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意識のハードプロブレムの答え15
- 1 :時計 :2021/12/20(月) 04:11:34.94 0.net
- 1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。
意識のハードプロブレムの答え14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637997170/
- 735 :時計 :2022/01/17(月) 11:22:36.12 0.net
- >>734
敢えて言えば、網膜から外界は単射だが、
外界から網膜は写像ではいから、絵を描く時等は、
前者の考え方にも一理あるとは言えるかもしれない。
- 736 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:23:34.66 0.net
- >>733
「〜に目が触れて」、「〜が見える/見ゆ」ことの説明として、
「知覚の送信理論(Sendetherorie)」が不要であるとすれば、古代の人々の
間には、「〜目を向ける」ことによって、「〜に目が触れて」、「〜
に視覚に触れる感覚」に依拠して「〜を探り」、「〜の視覚的効果」が
詳しく知られるという、今でもごく自然と思われる物事の捉え方が
行き渡っていただけということになりませんか。
- 737 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:24:27.59 0.net
- 誤:「〜に視覚に触れる感覚」
正:「〜が視覚に触れる感覚」
- 738 :時計 :2022/01/17(月) 11:28:29.48 0.net
- >>735
正:写像ではないから
誤:写像ではいから
- 739 :時計 :2022/01/17(月) 11:30:39.51 0.net
- >>736
視線という言葉もありますね。
しかし、物理的な因果は逆だと考えた古代人は多かったと予想します。
- 740 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:32:17.74 0.net
- 著者は、明らかに哲学書を研究することに膨大な時間と労力を注いできた
学者であるわけですよ。それに対して私は哲学を専門に研究したことのない
完全な素人であるわけで、そのような素人でもすぐに気づくような奇妙
な論述をされると、私の方がとんでもない読み違いをしているのかと不安
になるわけですが、その一方で、哲学を研究すると、このようなことに
すら気づけなくなってしまうほど本当にバカ(「感性が働かなくなる」という
意味で)になってしまうのかという疑念も浮かんで来るのです。
- 741 :時計 :2022/01/17(月) 11:39:31.25 0.net
- >>740
「視線」という言葉から日本人の視覚理論は「知覚の送信理論」だと
言われても困りますよね……
古代人に関しても然りで。
例えば、夜、灯りをつけると物のよく見えることは当然で、
殆どの古代人は、視覚の受動性を認めていたのではないでしょうか。
哲学者には常識は大切かもしれませんね。:)
- 742 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 11:45:23.86 0.net
- 「視線」というより、より日常的な表現では、「目をやる」でしょうね。
- 743 :時計 :2022/01/17(月) 12:15:19.80 0.net
- >>742
「目をやる」も使いますね。
- 744 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 12:42:40.06 0.net
- 「視線を送る」ことによって何かを見ることがが「知覚の送信理論
(Sendetherorie)」と呼ばれるとすれば、ボードレールの詩は、
「知覚の受信理論」を表現していることになるのだろうか。
しかし、フェルスターが古代の「知覚の送信理論(Sendetherorie)」
と呼ぶものにせよ、ボードレールの詩にせよ、そのような捉え方に
よって本当に伝へられているのは、この詩の題名にもなっているとおり、
「呼応関係」/《correspondances》だろう。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Correspondances_(sonnet)
CORRESPONDANCES
La Nature est un temple où de vivants piliers
Laissent parfois sortir de confuses paroles ;
L'homme y passe à travers des forêts de symboles
Qui l'observent avec des regards familiers.
- 745 :考える名無しさん:2022/01/17(月) 14:35:16.88 0.net
- >>733
誤:この結果、プラグマティズム的な言い方をするなら
正:この結果は、プラグマティズム的な言い方をするなら
- 746 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:10:30.09 0.net
- >621考える名無しさん2022/01/12(水) 23:09:42.580
ようやく訪れた»Genesung«の時を「直毘神(なほびのかみ)」の来訪として言祝ぐ
>727考える名無しさん2022/01/17(月) 09:56:47.690
>>710
「やす・む」ことによって英気を「やし・なふ/養ふ」。
ニーチェがよく用いる»Genesung«という表現に対して、私はすぐに
本居宣長が用いた「直毘神(なほびのかみ)」の「なほび」を想起するのだが、
»Genesung«/「なほび」に対応するラテン語は《restitutio》だろう。
ここでさらに「やす・む」ことと「やしなふ」ことの関係について考えて
みると、それが英語の"rest"と"restitution"の関係と類似した関係にある
ように見えて面白い("restaurant"/「レストラン」について考えてみる
といい)。
- 747 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:10:48.77 0.net
- https://www.etymonline.com/search?q=rest
rest (v.1)
[to repose; to cease from action] Middle English resten, from Old
English ræstan, restan "take repose by lying down; lie in death or
in the grave; cease from motion, work, or performance; be still or
motionless; be undisturbed, be free from what disquiets; stand or
lie as upon a support or basis," from Proto-Germanic *rastejanan
rest (v.2)
[be left, remain] mid-15c., "remain, continue in existence," from
Old French rester "to remain, stay" (12c.), from Latin restare "stand back,
be left," from re- "back" (see re-) + stare "to stand" (from PIE root *sta-
"to stand, make or be firm").
It has been largely confused and partly merged with rest (v.1), which,
however, is Germanic.
https://www.etymonline.com/search?q=resutitution
[...] noun of action from past-participle stem of restituere "set up again,
restore, rebuild, replace, revive, reinstate, re-establish," from re- "again,
to a former state" (see re-) + statuere "to set up" (from PIE root *sta-
"to stand, make or be firm").
- 748 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:17:51.82 0.net
- >>715
>仮に「意のやすらひ/"ease"」を、それがどのように
性格づけられるにせよ、「実体」/"substance"と呼んだなら、たちまち
「やすらひ」が「やすらふ」ものから"*sta-"に、つまりは、「た(立)つ」
ものに変わってしまう<
「ねぎ(禰宜)」/"appeasement"とは、まずなによりも、「やすらふ」
状態をそのまま保ってもらうために執り行われるのである。
- 749 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:21:15.26 0.net
- https://kotobank.jp/word/意富多多泥古-1281374
意富多多泥古(読み)おおたたねこ
世界大百科事典内の意富多多泥古の言及
【神主】より
…神官,神職とも同義に使われることもある。初見は,崇神天皇のときに
大物主(おおものぬし)命がたたり疫病蔓延したおり,神孫の意富多多泥古
(おおたたねこ)を神主としてまつらしめたところ,天下の平安を得たという
(《古事記》)
- 750 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:26:26.78 0.net
- 意富多多泥古(おほ・たた・ねこ)の「たた」は、「たた(祟)り」の「たた」、
「たた(畳)む」の「たた」でもあるのだろうが、これらの表現に用いられる
「たた」の発音そのものが、「起き立ちつづける」イメージを想起させた
可能性も考えられるだろう。
- 751 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 08:35:53.37 0.net
- 説明として妥当なのかどうかは知らないが、このような説もあり、
なぜ「ねこ」なのか考えることは興味深いだろう。
http://jinbun.cc.kochi-u.ac.jp/keizai-gakkai/kochironso/100/HTML/index17.html
折口信夫は「大倭根子天皇と云ふ枕詞とも言ふべき成語は,単に,
讃名ではなかつた……ある地方の,神人の最高位に居る者の意味であつた。
大和の神人の,最高の人となるが故に,天子の稜威は生じるのであつた。」
「外蕃に対しての関心を持たない時代の詔詞は,大倭根子天皇なる御資格を以て,
大儀礼を宣せられたのだ。其で大倭根子……天皇と謂つた御諡を持たれた
御方々がおありになる訣だ。詔詞の始めに据ゑた御資格が,御生涯を掩ふ
御称号となつたのである。」
- 752 :時計 :2022/01/18(火) 08:37:06.63 0.net
- >>746-750
よく解りませんが、意志の強さは感じます。:)
- 753 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 09:18:37.37 0.net
- 歴史はつねに浄化を繰り返すことを必要とする。
したがって、歴史学にとって本当に課題とされているのは、
「歴史修正主義」を克服することなどではなく、
「歴史修正主義」を案山子として用いながら、
どのように歴史を浄化するかである。
- 754 :時計 :2022/01/18(火) 09:26:14.47 0.net
- >>753
倭国から和国とか、清いよね。
- 755 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:02:39.51 0.net
- 現状浄められるべき穢れがいくらあったとしても、
穢れた自国というのは存在せず、
原理原則からして自国はつねに清らなのです。
なぜなら穢れた自国というのは存立し得ないからです。
- 756 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:03:26.88 0.net
- 誤:現状浄められるべき
正:現状で浄められるべき
- 757 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:08:08.92 0.net
- これは、穢れた田畑では作物が育たず、その土地はもはや田畑ですらない
のと同じことです。
- 758 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:12:41.96 0.net
- 荒地/The Waste Land
- 759 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:15:32.33 0.net
- 古語では、病気のことを「なやみ」と表現しました。
「なや・む」の「む」は累加する様態を表現し、「なや・む」の「なや」
は、「なゆ」の活用形であり、「な(萎)え」はその名詞化です。
- 760 :時計 :2022/01/18(火) 10:17:03.83 0.net
- >>756
現状、清らでも、蔑称はあり得るということですね。
- 761 :時計 :2022/01/18(火) 10:19:58.94 0.net
- >>759
「む」は否定的なニュアンスは感じます。
同時に、編むとか産むとか否定=運動のイメージもあります。
私は、言語に関して、原理主義者ではありませんが。
- 762 :時計 :2022/01/18(火) 10:21:18.52 0.net
- >>761
「M」の現イメージは「間」ですね。
- 763 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:23:09.69 0.net
- 人々の集団を指す名称の場合でも、他称は蔑称であり、集団はそちらの蔑称の
方で一般に知られることになるものの、その集団内の人々は、自分たちを
単に「人々」を表すに過ぎないような名称で指し示すような事例がよく見られます。
- 764 :時計 :2022/01/18(火) 10:31:44.58 0.net
- >>761
言語は詩的に美しいのであれば、それに越したことはありませんが、
現実として、各語は緩く繋がっている、そういうイメージです。
>>763
「ドイツ」も「ローマ的でない人々」が語源だとウェブにありました。
- 765 :時計 :2022/01/18(火) 10:38:14.30 0.net
- >>764
編みと網とかね。
- 766 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 13:04:19.53 0.net
- >>755
この原理原則を無視して、国民としてどのようにすることが清く正しいのか
などということを論じても、自己欺瞞にしかならない。
- 767 :時計 :2022/01/18(火) 15:20:40.98 0.net
- >>762
正:原イメージ
語:現イメージ
- 768 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:27:27.49 0.net
- >>704
私はよく考えてみると吉本隆明がどのような意味合い(文脈)で「共同幻想」
という言葉を使っているのかを知りません。
私はとにかくアバウトです。
「共同幻想」という言葉を使ったのは(「仮想現実」もですけど)
誤解を生んだよようなのでちょっと後悔しています。
私は『共同幻想論』はとにかく今よりもはるかに頭が悪い頃に読んだので
理解もできていなかったし記憶にもほとんど残っていません。
私に関心があったのは「共同幻想」なるものの成立が
どのようなプロセスなりメカニズムなりを持っているのかであったのに対し
その本の内容は「あれも共同幻想、これも共同幻想」というかんじだったので
退屈をした記憶があります。
私が聞きかじった話では、吉本がウケたのは学生運動とのかかわりで、
「唯物史観も共同幻想」と言ったのがハマったとか(実態は未確認です)、
つまり今読む価値があるのかどうかはよくわかりません。
私としてはあの時代のものであれば柄谷行人の『日本近代文学の起源』の方が
意識のハードプロブレムにはうっすらながら関わる気がします。
私には「意識がどのようにして成長するのか」を分析しているように思えます。
ただ、私は折りに触れ読み返しますが、
じつは未だにいまいちピンときていません。
- 769 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:56:36.02 0.net
- >>768
『日本近代文学の起源』に関連して、
たとえばその本に「内面の発見」というテーマがあります。
私はサルにも目がついているのであれば彼らにも何らかの映像が見えている、
つまり何らかの主観というか精神というかが内在すると推測するわけですが、
しかし彼らには自分に意識的なものがあることを自覚する能力までは
あるような気がしません。
少なくともトカゲなりサカナなりまでにさかのぼれば間違いないはずです。
しかし私たちに自分には意識があることを自覚できるとき
それは人間まで進化してきた過程のどこかの時点でそれが発見された
ということだと考えます。
それはたとえばクオリアも同様のはずです。
これはたとえば原始的な生物が熱を嫌がって逃げようとするとき、
その時点で「熱」が発見されているということだと考えます。
ではどのようにして発見されたのか、
これには前スレ947の「球の内部の何か」的なものが関わるのだろう
と思われます。
- 770 :時計 :2022/01/19(水) 03:02:38.19 0.net
- >>768-769
確かに、あれもこれも共同幻想ですよね……
『共同幻想論』、読んでみようかな。
『日本近代文学の起源』も面白そうですね。
前スレ947はもしかしてでこすけさんでしたか。
- 771 :でこすけ:2022/01/19(水) 07:49:03.75 0.net
- 私には「意識」というのは、混沌としたものとして誕生し、
やがてその中に秩序が生じるもののように思えます。
始めから無条件に秩序があったわけではない気がするのです。
たとえば昔の日本人は「グリーン」と「ブルー」とを「あお」として、
私にとって「紺」と「水色」とが同じ「青」に感じるようにして、
同じカテゴリーに含めていました。
つまり私たちはそれ等を区別できるようになったということです
(やがて「紺」と「水色」ともまったく違う色に感じるように
なるのかもしれません)。
一方では昔の日本人は「お」の発音と「を」の発音とを区別していたようですが
私たちがそれらを区別しなくなったのは単なる単純化ではなく、
むしろ同じ音を文脈によって区別することができるようになった
という複雑化のような気がします。
私にはそういったことは意識の成長のように感じられるわけです。
また私にも自分が生まれたころの記憶はないわけですけど
これは意識が無かったわけではなく、
単に記憶力が無かったということのような気がしています。
そこで久々の意識のハードプロブレムです。
記憶力はいわゆる「脳」の成長に由来するのでしょうか、
それとも意識の内部で、たとえば連想記憶術のような「脳」とは関係無さそうな
(たとえば「西暦794年平安京遷都」は数字が曖昧になりそうですけど
「鳴くよウグイス平安京」はしっかり覚えられる気がします
このような覚え方は「脳」とは関係ない気がするのです)
つまり意識の中だけで完結できるものなのでしょうか、
この問題はそもそも「脳」とは何なのかという問題を解決する必要にせまられ
ますけど(私は「脳」とは何らかの精神現象のネットワークだと考えるので)
いずれにしても微妙な問題のように思えます。
- 772 :時計 :2022/01/19(水) 08:29:45.35 0.net
- 私も意識のハードプロブレムに対して一言。
私は意識のハードプロブレムは、私の脳と私の意識の関係は何か
ということだと考えています。
私の脳であって、他者の脳ではないところは、主観主義のポイントです。
現時点での私の答えは、私の脳を含む私の客体は、
私の主観的意識の精緻な表現だということです。
- 773 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:28:10.24 0.net
- ゆく年くる年、
「ゆく」(»losgehenden«)年を送り、「くる」(»kommenden«)を迎えると、
1月/»Januar«になる。ヤーヌス/《Iānus》は、「双方向(⇔)」神であり、
語源的には" Proto-Indo-European *yeh₂- (“to go, go in, travel”)"に
由来するものと想定されている。その一方で、英語の"-ject"が由来する
とされるラテン語の《iacere》("to throw")も、語源的には、
"Proto-Indo-European yeh₁-, Hyeh₁- (“to throw, let go”)"が想定され、
想定される発音からは、事実上、区別がつかない。これに対して、
同じくラテン語の《iaceo》は、>Stative counterpart of iaciō (“to throw”). The meaning must have
shifted from “I am thrown down” to “I lie”.<
と解釈されており、想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と
比較すると、印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、何に由(ゆ)来する
と考えるのが妥当だろうか。
- 774 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:35:40.05 0.net
- "yeh₁- (“to throw, let go”)"と「や(八)」を比較すると、「八」の末広がりが
"yeh₁-"の"h"に対応しているようなイメージが浮かぶ。
- 775 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:24:14.99 0.net
- フェルスター、『哲学の25年』を読んでいると、多くの哲学者がそれぞれの
哲学的な論述の違いを超えて、スピノザ回帰に向かっているような印象を
受ける。だが、これは、結局のところ、キリスト教が前提とする一神教
の神学を「理知的」に批判して、そこから距離をとろうとしながら哲学
の言説を展開し、なお一神教の哲学とその批判としての理知的な言説の
行き詰まりの両方を乗り越えようとすることによって導かれる「お決まり」
とも言えるような道筋なのではないか。キリスト教の神学と、それとの
かかわりにおいて哲学そのものをも批判したニーチェが、これらの
いずれの言説にも覆われない古代ギリシアを重視して、スピノザ回帰
には我関せずという姿勢を示していることは、他の近現代の哲学者との
対比において注目に値するだろう。
- 776 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:25:52.64 0.net
- 誤:なお一神教の哲学とその批判
正:なお一神教の神学とその批判
- 777 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:56:29.33 0.net
- 誤:「くる」(»kommenden«)を迎えると
正:「くる」(»kommenden«)年を迎えると
- 778 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:21:15.59 0.net
- 『哲学の25年』におけるフェルスターによる、カントをはじめとする
様々な哲学者の論述の説明も、それぞれが理念に基づいて構築されて
いるかのような装いで展開されているが、実際のところ、その展開
を導いているのは、表立っては示されない日常言語的な表現による
物事の理解であるように見える。理念に基づいて最終的にどのような
哲学的な言説を構築してみせたところで、最終的に、そこで用いられて
いる理念と日常言語表現の対応関係が不明なら、その哲学的な言説
は誰にも理解可能なものとはならないだろう。なおかつ、明示される
理念に基づく哲学的な言説の構築が、陰で日常言語表現に導かれて
いるとするなら、明示される理念の方が日常言語表現において暗黙
に伝へられる「心(こころ)」より一般性が高いとは言えないはず
だろう。
- 779 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:32:36.27 0.net
- >想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と比較すると、
印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、
何に由(ゆ)来すると考えるのが妥当だろうか。<
ニーチェの言説がとても具体的でありながら、一般性を感じさせるのは、
ニーチェの表現が、このようなレベルでの類似性を徹底的に活用しようと
しているからである。逆に言えば、ニーチェが自らの表現において活用しよう
として、それに導かれているようなレベルの類似性を無視するなら、
ニーチェが何を言おうとしているのか極めて分かりにくくなり、ニーチェの
言説を何らかの固定された「思想」に沿って解釈しようとする誤りに陥る。
- 780 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:36:53.26 0.net
- 日常言語表現において哲学をしようとするとは、そういうことだ。
- 781 :時計 :2022/01/19(水) 12:46:35.83 0.net
- >>771
紺と水色、全然違わないですか?:)
- 782 :時計 :2022/01/20(木) 08:20:40.69 0.net
- >>781
私は色の差異は名前以前的な問題だと思います。
赤色と朱色は近いですが、赤色と青色は遠いです。
- 783 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 10:08:03.34 0.net
- >>773-774
@世代を超えて言語において用いられる発音の相互関係が体系的に
継承されることが、言語系統論として扱われる。その一方で、
A発話における発音は、表現としてつねに自らの身体性において
どのようにかイメージを想起させるものとして、イメージに
関連づけられて用いられることになり、発音の体系的にも
影響を及ぼして変化を促しつづける。Bその結果、互いに系統
が異なるとされる言語の間で類似した発音が類似した作用の
様態を表現するように用いられることは、それが歴史的な
接触による相互作用によるものか、発音が想起させる身体的な
イメージの共通性によるものか明確に判別することは極めて
困難になるだろう。C言語学は、@の事実を重視するが、
Aの働きについては、言語学は、結果としての発音の歴史的な
変化としては扱うが、言葉で表現することに絶えず働いている
機能として重視して、研究対象とすることはなかった。
Dその結果、互いに異なるとされる言語の間で類似した発音が
類似した作用の様態を表現するのに用いられることがしばしば
観察されるという現象ついて、言語学は、それを「擬音語/
擬態語」と見なして、単なる「偶然の合致」として、あたかも
それが単なる場当たり的な語呂合わせであるかのようにその
類似性を学問的に軽視するように促すこととなっている。
- 784 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:09:00.83 0.net
- 私は「“意識があるもの”はどこまで分解できるのか」という疑問をもっていますが
この疑問はわかりにくい気もするので勝手に解説させていただきます。
これは「どこまで観測できるのか」という問いでもあります。
たとえば唯心論者の私でも普通には腹話術の人形に意識があるとは思いません。
しかし腹話術師の方には普通に意識がある気がしています。
ここで腹話術師を見ているということは「“意識があるもの”を観測している」
ということだと考えることにします。
次に、腹話術師のへその上と下とでどちら側に意識があるのか、
首から上と下とでどちら側に意識があるのか、
脳と脳以外とでどちら側に意識があるのか、
そうやってどんどん分割して行ったとき最後はどうなっちゃうのかという問題です。
何かこれ以上分解できない1個の素粒子に到達するのか、
あるいは何処かの段階でどちらでもないという状態になってしまうのか、
この問題は私個人どころか科学的にも検証はできない気がするので
言いたい放題な気がするわけです。
- 785 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:12:30.29 0.net
- >>784
この問題では私は1個の素粒子派です。
これは意識は観測上は素粒子として現れるのではないかという勝手な推測ですが、
しかし一方の「どちらでもない」ということはあり得ない気がするのです。
そのようにしてどんどん分割して行って遂に「いくつかの素粒子のグループ」
に到達したとき(実際には膨大かもしれませんが)、
それ以上の分割ができないとなると、そのグループと意識とはどのようにして
相互作用をしているのか、はなはだハードなプロブレムのように感じられます。
さりとてじつは1個の素粒子派もあまり状況はかわりません。
その素粒子をカチ割るか何かしても、その意識の中身が出てくる気がしないのです。
これがハードプロブレムといわれたる所以なのでしょう。
とりあえず私としては、7つのドラゴンボールが集まると神龍が現れるかの如く
いくつかの素粒子が集まると意識が起こるというのは無い気がします。
1個の素粒子に1つの精神(原意識)が対応しているという方が、
もちろん実際がどうかはわかりませんけど、
とにかくその方がわかりやすいように思えます。
グループ派は「相互作用の謎」と「発生の謎」とのふたつの問題を抱えてしまう
ということでしょうか、
ちなみに私は「仮想現実」という言葉を使ってきましたが
それではそれを体験している私たちの正体とはどのようなものなのか、
これは外見のことですけど、私はそれは「水槽脳」のようなものではなく
少なくとも五感では認識できないものだと考えます。
何らかの計測機には反応するだろうとは思いますけど
実際にそのような機器をつくるのは困難な気もします。
にしてもちょっとモダンホラーでしょうか、SFかもしれません。
- 786 :でこすけ:2022/01/20(木) 11:16:56.20 0.net
- >740
私は知能が高い人というのは数千年前からいたと思うのです。
私の見立てでは(つまりアテにはなりませんけど)
人類が東アジアに到達している4万年前には既に
環境さえ整えば現代の最先端科学でさえ理解できる知能はあった気がします。
たとえば古代文明が精密な天体観測をしていたりするのは
全員ではないにしても、中にはそういう人もいたということだろうと思うのです。
ただ、知能というのはあくまでも記憶とか計算とかであって
つまり思考ではないと私は認識しています。
コンピューターでいえば計算速度とか記憶容量とかハードの性能のことであって
それだけのプログラムが無いものだと簡単な足し算すらできないわけです。
となると不完全なアプリケーションがインストールされているコンピューターは
どれほど性能が高くてもまともな結論は導けないということになります。
そこで人間の場合、思い込みがまともな思考の邪魔をすることがあるようです。
「地面が何も無いところに浮かんでいるわけはない」とか
「ヒトがサルから進化したものであるはずはない」とか、
にしても思い込みを払拭するのは知能指数の高さとは関係ない気もしたりします。
しかしやっぱり箸にも棒にもかからないタイプよりは有利な気もするので
この投稿がきっかけになればと思って遅レスしてみました。
重要なのはアルゴリズムという、陳腐なオチのような気もします。
- 787 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 11:25:36.37 0.net
- 因果の逆立ちといふw
- 788 :でこすけ:2022/01/20(木) 12:51:09.62 0.net
- >>782
昔の人は「緑」を「あお」と言っていたようですけど(じつは私も言います)、
一方では「藍色」「紺色」「群青色」とか細かいことも言っていますから
「緑」を識別できなかったわけではないと思います。
ただ、カテゴリーみたいなものがあって、たぶんざっくり「あか」と「あお」でしょう。
昔、私の叔父が黄色いミカンを「赤いやつ」と表現したことがあって
「暖色」と「寒色」というかんじだと思います。
昔の「青」は今の「青」とは微妙にニュアンスが違うのかもしれません。
ちなみに私のかんじだと色の基本的なカテゴリーは「赤」「黄」「緑」「青」
「紫」の5種類です。
「水色」なら「青」の一種のような気がしますが
「紫」は「青紫」であっても「青」ではない気がするのです。
ただし微妙なところもあります。「肌色」ならかろうじて「赤」な気がしますが
「茶色」は「赤」とは言いづらい気がします。
「黄土色」も「黄色」とは言い切れない気がします。
私にはいわゆる「オレンジ色」は「赤」だと感じます。
信号機にオレンジ色があれば「赤」として認識する気がします。
しかし場合によっては「注意」の意味のような気もします、微妙です。
私は『ゴレンジャー』のモモレンジャーは色のチョイスに釈然としなくて
色分けするならムラサキレンジャーであるべきだと思っていました。
ましてミドリが抜けてクロになるのはあり得ません(せめてモモだろう)。
しかし今回の時計さんからの指摘を受けて、私の個人的な思い込みだったの
かもしれないと思っているところです。
いや、「カテゴリー」て何だろう?というおはなしのようです。
- 789 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:14:32.25 0.net
- >>783
誤:発音の体系的にも
正:発音の体系的な関係にも
- 790 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:21:32.14 0.net
- 633考える名無しさん2022/01/13(木) 10:15:00.890
[…]
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74
さらにここから、
>457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」<
という関係を導くこともできる。
>Verweile nicht, und sei dir selbst ein Traum,
Und wie du reisest, danke jedem Raum,
Bequeme dich dem Heißen wie dem Kalten;
Dir wird die Welt, du wirst ihr nie veralten.
— Johann Wolfgang Goethe
- 791 :時計 :2022/01/20(木) 15:12:35.69 0.net
- 人々の畜群化は人間の闘争心の現れである。
- 792 :時計 :2022/01/20(木) 15:18:46.43 0.net
- >>788
青のことを「みどり」と言っていたという話も聞いたことはあります。
翠や碧など、様々な綴り方はありますよね。
シロレンジャーとかいないですよね。何故でしょうか。
月光仮面は白いですが。:)
- 793 :時計 :2022/01/20(木) 15:22:59.51 0.net
- >>784-785
私の答えは、実在的世界の全てです。
全ては一つだと考えます。
その中でも脳神経系は注目に値すると思います。
それゆえの意識のハードプロブレムだと思います。
- 794 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 15:23:09.85 0.net
- みどり/身獲り
嬰(みどり)児(ご)
- 795 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 22:36:15.47 0.net
- 西洋哲学の伝統には、言説を哲学として成立させるには、「かむ・か(交)へ/
考へ」を名詞化された概念によって明確に表現して伝へなければならない
という根強い偏見がある。みづから(身づ柄/自ら)の哲学的言説によって
表明する「かむ・か(交)へ/考へ」がその偏見を徹底して批判しようとする
ニーチェやハイデガーの場合においてさえ、その規範に沿った言語使用の
実践そのものが、明示的に表明している本人の批判的な意図を裏切って
しまうのである。このことは、ニーチェやハイデガーさえ、その哲学の最も
中心となる「かむ・か(交)へ/考へ方」を名詞化された概念として提示し、
まさにそれらが名詞化されることによって、どれほどそれらの
「かむ・か(交)へ/考へ方」が伝はりにくく、誤解を生じやすいものと
なっているかを見れば分かるはずである。例えば、「力への意志」と
「できることを」では、既に示したとおり、表現上の連鎖においても、
その操作性についても雲泥の差がある。「道具的存在」と「手頃に在る様」
でも、その分かりやすいさや応用性において、比べ物にならないほどの
違いが生じる。しかし、西洋哲学の言説においては、優先されるのは
常に名詞化された概念の方なのであり、そのこと自体が、
「かむ・か(交)へ/考へ」をまずなによりも「目の前にある」/
»vorhanden sein«様態で提示することになり、ハイデガー本人が
いくら言葉を尽くして「手頃にある」/»zuhanden sein«様態の
本来性を説いたところで、みづから(身づ柄/自ら)の言語使用の実践
における「表現形式」がそれを裏切ってしまうのだから、皮肉と
言う他ないだろう。
- 796 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 23:20:02.04 0.net
- これに対して、日本語の場合、表現を名詞化された概念として提示することは、
伝へようとする「かむ・か(交)へ/考へ」を直接的に明確に示そうとする行為
とはならず、借り物(漢語やカタカナ語など)か、あるいは仮の表象(イメージの
想起と強く結びついた音節の組合せによる和語)をその様態において活用して
いることになるだろう。このことは、西洋哲学の伝統に沿ふことが哲学を
成立させる絶対的な要件であると考えるなら、日本語は哲学をするのには
著しく不利な言語であるという判断を導くことになる。ところが、ニーチェ
やハイデガーの哲学の企図に照らすなら、日本語は、より高い一般性の
レベルで「かむ・か(交)へ/考へ」を巡らせるのに、西洋の主要な言語より
もむしろはるかに有利であるとさえ言えるだろう。
- 797 :でこすけ:2022/01/20(木) 23:51:35.54 0.net
- 私は駿河さんがときどき取り上げる「日本語は哲学に適しているのか否か」
という問題に対し、そもそも「哲学」というのが幻想という立場ですけど、
そうは言っても「言葉」について考えると、私はそれはどこか「DNA」
とイメージが重なります。
それはどういう意味においてかというと、
以前は「DNA」は生物の設計図みたいに推測されていたわけですが、
実際に調べてみるとそうでもなかった、むしろ意味の無い情報が多いように
思われる、しかしその情報が遺伝に関わるのは間違いなく、
おそらく光ディスクにプリントされている情報のような単体では意味の無い、
つまり再生装置とセットで初めて意味をもつものであろうと、
そして「DNA」もまたそれをコントロールするシステムとセットで初めて意味を
もつもの、というのはじつは当てずっぽうな推測に過ぎないものですけど、
「言葉」もまたある意味では一般にその用途とされる「伝達」や「表現」とは
本質的には関係ないもののような気がする、というお話です。
たぶんどこかで誰かが言っている、のみならずけっこう知る人ぞ知る的なもの
のような気もしますけど私個人は>>795から触発されたはなしです。(つづく)
- 798 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:00:32.00 0.net
- >>797
たとえば私(でこすけ)は、日常では状況に応じて「私」「僕」「俺」を
使い分けています。のみならず相応のキャラを演じます。
しかしどれも私(でこすけ)にはちょっと違う感があって
かと言って他をあたっても自分のキャラにいい感じにハマる一人称は日本語には
無い気がします。
日本語には一人称がたくさんありますが、
それはご先祖さまが自分にしっくりくるものを探し求めた結果のように思えます。
私がとりあえず妥協して「私」とか言うとき
それは私(でこすけ)のキャラを言い表している「表現」ではなく
どちらかといえば私のキャラをつくる「鋳型」のような気がするわけです。
本当かどうかは私はアホなので知りませんけど
たとえば英語では一律「I」になるようです。
彼らは自分を「I」だと思っているのだろうか、不満は無いのだろうか、
とも思ったりするわけですけど、根本的に感覚が違うという説を聞いたことがあります。
彼らにとってはそれは「表現」ではなく、「形式」というか「手続き」というか
つまりどうでもいいことだというのです。
日本人は自分を持っていないと言ったりしますが、
けっこう自分に対して関心は持っている気がしたりするわけです。
にしても何故彼らがそれを「手続き」にしてしまったのか、私にはナゾです。
あるいは私の職場のおばちゃん同士の会話を聞いていると
ときどき会話が噛み合っていないことがあります。
ていうか自分が言いたいことを言っているだけの様子です。
しかしそれでいて当事者たちは妙に楽しげに盛り上がっていたりします。
人間が言葉を話すその本質は「伝達」などの背後にあるもの
のような気がしてくるわけです。
- 799 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:40:58.91 0.net
- 以前、日本人でまともな形而上学者と言えるのは大森荘蔵と廣松渉だけだという
話を聞いたことがありました。
日本人はたくさん文章を書き残した民族のみならず最先端の学問を学べるのは
英語とフランス語と日本語との三つだけらしいのですが、
その分野では大きく遅れをとっているというのです。
私は漠然とそれはたぶん日本人にとって形而上なんてどうでもいいことだから
ではないかと思っていたのですが、
しかし昨今書店に行ってみると日本人によるそのような本がけっこう置いてある
印象があります。
なぜだかちょっと戸惑ったりします(私の希少価値が無くなる)。
しかし私にはそれは大森荘蔵と廣松渉云々と言った人が見誤ったのではなく、
以前と状況が変わったのではないかという気がしています。
みんながそういうことに関心を持ち始めたということだと思うのです。
(ただし以下の考察は例によって当てずっぽうなはなしです)
確かネット上に流通しているすべての言語の中で日本語の量的な比率は
日本の人口からすれば不自然に多めだった気がしました
(ネット上というよりも特定のプラットフォームだったかもしれません)。
日本人は比較的文章を書くのが好きな民族だということです。
では一体何を書いてきたのか、ここで当てずっぽうな空想になるわけですけど、
たぶん何らかの「記録」ではないかという気がします。
ざっくり「日記」とか「ルポルタージュ」とか、そういう系統です。
つまり日本人はたぶん日常に関心をもってきたのではないかと思うのです。
それに対し一般的に言って形而上学は明後日の方向に関心を寄せる学問ですけど、
それではこの方向転換の背景には一体何があるのか、
私は明言できませんけど、あまりいいことではない気がするという締めくくりです。
- 800 :でこすけ:2022/01/21(金) 02:40:54.71 0.net
- >>792
せっかくなので「みどり」の語源をググったら
もともとは「新芽」や「若枝」のこととありました。
つまり「みどり」は色のことではなく
言葉のつくりとしては「藤色」とか「鴇色」とかの
系統のようです。
それを思えば確かに「身獲り」はどこか通じる気もします。
「青」を「みどり」と言っていたことがあったのだとすれば
語源を忘れてからのことではないかという気がします。
あるいは知らなかったのは私だけでしょうか。
>>793
私はたぶん鏡を使って自分の顔を見るようにして
何らかの科学技術を駆使して私の脳の中の私の意識の本体を検出できるのだろう
と
- 801 :時計 :2022/01/21(金) 03:26:41.94 0.net
- >>800
あおはあおを中心としてみどりを含むもの、
みどりはみどりを中心としてあおを含むものだったのかなと思います。
既に脳の視覚情報をデコードする研究はあるみたいですね。
まだまだ不鮮明のようですが。
- 802 :でこすけ:2022/01/21(金) 07:48:13.74 0.net
- >>793
私は私の意識は認識上では脳の中に検出されるだろうと推測しますが
意識が実際に存在するのは認識している世界の中では無いと考えます。
意識は三次元空間(物質宇宙)の中には無いということです。
たとえば私は幽体離脱という現象は実際にあり得ると信じていますけど、
これは味を本当は脳で感じていながら舌で感じているような感覚を持つことの
応用のような気がします。
幽体離脱は視覚を感じるのが身体の外側でありながら
脳以外に視点を置くということでは目で見ているかんじがあるのと同じことだ
ということです。
>>772
>脳を含む私の客体は、私の主観的意識の精緻な表現
私はこれについては全く同意なんですが、私としてはその構造に興味があります。
また、それを示さなくては意識のハードプロブレムに答えを出せたことには
ならない気がします。
この構造は「リンゴ」という一個の仮象に「色」「香り」「感触」「味」
などを重ね合わせる仕組みに通じると思います。
- 803 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:50:04.01 0.net
- あお(青)ずむ
- 804 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:56:39.03 0.net
- くろ(黒)ずむ、あお(青)ずむとは言うが、あか(赤)らむ、あか(赤)む、
き(黄)ばむとは言っても、あか(赤)ずむとかき(黄)ずむとは言わない。
- 805 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 09:20:08.65 0.net
- 想念の名詞化の提示として»Wille zur Macht«という表現と
「いき(息)のを(緒)」という表現の対比を考えてみるといい。
前者の表現の提示が促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひ
だろう。それに対して後者の表現の提示が促すのは「『いき(息)のを(緒)』
とはどのようなことか」という問ひである。
「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに応えるものとして一般に
広まった解釈が「»Wille zur Macht«とは『権力への意志』である」
というものであり、すると、「権力への意志」が「ニーチェの哲学を
規定する根本的な思想」であると理解されることになる。しかし、
そのように導かれる理解は、パロディと言ってもいいほどの(この場合、
ニーチェが好んで用いるパロディの作用を逆転してしまう)倒錯ではない
だろうか。
哲学することを促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに
応えようとすることよりもむしろ、「『いき(息)のを(緒)』とはどのよう
なことか」という問ひに忠実に適切に応えるような記述を試みることの
方であり、実際、そのような試みをつづけることの方が、ニーチェが
»Wille zur Macht«によって表現しようとしている考へにはるかに
よく沿った理解に導かれることになるだろうと私は思う。
- 806 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:18:20.58 0.net
- 結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
いると見なす偏見が強く働いているのである。
- 807 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:31:17.72 0.net
- その一方で、日本語の表現においては、想念を名詞化して提示する場合
でさえ、「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
ことの方が尊ばれるのだ。逆に「〜が」という発話行為による同一性
の確立は、「この○○が!」という表現がそのまま罵りとなる
ことからも分かるとおり(「が」は、「我(が)」をフランス語の
《même》に相当するように流用したものである)、適切に「評価」
/"appreciation"しようとする行為ではなく、「見限り」であり、
「見下し」/"depreciation"である。
- 808 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:52:09.78 0.net
- ここで、主題を提示するために用いられる「〜は」は、英語の
"as for 〜"や"what about 〜"に対応するような表現であり、
「〜が」とは異なり、同一性を確立しようとするものではない
ことに留意しよう。
- 809 :時計 :2022/01/21(金) 12:31:56.65 0.net
- >>802
私は主観主義者ですが、主客一致は正しそうに思っています。
幽体離脱に関する観点は面白いですね。
自由意志も重要な問題ですね。
>>805
私的には息の緒とは言いません。:)
>>807
それはどうでしょうか。
- 810 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 14:36:14.66 0.net
- どうであるかを示しているのに、
どうでしょうかと言われても、
どうどうめぐりですね
- 811 :時計 :2022/01/21(金) 15:50:49.26 0.net
- >>810
日本は、科学や数学や論理学において、
西洋に遅れを取っていただけではありませんか?
それを何か勘違いしているように思います。
- 812 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 16:16:58.73 0.net
- そのような単純な進歩主義は思想としては通用しても、
哲学としては通用しないでしょう。
- 813 :時計 :2022/01/21(金) 16:17:54.78 0.net
- >>811
私は、日本の文化は好きですよ。
しかし、曖昧さの美学のようなものは信じません。:)
- 814 :時計 :2022/01/21(金) 16:19:35.74 0.net
- >>812
うーん、西洋と比較したら、他のどこの国々も
曖昧さを大切にしているように見えそうです。
- 815 :時計 :2022/01/21(金) 16:23:30.51 0.net
- >>814
まあ、私は曖昧さは日本の特性だとは思わないということです。
- 816 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 17:15:50.88 0.net
- 「曖昧さの美学のようなもの」とか、「曖昧さは日本の特性だ」とか、
そのようなことは、私はどこにも書いていないし、私の書込みに
そのような主張が含まれているとはまったく考えていませんが。
それは、私の書込みとは無関係に、どこかから仕入れた先入観を
披露しているだけでしょう。
- 817 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:01.85 0.net
- >>816
ん? ようなものって言っていませんでしたか?
- 818 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:55.73 0.net
- >>817
「どのようであるか」でしたね。
- 819 :時計 :2022/01/21(金) 19:32:02.68 0.net
- >>806
>結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
>記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
>いると見なす偏見が強く働いているのである。
これとかですね。
- 820 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:02.95 0.net
- >>819
西洋哲学は「確定的」だとかも言っていますね。
- 821 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:50.05 0.net
- >>807
>「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
>「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
>ことの方が尊ばれるのだ。
これもそうですね。
- 822 :時計 :2022/01/21(金) 19:40:09.22 0.net
- 典型的な、曖昧主義者に見えました。:)
- 823 :時計 :2022/01/21(金) 19:41:05.57 0.net
- >>822
まあ、先入観で決め付けていた側面はありますね。
- 824 :時計 :2022/01/21(金) 19:46:51.09 0.net
- >>823
便所の壁の落書きと思っている限り、適当に返信します。:)
人違いだったら、御免。
- 825 :時計 :2022/01/21(金) 20:05:37.80 0.net
- >>824
適当に返信するかも適当で。:)
- 826 :時計 :2022/01/21(金) 20:22:32.48 0.net
- 正直なところ、落書きは止めて欲しいです。
- 827 :時計 :2022/01/21(金) 20:23:19.80 0.net
- >>826
稀にであればいいのですが……
- 828 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 20:26:47.45 0.net
- 波平ジエンスレ?
- 829 :時計 :2022/01/21(金) 20:33:51.66 0.net
- >>828
多分違うよ。:)
- 830 :時計 :2022/01/21(金) 20:51:57.00 0.net
- >>828
身づ柄さんかな。
- 831 :時計 :2022/01/21(金) 20:53:57.15 0.net
- 布団の中でスマホで見ています。:)
- 832 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:10.57 0.net
- ネトフリ見てくる
- 833 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:49.49 0.net
- >>829
了解👌
- 834 :時計 :2022/01/22(土) 00:30:01.31 0.net
- >>833
39秒て……
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