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【イレイザーヘッド】柄谷行人を解体する75【の現在】

1 :デヴィッド・リンチ先生:2024/01/01(月) 17:11:17.56 0.net
            _,,  ---一 ー- ,,,_
   、_,,,, _,, -.'"           ` 、
 ミ三ミ三ミ三ミミ        俺エホバー  ヽ_,
-==三ミ彡三ミミ     ,,=-==     ==、 iミ=-、_
_,,ンミミ三ミ三ミミ]  -彡-一 ー-、 r一 ーミ、|ミミ三ミ=-'
_, -==彡ミ彡ミミミ|  ン| ,=て)> (|ー| ,て)>、 ||三ミ彡==-'
_,彡彡三ミ三ミミレ'~ .|. '     |  ヽ   `  |ミ三彡三=-、  
(_彡三ミ彡ミミミ'   ヽ、    ノ   \__ノiミ彡ミ三=ー  ストレート100%アロエジュース  うちに沢山余ってるの   
ー-=二三ンーミミミ     `ー /(_r-、r-_)   .|彡ミ三=-、
)(_ミ彡ミ| i' ヽヽミ       | : : : __ : :__: :i   .|彡ミ三=-、_         買わないか?    
と彡ミ彡ミヽヽ<ヽミミ      |: ン=-ニ-ヽ、   .|彡ミ三==-   
 彡ミ彡ミミヽ  ) `    、 .' <=ェェェェェン |    |彡ン=-=           
 -==彡三ミ `ーヽ : : : : : :i: :  `ー--一''  : : ノミ三==''
 '' てノこミ彡三ミ`i : : : : : :ヽ: : : .      .:, :/ミ三=-、      
   '' 三ミ=三三ミ|ヾ、: : : : :ヽ: : : : : : : : :_ノ:./三=-'
     -=='' ̄て.|  : : : : : :::::: ̄ ̄ ̄:::::::::|彡


Eraserhead - Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=J0Eq5GtCYdA


ちなみに、例えば「綺麗になる」って目標が有るとしましょう
ダイレクトで「綺麗になる」って、できないことにみなさん気がつきましたか?
「綺麗になる」にはその一歩前の「条件」が必要なんです

「ストレートアロエジュースを飲む」には、アロエジュースを購入するという「条件」が必要なんです
そしてその「条件」が成立するには、さらに一歩手前の「条件」が必要なんです

なにがいいたいかというと、「聖霊に赦される」ためには「点」ではなく「線形」で捉える必要があります
いきなり「聖霊に赦される」ってがんばっても、ほぼ失敗に終わります
なぜなら「聖霊に赦される」ための「条件」がわかってないし、「条件」が満たされていないからです

32 :考える名無しさん:2024/01/07(日) 19:39:59.85 ID:0.net
宮崎祐助 『ジャック・デリダ-死後の生を与える』 249頁より


後述するように、まずもって留意しなければならないのは、
デリダの思想が超越論哲学の系譜に連なるものであ り、存在の有限性、起源の二重化、
時間的・空間的距たりの根源化といった論点においてその哲学的な前提を、
ス ピノザを始祖とする内在の哲学とはまったく共有していない、それどころか
正反対の前提に立っているという点である。

また、ベルクソンに代表されるそうした内在の哲学が、政治的な効果において、
従来フランスの土着的・異 国嫌い、ひいては反ユダヤ的なイデオロギーの思想的担い手と
みなされてきたという経緯も考慮されるべきだろう。 その議論によれば
「ドゥルーズの哲学がまさしくベルクソンに関する試論をもって始まったということ、
そして 「アンチ・オイディプス』の横糸をなしている 「流動」や「欲望する機械」や「リビドー経済」
といった概念のう ちには、つねにベルクソンの生命主義、自然主義、反知性主義が内在している
ということ」(ベルナール=アンリ・レヴィ『フランス・イデオロギー』内田樹訳、国文社、一九八九年、
一七七頁)が、ドゥルーズ哲学のフランス的 嗜好、
とりわけその反ヘーゲル主義の不可欠な背景をなしているとされるのである。

デリダ自身はユダヤ人として そうした粗雑な立論に与したことはないにしても、
フッサールやハイデガーの哲学を出自とするデリダの脱構築の思想がそうした
「フランス・イデオロギー」から一線を画していることは明白である。

33 :考える名無しさん:2024/01/07(日) 19:42:31.20 ID:0.net
宮崎祐助 『ジャック・デリダ-死後の生を与える』 250頁より


付言すれば、ドゥルーズの潜在的なものの哲学が「存在の一義性」を中核とした
全体主義的な存在論に収斂してしまうのではないかという疑念は、アラン・バディウの批判
(Alain Badiou, Deleuze. La clameur de l'etre ≫, Hachette, 1997/アラン・バディウ
『ドゥルーズ――存在の喧騒』鈴木創士訳、河出書房新社、一九九八年)をはじめとして、
いまなおドゥルーズ解釈を左右する重大な論点であり続けている。

日本語文献で特筆すべき研究としては、千葉雅也がこれを
ドゥルーズにおける「存在論的ファシズム」の問題として明確化しており、これに対して
「非意味的な切断の原理」や「変態する個体化」論を対置することにより非全体主義的なドゥルーズ像
を見いだそ うとしている。 千葉雅也 『動きすぎてはいけないジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
河出書房新社、二〇一 三年(河出文庫、二〇一七年) 参照。

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