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意識のハードプロブレムの答え15
- 1 :時計 :2021/12/20(月) 04:11:34.94 0.net
- 1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。
意識のハードプロブレムの答え14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637997170/
- 794 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 15:23:09.85 0.net
- みどり/身獲り
嬰(みどり)児(ご)
- 795 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 22:36:15.47 0.net
- 西洋哲学の伝統には、言説を哲学として成立させるには、「かむ・か(交)へ/
考へ」を名詞化された概念によって明確に表現して伝へなければならない
という根強い偏見がある。みづから(身づ柄/自ら)の哲学的言説によって
表明する「かむ・か(交)へ/考へ」がその偏見を徹底して批判しようとする
ニーチェやハイデガーの場合においてさえ、その規範に沿った言語使用の
実践そのものが、明示的に表明している本人の批判的な意図を裏切って
しまうのである。このことは、ニーチェやハイデガーさえ、その哲学の最も
中心となる「かむ・か(交)へ/考へ方」を名詞化された概念として提示し、
まさにそれらが名詞化されることによって、どれほどそれらの
「かむ・か(交)へ/考へ方」が伝はりにくく、誤解を生じやすいものと
なっているかを見れば分かるはずである。例えば、「力への意志」と
「できることを」では、既に示したとおり、表現上の連鎖においても、
その操作性についても雲泥の差がある。「道具的存在」と「手頃に在る様」
でも、その分かりやすいさや応用性において、比べ物にならないほどの
違いが生じる。しかし、西洋哲学の言説においては、優先されるのは
常に名詞化された概念の方なのであり、そのこと自体が、
「かむ・か(交)へ/考へ」をまずなによりも「目の前にある」/
»vorhanden sein«様態で提示することになり、ハイデガー本人が
いくら言葉を尽くして「手頃にある」/»zuhanden sein«様態の
本来性を説いたところで、みづから(身づ柄/自ら)の言語使用の実践
における「表現形式」がそれを裏切ってしまうのだから、皮肉と
言う他ないだろう。
- 796 :考える名無しさん:2022/01/20(木) 23:20:02.04 0.net
- これに対して、日本語の場合、表現を名詞化された概念として提示することは、
伝へようとする「かむ・か(交)へ/考へ」を直接的に明確に示そうとする行為
とはならず、借り物(漢語やカタカナ語など)か、あるいは仮の表象(イメージの
想起と強く結びついた音節の組合せによる和語)をその様態において活用して
いることになるだろう。このことは、西洋哲学の伝統に沿ふことが哲学を
成立させる絶対的な要件であると考えるなら、日本語は哲学をするのには
著しく不利な言語であるという判断を導くことになる。ところが、ニーチェ
やハイデガーの哲学の企図に照らすなら、日本語は、より高い一般性の
レベルで「かむ・か(交)へ/考へ」を巡らせるのに、西洋の主要な言語より
もむしろはるかに有利であるとさえ言えるだろう。
- 797 :でこすけ:2022/01/20(木) 23:51:35.54 0.net
- 私は駿河さんがときどき取り上げる「日本語は哲学に適しているのか否か」
という問題に対し、そもそも「哲学」というのが幻想という立場ですけど、
そうは言っても「言葉」について考えると、私はそれはどこか「DNA」
とイメージが重なります。
それはどういう意味においてかというと、
以前は「DNA」は生物の設計図みたいに推測されていたわけですが、
実際に調べてみるとそうでもなかった、むしろ意味の無い情報が多いように
思われる、しかしその情報が遺伝に関わるのは間違いなく、
おそらく光ディスクにプリントされている情報のような単体では意味の無い、
つまり再生装置とセットで初めて意味をもつものであろうと、
そして「DNA」もまたそれをコントロールするシステムとセットで初めて意味を
もつもの、というのはじつは当てずっぽうな推測に過ぎないものですけど、
「言葉」もまたある意味では一般にその用途とされる「伝達」や「表現」とは
本質的には関係ないもののような気がする、というお話です。
たぶんどこかで誰かが言っている、のみならずけっこう知る人ぞ知る的なもの
のような気もしますけど私個人は>>795から触発されたはなしです。(つづく)
- 798 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:00:32.00 0.net
- >>797
たとえば私(でこすけ)は、日常では状況に応じて「私」「僕」「俺」を
使い分けています。のみならず相応のキャラを演じます。
しかしどれも私(でこすけ)にはちょっと違う感があって
かと言って他をあたっても自分のキャラにいい感じにハマる一人称は日本語には
無い気がします。
日本語には一人称がたくさんありますが、
それはご先祖さまが自分にしっくりくるものを探し求めた結果のように思えます。
私がとりあえず妥協して「私」とか言うとき
それは私(でこすけ)のキャラを言い表している「表現」ではなく
どちらかといえば私のキャラをつくる「鋳型」のような気がするわけです。
本当かどうかは私はアホなので知りませんけど
たとえば英語では一律「I」になるようです。
彼らは自分を「I」だと思っているのだろうか、不満は無いのだろうか、
とも思ったりするわけですけど、根本的に感覚が違うという説を聞いたことがあります。
彼らにとってはそれは「表現」ではなく、「形式」というか「手続き」というか
つまりどうでもいいことだというのです。
日本人は自分を持っていないと言ったりしますが、
けっこう自分に対して関心は持っている気がしたりするわけです。
にしても何故彼らがそれを「手続き」にしてしまったのか、私にはナゾです。
あるいは私の職場のおばちゃん同士の会話を聞いていると
ときどき会話が噛み合っていないことがあります。
ていうか自分が言いたいことを言っているだけの様子です。
しかしそれでいて当事者たちは妙に楽しげに盛り上がっていたりします。
人間が言葉を話すその本質は「伝達」などの背後にあるもの
のような気がしてくるわけです。
- 799 :でこすけ:2022/01/21(金) 00:40:58.91 0.net
- 以前、日本人でまともな形而上学者と言えるのは大森荘蔵と廣松渉だけだという
話を聞いたことがありました。
日本人はたくさん文章を書き残した民族のみならず最先端の学問を学べるのは
英語とフランス語と日本語との三つだけらしいのですが、
その分野では大きく遅れをとっているというのです。
私は漠然とそれはたぶん日本人にとって形而上なんてどうでもいいことだから
ではないかと思っていたのですが、
しかし昨今書店に行ってみると日本人によるそのような本がけっこう置いてある
印象があります。
なぜだかちょっと戸惑ったりします(私の希少価値が無くなる)。
しかし私にはそれは大森荘蔵と廣松渉云々と言った人が見誤ったのではなく、
以前と状況が変わったのではないかという気がしています。
みんながそういうことに関心を持ち始めたということだと思うのです。
(ただし以下の考察は例によって当てずっぽうなはなしです)
確かネット上に流通しているすべての言語の中で日本語の量的な比率は
日本の人口からすれば不自然に多めだった気がしました
(ネット上というよりも特定のプラットフォームだったかもしれません)。
日本人は比較的文章を書くのが好きな民族だということです。
では一体何を書いてきたのか、ここで当てずっぽうな空想になるわけですけど、
たぶん何らかの「記録」ではないかという気がします。
ざっくり「日記」とか「ルポルタージュ」とか、そういう系統です。
つまり日本人はたぶん日常に関心をもってきたのではないかと思うのです。
それに対し一般的に言って形而上学は明後日の方向に関心を寄せる学問ですけど、
それではこの方向転換の背景には一体何があるのか、
私は明言できませんけど、あまりいいことではない気がするという締めくくりです。
- 800 :でこすけ:2022/01/21(金) 02:40:54.71 0.net
- >>792
せっかくなので「みどり」の語源をググったら
もともとは「新芽」や「若枝」のこととありました。
つまり「みどり」は色のことではなく
言葉のつくりとしては「藤色」とか「鴇色」とかの
系統のようです。
それを思えば確かに「身獲り」はどこか通じる気もします。
「青」を「みどり」と言っていたことがあったのだとすれば
語源を忘れてからのことではないかという気がします。
あるいは知らなかったのは私だけでしょうか。
>>793
私はたぶん鏡を使って自分の顔を見るようにして
何らかの科学技術を駆使して私の脳の中の私の意識の本体を検出できるのだろう
と
- 801 :時計 :2022/01/21(金) 03:26:41.94 0.net
- >>800
あおはあおを中心としてみどりを含むもの、
みどりはみどりを中心としてあおを含むものだったのかなと思います。
既に脳の視覚情報をデコードする研究はあるみたいですね。
まだまだ不鮮明のようですが。
- 802 :でこすけ:2022/01/21(金) 07:48:13.74 0.net
- >>793
私は私の意識は認識上では脳の中に検出されるだろうと推測しますが
意識が実際に存在するのは認識している世界の中では無いと考えます。
意識は三次元空間(物質宇宙)の中には無いということです。
たとえば私は幽体離脱という現象は実際にあり得ると信じていますけど、
これは味を本当は脳で感じていながら舌で感じているような感覚を持つことの
応用のような気がします。
幽体離脱は視覚を感じるのが身体の外側でありながら
脳以外に視点を置くということでは目で見ているかんじがあるのと同じことだ
ということです。
>>772
>脳を含む私の客体は、私の主観的意識の精緻な表現
私はこれについては全く同意なんですが、私としてはその構造に興味があります。
また、それを示さなくては意識のハードプロブレムに答えを出せたことには
ならない気がします。
この構造は「リンゴ」という一個の仮象に「色」「香り」「感触」「味」
などを重ね合わせる仕組みに通じると思います。
- 803 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:50:04.01 0.net
- あお(青)ずむ
- 804 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 07:56:39.03 0.net
- くろ(黒)ずむ、あお(青)ずむとは言うが、あか(赤)らむ、あか(赤)む、
き(黄)ばむとは言っても、あか(赤)ずむとかき(黄)ずむとは言わない。
- 805 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 09:20:08.65 0.net
- 想念の名詞化の提示として»Wille zur Macht«という表現と
「いき(息)のを(緒)」という表現の対比を考えてみるといい。
前者の表現の提示が促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひ
だろう。それに対して後者の表現の提示が促すのは「『いき(息)のを(緒)』
とはどのようなことか」という問ひである。
「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに応えるものとして一般に
広まった解釈が「»Wille zur Macht«とは『権力への意志』である」
というものであり、すると、「権力への意志」が「ニーチェの哲学を
規定する根本的な思想」であると理解されることになる。しかし、
そのように導かれる理解は、パロディと言ってもいいほどの(この場合、
ニーチェが好んで用いるパロディの作用を逆転してしまう)倒錯ではない
だろうか。
哲学することを促すのは、「»Wille zur Macht«とは何か」という問ひに
応えようとすることよりもむしろ、「『いき(息)のを(緒)』とはどのよう
なことか」という問ひに忠実に適切に応えるような記述を試みることの
方であり、実際、そのような試みをつづけることの方が、ニーチェが
»Wille zur Macht«によって表現しようとしている考へにはるかに
よく沿った理解に導かれることになるだろうと私は思う。
- 806 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:18:20.58 0.net
- 結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
いると見なす偏見が強く働いているのである。
- 807 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:31:17.72 0.net
- その一方で、日本語の表現においては、想念を名詞化して提示する場合
でさえ、「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
ことの方が尊ばれるのだ。逆に「〜が」という発話行為による同一性
の確立は、「この○○が!」という表現がそのまま罵りとなる
ことからも分かるとおり(「が」は、「我(が)」をフランス語の
《même》に相当するように流用したものである)、適切に「評価」
/"appreciation"しようとする行為ではなく、「見限り」であり、
「見下し」/"depreciation"である。
- 808 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 10:52:09.78 0.net
- ここで、主題を提示するために用いられる「〜は」は、英語の
"as for 〜"や"what about 〜"に対応するような表現であり、
「〜が」とは異なり、同一性を確立しようとするものではない
ことに留意しよう。
- 809 :時計 :2022/01/21(金) 12:31:56.65 0.net
- >>802
私は主観主義者ですが、主客一致は正しそうに思っています。
幽体離脱に関する観点は面白いですね。
自由意志も重要な問題ですね。
>>805
私的には息の緒とは言いません。:)
>>807
それはどうでしょうか。
- 810 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 14:36:14.66 0.net
- どうであるかを示しているのに、
どうでしょうかと言われても、
どうどうめぐりですね
- 811 :時計 :2022/01/21(金) 15:50:49.26 0.net
- >>810
日本は、科学や数学や論理学において、
西洋に遅れを取っていただけではありませんか?
それを何か勘違いしているように思います。
- 812 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 16:16:58.73 0.net
- そのような単純な進歩主義は思想としては通用しても、
哲学としては通用しないでしょう。
- 813 :時計 :2022/01/21(金) 16:17:54.78 0.net
- >>811
私は、日本の文化は好きですよ。
しかし、曖昧さの美学のようなものは信じません。:)
- 814 :時計 :2022/01/21(金) 16:19:35.74 0.net
- >>812
うーん、西洋と比較したら、他のどこの国々も
曖昧さを大切にしているように見えそうです。
- 815 :時計 :2022/01/21(金) 16:23:30.51 0.net
- >>814
まあ、私は曖昧さは日本の特性だとは思わないということです。
- 816 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 17:15:50.88 0.net
- 「曖昧さの美学のようなもの」とか、「曖昧さは日本の特性だ」とか、
そのようなことは、私はどこにも書いていないし、私の書込みに
そのような主張が含まれているとはまったく考えていませんが。
それは、私の書込みとは無関係に、どこかから仕入れた先入観を
披露しているだけでしょう。
- 817 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:01.85 0.net
- >>816
ん? ようなものって言っていませんでしたか?
- 818 :時計 :2022/01/21(金) 19:30:55.73 0.net
- >>817
「どのようであるか」でしたね。
- 819 :時計 :2022/01/21(金) 19:32:02.68 0.net
- >>806
>結局のところ、西洋哲学の伝統には、「どのようであるか」という
>記述は、「何であるか」という確定的な指し示しよりも知的に劣って
>いると見なす偏見が強く働いているのである。
これとかですね。
- 820 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:02.95 0.net
- >>819
西洋哲学は「確定的」だとかも言っていますね。
- 821 :時計 :2022/01/21(金) 19:33:50.05 0.net
- >>807
>「それが何であるか」を明確に指し示すことよりも、
>「それがどのようであるか」を忠実に適切に伝へることができる
>ことの方が尊ばれるのだ。
これもそうですね。
- 822 :時計 :2022/01/21(金) 19:40:09.22 0.net
- 典型的な、曖昧主義者に見えました。:)
- 823 :時計 :2022/01/21(金) 19:41:05.57 0.net
- >>822
まあ、先入観で決め付けていた側面はありますね。
- 824 :時計 :2022/01/21(金) 19:46:51.09 0.net
- >>823
便所の壁の落書きと思っている限り、適当に返信します。:)
人違いだったら、御免。
- 825 :時計 :2022/01/21(金) 20:05:37.80 0.net
- >>824
適当に返信するかも適当で。:)
- 826 :時計 :2022/01/21(金) 20:22:32.48 0.net
- 正直なところ、落書きは止めて欲しいです。
- 827 :時計 :2022/01/21(金) 20:23:19.80 0.net
- >>826
稀にであればいいのですが……
- 828 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 20:26:47.45 0.net
- 波平ジエンスレ?
- 829 :時計 :2022/01/21(金) 20:33:51.66 0.net
- >>828
多分違うよ。:)
- 830 :時計 :2022/01/21(金) 20:51:57.00 0.net
- >>828
身づ柄さんかな。
- 831 :時計 :2022/01/21(金) 20:53:57.15 0.net
- 布団の中でスマホで見ています。:)
- 832 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:10.57 0.net
- ネトフリ見てくる
- 833 :考える名無しさん:2022/01/21(金) 22:05:49.49 0.net
- >>829
了解👌
- 834 :時計 :2022/01/22(土) 00:30:01.31 0.net
- >>833
39秒て……
- 835 :時計 :2022/01/22(土) 00:36:24.74 0.net
- >>832
いいですね。私はもう1回寝るかな。
- 836 :時計 :2022/01/22(土) 04:20:09.33 0.net
- >>826
落書きというか、便所の壁だと思っての落書きですね。
- 837 :時計 :2022/01/22(土) 04:29:11.18 0.net
- >>832-833
身づ柄さんでしょうか。
少し眠い……
- 838 :時計 :2022/01/22(土) 04:32:42.58 0.net
- まあ、とりあえず、身づ柄さんは便所の壁の落書き発言を
取り消してください。でないと、表層的な対話しかできないです。
- 839 :時計 :2022/01/22(土) 08:02:34.55 0.net
- >>838
発言の取り消しというか態度の改めですね。
- 840 :でこすけ:2022/01/22(土) 09:07:40.53 0.net
- >>809
「幽体離脱」はおおいに誤解をまねきそうなので
ちょっと解説させていただきます。ややこしいです。
私が想定している「幽体離脱」は霊魂が体から抜けてそこら辺を歩き回るような
超常現象ではありません。私はオバケ的なものは信じません。
ただ、そのような体験をすることは実際にあり得て、
しかしその仕組みはある程度科学的に分析できるものであろうということです。
結論的に言うとたぶんある種の夢だと思うのですが、
つまり脳がつくったある種の幻覚だと思うのですが、
ただし夢が記憶をもとにつくられたものであるのに対して
幽体離脱はリアルタイムの感覚に基づいているものだと思います。
(ここはちょっとオカルトっぽくなります)
もともとヒトは動物の中では比較的感覚が鈍っている方のような印象があります。
肉食動物がかなり遠くから獲物を見つけたり、ナマズが予め地震を察知したり、
ヒトでも修行僧なんかが修行中に感覚が研ぎ澄まされて
周囲の状況にすごく敏感になることがあるようです。
このような感覚は私たちが完全に失ったものではなく、
おそらく表層意識にのぼらなくなっただけではないかというのが私の考えです。
幽体離脱が起こるには、霊魂的なものをあらかじめ知っておく必要があると思います。
たぶん幽体離脱はヒトにしか起こらない現象です。
無意識がそのような体験を作り出すのだと思います。
なお「幻肢」の仕組みもたぶんそれと同じだと思います。
じつは意識が有る脳ではなく、そこから離れた舌の上に味を感じるという現象も
それと同じ仕組みを持っている気がします。
ちなみに私はときどき耳の中が痒くなって耳かきでそこを掻こうとすると
そこに身が無かったりすることがあります。
- 841 :でこすけ:2022/01/22(土) 10:01:52.35 0.net
- >>840
ストラットン的に言って、そもそも「舌」はそこには無い
ということを付け加えさせていただきたく存じます。
- 842 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 10:19:39.63 0.net
- ただの夢遊病だろw
- 843 :する=なる:2022/01/22(土) 10:50:44.62 0.net
- >むしろ絶対者はただ結果としてのみ存在しうるのだ。
「理念の本性とは本質的に、自らを発展させ、発展によって自らを把握し、
そして理念がそうであるものになるということである」
(TW18:39/一巻五〇頁)[ヘーゲル]<
エッカート・フェルスター、『哲学の25年』、p.478
456考える名無しさん2022/01/05(水) 09:32:28.950
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を
出典万葉集 三一七
457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」
- 844 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 10:53:14.07 0.net
- 日本語は哲学には向かない、日本語で哲学をすることはできない
と主張する人々は、単に、日本語で反省する能力が自らに欠如している
ことを告白しているだけではないのか。
- 845 :時計 :2022/01/22(土) 10:54:13.88 0.net
- >>840
舌に関しては、脳神経系の範囲内だと私は思います。
魂の存在は、実は私は結構信じています。
しかしそれは、人間の身体の内側にあるとは限りませんし、
幽体離脱に関わるかどうかは解りません。
幽体離脱はあると思う方が愉しいですね。:)
- 846 :時計 :2022/01/22(土) 10:57:04.98 0.net
- >>843
相変わらず理由の解らないコピペですね。:)
>>844
誰もそんなこと言っていませんよ。
どこかから仕入れてきた先入観ではありませんか。
- 847 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:08:51.37 0.net
- 「この時計『が』!」というのは、「時計の分際で〜」という見限りですよね。
「時計」が「時計の分際」であることがどうして見下しとなり得るのでしょう。
ちなみに「〜が」の用法に見下しのニュアンスが伴うことは、私見による
特殊な主張ではなく、岩波古語辞典にも記載される一般的に通用している見解です。
- 848 :時計 :2022/01/22(土) 11:11:46.01 0.net
- >>847
紛らわしい例は止めてもらえますか? :)
- 849 :時計 :2022/01/22(土) 11:14:02.21 0.net
- >>848
全く身づ柄さんは…… :)
- 850 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:18:23.22 0.net
- https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0291370.pdf
>二一世紀の中国の地で、デリダがとある現代中国の知識人と対談していたとき、
デリダの何気ない一言によって、それまで穏やかに進んでいた対談の空気が
一変したのである。それは、「中国には哲学がなく、思想しかない」という
デリダの発言であった。<
- 851 :時計 :2022/01/22(土) 11:18:36.04 0.net
- >>849
最近、フッサールを読んでいますが、
他者は現象学的還元をしても、意識はない、
というアクロバティックな読み方をしています。:)
どこまでそれで読めるか実験です。
- 852 :時計 :2022/01/22(土) 11:19:31.17 0.net
- >>851
ああ、引用、間違えました。
引用なしで読んで下さい。
- 853 :時計 :2022/01/22(土) 11:21:08.04 0.net
- >>850
あんまり詳しくありませんが、老荘思想などは、
中国の哲学と言えるのかなと思っていました。
- 854 :時計 :2022/01/22(土) 11:23:35.67 0.net
- >>853
あんまり詳しくないなら立ち入らない方が良かったかもしれませんね。
言われる前に言っておこう。:)
- 855 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 11:24:26.66 0.net
- >全く身づ柄さんは…… :)
私は「考える名無しさん」ですが、その「全く○○は」という語法は、
「○○は完全に〜だ」と過不足なく言い換えることができ、つまり、
この場合、「全く○○は」とは、You are/○○ is "nothing other than 〜"
ということで、この場合も、発話遂行的な同一性の確立が非難として
用いられていることになりませんか?
- 856 :時計 :2022/01/22(土) 11:28:02.52 0.net
- >>855
名無しさんだと全体になってしまいますから、仕方がないのです。
私見では、「見限り」になるのは、
断定を避けたいという思いからだと思います。
- 857 :時計 :2022/01/22(土) 11:37:44.47 0.net
- >>856
ネガティブなワードは言うのも憚られるというか、
言霊的なというか。
- 858 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/22(土) 21:02:19.46 0.net
- コインの表裏はともかくとして、コインそのものは客観的実在なのか。
その客観性あるいは実在性を確認あるいは証明できるのだろうか。
客観性には他者が必要である。
とりあえず他者は先送りするw
この場合、実在性を自己だけで確認できるのかどうかということになる。
証明は他者との客観的検証が必要となるだろうが、そこはおいといて、
確認とは証明であるということにする。実在の証明。
表裏の可能性のために、そもそものコインの実在証明を自己だけで行う。
「わたし」がいなくても(みていなくても)、そのコインは「存在」するか。
- 859 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/22(土) 21:56:36.93 0.net
- きわめて難問なので、夢の中としてみる。
この場合、(夢の中の)コインは実在しない。
夢の中で、その(夢の中の)コインが実在しないことを証明できるだろうか。
夢の中の「わたし」が、夢であることに気づければ証明いらずだが、
あくまでも証明可能かどうかを考える。
- 860 :考える名無しさん:2022/01/22(土) 22:12:14.23 0.net
- 『哲学の25年』を一応、最後まで読み終えた。
>>858みたいな言葉遣いで問題を考える人には役に立つんじゃないかな。
最後の章は、一応、著者の全体的な考え方が示されていてそれなりに参考になった
(私にはかなり「我田引水」の論述に感じられたが)。ヘーゲルの議論を説明した
その直前の章があまりにも退屈だったから、途中で読むのを止めようかと
思ったが、最後まで読んでよかった。まあでも、これを読んだからといって、
カント、シェリング、ヘーゲル、スピノザあたりの著作に自分でまともに
取り組もうという気にはならないが。フィヒテは、別枠というか、別の
意味で関心があるので、暇ができたらまた少しは読むだろうけど。
- 861 :時計 :2022/01/23(日) 02:00:45.57 0.net
- >>858-859
極めて難問だと思います。
私としては、0.99の可能性が夢であり得ることを考慮すると、
Xの可能性に転化するように思います。
実在は、常にその根底に揺さぶりの掛かるものだと考えます。
しかし一方で、これは夢ではないという感覚は
一応、信頼に足るようにも思います。
この感覚は何なのでしょうか。
- 862 :時計 :2022/01/23(日) 02:15:58.66 0.net
- >>861
Xの可能性は、これは夢ではないと判断すると、
0.99の可能性に回帰するけれども、
それは、そういう夢だと考えた途端、Xの可能性にまた戻る。
そういうものなのかなと思います。
- 863 :時計 :2022/01/23(日) 02:17:27.53 0.net
- >>862
突き詰めると、私は日常では、これは夢ではないという直観を
信じているのに過ぎないのかなと思います。
- 864 :時計 :2022/01/23(日) 02:38:31.46 0.net
- >>863
連続性は現実の特徴かもしれません。
名無しさんは連続性はありませんね。:)
- 865 :時計 :2022/01/23(日) 03:11:04.48 0.net
- >>864
結構、考えましたが、やはりこれは夢ではないという
直観を信じるしかないかな。
- 866 :時計 :2022/01/23(日) 03:37:30.68 0.net
- >>865
現実の痕跡というものがあるかもしれない。
- 867 :時計 :2022/01/23(日) 05:55:43.27 0.net
- >>866
今、この机の上にある本は昨日も机の上にあった。
その本は去年ある本屋で購入した。
その本の著者はまた別の本を読んで知った。
そういうようなことは現実の痕跡になるかもしれない。
- 868 :時計 :2022/01/23(日) 05:56:41.99 0.net
- >>867
正:昨日もその机の上にあった
誤:昨日も机の上にあった
- 869 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 11:49:12.89 0.net
- 夢の中をVR(Virtual Reality)、主観的な現実をAR(Augmented Reality)またはMR(Mixed Reality)
とするなら、夢の中のコインは実在しない。
他者なしには確かさ/確からしさも得られない。
しかし、コインそのものも(人格は持っていないかもしれないが)他者である。
わからない/予想不能な部分があればよいのかもしれない。
では、夢の中のコインのすべてを知っているのかというと、そうでもない。
知っている情報だけで構成されているわけだが、知らない部分も知らない部分として知っているw
予測不能な部分も無意識が補ってくれている。
数学的には区別することが可能だとしても...(ちょっと思いついたので中断)
- 870 :考える名無しさん:2022/01/23(日) 11:59:25.59 0.net
- 現在は昔なのに存在するなんてないw
存在しただろw
- 871 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 12:09:25.85 0.net
- 昨夜の電脳コイルとか、いまみているBSフジの番組とか、
なぜかAR/MRに関する番組が続いている。
夢の中(VR)でのコインの実在性は無意識によるものである。
無意識が実在性をシミュレーションしてくれている。
現実における実在性も、主観的であるかぎり無意識による直観的なものである。
そういうわけで、主観的存在+無意識による「主観的実在」(≒直観)を提唱するw
- 872 :時計 :2022/01/23(日) 18:01:01.75 0.net
- 最近フッサールを読んでいたのだが、
よくこんなに考えたなと思う。
闘争的と言うか。
ニーチェは明らかにそうだけど。
これが西洋哲学の特徴なのかな。
何が彼らを駆り立てるのだろう。
日本人は徒然なるままにじゃないけど
適当だよね。
- 873 :時計 :2022/01/23(日) 18:06:04.71 0.net
- >>871
夢に関しては、哲学より脳科学の方が真理に接近しているかもしれませんね。
多分、回路が現実モードになって、視覚とかがはっきりして、
それが夢ではないという直観を生むんじゃないかなと思います。
- 874 :時計 :2022/01/23(日) 18:13:17.89 0.net
- >>873
そんな研究があるかどうかは知りません。適当です。:)
- 875 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 18:43:54.68 0.net
- 主観的実在とは、ようするに思弁的実在論的なものですね。
マルガブの新実在論という方向性もあります。
実在とは「公理」であり、体系内に持ってくると矛盾をもたらします。
公理的集合論かえみれば、あまり語られることのない、「集合の存在公理」に相当します。
- 876 :時計 :2022/01/23(日) 19:25:17.98 0.net
- >>875
マルクス・ガブリエルは2冊、図書館で予約しましたが、まだ貸出中です。
メイヤスーは去年読みましたが、面白かったです。
思弁的実在論は、確かに主観的実在論とは相性良さそうですね。
集合の存在公理ですか。考えたことともなかったです。
矛盾をもたらすというのはどういうことでしょうか。
- 877 :時計 :2022/01/23(日) 19:33:44.22 0.net
- >>876
要するに、実在は○より多いということかな。
- 878 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 23:00:48.07 0.net
- 主観という体系内で、実在を定義すると矛盾する。
タルスキの定義不可能性定理を援用します。
なんて小難しいことを語らなくても、
実在は主観からはなれて存在するというものですから、主観内で定義するのは無意味ですw
これは(主観からはなれた)「客観」すらも無意味だということになります。
主観という体系内で定義可能なのは主観的客観であり、
それゆえに主観的実在のみが実在として定義可能です。
主観を思弁とすれば、思弁的実在論そのものですね。
- 879 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/23(日) 23:06:07.92 0.net
- というわけで、コインの「実在」は「公理」です。
「公理」だからといって「絶対」だということではなく、
「公理」は常に更新(否定とは微妙に異なる)される可能性を持っています。
コインについて語るとき、コインの実在性は公理として語りの外側にあるわけです。
やっと、先送りしていたコインの実在性問題を回収できたと思います。
- 880 :考える名無しさん:2022/01/23(日) 23:45:37.49 0.net
- 時は止まらないのに今はないよなw
- 881 :時計 :2022/01/24(月) 03:37:12.97 0.net
- >>876
正:考えたことも
誤:考えたこととも
>>878
なるほど。私は実在は主観的実在だと考えていますから、
矛盾は回避できているのかな。
>>879
語りの外側にあるというと背理を感じますが……
- 882 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 08:11:04.19 0.net
- もう先きがなければ、今は極まる⇒今はの際
- 883 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 08:36:12.21 0.net
- それでも先はやってきてるぞハゲw
- 884 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 11:01:38.58 0.net
- おまえらの目の前のものと記憶の中のものは毎時違うからなw
- 885 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 11:15:06.92 0.net
- 意識しないと不都合が生じる違いだけが、その都度、意識されるんだよ。
- 886 :時計 :2022/01/24(月) 12:13:46.63 0.net
- >>884
まま、穏便に。
そういう主観なわけです。
- 887 :時計 :2022/01/24(月) 12:35:31.08 0.net
- >>885
スマホを見る意識に何か不都合はありますか?
- 888 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:23:10.32 0.net
- スマホ見ないと着信した連絡に気づかずに私生活でも仕事上でも
支障が生じるからスマホを所持しているのでは。私はスマホなんて
持ちたくもないけど。
- 889 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:27:42.91 0.net
- 衣服の流行とかについて考えてみるといい。
万年、同じ衣服を見つけていても、擦り切れたのを廃棄したり、
寒暖の変化に合わせて重ね着したり、薄着にしたりしている
だけで、衣服の身体保護機能には何の問題もないはず。
でも、周囲が違うスタイルの衣服を着用しだす。すると、
違いに気づいて、別に新しいスタイルの方が機能性が
優れているというわけでなくても、今までのスタイルの
衣服はもう場違いであるという意識が生じる。
そうやって、機能性の関係なくファッションが変化する。
- 890 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:32:07.06 0.net
- どういう衣服が場違いなのかに注意を払っていないと、
自分ではそのことを意識していなくても、周囲の人々が、
そのように場違いな衣服を身に付けていることに注意を向ける。
周囲の人々は、そのように場違いな恰好をしていることには、
特別な理由があるか、特別の意図があるに違いないと判断し、
その判断に基づいて、その場違いな恰好をした相手に
対して振る舞うようになる。そのことが、大きな不都合を生じる
ので、流行など気にしたくなくても、普通は周囲に合わせて
身に付けるもののスタイルを変える。
- 891 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:33:07.15 0.net
- >>885
不都合という表現は勇み足だなw
- 892 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:38:42.79 0.net
- >>890
そういう意味で老人が財を使わず貯め込む行為は正しいね
流行に疎いから無形財や食事に散財するならまだしも一生物にホイホイ使うと流行遅れのモノに金をドブに捨てることになる。孫にも相続してもらえない。
- 893 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:38:49.14 0.net
- 「勇み足」というのは出した足の置き場が不都合だから、
そのことを「意識しろ」という指摘ですよねw
- 894 :考える名無しさん:2022/01/24(月) 13:40:36.85 0.net
- 何もしなければ勇み足は生じない
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