客観」だとしても「可能性」も「客観」なのか?
「観察」あるいは「認識」によって「確認」されたものなら「客観」であるが、
まだ、コイントスをしていない。
「主体」から独立した「客体」としての「事物」であれば「客観」である。
これは「実在」である。
でも、まだコイントスをしていない。
「結果」は(「現在」において)「実在」していない。
「可能性」は「客観」ではなく、「主観」であるw
「主体」から独立して「存在」するものではない。
- 691 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/15(土) 22:07:59.07 0.net
- 「本当に『可能性』は『客観』ではないのか」
「主観」から独立した「実在」としての「客観」ではない。
だが、それだけが「客観」なのか、と考えてみる。
「主観」から独立していない「客観」。
完全に、「主観」に取り込まれているのならば「主観的客観」である。
ここで考えたいのは、「主観」から独立しきれていない―中途半端な―「客観」。
これは「共同幻想」であり、それは「上部構造」である。
「階層」だ!
- 692 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 00:39:46.67 0.net
- いまさらながらだけど、ドイツ語の»Lockvogel«って、
»Lock(を≒呼び寄せる)vogel(鳥)«⇒「囮(を・とり)」だから、
日本語と表現の構成がまったく同じだよな。
- 693 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 02:51:56.79 0.net
- 悪魔は存在する
- 694 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 04:05:29.96 0.net
- 「主観」はアート(自己幻想)で、「客観」はサイエンス(共同幻想)かも
「可能性」はGood Times Bad Times (© Led Zeppelin)ごた混ぜの対幻想か
- 695 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 04:11:02.17 0.net
- アブジェクシオン(abjection):おぞましさ
廃人の歌 吉本隆明
ぼくが真実を口にすると ほとんど全世
界を凍らせるだろうという妄想によって
ぼくは廃人であるそうだ
- 696 :でこすけ:2022/01/16(日) 04:47:09.69 0.net
- >>688
私にはとりあえず「時間」には始まりが「有る」のか「無い」のか
ふたつにひとつのように思えます。
「有ると同時に無い」というのは無い気がします。
これは私にはいずれかを確定できる能力はないけれども
とにかく答えはどちらかであろうということです。
そこで漠然と思うわけですけど
「始まりは無い」というのはあり得ない気がしますが、
つまり「今日」には必ず「昨日」あるとすると無限に遡ることになるので
「昨日」が何故あるのかを体系内で説明できなくなってしまいますが、
しかし「時間に始まりは有る」というのは、
何故始まったのかがわからなかったとしても、
そのようなことがあってもいい気がします。
「時間の始まり」はそれ以前が無いということですから
論理的にはその原因は無いことになりますが、
しかし「因果律」は予めあったものではない、
私には「因果律」は主体があとからつくったもの(幻想)のように思えるので、
個人的には原因が無いことはことさらに不自然なことではない気がします。
実際に「ビッグバン」と言われる現象があったとされていますし、
量子の世界では原因のない現象が起こるともされているので、
とりあえず目下の観測事実とも整合します。
しかし確かニーチェは世界に始まりは無い派だったと思います。
「昨日が無いということが有るわけが無い」みたいなことを言っているのを
どこかで読んだ気がします。
私にはどうしてもそれはそれで不自然な気がするのですが、
印象には個人差があるということなのでしょう。
あるいは世界には始まりが有ると同時に無いということさえも
あり得るのかもしれない、とか思ったりします。
- 697 :でこすけ:2022/01/16(日) 05:01:07.61 0.net
- >>696
「今日には必ず昨日が有る」ということを主張するためには、
最終的には、つまり論理的には辻褄のあう説明ができたとしてもそれ以前に、
観測事実が必要になると思います。
これは「時間には始まりが有る」でも同じことではありますけど、
「始まりは無い」には問題の先送り感があって、
オッカム先生のチェックが入りそうな気がします。
苦しいかな
- 698 :でこすけ:2022/01/16(日) 05:31:09.56 0.net
- >>690
>コインそのもの客観性は先送り
私はここで先送りをせずに、徹底的に詰めることが望ましいように思えます
(超球面さんはカードを隠し持っていそうな気がしますけど)。
「コインとは何なのか」そのようなものが認識される仕組み
(存在する仕組み以前に認識される仕組み)です。
そのレベルでの「可能性」を模索しなければ本当の意味が無い気がするのです。
そういうわけで私は「因果律」にははなはだ懐疑的で
それに変わって「確率」に目星をつけていました。
ところが今回超球面先生からそいつにも待ったをかけられたわけです
(これはひょっとすると量子論に対する挑戦状ではありませんか?)。
真犯人は誰なのか、「CDT」なのか「誤読」なのか「幻想」なのか、
あるいは新展開でしょうか、
また名前が長くなるのか気になるところです。
- 699 :でこすけ:2022/01/16(日) 07:19:38.58 0.net
- >>698
科学の黎明期の科学者は自然法則を「神が決めたルール」として理解していた
というふうに聞いています。
ところがやがて「神とは関係なくてもよくね?」という風潮が蔓延したようです。
神が存在しなくても自然法則は成立し得る気がするわけです。
同様と言えるのかどうかはわかりませんけど、
私には「認識」の構造を充分に分析すると
「存在」という概念がことさら必要では無くなる気がするのです。
「ドラえもん」が実在しなくてもテレビ画面に映ることがあるように
「リンゴ」は存在しなくても認識されることはあり得ると思うわけです。
それは見える物に香りがあって、触れば手触りがあって、噛じれば味がして、
そしてそのような体験を複数の主観が共有するということです。
ただ一方では「我思う故に我あり」と言ったりします。
私には存在していると言い得るのは私の主観だけであり、
間主観も多分存在しているとは思うんだけれども、
しかし主観が認識している対象が存在していると言うためには
何かの証拠が必要になる気がするのです。
- 700 :でこすけ:2022/01/16(日) 09:06:49.23 0.net
- >>699
しかし私の主張でネックになるのは「どのようにして共同幻想が成立するのか」
です。
これはぱっと見たいへん困難な印象を受けるため
いきおい唯心論的なものには懐疑的にならざるを得ないというのもわかるところです。
そこで漠然としたものではありますが、そのイメージです。
たとえばたぶん私たちの多くは幼いころ誰から教えられたわけでもなく、ふと
「この世界にいるのは本当は自分だけなのではないか」
というなから衝動を体験していて、
そしてのちに「唯我論」という言葉を覚えるのではないかと思います。
何故私たちはそのような体験を共有するのか、
私にはそれはただの偶然のように思えます。
たとえば何らかの「力」が働いて必然的に誘導されているわけではない気がするのです。
たとえばすべての子供がそのような衝動を体験する必然性はない気がするのです。
共同幻想はたまたま成立することもあるということです。
- 701 :でこすけ:2022/01/16(日) 09:12:24.91 0.net
- >>700つづき
主観的なものは誕生した瞬間、その内部の様相はひたすらランダムであろうと察するのですが、
そこで絶え間なく流転する混沌にもある瞬間、つまり偶然意味が生じることは
あり得る気がします。
たとえば無限の営みの中ではたまたま配られた5枚のカードが
たまたまロイヤルストレートフラッシュということも、
むしろそれが無限の営みであればもはや何度も起こる気さえするわけです。
私は以前、最も原始的な共同幻想の候補として「外部」をあげましたが
そのくらいであれば偶然でも充分な可能性はある気がします。
個々がバラバラに「外部」に気付くのです。
ただ、問題はずっとあとになってからです。
「リンゴ」でも「コイン」でも、それが共同幻想だというのであれば
それらも偶然だろうか、個人的な幻覚がたまたま同じだっただけだろうか、
普通は偶然とは思えないわけです。
もし偶然だとすればそれはものすごいあり得ない偶然のように感じます。
そこで私はどこからかドライブがかかるのだろうと推測します。
生命と同様で、初期条件は偶然でもどこからか必然になるというイメージです。
たとえば「唯心論」という幻想も、私たちはそれを知らない人にシェアして
あげることができたりします。
現実世界ではむしろ幻想の流布さえ行われていたりするわけです。
そしてこれはたぶん「ボイドを埋める」というシステムの確立が絡むのであろう
というところまでは最近にわかに考えました。
- 702 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 10:43:55.35 0.net
- 「『客観』とは、ひとつ、ふたつ、たくさん、(の世界)である」
ひとつ:主観的客観
ふたつ:対幻想としての客観
たくさん:共同幻想(上部構造)としての客観
◎(内側の○が客観)(主観主義/主観的客観)
○○(対等)(??主義/真のモダリティ?/様相主義?)
◎(外側の○が上部構造としての客観)(客観主義?/客観的主観/唯物論)
- 703 :時計 :2022/01/16(日) 10:55:54.39 0.net
- >>700
他者の意識は存在しないということと他者は存在しない
ということは異なります。念の為。
- 704 :時計 :2022/01/16(日) 11:00:40.44 0.net
- >>701
ところで、共同幻想とは、吉本隆明の言う共同幻想でしょうか。
それごも、偶然同じ言葉になったのでしょうか。
- 705 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 11:09:28.68 0.net
- ま、吉本の「共同幻想」や「対幻想」ですけど、
吉本自身が(彼)自分の言葉を正しく理解しているとは思っていませんw
彼は詩人であり、共同幻想というワードも詩ですからね。
吉本は、たまたま、(東工大ではないあるところの)わたしの先輩に当たりますw
- 706 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 11:11:29.67 0.net
- >489考える名無しさん2022/01/09(日) 14:55:37.420
あらゆる存在にも、不在にも、呼応関係が先立つのである。
それは、より具体的には、「て(手)ごた(応)へ」という
呼応関係であってもいい<
>493考える名無しさん2022/01/10(月) 10:19:53.800
1.0=(x^α)/(x^α)=x^0=1
分母と分子のx^αの間の「原始」の呼応関係は、
不特定の同一性を表す1によって代表させても、
変化がみられないことを表す指数の0によって代表させてもよい。<
>609考える名無しさん2022/01/12(水) 13:34:03.060
ここで留意しなければならないのは、意識の働きが「わす(忘)れ」られる
ことは、「意」が消滅することを意味しているわけではないということです。
そうではなく、「意」は「やすらふ」のです。<
何かがどのようにか存在することの基底である「意」の「やすらひ」
/"ease"は、意識でも、無意識でもなく、天秤の平衡のように保たれた
呼応関係の「調和」/"accord"であり、それが、どのようにか感性が
働くときの「地」/"ground"でもある。その「意のやすらひ/"ease」
をスピノザであれば、「実体」と呼んだのかも知れないが(私自身は、
スピノザの著作についてはほとんど知らない)、西洋哲学の「実体」
についての議論は、一神教の神学と結び付いた存在論と哲学との関係
により著しく錯綜して、無用に複雑化しているように見える。
- 707 :時計 :2022/01/16(日) 11:20:05.46 0.net
- >>705
超球面さんは吉本隆明を意識していそうだいう風に思いましたが、
でこすけさんはどうなのかなと思いまして。
でこすけさんも吉本隆明に言及しているのであれば読んでみようかな。
先輩ですか……高校かな。:)
- 708 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 11:20:37.79 0.net
- この掲示板に日本語の表現について書込み始めたかなり初期に、「やすらふ」
の「やす」と共通する「やす(休)む」の「やす」について、次のような書込み
をしている。今となっては、これらの書込みについてもより明確に意識的に
メタ言語により記述することができる。
687 :考える名無しさん:2016/02/29(月) 09:32:32.47 0
>外国語を読んでいても、私には見るたびに日本語を想起させて、日本語
を読んでいるような奇妙な感覚に陥る語がある。それは、農地を「休ませる」
意味で使われるフランス語の「jachère」という表現や、同じ語源を有する、
「横たわる」という意味で使われるスペイン語の「yacer」などの語である。
https://en.wiktionary.org/wiki/iaceo#Latin
むろん、これは、「やすむ」の「やす」とラテン語の「iaceo」に何らかの
つながりがあると主張したいわけではなく、発音の近さと、意味の重なり
から、私にはそのような連想が自動的に生じてしまうというだけの話で
ある。だからこそ、仮説のネットワークの構築による検証は怠ってはならない
のである。<
688 :考える名無しさん:2016/02/29(月) 12:26:13.45 0
ところで、英語の「ease」自体、「 "to relax one's efforts" is from 1863」
http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=ease
ということで、日本語の「緩める」に近い用法は、派生的でかなり新しいらしく、
仏語の「aise」に由来するものの、語源自体は不明らしい。意味的に見れば、
ラテン語の「iaceo」から派生していてもおかしくはないが、
そのような関係が主張されていないのは、音韻変化の点でそのような関係が
確認できないからだろう。単独で単に音と意味が似ているというだけで、
関係を主張しても、場当たり的な当て推量の域を出ない。<
- 709 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 11:24:50.37 0.net
- 692 :考える名無しさん:2016/02/29(月) 16:59:37.08 0
>>687 >>690
逆方向で考えてみて、ラテン語の「iaceo」に由来し、墓碑銘において用い
られる フランス語の「gesir(「Ci-git 〜」)」、スペイン語の「yacer
(「Aqui yace」)」が日本語でどのように表現されるかを考察すると、
辞書では、「gesir」は、「@横たわる」、「A(隠れて)存在する」、
「...ここに永眠する」(クラウン 仏和辞典)と説明され、「yacer」も
同様に、「1.横たわっている」、「2.(死体が)埋葬されている、
葬られている」、「(ある場所に)ある、存在する」と説明されているが、
少なくとも墓碑銘に関する限り、「やすらふ」という表現のイメージが
最も適合しているように私には感じられる。
- 710 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 12:05:56.93 0.net
- 「やすらふ」は、「自らのいきほ(勢)いが解かれたままにする」ことを
イメージさせる表現であると理解することができる。そのように理解する
ことは、何ら特殊な前提による解釈を必要とするものではなく、自然に
導かれるものだ。「や」は、「矢(や)」、「や(遣)る」、「や(焼)く」、
「やぶ(破)る」などに見られるとおり、「いきほ(勢)いが解かれる」
ことをイメージさせ、「や行」の活用として「ゆ(由)」(つまりは、
中国語の表現の流用)≒»losgehen«に関連し、云はば、方向性を
帯びた「ゆ(由)」である。したがって、「やすらふ」の「や」も
そのように解釈するなら、「や」は、"eject"、"project"、"subject"
など、英語の語根として用いられる"-ject"(つまりは、ラテン語の
ラテン語の「iaceo」) と発音の上でも、それが想起させるイメージに
おいてもよく似ていると言える。「や・す」の「す」は、"to let"
に相当し、「やすらふ」の「ら」は「〜る」の活用であり、その
表現が活動であることを示して動詞として用いられることを伝える
ものであり、「〜ふ」は、その作用/動作が再帰的に働く様態を
表現する。したがって、「やすらふ」が、休耕地がそうであるように
「自らのいきほ(勢)いが解かれたままにする」状態を想起させる
表現であるという解釈が無理なく導かれる。
- 711 :時計 :2022/01/16(日) 12:15:56.20 0.net
- >>710
そう言えば、「やすらふ」ってあまり使いませんね。
「安らぐ」はよく聞きますが。
- 712 :時計 :2022/01/16(日) 12:17:56.36 0.net
- >>711
特に「安らぎ」という形で。
- 713 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 12:24:10.83 0.net
- やすらか→やすらぎ
- 714 :時計 :2022/01/16(日) 12:53:49.74 0.net
- >>713
なるほど。
華やか→華やぐ、かな。
静か→静ぐ、ではないし、絶対ではなさそう。
- 715 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 14:43:30.17 0.net
- >その「意のやすらひ/"ease"」をスピノザであれば、「実体」と呼んだ
のかも知れないが<
しかし、ここで、仮に「意のやすらひ/"ease"」を、それがどのように
性格づけられるにせよ、「実体」/"substance"と呼んだなら、たちまち
「やすらひ」が「やすらふ」ものから"*sta-"に、つまりは、「た(立)つ」
ことに変わってしまうことに留意する必要があるだろう。
https://www.etymonline.com/word/*sta-?ref=etymonline_crossreference
>*stā-, Proto-Indo-European root meaning "to stand, set down,
make or be firm," with derivatives meaning "place or thing
that is standing."<
- 716 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 14:47:09.64 0.net
- 誤:「た(立)つ」ことに
正:「た(立)つ」ものに
- 717 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 16:17:51.57 0.net
- それにしても他者の意識は存在しないという自己中心的な思想を
本気で思っている人も未だにいるようだね。
ま、自己中心的でも良いと思っているのなら何も言うことはないけどね。
ただ、自己中心が良くないなら、他者の意識、意識外部の世界の存在などは
前提にすべきとしか言いようがないだけのことかな。
>>702
余談だが、唯心論でも三つ目の上部構造としての客観を肯定する世界観というのもあり得たりする。
例えば主観に当たる個体意識の上位の集合意識が客観に当たるものとか。
- 718 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 16:34:23.74 0.net
- 3つ目? なんだろう。
円成実性というものもあるが、唯心ではなく唯識のほうである。
- 719 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 17:01:44.77 0.net
- 遍計所執性を主観的客観
依他起性を様相的客観
円成実性を客観的客観?
とすれば、なんとなく収まる。
これは三性なわけだが、三つの相でもあり、3つの段階とみてもよい。
だが、どれが優れているとか考えてないほうよい。三つの相を持つのだw
- 720 :時計 :2022/01/17(月) 02:15:18.51 0.net
- >>717
未だにというか、いつでもいるように思います。
自己中心的というのは、ある意味では当然のような。
他者の意識は存在しないという考えを共有する。
その可能性はあると私は考えます。
- 721 :時計 :2022/01/17(月) 02:20:11.99 0.net
- >>720
他者の意識は存在しないということは、
職業哲学者には言い辛いだけのことではないかと思ったりします。
私は仏教に明るくはないですが、超球面さんの仰るように
仏教ではあり得る考えのようですし。
- 722 :時計 :2022/01/17(月) 02:27:15.56 0.net
- >>720
自己中心的という言葉は、
当然のことを当然のことではないように言う言葉かな。
- 723 :時計 :2022/01/17(月) 03:19:23.24 0.net
- >>721
客観は主観であり、同時に全ての事物は客観化可能であり、
それもまた主観であるということかな。
- 724 :時計 :2022/01/17(月) 03:19:48.05 0.net
- >>723
もう少し考えます。:)
- 725 :時計 :2022/01/17(月) 03:31:10.96 0.net
- 主観と客観について。
例えば、地図を見て自転車でどこかに行くことを計画するとします。
その地図上での移動の軌跡は客観的だと思います。
そして、ある目印のところで角を曲がることを想像する時、
それは主観的だと思います。
この例のように、人が物事を考える時、主観と客観は、
入り交じるように思います。
その上で、私は、客観はある種の主観だと考えます。
- 726 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 09:21:24.19 0.net
- じわじわ来るは主観ですか?
- 727 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 09:56:47.69 0.net
- >>710
「やす・む」ことによって英気を「やし・なふ/養ふ」。
- 728 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:09:40.27 0.net
- >>654考える名無しさん2022/01/14(金) 01:08:01.980
>対象として目の前にあるように見える事物は、「目の前にある」/
»vorhanden sein«という在り方をするよりも先にまず、「呼びかけの『を』」
に呼応する「こた(応)への『を』」として現れる。<
フェルスター、『哲学の25年』を読んでいると、カントが「知的直観」に
ついて述べた、「だがそれはわれわれのものではない。われわれはまた
その可能性についてさえ、洞察することができないのだ」という言葉を
引用したうえで、さらに注釈でカントが「知的直観」と表現したのが
どのようなものであるのか詳しく説明している。
- 729 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:25:49.13 0.net
- >われわれ自身にもこうした直観が可能なのだとする見解が、古代では広く
行き渡っていた。古代に主流だったのは、知覚の送信理論(Sendetherorie)
である。それによれば、目から出た視線は、対象を一定の仕方で探る
[abtasten/触って探る]。視覚はしたがって、その正規の用法においては、
われわれにあるがままのものを直接提供するのであって、現象を提供する
のでは断じてない。[...] この視覚理論が広く行き渡っていたことは明らか
である。プラトンとエウクレイデス[...]さらにはピンダロス、ソフォクレス
といった詩人たちにも、同じ理論が見出される。今日のわれわれにはこの
理論はもはや正しいものと思えないが、これは視覚論をめぐる根本的な
変化によるものである。< フェルスター、『哲学の25年』、p245
まだこの本を読み終えていないので、私が論述の意図を誤解している可能性
はあるが、そうではないとすれば、著者が、ハイデガーの存在論や
プラグマティズムを知らないはずはないのだから、ここに表明されている
(ように私には見える)見解は、その解釈からして、私には恐ろしいまでに
浅いと感じられる。
- 730 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:36:27.96 0.net
- >知覚の送信理論(Sendetherorie)である。それによれば、目から出た視線は、
対象を一定の仕方で探る[abtasten/触って探る]<
何かが「目に触れる」。例えば、視線の先にあるテーブルの上にあるリンゴが
「目に触れる」。これは現代でも普通の日本語の表現だろう。では、そのように
リンゴが視線の先にあり「目に触れる」ことは、「知覚の送信理論(Sendetherorie)」
に基づくのだろうか。確かに、現代の日本でも、そのことを、視線が目から光線の
ように送られて、それがリンゴに触れて探るというような理論によって理解して
いる人はまずいないだろう。では、現在ではもはやそうではないとしても、
何かが「目に触れる」という表現は、元々は広く行き渡って信じられていた
そのような「知覚の送信理論(Sendetherorie)」の化石的な名残りなのだろうか。
私には、そのように考えなければならない必然性は、さらさらないように
思われる。
- 731 :時計 :2022/01/17(月) 10:51:18.94 0.net
- >>726
主観でも客観でもあり得ると考えます。
あらゆる事物は客観化可能ですから。
- 732 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:51:28.29 0.net
- 視線の先のテーブルの上にリンゴがあれば、そのリンゴが「目に触れて」、
「リンゴが見える」。「見える」は、古語で言い換えるなら「見ゆ」
であり、「〜ゆ」は自発的に生じることを表現するのだから、
「リンゴ見ゆ」であれば、「リンゴの見(≒視覚的作用)が自ずと生じる」
ということであり、「リンゴが見える」の「が」は、「我(が)」を
流用して発話行為的に同一性を確立する表現なのだから、
「リンゴが見える」とは、「『リンゴ』=「自ずと生じる視覚的作用」」
であり、フランス語を用いるなら、《C'est une pomme qui se voit.》
ということになるだろう。
- 733 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:06:06.95 0.net
- つまりは、「リンゴが見える」/「リンゴ見ゆ」/《C'est une pomme qui se voit.》
というのが、視線の先のテーブルの上にリンゴに「目が触れる」ことによって
もたらされた結果であることになる。この結果、プラグマティズム的な言い方を
するなら、「リンゴに『目を向けた/目が向けられた』」行為の「効果」/"effect"
であり、ハイデガーの存在論における"zuhanden sein"を「て(手)ごた(応)へ」
として理解して、それを「目を向ける」行為に応用するなら、
「リンゴが見える」/「リンゴ見ゆ」/《C'est une pomme qui se voit.》という
「効果」/"effect"は、リンゴの「み(見)ごた(応)へ」に他ならないだろう。
リンゴに「目を向けて」、それに「目が触れる」と、リンゴの視覚的な
「効果」/"effect"/「み(見)ごた(応)へ」、すなわち、「リンゴ見ゆ」/
「リンゴが見える」という結果がもたらされる。これは、
「知覚の送信理論(Sendetherorie)」と呼ばれるような、もはや誰も信じなく
なった何か特殊な古代の理論に依拠しなければ説明できないような捉え方
なのだろうか。
- 734 :時計 :2022/01/17(月) 11:13:55.24 0.net
- >>733
「知覚の送信理論」は必要ないと思いますよ。:)
- 735 :時計 :2022/01/17(月) 11:22:36.12 0.net
- >>734
敢えて言えば、網膜から外界は単射だが、
外界から網膜は写像ではいから、絵を描く時等は、
前者の考え方にも一理あるとは言えるかもしれない。
- 736 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:23:34.66 0.net
- >>733
「〜に目が触れて」、「〜が見える/見ゆ」ことの説明として、
「知覚の送信理論(Sendetherorie)」が不要であるとすれば、古代の人々の
間には、「〜目を向ける」ことによって、「〜に目が触れて」、「〜
に視覚に触れる感覚」に依拠して「〜を探り」、「〜の視覚的効果」が
詳しく知られるという、今でもごく自然と思われる物事の捉え方が
行き渡っていただけということになりませんか。
- 737 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:24:27.59 0.net
- 誤:「〜に視覚に触れる感覚」
正:「〜が視覚に触れる感覚」
- 738 :時計 :2022/01/17(月) 11:28:29.48 0.net
- >>735
正:写像ではないから
誤:写像ではいから
- 739 :時計 :2022/01/17(月) 11:30:39.51 0.net
- >>736
視線という言葉もありますね。
しかし、物理的な因果は逆だと考えた古代人は多かったと予想します。
- 740 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:32:17.74 0.net
- 著者は、明らかに哲学書を研究することに膨大な時間と労力を注いできた
学者であるわけですよ。それに対して私は哲学を専門に研究したことのない
完全な素人であるわけで、そのような素人でもすぐに気づくような奇妙
な論述をされると、私の方がとんでもない読み違いをしているのかと不安
になるわけですが、その一方で、哲学を研究すると、このようなことに
すら気づけなくなってしまうほど本当にバカ(「感性が働かなくなる」という
意味で)になってしまうのかという疑念も浮かんで来るのです。
- 741 :時計 :2022/01/17(月) 11:39:31.25 0.net
- >>740
「視線」という言葉から日本人の視覚理論は「知覚の送信理論」だと
言われても困りますよね……
古代人に関しても然りで。
例えば、夜、灯りをつけると物のよく見えることは当然で、
殆どの古代人は、視覚の受動性を認めていたのではないでしょうか。
哲学者には常識は大切かもしれませんね。:)
- 742 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:45:23.86 0.net
- 「視線」というより、より日常的な表現では、「目をやる」でしょうね。
- 743 :時計 :2022/01/17(月) 12:15:19.80 0.net
- >>742
「目をやる」も使いますね。
- 744 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 12:42:40.06 0.net
- 「視線を送る」ことによって何かを見ることがが「知覚の送信理論
(Sendetherorie)」と呼ばれるとすれば、ボードレールの詩は、
「知覚の受信理論」を表現していることになるのだろうか。
しかし、フェルスターが古代の「知覚の送信理論(Sendetherorie)」
と呼ぶものにせよ、ボードレールの詩にせよ、そのような捉え方に
よって本当に伝へられているのは、この詩の題名にもなっているとおり、
「呼応関係」/《correspondances》だろう。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Correspondances_(sonnet)
CORRESPONDANCES
La Nature est un temple où de vivants piliers
Laissent parfois sortir de confuses paroles ;
L'homme y passe à travers des forêts de symboles
Qui l'observent avec des regards familiers.
- 745 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 14:35:16.88 0.net
- >>733
誤:この結果、プラグマティズム的な言い方をするなら
正:この結果は、プラグマティズム的な言い方をするなら
- 746 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:10:30.09 0.net
- >621考える名無しさん2022/01/12(水) 23:09:42.580
ようやく訪れた»Genesung«の時を「直毘神(なほびのかみ)」の来訪として言祝ぐ
>727考える名無しさん2022/01/17(月) 09:56:47.690
>>710
「やす・む」ことによって英気を「やし・なふ/養ふ」。
ニーチェがよく用いる»Genesung«という表現に対して、私はすぐに
本居宣長が用いた「直毘神(なほびのかみ)」の「なほび」を想起するのだが、
»Genesung«/「なほび」に対応するラテン語は《restitutio》だろう。
ここでさらに「やす・む」ことと「やしなふ」ことの関係について考えて
みると、それが英語の"rest"と"restitution"の関係と類似した関係にある
ように見えて面白い("restaurant"/「レストラン」について考えてみる
といい)。
- 747 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:10:48.77 0.net
- https://www.etymonline.com/search?q=rest
rest (v.1)
[to repose; to cease from action] Middle English resten, from Old
English ræstan, restan "take repose by lying down; lie in death or
in the grave; cease from motion, work, or performance; be still or
motionless; be undisturbed, be free from what disquiets; stand or
lie as upon a support or basis," from Proto-Germanic *rastejanan
rest (v.2)
[be left, remain] mid-15c., "remain, continue in existence," from
Old French rester "to remain, stay" (12c.), from Latin restare "stand back,
be left," from re- "back" (see re-) + stare "to stand" (from PIE root *sta-
"to stand, make or be firm").
It has been largely confused and partly merged with rest (v.1), which,
however, is Germanic.
https://www.etymonline.com/search?q=resutitution
[...] noun of action from past-participle stem of restituere "set up again,
restore, rebuild, replace, revive, reinstate, re-establish," from re- "again,
to a former state" (see re-) + statuere "to set up" (from PIE root *sta-
"to stand, make or be firm").
- 748 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:17:51.82 0.net
- >>715
>仮に「意のやすらひ/"ease"」を、それがどのように
性格づけられるにせよ、「実体」/"substance"と呼んだなら、たちまち
「やすらひ」が「やすらふ」ものから"*sta-"に、つまりは、「た(立)つ」
ものに変わってしまう<
「ねぎ(禰宜)」/"appeasement"とは、まずなによりも、「やすらふ」
状態をそのまま保ってもらうために執り行われるのである。
- 749 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:21:15.26 0.net
- https://kotobank.jp/word/意富多多泥古-1281374
意富多多泥古(読み)おおたたねこ
世界大百科事典内の意富多多泥古の言及
【神主】より
…神官,神職とも同義に使われることもある。初見は,崇神天皇のときに
大物主(おおものぬし)命がたたり疫病蔓延したおり,神孫の意富多多泥古
(おおたたねこ)を神主としてまつらしめたところ,天下の平安を得たという
(《古事記》)
- 750 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:26:26.78 0.net
- 意富多多泥古(おほ・たた・ねこ)の「たた」は、「たた(祟)り」の「たた」、
「たた(畳)む」の「たた」でもあるのだろうが、これらの表現に用いられる
「たた」の発音そのものが、「起き立ちつづける」イメージを想起させた
可能性も考えられるだろう。
- 751 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:35:53.37 0.net
- 説明として妥当なのかどうかは知らないが、このような説もあり、
なぜ「ねこ」なのか考えることは興味深いだろう。
http://jinbun.cc.kochi-u.ac.jp/keizai-gakkai/kochironso/100/HTML/index17.html
折口信夫は「大倭根子天皇と云ふ枕詞とも言ふべき成語は,単に,
讃名ではなかつた……ある地方の,神人の最高位に居る者の意味であつた。
大和の神人の,最高の人となるが故に,天子の稜威は生じるのであつた。」
「外蕃に対しての関心を持たない時代の詔詞は,大倭根子天皇なる御資格を以て,
大儀礼を宣せられたのだ。其で大倭根子……天皇と謂つた御諡を持たれた
御方々がおありになる訣だ。詔詞の始めに据ゑた御資格が,御生涯を掩ふ
御称号となつたのである。」
- 752 :時計 :2022/01/18(火) 08:37:06.63 0.net
- >>746-750
よく解りませんが、意志の強さは感じます。:)
- 753 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 09:18:37.37 0.net
- 歴史はつねに浄化を繰り返すことを必要とする。
したがって、歴史学にとって本当に課題とされているのは、
「歴史修正主義」を克服することなどではなく、
「歴史修正主義」を案山子として用いながら、
どのように歴史を浄化するかである。
- 754 :時計 :2022/01/18(火) 09:26:14.47 0.net
- >>753
倭国から和国とか、清いよね。
- 755 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:02:39.51 0.net
- 現状浄められるべき穢れがいくらあったとしても、
穢れた自国というのは存在せず、
原理原則からして自国はつねに清らなのです。
なぜなら穢れた自国というのは存立し得ないからです。
- 756 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:03:26.88 0.net
- 誤:現状浄められるべき
正:現状で浄められるべき
- 757 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:08:08.92 0.net
- これは、穢れた田畑では作物が育たず、その土地はもはや田畑ですらない
のと同じことです。
- 758 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:12:41.96 0.net
- 荒地/The Waste Land
- 759 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:15:32.33 0.net
- 古語では、病気のことを「なやみ」と表現しました。
「なや・む」の「む」は累加する様態を表現し、「なや・む」の「なや」
は、「なゆ」の活用形であり、「な(萎)え」はその名詞化です。
- 760 :時計 :2022/01/18(火) 10:17:03.83 0.net
- >>756
現状、清らでも、蔑称はあり得るということですね。
- 761 :時計 :2022/01/18(火) 10:19:58.94 0.net
- >>759
「む」は否定的なニュアンスは感じます。
同時に、編むとか産むとか否定=運動のイメージもあります。
私は、言語に関して、原理主義者ではありませんが。
- 762 :時計 :2022/01/18(火) 10:21:18.52 0.net
- >>761
「M」の現イメージは「間」ですね。
- 763 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:23:09.69 0.net
- 人々の集団を指す名称の場合でも、他称は蔑称であり、集団はそちらの蔑称の
方で一般に知られることになるものの、その集団内の人々は、自分たちを
単に「人々」を表すに過ぎないような名称で指し示すような事例がよく見られます。
- 764 :時計 :2022/01/18(火) 10:31:44.58 0.net
- >>761
言語は詩的に美しいのであれば、それに越したことはありませんが、
現実として、各語は緩く繋がっている、そういうイメージです。
>>763
「ドイツ」も「ローマ的でない人々」が語源だとウェブにありました。
- 765 :時計 :2022/01/18(火) 10:38:14.30 0.net
- >>764
編みと網とかね。
- 766 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 13:04:19.53 0.net
- >>755
この原理原則を無視して、国民としてどのようにすることが清く正しいのか
などということを論じても、自己欺瞞にしかならない。
- 767 :時計 :2022/01/18(火) 15:20:40.98 0.net
- >>762
正:原イメージ
語:現イメージ
- 768 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:27:27.49 0.net
- >>704
私はよく考えてみると吉本隆明がどのような意味合い(文脈)で「共同幻想」
という言葉を使っているのかを知りません。
私はとにかくアバウトです。
「共同幻想」という言葉を使ったのは(「仮想現実」もですけど)
誤解を生んだよようなのでちょっと後悔しています。
私は『共同幻想論』はとにかく今よりもはるかに頭が悪い頃に読んだので
理解もできていなかったし記憶にもほとんど残っていません。
私に関心があったのは「共同幻想」なるものの成立が
どのようなプロセスなりメカニズムなりを持っているのかであったのに対し
その本の内容は「あれも共同幻想、これも共同幻想」というかんじだったので
退屈をした記憶があります。
私が聞きかじった話では、吉本がウケたのは学生運動とのかかわりで、
「唯物史観も共同幻想」と言ったのがハマったとか(実態は未確認です)、
つまり今読む価値があるのかどうかはよくわかりません。
私としてはあの時代のものであれば柄谷行人の『日本近代文学の起源』の方が
意識のハードプロブレムにはうっすらながら関わる気がします。
私には「意識がどのようにして成長するのか」を分析しているように思えます。
ただ、私は折りに触れ読み返しますが、
じつは未だにいまいちピンときていません。
- 769 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:56:36.02 0.net
- >>768
『日本近代文学の起源』に関連して、
たとえばその本に「内面の発見」というテーマがあります。
私はサルにも目がついているのであれば彼らにも何らかの映像が見えている、
つまり何らかの主観というか精神というかが内在すると推測するわけですが、
しかし彼らには自分に意識的なものがあることを自覚する能力までは
あるような気がしません。
少なくともトカゲなりサカナなりまでにさかのぼれば間違いないはずです。
しかし私たちに自分には意識があることを自覚できるとき
それは人間まで進化してきた過程のどこかの時点でそれが発見された
ということだと考えます。
それはたとえばクオリアも同様のはずです。
これはたとえば原始的な生物が熱を嫌がって逃げようとするとき、
その時点で「熱」が発見されているということだと考えます。
ではどのようにして発見されたのか、
これには前スレ947の「球の内部の何か」的なものが関わるのだろう
と思われます。
- 770 :時計 :2022/01/19(水) 03:02:38.19 0.net
- >>768-769
確かに、あれもこれも共同幻想ですよね……
『共同幻想論』、読んでみようかな。
『日本近代文学の起源』も面白そうですね。
前スレ947はもしかしてでこすけさんでしたか。
- 771 :でこすけ:2022/01/19(水) 07:49:03.75 0.net
- 私には「意識」というのは、混沌としたものとして誕生し、
やがてその中に秩序が生じるもののように思えます。
始めから無条件に秩序があったわけではない気がするのです。
たとえば昔の日本人は「グリーン」と「ブルー」とを「あお」として、
私にとって「紺」と「水色」とが同じ「青」に感じるようにして、
同じカテゴリーに含めていました。
つまり私たちはそれ等を区別できるようになったということです
(やがて「紺」と「水色」ともまったく違う色に感じるように
なるのかもしれません)。
一方では昔の日本人は「お」の発音と「を」の発音とを区別していたようですが
私たちがそれらを区別しなくなったのは単なる単純化ではなく、
むしろ同じ音を文脈によって区別することができるようになった
という複雑化のような気がします。
私にはそういったことは意識の成長のように感じられるわけです。
また私にも自分が生まれたころの記憶はないわけですけど
これは意識が無かったわけではなく、
単に記憶力が無かったということのような気がしています。
そこで久々の意識のハードプロブレムです。
記憶力はいわゆる「脳」の成長に由来するのでしょうか、
それとも意識の内部で、たとえば連想記憶術のような「脳」とは関係無さそうな
(たとえば「西暦794年平安京遷都」は数字が曖昧になりそうですけど
「鳴くよウグイス平安京」はしっかり覚えられる気がします
このような覚え方は「脳」とは関係ない気がするのです)
つまり意識の中だけで完結できるものなのでしょうか、
この問題はそもそも「脳」とは何なのかという問題を解決する必要にせまられ
ますけど(私は「脳」とは何らかの精神現象のネットワークだと考えるので)
いずれにしても微妙な問題のように思えます。
- 772 :時計 :2022/01/19(水) 08:29:45.35 0.net
- 私も意識のハードプロブレムに対して一言。
私は意識のハードプロブレムは、私の脳と私の意識の関係は何か
ということだと考えています。
私の脳であって、他者の脳ではないところは、主観主義のポイントです。
現時点での私の答えは、私の脳を含む私の客体は、
私の主観的意識の精緻な表現だということです。
- 773 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:28:10.24 0.net
- ゆく年くる年、
「ゆく」(»losgehenden«)年を送り、「くる」(»kommenden«)を迎えると、
1月/»Januar«になる。ヤーヌス/《Iānus》は、「双方向(⇔)」神であり、
語源的には" Proto-Indo-European *yeh₂- (“to go, go in, travel”)"に
由来するものと想定されている。その一方で、英語の"-ject"が由来する
とされるラテン語の《iacere》("to throw")も、語源的には、
"Proto-Indo-European yeh₁-, Hyeh₁- (“to throw, let go”)"が想定され、
想定される発音からは、事実上、区別がつかない。これに対して、
同じくラテン語の《iaceo》は、>Stative counterpart of iaciō (“to throw”). The meaning must have
shifted from “I am thrown down” to “I lie”.<
と解釈されており、想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と
比較すると、印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、何に由(ゆ)来する
と考えるのが妥当だろうか。
- 774 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:35:40.05 0.net
- "yeh₁- (“to throw, let go”)"と「や(八)」を比較すると、「八」の末広がりが
"yeh₁-"の"h"に対応しているようなイメージが浮かぶ。
- 775 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:24:14.99 0.net
- フェルスター、『哲学の25年』を読んでいると、多くの哲学者がそれぞれの
哲学的な論述の違いを超えて、スピノザ回帰に向かっているような印象を
受ける。だが、これは、結局のところ、キリスト教が前提とする一神教
の神学を「理知的」に批判して、そこから距離をとろうとしながら哲学
の言説を展開し、なお一神教の哲学とその批判としての理知的な言説の
行き詰まりの両方を乗り越えようとすることによって導かれる「お決まり」
とも言えるような道筋なのではないか。キリスト教の神学と、それとの
かかわりにおいて哲学そのものをも批判したニーチェが、これらの
いずれの言説にも覆われない古代ギリシアを重視して、スピノザ回帰
には我関せずという姿勢を示していることは、他の近現代の哲学者との
対比において注目に値するだろう。
- 776 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:25:52.64 0.net
- 誤:なお一神教の哲学とその批判
正:なお一神教の神学とその批判
- 777 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:56:29.33 0.net
- 誤:「くる」(»kommenden«)を迎えると
正:「くる」(»kommenden«)年を迎えると
- 778 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:21:15.59 0.net
- 『哲学の25年』におけるフェルスターによる、カントをはじめとする
様々な哲学者の論述の説明も、それぞれが理念に基づいて構築されて
いるかのような装いで展開されているが、実際のところ、その展開
を導いているのは、表立っては示されない日常言語的な表現による
物事の理解であるように見える。理念に基づいて最終的にどのような
哲学的な言説を構築してみせたところで、最終的に、そこで用いられて
いる理念と日常言語表現の対応関係が不明なら、その哲学的な言説
は誰にも理解可能なものとはならないだろう。なおかつ、明示される
理念に基づく哲学的な言説の構築が、陰で日常言語表現に導かれて
いるとするなら、明示される理念の方が日常言語表現において暗黙
に伝へられる「心(こころ)」より一般性が高いとは言えないはず
だろう。
- 779 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:32:36.27 0.net
- >想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と比較すると、
印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、
何に由(ゆ)来すると考えるのが妥当だろうか。<
ニーチェの言説がとても具体的でありながら、一般性を感じさせるのは、
ニーチェの表現が、このようなレベルでの類似性を徹底的に活用しようと
しているからである。逆に言えば、ニーチェが自らの表現において活用しよう
として、それに導かれているようなレベルの類似性を無視するなら、
ニーチェが何を言おうとしているのか極めて分かりにくくなり、ニーチェの
言説を何らかの固定された「思想」に沿って解釈しようとする誤りに陥る。
- 780 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:36:53.26 0.net
- 日常言語表現において哲学をしようとするとは、そういうことだ。
- 781 :時計 :2022/01/19(水) 12:46:35.83 0.net
- >>771
紺と水色、全然違わないですか?:)
- 782 :時計 :2022/01/20(木) 08:20:40.69 0.net
- >>781
私は色の差異は名前以前的な問題だと思います。
赤色と朱色は近いですが、赤色と青色は遠いです。
- 783 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 10:08:03.34 0.net
- >>773-774
@世代を超えて言語において用いられる発音の相互関係が体系的に
継承されることが、言語系統論として扱われる。その一方で、
A発話における発音は、表現としてつねに自らの身体性において
どのようにかイメージを想起させるものとして、イメージに
関連づけられて用いられることになり、発音の体系的にも
影響を及ぼして変化を促しつづける。Bその結果、互いに系統
が異なるとされる言語の間で類似した発音が類似した作用の
様態を表現するように用いられることは、それが歴史的な
接触による相互作用によるものか、発音が想起させる身体的な
イメージの共通性によるものか明確に判別することは極めて
困難になるだろう。C言語学は、@の事実を重視するが、
Aの働きについては、言語学は、結果としての発音の歴史的な
変化としては扱うが、言葉で表現することに絶えず働いている
機能として重視して、研究対象とすることはなかった。
Dその結果、互いに異なるとされる言語の間で類似した発音が
類似した作用の様態を表現するのに用いられることがしばしば
観察されるという現象ついて、言語学は、それを「擬音語/
擬態語」と見なして、単なる「偶然の合致」として、あたかも
それが単なる場当たり的な語呂合わせであるかのようにその
類似性を学問的に軽視するように促すこととなっている。
- 784 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:09:00.83 0.net
- 私は「“意識があるもの”はどこまで分解できるのか」という疑問をもっていますが
この疑問はわかりにくい気もするので勝手に解説させていただきます。
これは「どこまで観測できるのか」という問いでもあります。
たとえば唯心論者の私でも普通には腹話術の人形に意識があるとは思いません。
しかし腹話術師の方には普通に意識がある気がしています。
ここで腹話術師を見ているということは「“意識があるもの”を観測している」
ということだと考えることにします。
次に、腹話術師のへその上と下とでどちら側に意識があるのか、
首から上と下とでどちら側に意識があるのか、
脳と脳以外とでどちら側に意識があるのか、
そうやってどんどん分割して行ったとき最後はどうなっちゃうのかという問題です。
何かこれ以上分解できない1個の素粒子に到達するのか、
あるいは何処かの段階でどちらでもないという状態になってしまうのか、
この問題は私個人どころか科学的にも検証はできない気がするので
言いたい放題な気がするわけです。
- 785 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:12:30.29 0.net
- >>784
この問題では私は1個の素粒子派です。
これは意識は観測上は素粒子として現れるのではないかという勝手な推測ですが、
しかし一方の「どちらでもない」ということはあり得ない気がするのです。
そのようにしてどんどん分割して行って遂に「いくつかの素粒子のグループ」
に到達したとき(実際には膨大かもしれませんが)、
それ以上の分割ができないとなると、そのグループと意識とはどのようにして
相互作用をしているのか、はなはだハードなプロブレムのように感じられます。
さりとてじつは1個の素粒子派もあまり状況はかわりません。
その素粒子をカチ割るか何かしても、その意識の中身が出てくる気がしないのです。
これがハードプロブレムといわれたる所以なのでしょう。
とりあえず私としては、7つのドラゴンボールが集まると神龍が現れるかの如く
いくつかの素粒子が集まると意識が起こるというのは無い気がします。
1個の素粒子に1つの精神(原意識)が対応しているという方が、
もちろん実際がどうかはわかりませんけど、
とにかくその方がわかりやすいように思えます。
グループ派は「相互作用の謎」と「発生の謎」とのふたつの問題を抱えてしまう
ということでしょうか、
ちなみに私は「仮想現実」という言葉を使ってきましたが
それではそれを体験している私たちの正体とはどのようなものなのか、
これは外見のことですけど、私はそれは「水槽脳」のようなものではなく
少なくとも五感では認識できないものだと考えます。
何らかの計測機には反応するだろうとは思いますけど
実際にそのような機器をつくるのは困難な気もします。
にしてもちょっとモダンホラーでしょうか、SFかもしれません。
- 786 :でこすけ:2022/01/20(木) 11:16:56.20 0.net
- >740
私は知能が高い人というのは数千年前からいたと思うのです。
私の見立てでは(つまりアテにはなりませんけど)
人類が東アジアに到達している4万年前には既に
環境さえ整えば現代の最先端科学でさえ理解できる知能はあった気がします。
たとえば古代文明が精密な天体観測をしていたりするのは
全員ではないにしても、中にはそういう人もいたということだろうと思うのです。
ただ、知能というのはあくまでも記憶とか計算とかであって
つまり思考ではないと私は認識しています。
コンピューターでいえば計算速度とか記憶容量とかハードの性能のことであって
それだけのプログラムが無いものだと簡単な足し算すらできないわけです。
となると不完全なアプリケーションがインストールされているコンピューターは
どれほど性能が高くてもまともな結論は導けないということになります。
そこで人間の場合、思い込みがまともな思考の邪魔をすることがあるようです。
「地面が何も無いところに浮かんでいるわけはない」とか
「ヒトがサルから進化したものであるはずはない」とか、
にしても思い込みを払拭するのは知能指数の高さとは関係ない気もしたりします。
しかしやっぱり箸にも棒にもかからないタイプよりは有利な気もするので
この投稿がきっかけになればと思って遅レスしてみました。
重要なのはアルゴリズムという、陳腐なオチのような気もします。
- 787 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 11:25:36.37 0.net
- 因果の逆立ちといふw
- 788 :でこすけ:2022/01/20(木) 12:51:09.62 0.net
- >>782
昔の人は「緑」を「あお」と言っていたようですけど(じつは私も言います)、
一方では「藍色」「紺色」「群青色」とか細かいことも言っていますから
「緑」を識別できなかったわけではないと思います。
ただ、カテゴリーみたいなものがあって、たぶんざっくり「あか」と「あお」でしょう。
昔、私の叔父が黄色いミカンを「赤いやつ」と表現したことがあって
「暖色」と「寒色」というかんじだと思います。
昔の「青」は今の「青」とは微妙にニュアンスが違うのかもしれません。
ちなみに私のかんじだと色の基本的なカテゴリーは「赤」「黄」「緑」「青」
「紫」の5種類です。
「水色」なら「青」の一種のような気がしますが
「紫」は「青紫」であっても「青」ではない気がするのです。
ただし微妙なところもあります。「肌色」ならかろうじて「赤」な気がしますが
「茶色」は「赤」とは言いづらい気がします。
「黄土色」も「黄色」とは言い切れない気がします。
私にはいわゆる「オレンジ色」は「赤」だと感じます。
信号機にオレンジ色があれば「赤」として認識する気がします。
しかし場合によっては「注意」の意味のような気もします、微妙です。
私は『ゴレンジャー』のモモレンジャーは色のチョイスに釈然としなくて
色分けするならムラサキレンジャーであるべきだと思っていました。
ましてミドリが抜けてクロになるのはあり得ません(せめてモモだろう)。
しかし今回の時計さんからの指摘を受けて、私の個人的な思い込みだったの
かもしれないと思っているところです。
いや、「カテゴリー」て何だろう?というおはなしのようです。
- 789 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:14:32.25 0.net
- >>783
誤:発音の体系的にも
正:発音の体系的な関係にも
- 790 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:21:32.14 0.net
- 633考える名無しさん2022/01/13(木) 10:15:00.890
[…]
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74
さらにここから、
>457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」<
という関係を導くこともできる。
>Verweile nicht, und sei dir selbst ein Traum,
Und wie du reisest, danke jedem Raum,
Bequeme dich dem Heißen wie dem Kalten;
Dir wird die Welt, du wirst ihr nie veralten.
— Johann Wolfgang Goethe
- 791 :時計 :2022/01/20(木) 15:12:35.69 0.net
- 人々の畜群化は人間の闘争心の現れである。
- 792 :時計 :2022/01/20(木) 15:18:46.43 0.net
- >>788
青のことを「みどり」と言っていたという話も聞いたことはあります。
翠や碧など、様々な綴り方はありますよね。
シロレンジャーとかいないですよね。何故でしょうか。
月光仮面は白いですが。:)
- 793 :時計 :2022/01/20(木) 15:22:59.51 0.net
- >>784-785
私の答えは、実在的世界の全てです。
全ては一つだと考えます。
その中でも脳神経系は注目に値すると思います。
それゆえの意識のハードプロブレムだと思います。
- 794 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 15:23:09.85 0.net
- みどり/身獲り
嬰(みどり)児(ご)
- 795 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 22:36:15.47 0.net
- 西洋哲学の伝統には、言説を哲学として成立させるには、「かむ・か(交)へ/
考へ」を名詞化された概念によって明確に表現して伝へなければならない
という根強い偏見がある。みづから(身づ柄/自ら)の哲学的言説によって
表明する「かむ・か(交)へ/考へ」がその偏見を徹底して批判しようとする
ニーチェやハイデガーの場合においてさえ、その規範に沿った言語使用の
実践そのものが、明示的に表明している本人の批判的な意図を裏切って
しまうのである。このことは、ニーチェやハイデガーさえ、その哲学の最も
中心となる「かむ・か(交)へ/考へ方」を名詞化された概念として提示し、
まさにそれらが名詞化されることによって、どれほどそれらの
「かむ・か(交)へ/考へ方」が伝はりにくく、誤解を生じやすいものと
なっているかを見れば分かるはずである。例えば、「力への意志」と
「できることを」では、既に示したとおり、表現上の連鎖においても、
その操作性についても雲泥の差がある。「道具的存在」と「手頃に在る様」
でも、その分かりやすいさや応用性において、比べ物にならないほどの
違いが生じる。しかし、西洋哲学の言説においては、優先されるのは
常に名詞化された概念の方なのであり、そのこと自体が、
「かむ・か(交)へ/考へ」をまずなによりも「目の前にある」/
»vorhanden sein«様態で提示することになり、ハイデガー本人が
いくら言葉を尽くして「手頃にある」/»zuhanden sein«様態の
本来性を説いたところで、みづから(身づ柄/自ら)の言語使用の実践
における「表現形式」がそれを裏切ってしまうのだから、皮肉と
言う他ないだろう。
- 796 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 23:20:02.04 0.net
- これに対して、日本語の場合、表現を名詞化された概念として提示することは、
伝へようとする「かむ・か(交)へ/考へ」を直接的に明確に示そうとする行為
とはならず、借り物(漢語やカタカナ語など)か、あるいは仮の表象(イメージの
想起と強く結びついた音節の組合せによる和語)をその様態において活用して
いることになるだろう。このことは、西洋哲学の伝統に沿ふことが哲学を
成立させる絶対的な要件であると考えるなら、日本語は哲学をするのには
著しく不利な言語であるという判断を導くことになる。ところが、ニーチェ
やハイデガーの哲学の企図に照らすなら、日本語は、より高い一般性の
レベルで「かむ・か(交)へ/考へ」を巡らせるのに、西洋の主要な言語より
もむしろはるかに有利であるとさえ言えるだろう。
- 797 :でこすけ:2022/01/20(木) 23:51:35.54 0.net
- 私は駿河さんがときどき取り上げる「日本語は哲学に適しているのか否か」
という問題に対し、そもそも「哲学」というのが幻想という立場ですけど、
そうは言っても「言葉」について考えると、私はそれはどこか「DNA」
とイメージが重なります。
それはどういう意味においてかというと、
以前は「DNA」は生物の設計図みたいに推測されていたわけですが、
実際に調べてみるとそうでもなかった、むしろ意味の無い情報が多いように
思われる、しかしその情報が遺伝に関わるのは間違いなく、
おそらく光ディスクにプリントされている情報のような単体では意味の無い、
つまり再生装置とセットで初めて意味をもつものであろうと、
そして「DNA」もまたそれをコントロールするシステムとセットで初めて意味を
もつもの、というのはじつは当てずっぽうな推測に過ぎないものですけど、
「言葉」もまたある意味では一般にその用途とされる「伝達」や「表現」とは
本質的には関係ないもののような気がする、というお話です。
たぶんどこかで誰かが言っている、のみならずけっこう知る人ぞ知る的なもの
のような気もしますけど私個人は>>795から触発されたはなしです。(つづく)
- 798 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:00:32.00 0.net
- >>797
たとえば私(でこすけ)は、日常では状況に応じて「私」「僕」「俺」を
使い分けています。のみならず相応のキャラを演じます。
しかしどれも私(でこすけ)にはちょっと違う感があって
かと言って他をあたっても自分のキャラにいい感じにハマる一人称は日本語には
無い気がします。
日本語には一人称がたくさんありますが、
それはご先祖さまが自分にしっくりくるものを探し求めた結果のように思えます。
私がとりあえず妥協して「私」とか言うとき
それは私(でこすけ)のキャラを言い表している「表現」ではなく
どちらかといえば私のキャラをつくる「鋳型」のような気がするわけです。
本当かどうかは私はアホなので知りませんけど
たとえば英語では一律「I」になるようです。
彼らは自分を「I」だと思っているのだろうか、不満は無いのだろうか、
とも思ったりするわけですけど、根本的に感覚が違うという説を聞いたことがあります。
彼らにとってはそれは「表現」ではなく、「形式」というか「手続き」というか
つまりどうでもいいことだというのです。
日本人は自分を持っていないと言ったりしますが、
けっこう自分に対して関心は持っている気がしたりするわけです。
にしても何故彼らがそれを「手続き」にしてしまったのか、私にはナゾです。
あるいは私の職場のおばちゃん同士の会話を聞いていると
ときどき会話が噛み合っていないことがあります。
ていうか自分が言いたいことを言っているだけの様子です。
しかしそれでいて当事者たちは妙に楽しげに盛り上がっていたりします。
人間が言葉を話すその本質は「伝達」などの背後にあるもの
のような気がしてくるわけです。
- 799 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:40:58.91 0.net
- 以前、日本人でまともな形而上学者と言えるのは大森荘蔵と廣松渉だけだという
話を聞いたことがありました。
日本人はたくさん文章を書き残した民族のみならず最先端の学問を学べるのは
英語とフランス語と日本語との三つだけらしいのですが、
その分野では大きく遅れをとっているというのです。
私は漠然とそれはたぶん日本人にとって形而上なんてどうでもいいことだから
ではないかと思っていたのですが、
しかし昨今書店に行ってみると日本人によるそのような本がけっこう置いてある
印象があります。
なぜだかちょっと戸惑ったりします(私の希少価値が無くなる)。
しかし私にはそれは大森荘蔵と廣松渉云々と言った人が見誤ったのではなく、
以前と状況が変わったのではないかという気がしています。
みんながそういうことに関心を持ち始めたということだと思うのです。
(ただし以下の考察は例によって当てずっぽうなはなしです)
確かネット上に流通しているすべての言語の中で日本語の量的な比率は
日本の人口からすれば不自然に多めだった気がしました
(ネット上というよりも特定のプラットフォームだったかもしれません)。
日本人は比較的文章を書くのが好きな民族だということです。
では一体何を書いてきたのか、ここで当てずっぽうな空想になるわけですけど、
たぶん何らかの「記録」ではないかという気がします。
ざっくり「日記」とか「ルポルタージュ」とか、そういう系統です。
つまり日本人はたぶん日常に関心をもってきたのではないかと思うのです。
それに対し一般的に言って形而上学は明後日の方向に関心を寄せる学問ですけど、
それではこの方向転換の背景には一体何があるのか、
私は明言できませんけど、あまりいいことではない気がするという締めくくりです。
- 800 :でこすけ:2022/01/21(金) 02:40:54.71 0.net
- >>792
せっかくなので「みどり」の語源をググったら
もともとは「新芽」や「若枝」のこととありました。
つまり「みどり」は色のことではなく
言葉のつくりとしては「藤色」とか「鴇色」とかの
系統のようです。
それを思えば確かに「身獲り」はどこか通じる気もします。
「青」を「みどり」と言っていたことがあったのだとすれば
語源を忘れてからのことではないかという気がします。
あるいは知らなかったのは私だけでしょうか。
>>793
私はたぶん鏡を使って自分の顔を見るようにして
何らかの科学技術を駆使して私の脳の中の私の意識の本体を検出できるのだろう
と
- 801 :時計 :2022/01/21(金) 03:26:41.94 0.net
- >>800
あおはあおを中心としてみどりを含むもの、
みどりはみどりを中心としてあおを含むものだったのかなと思います。
既に脳の視覚情報をデコードする研究はあるみたいですね。
まだまだ不鮮明のようですが。
- 802 :でこすけ:2022/01/21(金) 07:48:13.74 0.net
- >>793
私は私の意識は認識上では脳の中に検出されるだろうと推測しますが
意識が実際に存在するのは認識している世界の中では無いと考えます。
意識は三次元空間(物質宇宙)の中には無いということです。
たとえば私は幽体離脱という現象は実際にあり得ると信じていますけど、
これは味を本当は脳で感じていながら舌で感じているような感覚を持つことの
応用のような気がします。
幽体離脱は視覚を感じるのが身体の外側でありながら
脳以外に視点を置くということでは目で見ているかんじがあるのと同じことだ
ということです。
>>772
>脳を含む私の客体は、私の主観的意識の精緻な表現
私はこれについては全く同意なんですが、私としてはその構造に興味があります。
また、それを示さなくては意識のハードプロブレムに答えを出せたことには
ならない気がします。
この構造は「リンゴ」という一個の仮象に「色」「香り」「感触」「味」
などを重ね合わせる仕組みに通じると思います。
- 803 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:50:04.01 0.net
- あお(青)ずむ
- 804 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:56:39.03 0.net
- くろ(黒)ずむ、あお(青)ずむとは言うが、あか(赤)らむ、あか(赤)む、
き(黄)ばむとは言っても、あか(赤)ずむとかき(黄)ずむとは言わない。
- 805 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 09:20:08.65 0.net
- 想念の名詞化の提示として»Wille zur Macht«という表現と
「いき(息)のを(緒)」という表現の対比を考えてみるといい。
前者の表現の提示が促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひ
だろう。それに対して後者の表現の提示が促すのは「『いき(息)のを(緒)』
とはどのようなことか」という問ひである。
「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに応えるものとして一般に
広まった解釈が「»Wille zur Macht«とは『権力への意志』である」
というものであり、すると、「権力への意志」が「ニーチェの哲学を
規定する根本的な思想」であると理解されることになる。しかし、
そのように導かれる理解は、パロディと言ってもいいほどの(この場合、
ニーチェが好んで用いるパロディの作用を逆転してしまう)倒錯ではない
だろうか。
哲学することを促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに
応えようとすることよりもむしろ、「『いき(息)のを(緒)』とはどのよう
なことか」という問ひに忠実に適切に応えるような記述を試みることの
方であり、実際、そのような試みをつづけることの方が、ニーチェが
»Wille zur Macht«によって表現しようとしている考へにはるかに
よく沿った理解に導かれることになるだろうと私は思う。
- 806 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:18:20.58 0.net
- 結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
いると見なす偏見が強く働いているのである。
- 807 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:31:17.72 0.net
- その一方で、日本語の表現においては、想念を名詞化して提示する場合
でさえ、「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
ことの方が尊ばれるのだ。逆に「〜が」という発話行為による同一性
の確立は、「この○○が!」という表現がそのまま罵りとなる
ことからも分かるとおり(「が」は、「我(が)」をフランス語の
《même》に相当するように流用したものである)、適切に「評価」
/"appreciation"しようとする行為ではなく、「見限り」であり、
「見下し」/"depreciation"である。
- 808 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:52:09.78 0.net
- ここで、主題を提示するために用いられる「〜は」は、英語の
"as for 〜"や"what about 〜"に対応するような表現であり、
「〜が」とは異なり、同一性を確立しようとするものではない
ことに留意しよう。
- 809 :時計 :2022/01/21(金) 12:31:56.65 0.net
- >>802
私は主観主義者ですが、主客一致は正しそうに思っています。
幽体離脱に関する観点は面白いですね。
自由意志も重要な問題ですね。
>>805
私的には息の緒とは言いません。:)
>>807
それはどうでしょうか。
- 810 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 14:36:14.66 0.net
- どうであるかを示しているのに、
どうでしょうかと言われても、
どうどうめぐりですね
- 811 :時計 :2022/01/21(金) 15:50:49.26 0.net
- >>810
日本は、科学や数学や論理学において、
西洋に遅れを取っていただけではありませんか?
それを何か勘違いしているように思います。
- 812 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 16:16:58.73 0.net
- そのような単純な進歩主義は思想としては通用しても、
哲学としては通用しないでしょう。
- 813 :時計 :2022/01/21(金) 16:17:54.78 0.net
- >>811
私は、日本の文化は好きですよ。
しかし、曖昧さの美学のようなものは信じません。:)
- 814 :時計 :2022/01/21(金) 16:19:35.74 0.net
- >>812
うーん、西洋と比較したら、他のどこの国々も
曖昧さを大切にしているように見えそうです。
- 815 :時計 :2022/01/21(金) 16:23:30.51 0.net
- >>814
まあ、私は曖昧さは日本の特性だとは思わないということです。
- 816 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 17:15:50.88 0.net
- 「曖昧さの美学のようなもの」とか、「曖昧さは日本の特性だ」とか、
そのようなことは、私はどこにも書いていないし、私の書込みに
そのような主張が含まれているとはまったく考えていませんが。
それは、私の書込みとは無関係に、どこかから仕入れた先入観を
披露しているだけでしょう。
- 817 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:01.85 0.net
- >>816
ん? ようなものって言っていませんでしたか?
- 818 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:55.73 0.net
- >>817
「どのようであるか」でしたね。
- 819 :時計 :2022/01/21(金) 19:32:02.68 0.net
- >>806
>結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
>記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
>いると見なす偏見が強く働いているのである。
これとかですね。
- 820 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:02.95 0.net
- >>819
西洋哲学は「確定的」だとかも言っていますね。
- 821 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:50.05 0.net
- >>807
>「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
>「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
>ことの方が尊ばれるのだ。
これもそうですね。
- 822 :時計 :2022/01/21(金) 19:40:09.22 0.net
- 典型的な、曖昧主義者に見えました。:)
- 823 :時計 :2022/01/21(金) 19:41:05.57 0.net
- >>822
まあ、先入観で決め付けていた側面はありますね。
- 824 :時計 :2022/01/21(金) 19:46:51.09 0.net
- >>823
便所の壁の落書きと思っている限り、適当に返信します。:)
人違いだったら、御免。
- 825 :時計 :2022/01/21(金) 20:05:37.80 0.net
- >>824
適当に返信するかも適当で。:)
- 826 :時計 :2022/01/21(金) 20:22:32.48 0.net
- 正直なところ、落書きは止めて欲しいです。
- 827 :時計 :2022/01/21(金) 20:23:19.80 0.net
- >>826
稀にであればいいのですが……
- 828 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 20:26:47.45 0.net
- 波平ジエンスレ?
- 829 :時計 :2022/01/21(金) 20:33:51.66 0.net
- >>828
多分違うよ。:)
- 830 :時計 :2022/01/21(金) 20:51:57.00 0.net
- >>828
身づ柄さんかな。
- 831 :時計 :2022/01/21(金) 20:53:57.15 0.net
- 布団の中でスマホで見ています。:)
- 832 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:10.57 0.net
- ネトフリ見てくる
- 833 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:49.49 0.net
- >>829
了解👌
- 834 :時計 :2022/01/22(土) 00:30:01.31 0.net
- >>833
39秒て……
- 835 :時計 :2022/01/22(土) 00:36:24.74 0.net
- >>832
いいですね。私はもう1回寝るかな。
- 836 :時計 :2022/01/22(土) 04:20:09.33 0.net
- >>826
落書きというか、便所の壁だと思っての落書きですね。
- 837 :時計 :2022/01/22(土) 04:29:11.18 0.net
- >>832-833
身づ柄さんでしょうか。
少し眠い……
- 838 :時計 :2022/01/22(土) 04:32:42.58 0.net
- まあ、とりあえず、身づ柄さんは便所の壁の落書き発言を
取り消してください。でないと、表層的な対話しかできないです。
- 839 :時計 :2022/01/22(土) 08:02:34.55 0.net
- >>838
発言の取り消しというか態度の改めですね。
- 840 :でこすけ:2022/01/22(土) 09:07:40.53 0.net
- >>809
「幽体離脱」はおおいに誤解をまねきそうなので
ちょっと解説させていただきます。ややこしいです。
私が想定している「幽体離脱」は霊魂が体から抜けてそこら辺を歩き回るような
超常現象ではありません。私はオバケ的なものは信じません。
ただ、そのような体験をすることは実際にあり得て、
しかしその仕組みはある程度科学的に分析できるものであろうということです。
結論的に言うとたぶんある種の夢だと思うのですが、
つまり脳がつくったある種の幻覚だと思うのですが、
ただし夢が記憶をもとにつくられたものであるのに対して
幽体離脱はリアルタイムの感覚に基づいているものだと思います。
(ここはちょっとオカルトっぽくなります)
もともとヒトは動物の中では比較的感覚が鈍っている方のような印象があります。
肉食動物がかなり遠くから獲物を見つけたり、ナマズが予め地震を察知したり、
ヒトでも修行僧なんかが修行中に感覚が研ぎ澄まされて
周囲の状況にすごく敏感になることがあるようです。
このような感覚は私たちが完全に失ったものではなく、
おそらく表層意識にのぼらなくなっただけではないかというのが私の考えです。
幽体離脱が起こるには、霊魂的なものをあらかじめ知っておく必要があると思います。
たぶん幽体離脱はヒトにしか起こらない現象です。
無意識がそのような体験を作り出すのだと思います。
なお「幻肢」の仕組みもたぶんそれと同じだと思います。
じつは意識が有る脳ではなく、そこから離れた舌の上に味を感じるという現象も
それと同じ仕組みを持っている気がします。
ちなみに私はときどき耳の中が痒くなって耳かきでそこを掻こうとすると
そこに身が無かったりすることがあります。
- 841 :でこすけ:2022/01/22(土) 10:01:52.35 0.net
- >>840
ストラットン的に言って、そもそも「舌」はそこには無い
ということを付け加えさせていただきたく存じます。
- 842 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 10:19:39.63 0.net
- ただの夢遊病だろw
- 843 :する=なる:2022/01/22(土) 10:50:44.62 0.net
- >むしろ絶対者はただ結果としてのみ存在しうるのだ。
「理念の本性とは本質的に、自らを発展させ、発展によって自らを把握し、
そして理念がそうであるものになるということである」
(TW18:39/一巻五〇頁)[ヘーゲル]<
エッカート・フェルスター、『哲学の25年』、p.478
456考える名無しさん2022/01/05(水) 09:32:28.950
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を
出典万葉集 三一七
457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」
- 844 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 10:53:14.07 0.net
- 日本語は哲学には向かない、日本語で哲学をすることはできない
と主張する人々は、単に、日本語で反省する能力が自らに欠如している
ことを告白しているだけではないのか。
- 845 :時計 :2022/01/22(土) 10:54:13.88 0.net
- >>840
舌に関しては、脳神経系の範囲内だと私は思います。
魂の存在は、実は私は結構信じています。
しかしそれは、人間の身体の内側にあるとは限りませんし、
幽体離脱に関わるかどうかは解りません。
幽体離脱はあると思う方が愉しいですね。:)
- 846 :時計 :2022/01/22(土) 10:57:04.98 0.net
- >>843
相変わらず理由の解らないコピペですね。:)
>>844
誰もそんなこと言っていませんよ。
どこかから仕入れてきた先入観ではありませんか。
- 847 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:08:51.37 0.net
- 「この時計『が』!」というのは、「時計の分際で〜」という見限りですよね。
「時計」が「時計の分際」であることがどうして見下しとなり得るのでしょう。
ちなみに「〜が」の用法に見下しのニュアンスが伴うことは、私見による
特殊な主張ではなく、岩波古語辞典にも記載される一般的に通用している見解です。
- 848 :時計 :2022/01/22(土) 11:11:46.01 0.net
- >>847
紛らわしい例は止めてもらえますか? :)
- 849 :時計 :2022/01/22(土) 11:14:02.21 0.net
- >>848
全く身づ柄さんは…… :)
- 850 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:18:23.22 0.net
- https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0291370.pdf
>二一世紀の中国の地で、デリダがとある現代中国の知識人と対談していたとき、
デリダの何気ない一言によって、それまで穏やかに進んでいた対談の空気が
一変したのである。それは、「中国には哲学がなく、思想しかない」という
デリダの発言であった。<
- 851 :時計 :2022/01/22(土) 11:18:36.04 0.net
- >>849
最近、フッサールを読んでいますが、
他者は現象学的還元をしても、意識はない、
というアクロバティックな読み方をしています。:)
どこまでそれで読めるか実験です。
- 852 :時計 :2022/01/22(土) 11:19:31.17 0.net
- >>851
ああ、引用、間違えました。
引用なしで読んで下さい。
- 853 :時計 :2022/01/22(土) 11:21:08.04 0.net
- >>850
あんまり詳しくありませんが、老荘思想などは、
中国の哲学と言えるのかなと思っていました。
- 854 :時計 :2022/01/22(土) 11:23:35.67 0.net
- >>853
あんまり詳しくないなら立ち入らない方が良かったかもしれませんね。
言われる前に言っておこう。:)
- 855 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:24:26.66 0.net
- >全く身づ柄さんは…… :)
私は「考える名無しさん」ですが、その「全く○○は」という語法は、
「○○は完全に〜だ」と過不足なく言い換えることができ、つまり、
この場合、「全く○○は」とは、You are/○○ is "nothing other than 〜"
ということで、この場合も、発話遂行的な同一性の確立が非難として
用いられていることになりませんか?
- 856 :時計 :2022/01/22(土) 11:28:02.52 0.net
- >>855
名無しさんだと全体になってしまいますから、仕方がないのです。
私見では、「見限り」になるのは、
断定を避けたいという思いからだと思います。
- 857 :時計 :2022/01/22(土) 11:37:44.47 0.net
- >>856
ネガティブなワードは言うのも憚られるというか、
言霊的なというか。
- 858 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/22(土) 21:02:19.46 0.net
- コインの表裏はともかくとして、コインそのものは客観的実在なのか。
その客観性あるいは実在性を確認あるいは証明できるのだろうか。
客観性には他者が必要である。
とりあえず他者は先送りするw
この場合、実在性を自己だけで確認できるのかどうかということになる。
証明は他者との客観的検証が必要となるだろうが、そこはおいといて、
確認とは証明であるということにする。実在の証明。
表裏の可能性のために、そもそものコインの実在証明を自己だけで行う。
「わたし」がいなくても(みていなくても)、そのコインは「存在」するか。
- 859 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/22(土) 21:56:36.93 0.net
- きわめて難問なので、夢の中としてみる。
この場合、(夢の中の)コインは実在しない。
夢の中で、その(夢の中の)コインが実在しないことを証明できるだろうか。
夢の中の「わたし」が、夢であることに気づければ証明いらずだが、
あくまでも証明可能かどうかを考える。
- 860 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 22:12:14.23 0.net
- 『哲学の25年』を一応、最後まで読み終えた。
>>858みたいな言葉遣いで問題を考える人には役に立つんじゃないかな。
最後の章は、一応、著者の全体的な考え方が示されていてそれなりに参考になった
(私にはかなり「我田引水」の論述に感じられたが)。ヘーゲルの議論を説明した
その直前の章があまりにも退屈だったから、途中で読むのを止めようかと
思ったが、最後まで読んでよかった。まあでも、これを読んだからといって、
カント、シェリング、ヘーゲル、スピノザあたりの著作に自分でまともに
取り組もうという気にはならないが。フィヒテは、別枠というか、別の
意味で関心があるので、暇ができたらまた少しは読むだろうけど。
- 861 :時計 :2022/01/23(日) 02:00:45.57 0.net
- >>858-859
極めて難問だと思います。
私としては、0.99の可能性が夢であり得ることを考慮すると、
Xの可能性に転化するように思います。
実在は、常にその根底に揺さぶりの掛かるものだと考えます。
しかし一方で、これは夢ではないという感覚は
一応、信頼に足るようにも思います。
この感覚は何なのでしょうか。
- 862 :時計 :2022/01/23(日) 02:15:58.66 0.net
- >>861
Xの可能性は、これは夢ではないと判断すると、
0.99の可能性に回帰するけれども、
それは、そういう夢だと考えた途端、Xの可能性にまた戻る。
そういうものなのかなと思います。
- 863 :時計 :2022/01/23(日) 02:17:27.53 0.net
- >>862
突き詰めると、私は日常では、これは夢ではないという直観を
信じているのに過ぎないのかなと思います。
- 864 :時計 :2022/01/23(日) 02:38:31.46 0.net
- >>863
連続性は現実の特徴かもしれません。
名無しさんは連続性はありませんね。:)
- 865 :時計 :2022/01/23(日) 03:11:04.48 0.net
- >>864
結構、考えましたが、やはりこれは夢ではないという
直観を信じるしかないかな。
- 866 :時計 :2022/01/23(日) 03:37:30.68 0.net
- >>865
現実の痕跡というものがあるかもしれない。
- 867 :時計 :2022/01/23(日) 05:55:43.27 0.net
- >>866
今、この机の上にある本は昨日も机の上にあった。
その本は去年ある本屋で購入した。
その本の著者はまた別の本を読んで知った。
そういうようなことは現実の痕跡になるかもしれない。
- 868 :時計 :2022/01/23(日) 05:56:41.99 0.net
- >>867
正:昨日もその机の上にあった
誤:昨日も机の上にあった
- 869 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 11:49:12.89 0.net
- 夢の中をVR(Virtual Reality)、主観的な現実をAR(Augmented Reality)またはMR(Mixed Reality)
とするなら、夢の中のコインは実在しない。
他者なしには確かさ/確からしさも得られない。
しかし、コインそのものも(人格は持っていないかもしれないが)他者である。
わからない/予想不能な部分があればよいのかもしれない。
では、夢の中のコインのすべてを知っているのかというと、そうでもない。
知っている情報だけで構成されているわけだが、知らない部分も知らない部分として知っているw
予測不能な部分も無意識が補ってくれている。
数学的には区別することが可能だとしても...(ちょっと思いついたので中断)
- 870 :考える名無しさん:2022/01/23(日) 11:59:25.59 0.net
- 現在は昔なのに存在するなんてないw
存在しただろw
- 871 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 12:09:25.85 0.net
- 昨夜の電脳コイルとか、いまみているBSフジの番組とか、
なぜかAR/MRに関する番組が続いている。
夢の中(VR)でのコインの実在性は無意識によるものである。
無意識が実在性をシミュレーションしてくれている。
現実における実在性も、主観的であるかぎり無意識による直観的なものである。
そういうわけで、主観的存在+無意識による「主観的実在」(≒直観)を提唱するw
- 872 :時計 :2022/01/23(日) 18:01:01.75 0.net
- 最近フッサールを読んでいたのだが、
よくこんなに考えたなと思う。
闘争的と言うか。
ニーチェは明らかにそうだけど。
これが西洋哲学の特徴なのかな。
何が彼らを駆り立てるのだろう。
日本人は徒然なるままにじゃないけど
適当だよね。
- 873 :時計 :2022/01/23(日) 18:06:04.71 0.net
- >>871
夢に関しては、哲学より脳科学の方が真理に接近しているかもしれませんね。
多分、回路が現実モードになって、視覚とかがはっきりして、
それが夢ではないという直観を生むんじゃないかなと思います。
- 874 :時計 :2022/01/23(日) 18:13:17.89 0.net
- >>873
そんな研究があるかどうかは知りません。適当です。:)
- 875 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 18:43:54.68 0.net
- 主観的実在とは、ようするに思弁的実在論的なものですね。
マルガブの新実在論という方向性もあります。
実在とは「公理」であり、体系内に持ってくると矛盾をもたらします。
公理的集合論かえみれば、あまり語られることのない、「集合の存在公理」に相当します。
- 876 :時計 :2022/01/23(日) 19:25:17.98 0.net
- >>875
マルクス・ガブリエルは2冊、図書館で予約しましたが、まだ貸出中です。
メイヤスーは去年読みましたが、面白かったです。
思弁的実在論は、確かに主観的実在論とは相性良さそうですね。
集合の存在公理ですか。考えたことともなかったです。
矛盾をもたらすというのはどういうことでしょうか。
- 877 :時計 :2022/01/23(日) 19:33:44.22 0.net
- >>876
要するに、実在は○より多いということかな。
- 878 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 23:00:48.07 0.net
- 主観という体系内で、実在を定義すると矛盾する。
タルスキの定義不可能性定理を援用します。
なんて小難しいことを語らなくても、
実在は主観からはなれて存在するというものですから、主観内で定義するのは無意味ですw
これは(主観からはなれた)「客観」すらも無意味だということになります。
主観という体系内で定義可能なのは主観的客観であり、
それゆえに主観的実在のみが実在として定義可能です。
主観を思弁とすれば、思弁的実在論そのものですね。
- 879 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 23:06:07.92 0.net
- というわけで、コインの「実在」は「公理」です。
「公理」だからといって「絶対」だということではなく、
「公理」は常に更新(否定とは微妙に異なる)される可能性を持っています。
コインについて語るとき、コインの実在性は公理として語りの外側にあるわけです。
やっと、先送りしていたコインの実在性問題を回収できたと思います。
- 880 :考える名無しさん:2022/01/23(日) 23:45:37.49 0.net
- 時は止まらないのに今はないよなw
- 881 :時計 :2022/01/24(月) 03:37:12.97 0.net
- >>876
正:考えたことも
誤:考えたこととも
>>878
なるほど。私は実在は主観的実在だと考えていますから、
矛盾は回避できているのかな。
>>879
語りの外側にあるというと背理を感じますが……
- 882 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 08:11:04.19 0.net
- もう先きがなければ、今は極まる⇒今はの際
- 883 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 08:36:12.21 0.net
- それでも先はやってきてるぞハゲw
- 884 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 11:01:38.58 0.net
- おまえらの目の前のものと記憶の中のものは毎時違うからなw
- 885 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 11:15:06.92 0.net
- 意識しないと不都合が生じる違いだけが、その都度、意識されるんだよ。
- 886 :時計 :2022/01/24(月) 12:13:46.63 0.net
- >>884
まま、穏便に。
そういう主観なわけです。
- 887 :時計 :2022/01/24(月) 12:35:31.08 0.net
- >>885
スマホを見る意識に何か不都合はありますか?
- 888 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:23:10.32 0.net
- スマホ見ないと着信した連絡に気づかずに私生活でも仕事上でも
支障が生じるからスマホを所持しているのでは。私はスマホなんて
持ちたくもないけど。
- 889 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:27:42.91 0.net
- 衣服の流行とかについて考えてみるといい。
万年、同じ衣服を見つけていても、擦り切れたのを廃棄したり、
寒暖の変化に合わせて重ね着したり、薄着にしたりしている
だけで、衣服の身体保護機能には何の問題もないはず。
でも、周囲が違うスタイルの衣服を着用しだす。すると、
違いに気づいて、別に新しいスタイルの方が機能性が
優れているというわけでなくても、今までのスタイルの
衣服はもう場違いであるという意識が生じる。
そうやって、機能性の関係なくファッションが変化する。
- 890 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:32:07.06 0.net
- どういう衣服が場違いなのかに注意を払っていないと、
自分ではそのことを意識していなくても、周囲の人々が、
そのように場違いな衣服を身に付けていることに注意を向ける。
周囲の人々は、そのように場違いな恰好をしていることには、
特別な理由があるか、特別の意図があるに違いないと判断し、
その判断に基づいて、その場違いな恰好をした相手に
対して振る舞うようになる。そのことが、大きな不都合を生じる
ので、流行など気にしたくなくても、普通は周囲に合わせて
身に付けるもののスタイルを変える。
- 891 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:33:07.15 0.net
- >>885
不都合という表現は勇み足だなw
- 892 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:38:42.79 0.net
- >>890
そういう意味で老人が財を使わず貯め込む行為は正しいね
流行に疎いから無形財や食事に散財するならまだしも一生物にホイホイ使うと流行遅れのモノに金をドブに捨てることになる。孫にも相続してもらえない。
- 893 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:38:49.14 0.net
- 「勇み足」というのは出した足の置き場が不都合だから、
そのことを「意識しろ」という指摘ですよねw
- 894 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:40:36.85 0.net
- 何もしなければ勇み足は生じない
- 895 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:53:12.32 0.net
- 周囲がみな一歩踏み出しているのに、なにもしなければ、
頑固に足を出すことに抵抗していると見なされ、
非難の対象となる。
- 896 :時計 :2022/01/24(月) 14:03:32.62 0.net
- >>888
スマホは連絡酒庵としても使えるが、
電車や布団の中で使えるのも個人的には大きい。
電子書籍も読める。
- 897 :時計 :2022/01/24(月) 14:29:28.13 0.net
- >>896
正:手段
誤:酒庵
- 898 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 19:35:36.34 0.net
- >>893
- 899 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 19:38:49.93 0.net
- >>895
都合のいいところに出した足は丁度いい意識が生ずるぞアホw
- 900 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/24(月) 22:35:54.72 0.net
- 主観という集合の外側に非主観的客観(≒実在)がある。
この集合を裏返せば、客観という集合の外側に主観という公理がある公理系を構築できる。
それでいて全体(集合+反集合)は存在確率半径1の超球面である。
主観側も客観側も(存在確率の)曲率を持った集合となる。
この曲率を重力のようなものと考えるとおもしろい。とてもおもしろい。
いま考えているのがピタゴラス音律から超対称性による並進対称性を得ること。
超球面は「波」だ/のはずだ。
公理系にも対称性があり、公理系とその反公理系がつながっていて超球面になっている。
とりあえず公理的集合論と対称性をもっている反公理的集合を考えてみるw
>>885
まさしくその通りであって、なにかしら問題(矛盾)があるから「意識」が必要とされる。
問題がなければ「意識」など必要とされない。
- 901 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 00:56:29.49 0.net
- lim x→∞ (sin(π/x))/(π/x)=1
なのだから、
lim x→∞ π/x≠0
でしょう。
- 902 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 00:59:25.56 0.net
- というか、πは定数ではなく、数えることに応じて精度が高まるように
算出される値なのだから、lim x→∞で先回りして無限に達した状態を
想定することはできないということでは。
- 903 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 03:17:36.72 ID:ybXdxiar0.net
- >>901
なーに言ってんだおめえ。だったら
lim[x→0]{x / x} = 1
だから
lim[x→0]{x} ≠ 0
なのか?そう言ってるのと同じで、論理が破綻してるっぺよ。徒に数式使うんでねぇ。
- 904 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 03:28:47.26 ID:ybXdxiar0.net
- lim[x→0]{π/x}
が存在しないのは
lim[x→0]{1/x}
が存在しない理由と同じでπは関係ないっぺよ。
- 905 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 04:43:53.71 0.net
- 微分もできない馬鹿は哲学をやるな
哲学は優秀者のための学問だ
詩文か? 屁理屈はいかなる意味でも学問ではない!
- 906 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 06:40:31.76 0.net
- >>885
おまえのそういうところがいろんなことを見落としてるんだろなw
誰かに似ているがそういうところやぞw
- 907 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 07:42:22.22 0.net
- >>903-904
何を言っているのか私には分からないな。
πは、既存の数値として存在するものではなく、数を数えるのに応じて
その精度が上げるように整数比として近似されて算出される値なので、
lim [x→∞] π/x
もxが大きくなるにつれて算出される値であると考えるなら、
いくらxを大きくすることができても、その極限として、つまり、
先回りしてlim [x→∞] π/x=0
と考えることは、存在論的に整合性がないだろうと言っている。
存在論的な説明を数式に代用させることはできないだろう。
- 908 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 07:50:14.91 0.net
- >>904
私は数を無限に数えることと円周率の計算が表裏一体だと言っているのだから、
どう関係がないのか、言葉で説明してもらわないと不明ですよ。
lim[x→0] 1/xで同じ大きさを無限に分割するという問題の対応から
考えているのだから、数を数えることと、円周率と、連続性の問題の
関係を哲学的に言葉で説明してもらえなければ、私にとっては、
何も示されたことにはならない。
- 909 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 07:52:36.04 0.net
- 存在論について数学の方が、既に説明がついていると考える前提そのものが
どこに根拠があるのか不明。
- 910 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 09:29:55.02 0.net
- 誤:存在論的な説明を数式に代用させること
正:存在論的な説明に数式を代用すること
- 911 :でこすけ:2022/01/25(火) 12:44:12.30 0.net
- >>860
>>872
私はヨーロッパ人を象徴するのは「自伝」だと思います。
「自伝」を書くようにして「哲学書」を書いている気がするのです
特別な感性をもっているのだろうという気がしたりするわけです。
かく言う私も「本当の世界をタヒぬまでには知りたい」とか思っています。
その時点でちょっと人間としてオカシイわけですけど、
ただ、それは「覚えること」ではなくて「わかること」であろうと考えるので
「言葉」ではなく「きっかけ」を探しています。
にしても彼らの情熱というのか執念というのかまではよくわかりません。
もっと別の動機なり要因なりがある気がするのです。
たとえば日常的に肉を食っているとそうなっちゃうのかな
という気がしたりします。
- 912 :でこすけ:2022/01/25(火) 14:27:06.81 0.net
- >>858
「存在」の根拠についてですけど、とりあえず有名なものが「我思う」です。
私は「意識」の発生は生命以前の単純なものにさかのぼると考えますが、
つまりそのようなものはまだ言葉はもちろん感情や感覚も無い
おそらく私たちの潜在意識レベルのものに過ぎず
まして「考察」なんか絶対にあり得ないような気がしますけど、
しかしそれでも存在できている気はします。
少なくともこの世界には感覚さえ持たない潜在意識的なものだけの意識が存在
している可能性はある気がします。たとえば生まれる前の私たちです。
それでもそれは、一応いわゆる「実存(主観的存在)」です。
では、「実在(客観的存在)」とは何を持って「存在の根拠」にできるのか、
実存として存在しているもの(観測者)が存在していない世界では
物体はどのようにして存在しているのか、
あるいは先走って言うと「(空間的)ひろがりを持つ」というのはどういうことなのか、
「ちからを及ぼし合う」というのはどういうことなのか、
「存在を保つ」というのはどういうことなのか、
そしてそういったことなどは如何にして可能になるのかという問題です。
もちろん「世界は観測者(実存)がなくても成立するのか」につながります。
ところで私はビッグバンで宇宙空間ができたというのには飛躍をかんじます。
複数の物体の運動原理を統一するシステムは如何にして可能なのか、
「物理学的空間」というのはシンプルではない複雑な構造体のような気がするのです。
たとえると電話が発明された最初の電話がいきなりスマホだったかんじです。
そこまで行くためにはいくつかの段階を踏む気がします。
「物理学的空間」はア・プリオリに与えられるものではない気がするのです。
- 913 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 14:32:33.20 0.net
- 言葉として伝わるように矛盾なく記述して表現することは大切だ
さもなければ、まやかしばかりが横行することになる
- 914 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 14:36:34.87 ID:Mp27Fk4Y0.net
- lim [x→∞]{π/x} ≠ 0
という間違っている式を提示している時点で取り合う必要がない話だし、
これ以上意図を汲み取ろうとするとグダグダになりそうだからやめるが、
極限値の厳密性の話なら、「無限」を避けるためにδε論法があるのだし、
無限回の試行や無理数を認めないなら直観主義論理というものがある。
- 915 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 14:45:58.46 0.net
- 無限小の長さは、無限小の円の円周長
- 916 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 14:48:50.89 0.net
- ナメクジは知の塩に触れると干からびてしまうから、避けて通ろうとするほかない
- 917 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 14:50:17.07 ID:Mp27Fk4Y0.net
- >>907
「既存の数値として存在するものではなく、数を数えるのに応じて
その精度が上げるように整数比として近似されて算出される値」
→それは極限値という。「極限値としてしか存在しない数」のことなら
それは(多分)「代数的数でない複素数」=超越数となるが、
超越数は円周率だけでなくネイピア数など他にも存在する。
>>908
「私は数を無限に数えることと円周率の計算が表裏一体だ」
表裏一体ではなく、円周率の計算は無限に数えることの内の一部でしかない。
哺乳類には首の長いキリンが含まれるが、首の長さが哺乳類の性質とは関係がないように、
極限によって円周率が求められるとしても、その一部である円周率の性質と極限とは関係がない。
とまあ、こういうことになるだろう。
- 918 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 14:53:24.31 ID:Mp27Fk4Y0.net
- 「極限値としてのみ存在する数」が「代数的数でない複素数」=超越数となるかどうかは自明ではないが、
そこの非自明性については身づ殻氏にとってはどうでもよいことなのであろう。
- 919 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 14:55:53.73 0.net
- >超越数は円周率だけでなくネイピア数など他にも存在する。
数学では、このような「数の存在」を前提とする表現や、
数学記号の用法によって、存在論の問題が隠蔽されているが、
そこで行われている数学操作を言葉で記述しようとすると、
そのままそこにどのような存在論の問題があるのかが
明らかとなってしまう。
- 920 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 14:58:05.95 0.net
- 円周率に極限はないのだから、「極限値としてのみ存在する数」ではないだろう。
- 921 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 15:04:58.47 ID:Mp27Fk4Y0.net
- 微分可能性の定義は、
lim[h→0]{(f(a+h)-f(a))/h}
が存在するとき
f(x)はx = aで微分可能。
連続性の定義は、
lim[x→a]{f(x)}
が存在して、その値がf(a)に等しいとき
f(x)はx = aで連続。
一般的に微分可能ならば連続であるということになっているが、
lim[x→a]{f(x)}が存在してもf(a)が存在しないまたは定義しないことがある。
その場合は微分可能かつ連続でないのではないから
- 922 :でこすけ:2022/01/25(火) 15:08:07.40 0.net
- >>845
微妙にはなしがズレますが、先日ちょっとおもしろい話を聞きました。
私たちはえてして「精霊」というとマユツバだと決めてかかったりしますけど、
じつは「命」も似たようなものなのではないか、
数千年後の人類にとって「命」は迷信になるのではないかというのです。
「生命とは何か」実際にそれは定義すら厄介なものです。
その昔ポルノの定義で「見ればわかる」というのがあったそうですけど、
生命も「見ればわかる」
あながち間違ってはいない気もしてきたのでした。
- 923 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 15:12:38.34 ID:Mp27Fk4Y0.net
- ではないか?
>>920
円周率は最も古い式で
Σ[n=0,∞]{((-1)^n/(2n-1)}
という無限級数で表される。この無限級数というのが極限に他ならない。
- 924 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 15:13:32.35 ID:Mp27Fk4Y0.net
- Σ[n=0,∞]{((-1)^n/(2n-1)} = π/4
の間違い。円周率ではなく円周率の1/4。
- 925 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 15:19:55.47 0.net
- >この無限級数というのが極限に他ならない。
これが存在論的に間違った表現。「極限」は存在しない。
無数えることに応じて、無限に精度を高めるように比として
表現できるという「操作を記述している」に過ぎない。
- 926 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 15:23:11.52 0.net
- 誤:無数えることに応じて
正:数えることに応じて
- 927 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 15:50:19.62 ID:ybXdxiar0.net
- >>925
それって
0.999999... ≠ 1
っていうありきたりな話とはどこが違うの?
- 928 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 15:57:06.65 0.net
- さすがナメクジだけあって、円周率の数値を任意の精度で計算することと、
小数点で同じ数字が続くことの間の区別がつかないようだねw
- 929 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 16:08:56.88 ID:ybXdxiar0.net
- 区別が付いてないのは煽りで誤魔化さざるを得なくなっている方だろう。
だから「無限の操作(≒極限)でしか表現できない数」として
超越数という助け舟を出したのだが意にかけなかったようだ。
- 930 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 16:12:57.63 ID:ybXdxiar0.net
- まあ好意的に解釈するなら、身づ殻氏が構えているのは直観主義論理と同じであろう。
直観主義論理のコンセプトは排中律を認めないことだが、
そこから無限や無限回の操作の禁止といったことが導かれる。
全然詳しくないが極限も認められていないのではないか。
- 931 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 16:24:47.89 ID:ybXdxiar0.net
- 無限を認めないというか、「無限にそれに近づくことはできるが、
永遠に辿り着くことはできないもの、を存在として認めない」ということかな。
そんなのは蜃気楼とか馬ニンジンみたいなものだと。
- 932 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 16:40:08.53 0.net
- 行為を哲学的にしっかりと考えて忠実に表現することができないようだね。
だから、「無限や無限回の操作の禁止」の操作の禁止とか、どこにも
主張されていないことを、あたかも相手の主張であるかのように捏造
せざるを得ない。否定されているのは、任意に無限に操作することの
可能性などではない。その無限の操作が完了しているかのように
思いなして、それによって得られたとする存在者が目の前にあるもの
とする存在論だ。
- 933 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 16:40:51.61 0.net
- 「無限や無限回の操作の禁止」の操作の禁止とか ×
「無限や無限回の操作の禁止」とか 〇
- 934 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 16:47:04.35 ID:ybXdxiar0.net
- >>932
同じことを別な言葉で言ってるだけだ。自分の領分から出ず汲み取ってもらう側の分際で
イチイチ解釈にケチをつける度量の狭さには敬服せざるを得ない。
- 935 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 16:54:42.94 ID:ybXdxiar0.net
- 自分の領分を出ない、というのは「私はこう思う」とか「私にとっては何も示されたことにならない」とか
あくまで「私」が思う限りにおいて自由であり、誰からも非難を受ける謂れはない
という無謬性の領域から出ないというこも。
- 936 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 17:07:47.11 0.net
- 無限の操作と、その操作が完了されたとすれば得られるものの存在
を混同していながら、その混同に気づくことすらできないから、
哲学にならないのですよ。
- 937 :塩なめくじ:2022/01/25(火) 17:27:28.52 ID:BnNPgh4e0.net
- 無限が「その操作が完了されたとすれば得られるものの存在」の最たるものなのだから
無限も無限回の操作もそれを含意しているに決まっているだろう。
- 938 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 17:38:54.19 0.net
- 哲学の存在論では、そんな議論は成立しない。
- 939 :時計 :2022/01/25(火) 17:45:10.85 0.net
- >>922
久しぶりに酒が入っています。
生命とは何なのか。科学的には細胞から構成されていることでしょうか。
そうするとウィルスなどはどうなるのかという話になりそうですが、
詳しいことは私は知りません。:)
見れば解る生命というものは、ある程度の大きさがありますよね。
>>911
最近、ショーパンハウアーの『意志と表象としての世界』を読みましたが、
2回は読めと、あとがきみたいなところに書いてあり、
どこからその自信はやってくるのかと思いました。
しかし、そのことには本人も自覚的みたいで色々と書いてありましたが、
しばらくは再読することはなさそうです。:)
本当の世界はどこにあるんでしょうね。
最近キリスト教に入信しようかなと結構真剣に考えています。
キリスト教、仏教、哲学と2足ならぬ3足のわらじが認められるなら、
ありかなと思っていますが、どうなることやら。
私は狂信的なタイプではありませんし……
とりあえず当たって砕けろというか、
やってみようかなという感じはしています。
私は神に関心があります。
神は死んだだとかいう哲学者はキライです。:)
話は聞きますけどね。
- 940 :時計 :2022/01/25(火) 20:59:20.35 0.net
- >>938など
無理数は存在すると考えていました。
πはπということで。
n進数で表現することは無理ということで。
直観主義論理でも無理数は存在するのでは?
しないのかな。
何にせよ考え違いを人格の否定のように言うのは止めましょうよ。
- 941 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/25(火) 21:31:36.48 0.net
- 難しいことは考えずにπ進法をつかえばすっきりするのだ。
そのかわり、π進法の世界では整数が無理数になるw
- 942 :でこすけ:2022/01/25(火) 23:16:51.92 0.net
- >>939
たとえば「生物」と「生命」との違いについて、
私はことさら区別をしてきたわけではありませんけど、
しかし個人的な印象としては(これはまったく個人的な印象でしょうけど)、
「生物」は細胞でできていて何らかの活動をしている物体であるのに対し、
「生命」と言うとたとえば宇宙の彼方にいるかもしれない非炭素系の生物や
極端に進化したロボットなどまでをも含み得る気がします。
あるいは貝殻のような残骸ですらざっくり「生命」のような気がします。
さらには伝統文化や古典芸能などでも若い人が新しい感性を注ぎ込んだものには
「焼き物は生きている」とか「歌舞伎は生きている」とか
そういう気持ちになることがあります。
はなはだいい加減な気がするわけです。
>本当の世界はどこにあるんでしょう
私はけっこう目の前にある気がしています。
本当の世界は見方を変えることによって見えるようになる気がするのです。
ところでせっかくなのでショーペンハウアーについてですけど、
これは私にとってはカントでもニーチェでもそうなんですが、
おおかた書いてあるのは当たり前のことのような気がするので
私には読む気が起こりません。
私としてはむしろ時計さんが面白いと言っていたメイヤスーの方が
気になります。
私の世界観は断然カント、ショーペンハウアー、ニーチェだろうと思いますが
(メイヤスーやマルクス・ガブリエルではなくて)
一方では「面白くなければ哲学じゃない」という気持ちがあるのです。
ただ、ショーペンハウアーが「2回読め」というのはわかる気がします。
哲学というのは覚えるものではなく理解するものだ(見方を変えるものだ)
という考え方が背景にあるのではないかと察するのです、
「訓練しろ」と言っているのではないでしょうか、知らんけど。
- 943 :考える名無しさん:2022/01/25(火) 23:43:10.19 0.net
- 難しいことは考えずに、πの近似値として計算された数値、
例えば、π=3.14であれば、与えられた円の円周を1/314に分割し、
π=3.14159であれば、1/314,159に分割し、π=3.14159 26535
であれば、1/31,415,926,535に分割して、その1/nを単位として
円周長を測る/単位数を数えるものとイメージすればよいのでは?
すると、単位として用いられる1/nは、どんどん細かくなって、
次第に点と見間違えるほどになり、測定の精度は高まるけれども、
その大きさは、円周長が分割されている元の円の直径の1/nの
直径の微小な円の円周長となるのでは。
- 944 :でこすけ:2022/01/25(火) 23:54:02.35 0.net
- >>939
それから余計なお世話ですけど、
私は宗教が悪いとは思いませんけど
ただ、宗教団体にはあまり良い印象がありません。
信頼できる宗教家なり信者さんなりと交流するだけであればいいと思いますが、
たとえばビーガンやフェミニズムがそれ自体悪いことではないにもかかわらず
しかしえてしてヤバい方向に陥りがちであるように、
信仰は組織化されると良くない方向に向く可能性が低くないもの
のような印象があります。
具体的に言ってしまうと、カネが絡むことがあって、
そしてDVを受ける女性のように、それでも従順になってしまう傾向があるようです。
これは「自分は大丈夫」と思っている人ほど云々と言ったりします。
察するにじつは時計さんの中では結論が出ている気もするのですが
それでも私はあえて慎重であることをおすすめします。
失礼致しました。
- 945 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 05:01:46.84 0.net
- 無理数なんて打ち消しあって1になればそれでしまいだアホw
- 946 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 05:15:08.65 0.net
- πが定数ではないとか言ってる時点でスレ主はアホ確
こういうのがいるからソーカル事件みたいのが起こるw
どうせフリーメイソンやろ、ろくなやっちゃない
お前らごとき馬鹿どもが世界征服できるか、アホぬかせw
- 947 :時計 :2022/01/26(水) 05:30:54.26 0.net
- >>942
「生命」ですか…… 難しいですね。
人工生命とかもありますね。
何でも面白い方がいいですね。
ショーパンハウアーは暗い気持ちになりますよ。:)
メイヤスーは明るい感じはすると思います。
2回読むのは、まあ、おいおいですね。
>>944
キリスト教は、「(キリストの)弟子を増やせ」と
聖書に書いてありますから、布教に熱心なのだと思います。
日本ではそれほど勢いはありませんが。
カルト的な要素はないか、話は聞いてみたいと思います。
カネに関しては、大丈夫じゃないかな。
普通のキリスト教だと思いますよ。
- 948 :時計 :2022/01/26(水) 05:33:08.70 0.net
- >>946
定数ではないとか、言っていませんが……
- 949 :時計 :2022/01/26(水) 05:39:04.97 0.net
- >>946
あと、世界征服とは? :)
- 950 :時計 :2022/01/26(水) 05:40:41.25 0.net
- >>949
哲学的な世界であれば、征服かどうかは解りませんが、
この手に掴みたいと思います。
- 951 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 06:38:48.73 0.net
- 数学において求められる「極限」は、「(大きさのない)点」、すなわち、
「存在しないもの」として理念化されているのだから、「極限が
存在する」と言語表現して、それを真に受ければ、矛盾が生じるのは当然である。
この場合も、主要な西洋言語における言語使用の実践と比べて、
日本語の表現法の方が「合理的」である。数学上、極限はいかなる
場合にも「存在する」ことはなく、「求まる」場合と、「求まらない」
場合があるだけである。
- 952 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 06:52:00.13 0.net
- しかし極限が存在しないならアキレスは亀を追い越せないのでは?
- 953 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 07:00:35.12 0.net
- 「極限」としての「点」が「存在しなく」ても、円周率は求められるし、
時計の針が回転することも可能ですが?
- 954 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 07:10:53.78 0.net
- 極限値が有限値になることもあるんだから極限は当然存在するだろう
- 955 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 07:18:45.46 0.net
- 円周率の値が極限の点として確定しなければ、回転が不可能であるというのなら、
アキレスは亀の想定では、アキレスが亀に決して追いつくことができないように、
時計の針が回ることもできない。しかし、円周率として「求まる」値は、
円周上の「点」として「存在する」わけではなく、任意の精度で無限に「求まる」
円周上の微小な単位として示され得るのである。その単位は、円周率の値が
「求まる」のに応じて、求まる精度の桁まで元の円の直径を1/nに分割する微小な
円の円周長に対応し、その微小な円は、元の円の直径上に並べられれば、その直径
を1/nに分割するのだから、求まる円周率の精度に応じてnが任意に無限に大きく
なり、1/nの大きさは次々に0に近づくものの、その大きさが極限として0となる
ことは決してない。
- 956 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 07:23:52.41 0.net
- 数学は言語表現を誤魔化しているから、言葉で説明しようとすると矛盾が
生じて、数式による表記で説明がついたことして逃げるしかなくなる。
しかし、哲学的な問題は、そのように数学の表記によって示されたことが、
「言語表現として」どのようなことに対応しているのかを明確に忠実に
示すことだ。
- 957 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 07:28:38.33 0.net
- 無理数も、小数点以下が無限に続いて書き終わらないから「存在しない」ってこと?
うーん、よくわからん
有理数までしか認めない立場?
- 958 :塩なめくじ:2022/01/26(水) 08:21:24.21 ID:hHRXsbBe0.net
- >しかし、哲学的な問題は、そのように数学の表記によって示されたことが、
>「言語表現として」どのようなことに対応しているのかを明確に忠実に
>示すことだ。
この、哲学的な問題が身づ殻氏の関心事なのだろう。だからこそ数学的な問題を疎かにしており、
言語表現としてどのようなことに対応しているかを明確に忠実に示せないでいる。例えば、
>数学において求められる「極限」は、「(大きさのない)点」、すなわち、
>「存在しないもの」として理念化されているのだから、
↑極限は「(大きさのない)点」ではないし、「(大きさののない)点」は「存在しないもの」ではない。
剰え理念化されてなどいない。例えば数直線上の1や2/7も点であるし、それを存在しないと言うのは狂人だけだ。
>「極限が存在する」と言語表現して、それを真に受ければ、矛盾が生じるのは当然である。
矛盾も生じていなければ、混乱も生じていない。「極限が存在しない」とする立場であっても、
どんな前提によって「極限が存在しない」とするかは数学的に明確であり、存在するか、しないかが紛れることはない。
- 959 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 08:22:13.57 0.net
- 有理数による無限の近似が可能であることを認める立場だが?
- 960 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 08:23:45.55 0.net
- >例えば数直線上の1や2/7も点であるし
存在するのは、「点」ではなくて、「比」だが?
- 961 :塩なめくじ:2022/01/26(水) 08:27:02.61 ID:hHRXsbBe0.net
- >>960
数学ではそんな議論は通用しない。ならばなぜ比は存在するのか?などと、数学で通用しない議論に立ち入るつもりもない。
- 962 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 08:28:33.21 0.net
- 哲学的に比は、比べる行為として存在する
- 963 :塩なめくじ:2022/01/26(水) 08:29:34.83 ID:hHRXsbBe0.net
- もう一度いうが、数学的な問題を忠実に捉えなければ、それを正確な言語表現に移すことはできない。
- 964 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 08:32:32.74 0.net
- 言語表現として説明することのできない数学が、数学者にも意味不明となる
ことは、宇宙際タイヒミュラー理論、およびそれによるABC予想の証明の
評価がまったく定まる方向に向かって動く気配すらないことが如実に示している
だろう。
- 965 :塩なめくじ:2022/01/26(水) 08:38:51.11 ID:hHRXsbBe0.net
- そんな先鋭的な話ではなく、一般的な公理系において「極限が存在しない」とは言われていない。
「極限が存在しない」と唱えるのは、ただ単に数学に明るくないひとだけです。
いつものように言葉遊びをしていればいいものを、
数学の成果を横取りしようとして数式を使い始めるからいけないのです。
- 966 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 08:42:42.78 0.net
- そもそも、哲学的に見ても、数学的に見ても、
「塩なめくじ」/《sale limace》=1
である蓋然性が高いと考えられ、便所の落書きにおいてさえ
相手にするに及ばないものと思われて当然
- 967 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 08:46:50.60 0.net
- 「点が存在する」、「極限が存在する」は、数式でも、数学記号による表記でもなく、
数学の説明に頻繁に用いられる「日常的な言語表現の横領」であり、「濫用」だが?
- 968 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 08:56:21.02 0.net
- « Sale limace, arrête de baver sur mes excréments! »
- 969 :塩なめくじ:2022/01/26(水) 08:59:01.62 ID:hHRXsbBe0.net
- 日常で存在するなどとは言わない。あるとすれば「哲学的な言語表現との干渉」だろう。
それすら幾何学や解析学の素養があれば起きようのない、低次元なもの。
その次元に問題を引きずり降ろそうとすることは、偉人たちが積み上げた成果に対する侮辱に等しい。
- 970 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 09:12:53.01 0.net
- >あるとすれば「哲学的な言語表現との干渉」だろう。
>それすら幾何学や解析学の素養があれば起きようのない、低次元なもの
であるとするなら、「幾何学や解析学の素養がある」数学者や哲学者は、
干渉の起きない言語表現で数学を説明できるはずだが、哲学と数学が
今でも乖離しているのはなぜですか。乖離がないのなら、数学者は、
哲学者の存在についての表現を数式として表現できるはずであり、
哲学者は、数式による証明を哲学の言語表現にそのまま移すことが
できるはずでは。ところが、実際には、「宇宙際タイヒミュラー理論」
の例に見られるとおり、数学者の間ですら数学の言葉も通じない。
- 971 :塩なめくじ:2022/01/26(水) 09:23:27.56 ID:hHRXsbBe0.net
- >>970
>であるとするなら、「幾何学や解析学の素養がある」数学者や哲学者は、
>干渉の起きない言語表現で数学を説明できるはずだが、
↑読み取ることと表現することを同一視した飛躍。
専門領域は専門用語で語るのが誤解が少ない。
>哲学と数学が
今でも乖離しているのはなぜですか。
↑乖離していない。
>乖離がないのなら、数学者は、
哲学者の存在についての表現を数式として表現できるはずであり、
>哲学者は、数式による証明を哲学の言語表現にそのまま移すことが
できるはずでは。
↑読み取ることと表現することを同一視した飛躍。以下略。
>ところが、実際には、「宇宙際タイヒミュラー理論」
>の例に見られるとおり、数学者の間ですら数学の言葉も通じない。
↑そんな先鋭的の話はしていない。最先鋭的な領域で揺らぎがあるのは当たり前。
極限は300年間も踏み固められ共有されてきた概念で全く異なる。
- 972 :塩なめくじ:2022/01/26(水) 09:28:18.01 ID:hHRXsbBe0.net
- スマホで打ちにくいから引用記号がぐちゃぐちゃになったけど諸賢の読解能力ならば読み取れると期待している!
- 973 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 09:55:05.25 0.net
- >最先鋭的な領域で
局所的に理解されない部分があるというのではなく、全体として
その記述の言語が数学者の間で通じていないのが現状だろう。
でなければ、少なくともどこに不明な点があるのか、
一般の数学者の間で共通の理解が可能となる。そのような詰めすら
不可能な状態にあるということ。
- 974 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 12:06:36.18 0.net
- まぁ、形式論理で表現され得る存在が数学の価値、論理で表現され得る存在が哲学の価値といったところではないですか
- 975 :時計 :2022/01/26(水) 12:57:24.04 0.net
- 新スレッド、立てました。
意識のハードプロブレムの答え16
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1643169286/
順番に混乱のないよう古いスレッドから使用して下さい。宜しくお願いいたします。
- 976 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 13:21:32.93 0.net
- >>943と同様のことを逆方向から、つまり、円周長からではなく、
直径から示すことを示唆しているのが、フェルスター、『哲学の25年』のp.507に
図示される数概念もしくは単位概念についてヘーゲル的な捉え方の説明だろう。
その図は、数を数えるのに、既定の長さの直線を、数えられる数nに応じて
1/nに等分することを示している。数は無限に数えることができるので、
それに応じてnは任意にいくらでも無限に大きくなり、1/nの長さは無限に
小さくなるが、その総和、つまり、n/n=1は元の直線全体の既定の長さ
なのだから、1/nの長さが0になることは決してない。有が無になることは
ないということで、当たり前のことである。元の既定の長さの直線を円の
直径と見なすなら、極小の1/nは、元の円の円周長πを1/nに分割する
円周長π/nを有する円の直径ということになるだろう。
- 977 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 13:29:56.18 0.net
- 算数しか分かっていない感あるな
- 978 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 13:45:13.46 0.net
- 数学の技法を駆使するようになると、算数が分からなくなる、
つまり、証明済みであるものとして利用する手続きが、
算術として何をどのように計算していることになっている
のか説明ができなくなるということが、一般的によくある。
- 979 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 13:47:01.82 0.net
- 数学として証明済みである手続きを組み合わせてうまく使える
ようになる技能を身に付けることは、哲学をすることには
役に立たない。
- 980 :時計 :2022/01/26(水) 18:28:27.29 0.net
- >>978
数学を学ぶと算数の理解も深まると思うが。
- 981 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 18:33:25.41 0.net
- 和差算は方程式よりも算数の方が解きやすいと思う
- 982 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 19:29:45.90 0.net
- 円周率が無限に単位を数えることの裏である、つまり、単位とされる
1の裏であるという関係は、次のように考えれば、容易にイメージできる
のではないか。
>>976の場合と同様に既定の長さの直線を、数えられる数nに応じて
1/nに等分することを想定して、その既定の長さの直線を与えられた
円の直径であると見なす。ただし、この場合、その与えられた円の
円周長と単位として定義して1とする。すると、任意に無限に1/n
等分されることになる直径である元の既定の長さは、1/πである
ことになる。1から無限に数を数えることに応じてその直径を1/n
等分していけば、1/nは任意にいくらでも小さくなるが、その長さが
0になることは決してなく、1/(nπ)として微小の円の直径となり、
無限の数の微小の円の円周長を総計すれば、元の円の円周長と
等しい1となる。つまり、その微小の円の円周長によって元の円の
円周長1もやはり1/n等分される。ここで、nは、数を1から無限に
数えつづけることに対応するのだから、元の円周上の任意の無限に
小さく限定され得る位置が、その任意に無限に数えられるnとの
関係で示されることになる。そのような任意の位置は、通常、
円周上の点としてイメージされるものだが、論理的に考えるなら、
その点としてイメージされて特定される位置は、無限小の円の
円周長に対応していることになるだろう。
- 983 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 19:35:19.84 0.net
- ヘーゲルの哲学が奇妙に見える、したがって、ヘーゲルを受け継ぐ
マルクスの思想が奇妙に見える点もそのことに関連している。
あたかも円周長が単位で数え切れた状態を想定して、そこから
理性によって現実を統制できるかのように夢想しているような
言説を展開しているという印象を受けるのである。
- 984 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 19:38:54.53 0.net
- 誤:円周長と単位として定義して
正:円周長を単位として定義して
- 985 :時計 :2022/01/26(水) 20:59:34.12 0.net
- 有理数は稠密だが連続ではない。
実数は稠密であり連続である。
この辺りから無理数の存在は言えるのかなと思います。
ただ、私はあまり詳しくはありません。
間違えていたら御免。
- 986 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 21:16:36.71 0.net
- ヘーゲルとマルクスの間にフォイエルバッハを挿入すればわかる。
宗教の問題が横たわっている。
- 987 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/26(水) 22:38:55.86 0.net
- 点を集めても線にはならないが、
線は点の集まりである。
点の集合を考えた時、外延ではだめだが内包ならなんとか線になれる。
ドコに違いがあるのかといえば、無限性である。
あくまでも飼いならされた無限性であって、野生の無限性や野良無限を扱うのは難しいw
- 988 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 07:11:14.46 0.net
- >>982
このように数えることに応じて任意に無限に等しく分割される直径と、
その分割された直径の長さをその都度、直径とする円、ならびに
そのより小さい円の円周長に対応するものとなる、全体としての
円の円周上の単位の関係を、ヘーゲルの哲学やそれを受け継ぐ
マルクスの思想の論理の隠喩として用いるなら、全体的な理性の
側から自らのひと(等/一/人)しさ(すなわち、単位としての性質)を
規定しようとすることが、欺瞞とならざるを得ないだろうことが
見えてくる。
- 989 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 07:39:52.37 0.net
- つまり、それは、任意の行為とそれによってもたらされる結果の関係を
逆立ちさせてしまうことになるのだ。
「できることにおいて自らであろうとする」(全体の直径を任意に1/nに
分割して、1/(nπ)を直径とする小さい円を形成しようとすることに喩え
られる)から、全体の円においても、その円周上で単位としての地位、
すなわち、自らのひと(等/一/人)しさが確保されるのであって、
全体の円の円周上で既に単位としての等しさが規定されているものと
するなら、任意にnを数えることは不可能となり、小さい円の直径で
ある1/(nπ)もあらかじめ決められたものとなる。したがって、任意に
数えることが「できることにおいて自らであろうとする」ことも
あらかじめ阻止され、自らが生きようとすることそのものが許され
なくなり、生かしておいてもらうだけの状態に陥ることになる。
- 990 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 07:57:29.24 0.net
- ところで、日本語の「いき(息/生)る」とは、その発音から、
「方向性を有する『ゆ(由)』の作用」/「い/yi」が
「求心的」/「き」に「働く」/「る」ことを想起させる表現だろう。
- 991 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 09:17:51.38 0.net
- "true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74
自らが十全に生きることは、心ゆくままに自らにできることをすることある。
したがって、自らが数ならぬ者に過ぎないことをわきま(弁)へてわ(和/環)を
尊ぶというのは、一見、謙虚で倫理的な態度であるように思えるものの、
各々が「できることにおいて自らであろうとする」ことを忘れるなら、
たちまち、禁欲主義を掲げることによって自らの優位を確保するように
他者を抑圧しようとする傲慢な全体主義に陥るだろう。
- 992 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 11:52:08.42 0.net
- 誤:心ゆくままに自らにできることをすることある
正:心ゆくままに自らにできることをすることにある
- 993 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 14:03:40.96 0.net
- マルクスは微分に関心を持っていたし、
フォイエルバッハは自然科学に関心を持っていた。
- 994 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 15:37:02.94 0.net
- 11 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2022/01/27(木) 12:20:30.06 0
生物も物質の集合体だから実は集団意識の様なものなのさ
- 995 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 16:20:26.04 0.net
- それなら、集団意識のようなものではなく、意識の寄せ集めのようなものでは?
そもそも、多細胞生物の個体もその起源からして、相反する利害の調整を
必要とする複合生命体であるわけだし。
- 996 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 16:23:15.73 0.net
- 相反する利害を調整する統制理念として「理性としての主体」を
仮定することが要請されるのでは?
- 997 :でこすけ:2022/01/27(木) 23:36:24.76 0.net
- >>947
織田信長が比叡山の焼き討ちをやっていますけど、
それは仏教が気に食わなかったのではなくて、
信長が接した宣教師たちに比べると日本の坊さんは滅茶苦茶に感じた
ということらしいです。
その一方では誰だったか忘れましたけど、
ナントカっていうヨーロッパ人が東アジアに来たとき、
大陸の坊さんはいかがわしいやつばかりだったけど
日本の坊さんはいい人ばかりだった、という記録を残していたと思います。
私は時計さんが接しておられる方々がどういう人々かを知らないわけですから
>>944は一般的に言って失礼に当たったと思いますが、
私自身と私の周りの人とのかんじということで
「ご参考までに」というふうにご理解いただければと存じます。
おそれいります。
と言いながら重ねて失礼なんですけど、
私は時計さんがお考えの神は、スピノザ的な神だと思っていました。
つまり少なくとも当時は異端だったものです。
であれば時計さんの方に違和感がありそうな気がしていたんですけど、
信仰の話はもちろんデリケートなものですから
お気にさわったら申し訳ありませんけど
えてして哲学は非情ですから
そういったあたりが意識のハードプロブレム的に言ってどうなのか気になる
というのが私個人の率直なかんじです。
- 998 :でこすけ:2022/01/28(金) 00:26:52.26 0.net
- せっかくなので、私も円周率でひとことふたこと(以前の繰り返しですけど)、
この宇宙では何故十進法で計算するとその値は3.14…になるのか、
私はそれは「たまたま」だったと思います。
つまり何らかのメカニズムによって調整されたものではないということです。
そもそも「円周率」は自然のものではない、人間が勝手に言っているだけのもの
それどころか「長さ」というのがある種の「妄想」というのが私の印象です。
「長さ」という概念は「自然」にあらかじめあったものではない気がするのです。
まして円周が直径で割り切れないのが何か釈然としないことについて
それは「自然」の知ったことではないと察するのです。
私にしてみれば一本の線の長さを無理数で設定することに無理がある
というか(日常感覚では)ややこしいだけのような気がします。
しかも円周と直径とで、どちらかを有理数にするともう片方が無理数になる
というのは支離滅裂な気さえします。
ただ、しかしじつはそれは非日常(仮想現実)としてならあり得る気がします。
となると数学という仮想空間では虚数さえアリになります。
そしてそのような仮想空間を想定することによって暮らしが豊かになった
ということがあるのであれば文句をつけても仕方がない気がするのです。
しかし私がこのスレッド的に問題にしてみたいのはそこではありません。
もちろん問題は「自然」の方です。
私たちが想定している「自然」が仮想ではない
それを想定しておけばメリットがある以上のリアルなのだとすれば
それはどのような根拠に基づくのか、
私には絶対の根拠がありえない気がするので
もしそのようなものがあるのだとすれば
それを是非うかがってみたいのです。
- 999 :でこすけ:2022/01/28(金) 01:09:03.80 0.net
- 近代哲学はカントから始まったと聞いています。
それからショーペンハウアーやニーチェ、フッサール、ハイデッガー、メルロ・ポンティ…
私はどれも入門で見た程度ですけど
ざっくり同じ世界像を提起している気がしています。
そして私はそれに共鳴します。
私がマルクス・ガブリエルやメイヤスーを知ったのはじつはこのスレッドに
投稿を始めてからですが(つまりここで知りました)、
このスレッドの読者もどちらかというとマルガブ派のような気がします。
そういうわけでこの流れは私にとってははなはだ意外です。
しかしマルガブ派の言い分もわからないわけではないつもりです。
確かに何故みんなが同じ体験をするのか、
あるいは世界が緻密に秩序立っているのは全てが幻想だとすれば謎です。
このとき、私はどちらかではなくて、
ありきたりながら止揚するのがいい気がします。
ただし根拠は直観的なものです。
- 1000 :塩なめくじ:2022/01/28(金) 01:12:47.57 ID:wbKMPvaT0.net
- 1000!
- 1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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