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日々雑記 in哲学板 その5

475 :襦袢(ぢゅばん):2024/03/15(金) 14:37:35.04 ID:0.net
それは、例えば、既に指摘したとおり、「讓」( (Pinyin): ràng)という漢字が当てられている日本語の表現における「ゆづ(譲)る」の「づ」のような発声においてである。
仮にそのように見ることが妥当であったと想定すると、次々に類例を見出すことになる。例えば、「くづ(崩)れ」、「ひづ(歪)み」、「はづ(外)れ」の「づ」はどうだろうか。
その対応関係が見出しにくくなっているのは、現代仮名遣いが、「づ」を「ず」で置き換へてしまっているからではないのか。
そもそも、漢語としてであれ、「讓」に対応する表現が日本語として使はれるようなったとき、そのこゑ(声)の使はれ方には、それに対応する様態の想起が伴ったはずである。
では、この"(Pinyin): r"が想起させた様態とはどのようなものだろうか。
それを記述する手がかりは、案外、簡単に見つかるように私には思える。
それは、「し(締)まるように密着する作用を感じさせながらも、とお(通)るように動くことをゆるす様態」とでも記述できるのではないかと思える。
例えば、日本語の擬態語として考へた場合に「ぢゅ」、「にゅ」とい発声が想起させる様態を考へてみるといい。
私は、以前から、日本語の「ち」の発声が、隘路の狭さ/そこを通る勢いを感じさせると指摘してきた。
その説明を利用するなら、「ぢ」は、その隘路の狭さが緩んで、締まりの作用を依然として感じさせんガラも、通ることを許すイメージを想起させるということになる。

さらに、外来語としてのポルトガル語の表現に対する当て字であるものと一般に説明されている「襦袢(ぢゅばん)」について考へてみるといい。

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