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意識のハードプロブレムの答え36

1 :時計 ◆1z400PXZnw :2023/12/11(月) 23:29:18.48 ID:0.net
1の考え。

客観はある種の主観である。
脳神経系を含む客体は主観を精緻に表現=代表したものである。

他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。

他者の意識と呼ばれるものは他者の声である。
それを他者の意識のように思うのは主体にとって声は極めて意識的であるからである。

あらゆる主観は客観化可能である。
例えば、クオリアは立ち止まりとして客観化可能である。

根源では主/客の関係は消失する。
例えば、どこかで雷が鳴ったとする。
その雷は独立性の高い形式での私である。

語り得ないことは語り得ないと語り得る。

無は無い。

意識のハードプロブレムの答え35
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1701063923/

674 :考える名無しさん:2023/12/20(水) 14:43:17.23 ID:0.net
ところで、万葉集に詠まれた歌には、現代の日本語では死語となって意味が通用しなくなっている「〜さらず」という表現が見られる。

万葉集 第10巻 2222番
暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛
夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも
(出典 万葉集ナビ)

この「〜さらず」の表記としては、「不去」と「不離」のいずれも見られるが、いずれにしてもこの「〜さらず」の「さ」も、明らかに「離開」に対応するものとして概念化され得るだけでなく、「〜さらず」そのものが、中国語の表現としての「不离开」に対応していると見ることができる。

675 :考える名無しさん:2023/12/20(水) 14:53:00.56 ID:0.net
>万葉集 第17巻 4006番

可伎加蘇布 敷多我美夜麻尓 可牟佐備弖 多C流都我能奇 毛等母延毛 於夜自得伎波尓 波之伎与之 和我世乃伎美乎 安佐左良受 安比弖許登騰比 由布佐礼婆 手多豆佐波利弖

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて
(出典 万葉集ナビ)

ここで、「あさ(朝)さ(去)らず」とは、「朝、不離開に」、つまり、「毎朝欠かすことなく」という表現であり、これに対して「夕されば」とは、「夕(空)が離隔すれば」、つまり、「夕空が遠く離れて広がれば」という表現であると解釈することができるだろう。

676 :考える名無しさん:2023/12/20(水) 14:56:04.18 ID:0.net
ところで、このようなことを、言ひ方を変へて再度、指摘することにより、私は何を伝へたいのだろうか。

それは、「日本語における『さ』の発声の用法」を「離隔」という漢語によって都合よく概念化することができる、ということではない。

677 :考える名無しさん:2023/12/20(水) 15:05:05.24 ID:0.net
誤:「離隔」という漢語によって
正:「離開」という漢語によって

そうではなく、哲学するときに、「概念化する」とは、どのような行為であり、それをどのようにつか(使/仕/遣)ふことが有効であると考へられるのかを、具体例を介して示そうとしているのだ。

「哲学」学を専門とする人々は、概念こそが重要であると考へる傾向が強く、歴史的に名の通った哲学者が何らかの概念を用いたなら、その哲学者がその概念をどのように用ゐたのかばかりを議論するようになる。
しかし、「日本語における『さ』の発声の用法」≒「離開」と概念化することの妥当性が認められたとして(実際にそれが認められるかどうかは、この場合、問題ではない)、概念として扱はれるようになった「離開」について議論することにどれだけ意味があるだろうか。
そのような議論は、哲学の営みとしては、明らかに倒錯である。

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