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意識のハードプロブレムの答え15

1 :時計 :2021/12/20(月) 04:11:34.94 0.net
1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。

意識のハードプロブレムの答え14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637997170/

699 :でこすけ:2022/01/16(日) 07:19:38.58 0.net
>>698
科学の黎明期の科学者は自然法則を「神が決めたルール」として理解していた
というふうに聞いています。
ところがやがて「神とは関係なくてもよくね?」という風潮が蔓延したようです。
神が存在しなくても自然法則は成立し得る気がするわけです。

同様と言えるのかどうかはわかりませんけど、
私には「認識」の構造を充分に分析すると
「存在」という概念がことさら必要では無くなる気がするのです。
「ドラえもん」が実在しなくてもテレビ画面に映ることがあるように
「リンゴ」は存在しなくても認識されることはあり得ると思うわけです。
それは見える物に香りがあって、触れば手触りがあって、噛じれば味がして、
そしてそのような体験を複数の主観が共有するということです。

ただ一方では「我思う故に我あり」と言ったりします。
私には存在していると言い得るのは私の主観だけであり、
間主観も多分存在しているとは思うんだけれども、
しかし主観が認識している対象が存在していると言うためには
何かの証拠が必要になる気がするのです。

700 :でこすけ:2022/01/16(日) 09:06:49.23 0.net
>>699
しかし私の主張でネックになるのは「どのようにして共同幻想が成立するのか」
です。
これはぱっと見たいへん困難な印象を受けるため
いきおい唯心論的なものには懐疑的にならざるを得ないというのもわかるところです。
そこで漠然としたものではありますが、そのイメージです。

たとえばたぶん私たちの多くは幼いころ誰から教えられたわけでもなく、ふと
「この世界にいるのは本当は自分だけなのではないか」
というなから衝動を体験していて、
そしてのちに「唯我論」という言葉を覚えるのではないかと思います。
何故私たちはそのような体験を共有するのか、
私にはそれはただの偶然のように思えます。
たとえば何らかの「力」が働いて必然的に誘導されているわけではない気がするのです。
たとえばすべての子供がそのような衝動を体験する必然性はない気がするのです。
共同幻想はたまたま成立することもあるということです。

701 :でこすけ:2022/01/16(日) 09:12:24.91 0.net
>>700つづき
主観的なものは誕生した瞬間、その内部の様相はひたすらランダムであろうと察するのですが、
そこで絶え間なく流転する混沌にもある瞬間、つまり偶然意味が生じることは
あり得る気がします。
たとえば無限の営みの中ではたまたま配られた5枚のカードが
たまたまロイヤルストレートフラッシュということも、
むしろそれが無限の営みであればもはや何度も起こる気さえするわけです。
私は以前、最も原始的な共同幻想の候補として「外部」をあげましたが
そのくらいであれば偶然でも充分な可能性はある気がします。
個々がバラバラに「外部」に気付くのです。
ただ、問題はずっとあとになってからです。
「リンゴ」でも「コイン」でも、それが共同幻想だというのであれば
それらも偶然だろうか、個人的な幻覚がたまたま同じだっただけだろうか、
普通は偶然とは思えないわけです。
もし偶然だとすればそれはものすごいあり得ない偶然のように感じます。

そこで私はどこからかドライブがかかるのだろうと推測します。
生命と同様で、初期条件は偶然でもどこからか必然になるというイメージです。
たとえば「唯心論」という幻想も、私たちはそれを知らない人にシェアして
あげることができたりします。
現実世界ではむしろ幻想の流布さえ行われていたりするわけです。
そしてこれはたぶん「ボイドを埋める」というシステムの確立が絡むのであろう
というところまでは最近にわかに考えました。

702 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 10:43:55.35 0.net
「『客観』とは、ひとつ、ふたつ、たくさん、(の世界)である」

ひとつ:主観的客観
ふたつ:対幻想としての客観
たくさん:共同幻想(上部構造)としての客観

◎(内側の○が客観)(主観主義/主観的客観)
○○(対等)(??主義/真のモダリティ?/様相主義?)
◎(外側の○が上部構造としての客観)(客観主義?/客観的主観/唯物論)

703 :時計 :2022/01/16(日) 10:55:54.39 0.net
>>700
他者の意識は存在しないということと他者は存在しない
ということは異なります。念の為。

704 :時計 :2022/01/16(日) 11:00:40.44 0.net
>>701
ところで、共同幻想とは、吉本隆明の言う共同幻想でしょうか。
それごも、偶然同じ言葉になったのでしょうか。

705 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 11:09:28.68 0.net
ま、吉本の「共同幻想」や「対幻想」ですけど、
吉本自身が(彼)自分の言葉を正しく理解しているとは思っていませんw
彼は詩人であり、共同幻想というワードも詩ですからね。
吉本は、たまたま、(東工大ではないあるところの)わたしの先輩に当たりますw

706 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 11:11:29.67 0.net
>489考える名無しさん2022/01/09(日) 14:55:37.420
あらゆる存在にも、不在にも、呼応関係が先立つのである。
それは、より具体的には、「て(手)ごた(応)へ」という
呼応関係であってもいい<

>493考える名無しさん2022/01/10(月) 10:19:53.800
1.0=(x^α)/(x^α)=x^0=1
分母と分子のx^αの間の「原始」の呼応関係は、
不特定の同一性を表す1によって代表させても、
変化がみられないことを表す指数の0によって代表させてもよい。<

>609考える名無しさん2022/01/12(水) 13:34:03.060
ここで留意しなければならないのは、意識の働きが「わす(忘)れ」られる
ことは、「意」が消滅することを意味しているわけではないということです。
そうではなく、「意」は「やすらふ」のです。<

何かがどのようにか存在することの基底である「意」の「やすらひ」
/"ease"は、意識でも、無意識でもなく、天秤の平衡のように保たれた
呼応関係の「調和」/"accord"であり、それが、どのようにか感性が
働くときの「地」/"ground"でもある。その「意のやすらひ/"ease」
をスピノザであれば、「実体」と呼んだのかも知れないが(私自身は、
スピノザの著作についてはほとんど知らない)、西洋哲学の「実体」
についての議論は、一神教の神学と結び付いた存在論と哲学との関係
により著しく錯綜して、無用に複雑化しているように見える。

707 :時計 :2022/01/16(日) 11:20:05.46 0.net
>>705
超球面さんは吉本隆明を意識していそうだいう風に思いましたが、
でこすけさんはどうなのかなと思いまして。
でこすけさんも吉本隆明に言及しているのであれば読んでみようかな。

先輩ですか……高校かな。:)

708 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 11:20:37.79 0.net
この掲示板に日本語の表現について書込み始めたかなり初期に、「やすらふ」
の「やす」と共通する「やす(休)む」の「やす」について、次のような書込み
をしている。今となっては、これらの書込みについてもより明確に意識的に
メタ言語により記述することができる。

687 :考える名無しさん:2016/02/29(月) 09:32:32.47 0
>外国語を読んでいても、私には見るたびに日本語を想起させて、日本語
を読んでいるような奇妙な感覚に陥る語がある。それは、農地を「休ませる」
意味で使われるフランス語の「jachère」という表現や、同じ語源を有する、
「横たわる」という意味で使われるスペイン語の「yacer」などの語である。
https://en.wiktionary.org/wiki/iaceo#Latin
むろん、これは、「やすむ」の「やす」とラテン語の「iaceo」に何らかの
つながりがあると主張したいわけではなく、発音の近さと、意味の重なり
から、私にはそのような連想が自動的に生じてしまうというだけの話で
ある。だからこそ、仮説のネットワークの構築による検証は怠ってはならない
のである。<

688 :考える名無しさん:2016/02/29(月) 12:26:13.45 0
ところで、英語の「ease」自体、「 "to relax one's efforts" is from 1863」
http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=ease
ということで、日本語の「緩める」に近い用法は、派生的でかなり新しいらしく、
仏語の「aise」に由来するものの、語源自体は不明らしい。意味的に見れば、
ラテン語の「iaceo」から派生していてもおかしくはないが、
そのような関係が主張されていないのは、音韻変化の点でそのような関係が
確認できないからだろう。単独で単に音と意味が似ているというだけで、
関係を主張しても、場当たり的な当て推量の域を出ない。<

709 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 11:24:50.37 0.net
692 :考える名無しさん:2016/02/29(月) 16:59:37.08 0
>>687 >>690
逆方向で考えてみて、ラテン語の「iaceo」に由来し、墓碑銘において用い
られる フランス語の「gesir(「Ci-git 〜」)」、スペイン語の「yacer
(「Aqui yace」)」が日本語でどのように表現されるかを考察すると、
辞書では、「gesir」は、「@横たわる」、「A(隠れて)存在する」、
「...ここに永眠する」(クラウン 仏和辞典)と説明され、「yacer」も
同様に、「1.横たわっている」、「2.(死体が)埋葬されている、
葬られている」、「(ある場所に)ある、存在する」と説明されているが、
少なくとも墓碑銘に関する限り、「やすらふ」という表現のイメージが
最も適合しているように私には感じられる。

710 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 12:05:56.93 0.net
「やすらふ」は、「自らのいきほ(勢)いが解かれたままにする」ことを
イメージさせる表現であると理解することができる。そのように理解する
ことは、何ら特殊な前提による解釈を必要とするものではなく、自然に
導かれるものだ。「や」は、「矢(や)」、「や(遣)る」、「や(焼)く」、
「やぶ(破)る」などに見られるとおり、「いきほ(勢)いが解かれる」
ことをイメージさせ、「や行」の活用として「ゆ(由)」(つまりは、
中国語の表現の流用)≒»losgehen«に関連し、云はば、方向性を
帯びた「ゆ(由)」である。したがって、「やすらふ」の「や」も
そのように解釈するなら、「や」は、"eject"、"project"、"subject"
など、英語の語根として用いられる"-ject"(つまりは、ラテン語の
ラテン語の「iaceo」) と発音の上でも、それが想起させるイメージに
おいてもよく似ていると言える。「や・す」の「す」は、"to let"
に相当し、「やすらふ」の「ら」は「〜る」の活用であり、その
表現が活動であることを示して動詞として用いられることを伝える
ものであり、「〜ふ」は、その作用/動作が再帰的に働く様態を
表現する。したがって、「やすらふ」が、休耕地がそうであるように
「自らのいきほ(勢)いが解かれたままにする」状態を想起させる
表現であるという解釈が無理なく導かれる。

711 :時計 :2022/01/16(日) 12:15:56.20 0.net
>>710
そう言えば、「やすらふ」ってあまり使いませんね。
「安らぐ」はよく聞きますが。

712 :時計 :2022/01/16(日) 12:17:56.36 0.net
>>711
特に「安らぎ」という形で。

713 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 12:24:10.83 0.net
やすらか→やすらぎ

714 :時計 :2022/01/16(日) 12:53:49.74 0.net
>>713
なるほど。
華やか→華やぐ、かな。
静か→静ぐ、ではないし、絶対ではなさそう。

715 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 14:43:30.17 0.net
>その「意のやすらひ/"ease"」をスピノザであれば、「実体」と呼んだ
のかも知れないが<

しかし、ここで、仮に「意のやすらひ/"ease"」を、それがどのように
性格づけられるにせよ、「実体」/"substance"と呼んだなら、たちまち
「やすらひ」が「やすらふ」ものから"*sta-"に、つまりは、「た(立)つ」
ことに変わってしまうことに留意する必要があるだろう。
https://www.etymonline.com/word/*sta-?ref=etymonline_crossreference
>*stā-, Proto-Indo-European root meaning "to stand, set down,
make or be firm," with derivatives meaning "place or thing
that is standing."<

716 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 14:47:09.64 0.net
誤:「た(立)つ」ことに
正:「た(立)つ」ものに

717 :考える名無しさん:2022/01/16(日) 16:17:51.57 0.net
それにしても他者の意識は存在しないという自己中心的な思想を
本気で思っている人も未だにいるようだね。
ま、自己中心的でも良いと思っているのなら何も言うことはないけどね。
ただ、自己中心が良くないなら、他者の意識、意識外部の世界の存在などは
前提にすべきとしか言いようがないだけのことかな。

>>702
余談だが、唯心論でも三つ目の上部構造としての客観を肯定する世界観というのもあり得たりする。
例えば主観に当たる個体意識の上位の集合意識が客観に当たるものとか。

718 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 16:34:23.74 0.net
3つ目? なんだろう。
円成実性というものもあるが、唯心ではなく唯識のほうである。

719 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/16(日) 17:01:44.77 0.net
遍計所執性を主観的客観
依他起性を様相的客観
円成実性を客観的客観?
とすれば、なんとなく収まる。
これは三性なわけだが、三つの相でもあり、3つの段階とみてもよい。
だが、どれが優れているとか考えてないほうよい。三つの相を持つのだw

720 :時計 :2022/01/17(月) 02:15:18.51 0.net
>>717
未だにというか、いつでもいるように思います。
自己中心的というのは、ある意味では当然のような。
他者の意識は存在しないという考えを共有する。
その可能性はあると私は考えます。

721 :時計 :2022/01/17(月) 02:20:11.99 0.net
>>720
他者の意識は存在しないということは、
職業哲学者には言い辛いだけのことではないかと思ったりします。
私は仏教に明るくはないですが、超球面さんの仰るように
仏教ではあり得る考えのようですし。

722 :時計 :2022/01/17(月) 02:27:15.56 0.net
>>720
自己中心的という言葉は、
当然のことを当然のことではないように言う言葉かな。

723 :時計 :2022/01/17(月) 03:19:23.24 0.net
>>721
客観は主観であり、同時に全ての事物は客観化可能であり、
それもまた主観であるということかな。

724 :時計 :2022/01/17(月) 03:19:48.05 0.net
>>723
もう少し考えます。:)

725 :時計 :2022/01/17(月) 03:31:10.96 0.net
主観と客観について。
例えば、地図を見て自転車でどこかに行くことを計画するとします。
その地図上での移動の軌跡は客観的だと思います。
そして、ある目印のところで角を曲がることを想像する時、
それは主観的だと思います。
この例のように、人が物事を考える時、主観と客観は、
入り交じるように思います。
その上で、私は、客観はある種の主観だと考えます。

726 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 09:21:24.19 0.net
じわじわ来るは主観ですか?

727 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 09:56:47.69 0.net
>>710
「やす・む」ことによって英気を「やし・なふ/養ふ」。

728 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:09:40.27 0.net
>>654考える名無しさん2022/01/14(金) 01:08:01.980
>対象として目の前にあるように見える事物は、「目の前にある」/
»vorhanden sein«という在り方をするよりも先にまず、「呼びかけの『を』」
に呼応する「こた(応)への『を』」として現れる。<

フェルスター、『哲学の25年』を読んでいると、カントが「知的直観」に
ついて述べた、「だがそれはわれわれのものではない。われわれはまた
その可能性についてさえ、洞察することができないのだ」という言葉を
引用したうえで、さらに注釈でカントが「知的直観」と表現したのが
どのようなものであるのか詳しく説明している。

729 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:25:49.13 0.net
>われわれ自身にもこうした直観が可能なのだとする見解が、古代では広く
行き渡っていた。古代に主流だったのは、知覚の送信理論(Sendetherorie)
である。それによれば、目から出た視線は、対象を一定の仕方で探る
[abtasten/触って探る]。視覚はしたがって、その正規の用法においては、
われわれにあるがままのものを直接提供するのであって、現象を提供する
のでは断じてない。[...] この視覚理論が広く行き渡っていたことは明らか
である。プラトンとエウクレイデス[...]さらにはピンダロス、ソフォクレス
といった詩人たちにも、同じ理論が見出される。今日のわれわれにはこの
理論はもはや正しいものと思えないが、これは視覚論をめぐる根本的な
変化によるものである。< フェルスター、『哲学の25年』、p245

まだこの本を読み終えていないので、私が論述の意図を誤解している可能性
はあるが、そうではないとすれば、著者が、ハイデガーの存在論や
プラグマティズムを知らないはずはないのだから、ここに表明されている
(ように私には見える)見解は、その解釈からして、私には恐ろしいまでに
浅いと感じられる。

730 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:36:27.96 0.net
>知覚の送信理論(Sendetherorie)である。それによれば、目から出た視線は、
対象を一定の仕方で探る[abtasten/触って探る]<

何かが「目に触れる」。例えば、視線の先にあるテーブルの上にあるリンゴが
「目に触れる」。これは現代でも普通の日本語の表現だろう。では、そのように
リンゴが視線の先にあり「目に触れる」ことは、「知覚の送信理論(Sendetherorie)」
に基づくのだろうか。確かに、現代の日本でも、そのことを、視線が目から光線の
ように送られて、それがリンゴに触れて探るというような理論によって理解して
いる人はまずいないだろう。では、現在ではもはやそうではないとしても、
何かが「目に触れる」という表現は、元々は広く行き渡って信じられていた
そのような「知覚の送信理論(Sendetherorie)」の化石的な名残りなのだろうか。
私には、そのように考えなければならない必然性は、さらさらないように
思われる。

731 :時計 :2022/01/17(月) 10:51:18.94 0.net
>>726
主観でも客観でもあり得ると考えます。
あらゆる事物は客観化可能ですから。

732 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 10:51:28.29 0.net
視線の先のテーブルの上にリンゴがあれば、そのリンゴが「目に触れて」、
「リンゴが見える」。「見える」は、古語で言い換えるなら「見ゆ」
であり、「〜ゆ」は自発的に生じることを表現するのだから、
「リンゴ見ゆ」であれば、「リンゴの見(≒視覚的作用)が自ずと生じる」
ということであり、「リンゴが見える」の「が」は、「我(が)」を
流用して発話行為的に同一性を確立する表現なのだから、
「リンゴが見える」とは、「『リンゴ』=「自ずと生じる視覚的作用」」
であり、フランス語を用いるなら、《C'est une pomme qui se voit.》
ということになるだろう。

733 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:06:06.95 0.net
つまりは、「リンゴが見える」/「リンゴ見ゆ」/《C'est une pomme qui se voit.》
というのが、視線の先のテーブルの上にリンゴに「目が触れる」ことによって
もたらされた結果であることになる。この結果、プラグマティズム的な言い方を
するなら、「リンゴに『目を向けた/目が向けられた』」行為の「効果」/"effect"
であり、ハイデガーの存在論における"zuhanden sein"を「て(手)ごた(応)へ」
として理解して、それを「目を向ける」行為に応用するなら、
「リンゴが見える」/「リンゴ見ゆ」/《C'est une pomme qui se voit.》という
「効果」/"effect"は、リンゴの「み(見)ごた(応)へ」に他ならないだろう。
リンゴに「目を向けて」、それに「目が触れる」と、リンゴの視覚的な
「効果」/"effect"/「み(見)ごた(応)へ」、すなわち、「リンゴ見ゆ」/
「リンゴが見える」という結果がもたらされる。これは、
「知覚の送信理論(Sendetherorie)」と呼ばれるような、もはや誰も信じなく
なった何か特殊な古代の理論に依拠しなければ説明できないような捉え方
なのだろうか。

734 :時計 :2022/01/17(月) 11:13:55.24 0.net
>>733
「知覚の送信理論」は必要ないと思いますよ。:)

735 :時計 :2022/01/17(月) 11:22:36.12 0.net
>>734
敢えて言えば、網膜から外界は単射だが、
外界から網膜は写像ではいから、絵を描く時等は、
前者の考え方にも一理あるとは言えるかもしれない。

736 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:23:34.66 0.net
>>733
「〜に目が触れて」、「〜が見える/見ゆ」ことの説明として、
「知覚の送信理論(Sendetherorie)」が不要であるとすれば、古代の人々の
間には、「〜目を向ける」ことによって、「〜に目が触れて」、「〜
に視覚に触れる感覚」に依拠して「〜を探り」、「〜の視覚的効果」が
詳しく知られるという、今でもごく自然と思われる物事の捉え方が
行き渡っていただけということになりませんか。

737 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:24:27.59 0.net
誤:「〜に視覚に触れる感覚」
正:「〜が視覚に触れる感覚」

738 :時計 :2022/01/17(月) 11:28:29.48 0.net
>>735
正:写像ではないから
誤:写像ではいから

739 :時計 :2022/01/17(月) 11:30:39.51 0.net
>>736
視線という言葉もありますね。
しかし、物理的な因果は逆だと考えた古代人は多かったと予想します。

740 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:32:17.74 0.net
著者は、明らかに哲学書を研究することに膨大な時間と労力を注いできた
学者であるわけですよ。それに対して私は哲学を専門に研究したことのない
完全な素人であるわけで、そのような素人でもすぐに気づくような奇妙
な論述をされると、私の方がとんでもない読み違いをしているのかと不安
になるわけですが、その一方で、哲学を研究すると、このようなことに
すら気づけなくなってしまうほど本当にバカ(「感性が働かなくなる」という
意味で)になってしまうのかという疑念も浮かんで来るのです。

741 :時計 :2022/01/17(月) 11:39:31.25 0.net
>>740
「視線」という言葉から日本人の視覚理論は「知覚の送信理論」だと
言われても困りますよね……
古代人に関しても然りで。
例えば、夜、灯りをつけると物のよく見えることは当然で、
殆どの古代人は、視覚の受動性を認めていたのではないでしょうか。
哲学者には常識は大切かもしれませんね。:)

742 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:45:23.86 0.net
「視線」というより、より日常的な表現では、「目をやる」でしょうね。

743 :時計 :2022/01/17(月) 12:15:19.80 0.net
>>742
「目をやる」も使いますね。

744 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 12:42:40.06 0.net
「視線を送る」ことによって何かを見ることがが「知覚の送信理論
(Sendetherorie)」と呼ばれるとすれば、ボードレールの詩は、
「知覚の受信理論」を表現していることになるのだろうか。
しかし、フェルスターが古代の「知覚の送信理論(Sendetherorie)」
と呼ぶものにせよ、ボードレールの詩にせよ、そのような捉え方に
よって本当に伝へられているのは、この詩の題名にもなっているとおり、
「呼応関係」/《correspondances》だろう。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Correspondances_(sonnet)
CORRESPONDANCES

La Nature est un temple où de vivants piliers
Laissent parfois sortir de confuses paroles ;
L'homme y passe à travers des forêts de symboles
Qui l'observent avec des regards familiers.

745 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 14:35:16.88 0.net
>>733
誤:この結果、プラグマティズム的な言い方をするなら
正:この結果は、プラグマティズム的な言い方をするなら

746 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:10:30.09 0.net
>621考える名無しさん2022/01/12(水) 23:09:42.580
ようやく訪れた»Genesung«の時を「直毘神(なほびのかみ)」の来訪として言祝ぐ

>727考える名無しさん2022/01/17(月) 09:56:47.690
>>710
「やす・む」ことによって英気を「やし・なふ/養ふ」。

ニーチェがよく用いる»Genesung«という表現に対して、私はすぐに
本居宣長が用いた「直毘神(なほびのかみ)」の「なほび」を想起するのだが、
»Genesung«/「なほび」に対応するラテン語は《restitutio》だろう。

ここでさらに「やす・む」ことと「やしなふ」ことの関係について考えて
みると、それが英語の"rest"と"restitution"の関係と類似した関係にある
ように見えて面白い("restaurant"/「レストラン」について考えてみる
といい)。

747 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:10:48.77 0.net
https://www.etymonline.com/search?q=rest
rest (v.1)
[to repose; to cease from action] Middle English resten, from Old
English ræstan, restan "take repose by lying down; lie in death or
in the grave; cease from motion, work, or performance; be still or
motionless; be undisturbed, be free from what disquiets; stand or
lie as upon a support or basis," from Proto-Germanic *rastejanan

rest (v.2)
[be left, remain] mid-15c., "remain, continue in existence," from
Old French rester "to remain, stay" (12c.), from Latin restare "stand back,
be left," from re- "back" (see re-) + stare "to stand" (from PIE root *sta-
"to stand, make or be firm").

It has been largely confused and partly merged with rest (v.1), which,
however, is Germanic.

https://www.etymonline.com/search?q=resutitution
[...] noun of action from past-participle stem of restituere "set up again,
restore, rebuild, replace, revive, reinstate, re-establish," from re- "again,
to a former state" (see re-) + statuere "to set up" (from PIE root *sta-
"to stand, make or be firm").

748 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:17:51.82 0.net
>>715
>仮に「意のやすらひ/"ease"」を、それがどのように
性格づけられるにせよ、「実体」/"substance"と呼んだなら、たちまち
「やすらひ」が「やすらふ」ものから"*sta-"に、つまりは、「た(立)つ」
ものに変わってしまう<

「ねぎ(禰宜)」/"appeasement"とは、まずなによりも、「やすらふ」
状態をそのまま保ってもらうために執り行われるのである。

749 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:21:15.26 0.net
https://kotobank.jp/word/意富多多泥古-1281374

意富多多泥古(読み)おおたたねこ
世界大百科事典内の意富多多泥古の言及
【神主】より
…神官,神職とも同義に使われることもある。初見は,崇神天皇のときに
大物主(おおものぬし)命がたたり疫病蔓延したおり,神孫の意富多多泥古
(おおたたねこ)を神主としてまつらしめたところ,天下の平安を得たという
(《古事記》)

750 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:26:26.78 0.net
意富多多泥古(おほ・たた・ねこ)の「たた」は、「たた(祟)り」の「たた」、
「たた(畳)む」の「たた」でもあるのだろうが、これらの表現に用いられる
「たた」の発音そのものが、「起き立ちつづける」イメージを想起させた
可能性も考えられるだろう。

751 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:35:53.37 0.net
説明として妥当なのかどうかは知らないが、このような説もあり、
なぜ「ねこ」なのか考えることは興味深いだろう。

http://jinbun.cc.kochi-u.ac.jp/keizai-gakkai/kochironso/100/HTML/index17.html
折口信夫は「大倭根子天皇と云ふ枕詞とも言ふべき成語は,単に,
讃名ではなかつた……ある地方の,神人の最高位に居る者の意味であつた。
大和の神人の,最高の人となるが故に,天子の稜威は生じるのであつた。」
「外蕃に対しての関心を持たない時代の詔詞は,大倭根子天皇なる御資格を以て,
大儀礼を宣せられたのだ。其で大倭根子……天皇と謂つた御諡を持たれた
御方々がおありになる訣だ。詔詞の始めに据ゑた御資格が,御生涯を掩ふ
御称号となつたのである。」

752 :時計 :2022/01/18(火) 08:37:06.63 0.net
>>746-750
よく解りませんが、意志の強さは感じます。:)

753 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 09:18:37.37 0.net
歴史はつねに浄化を繰り返すことを必要とする。
したがって、歴史学にとって本当に課題とされているのは、
「歴史修正主義」を克服することなどではなく、
「歴史修正主義」を案山子として用いながら、
どのように歴史を浄化するかである。

754 :時計 :2022/01/18(火) 09:26:14.47 0.net
>>753
倭国から和国とか、清いよね。

755 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:02:39.51 0.net
現状浄められるべき穢れがいくらあったとしても、
穢れた自国というのは存在せず、
原理原則からして自国はつねに清らなのです。
なぜなら穢れた自国というのは存立し得ないからです。

756 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:03:26.88 0.net
誤:現状浄められるべき
正:現状で浄められるべき

757 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:08:08.92 0.net
これは、穢れた田畑では作物が育たず、その土地はもはや田畑ですらない
のと同じことです。

758 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:12:41.96 0.net
荒地/The Waste Land

759 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:15:32.33 0.net
古語では、病気のことを「なやみ」と表現しました。
「なや・む」の「む」は累加する様態を表現し、「なや・む」の「なや」
は、「なゆ」の活用形であり、「な(萎)え」はその名詞化です。

760 :時計 :2022/01/18(火) 10:17:03.83 0.net
>>756
現状、清らでも、蔑称はあり得るということですね。

761 :時計 :2022/01/18(火) 10:19:58.94 0.net
>>759
「む」は否定的なニュアンスは感じます。
同時に、編むとか産むとか否定=運動のイメージもあります。
私は、言語に関して、原理主義者ではありませんが。

762 :時計 :2022/01/18(火) 10:21:18.52 0.net
>>761
「M」の現イメージは「間」ですね。

763 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:23:09.69 0.net
人々の集団を指す名称の場合でも、他称は蔑称であり、集団はそちらの蔑称の
方で一般に知られることになるものの、その集団内の人々は、自分たちを
単に「人々」を表すに過ぎないような名称で指し示すような事例がよく見られます。

764 :時計 :2022/01/18(火) 10:31:44.58 0.net
>>761
言語は詩的に美しいのであれば、それに越したことはありませんが、
現実として、各語は緩く繋がっている、そういうイメージです。

>>763
「ドイツ」も「ローマ的でない人々」が語源だとウェブにありました。

765 :時計 :2022/01/18(火) 10:38:14.30 0.net
>>764
編みと網とかね。

766 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 13:04:19.53 0.net
>>755
この原理原則を無視して、国民としてどのようにすることが清く正しいのか
などということを論じても、自己欺瞞にしかならない。

767 :時計 :2022/01/18(火) 15:20:40.98 0.net
>>762
正:原イメージ
語:現イメージ

768 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:27:27.49 0.net
>>704
私はよく考えてみると吉本隆明がどのような意味合い(文脈)で「共同幻想」
という言葉を使っているのかを知りません。
私はとにかくアバウトです。
「共同幻想」という言葉を使ったのは(「仮想現実」もですけど)
誤解を生んだよようなのでちょっと後悔しています。

私は『共同幻想論』はとにかく今よりもはるかに頭が悪い頃に読んだので
理解もできていなかったし記憶にもほとんど残っていません。
私に関心があったのは「共同幻想」なるものの成立が
どのようなプロセスなりメカニズムなりを持っているのかであったのに対し
その本の内容は「あれも共同幻想、これも共同幻想」というかんじだったので
退屈をした記憶があります。
私が聞きかじった話では、吉本がウケたのは学生運動とのかかわりで、
「唯物史観も共同幻想」と言ったのがハマったとか(実態は未確認です)、
つまり今読む価値があるのかどうかはよくわかりません。
私としてはあの時代のものであれば柄谷行人の『日本近代文学の起源』の方が
意識のハードプロブレムにはうっすらながら関わる気がします。
私には「意識がどのようにして成長するのか」を分析しているように思えます。
ただ、私は折りに触れ読み返しますが、
じつは未だにいまいちピンときていません。

769 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:56:36.02 0.net
>>768
『日本近代文学の起源』に関連して、
たとえばその本に「内面の発見」というテーマがあります。
私はサルにも目がついているのであれば彼らにも何らかの映像が見えている、
つまり何らかの主観というか精神というかが内在すると推測するわけですが、
しかし彼らには自分に意識的なものがあることを自覚する能力までは
あるような気がしません。
少なくともトカゲなりサカナなりまでにさかのぼれば間違いないはずです。
しかし私たちに自分には意識があることを自覚できるとき
それは人間まで進化してきた過程のどこかの時点でそれが発見された
ということだと考えます。
それはたとえばクオリアも同様のはずです。
これはたとえば原始的な生物が熱を嫌がって逃げようとするとき、
その時点で「熱」が発見されているということだと考えます。
ではどのようにして発見されたのか、
これには前スレ947の「球の内部の何か」的なものが関わるのだろう
と思われます。

770 :時計 :2022/01/19(水) 03:02:38.19 0.net
>>768-769
確かに、あれもこれも共同幻想ですよね……
『共同幻想論』、読んでみようかな。
『日本近代文学の起源』も面白そうですね。
前スレ947はもしかしてでこすけさんでしたか。

771 :でこすけ:2022/01/19(水) 07:49:03.75 0.net
私には「意識」というのは、混沌としたものとして誕生し、
やがてその中に秩序が生じるもののように思えます。
始めから無条件に秩序があったわけではない気がするのです。
たとえば昔の日本人は「グリーン」と「ブルー」とを「あお」として、
私にとって「紺」と「水色」とが同じ「青」に感じるようにして、
同じカテゴリーに含めていました。
つまり私たちはそれ等を区別できるようになったということです
(やがて「紺」と「水色」ともまったく違う色に感じるように
 なるのかもしれません)。
一方では昔の日本人は「お」の発音と「を」の発音とを区別していたようですが
私たちがそれらを区別しなくなったのは単なる単純化ではなく、
むしろ同じ音を文脈によって区別することができるようになった
という複雑化のような気がします。
私にはそういったことは意識の成長のように感じられるわけです。

また私にも自分が生まれたころの記憶はないわけですけど
これは意識が無かったわけではなく、
単に記憶力が無かったということのような気がしています。
そこで久々の意識のハードプロブレムです。
記憶力はいわゆる「脳」の成長に由来するのでしょうか、
それとも意識の内部で、たとえば連想記憶術のような「脳」とは関係無さそうな
(たとえば「西暦794年平安京遷都」は数字が曖昧になりそうですけど
 「鳴くよウグイス平安京」はしっかり覚えられる気がします
 このような覚え方は「脳」とは関係ない気がするのです)
つまり意識の中だけで完結できるものなのでしょうか、
この問題はそもそも「脳」とは何なのかという問題を解決する必要にせまられ
ますけど(私は「脳」とは何らかの精神現象のネットワークだと考えるので)
いずれにしても微妙な問題のように思えます。

772 :時計 :2022/01/19(水) 08:29:45.35 0.net
私も意識のハードプロブレムに対して一言。
私は意識のハードプロブレムは、私の脳と私の意識の関係は何か
ということだと考えています。
私の脳であって、他者の脳ではないところは、主観主義のポイントです。
現時点での私の答えは、私の脳を含む私の客体は、
私の主観的意識の精緻な表現だということです。

773 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:28:10.24 0.net
ゆく年くる年、
「ゆく」(»losgehenden«)年を送り、「くる」(»kommenden«)を迎えると、
1月/»Januar«になる。ヤーヌス/《Iānus》は、「双方向(⇔)」神であり、
語源的には" Proto-Indo-European *yeh₂- (“to go, go in, travel”)"に
由来するものと想定されている。その一方で、英語の"-ject"が由来する
とされるラテン語の《iacere》("to throw")も、語源的には、
"Proto-Indo-European yeh₁-, Hyeh₁- (“to throw, let go”)"が想定され、
想定される発音からは、事実上、区別がつかない。これに対して、
同じくラテン語の《iaceo》は、>Stative counterpart of iaciō (“to throw”). The meaning must have
shifted from “I am thrown down” to “I lie”.<
と解釈されており、想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と
比較すると、印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、何に由(ゆ)来する
と考えるのが妥当だろうか。

774 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:35:40.05 0.net
"yeh₁- (“to throw, let go”)"と「や(八)」を比較すると、「八」の末広がりが
"yeh₁-"の"h"に対応しているようなイメージが浮かぶ。

775 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:24:14.99 0.net
フェルスター、『哲学の25年』を読んでいると、多くの哲学者がそれぞれの
哲学的な論述の違いを超えて、スピノザ回帰に向かっているような印象を
受ける。だが、これは、結局のところ、キリスト教が前提とする一神教
の神学を「理知的」に批判して、そこから距離をとろうとしながら哲学
の言説を展開し、なお一神教の哲学とその批判としての理知的な言説の
行き詰まりの両方を乗り越えようとすることによって導かれる「お決まり」
とも言えるような道筋なのではないか。キリスト教の神学と、それとの
かかわりにおいて哲学そのものをも批判したニーチェが、これらの
いずれの言説にも覆われない古代ギリシアを重視して、スピノザ回帰
には我関せずという姿勢を示していることは、他の近現代の哲学者との
対比において注目に値するだろう。

776 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:25:52.64 0.net
誤:なお一神教の哲学とその批判
正:なお一神教の神学とその批判

777 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:56:29.33 0.net
誤:「くる」(»kommenden«)を迎えると
正:「くる」(»kommenden«)年を迎えると

778 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:21:15.59 0.net
『哲学の25年』におけるフェルスターによる、カントをはじめとする
様々な哲学者の論述の説明も、それぞれが理念に基づいて構築されて
いるかのような装いで展開されているが、実際のところ、その展開
を導いているのは、表立っては示されない日常言語的な表現による
物事の理解であるように見える。理念に基づいて最終的にどのような
哲学的な言説を構築してみせたところで、最終的に、そこで用いられて
いる理念と日常言語表現の対応関係が不明なら、その哲学的な言説
は誰にも理解可能なものとはならないだろう。なおかつ、明示される
理念に基づく哲学的な言説の構築が、陰で日常言語表現に導かれて
いるとするなら、明示される理念の方が日常言語表現において暗黙
に伝へられる「心(こころ)」より一般性が高いとは言えないはず
だろう。

779 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:32:36.27 0.net
>想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と比較すると、
印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、
何に由(ゆ)来すると考えるのが妥当だろうか。<

ニーチェの言説がとても具体的でありながら、一般性を感じさせるのは、
ニーチェの表現が、このようなレベルでの類似性を徹底的に活用しようと
しているからである。逆に言えば、ニーチェが自らの表現において活用しよう
として、それに導かれているようなレベルの類似性を無視するなら、
ニーチェが何を言おうとしているのか極めて分かりにくくなり、ニーチェの
言説を何らかの固定された「思想」に沿って解釈しようとする誤りに陥る。

780 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:36:53.26 0.net
日常言語表現において哲学をしようとするとは、そういうことだ。

781 :時計 :2022/01/19(水) 12:46:35.83 0.net
>>771
紺と水色、全然違わないですか?:)

782 :時計 :2022/01/20(木) 08:20:40.69 0.net
>>781
私は色の差異は名前以前的な問題だと思います。
赤色と朱色は近いですが、赤色と青色は遠いです。

783 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 10:08:03.34 0.net
>>773-774
@世代を超えて言語において用いられる発音の相互関係が体系的に
継承されることが、言語系統論として扱われる。その一方で、
A発話における発音は、表現としてつねに自らの身体性において
どのようにかイメージを想起させるものとして、イメージに
関連づけられて用いられることになり、発音の体系的にも
影響を及ぼして変化を促しつづける。Bその結果、互いに系統
が異なるとされる言語の間で類似した発音が類似した作用の
様態を表現するように用いられることは、それが歴史的な
接触による相互作用によるものか、発音が想起させる身体的な
イメージの共通性によるものか明確に判別することは極めて
困難になるだろう。C言語学は、@の事実を重視するが、
Aの働きについては、言語学は、結果としての発音の歴史的な
変化としては扱うが、言葉で表現することに絶えず働いている
機能として重視して、研究対象とすることはなかった。
Dその結果、互いに異なるとされる言語の間で類似した発音が
類似した作用の様態を表現するのに用いられることがしばしば
観察されるという現象ついて、言語学は、それを「擬音語/
擬態語」と見なして、単なる「偶然の合致」として、あたかも
それが単なる場当たり的な語呂合わせであるかのようにその
類似性を学問的に軽視するように促すこととなっている。

784 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:09:00.83 0.net
私は「“意識があるもの”はどこまで分解できるのか」という疑問をもっていますが
この疑問はわかりにくい気もするので勝手に解説させていただきます。
これは「どこまで観測できるのか」という問いでもあります。

たとえば唯心論者の私でも普通には腹話術の人形に意識があるとは思いません。
しかし腹話術師の方には普通に意識がある気がしています。
ここで腹話術師を見ているということは「“意識があるもの”を観測している」
ということだと考えることにします。
次に、腹話術師のへその上と下とでどちら側に意識があるのか、
首から上と下とでどちら側に意識があるのか、
脳と脳以外とでどちら側に意識があるのか、
そうやってどんどん分割して行ったとき最後はどうなっちゃうのかという問題です。
何かこれ以上分解できない1個の素粒子に到達するのか、
あるいは何処かの段階でどちらでもないという状態になってしまうのか、
この問題は私個人どころか科学的にも検証はできない気がするので
言いたい放題な気がするわけです。

785 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:12:30.29 0.net
>>784
この問題では私は1個の素粒子派です。
これは意識は観測上は素粒子として現れるのではないかという勝手な推測ですが、
しかし一方の「どちらでもない」ということはあり得ない気がするのです。
そのようにしてどんどん分割して行って遂に「いくつかの素粒子のグループ」
に到達したとき(実際には膨大かもしれませんが)、
それ以上の分割ができないとなると、そのグループと意識とはどのようにして
相互作用をしているのか、はなはだハードなプロブレムのように感じられます。
さりとてじつは1個の素粒子派もあまり状況はかわりません。
その素粒子をカチ割るか何かしても、その意識の中身が出てくる気がしないのです。
これがハードプロブレムといわれたる所以なのでしょう。

とりあえず私としては、7つのドラゴンボールが集まると神龍が現れるかの如く
いくつかの素粒子が集まると意識が起こるというのは無い気がします。
1個の素粒子に1つの精神(原意識)が対応しているという方が、
もちろん実際がどうかはわかりませんけど、
とにかくその方がわかりやすいように思えます。
グループ派は「相互作用の謎」と「発生の謎」とのふたつの問題を抱えてしまう
ということでしょうか、

ちなみに私は「仮想現実」という言葉を使ってきましたが
それではそれを体験している私たちの正体とはどのようなものなのか、
これは外見のことですけど、私はそれは「水槽脳」のようなものではなく
少なくとも五感では認識できないものだと考えます。
何らかの計測機には反応するだろうとは思いますけど
実際にそのような機器をつくるのは困難な気もします。
にしてもちょっとモダンホラーでしょうか、SFかもしれません。

786 :でこすけ:2022/01/20(木) 11:16:56.20 0.net
>740
私は知能が高い人というのは数千年前からいたと思うのです。
私の見立てでは(つまりアテにはなりませんけど)
人類が東アジアに到達している4万年前には既に
環境さえ整えば現代の最先端科学でさえ理解できる知能はあった気がします。
たとえば古代文明が精密な天体観測をしていたりするのは
全員ではないにしても、中にはそういう人もいたということだろうと思うのです。

ただ、知能というのはあくまでも記憶とか計算とかであって
つまり思考ではないと私は認識しています。
コンピューターでいえば計算速度とか記憶容量とかハードの性能のことであって
それだけのプログラムが無いものだと簡単な足し算すらできないわけです。
となると不完全なアプリケーションがインストールされているコンピューターは
どれほど性能が高くてもまともな結論は導けないということになります。
そこで人間の場合、思い込みがまともな思考の邪魔をすることがあるようです。
「地面が何も無いところに浮かんでいるわけはない」とか
「ヒトがサルから進化したものであるはずはない」とか、
にしても思い込みを払拭するのは知能指数の高さとは関係ない気もしたりします。
しかしやっぱり箸にも棒にもかからないタイプよりは有利な気もするので
この投稿がきっかけになればと思って遅レスしてみました。
重要なのはアルゴリズムという、陳腐なオチのような気もします。

787 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 11:25:36.37 0.net
因果の逆立ちといふw

788 :でこすけ:2022/01/20(木) 12:51:09.62 0.net
>>782
昔の人は「緑」を「あお」と言っていたようですけど(じつは私も言います)、
一方では「藍色」「紺色」「群青色」とか細かいことも言っていますから
「緑」を識別できなかったわけではないと思います。
ただ、カテゴリーみたいなものがあって、たぶんざっくり「あか」と「あお」でしょう。
昔、私の叔父が黄色いミカンを「赤いやつ」と表現したことがあって
「暖色」と「寒色」というかんじだと思います。
昔の「青」は今の「青」とは微妙にニュアンスが違うのかもしれません。

ちなみに私のかんじだと色の基本的なカテゴリーは「赤」「黄」「緑」「青」
「紫」の5種類です。
「水色」なら「青」の一種のような気がしますが
「紫」は「青紫」であっても「青」ではない気がするのです。
ただし微妙なところもあります。「肌色」ならかろうじて「赤」な気がしますが
「茶色」は「赤」とは言いづらい気がします。
「黄土色」も「黄色」とは言い切れない気がします。
私にはいわゆる「オレンジ色」は「赤」だと感じます。
信号機にオレンジ色があれば「赤」として認識する気がします。
しかし場合によっては「注意」の意味のような気もします、微妙です。

私は『ゴレンジャー』のモモレンジャーは色のチョイスに釈然としなくて
色分けするならムラサキレンジャーであるべきだと思っていました。
ましてミドリが抜けてクロになるのはあり得ません(せめてモモだろう)。
しかし今回の時計さんからの指摘を受けて、私の個人的な思い込みだったの
かもしれないと思っているところです。

いや、「カテゴリー」て何だろう?というおはなしのようです。

789 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:14:32.25 0.net
>>783
誤:発音の体系的にも
正:発音の体系的な関係にも

790 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:21:32.14 0.net
633考える名無しさん2022/01/13(木) 10:15:00.890
[…]
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74

さらにここから、
>457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」<
という関係を導くこともできる。

>Verweile nicht, und sei dir selbst ein Traum,
Und wie du reisest, danke jedem Raum,
Bequeme dich dem Heißen wie dem Kalten;
Dir wird die Welt, du wirst ihr nie veralten.

— Johann Wolfgang Goethe

791 :時計 :2022/01/20(木) 15:12:35.69 0.net
人々の畜群化は人間の闘争心の現れである。

792 :時計 :2022/01/20(木) 15:18:46.43 0.net
>>788
青のことを「みどり」と言っていたという話も聞いたことはあります。
翠や碧など、様々な綴り方はありますよね。
シロレンジャーとかいないですよね。何故でしょうか。
月光仮面は白いですが。:)

793 :時計 :2022/01/20(木) 15:22:59.51 0.net
>>784-785
私の答えは、実在的世界の全てです。
全ては一つだと考えます。
その中でも脳神経系は注目に値すると思います。
それゆえの意識のハードプロブレムだと思います。

794 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 15:23:09.85 0.net
みどり/身獲り
嬰(みどり)児(ご)

795 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 22:36:15.47 0.net
西洋哲学の伝統には、言説を哲学として成立させるには、「かむ・か(交)へ/
考へ」を名詞化された概念によって明確に表現して伝へなければならない
という根強い偏見がある。みづから(身づ柄/自ら)の哲学的言説によって
表明する「かむ・か(交)へ/考へ」がその偏見を徹底して批判しようとする
ニーチェやハイデガーの場合においてさえ、その規範に沿った言語使用の
実践そのものが、明示的に表明している本人の批判的な意図を裏切って
しまうのである。このことは、ニーチェやハイデガーさえ、その哲学の最も
中心となる「かむ・か(交)へ/考へ方」を名詞化された概念として提示し、
まさにそれらが名詞化されることによって、どれほどそれらの
「かむ・か(交)へ/考へ方」が伝はりにくく、誤解を生じやすいものと
なっているかを見れば分かるはずである。例えば、「力への意志」と
「できることを」では、既に示したとおり、表現上の連鎖においても、
その操作性についても雲泥の差がある。「道具的存在」と「手頃に在る様」
でも、その分かりやすいさや応用性において、比べ物にならないほどの
違いが生じる。しかし、西洋哲学の言説においては、優先されるのは
常に名詞化された概念の方なのであり、そのこと自体が、
「かむ・か(交)へ/考へ」をまずなによりも「目の前にある」/
»vorhanden sein«様態で提示することになり、ハイデガー本人が
いくら言葉を尽くして「手頃にある」/»zuhanden sein«様態の
本来性を説いたところで、みづから(身づ柄/自ら)の言語使用の実践
における「表現形式」がそれを裏切ってしまうのだから、皮肉と
言う他ないだろう。

796 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 23:20:02.04 0.net
これに対して、日本語の場合、表現を名詞化された概念として提示することは、
伝へようとする「かむ・か(交)へ/考へ」を直接的に明確に示そうとする行為
とはならず、借り物(漢語やカタカナ語など)か、あるいは仮の表象(イメージの
想起と強く結びついた音節の組合せによる和語)をその様態において活用して
いることになるだろう。このことは、西洋哲学の伝統に沿ふことが哲学を
成立させる絶対的な要件であると考えるなら、日本語は哲学をするのには
著しく不利な言語であるという判断を導くことになる。ところが、ニーチェ
やハイデガーの哲学の企図に照らすなら、日本語は、より高い一般性の
レベルで「かむ・か(交)へ/考へ」を巡らせるのに、西洋の主要な言語より
もむしろはるかに有利であるとさえ言えるだろう。

797 :でこすけ:2022/01/20(木) 23:51:35.54 0.net
私は駿河さんがときどき取り上げる「日本語は哲学に適しているのか否か」
という問題に対し、そもそも「哲学」というのが幻想という立場ですけど、
そうは言っても「言葉」について考えると、私はそれはどこか「DNA」
とイメージが重なります。
それはどういう意味においてかというと、
以前は「DNA」は生物の設計図みたいに推測されていたわけですが、
実際に調べてみるとそうでもなかった、むしろ意味の無い情報が多いように
思われる、しかしその情報が遺伝に関わるのは間違いなく、
おそらく光ディスクにプリントされている情報のような単体では意味の無い、
つまり再生装置とセットで初めて意味をもつものであろうと、
そして「DNA」もまたそれをコントロールするシステムとセットで初めて意味を
もつもの、というのはじつは当てずっぽうな推測に過ぎないものですけど、
「言葉」もまたある意味では一般にその用途とされる「伝達」や「表現」とは
本質的には関係ないもののような気がする、というお話です。
たぶんどこかで誰かが言っている、のみならずけっこう知る人ぞ知る的なもの
のような気もしますけど私個人は>>795から触発されたはなしです。(つづく)

798 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:00:32.00 0.net
>>797
たとえば私(でこすけ)は、日常では状況に応じて「私」「僕」「俺」を
使い分けています。のみならず相応のキャラを演じます。
しかしどれも私(でこすけ)にはちょっと違う感があって
かと言って他をあたっても自分のキャラにいい感じにハマる一人称は日本語には
無い気がします。
日本語には一人称がたくさんありますが、
それはご先祖さまが自分にしっくりくるものを探し求めた結果のように思えます。
私がとりあえず妥協して「私」とか言うとき
それは私(でこすけ)のキャラを言い表している「表現」ではなく
どちらかといえば私のキャラをつくる「鋳型」のような気がするわけです。

本当かどうかは私はアホなので知りませんけど
たとえば英語では一律「I」になるようです。
彼らは自分を「I」だと思っているのだろうか、不満は無いのだろうか、
とも思ったりするわけですけど、根本的に感覚が違うという説を聞いたことがあります。
彼らにとってはそれは「表現」ではなく、「形式」というか「手続き」というか
つまりどうでもいいことだというのです。
日本人は自分を持っていないと言ったりしますが、
けっこう自分に対して関心は持っている気がしたりするわけです。
にしても何故彼らがそれを「手続き」にしてしまったのか、私にはナゾです。

あるいは私の職場のおばちゃん同士の会話を聞いていると
ときどき会話が噛み合っていないことがあります。
ていうか自分が言いたいことを言っているだけの様子です。
しかしそれでいて当事者たちは妙に楽しげに盛り上がっていたりします。
人間が言葉を話すその本質は「伝達」などの背後にあるもの
のような気がしてくるわけです。

799 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:40:58.91 0.net
以前、日本人でまともな形而上学者と言えるのは大森荘蔵と廣松渉だけだという
話を聞いたことがありました。
日本人はたくさん文章を書き残した民族のみならず最先端の学問を学べるのは
英語とフランス語と日本語との三つだけらしいのですが、
その分野では大きく遅れをとっているというのです。
私は漠然とそれはたぶん日本人にとって形而上なんてどうでもいいことだから
ではないかと思っていたのですが、
しかし昨今書店に行ってみると日本人によるそのような本がけっこう置いてある
印象があります。
なぜだかちょっと戸惑ったりします(私の希少価値が無くなる)。
しかし私にはそれは大森荘蔵と廣松渉云々と言った人が見誤ったのではなく、
以前と状況が変わったのではないかという気がしています。
みんながそういうことに関心を持ち始めたということだと思うのです。
(ただし以下の考察は例によって当てずっぽうなはなしです)
確かネット上に流通しているすべての言語の中で日本語の量的な比率は
日本の人口からすれば不自然に多めだった気がしました
(ネット上というよりも特定のプラットフォームだったかもしれません)。
日本人は比較的文章を書くのが好きな民族だということです。
では一体何を書いてきたのか、ここで当てずっぽうな空想になるわけですけど、
たぶん何らかの「記録」ではないかという気がします。
ざっくり「日記」とか「ルポルタージュ」とか、そういう系統です。
つまり日本人はたぶん日常に関心をもってきたのではないかと思うのです。
それに対し一般的に言って形而上学は明後日の方向に関心を寄せる学問ですけど、
それではこの方向転換の背景には一体何があるのか、
私は明言できませんけど、あまりいいことではない気がするという締めくくりです。

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