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意識のハードプロブレムの答え15

978 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 13:45:13.46 0.net
数学の技法を駆使するようになると、算数が分からなくなる、
つまり、証明済みであるものとして利用する手続きが、
算術として何をどのように計算していることになっている
のか説明ができなくなるということが、一般的によくある。

979 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 13:47:01.82 0.net
数学として証明済みである手続きを組み合わせてうまく使える
ようになる技能を身に付けることは、哲学をすることには
役に立たない。

980 :時計 :2022/01/26(水) 18:28:27.29 0.net
>>978
数学を学ぶと算数の理解も深まると思うが。

981 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 18:33:25.41 0.net
和差算は方程式よりも算数の方が解きやすいと思う

982 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 19:29:45.90 0.net
円周率が無限に単位を数えることの裏である、つまり、単位とされる
1の裏であるという関係は、次のように考えれば、容易にイメージできる
のではないか。

>>976の場合と同様に既定の長さの直線を、数えられる数nに応じて
1/nに等分することを想定して、その既定の長さの直線を与えられた
円の直径であると見なす。ただし、この場合、その与えられた円の
円周長と単位として定義して1とする。すると、任意に無限に1/n
等分されることになる直径である元の既定の長さは、1/πである
ことになる。1から無限に数を数えることに応じてその直径を1/n
等分していけば、1/nは任意にいくらでも小さくなるが、その長さが
0になることは決してなく、1/(nπ)として微小の円の直径となり、
無限の数の微小の円の円周長を総計すれば、元の円の円周長と
等しい1となる。つまり、その微小の円の円周長によって元の円の
円周長1もやはり1/n等分される。ここで、nは、数を1から無限に
数えつづけることに対応するのだから、元の円周上の任意の無限に
小さく限定され得る位置が、その任意に無限に数えられるnとの
関係で示されることになる。そのような任意の位置は、通常、
円周上の点としてイメージされるものだが、論理的に考えるなら、
その点としてイメージされて特定される位置は、無限小の円の
円周長に対応していることになるだろう。

983 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 19:35:19.84 0.net
ヘーゲルの哲学が奇妙に見える、したがって、ヘーゲルを受け継ぐ
マルクスの思想が奇妙に見える点もそのことに関連している。
あたかも円周長が単位で数え切れた状態を想定して、そこから
理性によって現実を統制できるかのように夢想しているような
言説を展開しているという印象を受けるのである。

984 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 19:38:54.53 0.net
誤:円周長と単位として定義して
正:円周長を単位として定義して

985 :時計 :2022/01/26(水) 20:59:34.12 0.net
有理数は稠密だが連続ではない。
実数は稠密であり連続である。
この辺りから無理数の存在は言えるのかなと思います。
ただ、私はあまり詳しくはありません。
間違えていたら御免。

986 :考える名無しさん:2022/01/26(水) 21:16:36.71 0.net
ヘーゲルとマルクスの間にフォイエルバッハを挿入すればわかる。
宗教の問題が横たわっている。

987 :非標準超球面論理Nexus/CDT(誤読と幻想) :2022/01/26(水) 22:38:55.86 0.net
点を集めても線にはならないが、
線は点の集まりである。
点の集合を考えた時、外延ではだめだが内包ならなんとか線になれる。
ドコに違いがあるのかといえば、無限性である。
あくまでも飼いならされた無限性であって、野生の無限性や野良無限を扱うのは難しいw

988 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 07:11:14.46 0.net
>>982
このように数えることに応じて任意に無限に等しく分割される直径と、
その分割された直径の長さをその都度、直径とする円、ならびに
そのより小さい円の円周長に対応するものとなる、全体としての
円の円周上の単位の関係を、ヘーゲルの哲学やそれを受け継ぐ
マルクスの思想の論理の隠喩として用いるなら、全体的な理性の
側から自らのひと(等/一/人)しさ(すなわち、単位としての性質)を
規定しようとすることが、欺瞞とならざるを得ないだろうことが
見えてくる。

989 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 07:39:52.37 0.net
つまり、それは、任意の行為とそれによってもたらされる結果の関係を
逆立ちさせてしまうことになるのだ。

「できることにおいて自らであろうとする」(全体の直径を任意に1/nに
分割して、1/(nπ)を直径とする小さい円を形成しようとすることに喩え
られる)から、全体の円においても、その円周上で単位としての地位、
すなわち、自らのひと(等/一/人)しさが確保されるのであって、
全体の円の円周上で既に単位としての等しさが規定されているものと
するなら、任意にnを数えることは不可能となり、小さい円の直径で
ある1/(nπ)もあらかじめ決められたものとなる。したがって、任意に
数えることが「できることにおいて自らであろうとする」ことも
あらかじめ阻止され、自らが生きようとすることそのものが許され
なくなり、生かしておいてもらうだけの状態に陥ることになる。

990 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 07:57:29.24 0.net
ところで、日本語の「いき(息/生)る」とは、その発音から、
「方向性を有する『ゆ(由)』の作用」/「い/yi」が
「求心的」/「き」に「働く」/「る」ことを想起させる表現だろう。

991 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 09:17:51.38 0.net
"true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74

自らが十全に生きることは、心ゆくままに自らにできることをすることある。
したがって、自らが数ならぬ者に過ぎないことをわきま(弁)へてわ(和/環)を
尊ぶというのは、一見、謙虚で倫理的な態度であるように思えるものの、
各々が「できることにおいて自らであろうとする」ことを忘れるなら、
たちまち、禁欲主義を掲げることによって自らの優位を確保するように
他者を抑圧しようとする傲慢な全体主義に陥るだろう。

992 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 11:52:08.42 0.net
誤:心ゆくままに自らにできることをすることある
正:心ゆくままに自らにできることをすることにある

993 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 14:03:40.96 0.net
マルクスは微分に関心を持っていたし、
フォイエルバッハは自然科学に関心を持っていた。

994 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 15:37:02.94 0.net
11 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2022/01/27(木) 12:20:30.06 0
生物も物質の集合体だから実は集団意識の様なものなのさ

995 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 16:20:26.04 0.net
それなら、集団意識のようなものではなく、意識の寄せ集めのようなものでは?
そもそも、多細胞生物の個体もその起源からして、相反する利害の調整を
必要とする複合生命体であるわけだし。

996 :考える名無しさん:2022/01/27(木) 16:23:15.73 0.net
相反する利害を調整する統制理念として「理性としての主体」を
仮定することが要請されるのでは?

997 :でこすけ:2022/01/27(木) 23:36:24.76 0.net
>>947
織田信長が比叡山の焼き討ちをやっていますけど、
それは仏教が気に食わなかったのではなくて、
信長が接した宣教師たちに比べると日本の坊さんは滅茶苦茶に感じた
ということらしいです。
その一方では誰だったか忘れましたけど、
ナントカっていうヨーロッパ人が東アジアに来たとき、
大陸の坊さんはいかがわしいやつばかりだったけど
日本の坊さんはいい人ばかりだった、という記録を残していたと思います。
私は時計さんが接しておられる方々がどういう人々かを知らないわけですから
>>944は一般的に言って失礼に当たったと思いますが、
私自身と私の周りの人とのかんじということで
「ご参考までに」というふうにご理解いただければと存じます。
おそれいります。

と言いながら重ねて失礼なんですけど、
私は時計さんがお考えの神は、スピノザ的な神だと思っていました。
つまり少なくとも当時は異端だったものです。
であれば時計さんの方に違和感がありそうな気がしていたんですけど、
信仰の話はもちろんデリケートなものですから
お気にさわったら申し訳ありませんけど
えてして哲学は非情ですから
そういったあたりが意識のハードプロブレム的に言ってどうなのか気になる
というのが私個人の率直なかんじです。

998 :でこすけ:2022/01/28(金) 00:26:52.26 0.net
せっかくなので、私も円周率でひとことふたこと(以前の繰り返しですけど)、
この宇宙では何故十進法で計算するとその値は3.14…になるのか、
私はそれは「たまたま」だったと思います。
つまり何らかのメカニズムによって調整されたものではないということです。
そもそも「円周率」は自然のものではない、人間が勝手に言っているだけのもの
それどころか「長さ」というのがある種の「妄想」というのが私の印象です。
「長さ」という概念は「自然」にあらかじめあったものではない気がするのです。
まして円周が直径で割り切れないのが何か釈然としないことについて
それは「自然」の知ったことではないと察するのです。

私にしてみれば一本の線の長さを無理数で設定することに無理がある
というか(日常感覚では)ややこしいだけのような気がします。
しかも円周と直径とで、どちらかを有理数にするともう片方が無理数になる
というのは支離滅裂な気さえします。
ただ、しかしじつはそれは非日常(仮想現実)としてならあり得る気がします。
となると数学という仮想空間では虚数さえアリになります。
そしてそのような仮想空間を想定することによって暮らしが豊かになった
ということがあるのであれば文句をつけても仕方がない気がするのです。

しかし私がこのスレッド的に問題にしてみたいのはそこではありません。
もちろん問題は「自然」の方です。
私たちが想定している「自然」が仮想ではない
それを想定しておけばメリットがある以上のリアルなのだとすれば
それはどのような根拠に基づくのか、
私には絶対の根拠がありえない気がするので
もしそのようなものがあるのだとすれば
それを是非うかがってみたいのです。

999 :でこすけ:2022/01/28(金) 01:09:03.80 0.net
近代哲学はカントから始まったと聞いています。
それからショーペンハウアーやニーチェ、フッサール、ハイデッガー、メルロ・ポンティ…
私はどれも入門で見た程度ですけど
ざっくり同じ世界像を提起している気がしています。
そして私はそれに共鳴します。
私がマルクス・ガブリエルやメイヤスーを知ったのはじつはこのスレッドに
投稿を始めてからですが(つまりここで知りました)、
このスレッドの読者もどちらかというとマルガブ派のような気がします。
そういうわけでこの流れは私にとってははなはだ意外です。
しかしマルガブ派の言い分もわからないわけではないつもりです。
確かに何故みんなが同じ体験をするのか、
あるいは世界が緻密に秩序立っているのは全てが幻想だとすれば謎です。
このとき、私はどちらかではなくて、
ありきたりながら止揚するのがいい気がします。
ただし根拠は直観的なものです。

1000 :塩なめくじ:2022/01/28(金) 01:12:47.57 ID:wbKMPvaT0.net
1000!

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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