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意識のハードプロブレムの答え15
- 1 :時計 :2021/12/20(月) 04:11:34.94 0.net
- 1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。
意識のハードプロブレムの答え14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637997170/
- 763 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 10:23:09.69 0.net
- 人々の集団を指す名称の場合でも、他称は蔑称であり、集団はそちらの蔑称の
方で一般に知られることになるものの、その集団内の人々は、自分たちを
単に「人々」を表すに過ぎないような名称で指し示すような事例がよく見られます。
- 764 :時計 :2022/01/18(火) 10:31:44.58 0.net
- >>761
言語は詩的に美しいのであれば、それに越したことはありませんが、
現実として、各語は緩く繋がっている、そういうイメージです。
>>763
「ドイツ」も「ローマ的でない人々」が語源だとウェブにありました。
- 765 :時計 :2022/01/18(火) 10:38:14.30 0.net
- >>764
編みと網とかね。
- 766 :考える名無しさん:2022/01/18(火) 13:04:19.53 0.net
- >>755
この原理原則を無視して、国民としてどのようにすることが清く正しいのか
などということを論じても、自己欺瞞にしかならない。
- 767 :時計 :2022/01/18(火) 15:20:40.98 0.net
- >>762
正:原イメージ
語:現イメージ
- 768 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:27:27.49 0.net
- >>704
私はよく考えてみると吉本隆明がどのような意味合い(文脈)で「共同幻想」
という言葉を使っているのかを知りません。
私はとにかくアバウトです。
「共同幻想」という言葉を使ったのは(「仮想現実」もですけど)
誤解を生んだよようなのでちょっと後悔しています。
私は『共同幻想論』はとにかく今よりもはるかに頭が悪い頃に読んだので
理解もできていなかったし記憶にもほとんど残っていません。
私に関心があったのは「共同幻想」なるものの成立が
どのようなプロセスなりメカニズムなりを持っているのかであったのに対し
その本の内容は「あれも共同幻想、これも共同幻想」というかんじだったので
退屈をした記憶があります。
私が聞きかじった話では、吉本がウケたのは学生運動とのかかわりで、
「唯物史観も共同幻想」と言ったのがハマったとか(実態は未確認です)、
つまり今読む価値があるのかどうかはよくわかりません。
私としてはあの時代のものであれば柄谷行人の『日本近代文学の起源』の方が
意識のハードプロブレムにはうっすらながら関わる気がします。
私には「意識がどのようにして成長するのか」を分析しているように思えます。
ただ、私は折りに触れ読み返しますが、
じつは未だにいまいちピンときていません。
- 769 :でこすけ:2022/01/18(火) 19:56:36.02 0.net
- >>768
『日本近代文学の起源』に関連して、
たとえばその本に「内面の発見」というテーマがあります。
私はサルにも目がついているのであれば彼らにも何らかの映像が見えている、
つまり何らかの主観というか精神というかが内在すると推測するわけですが、
しかし彼らには自分に意識的なものがあることを自覚する能力までは
あるような気がしません。
少なくともトカゲなりサカナなりまでにさかのぼれば間違いないはずです。
しかし私たちに自分には意識があることを自覚できるとき
それは人間まで進化してきた過程のどこかの時点でそれが発見された
ということだと考えます。
それはたとえばクオリアも同様のはずです。
これはたとえば原始的な生物が熱を嫌がって逃げようとするとき、
その時点で「熱」が発見されているということだと考えます。
ではどのようにして発見されたのか、
これには前スレ947の「球の内部の何か」的なものが関わるのだろう
と思われます。
- 770 :時計 :2022/01/19(水) 03:02:38.19 0.net
- >>768-769
確かに、あれもこれも共同幻想ですよね……
『共同幻想論』、読んでみようかな。
『日本近代文学の起源』も面白そうですね。
前スレ947はもしかしてでこすけさんでしたか。
- 771 :でこすけ:2022/01/19(水) 07:49:03.75 0.net
- 私には「意識」というのは、混沌としたものとして誕生し、
やがてその中に秩序が生じるもののように思えます。
始めから無条件に秩序があったわけではない気がするのです。
たとえば昔の日本人は「グリーン」と「ブルー」とを「あお」として、
私にとって「紺」と「水色」とが同じ「青」に感じるようにして、
同じカテゴリーに含めていました。
つまり私たちはそれ等を区別できるようになったということです
(やがて「紺」と「水色」ともまったく違う色に感じるように
なるのかもしれません)。
一方では昔の日本人は「お」の発音と「を」の発音とを区別していたようですが
私たちがそれらを区別しなくなったのは単なる単純化ではなく、
むしろ同じ音を文脈によって区別することができるようになった
という複雑化のような気がします。
私にはそういったことは意識の成長のように感じられるわけです。
また私にも自分が生まれたころの記憶はないわけですけど
これは意識が無かったわけではなく、
単に記憶力が無かったということのような気がしています。
そこで久々の意識のハードプロブレムです。
記憶力はいわゆる「脳」の成長に由来するのでしょうか、
それとも意識の内部で、たとえば連想記憶術のような「脳」とは関係無さそうな
(たとえば「西暦794年平安京遷都」は数字が曖昧になりそうですけど
「鳴くよウグイス平安京」はしっかり覚えられる気がします
このような覚え方は「脳」とは関係ない気がするのです)
つまり意識の中だけで完結できるものなのでしょうか、
この問題はそもそも「脳」とは何なのかという問題を解決する必要にせまられ
ますけど(私は「脳」とは何らかの精神現象のネットワークだと考えるので)
いずれにしても微妙な問題のように思えます。
- 772 :時計 :2022/01/19(水) 08:29:45.35 0.net
- 私も意識のハードプロブレムに対して一言。
私は意識のハードプロブレムは、私の脳と私の意識の関係は何か
ということだと考えています。
私の脳であって、他者の脳ではないところは、主観主義のポイントです。
現時点での私の答えは、私の脳を含む私の客体は、
私の主観的意識の精緻な表現だということです。
- 773 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:28:10.24 0.net
- ゆく年くる年、
「ゆく」(»losgehenden«)年を送り、「くる」(»kommenden«)を迎えると、
1月/»Januar«になる。ヤーヌス/《Iānus》は、「双方向(⇔)」神であり、
語源的には" Proto-Indo-European *yeh₂- (“to go, go in, travel”)"に
由来するものと想定されている。その一方で、英語の"-ject"が由来する
とされるラテン語の《iacere》("to throw")も、語源的には、
"Proto-Indo-European yeh₁-, Hyeh₁- (“to throw, let go”)"が想定され、
想定される発音からは、事実上、区別がつかない。これに対して、
同じくラテン語の《iaceo》は、>Stative counterpart of iaciō (“to throw”). The meaning must have
shifted from “I am thrown down” to “I lie”.<
と解釈されており、想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と
比較すると、印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、何に由(ゆ)来する
と考えるのが妥当だろうか。
- 774 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 09:35:40.05 0.net
- "yeh₁- (“to throw, let go”)"と「や(八)」を比較すると、「八」の末広がりが
"yeh₁-"の"h"に対応しているようなイメージが浮かぶ。
- 775 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:24:14.99 0.net
- フェルスター、『哲学の25年』を読んでいると、多くの哲学者がそれぞれの
哲学的な論述の違いを超えて、スピノザ回帰に向かっているような印象を
受ける。だが、これは、結局のところ、キリスト教が前提とする一神教
の神学を「理知的」に批判して、そこから距離をとろうとしながら哲学
の言説を展開し、なお一神教の哲学とその批判としての理知的な言説の
行き詰まりの両方を乗り越えようとすることによって導かれる「お決まり」
とも言えるような道筋なのではないか。キリスト教の神学と、それとの
かかわりにおいて哲学そのものをも批判したニーチェが、これらの
いずれの言説にも覆われない古代ギリシアを重視して、スピノザ回帰
には我関せずという姿勢を示していることは、他の近現代の哲学者との
対比において注目に値するだろう。
- 776 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:25:52.64 0.net
- 誤:なお一神教の哲学とその批判
正:なお一神教の神学とその批判
- 777 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 10:56:29.33 0.net
- 誤:「くる」(»kommenden«)を迎えると
正:「くる」(»kommenden«)年を迎えると
- 778 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:21:15.59 0.net
- 『哲学の25年』におけるフェルスターによる、カントをはじめとする
様々な哲学者の論述の説明も、それぞれが理念に基づいて構築されて
いるかのような装いで展開されているが、実際のところ、その展開
を導いているのは、表立っては示されない日常言語的な表現による
物事の理解であるように見える。理念に基づいて最終的にどのような
哲学的な言説を構築してみせたところで、最終的に、そこで用いられて
いる理念と日常言語表現の対応関係が不明なら、その哲学的な言説
は誰にも理解可能なものとはならないだろう。なおかつ、明示される
理念に基づく哲学的な言説の構築が、陰で日常言語表現に導かれて
いるとするなら、明示される理念の方が日常言語表現において暗黙
に伝へられる「心(こころ)」より一般性が高いとは言えないはず
だろう。
- 779 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:32:36.27 0.net
- >想定されるこれらの発音と解釈を日本語の「や」の用法と比較すると、
印欧祖語の「yeh」と日本語の「や」は、ほぼ完全に同じものではない
かと思えてくる。さて、この互いに区別しがたいほどの類似性は、
何に由(ゆ)来すると考えるのが妥当だろうか。<
ニーチェの言説がとても具体的でありながら、一般性を感じさせるのは、
ニーチェの表現が、このようなレベルでの類似性を徹底的に活用しようと
しているからである。逆に言えば、ニーチェが自らの表現において活用しよう
として、それに導かれているようなレベルの類似性を無視するなら、
ニーチェが何を言おうとしているのか極めて分かりにくくなり、ニーチェの
言説を何らかの固定された「思想」に沿って解釈しようとする誤りに陥る。
- 780 :考える名無しさん:2022/01/19(水) 11:36:53.26 0.net
- 日常言語表現において哲学をしようとするとは、そういうことだ。
- 781 :時計 :2022/01/19(水) 12:46:35.83 0.net
- >>771
紺と水色、全然違わないですか?:)
- 782 :時計 :2022/01/20(木) 08:20:40.69 0.net
- >>781
私は色の差異は名前以前的な問題だと思います。
赤色と朱色は近いですが、赤色と青色は遠いです。
- 783 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 10:08:03.34 0.net
- >>773-774
@世代を超えて言語において用いられる発音の相互関係が体系的に
継承されることが、言語系統論として扱われる。その一方で、
A発話における発音は、表現としてつねに自らの身体性において
どのようにかイメージを想起させるものとして、イメージに
関連づけられて用いられることになり、発音の体系的にも
影響を及ぼして変化を促しつづける。Bその結果、互いに系統
が異なるとされる言語の間で類似した発音が類似した作用の
様態を表現するように用いられることは、それが歴史的な
接触による相互作用によるものか、発音が想起させる身体的な
イメージの共通性によるものか明確に判別することは極めて
困難になるだろう。C言語学は、@の事実を重視するが、
Aの働きについては、言語学は、結果としての発音の歴史的な
変化としては扱うが、言葉で表現することに絶えず働いている
機能として重視して、研究対象とすることはなかった。
Dその結果、互いに異なるとされる言語の間で類似した発音が
類似した作用の様態を表現するのに用いられることがしばしば
観察されるという現象ついて、言語学は、それを「擬音語/
擬態語」と見なして、単なる「偶然の合致」として、あたかも
それが単なる場当たり的な語呂合わせであるかのようにその
類似性を学問的に軽視するように促すこととなっている。
- 784 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:09:00.83 0.net
- 私は「“意識があるもの”はどこまで分解できるのか」という疑問をもっていますが
この疑問はわかりにくい気もするので勝手に解説させていただきます。
これは「どこまで観測できるのか」という問いでもあります。
たとえば唯心論者の私でも普通には腹話術の人形に意識があるとは思いません。
しかし腹話術師の方には普通に意識がある気がしています。
ここで腹話術師を見ているということは「“意識があるもの”を観測している」
ということだと考えることにします。
次に、腹話術師のへその上と下とでどちら側に意識があるのか、
首から上と下とでどちら側に意識があるのか、
脳と脳以外とでどちら側に意識があるのか、
そうやってどんどん分割して行ったとき最後はどうなっちゃうのかという問題です。
何かこれ以上分解できない1個の素粒子に到達するのか、
あるいは何処かの段階でどちらでもないという状態になってしまうのか、
この問題は私個人どころか科学的にも検証はできない気がするので
言いたい放題な気がするわけです。
- 785 :でこすけ:2022/01/20(木) 10:12:30.29 0.net
- >>784
この問題では私は1個の素粒子派です。
これは意識は観測上は素粒子として現れるのではないかという勝手な推測ですが、
しかし一方の「どちらでもない」ということはあり得ない気がするのです。
そのようにしてどんどん分割して行って遂に「いくつかの素粒子のグループ」
に到達したとき(実際には膨大かもしれませんが)、
それ以上の分割ができないとなると、そのグループと意識とはどのようにして
相互作用をしているのか、はなはだハードなプロブレムのように感じられます。
さりとてじつは1個の素粒子派もあまり状況はかわりません。
その素粒子をカチ割るか何かしても、その意識の中身が出てくる気がしないのです。
これがハードプロブレムといわれたる所以なのでしょう。
とりあえず私としては、7つのドラゴンボールが集まると神龍が現れるかの如く
いくつかの素粒子が集まると意識が起こるというのは無い気がします。
1個の素粒子に1つの精神(原意識)が対応しているという方が、
もちろん実際がどうかはわかりませんけど、
とにかくその方がわかりやすいように思えます。
グループ派は「相互作用の謎」と「発生の謎」とのふたつの問題を抱えてしまう
ということでしょうか、
ちなみに私は「仮想現実」という言葉を使ってきましたが
それではそれを体験している私たちの正体とはどのようなものなのか、
これは外見のことですけど、私はそれは「水槽脳」のようなものではなく
少なくとも五感では認識できないものだと考えます。
何らかの計測機には反応するだろうとは思いますけど
実際にそのような機器をつくるのは困難な気もします。
にしてもちょっとモダンホラーでしょうか、SFかもしれません。
- 786 :でこすけ:2022/01/20(木) 11:16:56.20 0.net
- >740
私は知能が高い人というのは数千年前からいたと思うのです。
私の見立てでは(つまりアテにはなりませんけど)
人類が東アジアに到達している4万年前には既に
環境さえ整えば現代の最先端科学でさえ理解できる知能はあった気がします。
たとえば古代文明が精密な天体観測をしていたりするのは
全員ではないにしても、中にはそういう人もいたということだろうと思うのです。
ただ、知能というのはあくまでも記憶とか計算とかであって
つまり思考ではないと私は認識しています。
コンピューターでいえば計算速度とか記憶容量とかハードの性能のことであって
それだけのプログラムが無いものだと簡単な足し算すらできないわけです。
となると不完全なアプリケーションがインストールされているコンピューターは
どれほど性能が高くてもまともな結論は導けないということになります。
そこで人間の場合、思い込みがまともな思考の邪魔をすることがあるようです。
「地面が何も無いところに浮かんでいるわけはない」とか
「ヒトがサルから進化したものであるはずはない」とか、
にしても思い込みを払拭するのは知能指数の高さとは関係ない気もしたりします。
しかしやっぱり箸にも棒にもかからないタイプよりは有利な気もするので
この投稿がきっかけになればと思って遅レスしてみました。
重要なのはアルゴリズムという、陳腐なオチのような気もします。
- 787 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 11:25:36.37 0.net
- 因果の逆立ちといふw
- 788 :でこすけ:2022/01/20(木) 12:51:09.62 0.net
- >>782
昔の人は「緑」を「あお」と言っていたようですけど(じつは私も言います)、
一方では「藍色」「紺色」「群青色」とか細かいことも言っていますから
「緑」を識別できなかったわけではないと思います。
ただ、カテゴリーみたいなものがあって、たぶんざっくり「あか」と「あお」でしょう。
昔、私の叔父が黄色いミカンを「赤いやつ」と表現したことがあって
「暖色」と「寒色」というかんじだと思います。
昔の「青」は今の「青」とは微妙にニュアンスが違うのかもしれません。
ちなみに私のかんじだと色の基本的なカテゴリーは「赤」「黄」「緑」「青」
「紫」の5種類です。
「水色」なら「青」の一種のような気がしますが
「紫」は「青紫」であっても「青」ではない気がするのです。
ただし微妙なところもあります。「肌色」ならかろうじて「赤」な気がしますが
「茶色」は「赤」とは言いづらい気がします。
「黄土色」も「黄色」とは言い切れない気がします。
私にはいわゆる「オレンジ色」は「赤」だと感じます。
信号機にオレンジ色があれば「赤」として認識する気がします。
しかし場合によっては「注意」の意味のような気もします、微妙です。
私は『ゴレンジャー』のモモレンジャーは色のチョイスに釈然としなくて
色分けするならムラサキレンジャーであるべきだと思っていました。
ましてミドリが抜けてクロになるのはあり得ません(せめてモモだろう)。
しかし今回の時計さんからの指摘を受けて、私の個人的な思い込みだったの
かもしれないと思っているところです。
いや、「カテゴリー」て何だろう?というおはなしのようです。
- 789 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:14:32.25 0.net
- >>783
誤:発音の体系的にも
正:発音の体系的な関係にも
- 790 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 13:21:32.14 0.net
- 633考える名無しさん2022/01/13(木) 10:15:00.890
[…]
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74
さらにここから、
>457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」<
という関係を導くこともできる。
>Verweile nicht, und sei dir selbst ein Traum,
Und wie du reisest, danke jedem Raum,
Bequeme dich dem Heißen wie dem Kalten;
Dir wird die Welt, du wirst ihr nie veralten.
— Johann Wolfgang Goethe
- 791 :時計 :2022/01/20(木) 15:12:35.69 0.net
- 人々の畜群化は人間の闘争心の現れである。
- 792 :時計 :2022/01/20(木) 15:18:46.43 0.net
- >>788
青のことを「みどり」と言っていたという話も聞いたことはあります。
翠や碧など、様々な綴り方はありますよね。
シロレンジャーとかいないですよね。何故でしょうか。
月光仮面は白いですが。:)
- 793 :時計 :2022/01/20(木) 15:22:59.51 0.net
- >>784-785
私の答えは、実在的世界の全てです。
全ては一つだと考えます。
その中でも脳神経系は注目に値すると思います。
それゆえの意識のハードプロブレムだと思います。
- 794 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 15:23:09.85 0.net
- みどり/身獲り
嬰(みどり)児(ご)
- 795 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 22:36:15.47 0.net
- 西洋哲学の伝統には、言説を哲学として成立させるには、「かむ・か(交)へ/
考へ」を名詞化された概念によって明確に表現して伝へなければならない
という根強い偏見がある。みづから(身づ柄/自ら)の哲学的言説によって
表明する「かむ・か(交)へ/考へ」がその偏見を徹底して批判しようとする
ニーチェやハイデガーの場合においてさえ、その規範に沿った言語使用の
実践そのものが、明示的に表明している本人の批判的な意図を裏切って
しまうのである。このことは、ニーチェやハイデガーさえ、その哲学の最も
中心となる「かむ・か(交)へ/考へ方」を名詞化された概念として提示し、
まさにそれらが名詞化されることによって、どれほどそれらの
「かむ・か(交)へ/考へ方」が伝はりにくく、誤解を生じやすいものと
なっているかを見れば分かるはずである。例えば、「力への意志」と
「できることを」では、既に示したとおり、表現上の連鎖においても、
その操作性についても雲泥の差がある。「道具的存在」と「手頃に在る様」
でも、その分かりやすいさや応用性において、比べ物にならないほどの
違いが生じる。しかし、西洋哲学の言説においては、優先されるのは
常に名詞化された概念の方なのであり、そのこと自体が、
「かむ・か(交)へ/考へ」をまずなによりも「目の前にある」/
»vorhanden sein«様態で提示することになり、ハイデガー本人が
いくら言葉を尽くして「手頃にある」/»zuhanden sein«様態の
本来性を説いたところで、みづから(身づ柄/自ら)の言語使用の実践
における「表現形式」がそれを裏切ってしまうのだから、皮肉と
言う他ないだろう。
- 796 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 23:20:02.04 0.net
- これに対して、日本語の場合、表現を名詞化された概念として提示することは、
伝へようとする「かむ・か(交)へ/考へ」を直接的に明確に示そうとする行為
とはならず、借り物(漢語やカタカナ語など)か、あるいは仮の表象(イメージの
想起と強く結びついた音節の組合せによる和語)をその様態において活用して
いることになるだろう。このことは、西洋哲学の伝統に沿ふことが哲学を
成立させる絶対的な要件であると考えるなら、日本語は哲学をするのには
著しく不利な言語であるという判断を導くことになる。ところが、ニーチェ
やハイデガーの哲学の企図に照らすなら、日本語は、より高い一般性の
レベルで「かむ・か(交)へ/考へ」を巡らせるのに、西洋の主要な言語より
もむしろはるかに有利であるとさえ言えるだろう。
- 797 :でこすけ:2022/01/20(木) 23:51:35.54 0.net
- 私は駿河さんがときどき取り上げる「日本語は哲学に適しているのか否か」
という問題に対し、そもそも「哲学」というのが幻想という立場ですけど、
そうは言っても「言葉」について考えると、私はそれはどこか「DNA」
とイメージが重なります。
それはどういう意味においてかというと、
以前は「DNA」は生物の設計図みたいに推測されていたわけですが、
実際に調べてみるとそうでもなかった、むしろ意味の無い情報が多いように
思われる、しかしその情報が遺伝に関わるのは間違いなく、
おそらく光ディスクにプリントされている情報のような単体では意味の無い、
つまり再生装置とセットで初めて意味をもつものであろうと、
そして「DNA」もまたそれをコントロールするシステムとセットで初めて意味を
もつもの、というのはじつは当てずっぽうな推測に過ぎないものですけど、
「言葉」もまたある意味では一般にその用途とされる「伝達」や「表現」とは
本質的には関係ないもののような気がする、というお話です。
たぶんどこかで誰かが言っている、のみならずけっこう知る人ぞ知る的なもの
のような気もしますけど私個人は>>795から触発されたはなしです。(つづく)
- 798 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:00:32.00 0.net
- >>797
たとえば私(でこすけ)は、日常では状況に応じて「私」「僕」「俺」を
使い分けています。のみならず相応のキャラを演じます。
しかしどれも私(でこすけ)にはちょっと違う感があって
かと言って他をあたっても自分のキャラにいい感じにハマる一人称は日本語には
無い気がします。
日本語には一人称がたくさんありますが、
それはご先祖さまが自分にしっくりくるものを探し求めた結果のように思えます。
私がとりあえず妥協して「私」とか言うとき
それは私(でこすけ)のキャラを言い表している「表現」ではなく
どちらかといえば私のキャラをつくる「鋳型」のような気がするわけです。
本当かどうかは私はアホなので知りませんけど
たとえば英語では一律「I」になるようです。
彼らは自分を「I」だと思っているのだろうか、不満は無いのだろうか、
とも思ったりするわけですけど、根本的に感覚が違うという説を聞いたことがあります。
彼らにとってはそれは「表現」ではなく、「形式」というか「手続き」というか
つまりどうでもいいことだというのです。
日本人は自分を持っていないと言ったりしますが、
けっこう自分に対して関心は持っている気がしたりするわけです。
にしても何故彼らがそれを「手続き」にしてしまったのか、私にはナゾです。
あるいは私の職場のおばちゃん同士の会話を聞いていると
ときどき会話が噛み合っていないことがあります。
ていうか自分が言いたいことを言っているだけの様子です。
しかしそれでいて当事者たちは妙に楽しげに盛り上がっていたりします。
人間が言葉を話すその本質は「伝達」などの背後にあるもの
のような気がしてくるわけです。
- 799 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:40:58.91 0.net
- 以前、日本人でまともな形而上学者と言えるのは大森荘蔵と廣松渉だけだという
話を聞いたことがありました。
日本人はたくさん文章を書き残した民族のみならず最先端の学問を学べるのは
英語とフランス語と日本語との三つだけらしいのですが、
その分野では大きく遅れをとっているというのです。
私は漠然とそれはたぶん日本人にとって形而上なんてどうでもいいことだから
ではないかと思っていたのですが、
しかし昨今書店に行ってみると日本人によるそのような本がけっこう置いてある
印象があります。
なぜだかちょっと戸惑ったりします(私の希少価値が無くなる)。
しかし私にはそれは大森荘蔵と廣松渉云々と言った人が見誤ったのではなく、
以前と状況が変わったのではないかという気がしています。
みんながそういうことに関心を持ち始めたということだと思うのです。
(ただし以下の考察は例によって当てずっぽうなはなしです)
確かネット上に流通しているすべての言語の中で日本語の量的な比率は
日本の人口からすれば不自然に多めだった気がしました
(ネット上というよりも特定のプラットフォームだったかもしれません)。
日本人は比較的文章を書くのが好きな民族だということです。
では一体何を書いてきたのか、ここで当てずっぽうな空想になるわけですけど、
たぶん何らかの「記録」ではないかという気がします。
ざっくり「日記」とか「ルポルタージュ」とか、そういう系統です。
つまり日本人はたぶん日常に関心をもってきたのではないかと思うのです。
それに対し一般的に言って形而上学は明後日の方向に関心を寄せる学問ですけど、
それではこの方向転換の背景には一体何があるのか、
私は明言できませんけど、あまりいいことではない気がするという締めくくりです。
- 800 :でこすけ:2022/01/21(金) 02:40:54.71 0.net
- >>792
せっかくなので「みどり」の語源をググったら
もともとは「新芽」や「若枝」のこととありました。
つまり「みどり」は色のことではなく
言葉のつくりとしては「藤色」とか「鴇色」とかの
系統のようです。
それを思えば確かに「身獲り」はどこか通じる気もします。
「青」を「みどり」と言っていたことがあったのだとすれば
語源を忘れてからのことではないかという気がします。
あるいは知らなかったのは私だけでしょうか。
>>793
私はたぶん鏡を使って自分の顔を見るようにして
何らかの科学技術を駆使して私の脳の中の私の意識の本体を検出できるのだろう
と
- 801 :時計 :2022/01/21(金) 03:26:41.94 0.net
- >>800
あおはあおを中心としてみどりを含むもの、
みどりはみどりを中心としてあおを含むものだったのかなと思います。
既に脳の視覚情報をデコードする研究はあるみたいですね。
まだまだ不鮮明のようですが。
- 802 :でこすけ:2022/01/21(金) 07:48:13.74 0.net
- >>793
私は私の意識は認識上では脳の中に検出されるだろうと推測しますが
意識が実際に存在するのは認識している世界の中では無いと考えます。
意識は三次元空間(物質宇宙)の中には無いということです。
たとえば私は幽体離脱という現象は実際にあり得ると信じていますけど、
これは味を本当は脳で感じていながら舌で感じているような感覚を持つことの
応用のような気がします。
幽体離脱は視覚を感じるのが身体の外側でありながら
脳以外に視点を置くということでは目で見ているかんじがあるのと同じことだ
ということです。
>>772
>脳を含む私の客体は、私の主観的意識の精緻な表現
私はこれについては全く同意なんですが、私としてはその構造に興味があります。
また、それを示さなくては意識のハードプロブレムに答えを出せたことには
ならない気がします。
この構造は「リンゴ」という一個の仮象に「色」「香り」「感触」「味」
などを重ね合わせる仕組みに通じると思います。
- 803 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:50:04.01 0.net
- あお(青)ずむ
- 804 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:56:39.03 0.net
- くろ(黒)ずむ、あお(青)ずむとは言うが、あか(赤)らむ、あか(赤)む、
き(黄)ばむとは言っても、あか(赤)ずむとかき(黄)ずむとは言わない。
- 805 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 09:20:08.65 0.net
- 想念の名詞化の提示として»Wille zur Macht«という表現と
「いき(息)のを(緒)」という表現の対比を考えてみるといい。
前者の表現の提示が促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひ
だろう。それに対して後者の表現の提示が促すのは「『いき(息)のを(緒)』
とはどのようなことか」という問ひである。
「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに応えるものとして一般に
広まった解釈が「»Wille zur Macht«とは『権力への意志』である」
というものであり、すると、「権力への意志」が「ニーチェの哲学を
規定する根本的な思想」であると理解されることになる。しかし、
そのように導かれる理解は、パロディと言ってもいいほどの(この場合、
ニーチェが好んで用いるパロディの作用を逆転してしまう)倒錯ではない
だろうか。
哲学することを促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに
応えようとすることよりもむしろ、「『いき(息)のを(緒)』とはどのよう
なことか」という問ひに忠実に適切に応えるような記述を試みることの
方であり、実際、そのような試みをつづけることの方が、ニーチェが
»Wille zur Macht«によって表現しようとしている考へにはるかに
よく沿った理解に導かれることになるだろうと私は思う。
- 806 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:18:20.58 0.net
- 結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
いると見なす偏見が強く働いているのである。
- 807 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:31:17.72 0.net
- その一方で、日本語の表現においては、想念を名詞化して提示する場合
でさえ、「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
ことの方が尊ばれるのだ。逆に「〜が」という発話行為による同一性
の確立は、「この○○が!」という表現がそのまま罵りとなる
ことからも分かるとおり(「が」は、「我(が)」をフランス語の
《même》に相当するように流用したものである)、適切に「評価」
/"appreciation"しようとする行為ではなく、「見限り」であり、
「見下し」/"depreciation"である。
- 808 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:52:09.78 0.net
- ここで、主題を提示するために用いられる「〜は」は、英語の
"as for 〜"や"what about 〜"に対応するような表現であり、
「〜が」とは異なり、同一性を確立しようとするものではない
ことに留意しよう。
- 809 :時計 :2022/01/21(金) 12:31:56.65 0.net
- >>802
私は主観主義者ですが、主客一致は正しそうに思っています。
幽体離脱に関する観点は面白いですね。
自由意志も重要な問題ですね。
>>805
私的には息の緒とは言いません。:)
>>807
それはどうでしょうか。
- 810 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 14:36:14.66 0.net
- どうであるかを示しているのに、
どうでしょうかと言われても、
どうどうめぐりですね
- 811 :時計 :2022/01/21(金) 15:50:49.26 0.net
- >>810
日本は、科学や数学や論理学において、
西洋に遅れを取っていただけではありませんか?
それを何か勘違いしているように思います。
- 812 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 16:16:58.73 0.net
- そのような単純な進歩主義は思想としては通用しても、
哲学としては通用しないでしょう。
- 813 :時計 :2022/01/21(金) 16:17:54.78 0.net
- >>811
私は、日本の文化は好きですよ。
しかし、曖昧さの美学のようなものは信じません。:)
- 814 :時計 :2022/01/21(金) 16:19:35.74 0.net
- >>812
うーん、西洋と比較したら、他のどこの国々も
曖昧さを大切にしているように見えそうです。
- 815 :時計 :2022/01/21(金) 16:23:30.51 0.net
- >>814
まあ、私は曖昧さは日本の特性だとは思わないということです。
- 816 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 17:15:50.88 0.net
- 「曖昧さの美学のようなもの」とか、「曖昧さは日本の特性だ」とか、
そのようなことは、私はどこにも書いていないし、私の書込みに
そのような主張が含まれているとはまったく考えていませんが。
それは、私の書込みとは無関係に、どこかから仕入れた先入観を
披露しているだけでしょう。
- 817 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:01.85 0.net
- >>816
ん? ようなものって言っていませんでしたか?
- 818 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:55.73 0.net
- >>817
「どのようであるか」でしたね。
- 819 :時計 :2022/01/21(金) 19:32:02.68 0.net
- >>806
>結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
>記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
>いると見なす偏見が強く働いているのである。
これとかですね。
- 820 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:02.95 0.net
- >>819
西洋哲学は「確定的」だとかも言っていますね。
- 821 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:50.05 0.net
- >>807
>「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
>「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
>ことの方が尊ばれるのだ。
これもそうですね。
- 822 :時計 :2022/01/21(金) 19:40:09.22 0.net
- 典型的な、曖昧主義者に見えました。:)
- 823 :時計 :2022/01/21(金) 19:41:05.57 0.net
- >>822
まあ、先入観で決め付けていた側面はありますね。
- 824 :時計 :2022/01/21(金) 19:46:51.09 0.net
- >>823
便所の壁の落書きと思っている限り、適当に返信します。:)
人違いだったら、御免。
- 825 :時計 :2022/01/21(金) 20:05:37.80 0.net
- >>824
適当に返信するかも適当で。:)
- 826 :時計 :2022/01/21(金) 20:22:32.48 0.net
- 正直なところ、落書きは止めて欲しいです。
- 827 :時計 :2022/01/21(金) 20:23:19.80 0.net
- >>826
稀にであればいいのですが……
- 828 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 20:26:47.45 0.net
- 波平ジエンスレ?
- 829 :時計 :2022/01/21(金) 20:33:51.66 0.net
- >>828
多分違うよ。:)
- 830 :時計 :2022/01/21(金) 20:51:57.00 0.net
- >>828
身づ柄さんかな。
- 831 :時計 :2022/01/21(金) 20:53:57.15 0.net
- 布団の中でスマホで見ています。:)
- 832 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:10.57 0.net
- ネトフリ見てくる
- 833 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:49.49 0.net
- >>829
了解👌
- 834 :時計 :2022/01/22(土) 00:30:01.31 0.net
- >>833
39秒て……
- 835 :時計 :2022/01/22(土) 00:36:24.74 0.net
- >>832
いいですね。私はもう1回寝るかな。
- 836 :時計 :2022/01/22(土) 04:20:09.33 0.net
- >>826
落書きというか、便所の壁だと思っての落書きですね。
- 837 :時計 :2022/01/22(土) 04:29:11.18 0.net
- >>832-833
身づ柄さんでしょうか。
少し眠い……
- 838 :時計 :2022/01/22(土) 04:32:42.58 0.net
- まあ、とりあえず、身づ柄さんは便所の壁の落書き発言を
取り消してください。でないと、表層的な対話しかできないです。
- 839 :時計 :2022/01/22(土) 08:02:34.55 0.net
- >>838
発言の取り消しというか態度の改めですね。
- 840 :でこすけ:2022/01/22(土) 09:07:40.53 0.net
- >>809
「幽体離脱」はおおいに誤解をまねきそうなので
ちょっと解説させていただきます。ややこしいです。
私が想定している「幽体離脱」は霊魂が体から抜けてそこら辺を歩き回るような
超常現象ではありません。私はオバケ的なものは信じません。
ただ、そのような体験をすることは実際にあり得て、
しかしその仕組みはある程度科学的に分析できるものであろうということです。
結論的に言うとたぶんある種の夢だと思うのですが、
つまり脳がつくったある種の幻覚だと思うのですが、
ただし夢が記憶をもとにつくられたものであるのに対して
幽体離脱はリアルタイムの感覚に基づいているものだと思います。
(ここはちょっとオカルトっぽくなります)
もともとヒトは動物の中では比較的感覚が鈍っている方のような印象があります。
肉食動物がかなり遠くから獲物を見つけたり、ナマズが予め地震を察知したり、
ヒトでも修行僧なんかが修行中に感覚が研ぎ澄まされて
周囲の状況にすごく敏感になることがあるようです。
このような感覚は私たちが完全に失ったものではなく、
おそらく表層意識にのぼらなくなっただけではないかというのが私の考えです。
幽体離脱が起こるには、霊魂的なものをあらかじめ知っておく必要があると思います。
たぶん幽体離脱はヒトにしか起こらない現象です。
無意識がそのような体験を作り出すのだと思います。
なお「幻肢」の仕組みもたぶんそれと同じだと思います。
じつは意識が有る脳ではなく、そこから離れた舌の上に味を感じるという現象も
それと同じ仕組みを持っている気がします。
ちなみに私はときどき耳の中が痒くなって耳かきでそこを掻こうとすると
そこに身が無かったりすることがあります。
- 841 :でこすけ:2022/01/22(土) 10:01:52.35 0.net
- >>840
ストラットン的に言って、そもそも「舌」はそこには無い
ということを付け加えさせていただきたく存じます。
- 842 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 10:19:39.63 0.net
- ただの夢遊病だろw
- 843 :する=なる:2022/01/22(土) 10:50:44.62 0.net
- >むしろ絶対者はただ結果としてのみ存在しうるのだ。
「理念の本性とは本質的に、自らを発展させ、発展によって自らを把握し、
そして理念がそうであるものになるということである」
(TW18:39/一巻五〇頁)[ヘーゲル]<
エッカート・フェルスター、『哲学の25年』、p.478
456考える名無しさん2022/01/05(水) 09:32:28.950
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を
出典万葉集 三一七
457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」
- 844 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 10:53:14.07 0.net
- 日本語は哲学には向かない、日本語で哲学をすることはできない
と主張する人々は、単に、日本語で反省する能力が自らに欠如している
ことを告白しているだけではないのか。
- 845 :時計 :2022/01/22(土) 10:54:13.88 0.net
- >>840
舌に関しては、脳神経系の範囲内だと私は思います。
魂の存在は、実は私は結構信じています。
しかしそれは、人間の身体の内側にあるとは限りませんし、
幽体離脱に関わるかどうかは解りません。
幽体離脱はあると思う方が愉しいですね。:)
- 846 :時計 :2022/01/22(土) 10:57:04.98 0.net
- >>843
相変わらず理由の解らないコピペですね。:)
>>844
誰もそんなこと言っていませんよ。
どこかから仕入れてきた先入観ではありませんか。
- 847 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:08:51.37 0.net
- 「この時計『が』!」というのは、「時計の分際で〜」という見限りですよね。
「時計」が「時計の分際」であることがどうして見下しとなり得るのでしょう。
ちなみに「〜が」の用法に見下しのニュアンスが伴うことは、私見による
特殊な主張ではなく、岩波古語辞典にも記載される一般的に通用している見解です。
- 848 :時計 :2022/01/22(土) 11:11:46.01 0.net
- >>847
紛らわしい例は止めてもらえますか? :)
- 849 :時計 :2022/01/22(土) 11:14:02.21 0.net
- >>848
全く身づ柄さんは…… :)
- 850 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:18:23.22 0.net
- https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0291370.pdf
>二一世紀の中国の地で、デリダがとある現代中国の知識人と対談していたとき、
デリダの何気ない一言によって、それまで穏やかに進んでいた対談の空気が
一変したのである。それは、「中国には哲学がなく、思想しかない」という
デリダの発言であった。<
- 851 :時計 :2022/01/22(土) 11:18:36.04 0.net
- >>849
最近、フッサールを読んでいますが、
他者は現象学的還元をしても、意識はない、
というアクロバティックな読み方をしています。:)
どこまでそれで読めるか実験です。
- 852 :時計 :2022/01/22(土) 11:19:31.17 0.net
- >>851
ああ、引用、間違えました。
引用なしで読んで下さい。
- 853 :時計 :2022/01/22(土) 11:21:08.04 0.net
- >>850
あんまり詳しくありませんが、老荘思想などは、
中国の哲学と言えるのかなと思っていました。
- 854 :時計 :2022/01/22(土) 11:23:35.67 0.net
- >>853
あんまり詳しくないなら立ち入らない方が良かったかもしれませんね。
言われる前に言っておこう。:)
- 855 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:24:26.66 0.net
- >全く身づ柄さんは…… :)
私は「考える名無しさん」ですが、その「全く○○は」という語法は、
「○○は完全に〜だ」と過不足なく言い換えることができ、つまり、
この場合、「全く○○は」とは、You are/○○ is "nothing other than 〜"
ということで、この場合も、発話遂行的な同一性の確立が非難として
用いられていることになりませんか?
- 856 :時計 :2022/01/22(土) 11:28:02.52 0.net
- >>855
名無しさんだと全体になってしまいますから、仕方がないのです。
私見では、「見限り」になるのは、
断定を避けたいという思いからだと思います。
- 857 :時計 :2022/01/22(土) 11:37:44.47 0.net
- >>856
ネガティブなワードは言うのも憚られるというか、
言霊的なというか。
- 858 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/22(土) 21:02:19.46 0.net
- コインの表裏はともかくとして、コインそのものは客観的実在なのか。
その客観性あるいは実在性を確認あるいは証明できるのだろうか。
客観性には他者が必要である。
とりあえず他者は先送りするw
この場合、実在性を自己だけで確認できるのかどうかということになる。
証明は他者との客観的検証が必要となるだろうが、そこはおいといて、
確認とは証明であるということにする。実在の証明。
表裏の可能性のために、そもそものコインの実在証明を自己だけで行う。
「わたし」がいなくても(みていなくても)、そのコインは「存在」するか。
- 859 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/22(土) 21:56:36.93 0.net
- きわめて難問なので、夢の中としてみる。
この場合、(夢の中の)コインは実在しない。
夢の中で、その(夢の中の)コインが実在しないことを証明できるだろうか。
夢の中の「わたし」が、夢であることに気づければ証明いらずだが、
あくまでも証明可能かどうかを考える。
- 860 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 22:12:14.23 0.net
- 『哲学の25年』を一応、最後まで読み終えた。
>>858みたいな言葉遣いで問題を考える人には役に立つんじゃないかな。
最後の章は、一応、著者の全体的な考え方が示されていてそれなりに参考になった
(私にはかなり「我田引水」の論述に感じられたが)。ヘーゲルの議論を説明した
その直前の章があまりにも退屈だったから、途中で読むのを止めようかと
思ったが、最後まで読んでよかった。まあでも、これを読んだからといって、
カント、シェリング、ヘーゲル、スピノザあたりの著作に自分でまともに
取り組もうという気にはならないが。フィヒテは、別枠というか、別の
意味で関心があるので、暇ができたらまた少しは読むだろうけど。
- 861 :時計 :2022/01/23(日) 02:00:45.57 0.net
- >>858-859
極めて難問だと思います。
私としては、0.99の可能性が夢であり得ることを考慮すると、
Xの可能性に転化するように思います。
実在は、常にその根底に揺さぶりの掛かるものだと考えます。
しかし一方で、これは夢ではないという感覚は
一応、信頼に足るようにも思います。
この感覚は何なのでしょうか。
- 862 :時計 :2022/01/23(日) 02:15:58.66 0.net
- >>861
Xの可能性は、これは夢ではないと判断すると、
0.99の可能性に回帰するけれども、
それは、そういう夢だと考えた途端、Xの可能性にまた戻る。
そういうものなのかなと思います。
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